気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りのプロセス(2)自分の思考を観るべし

2008-11-30 10:38:47 | 偉大なる先達の言葉

 何事にも原因があるということは、因果論者も科学の徒も理解できるはずです。この世界は我々の五感で見たり聞いたりできますが、その限られた意識の窓から見えるもの感じるものは、山であり空であり雲であり、ビルであり電信柱であり、道を急ぐ人々であり、ランドセルを背負った子供達です。

 そのような身近な世界の中にあって、人間は特別な1つの「無限・点」を現していると言えるかもしれません。・・道行く人々、知り合いの人とのたわいない会話、こちらを見つめる目、その中には自分と同じ「意識」の発露が感じられないでしょうか。どうと言うことも無い挨拶だけの会話や素振りのなかに聞こえる声、こちらを見る目は、「空」から全てが出来ているこの世界にあって、なんとも言えない親しみと仲間意識、同じようにあまねく広がる理解と愛を感じられるでしょうか。

 その全ての在りようの根本原因が「大いなる存在」というものでしょう。そのあまねく全てであるところの存在は、あなたやわたし達であるというのも、全く当たり前のこととして感じられることが、さとりのフィールドと言えるでしょう。あまねくあるもの・・それが大いなる存在という言葉で表すしかできない全ての「因」ということです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

エックハルト・トール著「Power of NOW A guide to Sporitsual Enlightment」

日本語タイトル「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる」 飯田史彦 監修

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p26-34 抜粋

問い 「大いなる存在」 を経験するのを、難しくしている原因は、なんでしょう?

答え 自分の思考(色々な思い)を、「ほんとうの自分」だと思いこむことです。すると、思考はコントロールが効かなくなり、勝手気ままに活動してしまいます。自分の思考活動を、自分の意思でストップできないのは、大変な苦痛です。しかし、ほとんどの人が、この習性をもっているために、わたしたちの感覚はすっかり麻痺してしまい、これが、ごくあたりまえのことだと思いこんでしまっているのです。ひっきりなしの思考(思い)の騒音が、「大いなる存在」とひとつとなって、「心の平安」の境地に到達するのを、妨げているのです。

哲学者デカルトの名文句「われ思う、ゆえに我あり」は、みなさんもおなじみでしょう。彼はこの文句で、究極の真実を表現したと、確信していたに違いありません。しかし、「わたしは在る」ということを、「わたしは考える」ということと等しくする、言いかえるなら、思考活動によって、自分のアイデンティティを確立する、という初歩的な誤りをおかしているのです。

 自分の思考をコントロールできない人は、(ほとんどの人がそうでしょう)、「人間はみんな、はなればばれなのだ」 と信じて、人生を歩いています。これを信じている人の人生には、この深遠が反映されて、問題と摩擦が、次から次へとやってくるのです。

 「さとり」とは「すべてはひとつであり、完全である」という境地にいることです。それゆえに、「すべてとつながっていること」なのです。さらに、平和につつまれています。眼に見える、「かたちある世界」はもちろん、自分の内奥にある、眼では見えない「大いなる存在」と、ひとつになっていることです。

 「さとり」 は、心の葛藤や、人との摩擦がなくなることだけを意味するのではありません。さとりをひらくと、もう自分の思考に、ふりまわされなくなるのです。

・・・・・・・・・・・・・・

問い 「思考を客観的にながめる」、というのはどういうことなのか、具体的に説明してくれませんか?

答え -----   できる限り、、思考の「声」に耳を傾けることです。何度も繰り返されるセリフには、特に注意を払いましょう。数年間にわたり、かけられ続けてきた「古いレコード」がないか、よく耳を澄ませてください。これが「思考を客観的にながめる」ことです。「頭の中の声に耳を傾ける」、「思考を見張る」と、言いかえることもできます。

この声を聞くときには、あれこれ批判せず、偏りの無いこころで行ないましょう。批判するという行為そのものも、応戦というかたちの、「思考の声」にかわりないからです。これをしていると、「ひとり言をする『声』があって、さらに、それを聞き、観察している「ほんとうの自分」がいる」、と、だんだんわかるようになってきます。この「 『ほんとうの自分』がいる」という感覚は、思考とは別のものです。この感覚は、思考を超えた源泉から発せられているのです。

思考を客観的に眺めていると、その行為をしている、「ほんとうの自分」の存在に気づきます。「ほんとうの自分」に気づくと、意識は新たなレベルに到達します。勝手気ままに活動していた思考(思い)はパワーを失い、「ほんとうの自分」のしもべになります。

