気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは・・何か(19)夢見の話

2017-04-28 06:45:14 | 意識の拡大
人の存在の仕方のすべて、例えば24時間をみてみると、
大体7-8時間前後は眠っている。
そして残り時間は起き出して、いろいろ活動をしているわけだ。

人の日常のすべては、
「眠り」その次に「夢見」そして「目覚め」の状態がある。
大きく分けて、これ以外にはない。
今、生きて在る・・ことはこれ以外にない。
そうではないか?

眠りには生理学概念で「レム睡眠」「ノンレム睡眠」があるとされる。
寝ている人の脳波と眼球の動きで分けられる概念で、
寝ている時には、眼球が動いているときと、全く動いてない時があり、
あたかも何かを見ているかのように眼球が動く場合をレム睡眠、
まったく動いていない静かに静止している時をノンレム睡眠と呼んでいる。




しかしこれらは、今まで説明してきたように、他者の肉体の働きである。
自分がそうである(寝ている)・・状態の時に観察されるわけではない。
つまり他者の睡眠時の肉体の働きの現象観察である。
わたし・・の直接体験ではない。
科学的用語解説で、何か悟ったように感じ、あーそうかと素通りしてしまう、
ところが、
それらは、実は頭の概念だけであって、「わたし・・の実経験」ではない。
これが重要な3次元世界の・・お騙しポイントである(笑)。

夢見はレム睡眠中、浅い眠りであり、
そのときにはあたかも現実を見るかのように、眼球が動いているとされる。
その時は夢を見ているのだが、
見ている当人はそれが現実なのか、夢なのかわからない。

確かに、いま見ているものが夢だと分かっていれば、
悪夢で何かに追いかけ回されて、必死に逃げ回ることもなければ(笑)
夢の世界で、とんでもない場所や状況、あるいは嫌な過去の事象に遭遇し、
「ウワっ・・ギャー!」という思いとともに目が覚めて、
「ほっと」胸をなでおろすこともない。



こんなこと誰でも経験しているはずである。
これでわかるのは、自分の意識・・には、
夢も現実もまったく区別がないということだ。

意識にとっては、
これは現実だ、夢だという区別、識別がない・・ということだ。

これは極めて重要な発見ではないか?

目覚めて活動しているときと、現実から見れば明らかに異なる状況、
つまり夢見の世界を、それは・・へっ、夢見の世界だから・・と、
あるいは幻想世界だ、実際には違うんだ・・という判別や識別がない
・・ということだ。

つまり、意識の最前線、つまり知覚が働いているときは、
それが夢見であろうと、いわゆる日常の現実であろうと、
そこにはランク分けや真偽の区別、正誤の判断がないということである。

我々は実に重大な事実を逃し続けてきたのである。
わかるだろうか?

すべては、「私は肉体である」という常識観点がゆえに、
気づかず知らず、学校の先生も、親も友人も、知人も誰も教えず、
肉体レベルの知覚だけが「現実」だと、
社会が、組織が、生活が、金が・・、
だから頑張れ、がんばれ!と、苦痛と快楽の間に涙を浮かべてきた。

気づいただろうか?

つまり、
意識にとっては、現実も幻想もなく、
ただすべてが知覚対象であるということだ。


いやいや、夢はあくまでも夢だよ、この世の詳細現実とは違うじゃないか。
と言うだろうが、・・
それはあくまでもこの世、目覚めている時にそう言うわけで、

夢見の現場では・・あなたの意識は・・それが現実だと思っている。

そうでなければ、悪夢にうなされることもあるわけもない。(大笑)

意識にとっては、現実も幻想もなく、
ただすべてが知覚対象であるということだ。


わたしの視点が、
現象である外の世界、知覚対象の世界、
起きたこと・・過去・・の世界でなく、
それを観ている・・わたし・・に切り替わるだけで、
実に重大な・・・「観の転換」が起きるのである。

