気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

空、即ち是、色なり

2012-06-25 07:30:48 | 宇宙時代の考え方

全ての人間に共通したものは、他でもない・・・「わたし」・・といういわゆる自意識だ。

 

それぞれの「わたし」感、あるいは自己を自己と感じていることこそがあらゆる人々に共通したものだ。

 

人々に共通するのはお金でも皮膚の色でも、性別でも、身体構造でも家でも、あるいは民族でも習慣でもない。

 

全ての人々に共通するものは、まさにそれぞれの<わたし>という自意識である。

 

男でも、女でも、子供でも、大人でも、極北の人々も、ジャングルの中の人々も、都会の人も、田舎の人も、

 

すべての人々は、それぞれの・・「わたし」・・によって、見、聞き、思い、憶え、感じている。

 

また、その「わたし」にことさら気付いていることが・・「わたしは有る」・・という感覚である。

 

このように、我々のよって立つ、生存している全ての基本にあるものが、「我有り」という言わば自己を・・自己として・・気付いていることすなわち<自己認識>である。

 

あるいは自らを自らであると認識している有様・・いわば<自意識>である。

 

その自意識自体に様々な観念を付与しているのが個人個人の、別個の<私>という観念群である。

 

自分だけが良ければ・・という歪んだ観念に色づけされたものがエゴということになるだろうか。

 

エゴをどこか誰も好まないのには理由があるのだ。

 

自分だけが生きているわけではないのが至極当たり前のことであるからだ。

 

違うだろうか?

 

しかしながら、エゴ、個別別個の私・・・という歪んだ、あるいは極限された自己観念、自己意識の元にあるのは、やはり間違うことのない「普遍的意識」なのである。

・・・・

 

自己が自己として有ることに・・気付いている・・<意識>こそは、あらゆる存在にとっての共通の土台なのだ。

 

わたし・・・とは意識している・・という自己表明でもある。

 

その『意識』には、大きいも小さいも無く、重いも軽いも無い。

 

我々がこの世界に生きてあるということを自覚できるのは、大きいとか小さいとか、遠いとか近いとかいう様々な現象のおかげであるが、

 

その様々な量や大きさで量れるような相対的な事象、現実、現象をそれとして「認識」しているのは、量や大きさで測ることのできない<意識>によっているわけである。

 

このように、「意識」には大きさも重さも形もないが、大きさや重さや形を認識する当の主体そのものであることに気付けるだろうか。

 

意識それは言葉を変えれば、空(くう)の自己認識とでも言えるだろうか。

 

空(くう)というのは、何も無いように見えて、まさに、そうであるからこそ全てを生み出すことが出来るものである。

 

言葉では何かしらの語弊があるものの、空(くう)とは、顕れている・・遥か無限のこの宇宙さえもその中に含む、あらゆる全ての器、あるいは遍満する素材のようなものである。

 

大地も山河も、草も木も、そして地球も月も、太陽系も、外宇宙も、あるいはミクロの細胞も、分子も、原子も、あるいはクオークと言われる極微の存在さえも、

 

・・・・その空(くう)・の内・・にある。

 

あちらの星々、こちらの星系、はるかな銀河、その銀河の向こうの向こうにある銀河団も、その空(くう)の中にある。

 

ごくごく身近なあなたや私たちに周囲、様々な物質、測れる空間もその空(くう)の中にある。

 

世界という世界、あらゆる世界でその極限までの様々な形を生み出すことが出来るのは、ただ空(くう)あればこそである。

 

空(くう)は、どこにも、いつでも、あらゆる場所にも、あらゆる時間にも、有るものである。

 

すなわち根源、神となずけるものは、あらゆる時空、それを超えたものであるが、

 

越えたものは、その向こうに鎮座して有るわけではなく、

 

今ここにもあるということだ。

 

過去にも未来にも、近くにも遠くにも、いわゆる高次元にも低次元にもある。

 

それは・・今・・ここ・・に有り!なのである。

 