これが、無意識的な思考活動を終らせる、第一歩です。思考がおしゃべりをやめると、「無心状態」が生まれます。最初のうちは、無心状態は、ほんの数秒間しか続かないかもしれませんが、心がけ(意識的に気づくこと)次第で、だんだん、長く続くようになります。無心状態の時には「心の平安」を感じるはずです。

これが、普段は思考の雑音によってかき消されている、「大いなる存在」との一体感なのです。この状態は、本来人間にとって、ごく自然な状態であるはずなのです。

・・・・・・

この状態に到達すると、それまでの「自分」の認識を超え、より壮大な「自分」の認識を持つようになります。より壮大な「自分」である、「大いなる存在」も、本質的には、わたしたちであることに変らないのですが、それは同時に、途方もないほどわたしたちようり偉大なのです。わたしがみなさんに言っていることは、矛盾、もしくは荒唐無稽と受けとられかねませんが、これ以外には、表現のしようがないのです。

-------------抜粋、引用終わり

 百歩譲った表現をさせてもらえれば、スカイダイビングもバンジージャンプも、車の運転も全て体験として楽しいものでしょう。それらは身体を使って経験をするものですが、体験出来れば、もう楽しくなり、怖くもないし、その経験自体が自分の1部になります。人間としての意識進化の重要な一歩は、自分の心を見ることで、それをまさに見ている本来の自分に気づくことでもあります。これは思考や思いを楽に扱えるようになることでもあり、自分自身を「マスター」してゆくことでもあるでしょう。これらは、知識の為の知識ではなく、実践で少しづつ「体得」してゆくものです。なるほど、常にあるハードルは、世間や外界にはなく、自分にあるという事実に、しっかりとうなずくことができます。

 「さとり」というものも、人間の意識レベルでの経験の1つと考えるのが正当でしょうが、これは意識進化を促す、1つの大いなる「体験」とも言えるかも知れません。あらゆる不安や心配の原因は、いまだ来ぬ「未来」を不安視したり、記憶としか存在しない「過去」を悔やんだりすること(思考・思い)によって出てくる「誤謬」であることにだけは、気づく必要があるのです。

 そのためには自分の中にある目まぐるしい「思考」を見る必要があるのです。思考は森羅万象の全てのなかから、今の自分の「意識レベル」で「同調」する「波動」であれば、その自分自身の「同調」キーがいい加減では、不安やら心配やら恐怖やらが、勝手に出てきてしまいますね。まさにパンドラの箱となり、怖くてしょうがないものになっているのでしょう。自分が造っているのにもかかわらず・・・にです。ひょっとしたら、ちょっと笑えることかもしれません。

Flower1003

この地上にある草花も、何も、べつだん難しくなく、自然に花開いていますが、人間も、人間らしいレベルで、いわゆる、さとりをひらくことが、本来、あたりまえのプロセスのような気もします。

本日も稚拙な記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

  


悟りのプロセス(1)大いなる存在に気づく

2008-11-24 12:03:32 | 偉大なる先達の言葉

皆我々と同じ偉大なる魂たちは今の世にも大勢います。昔にあり今に無いと言うことはありません。書物や情報等も素晴らしい「手」、差し伸べられた「愛」という表現をしても良いかもしれません。すでにご存知の方も居られるかもしれませんが、エックハルト・トールさんの著から(勝手ながら) 引用させていただきたいと思います。

エックハルト・トール著「Power of NOW A guide to Sporitsual Enlightment」

日本語タイトル「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる」 飯田史彦 監修

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p24-26 抜粋

 「さとり」という言葉を聞くと、わたしたちは、「聖人君子のみが達する事の出来る超人的な心境」だとか、「自分のような凡人には縁のないものだ」といった先入観を抱いてしまいがちです。しかも、あなたのエゴ(自我)も、あなたがそう解釈することを望んでいるのです。

 しかし、真実は違います。「大いなる存在とひとつであること」そして「この状態を保つこと」こそが、「さとり」なのです。一見すると矛盾しているようですが、「大いなる存在」は、本質的に「あなた自身」であると同時に、「あなたよりもはるかに偉大な存在」なのです。それはあなたという人間の名前や外見を超えた、「ほんとうの自分」を見つけ出すことである、とも言えるでしょうか。この一体感を感じることが出来ないと、「自分をとりまく世界から、自分は切り離されている」という、幻想がはじまります。そして、自分が、ぽつんと孤立した、ちっぽけなかけらのような存在にすぎないかのような、錯覚におちいります。すると不安が頭をもたげるようになり、周囲との不和やこころの悩みが日常茶飯事になってしまうのです。

 わたしは、ブッダによる、たいへん簡潔な「さとり」の定義が気に入っています。それは、「さとりとは、苦しみの終わりである」というものです。この定義ならば、超人的な感じがしないと思いませんか?

