気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の大海(1) あなた・宇宙意識

2010-11-28 12:58:38 | 覚醒意識

意識とは波動であるといえる。

 

意識とは、人にあっては想念であり、想いであり、感情である。これも波動である。

 

物にあっては、原子・分子の振動という形で現れている。

 

物質、原子、電子、そしてクオーク素粒子もすべてそうだ。

 

我々の極めて身近と感じている物質群は、究極はクオークで構成されているというのは、

科学的な常識ともなっている。

 

 

あなたの目の前のパソコンや机や部屋周りのあらゆるものは、

 

物質といわれている存在形態であるが、振動・波動には違いがないのだ。

 

堅い物があるという観念は、上っ面の観念、見当違いであり、そこに波動があるというのが正解と言えよう。

 

身体も無数の物質原子、またそれらで構成された分子、あるいは更に高次ともいえる有機的細胞で出来ているわけであり、細胞の数から言えば数十兆もあるといわれている。

 

そうであれば、肉体自体をとってみても、分子、原子、そしてクオークの数を言えば、それこそ数え切れないだろうし、それは宇宙の全ての星々の数より多いかも知れない。

 

我々の肉体にしても、数量では到底表すこともできない原子、素粒子で構成されており、それら全てまとめた、1つのものが「わたし」の見ている肉体である。

 

宇宙もまさに同じく、無窮ともいえる星雲、星雲群で構成されており、それら全てをまとめた1つのものが、「わたし」という宇宙意識といえるのだ。

 

人顕現としての「わたし」と、宇宙全体を身体と観ている神なる者「おおいなるわたし」、そこには質的な違いはない、

 

そうであればこそ、

 

本来のわたし・・・とは、

 

全てを包み込む全包容的意識・宇宙意識ともいえるのだ。

 

ただ、今のそれぞれの「わたし」が、それを自覚していないということである。

 

その時々の自覚のレベルが、意識の進化のレベルということだろうか。

 

あなたも私達も、全て同じくひとつの「わたし」に包含されている。

 

全てを意識している・・わたし、それを神とも根源ともいう。

 

本質的には、個々別々と感じている、いまの「あなた」と同じなのだ。

 

個々のあなた自身は、全一性の「あなた」と近く・遠く共振している。

 

いや常にそうであることに今、気付くときである。

 

想いは実現する・・・いや、まさにそういう想いこそが、

 

すでにそうであることを、想い出させるのだ。

 

今どの程度気付いているか、気付いていないかにかかわらず、あなたは宇宙意識でもある。

 

 

 

それは決して驚くにはあたらないことなのだ。

 

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。 


神さんとの会話

2010-11-21 11:47:24 | 見えないものから見えるものへ

 「神との対話」 という崇高な書が出ていますが、これなどは世界を造ったといわれる宗教的な神への偏見や誤解が、多少とも無くなって来ている証拠かもしれません。

 

いわば支配や罰に係わる神とは、人間の創り上げた観念でしかありません。

 

人は概念・観念の、複雑極まる組み合わせの中で遊んできただけなのかもしれません。

 

様々な観念を創り上げつつ、それそのものに自己投入してきたようです。

 

今こそは、自らの造った観念で縛られていることに気付くべきときでしょう。

 

その為には、自らのこころ模様に気付きつつ、またできるだけ静かな水面を観るように努めつつ、

 

こころを澄ませてゆく必要があるのです。

 

知識はそのためのものでしかありません。

 

自らが単に「身体であると想う次元」から、自らが「こころであると思い込む次元」を越えて、

 

さらに、それらを観ているところの、時空に縛られない「わたし」まで再び上がることが大切ではないでしょうか。

 

身体を見るこころの眼、さらに、こころを観る気付き意識へと上がるだけのことでしょうか。

 

いわゆるところの次元上昇とは、時空自体が勝手に変わるわけではなく、

 

「わたし」という意識の視点、その視座が、より拡大された位置に上昇することでしょう。

 

そのためにこそ、毎日の生活と体験と、愛すべき多くの人々がいるのです。

  

  

<神さまとの普通の会話>

(神様がどうして関西弁風なのか? ・・は深く追求せず。(笑))

今回もまたまた拙い記事ですが・・イレギュラーバージョンということで。

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 ・・・・・・・・・

神さん   「ごめんやす~、茶~を一杯くれんかの~」(・_・)

 

峠の親父 「へえ?・・いらっしゃいませ・・・って、あなたひょっとして神様ですか~」

 

神さん   「えっ?なっ、何でわかったん?・・どないしてや~」(?_?;)

