「霊界の集合施設体験記」など、過去の記事でも披露させて頂きましたが、今の地球上の表層に存在する生命圏以外にも、数多の多種多様な、多層に重なった生命圏が存在するだろうと思われます。自分自身、好奇心が旺盛な性質で、書物等からの知識の収集もさることながら、その時々で体験する不可思議な意識体験の裏づけや分析などを通してみると、さらに壮大な開かれた世界を感じないわけにはいきません。
この地球上の世界の他にも、いわゆる霊界などと言われるような、あたかも存在周波数帯が異なるような多層世界があることや、数多の天界、あるいは、同じ又は別次元での惑星文明なども、どうも当たり前のように思われるのです。
今回の記事に関連する、生まれ変わりや転生に関する情報も、アカデミックな分野からも次第に数多く発信されるような時代になって来ています。これらも、今の人類の意識進化の過渡期に同期しているようでもあり、自己や世界のリアルな在り様を知ることが以前より容易になってきているのではないかと感じています。
現在は、いわば天からの慈悲の手が下りているような特殊な時代でもありそうです。
●生と死は表裏一体
わたしたちは、「今」確かに生きています。同時代の人間達は、今この時点での奇跡的な生を共有しているとも言えるのです。それを古くから、縁(えにし)と言うようです。
多くの人々は生命と言われるものは有限であると認識しています。生まれたら死ぬことになるのは、誰にも嫌というほど判っていることでありますが、人々にとってはあまり歓迎されないようです。ほとんどの人が死ぬのは怖いと思っているからです。古代から悟りや目覚めといわれる境涯を体得した先達たちにとっても、生と死、これをどう克服するかということが1つのテーマでもあったのです。最高にありがたい命を生きることのすぐそばに、いつも死という恐怖があること自体が、実に不思議な事に感じないでしょうか。
生と死、まさに光と影のような表裏一体のものです。片方は追い求められ、もう片方は忌み嫌われています。
●子供には死の恐怖はない
子供の頃にはこの死の恐怖など無いものです。その概念すらありません。社会のなかで大人になる過程を通じて、身近な人がこの世から無くなる衝撃的な現象を経験しながら、この人生の有限さ、無常さを体験してゆきます。そうして自分の身に及んだ場合のことをふと考えることで、それを恐怖することになるわけです。遠くの無縁の人々、無関係な人々の死には興味がなくとも、身近な人の死には悲しみを感じるのは、今までに在ったものがなくなる・・・と言う喪失の実感がその原因だろうと思います。最も身近な?自分自身の死など考える場合には、なおさら恐怖を感じてしまうわけです。
●エゴの成長とともに恐怖が芽生える
赤子から子供時代を経ながら成長を続け、次第に社会というカテゴリーに溶け込むことによって、自分が大勢の他人の中の1人であることを自覚するようになり、その非力なワンオブゼムの只中で、人の生成・消滅を目の当たりにすることになれば、その受ける衝撃は大きく、生は良いが死は悪だとも感じてしまうようになるでしょう。往々にして、死の影から逃れ、生なる光のみを追い求める人生に突き進んで行こうとします。嫌なものを忘れよう、それから逃れるようと、外の世界に入り込んで行くことにもなるわけです。 これらは、大自然や社会の中で生き抜く為に備えられた、肉体の生存本能に基づく反応でもあります。
当然ながら、死は肉体生存と対立する現象であり、強く生きる・・という行為自体が、実はその対立する死の恐怖なるものを元にしていると言っても良いかもしれません。一見矛盾した状態をそのままにして生きてゆくことになっているのではないかと思われます。不安のまま、不快のままであるが故に、無意識にそれを打ち消そうとして、社会の中で富や地位や名誉などを追い求めるようになる場合もあるでしょう。人生での喪失感がどうしようもなく怖いために、常に物質で代用しようとしてきた今までの社会のあり様といっても良いかもしれません。
●恐怖をそのまま固定し続ける文明
