気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

地球の多層の意識領域

2010-03-22 13:54:42 | 心の科学分野

●モンローによるフォーカス(意識領域)の階層構造

我々の生きているこの世界、地球という時空の仕組みを理解する為には、ロバート・モンローの名付けたフォーカスレベルという意識領域の地図は欠かせない。彼は音響に関するエンジニアであり事業家でもあったのだが、その音響に親しむうちに体脱体験をするようになった。

音響の特定の周波数が人間の意識に干渉し、その意識レベルを微妙に変化させるという事実を自ら体験を通じて追及してへミシンクという技術を確立した。左右の耳から一定の差のある4ヘルツ程度の周波数の音を聞く事で、意識レベルが変化することを助けるというものだ。

これは、禅や深い瞑想の境地への科学的なアプローチに違いない。ここで科学的というのは、比較的誰でも容易に行なえる、容易に再現可能な技術であると言う意味においてである。

しかしながらへミシンク技術は人間の意識に関するものであり、物質的な計量や測定のものではない。物体の動きやエネルギーを測定し計量して、眼に見える物質的な成果を出すような類のものではないということだ。

極めて純粋で不動の・・と言っていいような、人の意識の境地、いわばこころの状態に行き着くための新たなアプローチの一手段でもあるだろう。

 

●へミシンク等も衆生救済の為の現代版か?

現れた結果だけを、また、現れた現象だけを数式で説明し、それを利用し、2次加工して生活の役に立てるという資本主義的、物質文明的な有り方や信念はもう既に時代遅れとなっていることに気がつく必要があるのだ。

へミシンクに代表されるような意識の領域への気づきは、人間の本来の目的の1つである「意識の拡大・進化」の道は、それがたった1つではないということを意味しているのだろう。

昨今は、このような人々がわかり易いと感じる方法が流布されつつあるようでもある。

いつも大きな変化が訪れる時には、それを助ける様々な教師が現れるのは歴史の必然であろう。それは何も、いつもイエスや釈迦のような馴染んだ現れ方ではないはずだし、特に今の時代の特徴としては、どこにでもいるような人々が、新しい技術や思想をもたらす形で出現してくる場合があるものだ。

 

●覚醒は一人一人

天からのファンファーレが厳かに鳴り響き、いかにもセンセーショナルに事が起きるという等というイメージは、多分に幼児的な期待を意味し、またそれは他者依存的なこころの停滞を示すものだろう。

真実はいつも静かに、そして微妙な形で現れてくるものだ。その見えるような見えないような真実に、それぞれが内面から気づく行為こそが、我々の魂の喜ぶ体験であり、逆に外からのド派手な宣伝的教示などは、いつもながらの何事かの利益誘導でしかないものだ。

 

R.モンローのいうフォーカスレベルについては、ここ2-3年来日本でも坂本政道さんその他が多く著作を出されているのでご存知の方も多いだろう。

 

●地球にある複数階層の意識領域

(以下はブルース・モーエンの著作「ブルース・モーエン 死後探索」から参照)

 

フォーカス C1

  物質的世界、物理的に生きている人間の意識領域。(p225から参照)

  我々が今馴染んでいるいわゆる三次元世界であり、1度に数十年~百年前後の滞留期間が許されるところだ。

 

○フォーカス 22

  まだ死後の世界ではないが完全に物理世界にフォーカスしていない人間の意識領域。麻酔、昏睡、酔いつぶれ等の人間の意識領域。(p226から参照)

高熱でうなされたり、麻酔でふらふらになっている場合に存在するのだろうか。確かに身体感覚よりもそのときの不快な意識のほうに自己を集中しているようだ。

 

○フォーカス 23

  死後の世界で一番近隣の領域。突然死んでしまっても、死んだこととは思っていない人間の意識領域。(p227から抜粋)

肉体が機能を停止しても意識体はリアルに存在するため、急に死んだ人間はそれが理解できず、未だ生きていると「思い込んで」いる状態だ。いわゆる幽霊などもこのような混乱状態の意識であるらしい。物質的状態と非物質的状態の狭間にいる意識状態、囚われの状態でもある。

 

○フォーカス 24,25,26

  信念体系領域。(Belief System Territories:BST)

フォーカス23の住人が、自分の作り出した個人的な世界に孤立して囚われているのに対して、その次に位置する人間野意識領域では、死んだ人達は集団が作り出した世界に囚われている。(P228~229から抜粋)

