気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

生と死を超えるとは?

2008-09-28 16:15:14 | 見えないものから見えるものへ

 「霊界の集合施設体験記」など、過去の記事でも披露させて頂きましたが、今の地球上の表層に存在する生命圏以外にも、数多の多種多様な、多層に重なった生命圏が存在するだろうと思われます。自分自身、好奇心が旺盛な性質で、書物等からの知識の収集もさることながら、その時々で体験する不可思議な意識体験の裏づけや分析などを通してみると、さらに壮大な開かれた世界を感じないわけにはいきません。

 この地球上の世界の他にも、いわゆる霊界などと言われるような、あたかも存在周波数帯が異なるような多層世界があることや、数多の天界、あるいは、同じ又は別次元での惑星文明なども、どうも当たり前のように思われるのです。

 今回の記事に関連する、生まれ変わりや転生に関する情報も、アカデミックな分野からも次第に数多く発信されるような時代になって来ています。これらも、今の人類の意識進化の過渡期に同期しているようでもあり、自己や世界のリアルな在り様を知ることが以前より容易になってきているのではないかと感じています。

現在は、いわば天からの慈悲の手が下りているような特殊な時代でもありそうです。

●生と死は表裏一体

 わたしたちは、「今」確かに生きています。同時代の人間達は、今この時点での奇跡的な生を共有しているとも言えるのです。それを古くから、縁(えにし)と言うようです。

 多くの人々は生命と言われるものは有限であると認識しています。生まれたら死ぬことになるのは、誰にも嫌というほど判っていることでありますが、人々にとってはあまり歓迎されないようです。ほとんどの人が死ぬのは怖いと思っているからです。古代から悟りや目覚めといわれる境涯を体得した先達たちにとっても、生と死、これをどう克服するかということが1つのテーマでもあったのです。最高にありがたい命を生きることのすぐそばに、いつも死という恐怖があること自体が、実に不思議な事に感じないでしょうか。

生と死、まさに光と影のような表裏一体のものです。片方は追い求められ、もう片方は忌み嫌われています。

●子供には死の恐怖はない

 子供の頃にはこの死の恐怖など無いものです。その概念すらありません。社会のなかで大人になる過程を通じて、身近な人がこの世から無くなる衝撃的な現象を経験しながら、この人生の有限さ、無常さを体験してゆきます。そうして自分の身に及んだ場合のことをふと考えることで、それを恐怖することになるわけです。遠くの無縁の人々、無関係な人々の死には興味がなくとも、身近な人の死には悲しみを感じるのは、今までに在ったものがなくなる・・・と言う喪失の実感がその原因だろうと思います。最も身近な?自分自身の死など考える場合には、なおさら恐怖を感じてしまうわけです。

●エゴの成長とともに恐怖が芽生える

 赤子から子供時代を経ながら成長を続け、次第に社会というカテゴリーに溶け込むことによって、自分が大勢の他人の中の1人であることを自覚するようになり、その非力なワンオブゼムの只中で、人の生成・消滅を目の当たりにすることになれば、その受ける衝撃は大きく、生は良いが死は悪だとも感じてしまうようになるでしょう。往々にして、死の影から逃れ、生なる光のみを追い求める人生に突き進んで行こうとします。嫌なものを忘れよう、それから逃れるようと、外の世界に入り込んで行くことにもなるわけです。 これらは、大自然や社会の中で生き抜く為に備えられた、肉体の生存本能に基づく反応でもあります。

 当然ながら、死は肉体生存と対立する現象であり、強く生きる・・という行為自体が、実はその対立する死の恐怖なるものを元にしていると言っても良いかもしれません。一見矛盾した状態をそのままにして生きてゆくことになっているのではないかと思われます。不安のまま、不快のままであるが故に、無意識にそれを打ち消そうとして、社会の中で富や地位や名誉などを追い求めるようになる場合もあるでしょう。人生での喪失感がどうしようもなく怖いために、常に物質で代用しようとしてきた今までの社会のあり様といっても良いかもしれません。

●恐怖をそのまま固定し続ける文明

 我々が決して無視することの出来ないはずの生と死という現象が、人生の中において理解されないまま、忌み嫌われ続けていることに、この地球、地上の社会での最大の問題があるのだろうと思います。

 確かに、死んだらどうなる?と考えてみると、基点となる身体そのものが無くなるわけで、それ以上の事には思い至らないわけでしょう。死んだら終わりだ、という多くの人々の発言は誰にも説得力がありそうで、またこれ以上単純明快なものは無いとも感じるのでしょう。目に映ずる肉体が滅びたら、それで終わりだ・・という単純な観念にとどまっているという状態でもあります。

 平均的な人類の集合意識の根底には、人間は物質であるという観念の塊が重りのように沈んでいます。

 それらの根底には、唯物史観とも言える観念、触れて、目に見えて、耳に聞こえないものは存在しない・・という無意識の信念が支配しているようです。眼に見えないからその先には何も無いという、判り易いけれども、かなり近視眼的な観念が人類意識の底流にあります。

 地上の海を船で進めばその先は断崖絶壁であるという、古い時代の世界観と似通ったものがあります。我々はその先を見極めなければならないのです。

●恐怖は無知を示す感情表現である

 生命の表現である生と死、そこに人間の抱く恐怖があること自体が不思議ではないでしょうか? 恐怖は、知らないことに対する強い不安感情ともいえるものであり、もし仮に死がどうしようもないものならば、どうして恐れるのでしょうか?

 恐怖は、「逃れる」場合に追いかけてくるものです。もし恐怖するものが何なのかが理解できれば消滅してしまうことぐらいは誰しも経験しています。本来理解すべきものであるからこそ、その促しとして恐怖なるものが感ぜられるのではないでしょうか。

 恐怖はイコール理解すべきものである・・ことを表しており、また超えることが出来ることをも示しています。恐怖・・・それは解決すべき重要なテーマがあることを暗示しています。

 理解する必要性があるからこその恐怖であり、それに対するたった1つの解決策は、勇気をもって対峙してゆく行為以外にあり得るとは思えません。不明だからこそ不安で怖いわけです。逆に言えば、思い切った理解の必要性があるよと言ってくれているのでしょう。

 確かにこのテーマに関しては、悟りとも言うべき大きな意識のジャンプのようなものが必要かも知れません。また、ジャンプするのはあくまでも自分自身であることが、まず第一に理解されなくてはならないのです。大勢の集合意識の中で安眠をむさぼりながら、あくまでも他人事の観点に立った小手先の行為、都合の良さそうな情報のみを得ようとする行為では、真実に肉薄することはままならず、ましてやを飛び越えることは難しいかも知れません。

●眼に見えなければ存在しないか?