今生きてる・・ことを、何も調べず、ただ3次元的な常識観念のまま生き、
そして死ぬことで、また質的に同じ観念から始めることを、
この世界での輪廻転生と言っている。
肉体自我はそのつづきが見たいのである。

肉体自我、つまり想念の形が、この世界で死んでも生まれ変わるのは、
普遍的わたし・・意識、不滅のそれがあるからであり、

生まれ変わりの表現型である、そのときの肉体自我、
私は肉体である・・などと信じ込んでいる・・わたし・・は、
万華鏡の1展開画像、あるいは永遠のわたしの・・1コマなのである。

この世という夢を、夢と見破れず、強烈な思いと感情を味わっている、
苦痛と快楽に満ちた、それでも苦悩だらけで逃げたいと思う、
この3次元世界にはまっているということは、それなのだ。

つまり、
意識にとっては、現実も幻想もなく、
ただすべてが知覚対象であるということだ。


この世は幻想世界、もちろんあの世も何もかも、幻想世界である。
それを見ている、いや観ているものだけが、在る・・。

いまここに、・・いま・・そこに。






想念の根源(ラマナ・マハルシとの対話








夢の記憶170426 (洪水の前兆?)

2017-04-26 06:04:46 | 夢及び半覚醒時の体験記録

今回は、夢や半覚醒時での体験の記事。

わたしの場合、夢は毎日のように憶えている。
誰でも夢見があるのだが、それを非現実的なものとして捨てる人が多いため、
その中で得られる貴重なヒントや象徴を見逃すことにもなる。
だからといって特別視することもないのだが。
・・
夢見もいわゆる毎日の現実も、どちらも「意識」で観ている物語であり、
結局はどちらも同じ・・意識体験・・なのである。

今日の朝の夢見に、自然環境に関連しそうな強い印象があったため、
備忘録として記録しておくことにする。
必ずしも、「こうなってしまうかも・・」という、予知夢とは限らない。

・・・
わたしはどこかの町というか大き目の都会にいる。
新しい都会と古い町並みが混在する、日本によくある歴史のある地域だろうか。
関東のように一面の平野ではなく、山坂が比較的多い中規模の都市の感じだ。

わたしは周囲に水が増水してきていることを感じ取り、
「これは2度目なので?、早く避難しなければ・・」という想いに急き立てられ、
迷路のような街中をあちこち通り抜けている。
妙な建物の内部にある?キャットウオーク(非常階段や網目状の金属の床)や
商売をしているような街並みを、あちこち・・自在に通り抜けてゆく。

そのうち、いつものように、「随伴者」のような人影が後ろ側に並走している、
(自分の夢には良くこの、魂のガイドなのかエコーなのか、別の自己側面なのか、
良くお出ましになる・・笑)
今回は女性のような感じで、姿は見えないが若そうだ・・、
茶色い、先が少し多角形状のスリッパのままの感じ、観えるのはそのスリッパ(笑)。

「おいおい、スリッパで洪水?からの避難なんかい!(爆笑)

わたしは、
「家には帰る時間がないので、とにかく高い地域に行くしかない」という感覚で、
次第に水が浸水、増水していくのを観察する緊張感と共に、
比較的高度のあると思う・・けれども、それほど高くない土地に来たようだ。

ふと見ると、それほど遠くない遠景には、ゴジラではないが(笑)
”濁った水色のまるで人の手のような、怖くはない化け物”のようなイメージが、迫ってきている。
(洪水・・津波・だろうか?わからない)

「ここはどこか?」と思ったが、何か・・「坂本城?、阪本城・・」ということだ。
(坂本、阪本城?・・・なにそれ?、そんな城あったっけ)

夢の鮮明な記憶も、朝の目覚めの後ですっかり詳細を忘れることがあるのを知っているため、
ここで、何度もそれを繰り返し、憶えようとしている。

ここがとりあえず安全なのか・・。
確かに高い建物状?か高地か?森のようなエリアがあり、
そこに上ることにして、上に移動・している・・間に、
誰かに問いかけられた・・
「誰かが・何かをして来たら、どうしたらいいのか・○×△・・?」
みたいなことだった、が、何を返事したか・・憶えていない。


