気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

多次元の話(1)世界の違い:振動の違い

2016-03-26 11:05:13 | 宇宙的気付き
●波動は周波数帯域を有す
物質は素粒子で造られており、素粒子はまた波動エネルギーで出来ている。

物理科学で提唱されている「弦(ひも)理論」では、物質の窮極は「弦の振動」のようなエネルギー振動であるというもの。

振動であるからには、七色の光スペクトルや音楽のオクターブのような段階的な周波数が存在するはずで、

世界が振動エネルギーで出来ているのならば、宇宙には様々な周波数の違いや、オクターブまたは周波数帯域があるということだ。

これは存在諸物は、エネルギーバンドの違い、エネルギー振動周波数の違い、あるいは相違いがあるということを意味している。

例えば宇宙には、地球の今の存在周波数帯域とは違う、別の周波数帯域世界が無数にあるということになる。



●宇宙には様々な周波数帯域が重合している
そして、いま観測している宇宙とは、あくまでも地球の周波数帯域から見た宇宙であって、

我々は限られた自分達の周波数帯域の窓枠から見ているだけということになる。

これは電波望遠鏡で見た宇宙像と可視光で見た宇宙像の違いに似ている。

もっとも、電波と可視光は、単に電磁波の波長帯の違いであるが、

存在世界の違いはその電磁波のみならず、物質組成に関わる存在形態のそのエネルギー振動の周波数帯域の違いとなるということだ。

●次元の違いは周波数帯域の違い

存在周波数帯域の違いは、つまり「次元」の違いと言って良いだろう。

例えば、我々が火星を観測した時、遠くで観測するか現地に行ってみるかは同じことで、

要するに、その観察では”我々の存在周波数帯域と同じ帯域”しか観測できないということになる。

地球のエネルギー波動帯域と火星の波動帯域に「ずれ」があれば、

地球の波動帯域にいる人類がそのまま観測機器を持ち込んでも、

その・・・地球なりの・・・波動帯域の情報しか知覚できないのである。

(例えば、惑星毎にエネルギー量子の最小単位を規定する「プランク定数:h」(またはディラック定数)が異なると仮定するならば、エネルギー量子によって現れる現象世界も、地球とは異なった様相を呈すかもしれない。)

波長が合わなければ同調しない・・わけで、つまり周波数が合わなければ、

そこに「何か」存在していても「何も」見えないということだ。

そして極めて肝心なところは、周波数を合わせるのは「意識」だということ。

・・・
●存在形は観察者が対象を認識することで生じる

宇宙の全ての物、それがエネルギー振動であるならば、

どんなものも、あるエネルギー振動の周波数帯域を有しているわけで、

観測者と、その対象物のエネルギーの周波数帯域が合っていなければ、

対象物はまるで知覚できないということなのである。

ポケットにあるにもかかわらず「あれ、財布どこ置いたっけ?」等と探し回るように、

目の前に探し物が有っても、心ここにあらずではなかなか見つからないことがあるように、

これも当たり前と言えば当たり前だ。

物理科学では、観察行為によって、量子場のエネルギー波動を崩壊させて物質形が現れるとされているわけだが、

これは意識して観察する行為によって、はじめて物質形が出現する(ように見える)ことであり、

簡単に言えば、何ごとも・・意識して観る・・ことでそれが観察される、存在するとわかるということ。

●意識を同調させなければ何も現れず

そして「意識して見る」ということは、

対象に”意識の波長を合わせる”・・ということでもある。

ヘミシンクではこれを「フォーカスする」と言うようだ。

・・・
従って、例えば天体観測で様々な天体を探索しても、

それはあくまでもこちらの周波数範囲内での観測行為であるわけで、

世界の公的機関が、「近隣宇宙には生命が見つからない」という場合は、

それがある意図を含んだ全くの嘘か、

見つからない領域だけを公開しているか(嘘ではないが事実を言わないやり方)、

あるいは多分に地球のエネルギー波動帯域での観測で見つけられないということなのである。

今の宇宙開発やUFO等の情報開示の現状は、上の3つのいずれか、あるいはそれら全てであろう。

もっともUFOを見たり、また宇宙からの存在、これは宇宙人等と言われているが、

異なった次元世界からの来訪者というのが妥当であって、例えばそれに遭遇したりした場合、

信じる信じないという範疇は簡単に超えてしまい、それを事実として認識せざるを得なくなる。

実際自分もその一人だが、余談として、宇宙人?に合っても相手が自分は「宇宙人です~」とは言わないものである(笑)