 ただし、これは定義としては不完全です。なぜなら、「さとりでないもの」について語っているにすぎないからです。それでは、「苦しみ」がとりのぞかれたあとに、なにが残るのでしょうか?

 ブッダはこれについて、沈黙しています。ブッダの沈黙は、「さとりの正体は、自分で見つけ出すべきですよ!」というメッセージを、含んでいるのでしょう。わたしたちが「さとり」のことを「凡人では到達できないゴールなのだ」と思い込んでしまわないように、わざと、定義を未完成なままにしておいたのです。しかしブッダのこうした配慮もむなしく、多くの仏教徒は「さとり」とはブッダのためのものであり、「自分たちには畏れおおいものだ」と感じています。少なくとも「あの世」にいくまでは、「さとる」ことなど無理だと考えてしまっているものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p26-27抜粋

問い  「大いなる存在」という言葉を使われましたが、どういう意味なのか、くわしく説明してくれませんか?

答え 「大いなる存在」とは、死を運命づけられた無数の生命形態を超える、唯一の「不滅の命(いのち)」です。しかも、「大いなる存在」はあらゆる生命の奥深くに、目には見えず、絶対に滅びることのない本質として、宿っているのです。つまり「大いなる存在」は、人間のもっとも深いところに「ほんとうの自分」として存在しており、わたしたちはそれに(意識的に)「つながる」ことができるのです。

 ただし、このことについて「頭」(脳)を使って考えよう、とはしないでください。「頭」で理解できることには、限界があります。あなたの「思考」がぴたりと止まっている時にこそ、わたしの言葉の意味がわかるはずです。

 あなたが「いまに在る」時、言いかえれば、あなたが完全に、強烈に「いま」という時に集中していれば、「大いなる存在」を感じることができるでしょう。それは、人間の頭では、理解することができません。「大いなる存在が、自分とともにある」という感覚を保ちつづけることが「さとり」なのです。

・・・・・・中略・・・・・・

「大いいなる存在」こそが、「人間の本質」です。わたしたちは、それをじかに感じられるのです。「わたしは、いま、ここに存在する!」という感覚がそれです。「わたしは○○○(名前・職業など) です」という呼び名を超えた、「ほんとうの自分」に気づくことなのです。「大いなる存在」という言葉のほんとうの意味を理解すれば、「大いなる存在」を経験するの日は、もう目の前です。

・・・・・・・・・・・

Img_1137

  本日もご覧頂きましてありがとうございました。


意識は光である?

2008-11-22 10:51:27 | 見えないものから見えるものへ

 前記事では「時間は本来存在しない」ということでした。毎日の生活をしていて、時間が無いなどということがあろうはずが無いではないか、と思うのも至極もっともなことです。通常の認識や科学的な見解も含めて、時間がなければ色々なプロセスが説明できないではないか、という反論・反感が出てくるものです。自分自身も所謂エンジニアの端くれとしての経験から、細かなマイクロ、ナノセコンドの単位を扱う機器や設計に馴染んでおり、時間は本来無いなんてあり得ないと思っていたのです。架空の時間を現象として利用しているということは実は的を得ているのは承知しています。さらに本質的な「本来時間は存在しない」という極端なアナウンスを理解する為には、自分を観る行為が必要であると思います。実はそれらは多くの先達の辿った道でもあるのです。

●逃してきた真実の言葉

 この地球上で悟った言われる人達、はるかに高みにあると言われる存在達、我々には到底手の届かない存在と言われている人達、それらブッダもキリストも含めて、相当な数に上る皆我々と同じである大いなる魂たちの残した言葉のなかには共通するのものがあります。

それの1つは、「汝自身を知れ」ということでしょう。

自分自身を知る・?・と言われてもどうしたら良いのか考え込んでしまいます。またチラっと聞いたとしても、哲学や科学を極めなければ判るわけはない・と言う様な他人事感覚で素通りしてしまいがちです。