・・・・

 

その空(くう)において、空(くう)を様々な形に変えることが「創造」と言われるものである。

 

そう、

 

空(くう)とは、何も無いことでなく、すべての可能性と多様性を含む全ての母体というべきものである。

 

その空(くう)を無限に形態化する働きが、意識の働きあるいは認識作用といえるだろう。

 

意識ある存在とは、それ自身の空(くう)から有としての自らを目覚めさせ、創造をしながら、再び無限の空(くう)へと回帰する言わば壮大な遊びを創造した者のことである。

 

鉱物も植物も、動物も人間も、星も銀河も、その意識ある存在といえるはずだ。

 

すなわち、我有り・・・という自意識形態にも様々なものがあるということであり、また遥かに大きくその意識を広げることを希求しているのも、当然のことであろう。

 

普遍的意識は全てを貫いてあるからである。

 

個別から無限へと再び向かう方向にある意識の進化とは、宗教的な表現ではあるが、神自らの再発見という、ある意味で神聖な遊びのようなものとも言えるだろうか。

 

それを例えれば、池の中に小石をポチャーンと落としたようなものだろうか。

 

中心に落ちた小石は、すなわちそこを中心として、間違いなく<全て>に広がる波面を生じさせるだろう。

 

そうして池の周りあるいは極限まで波動が届いたら、再びその波動は全体から中心へと取って返すことになるだろう。

 

そうして池の中は様々な波面で揺れることになるだろう。

 

あるいは、

 

根源から発した光は、様々な次元方向に伝搬されつつ、体験や知覚によってあるいは、あらゆるものをその光の輝きによって明らかにしてゆくだろう。

 

その光は、次元の四方八方に広がって自らの言わば創造、あるいは観察を広げてゆくだろう。

 

あなたもわたし達も今その中にあるはずである。

 

例えば古くからある言葉、八紘一宇・・・は本来はこういう意味であろうか。

 

意識ある存在としての自覚の拡大されたもの、人間の深く大きなベースであるところの「魂」は、一なる根源から生じた個別の<光>とも言うべきものであろうか。

 

その魂たる光の中には、様々な自己を有しているのもまた自然なことだ。

 

あなたの魂の中にも、様々な<自己認識の記憶>とも言うべきものがあり、それはまさしく時間と空間を超えているのもうなずけるはずである。

 

その記憶なるものをたどることは、ある意味で自己を拡大認識する事につながるわけであり、その全ての自己認識の拡大によって、自らが元々一なる光であったことを思いだすだろう。

  

意識進化とは宗教的な表現ではあるが、神自らの再発見という、ある意味で神聖な遊びのようなものとも言えるだろうか。

・・・

その一なる根源とは、どこにでもある、どんなことにもなるところの、空(くう)のことでもあればこそ、

 

それぞれのあなたのその意識によって、今ここで何様にも自らの神聖さを顕すことが出来るのだ。

 

また、あなたもわたし達も、誰も皆、草も木も、石も、川も、大気も、雲も、月も太陽も、星も星の集まりのその集まりも、

 

全てがつながっているという事実に気付けるだろう。

 

わたしはある・・・

 

形態や内容や時空や条件など様々に異なってはいても、

 

全ては一なる意識の顕現なのである。

 

・・・

その一なる意識はまた空(くう)であり、何ものでも有りうる・・無限の可能性である。

空(くう)は即ち是色である。

 

あなたや私たちに今ある、この現実生活も、様々にある自己認識の1つなのである。

 

自らで意識することを自らで顕す・・わたしに気付く・・・・ことこそが目覚めの本質であろう。

目覚めるということは、決して他者の行為に気付くということではない。

 

・・・確かに宇宙というか、あらゆるすべては一なる意識、言わば神の<わたし>という意識の中にあり、

 

その宇宙には本来・・他者はいないということだ。

 

<ワンネス>という言葉は、それを意味するはずである。

 

本来言う世界とは、

 

全てはひとつでありながら、

 

