気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

世界は仮想現実(1) 波動でできる世界

2012-03-18 09:47:20 | 宇宙時代の考え方

この世界も仮想現実である。

 

人々が「これが現実である」と思いこんでいる物事は、すべてバーチャル・リアリティーなのである。

 

バーチャルなリアリティーとは、仮の、あるいは仮に想定される、一過性の想いによって現実化するところの、出来事や事物であるといえるのだ。

 

通常バーチャル・リアリティーというのは、3次元ホログラフィー等の光の干渉による視覚映像の創出技術全般をいう言葉であるが、

 

そこに物体が存在しているように見えても、実は光の干渉によって出来ている「物体像」を見ているにすぎないということである。

 

物体として見えるものは、光の干渉縞によって生ずる3次元的視覚の濃淡にすぎないということでもある。

 

すでに世にある、ある特殊な眼鏡をかけることで浮き出るように見える立体映画なるものもその技術を利用しているにすぎない。

 

・・・

 

バーチャル・リアリティー、仮想現実とは・・有るように見えるが実は「実体」というものは存在しない現実的認識をいうのだ。

 

科学による追求によっても、確たるものと見ゆる物質、原子も、その確たる存在を捉えることは出来ず、ただ存在確率と波動の揺らぎによってその存在感を生じているだけであることが理解できるだけである。

 

原子核、電子等の物質要素の中身は空間だらけということもわかっているし、

 

その原子や電子やクオーク、サブクオークなども、波動形態でしか説明できない。

 

物理学で提唱されている「ひも理論」は、エネルギーのひも状のパターンの振動で時空、物質等の全てが出来ているという仮想理論である。

 

堅固と<言われる>、あるいはそういう風に多くの人々が<認識している>「物質」も、実はバーチャルなホログラムであると言われる所以である。

 

実は我々は、素晴らしく堅固なものと思いこんでいるところの、仮想現実を共同で創出しているというのが<現実>なのである。

 

・・・・

 

仮の・・・という意味は、あたかも存在するように見える「物」という意味であり、実は我々が絶対的に存在しているように「思いこんでいる」諸物、諸現象は・・・、

 

実は存在すらしていないということである!

 

ここでいう存在とは、何かの不変の確たるもの・・という意味である。

  

そこに世界が有る・・ということではなく、世界が有るという認識が有る・・ということである。

 

例えば、あなたも私たちも無垢な赤子で生まれ、物ごころついてここまで来ているはずであるが、それは、無意識から初めて次第に親、家庭、社会との関係によって自己への認識なるものを深めてきたということなのだ。

 

一般的に赤子のころの記憶はない場合が多いはずであるが、それはこの世界の多くの人々のこころで構成される共通認識という<常識>の学習経験と、その記憶の蓄積がないということを意味する。

 

誰でも、学校やサークルや組織などで、初めて入る環境では、何が何だかわからない状態で、どうやって良いかを模索した経験があるだろう。

 

そういう赤ん坊の時代の無意識の意識の状態ともいえる有り方は、

 

何がどうなっているのかの情報とその記憶が無い、何がなんだかわからない状態で、

 

その世界と・・その世界を認識をする主体である<意識>である自己とのインターフェースが明確でないために起きることである。

 

赤ん坊をよく観察するといい。

 

それを見ている大人からすると、

 

彼等、赤子はしっかり生きている・・・意識を有しているが、

 

この世界の言葉は未だ話せない・・・つまり世間的な応答はない、

 

すなわち、この世界の我々の共通認識の記憶が無い、

 

無意識的な生存形態と見えるはずである。

 

赤子に「今日は良い天気だね~」といっても、「・・・・」という応答しかないだろう。

 

彼等は、それを知覚しているが、世間的この世的な言葉と観念の集合である「記憶」が無いために、それに応えることが出来ないということである。

 

・・しかしながら、赤子はあなたの言葉自体はしっかりと知覚しているのだ。

 

知覚しているが、この世界とのインターフェース、すなわちこの世界的な応答の術(すべ)を今だ習得していないだけのことである。

 

そうでなければ、今のように意識を明確に持つまで至らぬはずだろう。

 

・・・・

 

こういう風にして、わたしもあなたも、誰も皆、この世界に入ってきたわけである。

  

そうして今、・・・あなたもわたし達も・・「私は存在している」という感覚、自我感覚を持っている。

 

それらのすべての<私感覚>は、赤ん坊の頃には無かったということも理解できるだろう。

 

もともと持っていなかった<私>を中心にして、今ではこの世界でのそれなりの生活をしているわけであるが、

 

かなり不自由で、ある時にはろくでもない有り方をせざるを得ない感じの生活かもしれないし、

 

