気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(7)千変万化と不動点

2020-02-29 05:48:23 | 意識の科学
あらゆる事物は変化する。
自然も宇宙も人の世界もすべてが変化している。
1つとして同じ状態のものは無い。
見える物の形は変わり、重さも大きさも色も何もかもが変化している。

朝になれば昼が来て、やがて夜になる。
闇夜に光が次第に行き渡り、あらゆる事物の姿が浮き出してゆく。
大地に種がいつか播かれ、複雑な条件がかみあって、
様々な花や植物となり、やがてはその姿を消してゆく。

あらゆる事象は変化そのものであり、
観察される宇宙そのものも、時空間の壮大さの違いはあろうとも、
実に膨大でダイナミックな変化そのものである。

月が地球の周りを回っていると言っても、そのエネルギー量は膨大極まりない。
月の地球の周回運動のエネルギーも現代科学的に計算できるが、
まったく桁外れで話に出すのも意味を成さないほど膨大である。
さらに、太陽の放出するエネルギーたるや、気の遠くなるほどの大きさなのである。

翻って、わたしたちの時空間・生活空間も常に変化のただ中にある。

あなたは、1日が何も変わり映えのしないものだと思っているかもしれない。
毎日が単調で同じもの、つまらないものだと思って、
何か良いことが将来起きることを期待したり、
あるいは逆に、世界の終わりを待っているのかも知れない。

あるいは、わき目もふらぬ米つきバッタさんのように、
生存のための社会的プログラムに呪縛され、
健気にも、エネルギー補給を自分でまかないながら、
たまには外の何かに快感を感じさせてもらいながら、
何かへの嫌々の奉仕のために、日夜苦渋の汗を流しているかもしれない。

そして、それ自体に・・まったく気づかない、
自己喪失の”次元”に落ち込んでいるのかもしれない。

あなたは、1日が何も変わり映えのしないものだと思っていたり、
毎日が単調で同じもの、つまらないものだと思っているならば、

そうであるならば、明確に言って・・実に大きな間違いである。

あらゆる事物は変化する。
自然も宇宙も人の世界もすべてが変化している。
1つとして同じ状態のものは無い。
見える物の形は変わり、重さも大きさも色も何もかもが変化している。

そして、それを観ているものは・・誰なのか?
それぞれの ”わたし” 以外に存在しない・・!

映画を観ている者が、映画の中にいないように、
千変万化する事象・・世界・宇宙の”中”には・・観ている者はいない。

言い換えれば・・、
変化するものの中にいる諸物は・・変化してゆくことが自明であるが、

諸物・生活・世界・宇宙が変化している・・
ことに気付いている者は・・変化しないということだ。

不動・普遍・永遠・無限・・・色々な表現はあるが、
決して言い表すことが出来ない・・・それ・・だけが変化しない。

変化しない・・という表現自体も、非常に誤解を招くわけだが、致し方がない。

変化しない・・つまらない、
変化しない・・面白くない、
変化しない・・死んだも同じ、
変化しない・・空っぽ・空白、

そういうイメージ・想念があるはずだ。
そうではないか?


あなたが今置かれている意識次元を脱するためには、
古い言葉で言えば、悟る・・覚る・・ためには、
間違いなく、
いつに間にか意識にこびりついた使済みの油かすのような、
「低レベルの想念」を洗い落とさなければならない。


そのためには、自己覚知・・自らを知る意識的努力をすること、
目の前の生活空間・大自然・宇宙の諸変化の・・すべての背後にある
・・不動の中心へと、気付いてゆく必要があるのである。




白い紙にコンパスで丸い円を描くことに例えれば、
コンパスの突き刺す針先つまり中心は決して変化しないこと、
また・不動の中心が無ければ、決して周囲の円は描けないことを知っているだろう。

