気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

空(くう)は充満する意識 (6)輪廻転生

2014-03-22 09:26:35 | インポート

人は皆、ある特定の個人としてこの世界に生きているという風に思っているだろう。

 

まあ、当たり前だが、ところで、

 

そのあなた・・・はいったい何者だろうか、

 

 

わたし、われ、自己・・・という意識主体に気付き、

 

そして・・・わたしとは何か?という<自問自答>の意識を持っているだろうか?

 

 

余計なお世話だが、既に今世で自分なりの「わたし」の輪郭を見つけたか、おぼろげながらも思い出しただろうか?

 

あなたは大いなる無限の意識から現出してきた、

 

本来輝かしい無限をベースにした「意識生命体」であるという事実、

 

そういうことに気付いているだろうか。

 

あるいはこういう文言を単なる誇大表現、美辞麗句だと単に頭で考えるだろうか。 

 

それとも、意識の内面で何かが共鳴し、波打つだろうか。

 

あるいは、そういうことよく聞くね・・・で終わりだろうか。

 

あるいは世間一般の、必死で宣伝される軟弱で物理的な平均的自画像を、

 

今でも、便利に自分にもコピペして、死ぬまで採用していくのだろうか。

 

・・・

 

 

えー?「わたしとは「何か」?・・って、

 

そんなこと決まっているだろう。

 

何年何月何日生まれ、当年とって○×歳、・・性別は◇だよ、・・経歴?そうねー色々経験したね~、

 

まー御多聞にもれず鳴かず飛ばずだけどさ・・・、何とか生活はしているけどね・・・・、

 

そんなことより、そうそう、これから世の中どうなるのかね~」

 

 

例えばいつの時代もこんな感じだろうか。

 

でもその人生話は、あなたの男か女か、子供か大人かの、この時空・時間経過内での、

 

肉体の経験の記憶のことでしかないのだ。

 

その五感にもとづいた肉体経験をしている・・・「あなた」とは何か?を言っている。

 

え、いったい何のこと?・・・という人もいるかもしれない。 

 

あるいは、極端にはアフリカのサバンナのような勝手な世界観に固まっている人たちもいるだろう。

 

偶然生まれ、偶然死んでいくだけの、ポット出の偶然の生命(いのち)、

 

猿が突然変異して出来た、ちょっと高度な知能を持った生物、

 

だからより知能の高い者だけが生き残る、

 

死んだら何もないし、そりゃ嫌だから、なんとしても生き残ることが正しい、

 

倫理や正義では飯が食えない、そりゃ仕方がないじゃないか・・・、

 

苦痛は嫌だからできるだけ安楽にいたいし、その為にはお金や物がたくさん必要じゃないか、

 

・・・・

 

そんなテンポラリーで、刹那的な生物でしかないと思っているのかもしれない。

 

昨今急激に騒ぎ始めている西洋文明の中枢と、その周辺の御仁たちはそう信じ込んでいるだろうし、最期の楽しい騒乱を急いでいるのだろう。 

 

 

またそれを呆然と観るだけの、あるいはカシマシク評論するだけの、ごくごく一般といわれる人々が、

 

たまに、仮に、まともに自問自答したとしたら、

 

やはりそんな感じかもしれない。

  

メディアに出されて、さもこれが正しい頑張り方だとか、そういう宣伝に一役買っている、

  

どこか威勢の良い人々も、そんな精神的なパターンであろうか。

 

 

いやしかし、外の世界で騒ぐのは、そして陰に陽に、そこでの自我主張に徹するのは、まだ何も皆目という事の証左であろう。 

 

 

騒乱や爆発、動乱・・・・そこに真に意味ある事は・・・何もありやしない。

・・・

 

わたしとは何か?って、・・なんだそりゃ! 

 

わたしとは何か・・・?という・・人間としての「本質的な問いかけ」、

 

場合によっては「意味不明」な、<自己とは何か>という問いかけ、

 

 

これこそが、一見この物理的人生、物質的人間関係を生きる目的なのだが、

 

いつの間にか、取りあえず生きるために、分りやすい物理的な事象の表面、

 

肉体が受ける感覚のみを採用し、

 

肉体上の上っ面の快楽や安楽のみを求めてきたわけである。

 

 

様々な物質的機能を発見し、それを応用し、

 

それを科学的だと称して、それを生み出し続ける原因たる自己までも物質であるというような観念にはまり込み、

 

簡単に言えば高次の精神的要素を、役だたない何かの物として捨てていた、

 

集団で自己洗脳、自己催眠に陥ってきたわけである。

 

 