●UFOは他次元からのもの

例えば、今までこんなにUFOが目撃報告されていても、何十年たっても、公では未確認のままになっているのは、

UFO自体が他次元からのものであるからこそ、有るようで無いようでもあり、

それはまたこの次元との周波数帯域が、大小様々に異なっているからこそだと言えるし、

また常に情報に血眼になっている組織の者たちが、大衆に隠しおおせてきたのも、

UFOの存在次元が微妙に地球のそれと異なるが故なのであると言えるし、

またこちらの人々がその存在可能性を全く認識をしていなかったからである。




●次元の違いはエネルギー振動帯域の違い

物質なるものはつまり「エネルギー振動」なのだから、

音楽で様々な音階やオクターブの違いによって表現される音曲の違いがあるように、

あたかもTVに映しだされるリアルな音声や画像が、一定の周波数帯域内で造られているように、

エネルギー周波数の帯域つまり波動領域の違いがあって当然なのである。

そして波動帯域が違うということは、その周波数が合わなければ知覚できないということ。

例えば、TVの7chは、それより低い、5chの周波数帯ではサンプル出来ない、観測できない、知覚できないというのと同じである。

ということは、

火星や金星、土星や冥王星などという異なる世界にも、

その惑星特有の周波数帯域の違いというものがある可能性が大であって、

我々に見えているその姿や情報は、あくまでも我々の「周波数」で得られた断片情報ということになるのだ。

●地球も多次元構造世界

地球という惑星存在も、波動・振動エネルギーで出来ているからには、

当然ながら地殻を含む周辺時空全てが波動領域であり、さらにそれらには、

ある一定幅の、帯状の階層構造をもった複数のエネルギー周波数帯域がある。

そして、今72億の人類が生存している表面世界のことを、いわゆる物質界と言っており、

さらに今・・ここに同時に在るが、知覚できない更に周波数の高い領域を幽界、霊界などと言っているわけだ。

また、ヘミシンクで有名な、ロバート・モンローの提示した体系だった「フォーカスレベル」は、

地球や宇宙の多次元構造の仕組みを別の表現で言い表したものだ。


そして、人々が生とか死とか言っているのは、

意識、魂としての「わたし」の、単にその次元世界での行き来のことなのである。

そして魂はどの次元であろうが、そこに存在しているのが・・

「わたし」  Iam である。

魂とは、多次元世界の全てと交差することの出来る、

言わば、時空も、次元も超えているところの旅人と言えようか。

そして、至高の存在とは、全てを超えた・・ひとつなる・・それ・・だ。






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色即是空の話(5) 無は存在せず

2016-03-21 10:22:50 | 宇宙的気付き
人間とは何かと簡単に言えば、「魂」と「こころ」と「身体」の複合体ということだ。


「身体」はこの時空世界のインターフェース、あるいは衣服のようなもの、

この次元地球で調合創成された、あなたの身近な乗り物ということだ。

そのシッカリしたように見える物質的組成の肉体は、細胞、分子、原子で構成されており。

その中核たる原子の物質密度たるや、0.000・・1パーセントにも満たない。

これは単なる概念ではなく、人の実在の姿である。

人も何もかも、もとは空(くう)であって、

その存在形態は、意識を持つエネルギーというのが実在の姿なのだ。

もとはひとつ・・なのだ。

空(くう)は1個2個、「毎度ありがと・・」などとは数えられない。

たったひとつ、ただそれ、というしかない・・それ。

この空(くう)を深く観想すべし。



物質が・・実に重い、かなり固い、極めて小さい、随分大きい等と、

