気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

ハイアーセルフ(4) わたしの集合

2011-06-27 08:42:33 | 覚醒意識

ハイアーセルフ(高次の自己)とは何かと言えば、それは「わたし」の集合のようなものである。

 

集合と言っても単なる無機的な集まりというものではなく、簡単に言えば「わたし」の経験した、多くの「人格的記憶」の集合と言って良いだろう。

 

過去生や前世という概念を理解できる人は、その過去の自分とはなんだろうかという問いかけが生じるものである。

 

過去という時間軸においても、「わたし」が生きていた・・・という事を考えるならば、今の「わたし」についての自己認識は、自然、大きく拡大されるのだ。

 

実は、「わたし」とは、今の世界に偶然、あるいがスポット的に生じたような者ではなく、あちらこちら、いつ何時なりとも現われているところの自己認識主体である・・という結論になるだろう。

 

幾多の過去生の記憶のある「わたし」とは、今生きている人格としての、あるいは、今回の人生舞台設定をされた「わたし」を含んでいる大きな「わたし」なのである。

 

その拡大された「大きなわたし」が、今この瞬間の存在次元のなかで、1つの特殊な人格を演じている、あるいは、生きているということである。

 

今の現実のあなたは、より大きなあなたの1つの人格表現である。

 

それを例えれば、地上を走る車のタイヤは、くるくるまわりながら、常に1点で地上と接しているようなものである。

 

人生とは、円といういわば1つ大きな次元の形態(高次のわたし)が、線という低い次元の接点(人生経験)を持ちつつ、くるくる回りながら(色々な過去生を体験しながら)進んでいるようなものなのだ。

 

我々が、外界との接点でしか自己を認識出来ない有様、すなわち偶然のスポット的な存在として自らを定義している有様は、

 

自らを単に朽ち果てるべき有機的存在、すなわち自己を肉体であると定義していることに等しいのだ。

 

ところが、そうではなく、実は、わたしは幾多の人生、過去生という経験を記憶している存在であることが理解されるならば、

 

現実生活で孤軍奮闘している、健気で、小さなわたしという自己感覚は次第に消え去ることになるだろう。

 

また、何が何でも、是が非でも、生死を駆けてまで自己の肉体保身に走り続ける愚かな行為は止むことになるだろう。

 

但し、現実生活という生の在り方そのものが疎んじられるということではなく、現実生活そのものに束縛され、拘束された、硬直した在り方ではなくなるという事である。

 

多くの人々が感じている重荷が意味がなくなるということであり、

 

すなわち、現実という今の生が、より気楽で、軽く、かつ面白いものだと気づくようになるということなのだ。

 

より大きい自己認識に至るならば、人生で刻苦奮闘しながらも、それまで重圧と感じていた社会的な観念枠や、その他大勢の理解に至らぬ人々との軋轢や、気まずさ、倦怠感などは、ごくごく小さいものになってくるのだ。

 

たしかに、まさにそんなことはどうでも良いことになるだろう。

そういう意味では、社会のありもしない価値観に翻弄されることが馬鹿らしくなり、どうでもいいものになる。

 

この世界に在りながらも、世界、社会の観念の縛りから自由になることで、その世界、社会が逆に良く見えるようになるのだ。

 

世界、社会という「共通現実」は、ここに参加している意識的存在である人間達の創り上げるその時々の観念的生成物である。

 

その観念の生成物をいつの間にか信奉していた自らの愚かさに気づき、その虚妄の観念の作られ方、あるいはある意味で支配のされ方にも気づいてくるものである。

 

生への疲れと死への恐怖、疎外感という孤独感、個々別々の解り合えない自我の群れでの軋轢、生きることがすなわち金銭を稼ぐことだという疲れるだけの誘導洗脳、・・・それらが全て幻想であるということに、既に集合意識でも気づき始めているようだ。

 

この地球という表面次元の主流を占めていた3次元的演目は、すでに時間切れであり、飽きられてきたのだ。

 

人が自らを単なる肉体、偶然の生成物等と思っている間は、かろうじて存在感のあるだけの小さな自我を維持しているだけであるともいえる。

 

「わたしとは何か?」という問いかけの、ほんの端緒についただけの「自己認識」レベルにあるとも言えるだろう。

 

未だそういう意味での無意識レベルにある人々は、小さな自己感、小さく分割された自己認識を、いつかどこかで拡大させることになるだろう。

 

あなたはどうだろうか?