例えるならば、幼稚園で生きる人々が、いつまでも幼稚園児でありたいと、

 

自らの成長をどこか拒否して来たと言うのはちょっと言い過ぎであろうか。

 

しかしながら、外側は進歩している風に見えて、その原因たる内側の進歩していない世界、

 

そう、それが今までの世界であるといえるだろう。

 

時系列的に言えば、例えば26000年、13000年というサイクルの最終端の世界といえるだろう。

 

 

 

無意識的意識からより意識的な方向へ、

 

闇から光へ、

 

無知から既知へ、

 

無理解からより大きな理解へ、

 

種から開花へ、

 

それが生命に満ちる宇宙の、個々から全体への魂開花のプロセス、云わゆる進化のプロセス。

 

それはどこにもある草花の開花と、毎日の明け暮れと同じプロセスである。

 

寝て起きて、朝の光を浴びる、それと同じプロセスなのだ。

 

しかしながら、今日は昨日と違う・・・今日・・・ということである。

 

 

大きい話も小さい話もなく、大自然の在り方をよく見ればわかろうものなのだ。

 

宇宙のどっかの果てに飛んで行って、初めて分る類のものではない。

 

良いとか悪いとかの宇宙人が下りてきたら分るような話でもない。

 

 

もっとも宇宙人がどうのというよりも、この地球の人種形態は、その多くは宇宙の各方面からの入植によっている事を知っているだろうか。

 

 

簡単な例えで言えば、西洋から南北アメリカに入植した各国の人間達が、長い間にその肉体形態、種族の出自を忘れてしまうようなものだ。

 

 

そう、時間と空間が長く重く感じられ、記憶はすぐにも消えてゆく、そんな有様はこの世界の特徴ではなかっただろうか。

 

 

 

 

 

人は皆、

 

何回も何回も、この次元世界において、生まれたての無垢な意識、赤ん坊から始め、

 

その時代、社会、家庭、周囲の人々の固定した想念、信条に取り巻かれつつ、

 

わたし・・・という不滅の意識をどこか確実に気づいていながらも、

 

その時々の「観念フィールド」あるいは特定の想念体系、あるいは信念体系的マトリクスに浸り、

 

様々な人間関係という一種の学びに自身を放り込むようなものである。

 

 

そしてそこで、目覚めた環境の中で、右に行き左に走り、あの人が良いとか悪いとかの噂を追いまわし、思いもかけない嫌なことをされたり、逆に嫌なことをしたり、

 

そうこうしながら、その時々の外の環境という・・・自らで映す現象にとんと気付かずに、自らが振り回され、

 

あるいはその結果だけの世界に入り込もう、何とかしようと悪戦苦闘するものなのだ。

 

 

まるで聖書にある放蕩息子のストーリー。

 

またそういう人生を・・・当たり前だとして終生無意識に送ることもあるだろう。

 

そのうちに必ず訪れる・・・死という眠りもつかの間、また同じ継続意識レベルではあるが、違った時代と人格という「土壌」に飛び込むのである。

 

そして前の意識のレベルに従えば、。。。当初・・・何も思い出せないというわけなのだ。

 

死んだら終わりと「信じる」からこそ、死んだら生まれ変わっても、思い出す意識的要因が芽吹いていない、

 

しかしながら魂、「本質」は永遠であるからこそ、繰り返しが発生する。

 

 

おいおい・・・・いつ気付くんだね?  という天使の、あるいは魂のケアマネージャの眼差しを感じないだろうか?

 

 

これを輪廻・転生といっている。

 

ある意味で、これは繰り返しの生命の練習、鍛錬のようなものとも言えるだろう。

 

その道の達者になるまでは、何度も納得いくまでやるだろう。

 

何も運動や芸術の稽古だけではない。

 

 

そしていつかどこかで、「?」 という、自らの内奥の・・・根源意識からの

 

・・・音に聞こえぬ、目に見えぬ「メッセージ」を受け取る意識的土台が創られるのだ。

 

 

 

この大きな仕組みに気付けるかどうか・・・それまでは、

 

この次元世界において、輪廻は文字通り「勝手に回る」という事だ。

 

「勝手に」・・というのは、不可抗的な仕組みにハマっているということであり、

 

全ての因たる<自己>がそれに気づいていない・・・という事である。

 

非常に簡単に言えば他者依存、あなたまかせなのだ。

 

 

よく言われることだが、自分で考え、探究し、自己発見してゆくという事、

 

特に今の時代は、そういう自己研鑽という魂の成長を促す生き方を忘れてしまった、

 

「便利な世界」に成り果てたのだった。

 