同じように、
毎年やってくる、多くの人が怖い怖いと騒ぐ「台風」も、
その眼、中心点は無風であること知っている。

大自然の変化の様を観るならば、
様々な変化のその”中心”は・・決して変化しないということが解るはずだ。

もちろん、宇宙の事象はすべて相対的な運動・躍動であるし、
どれか、どこかが、何かが・・絶対不動などというものは存在しない。

賢い人は、
顕れた・・諸現象は・・すべて相対、有限であるとを知っている。

さらに、覚者は、すでに知っているだろう。

身近な空間、世界、宇宙という顕れた・・無数の諸現象は
・・気付き・意識という不動・普遍・永遠が無ければ、
そこに、ここに、あちらにも決して生じないということ・・を。

そして、それが可能なのは、誰でも、何かでもない・・
あなただということを・・本当に悟るだろうか?

それとも未だに、何も解らず知らず、探求さえ阻まれたまま、
衆生という名の表わすごとき ”血”の犠牲を払うような人生を良しとし、
外の世界の何か・誰か・どこかに真実があると、
皆が皆そうだからと、無知と汚れた欲望の投影される世界の中に入り込んだまま、
中心に気付かないまま、外周円を右往左往することを希望するのだろうか。


中心が無ければ・・決して円が生じない・・
不動が無ければ・・決して無数の躍動は生まれない・・
空(から)が無ければ、決して充足は生じない・・
永遠が無ければ・・決して沢山の局限は生まれない・・
無限が無ければ・・決して多くの有限が生まれることはない。

意識・気付き・・が無ければ、その対象としての世界・宇宙は存在しない。

しかしながら、それぞれの ”わたし” は間違いなく知っている・・、

世界も・宇宙も・・そこにあることを・・!




(6)気付きと想念

2020-02-27 04:59:50 | 意識の科学
意識の法則とでも言える、それとは何か?・・・

意識が無くば・・気付く・・その対象は存在しないこと。

逆に・・
世界・宇宙は・・意識によって知覚されるものであって、

世界・宇宙・対象物・現象が・・勝手に独自に存在することはないということだ。

これはまた、意識はその対象と自己そのものが区別できない、一体的なものだということを意味している。
あるいは表裏一体であるとも言えよう。

でもこれは、
あなたが観るから・・その観察対象が存在しているというのと同じ話であって、
誰もが信頼しやすい、科学的?な言い方になっているに過ぎないのである。

・・
一般的、科学者的に云えば、
素粒子レベルでの観察者効果として、観察行為によって素粒子への挙動干渉はあるが、
宇宙というマクロレベルではあり得ない・・とするかもしれない。

しかしながら、マクロはミクロの集合系であるからには、
その人のその時の、意識の対象としての”全宇宙”は、
一瞬で・・波動崩壊をして・・知覚対象としての宇宙が浮かび上がっているとも言えるのである。

目の前に世界、宇宙があるではないか。

そんなことありえない?・・というのは、ただ思うだけの事であって、
事実は・・すでにそうだということだ。

いやそんなこと考えられない・・というのは、
素粒子を扱うミクロのレベルでの効果は・・微々たるものであって、
より巨大なマクロの世界、例えば人の日常生活では全く無視される・・と、
そう言う”考え”なのである。

そしてその裏には、さらに”意識”についての誤解があるかもしれない、
例えば、
人が何かを”意図”しても、何かがすぐに起きないじゃないか・・、
人の意識は「物質」に対して、マクロではなんの効果も無いんだよという
そういう”考え”があるであろう。

ここの誤解はこういうことだ。

意図する事とは・・、考え・イメージ・希望・期待等と云う「想い」であり、
その思い通りに物質が変わらないからして、
意識が、素粒子という物質の原型に及ぼす効果は・・・素粒子レベルに限られる。

つまり、ここでいう”意識”・・が「想い」と仮定されているため、
マクロレベルでの物質が、人の「思い通り」にならないから、
意識の効果なるものは無いのだと・・そう言う風に思うのである。

ミクロでは、人の(観察)意識が、素粒子に与える波及効果なるものは認めざるを得ないが、
それは局所的に限ったミクロでの微々たる世界だけの話である・・と、
それ以上に拡大解釈するには根拠がない、とそう言う風に思うのである。