またあらゆる全てがそれぞれの色をもつ本当に素晴らしき世界のことである。

 

これが様々な歪んだ観念の眼鏡を外したところにある、素の世界、真実の世界である。 

 

 

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観の大転換

2012-06-19 07:48:35 | 新たなる地平線

今・・、観の大転換をする時が来ているようである。

 

大転換するのは、外ではなく、あなたやわたし達の「観念」のことである。

 

今が、自らの想い・シナリオを変える時である。

 

余計な御世話とは言え、ここを勘違い、いや観ちがいすることの無いようにしたいものだ。

 

外の世界には様々な末期的な、あるいはハチャメチャな風潮が流れており、如何にもその中に何かが有りそうな雰囲気を造っているが、

 

・・・そこには何もない。

 

何もない・・とは、それらは全て外での出来事であって、あなたと関係のないところで造られたものであるということである。

 

何もない・・とは、あなた自身の創り上げたものは、提供されるものの中にはほとんどなかったということである。

 

それは逆に言えば、あなたやわたし達自体の、しっかりとした信念、観念をあまり装備していなかったということでもある。

 

あるいは全てが行き当たりばったりの偶然であるということを、無意識に選択していたということでもある。

 

やはり間違いなく自分で選んでいるのである。

 

意識的に創造せぬ・・という創造・・もある。

 

・・・だから例えば、少しばかり意味が違うが、外のあらゆる全てが有償であったというわけであろうか。

 

 

相当に笑える話ではないか。

 

 

しかしながら、

 

偶然に起きてくる外の世界の有様を、なんとか必死で変えようとする幼い努力の時代はもう終わりである。

 

それは、現実すなわちすでに放映された眼の前に展開する映画のシーンを、何とか必死で変えようとするものである。

 

3次元的現実、あるいは銀幕・スクリーンをほじっても何も変わりはしない。

 

既に出てきたもの、終わったものを・・やっと見えた物事を、終わったあとでバタバタ変えようとすること、すなわちいわゆる『過去』を変えようとしてきたのだ。

 

あきらかに違うだろう。

 

・・・・。

 

・・・深く感じるべきところではないかと思う。

 

なるほど、こんな単純なことに気付かない有様が、いわゆる3次元的な意識状態なのであったわけだ。

 

自らで作りあげる、よそ様の価値観念・・それに基づいたシナリオであれば、確かに不具合、不都合になっても仕方があるまい。

 

付き合いが良いわけでも何でもない。

 

またそれらが有償だ、金を持ってこいと言われてもしようがないかもしれない。

 

また、その為に人生を身を粉にして働くこと、あまつさえ身近な周囲で諍いを起こすことも、どこか悲しくも可笑しい仕儀になっていたのだった。

 

確かに長い転生を経なくても気付けることでもあっただろう。

 

・・・

 

大きな話になるかもしれないが、

 

ある意味そうやって、いにしえの数限りないアトランティス的文明も終わったのだ。

 

他者の有様に、外の科学に、結果ばかりの物質的栄華に人々の意識がフォーカスされ、

 

元にある原点、意識の発露たる自らの魂の繁栄に眼をそむけてしまったならば、

 

魂意識としては、その造られた外の世界の移り変わりに自己移入してしまうことになり、自らのよって立つ基盤を失わしめる「体験」をすることになる。

 

物、物質とは意識の表現の為の素材でしかないにも拘らず、その素材に自己同化するということであるからには、まさに魂意識が次元降下をするということになる。

 

またそれも貴重な体験ではあるものの、繰り返す必要もありはしない。

 

 

地球という惑星生命圏も、一見鷹揚としているが、実のところ体験修行の場であればこそ、人類という集合せる魂意識自らの基盤を、自らで見失う形のシナリオを演じさせざるを得ないということになる。

 

行き着くところまで行ってしまえば、引っ張り続けたゴムがプツンと切れるように、飽和点、カタストロフィー点を迎え、そうして文明という基盤を失うこと、完全なる崩壊を体験することにもなるのだ。