ここまで堕ちれば、これ以降はあり得ない・・・そんなところまで、

 

よくやったものである。

 

 

 

この地球上の3次元的文明世界、物質的固定観念で覆われた世界、

 

その固い土ともいえる世界、世間の低位の観念の封鎖あるいは土壌を・・・

 

自ら解きほぐし、自らかき分けて、

 

暗い土の中の世界から、陽光きらめく大気の世界に魂を芽吹かせるまでに、

 

一体どれほどの「時」と「刺激」と「滋養」が必要であっただろうか。

 

あなたはどうだっただろうか。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


空(くう)は充満する意識(5)  人=創造原理の体現

2014-03-12 10:54:55 | 見えないものから見えるものへ

 

 

人間は、主に肉体精神(こころ)霊(魂・実体)の複合体であるといえる。 

 

それらは全て、空(くう)の中に生じている波動の諸階層、生命表現の多次元階層を示している。 

 

空間ではなく、空(くう)は様々な波動、無限小から無限大までの振動率で満ちているがゆえに、ここ、そこにおいて様々な周波数域が生じている、つまり多次元構造なのである。

 

根源意識、ソース、神及びその個別表現であるところの魂・意識は、その多次元構造の全き中心なのだといえるだろう。

 

あなたのお馴染みのこの表層世界は、その外縁部の周波数域といえるのだ。

 

我々は敢えて、存在世界の1つの層あるいは周波数帯域を体験しているのである。

 

それはTVやラジオなどの周波数チャンネルと似ていることは周知であろうか。

 

もっとも、、現実の周波数メディアは、固定観念を更に垂れ流すだけの媒体に成り下がっており、それを観てきゃーきゃー騒ぎに参加している御仁達は、他者の想念を追いまわしつつ、結局は無意識レベルに甘んじているのだが・・・。

・・・・・・・・

 

いわゆる3次元レベル、物質顕現レベル、表層肉体レベルは多次元波動帯域の1つの次元層であり、波動的にはもっとも遅い振動率を有するものと言えるだろう。

 

だから重いし、極めて不自由なのだ。  そうだろう。

 

そして、その次元レベルでそれを克服する意図から、本来の科学技術が生じている。

 

それにより間接的ながら、より早く車で移動し、航空機で空を飛び、情報機器によってより広く知識を得ることが出来るわけだ。

 

しかしながら、それで心が安心しあるいは幸福感が出るわけでもない。

 

そういう意味では、今の時代はこの3次元レベルにこだわった観念の中で、より本来の自由自在性を演出する方向の最終段階にあるとも言えるわけであるし、

 

物資的範疇にこだわる文化文明としては、その物質顕現レベルでの飽和点に来たとも言えるだろう。

 

物質、肉体、物量的存在認識レベルから、さらにこころや、また更に周波数の微細な霊的領域にまでその認識範囲を広げなければならない時なのである。

 

 

いやもう、既に飽和点は通り過ぎて、古い観念世界は終わりかけているのが現状なのだ。

 

ひょっとしてあなたも、多分薄々ながらも気付いているだろうか。

・・・・

 

肉体レベル、物質レベルの上位というか、原因層というか、それは何かといえば、それは想念、思考のレベルである。

 

あなたの「想い」がそれである。 

 

しかしながら、未だ多くの人々は自らにもっとも近いところの、自らの「想い」すら十分に「気づいて」いないかもしれない。

 

自らを作り出してゆく「想い」という創造エネルギーに、十分「気付いて」いないかもしれないということだ。

 

眼に見えないものは存在しないという固定観念、言わば愚か極まりない唯物観念そのものが自らの想念に気付かせないベールとなっている。

 

あなたは自分の中に何重にも囲われた「固定観念」に気付けるだろうか? 

 

当たり前の常識の『ウソ』に気付くこと・・・これは魂にとっての、実に・・・・重大な仕事なのだ。 

 

 

なるほど、想念は「肉眼」視の出来る次元のものではないが、それはいわゆる「意識」そのものの意図、内容であり、

  

人は誰もそれに間違いなく気づいているのだが、ところが、

  

ご丁寧に、まことしやかに教育されてきた物質的常識観念というものがある為に、

 

「想い」などは単なる頭脳の抽象的な産物であるかのようにふるまっているわけである。

 

違うだろうか?

 

想念はそれが抽象的な産物どころか、

 

自らを作り上げてゆく青写真、原因、シナリオであるなどとは露とも思っていない、

 

あるいは動物を高度にした知的能力に過ぎないと・・・思わされているということである。

 

それこそが、様々な枝葉末節に満ちただけの「世間常識」というものだ。

 

肉眼に見えないとされる想念が・・・いったい何の役に立つ?