 電波による受像システムの話は、見えないものが見えるものを生じさせる仕組みの1つのアナロジーを示したものです。電波は眼に見えないが地上のあらゆるところに渡って伝播しています。通常は五感では感じない訳ですが、携帯電話、TV受像機、ラジオ受信機、無線通信装置などにより、我々の五感に感じる波動に変換されます。TV映像での美しいアルプスの情景や、アラスカの雄大な大自然などが我々の眼に映り、音声で聞こえるのはその受信・同調機能によるものです。それらの映し出される画像や音声等は、元を正せば、眼には見えないある一定の周波数帯の電磁波でしかないのです。

●エネルギー自体は決して五感に映じない

 物理学ではエネルギー保存則というものがあります。エネルギーは眼に見えないがそのエネルギーはどんな形態になっても保存されること、失われることはないことをいいます。それらの眼には見えないエネルギーは、諸現象の原因となるものであり、運動エネルギー、電気エネルギー、振動エネルギー等、その時どきの表現の形態は変っても、そのエネルギー自体は無くならないということです。物理的な現象を起こすエネルギーは数値で表すことが出来ます。このエネルギー保存則は我々の物質文明を裏づける最も大切な概念です。ダムの流水の運動エネルギーは、モータの電気に変換され、それが電動機器を実際に動作させる運動・振動エネルギーに変換されます。これは原因となるエネルギーが、形態を変えながらも続いてゆくということを示しています。

●眼に見えないからこそ、見えるものとなる

 現れ方は様々ですが、その元にある、すなわち因たるエネルギーは無くなることがないのです。またそのエネルギーなるものは、目にも耳にも映ずることが出来ません。五感に感じるのはその現れ、現象である色々な表現形態だけなのです。眼に見えないものこそが、眼に見えるようになっている原因であることが理解出来るでしょうか。

 我々の世界の諸現象も、目に見えないものから見えるものへ変移し続けていることを表しており、もし、見えるものだけで構成された場合には、もうにっちもさっちもいかないことになり、それはちょうど今の物質偏重の科学の行き詰まりを表わしているようです。

物理的な世界の現象を説明するエネルギーという概念が、見えないけれども現象の背後に必ずある因というものに気づかせてくれる1つの例ではないでしょうか。

●ハードルは1人1人超えるべきもの

 古代から聖人や覚者たち、悟りを得たといわれる人々が、人生での衝撃等をきっかけに、疑問や好奇心を抱かざるを得ず、生と死、その単純でどうしようもなさそうなテーマを掘り返し、探索することが行なわれてきたのでしょう。しかしながら、今の文明の有り様を見るにつけ、過去から続くそれらの貴重な探索と理解の報告、人類への真理体現のアナウンスは、理解至らぬ大勢の無意識の人々により、変質加工されてしまった部分もあるようです。それは、生と死さえも、あくまでも他人事のように扱い、大勢の中で無意識に生きることを選んできた故であるとも言えるでしょう。

 彼ら偉大なる先輩達が、異口同音に繰り返しているのは、命は永遠であるということです。生と死は単に1つの区切りに過ぎないと言っているのです。生命は続いていくなかで、死と生という区切りを経て、その個別生命の表現形すなわちボディは変わり、存在する世界環境も自ずと変って行きます。その表現を如何様にもオペレーション出来るのが意識作用・こころの働きとも言えます。いわゆる輪廻は、そのオペレーションの繰り返し習得過程を表していると考えて間違いないでしょう。

 人間存在は永遠であるということを受け入れる時ではないでしょうか。今まで無意識という眠りと、人間が物質であるという観念さえも大切に受け入れて来たわけであり、永遠性を受け入れるのに何の問題もないのではないかと思います。それには、どんな難しい理屈も、他者の承認も必要はありません。一体どのような自分を表現したいか・・という自分の発する意識だけが問われています。

 ●空は全てを生み出す因である

 我々のこころ・意識作用は現象を生じさせる因になっていることが明白であれば、その意識活動の根本・魂は、物質世界の背後にある因であることを示しており、その因なるエネルギー領域は生成・消滅等しないことが推測出来ると思います。元来、人間のこころの働きそのものが原因となって、肉体や環境をその表現媒体として使っているのです。笑う、怒る、恨む、歩く等の・・全ての原因は、この眼に見えない心の働きが肉体や環境を通して現れたものであることに気がつくわけです。人間のこころとは、元を正せば根源たる意識の自己認識作用と同質と言えるでしょう。

●因たる一者はあなたでもある

 因たるものは物質レベルの形態ではなく、眼に見えないのは当たり前ですが、それゆえにこそ物質表現の原因となるものであり続けるわけです。決して生成・消滅するものではないのです。

それ自身が何にも因らないもの、全ての因であり続けるもの、「それ」。

「それ」はまさにどんな表現も可能な「空」(くう)であるとも言えるでしょう。

「空」を無限に表現するものが、「わたしは在る」という根源意識なのでしょう。

人間を含む全てはまさに根源から出てきているのです。生成・消滅を超えた存在である因なるものが自分であれば、どこに恐怖などあり得るでしょうか。恐怖などは一時の教材以外の何物でもないと、今あなたは思えるでしょうか。

   Flower1008

本日も拙い文章をお読み頂き、誠に有難うございました。

 

  

  


汝自身を知る・とは?

2008-09-23 15:21:05 | 見えないものから見えるものへ

 ここでのテーマは、様々な現象世界の中にあって、また様々な現象を切り刻んで加工し、更なる枝葉が爆発しているような今の世界にあって、その根本原因となるものに気づいてゆくことです。但し、決してオリジナルでも、目新しいものでも、高尚なものでもありません。

 今まで、聞く耳、見る目を持たないがゆえに見逃してきた本当の宝物を単に掘り返しているだけの事です。真実は何処か遠くにあるという見当違いの観念を捨て去り、いつでも今もなお、すぐそばにある真実をしっかりと見ることが大切ではないか・・・ということだけを言っています。実はかなり古い時代からのセオリーなのです。

まさに、汝自身を知らずして、他の何を知るのか・・・・単に、その問いかけというだけことです。

●混乱の底流に見える新しい時代

 混乱の時代は逆に新しい時代の先がけでもあることを決して忘れてはいけないでしょう。1つの混乱した面だけを見て、それが全てであるという漠然としたイメージだけで、一喜一憂することは思慮に欠けていると考えるべきものです。真実を見る、そのためにはあらゆる現象をしっかりと観察することが必要ですが、それを見ているのは自分であるということは忘れるべきではないわけです。我々は日常生活のなかでも、様々な現象から、自分に刺激のある部分だけを感じて、その漠然としたイメージを取り込み続ける癖に、慣れてしまっているかもしれません。例えばTV・ラジオ・ネットから流出する情報を、思慮・吟味という自己フィルターを経ずして鵜呑みにしてしまう場合も多いでしょうか。