特定の集団的な信念、例えば宗教や思想に固まった観念が作り出す世界であろう。○○教だとか、××民族意識だとか、狂信的イデオロギーだとかの共通信念やこだわりで同調集合する意識領域のようだ。

なかには地獄のような囚われかたを選択している世界も、天国のような囚われかたを選択している世界もあるようだ。

ある意味では、相対的な信念領域の、ピンからキリまでの意識の周波数帯域ともいえるだろう。どちらも善悪、好き嫌い、上品下品、光と闇のような2元的な世界に変わりがないといえるだろう。

 

○フォーカス 27

 人間の死後の意識のうち、最後の領域。

BST(信念体系領域)を取り囲む次の層の領域。この意識層の住人は、特定の信念に固執せず、囚われず、想像しうるかぎり、どんなふうにでも自由に存在することが出来る世界。(P230)

ある意味でここは地球という生存フィールド・次元へのプラットホームのようなものだろう。本来の高次の自己が居る次元領域でもあろう。例えばあなたが複数の過去生を思い出すということは、より高次の自己に気づき始めたということだ。

「わたし」は常にわたしであるところの者なのだ。卑小に感じる段階の「わたし」も、より高次の「わたし」も、常に「わたし」であることを忘れるはずもないのだ。

 

○フォーカス34,35

モンローによると、フォーカス27を超えたところには、人間でないものの意識領域があるという。モンローはOBE(体脱)による初期の探索で訪れたそういう領域のひとつを「大集合(ギャザリング)」と呼んでいる。・・中略・・ここで私たちは、他の惑星や、他の宇宙や、他の次元から来た知性体たちとコミュニケートすることができる。(p230~231)

ここでいう人間・・というのは我々人類を示し、地球で生きている、意識をもっている知性体という意味であろう。確かに宇宙は無限であり、その中には様々な段階の世界と知性体がいる。その知性体は地球の意識周波数の外れにいるということも理解が可能だ。

これを例えれば、1つの学校に乱入する他校の生徒がいないように、地球にはその仕組みと学習教科のようなものがあり、例え親族、友人といえども勝手に干渉移入等は出来ないようなものだ。

あるいは、またそのようなフォーカスレベルの位置には、だぶん、高次といわれるあなたと、それを取り巻く数限りない友もいるのかも知れない。

これは驚天動地の考えではなく、また別段不思議でもなんでもないような気がするのだが。

 

・・・・

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●真実は一面だけでは見えないもの

古来から伝えられてきた世界の諸相、地上界、霊界、天界等は、我々の意識の段階に応じて現れている世界を示す。地球においても多層の世界が、ある意味でその波動の位相や周波数の違いだけで共存しているといえるのだ。宗教くさく色づけされてしまった感がなきにしもあらずだが、時空の多層構造はウソも隠しもなくまさにその通りだといえるだろう。

簡単に言えば、我々の認識するこの地球という惑星の時空構造は、我々の今なじんでいる物質レベル、すなわち三次元レベルだけではなく、多層の異なる存在次元で構成されているということである。

その根幹にあるのが「意識」という存在形態である。我々の意識の内容すなわち周波数によって同調する世界が複数あるということだ。

我々がこの世界に周波数的に同調しているのは、すなわち生きているのは、我々の三次元的な肉体による同調、チューニングのお陰である。当然頭脳も高度な情報変換機能をもっているのだが、しかし頭脳それ自体が世界認識を生ぜしめているのではなく、意識的存在たる魂の波動の送受変調を行なっているものだろう。

電波の例でもわかるように、全ては波動の伝播・同調・干渉によるものであり、我々はその無限の意識の大海に生じる様々な波紋を個性的に表現している者ともいえるだろう。

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あなたもわたし達も、今は、主として、地球という存在時空の1つの次元、いわば物理層に意識的に「居る」ということなのだ。我々の多くが馴染んでいるこの物質的世界、いわゆる三次元認識の世界が全てなどということはなく、それはただ単に1つの意識的な存在層でしかすぎないということなのだ。

我々の世界はこのように無限に広く見えていたとしても、それはただ1階層だということなのだ。現代の宇宙探査はその1階層の奥行きを探査しているだけのことだろう。見つかるのは三次元的世界でしかないだろう。

 

●人は高次元から次元降下している者

また本来の高次の自己は、この地球という存在フィールドで体験をするために、もっと高い次元からこの地球に転入してきたものであり、いづれはその広く高い意識の位置に還らなければならないのだ。

