意識は物質に先だつものだ。
先と後といえば、時間の経過を含む意味にとらえがちだが、
時間とはそもそも存在しないもの。
いまだ時間が実在すると考えているならば、まずその誤認識を改めたほうが良いだろう。
時間は物事の時系列的”経過”であって、今の瞬間の連続記憶に過ぎない。
在るのは・・今・・と言われるのは、スピリチュアルな意味深な比喩ではなく、
それそのものが・・事実である。
長い歴史や記録、知識があるではないか?というならば、
それは「今」の瞬間の変化・・今より出現した事象・現象、
そして人々の体験の記憶、記録なのである。
カレンダーや原子時計はあるが、それが「時間」を作っているわけではなく、
太陽や月や、ミクロの原子の規則正しい”変化”のことであって、
それを参照して、生活のリズムを合わせているだけであり、
決して「時間」そのもではない。
世界あるいは宇宙を表す、「時間・空間」という言葉の、”時間”とは、
実は存在しないのである。
そんなはずは?・・・という御仁がいるかもしれないが、
これを理解すれば、その意識に深く大きな波紋を生じるだろう。
この世的な五感感覚の激しさに慣れたマインドが求めるような、
現象面や肉体面でのど派手な爆発的変化ではなく、
真実、世界とは何か?という理解に転換が起きるだろう。
「時間」とは、様々な事象、現象、体験を、
「記憶」という意識的な働きで繋げたものなのである。
古代史、現代史という歴史は、常に今・・想起・発見、記録されたものである。
それは誰がやってきたのかといえば、人であり人の”意識的”働きによってである。
我々は・・世界、つまり時間・空間の中に・・存在する、といわれてきたが、
その「時間」というものは、実はフェイク(嘘)というのは恣意的すぎるものの、
実際には存在しない概念であったならば、
あなたは、「時間空間」という次元枠の1つが存在しないものだと気づくだろう。
時間は、単に概念・観念・言葉であり、
それが何か私たちを縛っているような感覚をもたらしてきた。
時間が主(あるじ)で、
意識的存在である人は、従者のように、
それに従わなければならないという・・従属的感覚である。
感覚というよりも、これは思い・信念である。
意識、想念は、事象、事物・環境・世界に先立って現れるため、
一定範囲内で自由を確保しつつも、
大枠では決して自縄自縛状態から逃れることがなかったのである。
私とは、地球という時間空間の中に生まれて死ぬ、偶然の肉体人間であり、
とりあえず、自らや家、一族の存続をはかることが先決で、
そのための一生であるのは致し方ない・・という信念であれば、
時間。空間を超えているはずの、「魂・意識」は・・、
それ自らの意識の方向性、意図・想念によって、
繰り返しこの次元世界に生まれては死ぬという経験をする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/4a/b6a20b39551e5c6c4152c9bfa21e0f98.jpg)
ある側面でいえば、この世界に存在している人は、いや魂は、
別の無数の ”今の”経験記憶 をすでに有しているがゆえに、
今ここに出現しているとも言えよう。
超簡単に、誤解を招くかもしれない表現をすれば、
あなたという魂・主体意識は、かつてあるいはこれから・・という
過去と未来において、
この閉じられた時空間を超えた世界、あるいは宇宙での記憶を持つのである。
それ自体何も記憶を呼び覚まさず、つまり前世などという、
わたしの意識の経験の膨大なすそ野も思い出せないのは、
たった1度の人生の時間しかない・・という意味不明な出どころの信念の縛り。
時間など存在せず、今ある意識が在る・・ことを悟れば、
意識という、無限に思い・感情、想念を生じる・・それの中、
今・・在る・・そのわたし意識の中に、
無数の想念・記憶も含まれることに気づくだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/d7/cc24002626ded0844173968d05e8c4b4.jpg)
波動的に言えば、1つの波動形は、無数の波動の集約である。
同じように、
在るのは・・今・・しかなく、
その今の中には・・無限の可能性も内在し、
さらにその無限性の中には、当然ながら過去の経験記憶も、
未来の経験可能性も含まれるのである。
時間という束縛は本来存在していない、
観念だけがあったのだ。
過去も未来も、いま・・在る。
それは決して閉じられていない・・