●自己意識の自立歩行の時は今しかない

 この元にある観念は、「他人は真実を伝えており、善意しかない・・」と考える、幼児期の温(ぬく)い感覚から来ています。残念ながら今の世界は、皆、精神的に発展途上の人ばかりの世界であり、ピンからキリまでの段階があるものです。これは財産や地位や名誉などとは全く関係がありません。物が豊富な人が幸せか?と問えばそうではなく、逆に強烈な不安の裏返しであることに気づくべきです。不安であればあるだけ、外に他人にその獲得意図を投影してゆくのが大方の心のパターンです。それを全て善だとか全て悪だとか、無意識に決め付ける考えかたは、まさに幼い分別を現しています。

●まず自分のこころのなかの、光と影を見るべし

 自分の心の働きを見れば、そこにある光と影もわかるわけです。人生で遭遇する様々な機会を通じて、その時々の心の動揺、明るい表から醜い裏の影の部分まで、自分自身で感じ取ることができるようになれば、それが大いなる理解に変質してゆくようです。ある意味人生の目的であるとも言えるでしょう。その意味では人生は確かに辛いと感じる部分も多いのですが、それもこれも、否応もなく少しづつ理解が進むものです。

 自分が今、完全に「善」なる人間であると感じる人はまずいないでしょう。日常の生活の中で、自分の心の動きと行為をじっくり観察する機会があれば、明暗取り混ぜた色々な思いや感情が自分の中に去来するのが感ぜられると思います。多かれ少なかれ、不安、憎しみなどもまさに日常茶飯事ではないでしょうか。

●想念は宇宙全体波動の一部を抽出感受したもの

 通常、想念は頭の中に発生するイメージと捉えていますが、実はラジオの受信機と同じような送受信器に過ぎないようです。頭脳はその去来する意識波動を受信し、現実の生活を通じて蓄積され、馴染んだイメージに変換して、それをわかりやすいイメージに翻訳する機能のことです。顔の部分は耳目などの五感が集中しており、特に視覚は最も活動比率の高い五感であるため、我々の想念があたかも頭部、視覚領域にあるという感覚をもっています。

 想念がTVラジオの電波を受信するごとく、外部からやって来るというのとは少し違うわけですが、あえて言うならば、様々な波動域の意識波動 (想念や感情の波動)の一部を、自己という中枢で連続再生しているともいえるでしょう。想念は外から来ると同時に内から発する波動であるともいえます。まさに生命は波動の海の中で新陳代謝をしているという比喩表現も可能かも知れません。

 例えば宇宙全体にある波動、これらは物質レベルの可視、知覚可能な波長帯のものから様々な形態や波長帯の振動を含めるわけですが、この波動のうち物質レベルの原因となる微細な波動帯域の情報を、想念としてキャッチして自己再生しているとも考えられます。

●内なるこころのレベルに相応しい外の環境を再生産している人間存在

その各自の想念の再生の内容は、総合的なこころの状態にまさに依存しています。その人間のこころがどういう状態であるかが、どのような想念を発することになるかを決めることになります。まさに同調ダイヤルは「総合的なこころ」の働きなのです。こころとは、想念・感情の働き自体をも言いますが、それらの蓄積されて統合されている経験・理解が総合的なベースになって、更にそれに相応しい想念を感受し、行動や環境へと変質しているのが本当の事のようです。

●想念は因たる自己シナリオを創る元素である

人間に授けられた恩寵は、宇宙諸現象の原因となる「根源意識」を感受できることなのです。いわば宇宙、森羅万象の演劇の「シナリオ」を読み取ることが出来る能力と言ってもいいかも知れません。まさに宇宙顕現の一翼を担っている存在ともいえます。想念はそのシナリオの一部分と言ってもいいわけで、現象を起こす基になる因でもあります。シナリオと言っても決まりきったストーリーというものでなく、瞬間瞬間に人間の想念や感情、行為が創り上げるものです。まさに人間とは、まったくの瞬間芸、アドリブを任されている演者のようでもあります。

●眠ったままのシナリオライター

 いかに多くの地上の人々が烏合の衆のように見えても、各自各自のオリジナルなシナリオ通りに、自分自身で演じているということです。無意識に集団をかたちづくり、これまた無意識に見よう見まねで人生を選択している状態を、いわば眠った状態と言えるのでしょう。

 我々の想念は我々のそれぞれの世界を、いつもリアルタイムに決定づけています。それがわかりにくいと感じるのは、この3次元世界の1つの特徴であり、世界が物質レベルであると信じているために、原因たる思いが実際の現象への遷移や変化として現れるのがかなり遅く感じられる為のようです。

●目の前の、当たり前という奇跡に気づくべし

 規模の大小を問わず、我々の思い、思考が我々の行動を起こします。日常の在り様は極めて小さい規模だとも感じますが、よくよく考えればこれは奇跡的なことなのです。手を上げる事、下げる事、歩く事、見ること、泣く事、笑う事・・などの様々な現象は、自分で起こしているのです。全くの当たり前、常識中の常識ともいえますが、このような仕儀に至っていることに、あり得ないほどの不思議さを感じないでしょうか。それらの原因となっている思考や感情などの意識作用を見逃し続ける事が、とんでもない誤謬であったと感じないでしょうか。それらこそ、物体化、現象化していないからこそ現象化の原因であることに気がつくでしょうか。

 当たり前のことが、実はとてつもない奇跡的な仕組みを現していることに気づくべきであると思います。今生きていることは奇跡である・・・という言葉はまさに真実の吐露なのでしょう。小さい世界と感じる我々の身近な生活も、途方もない意図やシナリオを元に表現されていると考えずにはおられません。

●見えないからこそ、見えるものへ変換される道理

 我々の思いや感情が原因となり、自分の体験する現象世界を作り上げる基本原理に気づくことが、いわば目覚める為の1つの必須のプロセスです。自分の心の働きを見ずして、世界の本質は理解出来ないということです。内なるプロセスは外なるプロセスの全くの写像であり、時間・空間というフィールドに自己を現す創造行為なのです。

 地道な自己観察や反省、自省はすなわち、不可解として混乱の極みと感じている外の世界の全き理解にそのまま繋がるのです。

●光と闇は相互に補完している1つの両側面である

われわれはおのれの中に去来する光と影の想念をそのまま見る必要があるのではないかと思います。

光だけを言う人は本当の光を知らない人です。そのようなきれいな事だけの「ウソ」はもう見抜けるはずです。

影だけをあげつらう人は、解決すべき問題を他のせいにしているのでしょうか。

それは「執着」の為せる技だと思われます。

光と影、明暗、濃淡をそのまま見ることが必要です。そのままの2元性を見ることで、まさにこの世界を理解出来るわけであり、極端から極端に右往左往することは、単に刺激を得ようとする行為に過ぎないのです。

●明暗を超えた先の感動と喜び

 光と闇がハッキリ分別できた時こそ、その各々の役割りに理解が至り、やっとのことで真に喜ばしい自己の在り様を選択することが出来るものです。例えば、光や闇と言われるものが、全てがその「絵」の中にあるからこそ、濃淡の色彩に彩られた、素晴らしい感動と喜びに満ちた芸術が生まれる事になります。その芸術のなかにはもう、明暗という単独の対立は見えなくなります。