●昔からある覚醒のプロセス

 彼らの多くには、まずなんらかの修行や教育や強烈な体験があるようです。あり得ないような不幸や不安、孤独や憎しみ、悲しみ等を経験する場合が多いようです。それらの一見不幸と感じる体験等は、この「地上に生まれた事に対する認識」を新たにする為の、極めて重要な目覚めのプロセスとも言えるものでしょう。郷においては郷に従うプロセスを経て、本来の輝きを取り戻すことに意味があるようです。そうでなければなぜワザワザこの地上・次元世界に現われる意味がありません。舞台に相応しい演じかたをキッチリとしているのは流石だと言わざるをえません。この世界は、丸いこの地球は、何でも有りの・大いなる発展途上を演じている華やかな「舞台」なのです。

●ネガティブ体験は覚醒の合図

 人々の共通するテーマとして、戦争、憎しみ、不幸、抑圧、暴走、不安、不信、孤独・・・などを人生で経験することで、本来の無限なる意識が、その地上の現実・現象とのギャップに潜在的な直感から来る驚愕を自覚することから「覚醒」は始まります。何も刺激の無い状態では、安穏とした眠りの中にいるでしょう。それも楽しい経験ではあります。あのブッダも王族の小さな城に終生閉じこもっていたとしたら、今の仏教というものもありえなかったでしょう。不幸や悲しみ憤りという、みな誰でも嫌がり、避け回る、強烈なネガティブ感情は、それらがネガティブだと感じていること自体に、本来ではない響きを、すでにしっかり感じていることを現しています。

●すでに知っている 虚・実の遊び

それらは本意・本質ではないことを、もうすでに我々は知っているのです。人間として意識をもっている限り、何が「真」で何か「虚」なのか、もう知っているのです。人により温度差はあるものの、不幸が不幸であるとして忌み嫌うことは、すでにしっかりとそれらが「虚」であり、あり得ないことであると認識していることを現しています。

すでに半分悟っているといってもいいでしょう。我々は、悟りなど程遠いと勝手に思っていますが、これらもどうも違うようです。不安や不幸や悲しみ等から逃げようとする、そのために多くの場合によくあるように、その防波堤となりそうな外の世界での権威、富、名声を得ようと人生を奔走するのは、もうすでに、不安や不幸や悲しみが本来のものではないことを知っているということを現しています。逃げるというやりかたに稚拙さがあるだけの話であろうと思います。

●潜在下にある恐怖を、意識の表面に出すべし

 主観的に嫌な事象から逃げる、回避すると言う行為自体は、それらが本来のものではないと知ってはいるものの、ただ怖いという感じが未だ付随していることを示しています。それらがほとんど意識の表面に出ずに終始していることで、いつまでたっても「嫌で怖い」という意識状態であるわけで、真と虚を併せ持った、いわば半覚醒の状態であると言っても良いかもしれません。

 どうせそこに在るなら、それをちゃんと見る行為をすべきなのです。そこに在るのに、怖い怖いといつまでたっても恐怖と背中合わせの友達でいること自体が、考えてみれば随分滑稽なものだと気づくでしょうか。怖い怖いと思いながら、潜在下に「恐怖」さんを無理に縛り付けているのは、我々の責任でもあり、「恐怖」さんにしても、困ったもんだと思っているでしょう(笑)

●身体・思考・感情

 我々にあるのは思考、感情、身体です。衣服や財産は我々ではありません。大きく理解すれば、身体、思考、感情です。普通に考えても、大分類して質的に分ければそういうことになると思います。多くの場合、身体は五感でしっかり知覚していますので、これがもっとも身近にあって常に「意識」しているものです。手を見れば手が見え、多くの人がもっとも気にしている顔や表情も鏡で見ることができますし、手で触ればしっかりした感触があります。このように我々の身体はよく見えており、程度の差こそあれ小まめにケアをしているものです。それは与えられた判りやすい五感感覚の賜物です。

●身体の裏にある因、思考と感情

 それでは、我々にある思考と感情はどうでしょうか。見ることがありますか?我々である身体・思考・感情のうち、思考や感情は肉眼で見ることができません。しかし考えていることや感じてしまうことは「知って」いるのです。これは身体レベルの五感によるものを、いわば「外の知覚」とするならば、思考や感情は「内なる知覚」といってもいいでしょう。

 実は思考や感情こそが原因となって、身体にもその影響が現れてくることはもう理解されています。思考や感情こそが我々の行動の因であり、身体状況や生活全般に現われてくる現象の本当の因ということも理解可能であると思います。我々に考える能力がなければ、岩と同じく動けないでしょう。感情が無ければ反省も味わいもなく、思考調整、フィードバックもできるわけはありません。