・・・
大体以上であるが、洪水あるいは、イレギュラーな増水の夢なので、
いつか、どこかの時空間で起きる可能性もあり、一応UPしておくことにした。

・・・
さかもとじょう・・、坂本城?・・はネットで調べたところ、
近江、琵琶湖の南部のほとりに実際にあったらしい。

・・えーっ?!?マジにい~?・・だったが、別に驚きはない。
潜在意識ではすでに知っている・・ということだろう。

また、夢見も現実も、質の異なる「意識の体験」ということであり、
夢の中には様々なものが一気に混在しているため、
一見意味不明と感じてしまうのも無理はないだろう。

夢も知覚の1形態であり、これを覚えることも体験なのである。




ウイキペディアにはこう記されている:
1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記している。





わたしとは・・何か? (18)われ・空(くう)なり

2017-04-25 16:13:28 | 意識の拡大
「色即是空」ほど森羅万象を表した言葉もないだろう。

我々すべては・・その中に在る・・。

その中といっても、<色>つまり諸現象の中にいるわけではなく、

実は空(くう)の中にいるのである。



中といっても、空(くう)には、距離も大きさもないわけで、

まさしく空(くう)という無限の中にいるということである。

さらに、無限の中に在る・・ということは、

無限”そのもの”であるということでもある。

あなたは無限そのものである。




・・

どうしてか?

例えば、物質科学になじんでいる人、学のある?人ならば、

何度もここで記事にしているが、原子核構造でいえば、

様々な物質、岩石、植物、建物、鉄構造・・あらゆる物質は、

ほんのスカスカの構造であるということだ。


スカスカというのはどの程度かといえば、10の-15乗ほどのもの、

そのスカスカの中に微小に点在するのは、エネルギー素粒子、振動エネルギーであり、

それすらも「不確定性原理」では、実体とは言えず、確率的存在であるとされている。


原子は大体が、0.000000000000001程度の密度なのである。

おいおい!、この体も環境のすべて確率存在なのか?

ああ、まったくそうだ。

全くのゼロではないが、ほとんど空(くう)と言って過言ではない。

我々の身体は・・それである。


私とは・・物質肉体だ・・というのも、この観点からして、全く変な話ではないか?