実に微妙な隠された2元性の昇華システム、これも奇跡でしょうか。

あらゆる存在は、あらゆる存在のために存在しているのですこれは事実、慈愛そのものといってもおかしくない仕組みだと感じないでしょうか。

口はばったい物言いでありますが、我々皆、今この瞬間、慈愛と奇跡の上に存在しています。それにどの程度気づくか気づかないか?たったそれだけのようなものでしょうか。

●汝自身を知ることは、内省を通じて世界を知ること

 汝自身を知れ・・ということは、1つ1つの内省のプロセスでもあり、逆に世界の認識・拡大のプロセスでもあると言えます。

 多くの人々が、無限に湧き出す泉のような、おのれの内面に気づくようになれば、当然の理として、外の世界はその投影としての自らをいち早く変えてゆくと思います。古いものは新しいものに変ってゆくでしょう。

 今はもう、一体どのような自分でありたいか、各人で真剣に選択する刻限でもあるのだと感じないわけにはいきません。自分の内面に相応しい外面が、いついかなる時もまさにそのとおりに在るのを忘れないことが大切だと思います。

120pxbodhidarma

   

 

 

    

   

   

本日も拙い文章をお読み頂き、誠にありがとうございました。

  

 


古い信念体系からの超脱

2008-09-21 15:17:17 | 宇宙的気付き

●人類意識のビッグバン

 現在は情報化社会真っ只中ですが、その溢れるかえる情報は、実は眼に見えない想念の爆発を表したものと言えるかも知れません。人類相互間で行なわれる様々な出来事を、不特定多数の大勢の人間達がニュース等で「知る」ことによって、更にそれに関する思いや感情が、其の分だけ増幅されます。あたかも細胞同士のコミュニケーションが、指数関数の更に指数関数的なつながりをつくり出します。まさにニューロン細胞の爆発的進化を彷彿とさせるようです。単なる物質現象レベルの爆発・崩壊ではなく、原因を作る側の人類意識レベルのビッグバンともいえるものです。

●想念・感情と現象世界の相互作用

 思いや感情は、眼に見えないけれど確実に現実化の原因です。眼に見えるように現れたこと、現象化したこと、それが情報として伝わったこと・・・、これは、はすでに様々な人類想念が結果として世界に変換されていることを表します。心を持った人間存在たちが発する想念、感情は時間経過を通して結果となって現象化し、さらにそれらの現象・結果を知ることにより、再び人間に影響を与え、更なる思いや感情を次々と作り出してゆくわけです。今、次第に因果の移り変わりが速くなっているようでもあります。

●人類意識内で起きている連鎖反応

 このように考えると、人間社会での情報の多様化と拡大は、一種の「意識作用の連鎖反応」であることがわかると思います。外から与えられたエネルギーをそのままの形態で再び外に放出してゆく過程は、あたかも物質原子レベルでの核反応のようです。原子力は熱核反応ともいわれ、無理やり外部からのエネルギーを与えて、熱中性子をはじき出し、その同じ反応を連鎖的に拡大させます。その爆発的に崩壊してゆくエネルギーを、水分子の運動エネルギー(熱)に変換し、それを蒸気タービンで廻して発電しているのが、今の原子力発電です。問題は、調和をもって存在している物質原子を、無理やり分裂させる過程で現れる崩壊エネルギーを使用することであり、副産物として膨大な放射線が同時に放出することであり、何万年単位の間、危険な放射能とし生命への直接的な脅威として存続し続けることです。

 昨今起き始めている経済での大変動も、ある意味で、すでに限界にきた貨幣社会の仕組みへの執着によって変質しているようであり、更なる崩壊の連鎖を呼び込もうとしているようです。これはまさに人為的な恐怖の濁流であり、このような流れにはいち早く気づくべきでもあります。現象の根本的なところに「恐怖」や「不安」があると見える場合は、いつも注意していることです。また恐怖や不安は、他者依存でなく、自分自身で消し去る努力がどうしても必要です。これからおきてくるであろう様々な現象、これらも今まで何世も苦楽を経験した人間達の、あたかも卒業試験問題の1つではないかとも思われます。

●恐れの克服

 恐怖や不安、これが今人類が最も克服すべきことなのです。様々な結果で溢れかえった世界の中、無意識状態での生存努力を続け、混乱と不安を今体験し続けている人々、いまだ自己がはるかに高次元ともいえる存在であることに気づかない催眠・睡眠レベルの人々にとって、必ず通過しなければならない課題でしょう。自分自身が何であるかという理解を少しでも得るならば、恐れや分裂等は本来どこにも無いことに気づくことになるでしょう。それは目覚めの瞬間でもあります。

●外から内への帰還

 原因は内にあること、外の世界はその結果・反映にすぎないこと、このことを理解することは容易ではないと感ずる場合もあります。偶然の確率が支配する外の現実世界が、唯一の実在であるという観念が、いつの間にか身に染み付いていることに気がつくわけですが、それらは一体誰に、どこから教わったのでしょうか。責任者などどこにもいるわけがありません。全ての経験と思いは自分の観念のフィルターを経た認識・記憶にすぎません。

 目覚めるのも、寝るのも、食べるのも、笑うのも、泣くのも、困るのも、恐れるのも・・・ありとあらゆるものは、全てその人の思いや判断・感情を元に起きているものです。それに気がつくことが内観ということです。現象の背後にある因を理解することが出来る大切な行為なのです。

 それでは外の世界で起きていることはどうなんでしょうか。それらは無数の仲間たち、あなたやわたし達が同じフィールドで演じている結果にすぎないものです。自分の眼に見える・聞こえる・感じる世界をどう考えるのかは、全て自分だけにかかっています。変えることが出来るのは自分の意識だけであり、競演する他者の演じる物語はあくまでも他者の学びであることを自覚する必要があるでしょう。確かに、いつもあるのは「わたしは在る」という感覚だけです。

●世界を見る「わたし」という「意識の窓」

 我々は自分の耳目や感覚というセンサー情報を元に、思考、感情という意識作用の「窓」を通じてこの世界にアクセスしているものです。この世界にどっぷり入っている分けでもなく、この世界の1部の有機物質の塊でもないのです。

これには表面的な意味の他に、深い意味があるわけです。

例えて表現すれば、こういう事が言えるかもしれません。

●意識集中しながら体験しているこの世界

 例えば、小説や映画に夢中になっている時には、まさに自分の身体感覚や、日常の生活の思いや感情などにはあまり感知せずにおり、まさにその世界に集中しています。意識がその映像ストーリーに入り込んで、その中で行なわれる様々な出来事やハプニングに一喜一憂し、ハラハラドキドキを感じているわけです。映画館などでは周りが暗いためもあり、視野が制限され、まさにそのスクリーン画面で演じられる物語に、意識を集中することが出来ます。その中で行なわれている物語に、どの程度フォーカスするかは、各自の意識の集中度・感情移入度によります。