 

なるほど、魂意識として過去というステージでそういう体験をしている存在達は、今回もまたそうして全てが終わってしまうと思いがちなのかもしれない。

 

しかし、またそれもどこかの誰かが造り上げる有償のつまらぬシナリオではないか。

 

もうおバカな恐怖パターンはやめにしようか。

 

もういい加減、勇気をもって『自らの』観念を造りあげる時期が来たのだ。

 

ひっくり返るのは外の世界でなく、

 

それぞれの<わたし>の観点、観念である。

 

くどいようであるが、観念をひっくり返すのは、それぞれのあなた、それぞれのわたしである。

 

例えば、どうあっても問題ないと感じる楽しい想いにフォーカスするのだ。

 

真・・・善・・・美・・・!

 

楽々・・・・祝福・・・・!

 

燦々たる愛・・・!

 

ありがとう・・・!

 

面映ゆい想いはもう不要である。

あなたが、これは真実だと今感じる最高の想いを、常に前面に持ってこよう。

 

そのベースに従ってあなたの世界は様変わりしてゆくのだ。

 

単純過ぎて見逃すのが根本的な真理というものである。

 

 

・・・とは言え、・・・実は、やっぱり現実がね・・・・という・・・再びの観念を保持する理由もありはしない。

 

現実』とは、一瞬で過ぎ去る『過去』のことの謂いである。

 

今こそ・・・が常に創造の湧出点である。

 

常に今のこころのパターン、体験のシナリオ・想いを変えることに先ず全てを向けることである。

 

 

あなたやわたし達は、様々な知識はあってもそれをパワーにせず、今までこころの中心に信念たる何も据えていなかったのかもしれない。

 

誰も称賛もしないような複雑な社会的知識が、それこそ複雑な迷い道を造ってきたわけである。

 

あるいは尤もらしい外からのお仕着せを信念にしていたのかもしれない。

 

それが理由で、様々な外の価値観念によって動いてきた、あるいは動かされてきただけの話である。

 

それは、それこそ、そのように、単純な理由なのである。

 

人の人生はぴったりちょうどその人の、「想い」が創ってきたのだが、

 

その想いを自らで意識的に選択するかわりに、

 

大枠で、親や社会の大勢の尤もらしい常識という「非常識」に従ってきただけの話である。

 

そういう部類の、優しく押しつけられた、何かありそうな観念によって自分以外の者たちの造るシナリオで踊ってきただけの話である。

 

 

それらの結果であるところの、混乱の極みにあるような外の世界を良く見るべきであろう。

 

それは既に飽和点を迎えているではないか。

 

何がどうした・こうしたという結果をいじくり回す世界にあなたの意識を失わず、

 

自らの観念を一大転換させ、

 

自らの意識、創造の原点、それぞれの<わたし>に帰還すべき時である。

 

これはすなわち、本来有る魂意識の上昇拡大の浮力となる。

 

勇気をもって自らの『輝く想い』を発しようか!

 

またそうなるべくして有るところの自分を少しづつ表現しようか。

 

表現こそ少しではあっても、すでに観は転換されているのを忘れないでおこう。

 

たとえ想いのベクトルは小さくとも、方向転換はされるのだ。

 

真・・・・善・・・・美・・・!

 

楽々・・・・祝福・・・・!

 

燦々たる愛・・・!

 

そしてお互いさま・・・!

 

有り難うございます!