無限の・・今の瞬間だ。
先と後といえば、時間の経過を含む意味にとらえがちだが、
時間とはそもそも存在しないもの。
いまだ時間が実在すると考えているならば、まずその誤認識を改めたほうが良いだろう。
時間は物事の時系列的”経過”であって、今の瞬間の連続記憶に過ぎない。
在るのは・・今・・と言われるのは、スピリチュアルな意味深な比喩ではなく、
それそのものが・・事実である。
長い歴史や記録、知識があるではないか?というならば、
それは「今」の瞬間の変化・・今より出現した事象・現象、
そして人々の体験の記憶、記録なのである。
カレンダーや原子時計はあるが、それが「時間」を作っているわけではなく、
太陽や月や、ミクロの原子の規則正しい”変化”のことであって、
それを参照して、生活のリズムを合わせているだけであり、
決して「時間」そのもではない。
世界あるいは宇宙を表す、「時間・空間」という言葉の、”時間”とは、
実は存在しないのである。
そんなはずは?・・・という御仁がいるかもしれないが、
これを理解すれば、その意識に深く大きな波紋を生じるだろう。
この世的な五感感覚の激しさに慣れたマインドが求めるような、
現象面や肉体面でのど派手な爆発的変化ではなく、
真実、世界とは何か?という理解に転換が起きるだろう。
「時間」とは、様々な事象、現象、体験を、
「記憶」という意識的な働きで繋げたものなのである。
古代史、現代史という歴史は、常に今・・想起・発見、記録されたものである。
それは誰がやってきたのかといえば、人であり人の”意識的”働きによってである。
我々は・・世界、つまり時間・空間の中に・・存在する、といわれてきたが、
その「時間」というものは、実はフェイク(嘘)というのは恣意的すぎるものの、
実際には存在しない概念であったならば、
あなたは、「時間空間」という次元枠の1つが存在しないものだと気づくだろう。
時間は、単に概念・観念・言葉であり、
それが何か私たちを縛っているような感覚をもたらしてきた。
時間が主(あるじ)で、
意識的存在である人は、従者のように、
それに従わなければならないという・・従属的感覚である。
感覚というよりも、これは思い・信念である。
意識、想念は、事象、事物・環境・世界に先立って現れるため、
一定範囲内で自由を確保しつつも、
大枠では決して自縄自縛状態から逃れることがなかったのである。
私とは、地球という時間空間の中に生まれて死ぬ、偶然の肉体人間であり、
とりあえず、自らや家、一族の存続をはかることが先決で、
そのための一生であるのは致し方ない・・という信念であれば、
時間。空間を超えているはずの、「魂・意識」は・・、
それ自らの意識の方向性、意図・想念によって、
繰り返しこの次元世界に生まれては死ぬという経験をする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/4a/b6a20b39551e5c6c4152c9bfa21e0f98.jpg)
ある側面でいえば、この世界に存在している人は、いや魂は、
別の無数の ”今の”経験記憶 をすでに有しているがゆえに、
今ここに出現しているとも言えよう。
超簡単に、誤解を招くかもしれない表現をすれば、
あなたという魂・主体意識は、かつてあるいはこれから・・という
過去と未来において、
この閉じられた時空間を超えた世界、あるいは宇宙での記憶を持つのである。
それ自体何も記憶を呼び覚まさず、つまり前世などという、
わたしの意識の経験の膨大なすそ野も思い出せないのは、
たった1度の人生の時間しかない・・という意味不明な出どころの信念の縛り。
時間など存在せず、今ある意識が在る・・ことを悟れば、
意識という、無限に思い・感情、想念を生じる・・それの中、
今・・在る・・そのわたし意識の中に、
無数の想念・記憶も含まれることに気づくだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/d7/cc24002626ded0844173968d05e8c4b4.jpg)
波動的に言えば、1つの波動形は、無数の波動の集約である。
同じように、
在るのは・・今・・しかなく、
その今の中には・・無限の可能性も内在し、
さらにその無限性の中には、当然ながら過去の経験記憶も、
未来の経験可能性も含まれるのである。
時間という束縛は本来存在していない、
観念だけがあったのだ。
過去も未来も、いま・・在る。
それは決して閉じられていない・・
無限の・・今の瞬間だ。