 

既に一段「大きなあなた」に気づいてきただろうか。

そうであれば、いわゆる目覚めてきたといえるだろう。

 

「覚醒」とは一度だけというようなものではなく、1段1段階段を上がってゆくようなものであり、

 

さらに、より大きな「わたし」に気づいてゆくということである。

 

そのより大きなわたしは、より大きなあなたがたと、同じ仲間どうしである。

 

ふー・・っと、一段の階段をあがること、即ちより大きな見通しが可能な高次のわたし達に気づくこと、

 

今回の地球規模で行われている様々な意識的変化、それに付随する大自然の変化はその最終幕を示しているのだ。

 

いわば卒業のテーマでもある。

 

しかしながら、この先何があろうと、また無かろうと、全く問題ではないのだ。

 

おおきなあなたは、小さなあなたを超えて、しかしながら今のあなたとしても結実していることをいつも忘れないようにしようか。

 

ハイヤーセルフとは、あなたの内面の「あなた」の集合であり、

 

その集合はそれぞれのあなたという「今の瞬間」に燦然と輝いているのだ。

 

まさにその輝きは無限でもあり永遠でもある。

 

 

一は即ち、多なり。

 

多はこれ即ち、一なり。

 

 

 

 

(つづく)

 

Tulips

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ハイアーセルフ(3) 私を観ている「わたし」に気づく

2011-06-19 11:27:30 | 覚醒意識

通常目覚めている時と同じように、寝ている時にも意識的になることで、身体的な影響を極力少ない状況での意識的経験が得やすくなる。

 

身体が寝ている時に経験などと??ばかな・・

寝ている間に経験等があるものか!・・・・

 

・・・通常観念ではそうであろう。

 

わたしもそうだった。

・・・・・

肉体が自分という存在の全て・・・と漠然と信じ込んでいる場合は、肉体の休息、あるいは停止は、自己自身の休息、あるいは停止と考えてしまうのも無理はない。

 

ところが、人間とは肉体ではなく、それを通じて表現しているところの、内面から外面に投射する働きを有する「意識体」である・・

 

というような、いわば拡大された自己認識に至る段階になった場合には、そんな悠長なことは言っていられないのだ。

肉体が寝ていようと、あるいは肉体が死のうと意識は存在するからだ。

 

魂と言われる人の意識体も、時間空間にとらわれずに存在する。

・・・・

実のところ、意識すること・・が自己の本質であり、それこそ全き自由であるのだが、その自由である意識によって、自己を肉体という観念に幽閉している有様に気づくだろうか。

  

それはあたかも、通年に渡って車(肉体)に乗りつづけているドライバー(魂)が、自分を車(肉体)と一体化した「意識」を持ち、車に「自己同化」しているようなものである。

 

魂の受肉とはそういう、世界の中の存在への自己同化のことを言っているようだ。

 

人生への参入、それはあたかも好きな映画での主人公への「感情移入」のようなものである。

 

あなたもわたしも、いまそのようにして、この地球教室という仮の世界で、それこそ必死になって、我を忘れて生活している・・・。

 

あなたも私も、今この世界に感情移入ならぬ、意識の自己投影、自己投入を行っているのだ。

 

人は皆、時間軸という幕劇間隔の進行において、即ち仮想の歴史の流れにおいて、何年何月に生まれ、そのうち去ってゆくという設定を通じて、この世界に参画しているのであろうか。

 

時間も相対的というよりは、仮想現実と言った方が良いことがそのうち科学的にも理解されることだろう。

 

当然ながら空間も実のところ、突き詰めれば「仮想現実」である。

 

例えば、あの相対性理論では、空間と時間が相互に変換されるような相対性を説明しているが、あくまでも空間と時間のリアリティ自体は温存しているだろう。

 

空間と時間の相対性に関して、極めて大きな進展ではあるものの、ここには壁が用意されているようでもある。

 

空間も時間もエネルギーを通じて移行するが、それにはリアリティがあり、そのリアリティ・時間空間というものは、たとえ光によってもそれを越えることは出来ない・・という観念になるかもしれない。

 