 このように、その中に意識的に注意を集中してしまい、自分が鑑賞者、観客であることを忘れてしまう瞬間は誰にも経験がありますね。もっとも、日常の経験では怖い、あるいは面白い物語に夢中になりながらも、時折、読書をしている自分、映画を観ている自分の意識にふと戻ります。怖い夢から覚める場合も、同じように自分の意識に戻ってホッとする場合があるでしょう。

●地球生命圏にフォーカスしている人類

 映画や小説に夢中になっていることと、この地球生命圏で生きているということとは同質であるとも考えられます。意識を集中・フォーカスしている事で言えば、全く同質であるのですが、1つ違いがあるようです。すなわち、地球上で生まれること、すなわちこの世界に意識を集中すると、本来の自分の記憶を一時忘れ去ってしまうことです。いわば地球という舞台の存在周波数帯に自分を同調してしまうことになる為、本来の高次の存在周波数を変調する必要があるともいえます。変調して周波数を落すために、本来の高周波レベルでの情報・記憶がハッキリしなくなるのかも知れません。

 地球に生まれる場合は、各自の意識は、世界体験をする為の一番外側の物質レベルの波長帯、すなわち肉体という波動レベルにフォーカスする事になるようです。肉体波動レベルは五感というセンサーによる情報送受でその形態を維持しますが、その波動感受情報が振動波や電磁波の物質レベルであり、安易にそのレベルに意識がフォーカスするようになっているようです。そのような世界で記憶を無くした場合に、いったいどういうことになるかは、まさに今の我々が示しているとおりです。

わたしは誰なんだろう? 何をすべきなんだろう? どこから来てどこにいくのだろう?人間とは何なのだろう?

●命を守る為の物質が一番大切という文明段階からの上昇

 物質はどうしようもなく強固に感じられ、またそれらの変化する時間は長く感ぜられます。このような世界では、か弱い肉体を維持する為に、戦々恐々と外側ばかりに意識を向けてしまうわけです。生存競争というプロパガンダは本当に最もらしい響きとなるのです。元々おのれが弱く、か細い存在であることを体験することに同意してこの世界に来ているわけですが、そのような重く、そら恐ろしい世界の中で生きることに不本意ながら慣れてしまうことで、内面の心の働きなどは、眼にも見えず明確な形にもなっていないこともあり、想念、感情などは全く役立たずの抽象的な単なる概念だと感ぜられるのでしょう。

 身動きの取れない観念体系では、とりあえず肉体を保護する為の「物」が、自己存続の為の有意義な道具だと感じるでしょう。要は我々の文明が高度になったというのは、この「物」の供給を、今まで以上に楽に行なえるようになったという事だけのような気がします。生命の多様な表現によって生きがいや真理を探求することよりも、とりあえずの自分の命を守る観念だけに固まってしまった文明に堕してしまったと考えても決して誇張した表現とは言えないと思います。非常に微妙なところですが、個人尊重という考え方の中に、この保護すべきか弱い肉体存在という思想、自己過小評価が見え隠れしています。

●探索や思索による自己再発見

 本来、科学や技術、思想、内面観察行為などは、自分達がフォーカスし、現れ出でたこの世界のあり様を探索し、色々な法則や真理を発見する過程を通じ、実はおのれ自身、本来の無限たる自己存在を再発見することが目的でもあるのです。本来の高次の波動帯から、あえて3次元という、粗いともいえる周波数帯にわざわざ現れることは、一見意味がないと考えるかも知れませんが、高次の存在であるからこそ、あえて自己の周波数を落として次元の最先端・フロンティアを探索できるとも思われます。

 例えれば、普段は陸にいる人間だからこそ、あえて身動きの極めて重い海の中へ、潜水服をつけて潜ってあれこれ探索するというようなものです。潜って探索したあとは元の陸に戻ることもまた自然なことです。人間であればこそ、地にも、宇宙にも、また海中にも潜って探索することが出来るものです。様々な次元の経験をすることが出来るということでしょう。

●意識の進化と時空連続体の進化は表裏一体

 海の中から陸を覗くのは困難でしょう。海から見えるものは大気と海の波の狭間で揺らめく光だけかもしれません。それらが次第に垣間見えるようになるには、自分の重い観念を軽くして浮上してゆくことが必要でしょう。地球は海の中のように動きの緩慢な、1つ重い次元の世界だったともいえます。それは、人類の意識に基づく思いや感情が原因であり、その結果の地球時空体の現象化であり、その重さだったのではないでしょうか。

 惑星生命圏の主要たる意識が、周辺時空にそのような物質化をするということであり、重力も必然的に強力なものに感じてしまうでしょう。昨今のUFOなどの重力を無視したような異なる世界からの船体の目撃増加は、我々がより軽い光に満ちた世界への浮上を示す現象とも言えます。少し波動の高い周波数帯への接近ということかもしれません。今ある次元の先には更に壮大なものがあることがいずれ理解出来るはずです。

 その為に必要なことは、重い物質偏重・執着観念を勇気をもって捨て去ることで、浮かび上がるのは自分自身なのだと気づくことではないかと思います。ただ単に恐怖や執着は海底を散策する為の重りであったと考えることも出来るでしょうか。

●進化は内から外へ現れる

 肉体の進化ではなく、内面・意識の進化こそが、またそれに相応しい舞台・新しい文明を必然的に現して行くのだと感じないわけにはゆきません。新しい文明は、調律された心が人間の基本として浮かび上がり、物質は単なる手段であり、また存在形態の異なる友であるとも感じることになるでしょう。そこには物質崇拝などあるわけもなく、恐怖や不安も辞書にしか記憶されていないような古い観念の跡としてのみ残ると思います。もう十分すぎるといえる混乱や困苦は、すぐにも捨て去る権利があることを思い出す必要があります。人々はお互いが今同時期に存在出来ることを、心底喜びながら共存できる世界になることは間違いないと思います。

●本質はいつも永遠の「今」在る

 悟りや覚醒は世間の常識のように特別に難しいわけでもなく、何万年という時間の壁をのり超える為の肉体進化も必要が無いのです。今思い出すべきは、数千年に及ぶ外の世界の観察とそれへの意識フォーカスから翻って、自己の内面への帰還とも言うべき行為でありそうです。古来から伝わっている精神修養や自己観察を通じて内面にこそある原因の世界への気づきを通してこそ、逆に今までの外面での探索結果が理解されるようになっていると思われます。

ここでいう内面というのは、肉体の中にある心の働き・・等という陥りやすい誤解はもう避けなければなりません。

人間の内面の意識作用は、全てを現す因たる宇宙の意識作用と同質であり、森羅万象の全ての元である根源意識と同義です。

 Anndoromeda

 

 

  

  

 

今回も拙い文章をご覧頂き、誠にありがとうございました。


時事雑感(2)大きな経済津波がくるときの心得

2008-09-16 19:06:23 | 色々な気付き

つらつら気づいたことを雑感として記事にアップします。経済の動きは人間のこころの動きにしっかり連動しています。現れた結果、現象から因を推し量ることは何をおいても大切なものだと思います。