何を無理して奮闘しなければ生きられないのだろうかという疑問符を背負いながらの生活かもしれないが、

 

実のところは、

 

それは現実的には、仮想現実の世界での生活であり、

 

あなたやわたし達は不自由とも見えるその世界の中で、

 

泣いたり、笑ったり、叫んだり、憎んだり、悩んだりしているということなのだ・・・。

 

往々にして世界に不幸や不自由が溢れているように見えるのは、

 

現実というもの、それが、どうしようもない現実・・という重たい「観念」が故にである。

 

要は、認識の仕方、観念の中身が問題なのである。

 

現実と称される3次元ホログラフィーを映し出す波動の鋳型は実は思考、観念であり、

 

一般に<こころ>と言われる、認識活動そのものなのだ。

 

 

不謹慎という観念をも捨て去れば良い。

 

気づけば、

 

不幸や不満や悲しみを醸し出すように見えるこの世界の出来事は、

 

バーチャルな自我という、この世界に合わせて成長してきた私の<こころ>の創作なのであり、

 

なるほど、

  

嫌々しながらも不幸や困難を必死で背負っているような自分の現実の姿を見れば、

 

それこそ、おバカにもほどがあることに気づくことができるだろう。

 

自分のこころで創っている、自分の重たい影法師を見て嘆いている有様は、

 

まさに自作自演なのであり、また、

 

実にそれは、こころの底から笑える話ではないか?

 

そうして、それがいわゆる<現実>という、仮想・リアリティーならではの醍醐味とも言えるのである

 

3次元的現実世界という、今までのこの世界とは、

 

自分のこころ、意識の働きに、未だ気づかぬ認識レベルにある多くの人々の観念の集合せる共通現実のことであったのだ。

 

しかしながら、あなたは今はもう、それを超えているはずである。

 

(つづく)

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 


セイラー・ボブの教え(3) 認識はエゴを超える

2012-03-10 11:04:35 | 覚醒意識

ONLY that(ただそれだけ:カリヤニ・ローリー著 ナチュラルスピリット刊) p139~

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質問者: 自分は何かを得るだろう、と私は心のどこかで思っているようです。何かを得たいと思っているのは<誰>なのでしょうか?

 

ボブ: あらゆることは、例の自己中心すなわちエゴに関係しています。そこからよいとか悪いとか、快適と不快が判断されます。

あなたは以前あることを経験しました。それで、その記憶を思い出して、あれはあまり良いことではなかったから、今度も同じことになるだろうとか言います。

 

物事をその瞬間において新鮮に見るかわりに、自分自身について抱いているイメージと照らし合わせるのです。

 

それは常にそのイメージと関係しています。つまり、関係性が私たちの問題なのです。

 

すべての問題は、人間関係の問題と言ってもいいでしょう。たとえば恋愛関係にある人がいつも、争いなどの問題を抱えているのは当然のことです。本当はどんな関係もないのですーーーーただ自然にくっつき、自然に生活を共にし、あるいは自然に別れるーーーそれが自然な成り行きです。

 

私たちがそれを問題にするのは、自分が願うイメージと比較するからです。

 

それが離れはじめる時、私たちはどうするでしょうか?私たちはそれが離れていってほしくないと願っていない物事が生じたとき、何が起きるでしょうか?

 

私たちはそれに離れていってほしくないと思い、それが離れることに抵抗し、それにしがみつこうとします。

 

あるいは何か自分が願っていない物事が生じたとき、何が起きるでしょうか?

 

私たちはそれを排除したいと思います。それで私たちは何をするでしょうか?再び私たちはそれに抵抗します。抵抗は葛藤であり、葛藤は病気です。

 

私たちが不幸で、心理的苦しみに束縛されているのも当然です。

 

そもそもなぜ私たちは不幸な思考を抱いているのでしょうか?

 

そもそもなぜ私たちは怒りの思考や恐れの思考を抱いているのでしょうか?

 

つまり、それはすべて例の自己中心ないしエゴとの関係の問題なのです。

 

その抵抗に目を向け、その抵抗を認識してください。

 

---それがあなたにできるすべてです。

 

その認識の中で、自分がそれをどこから認識しているか見てください。

 

あなたはそれを対極的な場から認識しているはずです。もし完全に抵抗しているなら、あなたはそれに気づきません。

 

完全に怒っているとき、あなたは怒りに気づきません。

 

なぜなら、あなたは完全にその中に埋没しているからです。

 

しかし抵抗の認識は、非抵抗の観点からのものです。

 

その瞬間、あなたはそこから出ています。

 

そして習慣からそのパターンがまた生じてきたとしても、再びそれを認識してください。

 

あなたがそれを味わい始めると、もはや、向こうに何かが進行していて、それに責任がある一人の私がいるという間違った信念にとわられ続けることはなくなります。

 