光速という壁が設定されているともいえようが、光速より速いものがあれば、我々の科学的な四次元認識は、はかなくも崩れさってしまうのだ。

 

時間も空間も、科学でいかにも規定されて、あるいは説明されているように見えても、それは期待するほどの客観性は持っていない・・・と言えば、

  

科学信奉している人々には合点がいくはずもないと思うが、実は未知なるものに意識を向けること、・・それこそが科学的なのである。

  

科学の最先端の量子物理系の世界では、そのことが今まさに解明されつつあるのだ。

  

量子レベルでのスピンという形態の瞬時的伝達は、光を越える情報伝達があることを示している。

  

人間の所作である超感覚的知覚、テレパシー等も、既に時空に縛られない人間の本来の在り方を示しているのだが、これすらも気づかない人々が多い。

  

簡単すぎる言い方ではあるが、光の伝達の対称性にもとずく四次元時空の認識はすでに越えられているのが実情である。

  

また宇宙という存在場においては、素粒子レベルでのスピン場の瞬時伝達のように、情報伝達はある意味で ’時間を必要としない’・・

 

すなわち「時間」という要素には、決して縛られないことをも示している。

 

我々が後生大事に、あるいは束縛として感じている「時間」の流れ、あるいは人類の観念における「歴史」も含め、それらは絶対的な事実、変えようもない厳正なる、あるいは客観的なリアリティではなく、まさしくバーチャルな仮想現実といえるのだ。

 

・・・・・

 

少なくとも我々意識的存在である人間は、「今」そうだと思っていることに固執すべきではなく、つねにより大きなストーリーの中にいることに気づかなければならない。

 

その為には、そのテンポラリーな映画を観ている、この人生を生きているところの、それぞれの「わたし」自体に気づかなければならないということである。

 

映画ばかりに気を取られている有様から、その映画をみている「わたし」自体に気づくということである。

 

あなたもより大きい「あなた」がいるからこそ、今の、その「あなた」がいる。

 

 

・・・・・・・・・・・・・

 

これに気づくこと、それは本質的な転換であり、「観の転換」でもある。

 

観の転換・・・とは、ある観念から違う観念への、あるいは違う価値観への移行ということではなく、その観念、あるいは想いを観ているところの・・・「わたし」に気づく意識的行為の事である。

 

混乱が誰にも明確に認知される今の時期は、ある意味で、我(われ)に帰る・・・という言葉が極めて重要な時であると言えようか。

 

その為には、自らの「内面を観る」という行為が必要であり、それらを昔から修養、修行と言ってきたのだろう。

 

肉体というバーチャルな外界の接点への意識投入からその「注意」を外し、肉体の接点(五感)が不活発な状態での意識レベルに、一時ながらもシフトする行為への気づきが必要であるということだ。

 

それは我々の今の存在場を大切にしながらも、自らの「意識を拡大」するという行為だ。

 

禅や瞑想、経典等の集中精読や、あるいはマントラ等もその一環の手法である。

 

あるいは、身近なところとして、日常の、身体が行為としてあるいは五感として不活発な就寝時においても、内面を観るということが容易に出来るのである。

 

但し、何もせずに情報だけかき集めても不十分であり、そういう意図、意識の方向づけ、あるいは行動への意思がまず必要でもある。

 

・・・

 

隠遁や出家等が出来た昔と違い、めまぐるしく、忙しいばかりの現代生活においては、起きている日常において、そして寝ている間にも行う事が出来る、ある意味での修行もいいのではないかと思う。

 

確かにどのような状態も、無駄なものは無く、その逆に、価値がないと思われてきた所にこそ、極めて重要なものがあるのが常であろう。

 

確かに、起きていようと、寝ていようと、わたし達は存在しているのだ。

 

人の就寝中にも極めて活発な意識作用が生じている。

 

・・・・・・・・・・

 

自分の場合は、その就寝中から目覚めへ移行する「ある段階」で、極めて多くのビジョン、メッセージがあることに気づかざるを得なかった。

 

夢と言っても、様々な色々なレベルがあることにも気づくし、いわゆる単なる現実の生活での印象の独り歩きのようなものもあるし、あるいは『想定外』のビジョンもあるし、あるいは体脱していることを感じさせる経験もある。

 

・・・・

 