●さらに巨大バブルの崩壊、再び

 日本はブラックマンデー、ソ連崩壊、1990年代から2000年初期までの国内金融危機を通じて、終戦後のドサクサから必死になって働いたきた成果である経済成長という実りを、自分達で味わう事はありませんでした。世界は1つという合言葉が、なぜか利用され、搾取されてきたようです。団塊の世代が今まで必死になって、経済社会の1兵卒をこなしながら蓄えてきた年金等も、何かに蝕まれているという事実はもうニュースなどでご存知でしょう。虚構の物質感覚と権力意欲の増大を行なってきたパフォーマーたちの、何かしてくれそうなきらびやかな舞を、スケベったらしく呆然と眺めてきたせいで、各自にあると思ってきた財産にいつのまにかどこからか手が付けられてきたという驚愕の暗示でもあるのです。偉い方達は何か必ず良い事をやっているはずであるという、日本人独特の人の良さと、その裏返しである集団への埋没と観察眼のなさが、問われていると思えてなりません。

●日本に起きることは世界に起きる

 日本国内の10年以上に及ぶ金融危機の後始末がようやく終りかけてきたところが、こんどは欧米からのバブルの破裂のようです。どうも日本の土地神話のバブル性に気づいた者が行なったような感じもします。米国中心の住宅金融、信用収縮バブルは、もうすでに破裂しています。あくまでも笑いやバラエティーが一番というマスコミの鈍さのなかでも、破裂の津波は必ずやってきます。いつもの、苦痛に気づけば、いつの間にか様変わりということになるかもしれません。

 破綻の連鎖のプロセス、日本と欧米との姿勢の違いがここにも現れています。虚妄の宣伝をしながらも裏では、お金をさらに世界から集める算段をしているところかも知れません。

 命をかけた金儲けという人生観が間違いであったとわかるまで、どれだけのことをやらねばならないのでしょうか。虚構の金融工学なるものを駆使してデリバティブなどという証券に変換しながら、要は先物取引をしていたわけでしょうが、そのあてが外れたということでしょう。また真面目で力のある律儀な蟻さん達は、もうこの地球上にいないのを発見したということでしょうか。BRICなどという造語を当てはめられた国々はとうに見抜いているようです。

●蟻の模範は日本か

 まさに蟻とキリギリスの世界のようです。蟻の典型はどうも日本ということのようですが、仕事で長年世界を廻ったりした経験のある方々は、外の世界の異質性を感じ、逆に日本の特殊性を肌身で感じて還って来るようです。理想に燃えて欧米を中心とする世界に雄飛したはずが、表面だけの冷酷な物質偏重社会、階級社会を垣間見てしまい、外に理想の社会などないことを感じるものです。蟻がキリギリスの世界に行くと、色々な言葉の誘惑に会いますが、大体単独の蟻のままではその社会に入る事が出来ないようです、利口な蟻はその世界の本質的な空虚さに気づきます。何か価値ありそうな物を持参しなければならないようです。

●経済は本来、生きる為の工夫作業

 個人個人が不安なゆえに物質的な富を蓄え、それによって社会的な栄誉を得ようとするわけですが、この土台にある個人の不安は、死ぬ事を恐れていることから出てきているのです。分けがわからないが今は死ぬのは怖いという感覚がその土台にあるといっても過言ではありません。全ての極端に及ぶ経済・政治活動のエネルギーの元は、多分その恐怖からきていると考えられます。株取引も先物買いも、組織での栄達も、全て自分と家族、縁者などに物資を供給すべく行なう行為でしょう。

 誰しも死ぬのが怖いのは当たり前です。生きる事、死ぬ事、命とは何か、この世界とはなにか?という問いかけや思いめぐらし、調査などを怠っているからです。卒業する時期は必ずあるのだろうが、それの為の準備をしていないのではないか・・という少し高いレベルの思索は多くの人々の潜在意識にあります。

 組織を大切にし、自分を殺してまで維持してゆこうとするのは、自分という個人がそのなかで不遇を受けず、すなわち存続を保証され、その保証を強固に出来ると信じるからです。まさに人間とは社会的な動物という「暗示」が根底にあるようです。

●普通に仲良く生きることの奇跡

 世界にある真実は、貧しいといわれる国々の普通の人たちの文化や生活にあるものです。衣食住にやっとの生活の人々ではありますが、必要以上の欲をまとっていない、いやそれどころではない真剣な生き様があります。笑い事のようですが、江戸時代の庶民の長屋の生活が最も経済的で、心が豊かな生活の一形態のようです。争って奪い合う物などが、もともと無いために、余分な心の歪が生まれようがないのでしょう。貧乏だ可愛そうだと言う偉い立場の人々は、お互いが助け合って生活するトンでもない活力を見逃しているのです。

●10年前の苦い経験

 自分自身の経験でも、今までの10年間の日本の金融始末の苦い経験をしています。わたしの以前25年以上勤めた会社は、時には優良企業といわれ、銀行から競ういあうような融資の誘いを受けたようです。ところが、ある時期日本国内のお金が潮が引くように失われ始め、あのバブルの時代には融資といわれたものが、いつの間にか気がつけば借金といわれ、会社経営者はその返済に意識を集中するはめになったのです。そのためのエネルギーの浪費と、社員心のなかに生じる疑心暗鬼が更に不安をあおりました。結局は会社の経営者の知恵や先読みも十分ではなかったこともあり、企業倒産になってしまったのです。今、米国などで行われている貸し渋り、貸しはがしが相当な数行なわれたようです。

 当時やるべきは、あっさりと身を削って早々清算することにあったと思います。いつまでもズルズル古いイメージを抱いて、そのうち良くなるなどと思うこと自体が幼い証拠であったのでしょう。もともと何も無いところから起こすのが企業であれば、常にそのことを第一のテーゼにしておくべきですが、出てきた結果や経歴にすがってしまう事も多々あるわけです。

 自分のやったことは、見極めをしたあとで自分で海に飛び込むことでした。ある意味死ぬ覚悟でした。長年培って成長しあった仲間のいるなじんだ会社から、再び、何のあてもない社会という海に飛び込んだのです。自分で見切って自分で企業という船をあとにする事しかありませんでした。たった1人でした。多くの社員はそんなことありえるはずもないという先入観に逃げ込み、船が沈むとは考えなかったのでしょう。まさにタイタニック号のようなものです。

 経済的破綻が次第にわかりきった事実になりつつある中で、知っていながらも船と一緒に藻屑と消えるには、あまりにも家族が多かったせいもあります。わかっていながら進路が変らなければ、あるいは誰も変えようとしないならば、どうすべきなのだろうと悩みに悩んだわけです。技術者として起死回生の特許をとろうと1人で意味もなく頑張り、自分も含めたリストラ案などを提案することが最後の仕事になりました。古き良き時代がそうそうなくなってたまるかというような感覚、要は、変化について誰も何も考えていなかったようです。今までどおりだと思う観念に逃げていたのかもしれません。わたしのような者はサイキック系要素もあり、多分特殊のようです。今思えば確かに貴重な経験でしたが、相当に辛い経験でした。前後2年間は、まさに心の中心が灰色の金属質の空気で覆われていたようなそんな感覚があります。