世界では何千年も騒いでいるが、

実体は、何かの間違いのように思えるほど、スカスカ、すっからカーンなのである。

素っ空(から)カーンの中に、振動する微細エネルギーが動き回っている。

まるで質量感を醸し出す、バーチャル立体映像システムのようなものだ。

幻想というのはぼやけた幻のような・・ということではなく、

まさにリアルであるようで・・、実際はないものという意味だ。

それが現象世界、諸行無常などとも言われるこの世界である。

世間の誰が何を言おうが、どうしようが・・それが事実。


つまり空(くう)の中で、エネルギーが振動し、動き回り、何かを創り上げている、

その何かとは、あるようでないもの、常に変化し続ける無限の宇宙の姿である。

無限なればこそ変化し続け、また進化し続けることがわかるだろう。


空(くう)の中に存在し、動き回るエネルギーは意識と意図といえる。

意識は無限なる自らに”気付いて”いることであり、

意図はその表現型を無際限に”生み出す想い”創造主の観想といえるだろう。

それによって、何かの形態を生み出すべく微細なエネルギーが振動するのだ。

数千億の恒星からなる銀河系も、

その銀河が1千億もあるこの次元宇宙も、ひとつなる空(くう)のなかでエネルギー振動・回転するエネルギーで出来ている。






そして宇宙という、あらゆる全ての中の「部分」には、

つまり全体が含まれているのだ。

えっどういう意味?

物量的足し算引き算では、部分集合は全体ではない・・という話だが、

それこそ、いわゆる3次元的な閉塞観念、物質が多いだ少ないだの観念であり、

そもそも、

部分の中に全体が含まれなければ、無限性などあるわけもない。



部分集合にあるのは小さく描かれた「境界線」だけであり、

その下には全体集合が100%含まれている・・気付けるだろうか。





引かれた境界線が、自我という境界であり、この境界が全体へと拡大するプロセスが、

つまり意識進化、魂の進化と呼ばれるものだと言えようか。

元々、どんな部分も・・全体と不可分に「ひとつである」のだが、

境界を様々に描くことで、それぞれのわたし達、という自我意識が生じている・・。



そもそも、空(くう)はどんな次元も何も無い・・入れもの、無限の許容性。

あなたの身体、精神、魂の多次元構造のバックにあるのは、

まさに99.99・・99%の空(くう)である。

その無次元のなかで、神なるものが意識と意図で多次元を描き出している。

この地球もその中の小さなひとつである。


ところで、空(くう)はいわゆる「無」ではない。

「無」は無であって、無以外の何ものでもない・・ことも証明できない。

つまり、無は無いのである!

無というのは・・どうあっても存在できない・・無いのだ。


人はだれでも・・我在り・・わたしはある・・という感覚が備わっているはずだが、

その何でもなさそうな自己意識、私感覚こそは、

あなたは本来、全体たる存在そのもの、

在り続けるところの至高の存在を示している。

オー、マイ、ゴッド!




まったくそれに気づかず知らず、

活きるためだと言われて、物・銭・金を追いまわすような世界にあっても、

それが、実に無知で意味なく自信満々な為に世を席巻した、

いわゆる欧米的唯物観念の支配した世界であっても、

TVやメディアが、いつまでたっても戦後植民地の囲い込み報道を繰り返しても、


あなたという、意識ある存在が、実際は至高の存在形であることには変わらない。


ここはどこ、私はだれ?

わたしは高度な動物? いつか機械に負ける知的生物?

お金は便利でまずこれを稼ぐのが良い事?

人間死んだら終わり?

そんなことどうでも良いから成績上げろ?


おバカも甚だしく続けば、いつか飽きが来るものである(笑)

そうではないか?