 一般通念では、この身体のみを自分達と思い込み、思考・感情を実体のないものとして無意識下に置いているようです。我々の在り様の元である因を潜在下に放り投げているようなものです。現在の科学的という考えかたは、物質量、数量で表せないものを扱うことが出来ないのです。科学の1側面は、量で表せなければ実体と考えない「物質崇拝信仰」に陥っていると言っても見当違いとは言えないでしょう。

●因である思考と感情を見る

 身体以外の我々の要素である、思いや感情は我々の身体以上に本当に身近なものであり、いつもどこでも我々に付随していることにもっと気づく必要があるようです。我々は、毎日身体を見ているように、この身近な思考・感情を「観る」ことが必要でしょう。なんといっても身体や生活全般の「因」である存在、思考や感情をどうして観ないのでしょうか。

●因の膨大な情報・エネルギーを知る

 瞑想や座禅、内観などという作業は、思考・感情をしっかり観るための古来からのわかりやすいノウハウなのです。多少とも経験がある人々は、膨大な思考というものがいかに目まぐるしく去来しているかが判ります。その思考・想念に伴う様々な感情も、それはそれはバラエティに富んでいます。無関係とも思える想念も湧いてきては反響し、すぐに別の想念が去来していることも理解されるでしょう。自分自身で意図もしないのに、勝手に古い記憶が呼び覚まされ、恥ずかしさや後悔等の感情も出てくる場合もあるでしょう。過去という記憶や未来という不安なども目まぐるしく騒いでいることも観えることでしょう。

 思考や感情、想念を観れば見るほどその奥深さや情報量の多さに気がつくのです。その想念の膨大な去来の中にあって、無意識のうちに、そのどれかを採用しているのが、実は我々の在り様であるということが理解できます。

●意識は光ともいえる

 問題なのはそれらが程度の差こそあれ、無意識のプロセスであると言うことでしょう。無意識であるということは、当然ながら意識的でない、気づいていないと言うことであり、わけもわからず翻弄されているということであり、暗闇での手探りで右往左往する状態のようでもあり、それは単に暗闇の中に光を当てていないという意味でもあるのです。意識的になると言うことは、実は光を当てると言うことでもあると思います。

 多くの人々の古い友である「恐怖」も、面倒でも、それをしっかり観ることができれば、そこには「理解」という恩寵が形を変えて存在していることに気づくのではないでしょうか。恐怖を恐怖のままにしておくのは親友に対する理解の無さを現しているようでもあり、いつまでも恐れのマントを羽織らせて、背中に背負って縛っているのは、かわいそうだとも思えないでしょうか。

●覚醒は自分の意識・光を見ること

 覚醒する、目覚めるということは、朝寝床から起きてきて太陽の光に当たるように、自分自身に意識的になることであり、わけのわからない状態から、少しづつわけのわかる状態に移行すること、暗闇でなにも見えない状態が見えるようになること、端的に言えば「意識の光」を当てることであるわけです。

●中心たる自分自身が見えるか

 そのためには、自分の想念・感情をいつも「観ている」という行為が必要なのです。簡単に気づけると思いますが、これは大いなる創造自体の在り様と同質なのです。人間の在り様もこの1点にあります。これが基点を思い出す、この地にあって自己を思い出すと言うことでもあります。あらゆる可能性の湧出する、ぶれない中心点には無限の平安があります。

皆々、本来の「わたし」がその不動の湧出点とも言うべき存在であれば、時間もエネルギーも自己の創り出すものであるということが、今の今、直覚で理解が出来るかも知れません。

 絶対的な安心を求めて外を探しまわり、傷ついて自分に立ち返る過程は、放蕩息子の例でもあるように、そうでないことに真に気づくための間違いのない方法であり、有り得ないほどの恩寵でもある思われます。愛という名をつけて間違いの無い、確実な自己の目覚めのプロセスとも言えるでしょう。まったくもって全てに意味があるものです。全ては今の連続であることがなんといっても奇跡としか言いようがないのです。

 不動なる心こそ真なる平安をもたらします。またそれは物や他人の評価などでは、決して代替など出来ないという、簡単な真理に気づくことが、それほど難しいわけはないのです。こころが迷うことのない素の在り様、明解なシンプルさは、もうすでに理解と悟りが現れ初めていることを物語っています。