 眼に見えない観念や思考、先入観念は人が常に身に着けている具体的な物なのです。一種の鎧のようです。組織のなかではそれなりに苦労はあっても、逆にそれなりの安心感もあります。大人としての我慢は、生活や家族の為のものであり、自分を殺してでもその中で生存することの意味を与えてくれます。戦後から今までの日本の企業戦士は昔の城の侍たちとそれ程変らないのです。

●こころの鎧を捨て去る時期

過去の経験した状態が、今度は世界的なスケールで起きているのをヒシヒシと感じます。良いも悪いでもなく、実際に経験した者だけが感じることです。またやってきますね。

 実はいま、かなりな非常事態とも言えるかも知れません。これからの生き様は勇気をもって既成の観念をどんどん捨てざるを得ない環境になっていくという感じもします。今からの時代、身に着けた余計な汚れを落として身軽になるべく促されているようです。

●何でも生み出す空に気づけるか

 元々何も無いところから生まれてきた人間、これが本来の人間の在り様です。何も無いから必要に応じて現すことができるのです。武道でも奥義と言われる自然体、ここからはどんなことも繰り出すことが出来るものです。例えば、技術は知識です。眼に見えないが創造の道具です。日本は緻密で真剣な創造が出来る国であると思います。物を扱うのは心です。

そんなに甘いものではないですか?

しかしながら人間は本来は何も無いところから現れたわけです。皆お互い様と、今生きていることに感謝できることが、最大最高の財産ではないでしょうか。お互いに少しでも笑顔や気遣いをすることが、そんなに大変なことでもありません。個人として隔離されたことに気づけば、その殻を壊すのも自分しかありません。そのときには、大勢の他人が存在している有り難さや不思議さにも気付くのでしょう。

国敗れて山河ありという言葉がありますが、今回は山河はかなり汚されてしまいました。

因たるものに気づかず、物ばかりを追い求めた人類に残されているのは、

いつも今というこの瞬間です。

-----------

(今回も拙い文章をお読み頂き、誠にありがとうございました。)


内観は意識進化の必要条件

2008-09-13 13:20:16 | 宇宙的気付き

 人類の多くが、次第に目覚め始めているようです。目覚めるという事は、人間として1つの「本質的な在りかたに気づく」ということであろうと思われます。人間は肉体存在であるという今までの無意識の観念から次第に抜けて、それを含め、更にそれ以上の高次なる存在である可能性を、実際に感じてきていることでもあるでしょう。

 次第に増えてきた、前世などの生まれ変わり事実の科学的情報、霊界などの異次元、多次元世界の体験者の増加、次第に増加している地球外生命の来訪と過去の隠蔽の暴露、新しいエネルギーの噂、そして現在の飽和した人間の社会制度の崩壊と変化の兆候、地球生態系の急激な変化、太陽活動などの異変兆候など、総合的な観察をするならば、実は裏側での人類の認識、意識レベルの大きな変化や進化を表しているとも思われます。

 そうであれば、外界の大きな変動を恐れることは何もありません。やるべきは自分自身の変化や進化を自ら促すことであり、その行為がまさに外側の変化との整合性をもたらすことになるからです。

-------------

●内観とは

 自分の内側を観るということです。肉体の皮膚や内臓を観ると言うことではありません。自分の想念・感情・身体反応を観察するということです。我々はいつも何かを思っているはずです。これは途切れる事はありません。眠っている時には無意識という状態を感じていますが、何かの目的や経験がある人ならば、眠っている状態でも、何らかの意識体験を記憶している場合が多くあります。

 この思考・感情などの自分の意識作用全般を、自分で観察するという事が内観といってもいいでしょう。禅や瞑想は同質の行為であり意識次元を拡大する為の必須条件ともいえます。

●思考や感情の垂れ流しに気づく

 不思議な事に、多くの場合思いや感情が「垂れ流し」になっているものです。社会生活の中で例えば怒りを感じた場合、それらは一瞬で爆発し身体に相応の反応をもたらします。体感で言えば怒りは血管を収縮させ、血圧を上げ、心臓に圧力を加えます。これらが起きるがままに任せていることは、健康にも良くないと言われています。またこの制御されない思考や感情は、社会的な無意識の洗脳や刷り込み、常識と言う実際は実体の無い罠にはまることにもなります。

 争いや逃避は恐怖という感情が主導権をもっている状態で現れる現象です。戦争などは全て恐怖と対決する為の間違った最も愚かな手段なのです。外に恐怖があるからそれを征服すべく外に向かって働きかける行為であり、恐怖の本質を全く理解していないことを表します。

●夢も体験のうち

 夢は内的知覚経験であり、普段の生活は外的知覚経験です。夢でも音声や映像の記憶があるということは、それ自体が体験と言えます。何も皮膚感覚や視覚経験のみが体験とは言えません。現実であろうと夢であろうと、記憶に残る事は全てが体験と言えます。我々の日常生活での限られた五感感覚だけが体験の全てであると言うことではないのです。

 日常生活は時間と空間というハッキリ御膳立てされた舞台の中で進む為、それがあたかも全てであると思いがちですが、夢はその時間空間が内的世界に置き換えられているだけであり、双方に共通なものは、「わたし」という存在が経験し記憶しているということです。

●内観で拡大する意識

 内観で自分の思いや感情を観るとはどういう行為をいうのでしょうか。それは文字通り、自分自身の思考や感情を「見る」という行為であり、もう1つの自分の視座から眺めるという行為です。

 例えば日常で「怒り」を感じる場面がある場合、それこそあっという間に興奮した状態になり、そばにある物を見境なく投げつけたくなったり、思いっきり蹴り上げたりしたい場合があると思います。そのとき、同時に、その自分の状態に「気づいている」自分に意識的になる・気づくという感覚は理解出来ると思います。

 怒りに狂っている自分の他に現れる自分、「あー俺は、わたしは怒っている・・」という感覚をもつ別の自分といっていいでしょう。怒り狂っている自分を、もう1人の自分の視座から見ているという意識状態ともいえます。

 わたしは怒っている・・わたしは悲しんでいる・・・わたしは楽しがっている・・という自己観察意識が、多くの人々の経験の中にも散見できるでしょう。それは決して冷徹な心や、無感覚の冷徹さを意味するものではありません。また分裂症と言われる自己認識の混乱状態とも違います。自己を観るという行為は、今起きていることを無理に加工したり、押さえつけたり、逃避する事ではなく、あるがままの自分をより広い視座から見ると言う行為であるわけです。それだけ辛いことである・・という感覚も当初は付随してきますが、この辛さを経験することで成長することにもなるようです。