気付かず知らず、世間に言われるままの生き死にも、繰り返し転生も、

また面白い存在芝居への自己投入だったとわかるだろう。

肝心なのは、せっかくの今のこの時点で、それに気づくことである。



今はもう地球の固有の周期に沿った26000年にわたった、

旧次元的お芝居のサイクルは終わりを告げ、すでにもう、あらたなる次元物語の幕開けだ。

3次元映画の席でいつか眠っている者も、びっくり仰天で揺り起こされるだろう。

新たな次元映画は始まっているからには、いつまでも惰眠は面白くはない。

過ぎたるは、なお及ばざるがごとし。



「もうは未だなり」「未だは、もうなり」

あるのは今、そういまここ、そのうちには、永遠に来ない。

そりゃそうだ。未来とは、未来、いつも未だ来たらず・・なのだから。


今、ここ・・Present! 存在すること

・・・それはつまりプレゼント!

創造からの贈り物である。






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

今・実感=創造!

2016-03-13 07:49:46 | 人間とは何か
I AM THAT I am.

(わたしは・・・わたしである・・ところの者である)

(わたしは・・・どんなわたしであるか、選択する存在である)


主体たる意識を有する人間は、十葉ひとからげの烏合の社会的動物ではなく、

自らが自らの在り様をイメージ、実感、創造していく存在である。

誰もそう・・、皆「わたし」という自分意識、自己認識に気付いているはず。

自己認識とは、自己の無限の可能性を認識しつつ進化拡大しているということだ。


多くが、外の世界に気をとられ続け、当たり前のように毎瞬素通りしていたわけだが、

これは実に重大なことであり、それぞれが実は、神人ともいえる存在であること、

創造者としての自分をじっくり感じることが・・今・・最重要な事なのである。



I AM THAT I am.

(わたしは・・・それがわたしである・・存在である)

これは創造の原理を言っている。

意識、意図、認識あればこそ、その存在の容姿(かたち)が現れる。



人とは形の決まった「物質的」存在ではなく、動的な「意識的」存在であること、

意識で自らの在り様を創造・選択する存在であることを示しているのだ。

それが真正の人間だ。

意識的であるということは、自らの認識を自らで創り上げているということで、

気付かず知らず、あなたもそうやって人生を経てきているのだ。


経ては来ているが、どうも、本来そうであるべきイメージ感覚の・・

つまり「幸せ」とは程遠いと思っているだろう。

違うだろうか?


日常、たまにふとした折に・・「あー幸せなんだな・・」という感情が出ているか?

どうだろうか?


何か面白いことが、楽しいことがあった・・ら、幸せ感が出ているだろうか?

そうだろうか?

いや、全くおバカな世の中に腹が立ちまくりで、そんなどころでないだろうか?

どうなんだろうか?

なるほど、厭世的に世を斬ってしまうような、そういう充実感もあるかもしれない。(笑)
・・・

しかしながら、それらはどれもこれも、

外から幸せが訪れるものだという「重大な錯覚観念」に取っ捕まっているのだ。

「あー楽しい、嬉しい、幸せだ・・」は、内なる感情の噴出にもかからわず、

外の世界から訪れる何物か、何者か・・だと、勘違いしているということ・・!。


外の世界はあらゆる事象の生起した「現象結果」なのにもかかわらず、

その「結果」の中から、幸せというお零(こぼ)れをもらおうとしているのだが、

未だかつて本質的な幸せ感など何度あっただろうか?





「アー助かった、良かった良かった・・」ではなく、

「体があー気持ちいい、爽快だ」でもなく、

「あーこれでひと安心だ・・」でもなく、


自身の内から湧き出す、無条件の「感動」のことだ。

大きい・小さい・多量だ・少量だとは次元の違う、

思考や計算、物量の過多とは縁のない、

内から湧き上がってくる・・感情のダイナミックな発動・・


人生の折々に、ふとした知験や経験がきっかけとなって、

全く無条件に「!!!」と込み上げてくるものだ。


たとえ銭・金・物に追われる日々でも、これは誰でも経験していること。

感情・・とは、活きて在る感動の・・その為にある「実感」なのだ。

金や地位や、知的集積や苦労の記録などは、なんということもない、

無為無臭の枝葉の造り物に過ぎず、

それらあらゆる人生での事象や経験から「醸し出される」ところの、

あるいは生育されるところの、

内から湧き上がってくる実感・・感動・・感情のダイナミックな発動こそが、


人生という、有限なる時空間舞台設定で収穫できるところの、

時空間をはるかに超えて在る、魂の成長進化の足跡、活きた記憶となるのだ。


・・・

感動なくして人生の意味があろうか?