   Flower1005

  本日も拙い記事をご覧頂き、まことにありがとうございました。

 


時間とはなにか

2008-11-15 11:59:16 | 見えないものから見えるものへ

 しばらく身辺が忙しく、記事更新が遅れてしまいました。にもかかわらず大勢の方が覗いてくださっていることに感謝致します。

 このブログはいわゆる悟りという当たり前の状態を思い起こすべく存在しているようでもあり、そのうちに、なーんだそうだったのか!という大笑いに結び付くようなそんなことでもあれば本当に楽しいとも思います。・・・・思いっきり手前味噌でありますが(大笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●時間は、「わたし」を眠らせる揺りかご

 わたしとは一体なんでしょうか。あなたとは一体なんでしょうか。この最も無限に近い自分に関して誰も皆、問いかけたことがあるでしょう。それでも・・・、いつもながら、わたしとは何かが理解出来る前に、その問題?を忘れてしまった事と思われます。まさに根本的な問いかけですが、人様によっては、まったくもって馬鹿な問いかけであると感じるものです。あたかも禅問答のような、わかったようなわからないような・・・永遠に夢として片付けてしまいたいような、そんな問いかけではないでしょうか。

 一般的には、「それで飯が食えるのか?」という、自動身体維持機能からの指令に忠実な僕となってしまうことが多いようです。実はその時から、時間という足かせ手かせが我々の周りに物理的に現れてくるようです。あるいはそのような無意識の期間に、わたし達を保護してくれる揺りかごのようなものでもあるのでしょうか。この限られた小さな世界のなかで遊んだり眠ったりを楽しんでいる赤子のようです。

●時間という整理箪笥

 「わたしが何かって?そんなものわかるわけはない。そんなことより仕事だ、生活だ、勉強だ、呆けている暇があったら働かんかい~」

・・・等と言ってそれなりに努力している間に、あっという間に「時」が過ぎ去ってゆくことになります。我々の人生の大半は、最も大切な課題を忘れ去り、外の刺激に溢れた世界へ身をゆだねゆく事で、その五感の刺激から得られる情報を蓄積し、人生という時の流れの中の整理ケースに収納してゆくことであったのかも知れません。

 気がつけば、人生航路における外界からの膨大な情報を、記憶というタンスにしまいこむだけで過ごしてしまい、その刺激に対する自分の思考・感情面の反応の分析には手が回らないようです。単に暴れまわった思考・想念・思い・感情や身体的な行動の記憶レベルのものとして、自分の中の時間という箪笥に無意識にしまい込んでいるのかも知れません。

●時間感覚とは無意識感覚である

 時の経過は、我々が無意識であるがゆえに必要なものだろうと思います。瞬間瞬間に意識的になっている状態では、時の経過など無いように思います。楽しい事には自分の全知覚をそれに集中し続けることで、ふと気がつくと、時の短さを誰しも感じるものです。逆に嫌な場面に遭遇すれば、自分の意識はそこから逃れ、永遠とも思える、長い長い不快で不本意な待ちの時間を感じるものです。

●意識と時間は相対論的な相関関係がある

 誰しも経験しているのですが、人が何かに意識的になっている状態では、あたかも時間量が短く感じられ、逆に、無意識である場合は相当に時間量があるように感じられるものです。楽しい授業や仕事はあっと言う間に過ぎ去り、嫌な授業や顧客まわりは、延々と続くように感じられます。

 物理学での相対論は、空間と時間は絶対的でなく、相互に連続変換される量であると言うことを言っています。万人が目にすることが出来る理論は、あくまでも数学で現される1,2,3という物理量で計算できるものだけを扱わざるを得ませんが、五感で見えない領域の理解は物理量で表現できない為に打ち捨てられているだけのことでしょう。

いずれにしても、時間は相対的であるということは、今では多くの人が納得しているわけです。

●常識での時間とは

 現代文明は原子時計のテンポを世界標準の時間の尺度にしていますが、それはあくまでも物質の振動サイクルと太陽系の軌道運動のサイクルを、あたかもカレンダーのように参考にしているものであり、本質的な「時間」を現すものではありません。カレンダーどうりに動けばわかり易いだけのことであり、絶対時間などという概念はとうの昔に消えているのです。