多くの人々の記憶層には少なからず「恐怖」を培ったようなトラウマがあるものだ。その多くが幼児期の体験によって無意識に蓄えられてしまったものだ。

 

今のこのような世界では仕方がないものだ。

 

あるいは、いわゆる前世からの持ち込み分もあるし、これらを解消することが今回の具体的な人生の大きな目的と考えても良いだろう。

 

何かをこの世界の価値観の中で、是が非でも行うべく生まれてきたというよりは、幾多の過去生での「付け」を解消すべく、 あるいはやり残しの宿題ををするべく生まれてきたと考えて良い場合が多いだろう。

 

忘れてしまったけれど、それが歪みとなって、表層意識への突き上げを行っているような、そんな気づかぬ歪みがあるのである。

 

「わたしは関係ありません・・・」というような顔でいる多くの方々も、実は内面での歪みを多く抱えているものである。

あなたはどうだろうか?

  

セレブやリッチや、権威への成り上がりや、政治での駆け引きや、巨万の富の蓄積行為や、あるいは経済で成功するしないなどの、派手なドタバタ劇に興じている暇などありはしないのだ。

  

・・・・

 

以降、解り易く夢としておくが、その様々な夢の内容を多少ながらも憶えておく行為によって、次第に普段の生活と同じような有意味な現実があることに気づいてきた。

 

1つには自分が観ている夢に、何かのサポーターかあるいは保護者か、あるいはガイドか、また親友とも思えるような存在が有ることに気づいたのだ。

 

特に、これは!と思われる恐怖を感じる夢や、何か果たすべき重要な意識的内容の夢や、あるいは自分の培ってきたトラウマを解消するような浄化の夢、あるいはカタストロフィー的な夢で必死に対応しようとしている夢には、

 

必ずと言っていいほど、夢を観ている自分の ちょっと後ろ、右横あたりに「何か存在感」を感じた。

 

いつも「右横背面斜め」に在る・・ような何者かの存在感・・・。

 

それらしく言えば「守護霊」などと言えようが、そのような使い古しの霊的用語はぴったりあてはまりそうもない。

 

その存在の立ち位置とも思える感覚には、決して出しゃばらずに、見守っているような優れた親の立場のような感じがある。

 

誰でも経験しているように、その時に夢であってもそれが夢とは、ユメ夢想わないもので、それをたった一人であっては、それこそ必死で逃げ回り、やっとのことで目が覚めて安堵の溜息をつくような「恐怖」の夢に対しても、

 

その右横少し背後に在る存在のおかげで、恐怖が恐怖に感じないで済むことが出来ることに気づいたのだ。

 

ふつうは恐怖を感じれば、それからとっさに逃げようとするものであるが、そのやや背後の存在のおかげで、それから逃げずに恐怖そのものを観ることが出来るのだ。

 

例えで言えば、たった一人で恐怖映画を観ているのではなく、右の席またはちょっと後ろの席に、親友または親兄弟が一緒にいるようなものである。

 

いわば自分は一人ではない・・という心強さを感じさせる存在感がある。

 

「わたしは一人ではない」という不思議な安堵感、あるいは心強さ、そして親しさと、余計な指図などない奥ゆかしさを感じるのだ。

 

眼の前にファンファーレを響かせながら、コトサラそれらしく現われてお告げを下すようなものであれば、それは似て非なるもの、違うものだと理解できよう。

 

もしそうであれば、それらはいわゆる「偽もの」である可能性が大きいし、言いかえれば自らのこころのフィルターの汚れによって現われてくるエゴの影とも理解できるのだ。

 

ところが、これはそうではなかったのは、自分の直感と分析による。

 

自分で気づいていて、決して分析評価の対象にならないような存在・・・であるという事を、後の分析?で、それがいわゆる「ハイアーセルフ」、「高次の自己」・・の顕れであったと気づいたのだった。

・・・・

現実の生活歴の中でそれが近いと言えば、子供を見守る賢い親、あるいはきごころの知れた無二の親友か、あるいは酸いも甘いも解り合えた伴侶、あるいは極めて広い見識をもった完全に信頼できる教師、・・そのような存在である。

 

 

要するに、アイデア獲得という別の目的であったのだが、夢という意識状態で何かを感じようとして、それに意識的になったあたりから、

 