あなたはどう感じる?

そんなの後回し? それとも誰も与えてくれないもの?

・・
実在する感動は、つまり「実感」とは、

内から発動せる無条件の感情であり、

人はその発動する内なる発露ルートを、自ら、普段から広げる努力をすることで、

さらに嬉しく楽しく、・・幸せだという実感が増大してくるのである。


何があってもなくても、つまり無条件に・・

「在ることの幸せ」を今でも実感できるのだ!


「あー、幸せだ・・」という内なる実感は、

そのうち、いつか・・、多分未来に・・では決してない。


今、ここで、そこで、既にあることを実感すること。

それがまた、それを呼び込む共振波動となる。

まず最初に・・・感動、幸せの波動を発信すべきなのである。

オー MY GOD!!

源とは、そこから全てが生起しているという意味だ。


あらゆる全ての事象、その中には物理的なものも、人間関係的なものもあるが、

それらの結果がどうしたこうした、これは大変だ、あれは期待できない・・とか、

そういうものは全く関係がなく・・つまり過ぎたこと!


今、無条件に・・「嬉し・楽し・素晴らしい・幸せ・・」を実感することで、

それにふさわしい、自らの存在する天地が現れているのである。

鋭敏な知力、蓄積せる知識だけではどうということもなく、

それを含めた「実感」こそが「創造」なのだ。



さて、あなたは自らが幸せであると・・「実感」できるだろうか。

なぜ、不幸だと言い張るのか? 助ける誰かを待っているのか?

世界の何かが変わるのをいつまでも待っているのか?



今ここに幸あり、・・いまここだ!

「えっ?どこに?」ではなく、

今、この瞬間、つねにそれしかない。

それが常に永遠であることに気付いているはず。

とは言え、取りあえずの現世利益等ではない、永遠の今・・ここだ。


その為には、今まで「そうではない」と、

あれが必要、物が重要、これが条件等と・・・、

繰り返し、言い続けてきた古い世間常識という嘘八百もある重い観念を外し、

自分の内面に戻って、幸せ感覚ならばそれを、

繰り返し、繰り返し、「実感」しなければならないはずである。



何があってもなくても、今在るということの幸せ、

人生は、感動という実りを収穫する為の、

富沃な大地であることを「実感」することだ。


生と死を超えて、いつも在る、常に在る・・そして今在る自分を見よ、

そう、自分とは・・、創造の根源光が自らを分けたもの、

創造の根源が実感を内に創り上げたからこそ、

あなたやわたし達というものが在り、

また、外なる表現宇宙という形で出現しているのである。


魂の根源から発する幸せの「実感」こそが・・・

悠久の時を超えてそれに沿った道を創り上げ、無数の生や死を超え、

波動共鳴によってさらに、嬉しく楽しきこと多い生命経験となる。






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

人の唯一の責務?

2016-03-05 18:14:12 | 人間とは何か
今はもうあらゆるものが飽和し、そして崩壊しつつ、新たな世界へと移行している。

世の人々の動きや地球上の様々な変化を見れば、それが分るはずだ。

物語に最初と最後があるように、3次元的世界には始まりと終わりがある。

高次元的世界の始まりは、すなわち旧次元世界の終わりなのである。

誰が決めた?というでもなく、それが多元宇宙の進化の法則のようなもの。

まるで、河の流れのように。





今のこの惑星文明は、宇宙でも稀有な時期に遭遇していることに気付くように、

今ここにいるあなたの永遠性「魂」が求めていることに、さらに気付けるだろうか。

過ぎたる銭や金や物、地位や名誉や権威、富や物質的資産など、全くどうでもよい、

グリコのおまけ以下の、まさしくお遊びの為の付録のようなものである。(笑)