変化変遷するばかりの世界、

幻想として立ち表れている立体映像の世界で、

右往左往している人々、

なんだか世間一般の物質偏重観念が、嘘も八百どころか、

100000000000000001・・ほどの真実もないではないか。



問題なのは、いや何も問題ではないかもしれないが、

そんなことも何も知らず、真剣に考えることもなく、

ある見地からいえば、支配者に騙され続け、搾取され、

3次元的?常識の中で、自分を固い物質組成の産物だとでも信じ込んでいる、

そうい人々が多いということだろうか。

いや、あなたは違うだろうが・・。


さらには、その立体映画のような、現実という名の「幻想」世界で、

原子構造ではカスミといえるような肉体組成物を「自己」だと信じ込んで、

その肉体自我の生存のための、

様々な駆け引きや収奪、闘争、競争ゲームに明け暮れしてきたことであろうか。



我々は、肉体という形を伴って、この世界に自己顕現しているのだが、

それさえも、科学的知見でいえば、10のマイナス15乗程度の密度の存在であり、

残りの99.9999・・9パーセントは、何かといえば空(くう)に他ならない。


また実際のところ、その投影物たる肉体も、

根源の自己、神、意識、あるいは真我の発した「想念」の表現型に他ならない。



だから、・・・

わたしとは何か・・?と問いかけて、

かなり近しい回答があるとするならば、

わたしとは、それは  空(くう)・・だということだ。


私が肉体自我だ、俺だ、私よ、おいらだ、儂じゃ・・というのは、

まったくの観念ラベル張り作業、幻想のお遊びということがわかるだろう。


これは、

肉体自我をあえて否定するというわけではなく、

本当のわたしと勘違いして認識している・・その肉体自我は、

それは<もともと存在しない>ということなのだ。

肉体自我は、そう、ある時、ある所で生まれてきた・・ではないか。

そうだ、わたしの肉体は、その時空の中の・・<わたし>の1つの出現形式でしかない。


今までの、「私とはこれだ!」という観念、自画像、自己像そのもの、

自己認識像が、とんでもない虚像であったということである。

とんでもない虚像・・という表現をするのは、

それがさも、あたりまえのように、

苦痛や苦悩にゆがんだ顔をした自我映像だったからだ。




こういう観念体系で共同創造された世界での、嘘八百の幻想物語で生じた、

様々な感情のひずみ、苦痛、快楽は、それは実在か?といえば、

それすらも、さらに輪を描いたような幻想でしかない。(笑)

・・

そして、その、

幻想映画に気づいている者こそが、気づき、意識等といわれるものであり、

それ自体は認識対象、知覚対象として現れるものではない。

つまり、絵そのものではなく、画家のほうであって、

また、対象でなく、それを知覚していること・・それ、

存在と感じていること・・それ・・なのだ。

それは、まったくの根源、ソースであり、

それ自体は、決して知覚対象・・としては知覚できないものである。


またそれを根源とか真我というならば、

無限、空(くう)、全て、などしか言えないのである。

だって、見ることも聞くこともできない、それ自身、

客体、対象物でなく、それを見ている観ている・・ほうのそれ・・だからだ。



第一原因というか、何物にもよらず・・ただ在る・・としか表現できない。

しかしながら、<わたしは・・在る・・>と感じている。

ただそれだけの・・ものの中にある奇跡、いまここ・・

表現としてはなんでも「かすってしまう」が・・。

あちこちの対象や知覚、刺激を探し求めても、決して得られない、

在る・・が、まま・・とも言えよう。




わたしとは何か・・?というならば、

「特定」の答えはない・・というか、

無限というか、我々自体の存在形態を満たしている空間、空(くう)なのだ。


まことのわたしは・・空(くう)であるならば、

どうして時間・空間、場所や時間、存在諸世界に極限される必要があろう。


宇宙のすべては・・星々の存在する、

それは・それは・巨大な空間と思っているかもしれないが、

空間とされる・・・その空(くう)自体には、距離も時間も何もなく

ここからそこ、過去から未来、時間空間も何もなく

したがって、様々な惑星時空も、3次元や5次元という次元をも超えているのである。



ほんとうのわたし・・とは、それとしか・・指し示すことができない、

それ・・は何か、せんべいやサイコロのように指し示すものではなく、(笑)

あるいは、もとは空(くう)または、無限そのものであるというしかない。


そうは言うけどね・・とか、あるいは現実がね・・と言う、

その私の身体は・・、

99.9999・・・99%の空間と、0.000・・・1パーセントの素粒子エネルギー。


その素粒子エネルギー、物質波動なるものは、

元は根源意識の発する想念の波の、さらに次元降下した粗大波動、

幾重にも多重、多次元に出現、交差する定在振動、伝搬波動なのである。








わたしとは・・何か(17)意識:在ること

2017-04-22 08:45:09 | 意識の拡大
わたしとは何か・・と問いかけること、
それを突き詰めてゆくと、
「私は肉体である」・・という常識観念は、
あくまでも観念、つまり思考であり、
まったく真実などではなかったということだ。

「事実」・・というより、
そういう「思い」だったということだ。

結局私は肉体だ・・は・・
後から付加した「思い」であるにもかかわらず、・・
あたかも不変の事実のように、思い込んでいたということ。

簡単に言えば、<肉体である私>とは思考の産物である。

思考なので、それは出ては消えるもの。
あるいは長く信じられてきただけのもので、
実際には、相対的なもの、幻想といっても良いものである。

私個人・・とは幻想なのか?
そうは思えない・・、と”思う”・・だろうか(笑)。

だって、体があり、五感があり、思考があるからだ。

それを「存在している」というならば、
存在していること・・・。
そこにあるのは、ただ、

身体を知覚している・・気づいている、
身体や環境を知覚している・・気づいている、
環境や宇宙が知覚されている・・気づいている、ことだ。
さらに、
それらに対して思考や感慨、感情が起きること、・に気づいている。