 

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われ有り

2012-06-16 07:52:49 | 宇宙時代の考え方

今あなたのこころが静かで落ち着いて、平安でないならば、

 

日常生活において常に何か苦痛や不快感、不安があるかもしれない。

 

今の瞬間に対してどこか不安感を持っているならば、

 

自分と他者との有り方に何か疑問や思い違いがあるかもしれない。

 

嫌な相手、面倒な仕事等、生活の不自由さ等感じているならば、

 

一体何が原因なのか、いい加減に突きとめておいた方が良いはずだ。

 

・・・・

 

我々は、どこにあっても、どうあっても、こころ穏やかであることが出来るし、またそういう得難い修練が出来る世界に生きていることを忘れてはならない。

 

我々は世界にあっても世界に属してはいないのだ。

 

世界にあっても、世界の汚濁の時流に流されることはないのだ。

 

世界は来ては去ってゆく、体験の走馬灯のようなものであり、

 

それに執着も期待もすべきものでもないはずである。

 

いかに世間が騒いでいようと、世界がどよめいていようと、

 

それらは全て来ては流れてゆくものである。

 

人は皆、本来、「意識を有する」・・行雲流水の動きのごときものである。

 

・・・

何があっても、何が無くても、ただ、今、得難い体験をしているのだという本来あるべき自覚、

 

その自覚を忘れさせるような、こころの戸惑いと、どこかある不安、

 

そう、

 

その不快感あるいは不安等は、ほとんどが「人間関係」から来ているはずだ。

 

「自分」との関係、「親子」との関係、「家族と」の関係、「社会と」の関係・・すべて<人間関係>である。

 

あなたとペットや植物の間に相克や葛藤、不快感などあるまい。

  

お月さまを見て苦痛に顔をゆがめる者などいるわけもない。

 

風のそよぎを頬に感じて不快感や不安を抱く者などいるわけもない。

 

常にある・・と感じてしまう、人と人の間の緊張感や苦痛、

 

多くの人はそれに蓋をし、無視し、何事も無いように装っているが、

 

常にどこか、人の間で生きていることに不安を感じているために、

 

こころ穏やかでいることが出来ないのかもしれない。

 

人々は常にこころ穏やかか?

 

そうでないからこそ、次から次へと大勢で共通する刺激を求め、造り出し、大勢でその対応に追われているかのような遊び、言わば疎遠な仲良し関係とも言える遊びをしているようなものだ。

 

そうでないからこそ、外の世界に自分の窮地を救う星の王子様を求め、あるいは世界を救うリーダー等を求めるのだろう。

 

極め付きは、神を外に鎮座させ、それに願いを掛けることになる。

 

あるいはまた、この世界が破滅すれば全て収まるという想いに捉われてしまい、そのこと自体の意味に気付かないことになる。

 

外にいる不特定他者が、どうしてあなたを救うことが出来るだろうか?

 

道でころんだのを助け起こすのとはわけが違うのだ。

 

自らのマインド、こころの作りあげる観念を、他者が代わって対処する期待が人々の間にあるからこそ、洗脳やら、マインドコントロールというようなおバカな方法あるいは陰謀も出てくる。

 

確かにここまで来れば、世は末に近づいているとも言える。

 

マインドの、こころの領域に人々が着目しだしたとも言えるし、それを外から加工しようというおバカさ加減も加わっている。

 

しかしながら、

 

それらのマインドを他者が加工・操作する方法は、意識ある存在にとっては、決して正当でも可能なことでもない。

 

次から次へと出ては消えてゆく様々な社会的方法論と色とりどりの対策、革命や改革が、今まで人々を幸福にしたことなどあるだろうか。

 

騒ぎに騒いで、無数の命まで無駄にしたうえで進んできたのが現代文明であるというならば、それは如何に、いかに無駄が多いことだったろう。

 

新しい制度になれば、仕組みが変われば、人は皆幸福になる・・・

 

外から来る幸せ・・・?そんなたわごとを未だ信じているのだろうか?

 

・・・いいや、もう十分気付いているはずだ。

 

全ての世界の中心は、意識を有するその人、その人である。

 

どうして他人にその中心を、決して渡せもしないのに渡そうとするのだろうか?