地上での体験、それを例えれば、ディズニーランドでクマの厚くて重い縫いぐるみを着て遊ぶようなものかもしれない。遊びがそのうちマジになってしまい記憶を忘れてしまったようなものだ。

そのうち縫いぐるみの中で生まれ、縫いぐるみの中で死ぬような体験になったのだろう。記憶を忘れるというゲームなのかもしれない。

生と死を超える意識を再び取り戻すためには、R・モンローやブルース・モーエン達に限らず、様々な先覚者の探求報告や教えを知るべきであろう。彼らは、目くるめく豪華でまた悲惨な遊技場や賭博場もあるこの体験ワールドで、眠りこける人々を目覚めさせるという、結構な仕事人なのかもしれない。

私なりに言えば、彼らも愛すべき教師達であろうし、次元降下している大勢の我々が、その時代時代に見失いかけそうになる「灯り」を思い出させるための光のガイドともいえるのだ。

 

●人類、思えば遠くに来たもんだ

武田鉄也の歌ではないけれど、人々のカルマや人生の難しさとは、本然の自己の自由さと無限の楽しさを真に判る為の反面教師のようなものであり、そのための仮の、また刹那の苦労と艱難にすぎないのだ。

この地上での体験は、何がどうであろうと、どうってこともないものだし、実に楽しい嬉しい遊びなのである。

それに気づくかどうか・・ただそれだけのことなのだ。

人生は闘い?・・・だから、それがどうしたというのだろうか。

我々は、額にしわ寄せての小難しい演技はもうやめにしたがいいだろう。争いも競争も物欲もどうってことはないのだ。多生を通じて繰り返して疲れるまでの遊びのようなものだ。

生存競争?・・・だから、それがどうしたというのだろうか。

競争しないほうが遥かに生きやすい大自然を見ればいい。我々は大自然の有り方を誤解していることに気づくべきではないか。捕食による弱肉強食だけを抽出し、それを信じ込んで様々な不都合を勝手に創出しているのは、確かに人類だけだ。

世界が悪くなっている?・・・本当にそうなのだろうか。

ただそのような想いに同調して「不安」や「恐怖」を楽しんでいるだけなのではないか。

地球の環境は人類の所作・想念に応じても様々に変化してゆくが、地球自体は自己フィードバックの効く自動調節機能があり、何も困るわけではないのだ。そういう不安な想いや人類の欲得の所業によって世界を悪くして困るのは当然ながら人類のほうなのだ。

 

ここが肝心要(かなめ)ではないか。

数十年の人生も、全てはあなたやわたし達の心模様の作り出す影絵なのだ。

影絵芝居の主人公は他者ではなく、常にあなた自身の手であることに真剣に気づけばいい。

そうすれば他者にせり勝とうとか、怖れるとかは単なる1つの物語でしかないと大悟できるだろう。弱肉強食、生存闘争、・・・大勢で信じ込むような、そんな立派な物語でもない。

 

本来、真・善・美・楽々・豊富。

幸せは追い求め続けるものではなく、

いつもここにあり、

いつも、永遠の今にいるということにある。

宇宙・大自然に生かされている事実に気づけば、

生きていることにどうしても感謝せずにおられないのだ。

・・・

また、皆々もそうだと気づけば、

皆々にもこころの底から感謝せずにおられない。

嗚呼・・

 

ここが 肝心要(かなめ) なのではないのか。

まさに、この今の瞬間の有り難さに驚く他はない!

 

一切唯心造

 (いっさいゆいしんぞう) 「華厳経」

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。


解脱のプロセス(4) 神なるもの=自己認識

2010-03-14 11:28:36 | 心の科学分野

●無知の知

わたしは「わたし」である、という言葉を表面的に捉えれば、なにを言っているのかわからないだろう。

それは、至極当たり前のことである。たしかに、わたしは「わたし」なのだから。

まさに当たり前のことのようであるが、しかしながら、わたしは「わたし」である、という「わたし」とは何であるか、それを理解している人はそう多くないだろう。

投影された外世界のみを見て、自己自身を観ていない間は、ヒントすらも見えないかもしれない。

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その昔、デルフォイの神殿の前に掲げられていたという言葉、

汝ら、汝自身を知れ」 という問いかけに感じるものはなんだろうか。

それは永遠の未来でしか解らない謎かけだと感じるだろうか。

いかにも哲学的で、思わせぶりな無理難題・・と感じるかもしれない。

 

●汝自身を知れ・・への一つの答え

・・・

あなたとは何か。・・

えっ!わたし?・・そういえば・・わたしは一体・・なんだろう?