そのような自分に極めて近く、信頼のおける、いわば「自分より大きな存在のようなもの」が数々の夢の中に現われてきたということである。

 

わたし自身は科学技術系の仕事柄からか、元来疑り深く、自分で確認しないでは何事も簡単には信じない精神構造をもっているのだが、このような自分が疑いの挟む余地が少ない形で、その存在感を与える「存在」には感じるところがあったのだ。

 

阿吽(あうん)の呼吸の関係・・・とでも言うものである。

 

図らずもそういうことに気づいてから、身体の休息している期間のなかにも、極めて重要な意識的体験があることも解ってきた。

 

余談ではあるが、

 

いわゆるスピリチュアル系の情報の中には、現われたビジョンに驚き、感激し、それそのものに意味があると考えて発信する人々も多いと思われるが、

 

その多くの意味ありげなビジョンも、その時その時の個人としての「想い入れ」という「こころのフィルター」によって変換されている部分があることに気づいていなければならないのだ。

 

例えば、予知や予言というものも、どこかネガティブであり、騒ぎの割には当たらない傾向がある場合は、

 

せっかくの、そういうビジョンなり直感的感覚を受け取る「当人」のこころのフィルターを、自らが観えていない場合が多いと思われるのだ。

 

本当ならば、人間こそが未来・過去・現在も知ることさえも可能であるのも事実であるが、

 

やはり、何事においても人間の意識の透明さ、あるいはそれを可能にする「こころ」の浄化が必要なのだ。

 

夢夢、こころの浄化を怠ってはならない・・ということだ。

(つづく)

 

Penguins  

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ハイアーセルフ(2) 変性意識の窓

2011-06-13 07:35:55 | 覚醒意識

例えば自分の場合をお話しよう。

 

それがハイアーセルフ、いわゆる今の私以外の高次のわたしであるだろう、という・・・そういうことは実は後で理解することになった。

 

要は、様々な変性意識におけるメッセージを継ぎ合わせれば、ハメ絵パズルのように意味が解ってくるものである。

 

変性意識というのは、五感を中心とした慣れ親しんだ普通の生活モードにある意識、すなわち顕在意識ではなく、それから少し離れた意識である。

 

それは潜在意識に含まれると言えようが、ごく普通のいわゆる3次元的な世界にある感覚状態を含んでいるものの、かなり自由な情報取得が可能な意識レベルとでも言えるため、「変性意識」といっても良いだろう。

 

もちろん臨死体験や体脱体験も、大ざっぱにひっくるめて言えばそのような変性意識における「体験」と言えるかもしれない。

 

また、夢もその変性意識におけるビジョン、あるいは体験である。

 

体験と言っても文字通り肉体の五感という、いわば狭い感官窓を経由しない、あるいはそれが広がった状態での意識体験である。

 

そのような肉体感覚に縛られない状態の意識では、実に様々なビジョンや印象等を通じての、メッセージ性のある情報に満ちていることがわかる。

 

リモートビューイング(遠隔透視)等も、そのような変性意識に入ることで、五感の向こう側からの情報を直接得る方法であり、それらは密かにかつ実際に今の世界でも使われているのだ。

 

国家レベルでも超能力者を使った軍事機密の捜索や、刑事事件のリアルな情報を得ることが実際に諸外国では行われている。

 

ただそれがあくまでも国家レベルの利害関係を中心としたものに特化されており、それらを実際に可能とする人間の意識のレベルへの注目はおざなりになっている感があるかもしれない。

 

人間の意識レベルの可能性に関して注目すべきところを、それで得られる効果のほうだけに目が行っているのは、やはりプラグマティズム的功利主義の賜物であろう。何でもかんでも自己利益、自己保身の道具に変えてゆこうとするこころがあるかもしれない。

 

やはり超能力という「おもちゃ」の方に意識が集中している子供のようなものである。

 

しかしながら、そうではあっても、様々な超常現象と人間の意識の関係が明確になったことだけは事実であり、

 

人間は決して単なる肉体人間ではないということの傍証になっている。

 

いわゆる人間とは、それに備わる「意識」という無限の可能性を体現している存在なのだ。

 

意識はいわゆる「内面」であり、その内面を通して、「外面」である現象世界、時間・空間を読み解くことが可能であるということだ。

 