しかしながら、想いとは・・人の色々な想像・主観・考え・・であって、
そのようなその都度その時の「想い」によって、物質・環境的知覚対象が生じているのではない。

もしかりにそうだとすれば、その時々の人たちの想いで、
世界・宇宙はぐちゃぐちゃになるどころか存在すら維持できまい。

もっと根本的な意識・あるいは純粋に気付いている・・ことは、
そこから派生して色々と生起する人それぞれの「想い」ではない。

純粋に・・というしかない、
あるいは根源的に、
観ること、気付いている・・純粋意識、あるいは宇宙意識、
それを究極の観察者
というならば、

その観察者効果によって、宇宙が未分化から波動崩壊を起こし、
ミクロからマクロまでの全宇宙を、その観察対象として浮かび上がらせている。
われわれが、宇宙を眺める場合、
観測機器や肉眼など、五感の知覚によって宇宙空間を観測・観察するわけだが、
その観測・観察の瞬間に素粒子レベルでの「波動崩壊」が起きていて、
そのため、我々が言う、自分の世界とされる知覚対象世界が認識される

ということになる。

壮大・広大無辺な宇宙自体が、我々の気付く範囲だけ、
意識によって素粒子の波動崩壊を起こし、
そこに知覚対象世界として浮かび上がっているということだ。

そんなばかな・・?と思うだろう。

そしてあなたやわたしたちは、意識の片割れであるからには、
それつまり、世界創造に多方面から参画しているということのなのである。

人は多く、3次元的物質世界の肉体自我の状態に馴染んでしまい、
意味不明な人生の経験を集めることを、寿命が尽きるまでやるべく、
取りあえず生存するための、目先の物量を獲得するための
様々な想念形の集合のなかに重く閉ざされてきたため、

このような説明を荒唐無稽な夢物語と考えるかもしれないが、
今も今・・在る、全宇宙の奇跡的な創造の仕組みの壮大さに、
気付くべきではなかろうか・・。


われわれが、宇宙を眺める場合、
観測機器や肉眼など、五感の知覚によって宇宙空間を観測・観察するわけだが、
その観測・観察の瞬間に素粒子レベルでの「波動崩壊」が起きていて、
そのため我々が言う「物理的」とされる知覚対象として存在認識されるということになる。

壮大・広大無辺な宇宙自体が、我々の意識によって素粒子の波動崩壊を起こし、
そこに知覚対象として浮かび上がっているということだ。

そんなばかな・・?と思うだろうか。





(5)観察者

2020-02-21 08:09:01 | 意識の科学
科学的見解、特に物理学、量子論的に云えば

わたしたちが知覚しているあらゆる物質は、極めて小さな素粒子で構成されている。


目の前の物から遠くのもの、宇宙全体、

あらゆる物質は原子、素粒子・クオークで構成されているとされている。

電子などのような微小な素粒子には波動性と粒子性がある等と聞いた事があるかもしれない。

極めて微小な素粒子なるものは、粒子といっても、固い小さな玉?・・なんかではなく、
波のような性質を持っていて、波動のかたまり、あるいは局所的な定在波のようなものと考えられている。



素粒子とは、時空に生じた微細なエネルギーが自転・公転している波のようなもの・・。



素粒子とは、波動の局在的なかたまりのようなもので、
また波の動きのように、あちらこちらに揺れるようなものであり、
どこかに100%絶対に存在する・・何かの確定した物・・ではなく、
存在している確率を有する・・波動・・とされている。




観察によって、波があたかも粒のように現象化する



量子論ではそれを数学的に ψ(t)の「波動関数」で表している。

簡単に言えば・・、
物質の元素・素粒子は時空の中を揺れ動いている波のようなもので、
それを数学的に記述すれば、「波動関数」で表わせるということだ。

これに倣えば、
あらゆる事物はすべて・・波動(関数)が無数に重合したものであって、
マクロレベルでどんなにカチカチで重い物も・・究極は、波動だということだ。
ミクロレベルでの素粒子・クオークは、波動(関数)で表されるわけだが、
波として存在しているということになり、
それがどこに存在するのかハッキリとはわからない。