その信念が見抜かれるとき、あなたは二度と再びそれを信じることができません。たとえ習慣が湧き起こり、その信念にまた少しの間とらわれるとしても、その認識が繰り返しあれば、その信念はやがてすっかり消え去ることでしょう。

 

私たちはこの思考やあの思考に働きかける必要はないのです。

 

なぜなら、まさに思考に働きかけることそのものが、何らかの実体が自分を完璧にしようとする試みなのですから。

 

それは不可能なことです。

 

なぜなら、

 

あなたの本質はすでに完璧そのもので、

 

二番目のない一なるもの、純粋な知性エネルギーだからです。

 

 

・・・・・・以上、抜粋。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

我々の問題という問題、悩みという悩みは、ほとんど全てが人間関係からきているはずだ。

 

理想的な人間関係を求めてはいても、ほとんどのその時の相手・・なる者が期待通りでなく、あまつさえ、自分に不快や苦痛を与えてしまう場合があると感じているかもしれない。

 

どうしてこうなんだろう?

 

なぜなんだろう?

 

妻は、夫は、子供は、親は、上司は、近所の人は、会社は、学校は・・・

 

どうしてこうなんだろう?

 

・・・と、どこか心の底のほうで思っているのではないだろうか。

 

自分にひきかえ、世界は薄汚く、無知の人々ばかりで、経済は苦しく、厳しく、

 

何をするにもストレスに満ちている・・・

 

・・と、こころある人はきっとどこかで悩んでいるに違いない。

 

表面は社会性を保つために何事も無いように装っていながらも、

 

この世界の歪みを多くの人が感じているに違いない。

 

そうして、その為に・・・

 

あなたは幸せを感じることが出来ないと、思っているのではないだろうか。

 

しかし、それは

 

他者が、外の世界が、自分にとって都合良くないからこその悩みではないのか?

  

社会が自分にとって優しくないからこその悩みではないのか?

 

そう・・・、その想いは決して正当ではなく、それは依存と期待と、それと裏腹にある失望というものからきているだけのことである。

 

どうしてそうも他者に期待をかけるのか?

 

どうしてそうも他者に依存したいと思うのか?・・・

 

それは、

 

自らが不安で孤独であるという恐怖心からではないのか?

 

一体誰が、人間は肉体人間、バラバラの個人であり、エゴは当然で、それゆえ軋轢や争いが普通のことであると吹聴しているのだろうか。

 

また、どうして大勢のあなたは、それが正しいと信じ込んでいるのだろうか?

 

そういう「思考」を、あなたは自らで吟味したことがあるのだろうか?

 

多くの人々は、他者依存の観念の揺りかごで眠りながら、不快感と苦痛を嘆いているのではないか。

 

もういい加減に目を覚まさなければならないはずだ。

 

外の世界は、あなたの回りの世界は、こころが現われた結果であり、

 

その結果に対して、不平や不満で嘆くことのまっことの愚かさに気づけるはずである。

 

あなたは<あなた>でしかない。

 

いつの間にか押し着せられた、重い思考や観念を自らで脱ぎ捨てる時である。

 

比較や競争や支配や依存という、完全に間違った人間関係の罠から抜け出さなければならないのだ。

 

この世界での生存・体験時間の間、生れてから死ぬまで、

 

常に、わたしはわたしであり、

 

常に、あなたはあなたである。

 

 

その為には、

 

自らの思考、感情という押し着せられたこころの条件反射を、自分自身で認識する必要があるのだ。

 

そうして、自分のこころの反応を、観る位置に自らが上がることである。

 

それが<そう>であった・・という自己認識によってこそ、虚偽観念の檻が消え去るのだ。

 

外に現われたものは、あなたの内面にある・・気づかぬ心の歪みの<映し絵>にすぎないことがわかるはずである。

 

この時空世界に、このような自らのこころを見える人々が増えるに従い、

 

歪みによって右往左往するような、激しく移り変わる混乱に満ちた意味不明の世界の有様が、

 

本来自然の、あるがままを映し出すことになる。

 

 

 

「観自在」  とは、

 

自らの有様を、自らのこころの反応を、自らの観念を、

 

<自ら>で観ることができる<次元>に上昇することを意味するのだ。

 

すべての人間関係を作りあげる思考や感情を、自らで認識し、それらの諸反応の中に、

 

この世界での、魂の磨かれる仕組みを汲み取ることが出来るならば、

 

それは即ち、

 

「観自在菩薩」 である <あなた>に気づくことである。

 

そうして、

 

あなたは、本来何者でもない、そして何者でもあることが出来る、無限の意識である<あなた>に気づけるはずである。

 

、・在る・・ことによって・・・その全てがわかるだろうか。

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。