何度も記事に出しているように、内面は外面とメビウスの輪のように、不思議な仕組みで繋がっており、外面を理解しようとすれば、内面からアクセスすることになるのは、矛盾そうに見えて決して矛盾ではなく、正当なルートなのである。

・・・・・

 

自己内面の意識の気づきや拡大が無くして、その表れである世界を変えることは決して出来ない相談である。

 

それぞれの「わたし」が、より拡大された意識に、「自ら」気づいてゆくことが意識進化と言われるものである。

 

意識的主体の周辺に醸し出されるのが外の「世界」であり、意識的存在である人間は、外の世界によって加工・変化・醸成されるものではないということだ。

 

今の時代は、この180°異なる方向を理解することが必要であり、意識的存在である人間が、自ら選ぶ時期にあるということでもある。

 

ここは肝心なところであろう。

 

人間とは、現実のテンポラリな肉体を含んで、またそれを超えているところの存在である。

 

また当たり前ながら、環境に支配される動物などではなく、意識的・無意識的に環境を自然と創り上げてゆく存在である。

 

これは、不特定に意味を持たせた宗教的な感情論のようなものではなく、大いなる霊的、あるいは意識進化的な「事実」である。

 

そこには各人の意識というところから発して、各人が経験して気づきを増やしていくことでしか得られない「研鑽」が必要であることも事実なのだ。

 

実は楽しき研鑽の持続を、意識の進化と呼んでいる。

 

・・・・

 

たまにTVなどで紹介されている超能力捜査官マクモニーグル等・・や外国のサイキック等も超能力者というよりは、意識のより拡大した変性意識での情報受信を得意としている人達といえるだろう。

 

それは決して特別な能力ではなく、気づけばそれは誰でも可能になることである。

 

また変性意識で得られる情報には時間や空間の制限がないため、過去や未来のことも情報として得られることになるのだ。

 

・・・

 

我々が誰でもそうであるように、自らが意識的存在として、そのすそ野の広さに気づかなければならないということである。

 

・・・

前置きはこの程度だが、ハイアーセルフに関して、自分の体験についてお話ししよう。

 

当然ながら個々人の内面からのビジョン、メッセージ、情報をいかに得るかという話になる。

 

私の場合は、その変性意識での、主に身体が目覚める瞬間の、ごく短い瞬間に得られるビジョンとして起きてきた。

 

恥ずかしながら、不精な性格からか、夢のような楽な方法で何か発明や特許になるアイデアを得ようか・・という魂胆から生じた。枕元にノートとペンを用意するといいうことが、その動機付けとなったようである。

 

まさにその意図有り、というモチベーションを作ったわけだ。

 

いづれにしても、わたしの内面に着目する意識レベルになったことだけは事実ではある。

 ・・・・

寝起きの一瞬には、それに意識的になっていれば、実に様々なビジョンに気づくことが出来るのだ。

 

それは心理学、医学的な言い方であれば、脳波的にはアルファ波、シータ派周辺のものであり、それは身体が寝ているか、まどろんでいる状態での、明晰な意識の状態という事が出来る。

 

肉体的な五感情報に左右されない、少し異なる意識的周波数帯域という表現が妥当な、そんな意識状態である。

 

(つづく)

 

Koala

 

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ハイアーセルフ (1)より高次のわたし

2011-06-08 06:34:24 | 覚醒意識

ハイアーセルフとは直訳すれば高次の自己ということだ。

 

高次の自己とは、高い次元、高次元の自己とも言えるだろう。

 

例えば3次元は4、5、6、次元というものと別個な次元ではなく、4,5,6次元に含まれていることは直感的に理解できるだろう。

 

比喩的に言えば高次元とは今の認識次元より高く、広く、それを含んでいるというのも容易に理解可能であろう。

 

従って、良くいわれるハイアーセルフとは、今の「私」を含んでいるところの、より高次の「わたし」ということが出来るのだ。

 

ハイアーセルフ、多分それは「より高次のわたし」と言った方がいいかもしれない。

 

なぜなら高みには極みが無いと考えるからだ。

 

極みの次元というものがあれば、それは根源のわたし、大いなるものとしての極み、神なるもの、あるいは一なるものということである。

 