あなたとは多分、生まれてここまで生きてきた経緯のこと、すなわち記憶を指して「あなた」を説明するだろう。それ以外は、多分・・「記憶にございません(笑)」ということであろうか。

すなわち、通常自己だと認識しているあなたは、「あなた」の生きてきた、過去の記憶のことであろう。

・・・

あなたは何か。それを知るすべは、

「汝ら、汝自身を知れ」という謎の言葉のなかにある。

  

「汝は何者か?」

と問われて、答えるべきは、

わたしは「わたし」であり続けるところのものである。・・・

という当たり前の、しかしながら根本的なあなた自身の存在原理のことである。

わたしは「わたし」を知り続けるものであり、あるいは自らを発見し続けるところのものであり、また「わたし」は、自らを探求しつづけるところのものである。

それを面白くも無い、平たい言葉で言えば「自己認識」という。

またそれは、自己を自己として観ている有様のことを言うのだ。

これは個人主義ではなく、コスモポリタニズムでもない。

皆々が生きて在る、原点たる、今のこの瞬間に気づくことなのだ。

本然のわたしである・・ことへの目覚めである。

それはまた、

神なる者たちの集団自己催眠を解き放つための、

また三次元という遊び場からの解脱の必須なプロセスでもある。

 

限りない宇宙、また数多の海の砂のごとくある諸世界は、それら全てを含む大いなるものの自己観想、自己認識によって現前している。

それを神の宇宙創造とも言っているのだろう。

低次元も高次元も、無限小も無限大も、その中に全てを含む根源たるものの自己観想であると言えようか。

そう、神とは「神自身」を知り続けるところのものであり、

同じく、

また、あなたは「あなた」を知り続ける者である。

 

「今」が常に永遠の瞬間であると悟れるものにとって、

わたしとは・・・

永遠に「わたし」で有り続けるところのものであるということを知るだろう。

 

そう、あなたは「あなた」でありつづける者である。例えば、今生で思い浮かぶ過去という記憶は、その1断片にしか過ぎないのだ。

あなたが「どこの、何々という者で、どうこうして、こうして、こういう名前である者だ・・」という通り一遍の答えは、

言わば、自身の相対的な投影の数々の断片、単にそれを言っているだけのことなのだ。

田中太郎、山田花子・・という世間に存在する通り一遍のあなたは、あなたの一面であり、全てではないということに気づくだろうか。

それは人生という道を、振り返り、ここまで来た「軌跡」を眺めているということを示しているだけのことなのだ。それに終始していれば、我々は体験の「記憶」の集まりであり、その体験をもたらすところの「肉体」であると考えているに違いない。

あなたとは、過去であり、また記憶でしかないという想いが、「あなた」を「今」の瞬間瞬間に固定定義付けしているのだ。またその体験群の基盤となる身体を「あなた」と認識している。

今のこの時空における集団的な自己認識作用の流れに浸かっていることに気づけるだろうか。しかもその流れからは、ほんの数十年で離脱しなけらばならない定めだ。

単に、世間の価値観や信念体系を取り入れている・・というやり方で、自己を認識・規定し続けているだけのことである。

あなたは、いつもあなたと自己認識している存在なのだ。

今という瞬間に、永遠のなかの1コマに描かれた自己の姿を観ている、「あなた」自身気づいただろうか。

 

●人間とはいわば自由自在神

自己を観るということは、自己を認識し続けているということであり、自己をその都度創造している・・ということなのだ。

いわゆる三次元的なあり方とは、自己認識作用、すなわち創造に参加していることに気づかない無意識的な在り方のことであり、自己は1小片の肉体であると・・と思い込んでいる有り方である。