  

峠の親父  「ど、どないもこないも・・、今回はそういう記事の設定じゃないですか。」

 

神さん   「あーっ!そうやった。 なんせ、すぐ忘れるもんやから・・」(ズーズーと茶をすすりながら)(-v-;)

  

峠の親父  「ところで、どんなご用でしょうか?」

 

神さん    「用はない」

 

峠の親父  「はあー?、さようで・・」

 

神さん    「用がなければならん・・?、そんなわけもないやろ。

 

        ただここに来て、あんさんの温めの玄米茶をいただいとりますがな、

 

        用といえば、まあ・そんなもんや。それ以上何が所望なんや?」

 

峠の親父  「はあ?、・・ご、ごもっともで・・ブツブツ」

 

神さん    「ところで、あんさん・・わてが神様や・・ちゅうのをホンマに知っとんのか?」

 

峠の親父  「えっ? ・・・本当に知っているかと言えば、?

 

         さあ・・あなたがそう言うからそうなんでしょう、としか言えません。」

 

神さん    「あはは・・確かに、わてがそうやと言えば、そうに違いないわ。」

 

        「それにな、神は普通にどこにでも、いつでも在るもんやから、

 

        ここにいてもいいんや・・。そうやないか?」(・ー・)

 

峠の親父  「し、至極ごもっともで、・・」

 

神さん    「あれ?・・あんた、わてが神やちゅーから、

 

         こりゃバチでも当てられたらかなわんと思うて、

 

         そんな気をつかっているんやないか?」 (。。)

 

峠の親父   「そんな、めっそうもない。わざわざこんなところに来て、

 

         言葉遣いが良いの悪いの言ってバチ当てる神はおりませんよ。」

 

神さん     「おーっ、なかなか言うな~、まさにそういうことや。」(^~^)

       

         「見てみい、峠の周りの木々はもう紅葉の盛りを過ぎて、

 

         すでに冬支度を始めている。自然はいつも優雅に変化しよる。

 

         マジに美しいやろ。(^ワ^)

 

         ほんのささいな自然の移り変わりにしても、膨大なエネルギーと、

 

         完全な仕組が働いていることに気いがつくやろか

 

         これっぽっちも間違わんでえー。」(・。<)

 

峠の親父  「ま、まさにそうですよね。 でもなかなか気がつかないもんで。」

 

神さん    「ありえないような奇跡に囲まれているっちゅうのに感動できんのは、

 

         それ自体がバチアタリちゅーもんや。(_ _)

 

         自分でバチ当てておきながら、それに気付かず、

         

          どこかの誰かが悪いといって

 

         外を罵っているちゅうのは、・・ちと、えげつないぞ。

 

         なー・そうは思わんか?

 

峠の親父   「え、え・げつない?・・ムム・・そうですね。 確かに・・。」

 

神さん     「他人や外の世界が悪く見えるやろ・・」

         「それはな、眼を開けとらんからや。 こころの眼、心眼やな。」

 

峠の親父  「こころの眼・・ですか。こころに眼があるんですかね?」

 

神さん    「おや?、あんさん・・、結構あげ足とるやないか・・あはは。」

 

        「こころ自体には眼があるわけやない。

 

              それは鏡のようなもんやからなー。」

 

        「その『鏡』を見る、あんさん自身に気付きの眼があるやないか。

 

         ところが・・・、『こころという鏡』が汚れているばかりに、

 

         自らが良く見えないわけや、場合によっては怪獣のように映ってしまう。

 

         あるいは猿のように見えている場合もあるやろ。」

 

          (ああああっ・・、決して、特定の誰かのことではありませんので・・)

 

峠の親父   「おー、なるほど、心は鏡・・ですか。  確かに何でも映りますな。

         それに、つい、自分の嫌がるものばかりを映してしまっているような。」

 

神さん     「フフ、そこよ。」(--)

 

峠の親父   「フフって?、やっぱ、そこですか。」

  

神さん     「あんさんがたが、いかにきれいに着飾っても、

 

         鏡が汚れていれば、映るものも汚れてしか見えんやろう。

  

         いかにポジティブな想いを持って頑張っていても、

  

         なかなか改善が見えないと感じる場合はな、

 

         様々な固定観念やら過去の経験やらの汚れが邪魔しているからなんや。

 

         また、是が非でも改善しなければ・・・という、こうあるべきだ・・という観念、

 

         それ自体が障りと気付かへんとな。

  