・・・

●物質はエネルギー

繰り返せば、「物質」とは何かと言えば、

科学的な認識によってそれは、99.99・・・9%が空(くう)であるということと、

残りほんのわずかな存在はクオーク、即ち微小なる波動エネルギーであることが既に何十年も前に判明したのだった。

また物質というのはエネルギーの振動・運動に他ならず、塊としての「物質」などは全くの幻想であったということ。

これはチラと頭で知っただけでは意味がなく、その実態を深く「実感」すべきことである。

物質がどうしたこうしたというが・・、そのほとんどはスカ、空(くう)である。

あなたの物質肉体も、なんだか濃密で重いものだと思っていたはずだが、

すなわちほとんどが空っぽだったということだ。

おいおい、いまさらそんな。(笑)

目に前の、近くの遠くの、様々な物質なるものも、99.99・・9%は空(くう)。




「物質」とはスカスカ以下の投影像のごときもの、

実に軽やかな「エネルギー波動」であるというのが、実体説明なのである。

その高度な組織体である、あなたや私たちの叡智に満ちた肉体も、

物質的にはスカスカ以下の投影像のごときもの、

そう肉体は重い物質体というものではなく、エネルギー体というのが相応しい。

物理学ではE=MC2 (物質=エネルギー)は常識であり、

それは物質とエネルギーが等価であるという意味で、

五感で感じないエネルギーが、五感で感じられる物質になっているという事だ。

わーお、これって、信じられる?


●量子場で姿を現す物質形

そして、量子場での観察者効果でわかるように、

そのエネルギー波動に干渉し、作用し、どんな形態に仕上げるかという

上位の「変換函数」としての働きは、まさに「意識」と「意図」、想念によるものだ。

ここで函数と言う表現は、「意識的に入力したものが、様々な形に変換される」謂いである。

人の想っていること、心底そうだと意識的・無意識的に感じていることが、

つまり、無意識に沈潜して根を張った根本的な「実感」が

その主体たる意識の周囲となって投影されているのだ。

つまり信念体系は、世界を描き出す体系のことである。

チョット思ったことではなく、「決してこれ以外にない!」という信念、思い込みで描き出されるのが、諸世界、信念体系世界である。

まるで今までは、物欲のコチコチの石頭の世界?とでも言えるかもしれない(大笑)

・・・
同じく、また地球にある大自然、さらには惑星系、銀河系は、

それぞれの認識領域を包括する、より壮大なる意識と意図によって投影されている。

そして宇宙大自然は、人間存在の発展途上のゴテゴテした体系ではなく、

さらにより大きな「愛」と完全な「調和」で創出されている。




●空(くう)は無限のカンバス

「物質」とは何かと言えば、

有るようでないし、無いようで有る・・確率存在とでもいうもの、それがクオークだ。

あらゆる宇宙、すべては空(くう)の中の微細なエネルギー運動に過ぎない。

ぶんぶん動いているエネルギー、それは物質像が多次元立体的に描かれる画素のようなもの。

様々な存在形態、それらは、空(くう)に多次元的に描かれたる、様々な物質という、

有って無きがごとしの映像のごときものなのである。


●人は時空カンバスへ描く画家のようなもの
ところで、空(くう)に様々な物を描くのは・・誰だ?あるいは何だ?

微細なエネルギーによって空(くう)なるカンバスに、

活きた多次元映像を描き出すのは、つまり宇宙意識の「手」だ。




手と言ってもあなたの左右の手ではなく、大いなる意識に生じる「意図」のこと。

無限次元を内包する・・空(くう)の中に、

無限なる叡智、無限なる可能性、無限なる愛によって描き出されているのが、

ミクロからマクロまで完全に意識で浸透せる、つまりこの多次元宇宙なのだ。


無限なる叡智、無限なる可能性、無限なる愛というのは、

つまり古くから言われてきたところの「創造主」「神」「根源」である。

実に全ては、まったく「それ」で満ちているのだ!