 時間は相対的であり、あらゆる現象の独自の振動・サイクルを示すものであり、物理的に限定しなければ、人間にあっては、その意識レベルに応じたサイクルがあり、各自に固有の時間があると言ってもいいでしょう。元々時間の本質は相対的ではありますが、この地球上では、1つの原子時計の固有振動を、統一的な参照時間として採用しているというのが真相であろうと思います。

●時間と意識

 物質はごく微細に観察すれば、素粒子という概念で把握せざるを得ず、その素粒子の振舞は微細になればなるほど、波動としか考えられなくなります。現代物理のひも理論はそのような本源物質波動の在り様を推定する理論であろうと考えられます。

 根本的には物質レベルの全ての根本は「波動」であるという事は、頭の固い科学の徒も否定できないでしょう。その微細な波動域を生み出しているのは、「意識」というものであると考えられます。物理量で現す今の科学では不可能な領域ではありますが、あえて言葉を選ぶならば、それは「意識」という表現にならざるを得ないのです。

●意識的時間の意味

 意識が振動の元であり、その振動自体の属性としての「振動率」が「時間」として付随して現われるため、物質レベルの様々な運動や動きが現れ、それを五感という一定の振動感受能力で共鳴(受信・知覚)したものの総体が、今我々が生きている・・この世界である・というのが真相ではないでしょうか。

 したがって、時間は意識の属性であるともいえる訳です。人間の思考、思い、感情なども意識そのものでもあるのであれば、気分次第で時間が長く感じられたり、短く感じられたりするのも、まったく理にかなった事なのです。

 根源たる意識が振動の元であり、また物質顕現の根源エネルギーであるとすれば、時間の長短など単なる主観だ、という反論は科学的ではないことがわかります。逆に、主観であるという主張の中に、意識の属性としての時間の本当の意味がわかると思います。

 時間が相対的であるというのは現代の物理科学的な説明でも行なわれており、また人間の意識レベルによる長短感覚も、実にリアルなものであることを認識すべきでしょう。ただ単に1,2,3という物理量では表せないだけの話です。

●時間の無い世界とは

 スピルチュアルな分野での情報類の中で、地球のシフトした世界や、宇宙の中の他の世界には、時間は有って無きがごとくのようなものがありますが、これなども普通はなかなか理解し難いかとも思います。常識では、時間が無いなど考えようもありません。

 時間がなければ、因果律、原因と結果の法則が敗れてしまうと考えるからでしょう。タイムマシンで未来に行って、未来の現実を変えてしまえば、過去の記録そのものが変ってしまうというパラドックスがあるわけです。直線時間であれば、それこそ訳がわからなくなってしまいます。

 これらは、あくまでも時間が一定に未来に流れていくものだ・・という先入観念があり、今の我々自体の「今」の世界に対する認識が不完全だからであると思われます。過去が有り、今が有り、そうして未来が有る・・・という幻想に気がつくでしょうか。

 今の瞬間の連続が過去と未来を創りだしており、未来も過去も実在ではないことを悟れば、未来というものも、過去というものも、この今の瞬間に含まれていることが理解出来ると思います。その意味では、この今の有り様でいかようにも時間を織りなすこともできるわけです。単に、今人類は無意識に原子時計を信じ込んでいるだけの事でしょう。

 過去は記憶の中にあり「過去」にはありません。未来は希望の中にあり「未来」にはありません。記憶も希望も今の意識状態です。全ては今の瞬間、絶対的なこの瞬間だけに有るのです。なるほど時間は存在していません。

 より意識的な人間存在の住まう世界は、確かに時間が希薄だという意味が理解出来ます。人間が無意識の状態からシフトし、より意識的になれば、全てが無限とも感じられる学びと楽しさと愛で溢れている事に気が付き、それこそ時間などあって無きがごとくという状態にもなります。

 実は我々は、もうすでにその「時間」の有り様に気付いているのです。

           

Water_lilies

本日も拙い文をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 


光の存在とは?

2008-11-03 12:48:53 | 新地球文明論

●我々は皆光である?