我々が決して無視することの出来ないはずの生と死という現象が、人生の中において理解されないまま、忌み嫌われ続けていることに、この地球、地上の社会での最大の問題があるのだろうと思います。
確かに、死んだらどうなる?と考えてみると、基点となる身体そのものが無くなるわけで、それ以上の事には思い至らないわけでしょう。死んだら終わりだ、という多くの人々の発言は誰にも説得力がありそうで、またこれ以上単純明快なものは無いとも感じるのでしょう。目に映ずる肉体が滅びたら、それで終わりだ・・という単純な観念にとどまっているという状態でもあります。
平均的な人類の集合意識の根底には、人間は物質であるという観念の塊が重りのように沈んでいます。
それらの根底には、唯物史観とも言える観念、触れて、目に見えて、耳に聞こえないものは存在しない・・という無意識の信念が支配しているようです。眼に見えないからその先には何も無いという、判り易いけれども、かなり近視眼的な観念が人類意識の底流にあります。
地上の海を船で進めばその先は断崖絶壁であるという、古い時代の世界観と似通ったものがあります。我々はその先を見極めなければならないのです。
●恐怖は無知を示す感情表現である
生命の表現である生と死、そこに人間の抱く恐怖があること自体が不思議ではないでしょうか? 恐怖は、知らないことに対する強い不安感情ともいえるものであり、もし仮に死がどうしようもないものならば、どうして恐れるのでしょうか?
恐怖は、「逃れる」場合に追いかけてくるものです。もし恐怖するものが何なのかが理解できれば消滅してしまうことぐらいは誰しも経験しています。本来理解すべきものであるからこそ、その促しとして恐怖なるものが感ぜられるのではないでしょうか。
恐怖はイコール理解すべきものである・・ことを表しており、また超えることが出来ることをも示しています。恐怖・・・それは解決すべき重要なテーマがあることを暗示しています。
理解する必要性があるからこその恐怖であり、それに対するたった1つの解決策は、勇気をもって対峙してゆく行為以外にあり得るとは思えません。不明だからこそ不安で怖いわけです。逆に言えば、思い切った理解の必要性があるよと言ってくれているのでしょう。
確かにこのテーマに関しては、悟りとも言うべき大きな意識のジャンプのようなものが必要かも知れません。また、ジャンプするのはあくまでも自分自身であることが、まず第一に理解されなくてはならないのです。大勢の集合意識の中で安眠をむさぼりながら、あくまでも他人事の観点に立った小手先の行為、都合の良さそうな情報のみを得ようとする行為では、真実に肉薄することはままならず、ましてやを飛び越えることは難しいかも知れません。
●眼に見えなければ存在しないか?
電波による受像システムの話は、見えないものが見えるものを生じさせる仕組みの1つのアナロジーを示したものです。電波は眼に見えないが地上のあらゆるところに渡って伝播しています。通常は五感では感じない訳ですが、携帯電話、TV受像機、ラジオ受信機、無線通信装置などにより、我々の五感に感じる波動に変換されます。TV映像での美しいアルプスの情景や、アラスカの雄大な大自然などが我々の眼に映り、音声で聞こえるのはその受信・同調機能によるものです。それらの映し出される画像や音声等は、元を正せば、眼には見えないある一定の周波数帯の電磁波でしかないのです。
●エネルギー自体は決して五感に映じない
物理学ではエネルギー保存則というものがあります。エネルギーは眼に見えないがそのエネルギーはどんな形態になっても保存されること、失われることはないことをいいます。それらの眼には見えないエネルギーは、諸現象の原因となるものであり、運動エネルギー、電気エネルギー、振動エネルギー等、その時どきの表現の形態は変っても、そのエネルギー自体は無くならないということです。物理的な現象を起こすエネルギーは数値で表すことが出来ます。このエネルギー保存則は我々の物質文明を裏づける最も大切な概念です。ダムの流水の運動エネルギーは、モータの電気に変換され、それが電動機器を実際に動作させる運動・振動エネルギーに変換されます。これは原因となるエネルギーが、形態を変えながらも続いてゆくということを示しています。