 

すぐお金になるの? 

 

それに、難しそうな顔をした、欧米の権威や学者達はそんなこと言っていないよ。

 

・・とまあ、こんな感覚が無意識に出てくるようなものであろう。

 

 

そんな風に、 そして、

 

そんなことより、肉体五感の反応や、肉体護持、飯を喰うことが第一だとか、目先の刹那的な在り方の方にだけ、

 

要は、その自・・・意識を、奪われているわけなのである。

 

それは常識観念フィールドという、皆で仲良く浸かっている「呪縛観念」のマトリクスのようなものと言って良いかもしれない。

 

 

ところが多くは、そのマトリクスのなかで、皆で安心しきっているつもりが、実は全然安心でなく、いつも周りの動向を窺がいながら、

 

出来るだけ自己保身を維持しよう、有利な位置に浮かぼうと、まさに汲汲となっているわけではないのだろうか。 

 

一般大衆、政治家、官僚、ビジネスマンに関わらず、大枠はそういうマインドパターンで終始しているのであろうか。

 

そしてどこか不安を持ちながら、それを何とかしてくれるはず・・の救世主が、どこかの統領であり大臣や政府というものであると期待しているのならば、 

 

それは全くの誤解であることは、嫌というほど経験したはずではないのだろうか。

 

いやそれとも、未だに外の何かがあなたを、あなたの都合の良い方向に・・・・勝手に想いをくみ取ってより良き方向に導いてくれると未だに・・・「信じ」ているのだろうか。

 

「いやまあ・・ほんと、実にあほらしい」と・・判然と悟る時ではなかろうか。

 

 

・・・・・・・

大きく言えば・・・・、今人類がもっとも優先して行うべきことは、

 

人の毎瞬・毎瞬の想い、想念、信念こそが、その人及び周囲環境を創っているという事実を観ることである。

 

人の想いが、想念が表情となり言葉となり、表現となり行為となり、直接的、間接的な引き寄せや吸引経験となることに、気付けるだろうか。

 

思いの質・パターンと、出来事、経験の相関関係を自らで真剣に検証したことはあるだろうか?

 

自己の想念を観察するような行為をしたことがあるだろうか?

 

それらは過去生や現世や来世などという、「あなた」の幾多の生命表現パターンの青写真ともなっていることに、はたして気付けるだろうか。

 

余計なお世話だが、根本にあるその時の主たる想いの質、・・・・これこそが、あなたにもっとも近い、無限に近い創造原理の顕れの方向指示器であることに気付くべきである。

・・・・・

毎瞬毎瞬、自分で青写真を描き続け、自らを演じ、自らを創造している事実を厳然と観るまでは、

 

偶然の事象やら事件、不可効力的な出来事や、外の脅威や支配、争い等という招かれざる状況に「巻き込まれて」しまうことにもなる。

 

霊的幼児のごとく、外の何かにすがり、外の何かを頼り、外の何かに期待をすることは、

 

それが当たり前だとする風潮や支配構造を創りだしてゆき、

 

いつまでたっても外の世界を批判、批難するだけの子羊で終始することになるではないか。

 

それはまるで魂進化のアウトソーシング?のような、自らの創造原理を誰かに委託するようなものであろうし、

 

 

またその架空の委託料金を払う破目になり、いつも羊の毛をむしられて、寒い思いをしなければならない。

 

 

あなたやわたし達が「神」だとか神の子だとか、次元を超えた実体、魂だとか言うのは、

 

自らの存在、在り方そのものが「創造原理」そのものであるという事を意味している。

 

それぞれの「わたし」とは何か?

 

それは自らを創造してゆく法則そのものなのである。

 

法則は物質やら現象やらを生み出す、高位の原理そのものであるわけで、

 

物質形態やら、現象やらに振り回されるものではないのだ。

 

どうして物量やら物証やら、形レベルの証拠提示を待ち続ける必要がある?

 

物資やら物量やら金勘定やら、そして現象としての肉体が、創造の原因であり得ようか?

 

あらゆる現象の背後にある原因そのもの、あるいは理念、想念そのものそれが法則というものだ。

 

 

I am that I am!

 

わたしは・・・わたしである・・・と<想起>するところの・・それ・・そのものである。

 

これは物質、エネルギーとその表現形態、現象を・・・生み出す・・・・「法則」を述べたものであり、

 

その創造の原理、あるいは法則そのもの、それがあなたやわたし達の実体なのである。

 

 

 

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更新間隔が開いてしまいましたが、

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。