 

どうして他者に期待するのだろうか。

 

その期待が執着となり、期待が外れて不信となり、不信が進んで挙句の果ては不和となる。

 

不和となっては、こんどは何とかそれを解消する手段として、最後には衝突となることも歴史の常である。

 

こころある者にとっては既に見え見えではないか。

 

それらのパターン、その悲惨で愚かな体験は、次から次へとやってくる魂たちの得難い体験とは言え、この世界ではもう十分であろう。

 

自分を忘れ、外の仕組みで作りあげる架空の籠のなかの鳥になって眠っている体験、

 

・・・それは、もうやめにしようか。

 

外にあると見えるものは、あなたや私たちの植え付けた、あるいはいつの間にか植え付けられた「価値観念の投影」なのである。

 

どこにいようと、どういう存在であろうと、

 

人である以上は、人として、人であることの本質は無くならない。

 

人であることとは、

 

自分が自分である!・・という意識を発露しているところにある。

 

意識の発露が、想いや感情として表現され、

 

あなたの存在の体験のシナリオを造り上げる。

 

想念は、あなたのその世界での衣服になるようなものである。

 

自分で知らず知らず着込んだこころの衣服によって、

 

自らの体験を造り上げる人間の所作は、

 

自らに意識的である・・・という基本を忘れてはいるものの、まさに創造そのものである。

 

あなたは、あなたの世界において、唯一、

 

「わたしはわたしである」と意識している存在である。

 

人は皆、「わたしは・・・わたしである」 という意識の発露点であり、

 

それこそ、神なる者の部分であり、また全体の縮図でもあるのだ。

 

これに証拠も物証も証明も権威付けも・・・要らない!

 

複雑なことが高度なことであるというような嘘の観念から外れ、

 

いつもあった、今もある・・当たり前のことに気付くことが必要なことである。

 

 

全ての根本は・・・・・・あるではないか。

 

 

あなたは「あなた」で「今」そこに有り、

 

わたしはわたしで・・・いまここに有り!

  

他者がどうだとか何が不具合だとか、様々な作られた観念から物を言う前に、

 

それらの全ての原点である、

 

それぞれの<わたし>にその意識を戻そうか。

 

巨大な世界の中に、小さな物言う物体としてのわたしが生れたと考えているのもまさに「盲想観念」である。

 

<あなた>がいなければ、あなたの世界は現われないはずだ。

 

人は皆本来、流れては消えてゆくような、外の世界に流される川面の木の葉ではないのだ。

 

それら全てを観ている者であるからこそ、川面の木の葉にもなってみることが出来るということに・・・気付けるだろうか。

  

・・われ・・有り!・・・

 

ここから宇宙の全てが展開している。

 

ひょっとして、どこか忘れてはいるかもしれないが、あなたもそうである。

 

そういう奇跡のような諸世界の中の・・・1つの小さなこの世界であっても、

 

今・・有ること・・・・に、

 

わたしは本当に嬉しい。

 

 

 

あなたはこの世界と自分を、どう感じているだろうか?

 

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さらばエゴの時代

2012-06-03 09:13:38 | 覚醒意識

一体「なぜわたしは生きているのだろうか」等という問いかけをしたことが誰でもあるに違いない。

 

若い頃、青年時代などは特に、人生に関する、形而上的とも言える疑問や問いかけをしたことがあるはずである。

 

人間とは何か?

 

人生とは何か?

 

ある意味で、社会の流れに流されていない若い時代には、そのような人生上の根本的な問いかけをするものであるが、

 

いつの間にか、一見もっともそうな、先に生きていた大人達の創り上げてきた世界、実際には混乱した世界に自己投入せざるを得なくなり、

 

多くの人々が、目先の忙しさや競争に埋没し、四苦八苦しながら人生をおくることになるのが常であったろうか。

 

大勢の人々のあーでもない、こーでもないという混乱した価値観の中で右往左往し、あれが良いとかこれは悪いとか、あれがメジャーだ、これが流行だとか、それはマイナーで悲惨だとか・・。

 

我々はある意味で、収入を上げるために、より生活を安定させるために、あれやこれや獲得しながらも、

 

様々な価値観念という、潮の渦巻く集合意識の海の上を必死で航海している航海士ようなものである。

 