多分、ある時はそこに在るだろう?・・程度の ”存在する確率”ということだ。
物質とは・・存在する・・確率・・?って、いうことは、
絶対に存在するなどとは決して言えない代物ということになる。

また、原子・素粒子も人が観測するまでは・・波動関数のまま・・なのである。
つまり、
そう・・、人が観察するまでは・・永遠に・・波動関数状態のままで、
はっきりした現象として現れない状況にあり、
人が観察することによって、はじめて素粒子の現象として出現すると解釈できる。
いや、出現したように見える、” 観察できる ”ということだ。

電子機器だろうが、顕微鏡だろうが・・
人がそれを・・素粒子がありそうな状況を「観察」・・したとたんに、
波動関数 ψ(t)・・は ”崩壊して” 素粒子の存在形が現れる。
いや、現れたように・・観える、観察されるということだ。

いいかえれば、
意識的に見る、観るという観察行為によって、素粒子の挙動の現象化が起きる。
簡単に言えば、物理学の量子論では、

素粒子の存在を→観察すること・・ではなく、
観察によって・・素粒子の挙動が影響を受け、
その存在形態が・・確定・定立される・・というニュアンスだ。
これは「観察者効果」などと呼ばれている。

物質が先に存在していて・・後で観察して・・その存在を認める
・・のではなく、
人の意識の働き・観察行為によって、波動(関数)が崩壊して、
存在の形や・現象を生じるという意味が濃厚なのである。

観察は一種のパワーであると言えるかもしれない。

意識的に気付かなければ、その気付きの対象物は存在しない・・という、
ある人に言わせれば”哲学的な”言い方と、
素粒子論での科学的な言い方とは、まったく同じことだと気づけるだろう。

「観察」とは、人の意識的な行為のことであり、感覚の注目、注視であり、
さらに副次的には、それらへの想い・想像も含まれてくる。


話しを戻すと、
電子機器だろうが、顕微鏡だろうが・・
人がそれを・・素粒子がありそうな状況を「観察」・・したとたんに、
波動関数 ψ(t)・・は ”崩壊して” 素粒子の存在形が現れる。


人の観察によって、元の素粒子なるものの関数状態が「崩壊」して、
素粒子という観測される姿に変化する・
・とも言えるだろうか。

すでに確定したものを、後で追確認することではない!

なぜなら、波動関数状況は・・どうやって観ることが出来ようか?・・
観察されない状況のことが・・波動関数状況・!・なのだから、

逆に・・、
存在として確定するためには・・「観察」が介在しなければならないのである。


用心深い表現をすれば、
観察行為(意識)が、素粒子の現象化に干渉する、影響を与えるということであり、
これは、意識が物質と深く関わっているということでもある。
どこまで深く関わっているのかという事に関しては、
未だに様々な論争もあるわけだが、現代の科学的とされる分野において、
物質の素粒子レベルでの存在様式と人の意識との深い関わりが、
初めて認識された事実は極めて大きいものがある。


ミクロレベルがそうであるならば、その重合した世界、
われわれの生活空間というマクロレベルな状況が、
それとは無関係であるはずがない。


量子論的に云えば・・・、

あなたが観たり聞いたり・・つまり観察している事物は、
素粒子の、それはもう無数の集合系であり、
あなたが観るその瞬間に・・波動崩壊して・・

姿を現している・・・とも言えようか。

そんなばかな・・(笑)