また、それから逃げようとする行為と、そこに無意識に自己投入しょうとしている行為とは、同じ次元の単に方向の違う動きでしかない。

遥かに見晴るかす位置にあるためには、自己の意識で創りあげる梯子を上るだけのことである。

自縄自縛も解脱も、まさに、自由自在であるからこその選択の結果でもあるのだ。

心底笑えるような、宇宙的な冗談であろうか。

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人とは、

想いという無限に多彩な波動を通じて、

部分から全体を眺めるべく、自らの次元を自在に調律する存在のことであり、

全体を常に全体として観ている大いなる意識、

すなわち「一なる創造の根源」から放たれた無数の「不壊(ふえ)の光」であり、

またそれは根源からの愛という波動ともいうべきものである。

その光・波動は、あらゆる可能性を内包し、

無数のあなたやわたし達という存在に結実しているのだ。

汝自身を知る・・・・当の者は、

知識の多さではなく、

分別の多様性ではなく、

経験の過多でもなく、

今のこの奇跡の瞬間を感じている者のことである。

「わたし」というものの無限性を観じていることである。

それは検証も証明も論理性も不要の、

素のあり方のことである。

素のあり方とは、

有限でありながら、いつも無限を感じているあり方であり、

全ては究極でひとつと、識(し)っていることである。

それは、感謝が普通に溢れる感情のあり方であり、

あるがままとは、

人も岩も川も草も、太陽も、月も、惑星も、銀河も、銀河団も、

そして、父も母も、教師も同僚も、悪人も善人も、すべて仲間たちであり、

無数の仲間と一緒に参加し生きている、

この今の一瞬に

こころの底から感動出来ることである。

  

 

●いつもある「あるがまま」

生きていることは、

決して労苦ではなく、そのままで楽しいことなのだ。

また、それを悟るまでの、

今までの人類の長い道にも、非難と中傷ではなく、

感謝と賛辞を捧げるしかないのだ。

・・

今はもう、

勇気と潔さをもって、静かにこころを観想し、

ありもしない「労苦」というオモチャを片付け、

こころ固まるだけの「執着」という糊を手放し、

おのれの影法師である「死」や「怖れ」を放り投げ、

生存競争という建前、我欲という看板をたたみ、

・・

いつも在った、また常にそこに在る、

「あるがまま」に帰還すべき時なのだ。

確かにそれは、いつも「今」という瞬間でしかない。

あなたや私たちが、何事にも区別を設けず、分類せず、

また、どんなものにもその意味を感じ、

どんなことにも感謝が出来れば、それは「あるがまま」の道にいるという証である。

 

 

流水、

無心にして、

落花を送る    (「従容録」)

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有り難うございました。


解脱のプロセス(3) 無心

2010-03-07 14:13:48 | 心の科学分野

●無 心

「無心になる」という言葉は誰しも良く聞くことだろう。

それはある種の「極意」のような話でもあるし、確かに達人や覚者に共通する意識レベルのようでもある。

目的を達する為には、障(さわり)となる「おのれのこころ」を静めると捉えることもある。

また、こころの平安を得るためには、常時変遷変化するこころに振り回されない「境地にいる」必要がある、とも理解されているだろう。

日常の芸術やスポーツのみならず、おのれの内奥で感じるところの何かを達成、あるいは創り上げる場合でも、

当初はこころ、すなわち想いや感情のエネルギーを使って現実化してゆくわけであるが、

ある到達レベルにくると、このこころ自体の「思いもかけぬ」イレギュラーな働きが障りとなってしまい、思うようにいかないことにも気づくものだ。

何でもいい、その道を極めた人、あるいは達人と呼ばれる人々はなおさらこのことを良く知っているはずなのだ。

多くの人々が、人生という道における、こころの働きにもう気づいたことだろうか。まさか他人のこころを追い回すことはもうあるまい。

無心とは、こころの無い状態ではなく、我(われ)の歪の無いこころの有様のことである。より近いのは、多分、天真爛漫な「子どもごころ」なのだ。

 

●無心の境地とは、自己のこころが観える次元にいること

世間の出来事、有名他人の所作や言動に期待を込めたり、失望したりすることは、

まさに他者のこころに救いを求めるようなものである。

残念ながら、多くの人々が無理して寄り集まり、その集合意識のなかでコンセンサスを得て、何かを成し遂げようとする行為、

それこそが民主的で善であるという観念には、

多くの場合、他者への相互依存という落とし穴がある。

また依存とは弱さではなく、それが故の収奪のようなものである。

今の世界の有様の根底には、依存と収奪が渦巻いているではないか。

世間ではお金の話ばかりのようであり、それをどう収奪するかという高邁な理論に溢れているようだ。

確かに我々は、意識の発展途上を体験する為にここにいるのかもしれない。

しかしそれは、悲しくもなく、怒りを感じることでもなく、まさに「そう」なのだと知ることに意義があるのではないか。

我々は「愛すべき学び舎」にいつの間にか来ているようではないか。それに気づいただろうか。

 