知覚や想念の背後にあるのが、気づき、・・意識・・である。

確かに、意識する、気づくことなくして、
それがそれとして「知覚」されることはない。
あなたは情報が通過するだけの単なる箱モノではなかろう。

つまり、
私と思われる事象の背後に、背後に引いていくと、
気づき、意識が見いだされる。

ならば、
わたし・・とは、本質的に「意識」ということになる。


五感の知覚の背後には気づき・意識がある。

そして思考や想念の背後にも、気づき・意識がある。

ここでまた、
肉体があるからこそ、気づきや意識がある、と考えるのは、
それも思考や想念であることに注意しなければならない。

そうではなく・・!
気づきや意識は、それそのもの!・・自体で成立している、
第1義的なもの・・根源からのもの・・、
何にもよらない・・それ・・そのもの・・!

言葉や文章、想念、思考であれこれ説明できない・・
<それ>・・なのだが、
それこそ、それぞれが・・自ら・・<気づく>ことなのだ。


(空(くう)に出現する意識が波動を作り出している・・何か・感じるだろうか・・、)

・・・

想念のように他者にあれこれ、説明できない、
これ、それと言われる・・それ!(笑)

・理解可能だろうか?・・とはいうものの、

思考や想念だけでは決して分からないだろう。
考えても、どこに行こうと、何を発明しようと、無駄である。
思考ではたどり着けない・・波動域・・というのがわかりやすいだろうか。

それでいうならば、存在の最も振動数の高い、波長の極微の波動・・、
大きい波長は、小さい波長を作れないようなもの。
粗い振動数は、細かい振動数を作れないようなもの・・だ。


知覚、思考、感情などの背後にある・・

気付き、<意識>は、

肉体ではなく、物理現象ではなく、想念でもない、

そのすべての背後にある・・がゆえに、

時間空間を超え、・・

何にも依らず、

それ自体・・で在る!・・ことなのだ。


物理現象は説明は可能だ、思考もそれを説明できる、・・が、

気づき、意識・・は、自らで気づかなければならない、

それというしかない・・のだ。



ただ、人にあっては・・・自らで、

物理現象を観察し、肉体を観察し、さらに内側、自らの想念を観察すること、

マインド、こころを・・それが幻想だと識っている・・普遍意識というか、

そこまで引いた・・静寂というか、空(くう)というか、無限というか、

それが本当のわたし・・真のわたし・・真我・・といわれる、

・・・それだ。



ラマナ・マハルシ(真我:根源への直接接続)

誰かの朗読がユーチューブでUPされたものだが、
ここには、2500年前の仏陀の言葉と変わらない、きわめて貴重な教えがある。
誰がUPしたのかわからないが、
文字通り・・有り難い・・ことだと言わざるを得ない。

スピリチュアルで、よくポータルが開いている時期?・・とかいうけれど、
本当のところは、宇宙や時空間の中に開く窓?
魂の本質とかかわりのない、宇宙物理学的な話などではなく、
それを超えたところの意識の窓ととらえるべきであろう。

UPされている今の時期に、静かに何度も聞くことで、・・
<それ>・・・真我をうかがい知ることのできる、
その甘露の泉の淵まで・・
どんな転生の時代よりも、より早く行きつくことができるだろう。



すべては、意識である・・。

意識の中に宇宙がある・・。

わたしは意識であり、宇宙はわたしのなかにある。




わたしとは・・何か(16) 意識の再認識

2017-04-20 05:15:14 | 意識の拡大
わたしとは何か?・・それを探求してゆくと、
それが思考、想いで創られていることがわかるのである。

わたしは存在しているという確かな感覚・・の上に、
「あーこれが私だ」という、肉体個人の想いが強く付随している・・ということだ。

通常は、その連続する自己感覚の思い、記憶によって、
それが「私だ・・」という感覚を作り出している。

その感覚は主として肉体五感の記憶、習慣によって、
「わたしとはこの肉体である」という実感になっているのだ。

そして「わたしは何か」という問いによって、
あえて答えを探すと・・、
「わたしはこの身体である」となるのである。

そうではないか?


