人は皆、ある特定の個人としてこの世界に生きているという風に思っているだろう。
まあ、当たり前だが、ところで、
そのあなた・・・はいったい何者だろうか、
わたし、われ、自己・・・という意識主体に気付き、
そして・・・わたしとは何か?という<自問自答>の意識を持っているだろうか?
余計なお世話だが、既に今世で自分なりの「わたし」の輪郭を見つけたか、おぼろげながらも思い出しただろうか?
あなたは大いなる無限の意識から現出してきた、
本来輝かしい無限をベースにした「意識生命体」であるという事実、
そういうことに気付いているだろうか。
あるいはこういう文言を単なる誇大表現、美辞麗句だと単に頭で考えるだろうか。
それとも、意識の内面で何かが共鳴し、波打つだろうか。
あるいは、そういうことよく聞くね・・・で終わりだろうか。
あるいは世間一般の、必死で宣伝される軟弱で物理的な平均的自画像を、
今でも、便利に自分にもコピペして、死ぬまで採用していくのだろうか。
・・・
えー?「わたしとは「何か」?・・って、
そんなこと決まっているだろう。
何年何月何日生まれ、当年とって○×歳、・・性別は◇だよ、・・経歴?そうねー色々経験したね~、
まー御多聞にもれず鳴かず飛ばずだけどさ・・・、何とか生活はしているけどね・・・・、
そんなことより、そうそう、これから世の中どうなるのかね~」
例えばいつの時代もこんな感じだろうか。
でもその人生話は、あなたの男か女か、子供か大人かの、この時空・時間経過内での、
肉体の経験の記憶のことでしかないのだ。
その五感にもとづいた肉体経験をしている・・・「あなた」とは何か?を言っている。
え、いったい何のこと?・・・という人もいるかもしれない。
あるいは、極端にはアフリカのサバンナのような勝手な世界観に固まっている人たちもいるだろう。
偶然生まれ、偶然死んでいくだけの、ポット出の偶然の生命(いのち)、
猿が突然変異して出来た、ちょっと高度な知能を持った生物、
だからより知能の高い者だけが生き残る、
死んだら何もないし、そりゃ嫌だから、なんとしても生き残ることが正しい、
倫理や正義では飯が食えない、そりゃ仕方がないじゃないか・・・、
苦痛は嫌だからできるだけ安楽にいたいし、その為にはお金や物がたくさん必要じゃないか、
・・・・
そんなテンポラリーで、刹那的な生物でしかないと思っているのかもしれない。
昨今急激に騒ぎ始めている西洋文明の中枢と、その周辺の御仁たちはそう信じ込んでいるだろうし、最期の楽しい騒乱を急いでいるのだろう。
またそれを呆然と観るだけの、あるいはカシマシク評論するだけの、ごくごく一般といわれる人々が、
たまに、仮に、まともに自問自答したとしたら、
やはりそんな感じかもしれない。
メディアに出されて、さもこれが正しい頑張り方だとか、そういう宣伝に一役買っている、
どこか威勢の良い人々も、そんな精神的なパターンであろうか。
いやしかし、外の世界で騒ぐのは、そして陰に陽に、そこでの自我主張に徹するのは、まだ何も皆目という事の証左であろう。
騒乱や爆発、動乱・・・・そこに真に意味ある事は・・・何もありやしない。
・・・
わたしとは何か?って、・・なんだそりゃ!