人々は、そういう混乱した社会の渦の中で右往左往しながら、あるいは貝のような自己保身に徹しながら人生を送ってきたのかもしれない。

 

それはあたかも、いままでのこういう世界が当たり前であり、当然のこととされているからこそのことであったはずである。

 

それが常識であり、それが当然であるという風に何処か、いつか教わったような漠然とした信念を持っていたに違いない。

 

あなたはどうだろうか。

 

・・・・ 

更に言えば、

 

かれらが偉いとか、奴らは闇だとか、あいつらはダメだとか、こちらが強いとか、あちらは弱いとか、そういう造られた生存競争の只中にあっては、

 

当然のように、生存の確保の為に人を出し抜き、嘘を言い、あるいは真実を言わないことで責任を回避しようとする者たちも現われてくるし、

 

まるで風見鶏のように、外の世界に従いながら、実は内面の精神を棄損しながらも、そのような世間という濁流のごとき観念の流れの中を、必死で泳いで生きる者も現われてくる。

 

特に昨今では嘘と真の混ざり合ったメディアによって流される政治、経済、世界情勢等の報道等によって、

 

その渦の中で必死になって踊っているエリート達の姿がバレばれとなって現われている。

 

まるで伏魔殿のステージで踊り狂う、色気も面白げもない踊り子さん達のようである。

 

それらを観て笑いながら、怒りながら、陰で罵倒しながら、それを楽しんでいる者も今では大勢いることだろう。

 

あなたが世界を俯瞰しているならば、それに気づいていることだろう。

 

その彼らとは、奴らとは、自己保身に特化した、いわゆる物質偏重的な文明の象徴なのである。

 

世界のトップに立って政治・経済等のお芝居を演じている者達は、決してエリートあるいは偉い者たちというわけではなく、

 

自己保身をテーマとした物質偏重理念の哀れな体現者なのである。

 

例えば、

 

国家、社会の為と称しつつ、危ない原発の利権にしがみつき、あるいは利権の周囲に流れされる、貨幣という「最初はおいしい猛毒」で生計を立てようとする者たち、

 

あるいは、国家経営が赤字になったその原因を白日のもとに曝さずに、さらにその理由なき、説明なき赤字の穴埋めを、更に庶民に肩代わりさせようとする政治家達・・、

 

また世界においては、リーダーシップをそれなりに実施している為政者の国を異端の宗教や悪の独裁と罵り、

 

逆にそこから反発を受ければ、それをこれ幸いに理由付として悪漢イメージをメディアで流し続け、どこか愚かな民衆に口実を植え付けた段階で、その権利も何もないよその国に空爆を加えることを正当化するようなどこかのエリート達・・、

 

次から次へと悪や問題を自ら創り上げては、あろうことか大勢の第三者の犠牲の上でそれを解決するというパフォーマンスを繰り返しながら、実のところは物質的な富を簒奪するという話である。

 

・・・おバカにもほどがあるのだ。

 

余計な御世話かもしれないが、一体ぜんたい何の為に、この世界に生れてきたのだろう。

 

そういう者達は、本当に、地位や名誉や物質的富に普遍的な価値を見出しているのだろうか?

 

・・・

  

いやいや逆に、そういう演技をしてくれているために、そのおバカさ加減がわかろうというものである。

 

しかしながら、何百万の命を奪う行為をしておきながら、それを口で泡を飛ばしつつ正当化に努め、表面は平然としていることに彼らの霊的無知と、その精一杯の姿に深い哀れさを感じないではいられないではないか。

 

・・・ここまで晒されれば、観衆である者たちは、もう十分に理解が出来ることだ。

 

この世界で眠りこけた魂たちは、その不快感に嫌々ながらも目覚めることだろう。

 

あまりのやり過ぎとその不快感に目が覚めて、地球の大勢の人々がブーイングを始めたのかもしれない。

 

単に魂の目覚めの為のやり過ぎ・・・そういうことかもしれない。

 