●還るべきは幼(おさな)ごころ

誰もみな、幼い時期のことを憶えているだろう。

邪心のない素直なこころ。

必須な社会的存在であるといわれる「自我」という生存競争の為の、

こころの鎧が出来上がる前の、本然の天真爛漫なこころのあり方である。

大人たちは、そのような幼いこころのあり方について、それは無知から来る、あるいは無垢からくるものだと捉えているかも知れない。

幼ごころと大人のこころの違いは、幼ごころには「習慣化」されたこころの歪が少ないということであり、

逆に大人には、自己生存の為に「習慣化」されたこころの歪に満ちているということなのだろう。

子供はいつも幸せそうに見えるし、大人はいつも苦渋の顔をしたり顔で顕しているようではないか。

誰も皆、赤子や幼児を見て、安らぎと愛しさを無条件に感じる所以であろう。

赤子が危害を加えようとか、騙して奪おうとか、本能に身を任せて暴れまわるとかしないから安心を感じるのではなく、

また、血がつながっているから愛しさを感じるのではなく、

我々のこころの本然のあり方をそこに感じているからなのだと思わないだろうか。

大人の口先ばかりの教えなど、小さな汚れた梯子にしか過ぎないのだ。

逆に子供達の天真爛漫さは、小ざかしい我々大人の還るべきところを示しているのだ。

  

何が無くても、いつも全てが嬉しい・楽しい・・そんなありかた。

疑うとか騙すとか、そんな観念などどこにも無い・・そんなありかた。

死ぬとか生き抜くとか、そんな力みなどどこにも無い・・そんなありかた。

確かに、そこまでゆくには、酸いも甘いも知らずばなるまい。

そう、

大人の大人としての本意は、体験や経験を通じて、

また知恵という贈り物を携えて、

あの、子どもごころに還ることであろう。

それが一人一人の歩くべき道、王道なのである。

  

●習慣化された「こころ」の歪に気づけるか

習慣化されたこころは、社会通念、民族意識、生活習慣、あるいは自ら創り上げてきた「考えかたの癖」で覆われている。

癖となった「考えかた」の多くが、この世界でいかに優位に生き抜いていくかという適者生存の観念からきているものだろうか。

特に西洋精神ではこのような傾向が多く、いかに優位に生き残るかが主要テーマとなっている感があるのではないか。

昨今の世界の有様はまさにそのような生き残りの努力の情報で溢れているようではないか。

あるがままとは、癖の無いこころで自己及び世界を見渡すことであろう。

適者生存等という小さな観念の窓から覗く行為によって、地球も汚されたありさまを描き出している。

奪うよりも、与えるシステムのほうがどれだけ永続的で楽しい世界を創ることになるだろうか、もう気づけるはずなのだ。

 

●古いこころの描くシナリオを自ら廃棄すべし

勝ち残る為に、いかにあるべきか。国の方針は、企業の方針は、社会の方針は・・・どうあるべきか。

いつもながら、その自らでは見えない「こころの習慣」に突かれて行き着く先は、いつも多分「戦い」であろうか。

それは、他者との戦(たたかい)という、勇ましくも、愚かな幕引き芝居のようである。

確かに、それも自己認識に充分至らぬ人存在としての我々の通過すべきプロセスでもあるかも知れない。

また、そういうときに信じ込んでしまうことは、見える世界が全てであり、また見えるのは自己以外、外の世界だけであり、変えるべきは他者という観念であろう。

そうして、その突き詰めて行く先は、捜し出すは、どこかにいる敵であり、あるいはその者たちを頑張って征服すべき外の世界なのだ。

自己は未だ、どこにも存在していないような「有り」方でもある。それが大人の生きかただと言われてきたのだろうか。

皆がみなそうだろうと思い込んで、我勝ちに走り続けるようになり、加速されて爆発的なものにもなるだろう。それは、レミングの集団行動とどこが違うのか。

 

意識的な意識」の目覚める前の意識のありさまとも言えるだろうか。

 

それは、「わたし」というものに真に気づく前には、判りやすい、眼に見えるところの、外の「わたし」が気になるようなものだ。

 