わたしとは何か・・・?という・・人間としての「本質的な問いかけ」、
場合によっては「意味不明」な、<自己とは何か>という問いかけ、
これこそが、一見この物理的人生、物質的人間関係を生きる目的なのだが、
いつの間にか、取りあえず生きるために、分りやすい物理的な事象の表面、
肉体が受ける感覚のみを採用し、
肉体上の上っ面の快楽や安楽のみを求めてきたわけである。
様々な物質的機能を発見し、それを応用し、
それを科学的だと称して、それを生み出し続ける原因たる自己までも物質であるというような観念にはまり込み、
簡単に言えば高次の精神的要素を、役だたない何かの物として捨てていた、
集団で自己洗脳、自己催眠に陥ってきたわけである。
例えるならば、幼稚園で生きる人々が、いつまでも幼稚園児でありたいと、
自らの成長をどこか拒否して来たと言うのはちょっと言い過ぎであろうか。
しかしながら、外側は進歩している風に見えて、その原因たる内側の進歩していない世界、
そう、それが今までの世界であるといえるだろう。
時系列的に言えば、例えば26000年、13000年というサイクルの最終端の世界といえるだろう。
無意識的意識からより意識的な方向へ、
闇から光へ、
無知から既知へ、
無理解からより大きな理解へ、
種から開花へ、
それが生命に満ちる宇宙の、個々から全体への魂開花のプロセス、云わゆる進化のプロセス。
それはどこにもある草花の開花と、毎日の明け暮れと同じプロセスである。
寝て起きて、朝の光を浴びる、それと同じプロセスなのだ。
しかしながら、今日は昨日と違う・・・今日・・・ということである。
大きい話も小さい話もなく、大自然の在り方をよく見ればわかろうものなのだ。
宇宙のどっかの果てに飛んで行って、初めて分る類のものではない。
良いとか悪いとかの宇宙人が下りてきたら分るような話でもない。
もっとも宇宙人がどうのというよりも、この地球の人種形態は、その多くは宇宙の各方面からの入植によっている事を知っているだろうか。
簡単な例えで言えば、西洋から南北アメリカに入植した各国の人間達が、長い間にその肉体形態、種族の出自を忘れてしまうようなものだ。
そう、時間と空間が長く重く感じられ、記憶はすぐにも消えてゆく、そんな有様はこの世界の特徴ではなかっただろうか。
人は皆、
何回も何回も、この次元世界において、生まれたての無垢な意識、赤ん坊から始め、
その時代、社会、家庭、周囲の人々の固定した想念、信条に取り巻かれつつ、
わたし・・・という不滅の意識をどこか確実に気づいていながらも、
その時々の「観念フィールド」あるいは特定の想念体系、あるいは信念体系的マトリクスに浸り、
様々な人間関係という一種の学びに自身を放り込むようなものである。
そしてそこで、目覚めた環境の中で、右に行き左に走り、あの人が良いとか悪いとかの噂を追いまわし、思いもかけない嫌なことをされたり、逆に嫌なことをしたり、
そうこうしながら、その時々の外の環境という・・・自らで映す現象にとんと気付かずに、自らが振り回され、
あるいはその結果だけの世界に入り込もう、何とかしようと悪戦苦闘するものなのだ。
まるで聖書にある放蕩息子のストーリー。
またそういう人生を・・・当たり前だとして終生無意識に送ることもあるだろう。
そのうちに必ず訪れる・・・死という眠りもつかの間、また同じ継続意識レベルではあるが、違った時代と人格という「土壌」に飛び込むのである。
そして前の意識のレベルに従えば、。。。当初・・・何も思い出せないというわけなのだ。
死んだら終わりと「信じる」からこそ、死んだら生まれ変わっても、思い出す意識的要因が芽吹いていない、
しかしながら魂、「本質」は永遠であるからこそ、繰り返しが発生する。
おいおい・・・・いつ気付くんだね? という天使の、あるいは魂のケアマネージャの眼差しを感じないだろうか?
これを輪廻・転生といっている。
ある意味で、これは繰り返しの生命の練習、鍛錬のようなものとも言えるだろう。
その道の達者になるまでは、何度も納得いくまでやるだろう。
何も運動や芸術の稽古だけではない。
そしていつかどこかで、「?」 という、自らの内奥の・・・根源意識からの
・・・音に聞こえぬ、目に見えぬ「メッセージ」を受け取る意識的土台が創られるのだ。
この大きな仕組みに気付けるかどうか・・・それまでは、
この次元世界において、輪廻は文字通り「勝手に回る」という事だ。
「勝手に」・・というのは、不可抗的な仕組みにハマっているということであり、
全ての因たる<自己>がそれに気づいていない・・・という事である。
非常に簡単に言えば他者依存、あなたまかせなのだ。
よく言われることだが、自分で考え、探究し、自己発見してゆくという事、
特に今の時代は、そういう自己研鑽という魂の成長を促す生き方を忘れてしまった、
「便利な世界」に成り果てたのだった。
ここまで堕ちれば、これ以降はあり得ない・・・そんなところまで、
よくやったものである。
この地球上の3次元的文明世界、物質的固定観念で覆われた世界、
その固い土ともいえる世界、世間の低位の観念の封鎖あるいは土壌を・・・
自ら解きほぐし、自らかき分けて、
暗い土の中の世界から、陽光きらめく大気の世界に魂を芽吹かせるまでに、
一体どれほどの「時」と「刺激」と「滋養」が必要であっただろうか。
あなたはどうだっただろうか。