 スピリチュアルな情報の中に、我々は皆、光であるという言葉が頻繁に出てきます。直感的に言えば、何か明るい・闇を照らすものという感覚を持つでしょう。魂のレベルでは皆光り輝く存在であるというイメージです。これは一体どういう意味でしょうか。

●この世界に満ちる光

 我々の生きているこの地球上、日常の生活の中で、光が無い場合はどうでしょう。ちょっと考えてみたら良いかと思います。 太陽が大元、その光のもとでもあり、また微小ながら人工的な照明などでも、光を発することができます。それらがなければ、この世は真っ暗闇、まったく何もあったものではないわけです。

 宇宙空間は、恒星の光、地球の光、太陽の輝き以外は、ほとんどが真っ暗な色をしていると言われています。あちらもこちらも真っ暗闇(笑)の中で、地球の大気の発する光はどれほどの優しさと強さを現しているか、計り知れないものがあります。

 光が時空のあらゆる処に行き渡り、反射する事で我々はそれを見ることができ、生きる経験をすることが出来ます。 そう、地球の全ては光で満ちているわけです。物質の塊や、振動などには比べ物にならないくらいのシェアーを持った生命表現です。光なくして我々の生活も、命の表現も、色々な体験もあり得ないわけです。

●光は命を育むエネルギー

 太陽の光は、はるか彼方の太陽系の中心から発せられています。光は核融合で物質・エネルギー変換された時に出来る電磁波であると解説されているようですが、太陽自体爆発もせず、その巨大な球体を維持しながら発し続ける、この壮大な仕組みの不思議さは一体なんでしょうか。そのおかげで我々を含んだ地上の命が栄えることの、本当の意味を感じることが大切ではないでしょうか。

 それらを偶然の産物であり、ただ単に物質が重力で固まって、巨大な圧力であのように核融合反応をしている・・それで片付けることは、甚だしい幼児性と言って良いのかも知れません。自分自身を生かしている当の光があっても、世間の漠然とアナウンスしている物質理念の中に放り投げ、肝心なものを毎日捨ているようなものでしょう。 生活の様々な苦労や楽しみ、対人関係の悩みや憤りなどを経験できるのも、元はといえばこの太陽の光のお陰です。確かに、全ての経験は、光のおかげと言ってもいいでしょう。

 朝起きて、外に出れば、あの太陽が今日も昇っている。無限に近いほどの太陽の愛・育みであると感じることが、例えば、浮ついた吟遊詩人の夢なのでしょうか?

 事実を見ればその意図が感じられ、感謝の気持ちが起きる・・この当たり前の有り難さ・奇跡をどうしても感じないわけにいきません。大昔の人びとは太陽崇拝だったとかという歴史家の言いようは、多分的を得ているように思われます。現代のように、当たり前のことを逃し続ける文明ではなく、当たり前のことを直に感じ、心底感謝できる文明であった証拠であると思われます。

●揺りかごの中で眠っていた人類

 貰って当たり前、恩恵など当たり前、という漠然とした意識状態からは、感謝など出ようはずもないでしょう。全てが当たり前であれば、その絶大なる恩恵にに気づくことは難しいのです。揺りかごをゆすってもらっている赤子は、親の絶大なる愛で育まれていると言うことに、気づかないものです。

 何でも与えられて当然、と漠然とパススルーしている我々は、まさに幼年期にあるのかもしれません。それを称して、眠っている・・ということなのでしょう。

●覚醒とは光を見ることから始まる

 無意識に生きている状態、実は、決して無意識なのではないわけですが、つまり、自分の意識を自覚していない状態、人様の考えに流されている状態、実体のない烏合の世間の観念世界の中に存在していると思い込んでいる状態、いつも外からの刺激をこころまちにしている状態、これらは世界の揺りかごの中に眠っている幼子の状態であると言えるでしょう。実は、相当に長く眠っているのかも知れません。

●光の中に自己覚醒する「わたし」

 光は時空に満ちているというよりも、光自体が時空の生みの親であると考えておかしくないのです。光なくして、時間空間は現れていないというのが本当のことではないかと思われます。我々の周りの世界は、光が満ちているから経験していると言う事なのですが、実は我々が「有るから」光が満ちているということも出来ます。

 逆に、光を感じる「わたし」がいなければ、「光」はその自分自身を感じてもらうことが出来ない、と言っても良いかも知れません。

●光はあらゆる波動を生み出す根源意識である

 光は電磁波という波動を含む、全ての存在波動を生み出す、根源意識の現われではないでしょうか。それを称して「各自の魂は光である」ということです。単なる明るい、まぶしい光ではなく、あらゆる可能性を内に含む根源波動なのです。今は未だ知られざる、あらゆる層の波動も含んだ、ありとあらゆる可能性を秘めた根源意識のことです。あなたは「光」そのものであるというメッセージは、そういう意味を含んでいると思います。

そう、根源波動は神であり、大いなるものであり、また、あなたでもあるのです。

0042

 

 

今回も拙い文章をご覧頂きありがとうございました。