●外は映し出されるものだから「外」という

外の世界を必死に加工し、仕上ようとする行為自体が、既に本道から逸れている。他者の想いを統べようなどと考えること自体が、すでに迷い道にあることを示している。

人々のこころが「自ら」変わらなければ、その人々のいる世界は変わりようがない。

我々のこころが意識的に変わってゆけば、我々の知覚する範囲の世界は、それにピッタリ合わせた変化をしてゆく。

薄汚いと観えた世界が、例えようもない有意味の世界に変質するのだ。しかしながら、綺麗、汚いという物質レベルの観念ではない。

「自分のこころが綺麗になったら、世界も綺麗になるのか?え? そんなはずがあるわけないではないか。馬鹿馬鹿しい!」・・・というような、こころの呟き自体が、既に固定化され習慣化された有様を示している。

まさに、その通り、未だ自分のこころを変えず、またそれに応じた自己の世界の変質にも気づかないことを表明しているだけなのではないか。

常に新しい、または創造的な本来のこころのあり方からそれ、決まりきった習慣化されたパターンに終始しようとする、我々の歪んだ「こころのあり方」を見よ!

13

今の我々は、カゴメの紋様、3次元観念の中に自ら入って嘆いている籠の鳥のようでもある。

観るべきは、そして解き放つべきは、どこでもない、自己の中にある習慣化された「こころ」なのだ。なるほど・・、常に敵は外には無く、内にありということなのだ

内なる敵は、こころの作った影のことであり、その影によって幽閉されている者は、その影を自ら消すまでは、そこに居続けたいと思っているだけのことだろう。

・・・・・・・・・・・

かごめ、かごめ、

籠の中の鳥は、いついつ出やる

夜明けの晩に、鶴と亀がすべった。

後ろの正面、だあれ。

・・・・・・・・・ 

夜明けの晩とは、いつも不思議な時、「今」のことであり、

鶴と亀がすべった・・とは「長い時間」が去ったことであり、

後ろの正面とは、「自ら籠にいる」ところを観ている、

真の「あなた」のことである。・・・そんな気がしないだろうか。

 

●変えるべきは常に「内」である 

今の我々のこころは、進化や変化を通じて諸世界を観じ続けるところの、宇宙的な意識のあり方からそれて、

そこに居座り、居眠りを続けようとするわがまま者のようではないか。

同じことの繰り返しこそが、本来のこころの「嫌う」在り方であるにも関わらず、その同じパターンの繰り返しに自ら呪縛されていることすらも気づかないようなものだ。

肝心な点は、他者を変えようとしないことであろう。みんな一緒でいたいし、また優位な位置にもありたい・・そのようなこころは皆気づくことだろう。

そこから執着や焦りや怒りが出てくることに気づくべきなのではないか。

他者を変えようし、社会を変えようし、世界を変えようとすること自体が、様々な改革や革命という形態変化をもたらし、その無理やりの諸行が、再び人々の重荷となって積みあがるのだ。

いつの世も、盲目的な他者依存の世界は、あり地獄のように地に崩れ落ちる消え去るさだめなのだ。

この地球には幾度そのようなことがあっただろうか。

 

●覚醒は一人一人

やるべきことは、ただ1つ「自ら」の変革であり、そのために行なうべきことは「自ら」の習慣化されたこころ、すなわち集積された想いや感情の、浄化と調律なのだ。

ざわめくこころの世界に自らを自己投入させてしまい、分けもわからず自らのこころに翻弄される有様からの脱出を「解脱」という。

言い換えれば、こころという意識の作用を自在に扱える意識の位置への上昇である。

次元上昇は自らの意識の拡大であり、人間における意識の働き、すなわち自らの古い「こころ」を超えることである。

 

古来から伝わり続ける自己観想とは、形だけに座って眼を瞑ることではなく、毎瞬毎時のおのれのこころの働きを観ながら調律し、またこころの形を自在に制御し、そのこころレンズの曇りを取り除き、そこから遥かに見晴るかすことの出来る座に上がり、本然の素晴らしきこと限りない創造世界を観ることなのだ。

我々は、例えれば、いわば「物質」のエンジニアから、そのシナリオ、現象の背後にある「こころ」「意識作用」のエンジニアになるべき時期にあるのだ。

 