精神世界で言うハイアーセルフ・より高次の自己も、本来はことさら目新しいものではなく、

古(いにしえ)より続いてきた、修行や諸体験を通じての悟りや解脱の道を歩む意識達の中に既に気づかれていたことである。

 

いわゆるより広く高い見識を身につけることが、魂の研鑽や修行であるならば、それは極めて当たり前のことであり、

実際は今更ながら西洋の言葉で表現することもないはずであるが、それはハイアーセルフに至る本来の人の道を、西洋的な意識でも気づいてきたと言えるだろうか。

 

世界の様相から見るに、右脳的な東洋と、左脳的な西洋が共振し始めたとも言えるだろうか。

 

それらが最も顕著な地上の地域は、今は東洋と西洋がごちゃまぜになっている感があるこの日本であると思われる。

・・・

 

より広く高い見識を身につけるということは、単なる知識の集積ではなく、知ることで自らの表現主体・「わたし」認識が、変化してゆくということである。

 

本当に「知る」ということは、識(し)る、または見るという事でもあり、あるいは観ることで自己自身がより広く高い意識へと変化してゆくということである。

 

それは即ち、「自己認識」といってもいいだろうし、また、宇宙の構造自体に織り込まれている相似象、フラクタルなあり方からもわかるように、

 

それは即ち、人類の極みにある概念である「神」、あるいは「一なる根源」の有り方と同じなのである。

 

宇宙全ての諸現象は、創造の根源の絶えざる自己認識と言えるだろう。

 

物質が勝手に偶然に動き回っているわけはなく、

 

神なるものの意識そのものが表れているということである。

 

従って、今のわたし達、すなわち個としての意識は、神と言えるが、極みには至らぬ自己認識をもっているがゆえにこそ、神の子などと呼ばれるのである。

 

そしていわゆる「一なるもの」、「神」、「根源」は、いわば子だくさんであり、

 

あなたもわたし達も、そして全ての存在がその子供たちと言うことも出来るだろう。

 

 

子供たちが成長するように、「わたし」達もより大きく広いという表現がいいかどうかは別として、 より高次の「わたし」に気づいてゆく途上にあるということだ。

 

また、今は、その意識的な成長の転換期にあるようだ。

 

地上の1人1人が「共通現実」として意識的・無意識的に創り上げてきたこの地球という次元世界も、大きく転換して行くターニングポイントにある。

 

ごく表層の人的世界の騒ぎの頻発や、大自然レベルでの変化・変動の増大は、それを外側から示しているものであろう。

 

それがたとえ自然的であろうと、人為的であろうと、この多次元的宇宙の中で生起するものであり、大自然の中の現象に違いはない。

 

すなわち全ては必然的な事象であると思われる。

 

どのような事象が起きようと、あるいは起きなかろうと

 

大切なことは、世間的な常識観念を排除して、自らの内奥からの気づきに注目すべき時であるということだ。

 

眼の前の現象のみにくぎ付けになることは間違いなく愚かなことであり、

 

気づくべきは、それらを現象として観じている、あるいは投影している、それぞれのわたし達の内面が、大きなターニング点にあることである。

気づくべきは、一大変化を遂げつつあるように見える外の世界が、一体どうなるのかということではなく、

 

それを体験しているところの、一段と大きく拡大しつつある、それぞれの「わたし」なのだ。

 

ハイアーセルフである、より高次のわたしは、

 

どこか遠い高所にあるわけでもなく、

 

「今ここ」にある。

 

「今」ここに、既に現われているのだ。

  

たとえ世俗的な様々な観念で覆われていたとしても、

 

うっすらとでも感じるはずなのだ。

  

自らの周りに、尤もらしく、あるいはうず高く積まれた観念の覆いを取り去って、

今のこの瞬間を感じてみようか。 

 

そのためには、まず、外の騒がしい映画を見る目、即ち意識の向きを転じ、われわれ自らの内面を注視する方向に切り替えることが大切なことである。

 

あなたも、

 

わたし達も、

 

今   この瞬間に   ある。

 

  

一は即ち、多であり、

多は即ち、一である・・。

  

多であるものは即ち、一から生じるのだ。

  

あなたである、一・・・は、

   

あなたではないと思っている全てのもの、すなわち多と、

  

元はひとつである。

 

(つづく) 

Hydrangeas

  

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