しかしながら、より微細に、精妙に意識を集中していくと、
量子科学的に追求していくこともその1つの手法であるが・・、
それが理解されてくるのである。

意識の法則とでも言える、それとは何か?・・・

意識が無くば・・気付く・・その対象は存在しないこと。

逆に・・
世界・宇宙は・・意識によって知覚されるものであって、
世界・宇宙・対象物・現象が・・勝手に独自に存在することはないということだ。

---
気付けば極めて当たり前なのだが、

観察者がいなければ・・・現象はない・・ということでもある。
観察があって初めて、現象といえるのである。

現象が既に勝手に存在していて・・・後で私たちがそれを見る・・
まったくの無知なる想い込みであったと気づけるだろうか。

われわれ(意識)に無関係に、
現実世界が存在しいている・・どんな証拠もないのである。




(4)知覚と創造

2020-02-12 09:37:27 | 意識の科学
知覚されるすべての事象、機能、物、組織・・あらゆるものは、

気付いているから・・対象として、そこにここに”存在”する・・が、

気付いていること・・自体は・・何かの単体の”個別対象物”ではない。


肉体・頭脳組織によって、気付き・意識が二次的に ”発生している” ・・のではない。

気付き、意識が・・人体・頭脳組織を通じて・・知覚対象として現れている・・ということ
だ。

したがって、わたしとは何か?・・・というならば、

「わたしは肉体ではない!」・・は明白である。

わたしは「意識」「気づき」そのものであると言わねばならない。

意識から様々な「想い」を生じ、その「想い」によって、

自己自身を肉体であると信じ込んでいる・・のだ。

それは、意識の自己同一化と呼ばれている。

自らの投影する知覚対象の中に、自らを自己投入する・・成りきること。

まともにかの聖書を解釈すれば、

神が自分に似せて人間を創り、その創造物の中に、自分の息吹を吹き込んだのだ。

それは悠久の過去のことでもなく、

いまあなたや私たちが・・存在していること・・そのもので、
いつでも、どこでも、どんな世界でも宇宙でも実証されている。

わたしは・・在る・・! ・・意識であることだ。


あなたやわたしたちが、今・・存在しているそのまんま・・、

知覚されるすべての事象、機能、物、組織・・あらゆるものは、

気付いているから・・対象として、そこにここに”存在”する・・が、

気付いていること・・自体は・・何かの単体の”個別対象物”ではない。


肉体・頭脳組織によって、気付き・意識が二次的に ”発生している” ・・のではない。

気付き、意識が・・人体・頭脳組織を通じて・・知覚対象として現れている・・ということ
だ。




かつて、覚醒の巨人等と言われたニサルガダッタ・マハラジは、
道を求めて訪れた探求者に、

「あなたは悟りたいと願ってここにきて、
 どうも分からないんです、教えて下さいと言うが、・・
 ただよく・・観て見なさい・・」

「わたしは在る・・に深く入って生きなさい」

と言ったとされる。


たったこれだけ・・?

その探求者は一体何のことかわからなかっただろう。

なぜならば、彼・彼女たちは、深く考えに考えることや、

電撃的なインスピレーションや、つらい修業等と云う特別な何かを探しているからだ。

真実の探求は必須なプロセスながら、逆に探求者はなかなか悟れないとも言われる。


なぜならば、探求者は、思考、マインド・こころで、

悟りとは何かと、自己自身を・・よくよく・・観ていない状況で、

単に・・あれこれ想像しているからだ。

もっと豊かで安心できて、快楽的で、荘厳で、しっかりとした何か真実を・・、

マインド・思考・感情を総動員して・・探している・・からだ。

それはもちろん、必須なプロセスであるが・・

いまここで言う、ことの・・本質はさにあらず、

肝心なのは、・・・

今・・在ること自体に・・深く気付いてゆく実践行為である。


マインド・こころの創り上げる、

あの世やこの世の、高度で複雑多岐な創造物の話ではなく、

それらすべての元にある・・ただひとつの原初・根源、

自らに気付いていること、・・意識のことだ。


あなたは・・それであると真に・・気付いただろうか?

あなたは、生成・消滅して終わりの・・創造物のほうではなく、

それに自己投入している・・創造者であることに気付くべきではないか?

・・ということだ。


知覚されるすべての事象、機能、物、組織・・あらゆるもの、宇宙さえも、

意識が在るからこそ・・

その気付きの対象として”存在”することが出来るのだ。