峠の親父   「良くしなければ、、という想い自体に、今が悪い状況であるという

         前提観念がしっかり潜んでいるということでしょうか。」

 

神さん     「おーっ言うやないかあ~、 そこよ 」 (・_<)

 

峠の親父   「そ・・、そこですか。」

 

神さん     「改善すべきものは何もない、全てが完璧である。

 

          ・・・という事がわからないからこそ、

 

          様々な改善すべき『問題』が嫌々しながら出てくるんや。」

 

峠の親父    「それはそうですが、もし全て完璧だとしたら

 

          ・・取り付く島もない・・人間何もやることないような気もしますが。」

  

神さん     「おーい!、・・・そこに傲慢がある!」

 

峠の親父   「ご、傲慢?なんですか~ ど、・・どこが傲慢なんです?」

 

神さん     「あんさん方の周り、見る聞く感じる範囲、それ以上において、

 

         奇跡のような大自然、大宇宙に囲まれとんのがお分かりか?

 

         あるがままの不可思議さと、千変万化する無限の息吹を感じることの、

 

         どこに退屈がありえよう。」

 

         また、その不可思議と奇跡の数々は、あんさん方自らのことを意味しているんや。

 

峠の親父   ・・・・・。

 

神さん     「あんさん方のこころを清めてゆく勇壮な魂の仕事もあるわけや。

 

         どこが退屈なのか。・・・ 気いが知れんわ。  うあ~っははは」

       

峠の親父   「はい、まさにもっともで・・。

               ・・もう一杯どうぞ」

 

(おわり)

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。


人間とは何か(2)   肉体自我は幻想

2010-11-14 13:49:01 | 覚醒意識

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人間とは何か? すなわち、わたしとは何か・・、あなたとは何か?

 

普通ならば、生れて大人に育つ過程での、体験記憶のことを「あなた」であると思っているだろう。

 

例えば履歴書に書くような内容が、漠然としたあなたのアイデンティティーと思うかもしれない。

 

どこどこに、いつ生れ、どういう経歴で、どういう学歴で、どういう能力を獲得したのか・・という「記憶」があなたであると思っているだろうか。

 

そう・・、たしかに『記憶』が無ければ、

 

あなたはあなたが誰であるか、自分が誰であるか、仮にも定義など出来ない。

 

よくある記憶喪失の男や女のドラマや映画で演じられるように、

 

わたしの体験の連続した『記憶』が無ければ、

 

一体全体「わたしは誰?」・・「ここはどこ?」となる。

 

実は、この世界の住人の殆んどは、「わたしは誰?」 「ここはどこ?」を体験中といえるのだ。

 

 

  

1つの人生の記憶がその人生のあなたというアイデンティティーであり、

 

さらに、幾多の多くの人生の記憶に気付くようになるまで自己認識が広がれば、

 

それが、拡大されたあなたのアイデンティティーとなるだろう。

 

それは拡大でありながら、統合のプロセスでもある。

 

あなたも自己に問いかけ、直感に従って調べることで、思い出してゆくだろう。

 

その途上では、

 

わたしは『肉体』である・・・という観念の束縛を一段超えて、

 

幾多の肉体をも経験する者が、わたしであると自己認識するようになるものだ。

 

その、より大きな『あなた』から見れば、

 

過去に別個と感じていた他者たちは、全て文字通り兄弟や姉妹であると感じることだろう。

 

傷つけあうどころの話ではなくなるのだ。

 

嫌でも援け合うのが極めて当たり前の所業になる。

 

  

より大きな生命・魂という存在としての「わたし」への自己認識過程、

 

より大きい自己アイデンティティーに拡大してゆく自己認識の過程が、

 

古くから言わている『魂の進化』ともいえるものだろう。

 

それは多くの覚者の辿った、悟りや解脱とも称されるプロセスでもある。

 

それを体験するための最も適した世界の1つが、この地球惑星生命圏であろうか。

 

あなたもわたし達も、ここにいる。

 

さて、どうするべきだろうか?