●すべては「今」与えられている

今、我々のすぐそばにある輝きに自ら気付くべきだろう。

どこか遠くの理想世界や、聳え立つ高層ビルの最高階や、愛しき者の待つばら色の未来などにはその輝きはないのだ。

それぞれの「わたし」という今の瞬間に居なければ、過去も未来もあるはずはないだろう。

今の我々自身の中にある見えない可能性こそが、輝きや軌跡の因(もと)であり、また今ここにある生活時空間のなかにこそ、我々が捜し求めているものがある。

消えることなき輝き、それはいつも「あなた」自体である。過去も未来も「あなた」の属性でしかすぎないのだ。

必要なすべては既に与えられているのだ。誤魔化す為の何か、お金や地位や財産をことさら追及することが無くなれば、それに気づけるだろう。

例えば死してそれに気づくことは、夏休みの宿題のようなものだろうか。頭を掻きながら、「嗚呼・・さっさとやっておけば良かった」等といつも思うようなものではないか。

我々に本当に必要なものは、既に「今」あるのだ。それもこなせるだけ、ちょうど良い程度に。

 

「放てば、手に満てり」

ここに生きている間に手放すことで、本然の全てを逆に掴むことになる。

これは思わせぶりな逆説遊びではなく、まさにそうなのだ。

 

手放すのは何か。

それは、現象を追い回すこころの癖(くせ)であり、外の世界への逃避である。

手放すのは何か。

何が何でもという生存への「固執」であり、快楽の中に幸せがあるという「五感への妄信」であり、大勢の他者の顔色をうかがうところの「恐怖」である。

手放すのは何か。

苦しみが成長の元であるという自己「卑下」であり、

物質・財によって幸福になるという虚妄の「観念」である。

 

人が何をどうこうしなくても、宇宙は変化しながら在り続け、花は咲き続ける。

手放さざるを得なくなって手放すことは、もう誰も嫌というほど繰り返し繰り返し行なってきたのだ。

そう、いつかは死をとおして、嫌々しながら手放すことになる。

しかしながら、今でもこころの重い荷物は手放すことが出来るのだ。

少しづつでも、すこしづつでも・・、それがすべての人々の人生に与えられた今という「」の恩寵なのだ。

 

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●全てを観る意識・宇宙意識

決して肉眼では見る事の出来ない微小の素粒子から、想像もつかない無限の向こうにあると見える宇宙の、その果てをも含む「意識」の大海。

それを貫いて観じ続ける大いなる「こころ」を「宇宙意識」というならば、我々個々の世界を創り続ける、我々の意識、「こころ」という因たるシナリオを調律し続ける意識もまた「宇宙意識」なのだ。

宇宙意識とは、あらゆるものを自らの投影物、創造物として、そして自らとして観じているところの全包容的な「こころ」と言ってもいいだろう。

人間個々人が自らの想いや感情、すなわち「こころ」を観ることは、無限の宇宙、諸世界を顕しつづける大いなる全包容的意識のありかたと同質といえるのだ。人間は神人、神の子、仏子とも言われる所以であろう。

 

●全ては全てを意識している

素粒子の世界でも、瞬時にその情報を交換しているといわれている。それは光速という速度を超えた情報伝達である。

意識する、ということは科学的な謂いである「情報伝達」と同じことであろう。

我々が自らを「意識」しているように、すべてを顕す大いなるものも、その投影である全宇宙を「意識」し、それを観ているのだ。

あなたが「あなた」を意識しているように、

全ては全てを意識している。

意識、それは慣れた人為的なイメージだけでは気づけないかも知れない。

 

しかしながら、

花も、木も、草も、岩も、川も、山も、そして海も、惑星も、恒星も、銀河も、銀河団も、

自らを自らのように意識しているからこそ、そこに在るのだ。

そのままの、意識の段階を経た素の現れである。

それは自らへのそして全てへの愛の表現である。

愛は人間の幼い感情表現ではなく、

存在としてそこに決然としてあることでもある。

また、地球という我々の次元舞台も、愛ゆえにそこにあるのだ。

・・・

人々が、それに気づいている時代を黄金時代というならば、

それは、それぞれの「あなた」を通じて「意識されて」現れるものである。

我々は、今、全てに対して、感謝してもし切れない、愛すべき地球という学び舎にいるのだ。

この学び舎を、それぞれの「こころ」を込めて、美しく飾るときに来ているのだ。

  

あらゆる全てよ・・いつも、いつもありがとう

父(ちち)よ、母(はは)よ・・本当にありがとう

地球よ・・愛すべき舞台よ・・ありがとう

教師達よ・・その我慢強い愛よ・・ありがとう

子供達よ・・天真爛漫な師よ・・ありがとう 

この地の仲間達よ・友がき達よ・・ありがとう

 

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そして、何よりも、この拙い文を読んで頂く「あなた」に、こころから感謝いたします。