●眼に見えないからこそ、見えるものとなる
現れ方は様々ですが、その元にある、すなわち因たるエネルギーは無くなることがないのです。またそのエネルギーなるものは、目にも耳にも映ずることが出来ません。五感に感じるのはその現れ、現象である色々な表現形態だけなのです。眼に見えないものこそが、眼に見えるようになっている原因であることが理解出来るでしょうか。
我々の世界の諸現象も、目に見えないものから見えるものへ変移し続けていることを表しており、もし、見えるものだけで構成された場合には、もうにっちもさっちもいかないことになり、それはちょうど今の物質偏重の科学の行き詰まりを表わしているようです。
物理的な世界の現象を説明するエネルギーという概念が、見えないけれども現象の背後に必ずある因というものに気づかせてくれる1つの例ではないでしょうか。
●ハードルは1人1人超えるべきもの
古代から聖人や覚者たち、悟りを得たといわれる人々が、人生での衝撃等をきっかけに、疑問や好奇心を抱かざるを得ず、生と死、その単純でどうしようもなさそうなテーマを掘り返し、探索することが行なわれてきたのでしょう。しかしながら、今の文明の有り様を見るにつけ、過去から続くそれらの貴重な探索と理解の報告、人類への真理体現のアナウンスは、理解至らぬ大勢の無意識の人々により、変質加工されてしまった部分もあるようです。それは、生と死さえも、あくまでも他人事のように扱い、大勢の中で無意識に生きることを選んできた故であるとも言えるでしょう。
彼ら偉大なる先輩達が、異口同音に繰り返しているのは、命は永遠であるということです。生と死は単に1つの区切りに過ぎないと言っているのです。生命は続いていくなかで、死と生という区切りを経て、その個別生命の表現形すなわちボディは変わり、存在する世界環境も自ずと変って行きます。その表現を如何様にもオペレーション出来るのが意識作用・こころの働きとも言えます。いわゆる輪廻は、そのオペレーションの繰り返し習得過程を表していると考えて間違いないでしょう。
人間存在は永遠であるということを受け入れる時ではないでしょうか。今まで無意識という眠りと、人間が物質であるという観念さえも大切に受け入れて来たわけであり、永遠性を受け入れるのに何の問題もないのではないかと思います。それには、どんな難しい理屈も、他者の承認も必要はありません。一体どのような自分を表現したいか・・という自分の発する意識だけが問われています。
●空は全てを生み出す因である
我々のこころ・意識作用は現象を生じさせる因になっていることが明白であれば、その意識活動の根本・魂は、物質世界の背後にある因であることを示しており、その因なるエネルギー領域は生成・消滅等しないことが推測出来ると思います。元来、人間のこころの働きそのものが原因となって、肉体や環境をその表現媒体として使っているのです。笑う、怒る、恨む、歩く等の・・全ての原因は、この眼に見えない心の働きが肉体や環境を通して現れたものであることに気がつくわけです。人間のこころとは、元を正せば根源たる意識の自己認識作用と同質と言えるでしょう。
●因たる一者はあなたでもある
因たるものは物質レベルの形態ではなく、眼に見えないのは当たり前ですが、それゆえにこそ物質表現の原因となるものであり続けるわけです。決して生成・消滅するものではないのです。
それ自身が何にも因らないもの、全ての因であり続けるもの、「それ」。
「それ」はまさにどんな表現も可能な「空」(くう)であるとも言えるでしょう。
「空」を無限に表現するものが、「わたしは在る」という根源意識なのでしょう。
人間を含む全てはまさに根源から出てきているのです。生成・消滅を超えた存在である因なるものが自分であれば、どこに恐怖などあり得るでしょうか。恐怖などは一時の教材以外の何物でもないと、今あなたは思えるでしょうか。
本日も拙い文章をお読み頂き、誠に有難うございました。