 

 

  

魂の成長、本来それは決して孤軍奮闘や悪戦苦闘によるものではなく、

 

おのずから、自然となされる、楽しいかぎりの神の自己想起という遊戯と言ってもいいかも知れない。

 

この世界は悲しみの世界ではなく、映し出された幻想を通じて、それが夢であると気付くための、いわば学習のための世界であるともいえるのだ。

 

そうであればこそ、

  

わたし達がなさねばならないのは、

 

外の他人がどうのこうのという批判をすることや、

 

他者の愚かさにあきれ果て、それを嘆き悲しむことではなく、

 

また、肉体への脅威や財産の毀損のうわさ話に恐怖し、

 

それを恐怖によって、またぞろ増幅して現象化させることでもないのだ。

 

怖れに染まった浮れ囃子(ばやし)にのって、大勢で踊り狂う時代はもう過ぎたのだ。

 

 

気付けば、人生や時代や文明は、何十年、何百年、何千年といえども、

 

いつもあっという間に過ぎ去るものだ。

 

 

永遠なる今の、

 

今、この瞬間こそ、

 

人それぞれが、より大きな自己に気付く時なのだ。

 

 

 

他者という「わたし」の影絵を、いくらいじくりまわしても、期待しても、待っていても

 

それはせんなきことと、もう気付いていることだろう。

 

この世が不完全で歪んだ世界という見方、人々は愚かな存在であるという観点、

 

それらは全て、我良しの『観念』でしかない。

 

ひょっとして、歪んでいるのは、

 

この世界や人々のことを、どこか無知で不浄と見ている、

 

あなたや私たち自身の歪んだ『こころ』のほうであろうか。

 

立て直すべきは、結果としての世の仕組みでなく、

 

その世を歪んで見ているところのわたし達のこころ、観念なのだ。

 

変えるべきは、いつの世でもどこであっても、

 

あなたや私たち自身である。

 

こころにある、マインドにある曇りを取り除くのが先決である。

  

決して、物や形が問題ではなく、それを観る『こころ』にあった歪だけが問題なのだ。

 

こころの歪や汚れを取去る為には、それを、それと観る事が出来なければならない。

 

  

人を取り巻く世界の有り方は、

自己内面の「こころ模様」に従って現れている万華鏡のようなものだ。

  

鏡の中心にある紙切れの彩が、四方八方に拡大するように、

あなたのこころの質的パターンが、

あなたの外の世界として瞬時に展開している。

 

  

こころの諸要素自体を観ることによって,

初めて、こころの歪はエネルギーを失い、

魂の為の知恵・知識となって昇華していく。

 

我々を囲い、閉じ込めてきた自分で創り上げて遊んできた、

『観念の牢獄』も消えて行くだろう。

 

あなたもわたし達も、

こころの歪で創り上げた牢獄のような遊び場を、もう出てもいい頃なのだ。

  

 

それには、ちょっとした勇気が必要ではある。

 

肉体自我、エゴといわれる、見当違いの自己観念をまず認める勇気である。

 

あなたは、それら全ての陰影を映し出す原初、根源から発せられた「光」であることは、

 

今この瞬間という奇跡において、すぐにでも思い出すことが出来るのだ。

  

肉体、あるいは時間や空間は、無限なるあなたが纏う(まとう)ところの、衣のようなものなのである。

 

その逆ではないのだ。

  

Piero  

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。


人間とは何か(1)  人は気付きの1点

2010-11-06 17:02:17 | 覚醒意識

●人間とは何か

  

気付き』という言葉は、宇宙の開闢(かいびゃく)、創造のきっかけを表現する言葉であるといえるかも知れない。

 

それは神なる根源の、時間軸、空間軸を超えたところでの、

 

みずからの『ふとした目覚め』ともいえるかもしれない。

 

それは、あなたが何気なく毎朝目覚めて、自分の存在に気付くのと同じともいえる。

 

毎朝目覚めて、再び自分に気付いた瞬間から、いつものあわただしい世界が始まるように、

 

神なる根源も、全てを超えた「時点」での目覚めによって宇宙、森羅万象を現したのだろうか。

 

目覚めのその時は、過去のどこかではなく、また未来のいつかでもなく、

 

それを越えた時の点、永遠なる瞬間、すなわち常に在る

 

今という瞬間」なのだ。

 

変わった言葉で言えば、・・・

 

人の気付くべき、あるいは所持する全財産は、永遠なる「今という瞬間」にちがいない。

 

こころ落ち着けて 『今』 を観てみるべきではないだろうか。

  

 

●人と世界は鏡像の関係

  

自らの無限性を現そうとする『意図』、それを現し続ける『意識』の働き、

 

それはあたかも、人が鏡の前に自分を映し出すのと同じことともいえるだろう。

 

見えない自己の姿を、ただ鏡によって見ることが出来るように、

 

あなたや私たちは、外という世界によって、無限なる自己を観続ける事が出来る。

 

ひいては、神なるものの顕し続けるこの無限宇宙もまた同じ原理によっている・・・。

 

宇宙全ては意識によって映し出されるところの、

 