誰も皆、どこもかしこも、あの世もこの世も、どこの世界であっても、それで満ちている。

あなたもまた完全無欠に・・それ・・神・・である。

そう、人も創造者たる神の相似形である。

いや意識を有する存在は、神の表現形であり、

またその永遠の息吹で活きている、また生かされている存在である。

神それ自身が自己投入して個別化表現を楽しんでいるのが・・存在、

つまり・・そう「あなた」でもある!





●今、やるべきことは一つ

我々の唯一の重要な責務があるとするならば・・・

・・我々は皆、神の化身だということに気付き、それを実感することだ。

知で理解ではなく、想像と感情を含んで自発的に「実感」することだ。

なぜならば・・それがそのもの・・自己創造だからなのだ。


空(くう)はあらゆる全ての根源ベース、母なるスペース、

空(くう)を全くの空っぽ、空虚と認識してしまうのは、

あれがない、これが足りない、もっと大量にという・・物質偏重心が故であり、

空(くう)は多次元相の包含されたそれ、無限の可能性のそれと認識するのが、

3(4)次元を超えた、言わば5次元以上に拡大された認識なのである。

あらゆるものが充満しているからこその・・「空(くう」なのである。


ミクロからマクロまで、完全なる調和と叡智に満ち満ちた世界の、

その真っただ中にあったにも拘らず、それにほとんど気づかず知らず、

あらぬ物質的幻影を後生大事に追いかけ回っていたのが、

今までの3次元的文明世界の姿であったということだ。
・・・

●根源は愛と調和

無限次元を内包する・・空(くう)の中に、

無限なる叡智、無限なる可能性、無限なる愛によって描き出されているのが、

ミクロからマクロまで完全に意識で浸透せる、つまりこの多次元宇宙なのだ。

無限なる叡智、無限なる可能性、無限なる愛というのは、

つまり古くから言われてきたところの「創造主」「神」「根源」である。


その神という概念を、何か闘う組織の長?などに貶(おとし)めて派閥でいがみ合っていること等、もうどうしようもないほど幼いのである。

神の手によって描かれたるエネルギー細片映像のごとき物質を集め、

集積し、富だ名誉だ力だと喚いていることの、実に愚かなことよ。

もう資本主義だとか、力外交だとか、戦争だとか、その後のNWOだとか、

相変わらずの等身大の、極めて狭い領域次元での孤軍奮闘やサバイバルなど、

物語としては飽き飽き、つまらな過ぎて、全く話の外ではなかろうか。

今、わずかな残滓としてある旧次元世界に、

それらが泡(あぶく)のように噴き出しているということの中には、

それ以外のどんな意味もありはしない。

さらば・・幻影のバブルよ・・!今そのフィナーレ上演中ということだ。

いまマクロ世界で行われているのは単にそれなのだ。

旧世界独特の恐怖とサスペンスを含む最終幕が行われている最中と言えようか。

・・・
われ・そして全て神成り・・それが自然

我々の唯一の重要な責務があるとするならば・・・

・・我々は皆、神の化身だということに気付き、それを実感することだ。

知で理解ではなく、想像と感情を含んで自発的に「実感」することだ。

なぜならば・・それがそのもの・・自己創造だからなのだ。


創造の仕組みに気付く者であれば、

全てが大いなる意識、神、創造主・・・、であり、

そして<わたし>も・・まったくそれだ!という自覚が、

まさに自然であり、また当たり前の信念となるはずだ。

ああそうだ、全ては・・まったくそれ、無限の叡智、意識、根源・・神、・・・

何と表現しようとそれだ。

それを「実感」することが、人の唯一の責務といえようか。


神と同調する言葉そして想念は、実際非常に高振動であり、

実感を込めて意識内面で繰り返せば、こころの歪を洗い落とす効果があるだろう。

これは実に・・高周波洗浄である。(笑)


以下は全て、同じ謂いの言霊(ことだま)表現だ。


I AM THAT I am.

われ・そして全て、神の化身なり!

・・

Oh! MY GOD!





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