身体の感触、皮膚の感触、手足の動きの触覚、歩く・座るなどでの他の者との接触感覚・・。
目で見える風景、景観、様々な世界の景色。
様々な音が耳を通して聞こえている・・。
食べ物、飲み物を口に入れ、それが口内で醸し出される味わいを感じている。
様々な事物のにおいが鼻口を通して感じることができる。

そして、
それらに関連する様々な想い、イメージ、感情、思考が起きている。
さらにそれらの連続する記憶がある。

これらは、身体機能に付随した「五感の」感覚と、
付随して起きてくる想念、思考、感情などである。
人は皆、毎日毎瞬間、この感覚と思考、想念、感情のただ中にいる。

これらが日常生活のすべてを形作っている。
あなたが会社員でも、主婦でも、何であっても・・。
・・・

しかしながら、
それらの五感感覚は、常に定量、機械的に感じられるわけではなく、
「意識」によって薄められたり、
あるいは強調されたり、無視されたりしていることに気付くはずだ。

・・
何かの作業に没頭しているときには、周りの出来事にほとんど気づかない。
何かを集中して考え、イメージの連鎖に没頭しているときも、
何かに悩み頭を抱え、爪を噛んでいる時も、(笑)
自分の周りに何かがあっても、誰かがいても、そのことに気づかない。
心ここにあらず・・の時は、周りの事象に気づかない場合があるだろう。

つまり、明らかな経験として、
われわれの意識、または注意・・、注視などが、
なにかべつのものに集中していると、
五感による感覚は、薄れたり、ほとんど無くなったりもするわけである。

もっとも、五感情報は常時あるものと思われる・・が、
それを・・それとして、存在感覚として浮かび上がらせている・・のは、
「意識」であることがわかるのである。


例えば、「意識」は水道の蛇口であり、
それを開け閉めすることで、水の量を決めている、
つまり意識によって、
存在感覚そのものを大きく変えているということなのである。


意識、気づいていること、注意集中など・・という
定量的でないもの、物量では計測できないもの、
経済社会では相手にされない(笑)・・意識、

その<意識>の働き・・というものによって、
我々自体の身体感覚や、周囲の状況というものが、
大きく変化するということである。

意識の働きによって、存在状況が大きく変化するということだ。

極端に言えば、事物の存在の有無さえも、関わってくる!
意識の働きによって、事物さえも存在、消滅させることになる、

と、そういう表現をすると、存在させたり消滅させたり・・って?
「そんなわけないじゃん・・!、あるけど見えないだけじゃないか、
そりゃ言い過ぎだよ・・」
となるかもしれない。


存在の感覚・・感覚だけならば、別に・・
どうということもない、と思うだろうが、

感覚、知覚、そして思考による認識、
それらが我々の「世界」を形創っているのである。

物質が勝手に形作っている・・ように、
いつのまにか教わっただろうが・・(笑)、
それは最悪の嘘というより、誤解、無知なのである。

知覚しなければ、それが存在として認識されることはない。
それらすべてを通じているのが、意識、気付きと呼ばれているもの。

そして、想いや想念、イメージはその派生波動と言えるもの、
なぜならば、想いや思考、感情を・・観ている、感じている・・
気付き、意識があるからだ。


思考や感情で動き回っている場合はそれに気づかない、
洗脳催眠状態もそのうちの1形態、思考やイメージに入り込んでしまっている。
ところが、
思考や感情を・・観察できている場合は、気付いている人には、それが分かる。
それというのが、「意識」「気づき」といわれるものだ。

ここには実に大きな重大な、意識次元ギャップ・・のようなものがある。

・・・

わたしたちは、この世界の、小さな小さな、
世界とは関係のない、ついでの「お邪魔虫」ではない。(笑)

例えば、わたしの人間関係、周囲環境世界、
当然ながら、視覚に映ずる無限に遠くの天空の星さえ、
わたしの世界なのであることを忘れてはいけない。

私がいなければ、私の存在感覚でできているそれらはどうやって現れる?