創造の根源、神なるものの体であるともいえる。

 

宇宙においては意識は巨大な鏡とも言えるかも知れない。

 

まさか神なるものが整髪や化粧をするとは思えないが、・・・

 

実のところ、

  

環境や外の世界と称する『客体』は、我々という『主体』と鏡像の関係をもっている。

 

すなわち、我々の知覚する世界とは、

 

変幻する我々の意識の内容(コンテンツ)が映し出された、

 

多次元的な映像なのだといえるだろう。

 

現状は当然ながら、

 

人のごく表面の顕在意識では、膨大な潜在意識はそれこそ把握しようが無いけれども、

 

そのごく表層の、あなたの個別意識を包み込む無限大の潜在意識の映る姿が、

 

今のあなたという1人の人であり、またそれを包んでいるこの広大な世界である。

 

全ては普遍的、全包容的意識の中の出来事であり、

 

その無限の意識の中の『不動の一点』があなたでありわたし達なのだ。

 

すなわち、

 

自らを観る位置にある気付きの点ともいえるものが、

 

意識的な意識であるところの人間存在である。

 

それはまた、

 

あなたは、宇宙を自らの姿として観続けるところの、

 

無限なるもの、神なる根源と不可分の存在であるということを意味する。

 

  

●自己認識は、すなわち自らを創造すること

 

いわゆる創造主、神なる者、究極の存在、真我、実在、それをなんと言おうとかまわないが、

 

一なるもの、それと同質不可分である人間の特質は、

 

人に於ける 『私は・・わたしである』 という自己認識に現れている。

 

私・・は、わたしであるところの者である・・。

 

わたしは・・「私」に気付いている存在である。

 

すなわち、

 

人間とは、”自己に気付いている自己”を有する存在、

 

・・・すなわち『自己意識』を有する存在ということである。

 

それがいまはエゴにまみれていようと、発展途上であろうと変わりはない。

 

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●全てを貫いて在る波動=宇宙意識=全包容的意識

 

動物や植物のような他の生命形態には、

 

自己を自己と認識する作用が、

 

人間ほど明確ではないにしても、そこにはかならず『意識』がある。

 

それが証拠に、そこに、ここに、

 

我々の知覚し、意識するところの時間空間に、我々と同時に存在している。

 

空も大地も海も、そこに存在し、我々が知覚しているからには、

 

我々の意識と交差する意識があるということだ。

 

交差とは波動の交差、共感、同調のことである。

 

全ては波動の重合、離散、同調、干渉で出来ていると言えるだろうか。

  

そう、『意識』の作用は『波動』であるともいえるのだ。

 

あなたはどう感じるだろうか?

 

 

●存在世界は光(波動)に満ちている

  

空間は未分化の意識に満たされており、 それをまた空(くう)とも言う。

 

また、

  

電磁波は時・空自体を変調して伝播する波動であり、

 

物質もそれらが局所的に集合した波動であり、

 

生命もそれら様々な波動の有機的組織的な表現であり、

 

また『想念』は、時空を超えた次元の精妙な『意識の波動』なのだ。

 

我々の意識の個別的発現形態とも見える『想い』は、

 

多次元多層の宇宙を貫く、全包容的『意識』からくる。

 

想念、それは頭脳が信号を作り出しているわけではなく、

 

波動の法則に基づいた全包容的意識の内での伝播、送受信ともいえるものだ。

 

あるいは、

  

想念とは、広大無辺な意識の個別変調ともいえるだろうし、

 

あるいは普遍的なアカシックレコードへの

 

無意識のアクセスの結果だともいえるかも知れない。

 

あなたやわたし達の内面に毎瞬湧き上がる無数の『想い』は、

 

個々人の頭脳の中に勝手に作られるわけではなく、

 

時間空間全般、あるいはそれを包み込む全包容的意識、宇宙意識にそのソースがある。

 

あらゆる全てを常に調和に保ちながらも、千変万化する無際限の宇宙、

 

その全ては、たった ひとつの無限の意識 で営まれている。

 

全てはひとつであり、全てがつながっている。

 

その事実を「」ともいう。

 

あなたも、そこかしこにある「」に気付くことだろう。   

 

人は皆、こころ穏やかであれば、 あるがまま を、

 

本当に観ることができるのだ。

 

いつも呼吸より近い、あなたの愛するもの、事、人に気付くべきだろう。

 

それを、どこか遠くや未来を探す必要はないのだ。

 

今ここに、そこに、

 

ここかしこに、愛が在るのが見えないだろうか?

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。