何事にも意味があるものなのだ。

 

 

現代社会というものを俯瞰すれば、 

 

人々がどこか崇め奉っているお偉い者たちは、民衆を保護し、多くの人々の為の仕事、いわゆる公的な仕事をしているはずのところが実はそうではなく、

 

公の福祉、生活向上・・それを建前として、あるいは錦の御旗に立てつつ、

 

公(こう)ではなく私(し)の生活向上、地位の確保、利権による利益の奪取を潜在的な主目的としてしまっているようではないか。

 

そこに積極的な悪意は感じないものの、ズルズルと致し方なくという形で落ち込んできたようであるし、

 

結局は、滅私奉公どころではなく、どこか滅公奉私になり下がってしまったのだろう。

 

そう、それは

 

「自分が生きるためには他を犠牲にしても致し方ない」という、見えない支配的な観念でいつの間にかからめ捕られているということだ。

 

それが集団的な価値観念という「檻」というものである。

 

・・難しい話でも何でもない。

 

それは、実際何かと言えば 「行き過ぎた自己存続」 の観念である。

 

その自己存続へのあくなき執着とは、自己が肉体であるという唯物的観念から来ていることは明明白白であろう。

 

・・・

 

執着した自己の現われ様を<エゴ>という。

 

エゴとは、常識という虚栄の観念で投影された、偽物の<自我像>である。

 

またエゴとは、自己存続に特化した「こころ」のことである。

 

ある意味で、今まではこのような「エゴ」の文明であったと言えるかもしれない。

 

世界を見ている心ある人々は、そのエゴ的文明の終わりを予感していることだろう。

 

いや、それは予感ではなく、既に終わってしまったことなのである。

 

意識的に気付く人々が多くなるに従い、それは一般共通現実となるものだ。

 

また、時系列という流れで生起する結果としての現象は必然的に生じてくるものであり、またそれら様々な崩壊現象に一喜一憂すべきではないだろう。

 

それら去りゆく一時代の幻燈映像に、執着も憤りも恨みも持ってはならないはずである。

 

どんな物事にも意味があり、深く大きな意識のなせる技であればこそ、それに感謝を忘れてはならないはずである。

 

それ見ている、観ているところの、あなたや私たち自身を忘れてはなるまい。

 

変わるのは外ではなく、内面の意識であり、内面の変化に応じて当たり前のように外たる映し絵が変わってゆくだけなのである。

 

内なる面と、その現われである外の面との相関関係は、

 

自らの人生体験を通じて営むべきはずの

 

「自己観察」を経なければ決して実感できるものではないはずだ。

 

単なる霊的、あるいはスピリチュアルな知識だけでは、浅い理解で終始するかもしれないし、ただただ、より良き外の変化を待ち望んでも、いつもどこか期待外れであることがわかるかもしれない。

 

目に映ずるところのこの大宇宙は外に展開された無限大の現象であるが、現象の背後には必ず現象と不可分一体となった現因、あるいは法則があることは理解出来るはずである。

 

わたしとは何か? 

 

意識ある人間の問いかけは、

 

まさにその宇宙という全体存在の、

 

今、在りて有ることへの問いかけと不可分一体なのである

 

翻って、

今の大いなる変容の時代を生きているそれぞれの<わたし>とは何か?

 

あなたや私たちは、どうありたいのか?

 

いつも、いつの時も、どこにいても、それが全てなのである。

 

世界は意識と意図で紡ぎだされているのだ。

 

難しい話はどこにもない。

 

・・・

愛こそが、言葉に出さずとも当たり前の感覚であり、

 

共感こそが、理論でなくフィーリングで実感できることであり、

 

真実こそが、顔をそむける必要のない知恵となり、

 

人生こそが、深い感謝と喜びの連続した体験学習であり、

 

人々こそは、根源から出てきたところの兄弟姉妹同士なのであり、

 

それらこそが、歪んだ観念という物差しを外したところにある、

 

真なる「常識」である。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。