意識、気づいていること、注意集中など・・という
定量的でないもの、物量では計測できない、そういう、
<意識>の働き・・というものによって、

我々自体の身体感覚や、周囲の状況というものが、大きく変化している。

意識して集中して何かを見ることと、
漠然とぼんやり見ることとは、同じではなく、
まったく天と地の違いなのであるが、
すべてが客観的、物理的、計量であるという唯物的観念によって、
この事実が・・見えていない・・ということなのである。

人は皆、共同創造主だ・・などという言い方がある。

「嗚呼・・そうか、何か、どこか、いつかそうなるかも・・」
という漠然とした、ウルウルとした、
気持ちの良さげなイメージを持ったりするかもしれないが、

今すでに、そうだと言っているのである。

今・・意識している・・存在している・・こと、そのもの、
<在る>ことそのもの・・が、すでにそうなのである。

快不快、大量少量、富豪貧乏、満足不満足、女らしさ、男らしさ、
それらの思考や思いに関係なく、

今すでに、そう。
今・・意識している・・存在している・・こと、そのもの、
<在る>ことそのもの・・が、すでに「証拠」なのである。

証拠が大きすぎて、逆に見えず、
あるいはそんな簡単な訳ないと思い込み、
それより、
お金持ち生活や権力者になることはがきっと幸福だと、
そういう経済・社会システムの刷り込み、「印刷思考」に動かされ、
外の物質なるものでできた世界の、
どこか違うところばかり探してきた。

それが今までの3次元世界での生き方?だったろうか。


問題は、意識の表面に・・根強くある歪、
想念、刷り込み、思い込み、マインドの付着振動のようなものだ。

そしてそれが、習慣として根強いからこそ、
すぐに何も変わらないではないか・・・・となるのだ。

したがって、それが、
何十年も、ある意味、何百、何千年ものマインドの習慣であるならば、
真剣に、人生という時間を掛けて、取り払わなければならないのである。

ファイト・一発! リポビタンD・・なわけないやん。(笑)
「お金や思考で・・一発~!」・・で変わるわけもない。


外の世界の、どこか何かの、何か良いことありそうな、
あるいは不都合極まりないはずの・・思い、思考に、
あまりにも・・意識を集中している・・
その愚かさを・・識(し)る時なのである。

自らの意識で作っている・・その自らの世界に、
完全にはまり込んで、あろうことか、苦しみもがいている・・
それはもう十分だということなのだ。

身近なわかりやすい表現でいえば、
意識は存在感覚というものの「水道の蛇口」のようなものであり、
そうであればこそ、
「意識」によって、我々自体の身体感覚や、周囲の状況というものが、
大きく変化するということである。

極端に言えば、事物の存在の有無さえも、関わってくるのだ。
まっとうなスピリチュアル系で、
意識・・、意識・・と表現されるものを、
頭だけで考えているだけでは、その真意は見えない。

実際に、現実の存在として、今ここに「意識」がある!
だからそれにふさわしい世界が出現しているのである。

そして、それは外ではなく、
わたしの意識のうちにある・・ということなのである。


わたしとは何か?と問うているのは、・・誰?

・・少なくとも、その答えとしての、
「私は単に肉体でしかない」という・・考え・・は、
文字通り、それは単に思考、思い込み、想念形でしかない。

そう、いつでもどこでも、世界中で、
俺が、私が・・!と言っている肉体自我は、
「私は単に肉体でしかない」という想念だったのだ。

わたし個人としての我(われ)、自我とは、つまり想念である。


さて、くどいようだが・・、
それでは、本当のわたし、真の我・・とは何だろうか?