●反省と内観の違い

 反省するという行為は誰しも間違いとは思いません。一時の感情や思い違いをしていたことを、後になって気づいてしまい、大いに反省する事は良くあることでしょう。この反省と言う行為は内観・自己観察の1つの形態ですが、反省の場合は何かの価値観と、そのときの一時の異常な感情・思い・行動を比較して、明らかな差異に気づくことでもあり、そのためには、多少の時間経過と、基準となる価値観が必要になります。

 内観・自己観察は、今の自分にたいするリアルタイムの気づきであり、時間差も社会的な価値観も必要ありません。ただ自分から発するあらゆる現象を眺めることです。身近な単純な行為ですが、それゆえにすぐに忘れてしまう傾向があるものです。

●内観は本質へのアプローチ

 自己の思いや感情を取り去ったら、一体なにが残るでしょうか。意識的作用がなくなったらそれは人間ではありません。人間としてある本質はその思考や感情であるのは自明の理であると思うわけです。ハッキリした肉体感覚に囚われてしまい、隠れた本質にいつも取り巻かれていながら、それに全く気づかないようなものかも知れません。我々が生まれ変わりで運べるものはこの思考や感情の重みのようです。色々な経験を通じて学び、その時々で宝のような意義ある記憶として運べるもの、真の財産はこの思いや感情の記憶とも言われています。

 その人間の本質である、思考や感情を「見る」という行為は、あたかも子供を観ている親の視座でもあります。また目の前の映画を見ている自分をしっかり意識しているという視座でもあります。また地上を上空から俯瞰して、広い視点から眺めるという視座でもあります。

 自己観察は自分に最も近い「自分」を観るということであり、その行為自体が、その自分という1つの次元を拡張するという行為なのです。もう1人の客観的な自分が現れるということではなく、狭い自分というものを再発見する、より広い視座にいる自分に気づくということであり、これこそまさに自己意識の拡張であり、意識次元の上昇ということであるわけです。

 感情や思考をしっかりと観てしまうと、いつのまにか理解というものに変質し、本質ではない虚構の部分は自然と剥げ落ちてゆきます。それは瘡蓋がぼろぼろ落ちるように剥げ落ちてゆくようです。一体全体なにをやっていたのか?どうしたと言うのだ?という微妙な思考や感情に、次第に置き変ってゆきます。それはあたかも恐怖小説に没頭していた自分に気づくようでもあり、悲惨な映画に見入って怯えていた者が、実は観客席にいることに気づいた瞬間のようでもあります。

●己の無知を知る者

 無知の知というのは、おのれの無知さ加減にあらためて気付くということであり、これがなければ永遠に無知の状態ともいえます。まさに辛いところですが、自分の愚かさや幼さを自覚することが出来れば、少しづつ更に広い見地から考え、感じ、行動することができるようになるということでしょう。囚われの観念が少しづつ剥げ落ちてゆくことで、自分というものが少しづつ更に軽くなってゆくことに気がつくでしょう。少しづつ存在次元が広く感じられる・・という表現も間違いではないと思います。

全てを知ったと考えることは実は停滞であり、本当に無限であることを知るということは、知り続けることであり、その行為自体がすなわち永遠を体現しているのであるということです。

●外観と内観はメビウスの帯

 刺激に満ちた外の世界を見るのは誰でも出来ます。五感によってイヤでも知覚できます。但しその世界は必ずしも歓迎すべき世界ではないかも知れません。それどころか、外の世界を泳ぎ回る経験をすればするほど、トンでもない世界と感じてしまうかも知れません。知れば知るほどその不確定な世界、何かの間違いとも言える誤解に満ちた世界だという認識になるかも知れません。しかしこれは良い兆候であるともいえます。とんでもないのは、実はあなたやわたしたちの問題だということに気づき始めるからです。

外と内はメビウスの帯のように繋がっているようです。その不可解なねじれに気づくでしょうか。ねじれは心が創るものかも知れません。

●内面に気づくほど外の世界が分かる仕組み

 今のような世界が映ずるのは、なぜなのでしょうか。どうしてこんな世界にいるのだろうかと感じるのは何故なのでしょうか。社会の仕組みが悪いせいだと感じれば、それを何とかしなければならない・改革だ・革命だ・という事になってきます。しかしながら今までの改革や革命などが効果があったのでしょうか。多分労多くして益少なしではないかと思われます。多大な犠牲を払って外の世界を変えようとしてきた結果、今の時代があります。

 過去の阿鼻叫喚の血みどろの努力も、歯を食いしばった局限状態の命のやり取りも、決まりきった教えの塔でのぬるい眠りへの逃避も、全て、外の世界の中に価値観を見出そうとする結果出てくる不幸ではないかと思います。

 外を変えることは出来ない相談でしょう。なぜなら結果は変えることが出来ないからです。世界で眼に見える現象は結果であるからです。それに心が反応すれば、またそれが現象化の原因になってゆく無限ループにもなってしまいますが、変えるべきは原因のほうであるのは明らかです。

 原因は人間の内面にこそあるのです。内面とは心であり、思考や感情といわれる人間の意識作用なのです。まず征服すべきは自分自身であると言っても過言ではありません。

●自分を思い出す事が急務

 人類の不幸の原因は、自分を忘れていることに尽きるのです。自分の中にある思考や感情という働きを通した意識進化ということをすっかり忘れているからです。意識進化の代わりに肉体進化、種の進化、人間はサルの進化した存在?という「縛り」の概念に、文字通り縛られています。それは車の車種の変遷を言っているようなものでしょう。乗り物の話と運転者の話が混同しすり替わっているようでもあります。

 物質の高度に組織化された生き物、偶然の産物が人間だ・・・という無意識の観念に縛られている事に気がつくかもしれません。偶然の産物が人間であるならば、・・もしそうであれば、眼に見えない思考や感情などに価値などあると思うわけもなく、とりあえず世間で生きてゆく事だけが、肉体維持だけが目的になってしまうのは当然です。どこから来てどこに行くのか、人生とはなにか・・という純粋な問いかけなど真剣に考えようもありません。

●自分を観ることは目覚めること

 自分を思い出すとは、自分の本質に立ち戻ると言うことであり、自分の本質の作用である思考・感情、それから生じる行為というものを、しっかりと観察・ケアすることから始まります。自分を理解する為には、自分の本質的作用である心の働きを把握せずにどうやって可能なのでしょうか。少なくとも自分の見渡す限りの、体験する限りの世界は、全て自分がどう見るかにかかっているのではないでしょうか。

●一即多:見る行為で多が現れる

 目覚めや悟りというものは、意識進化の途上に立ち戻るということであり、決して究極のぬるま湯にやっと浸かれるということではないようです。意識進化は常に発展途上でもあり、また、それ自体いつも究極を示すものでしょう。究極の一者がおのれを現したのものが、人間を含む無限の有り様であるならば、その様々な現象の中にありながら、わたしという本質にいつもながら気づいていることは、究極の一者であることに立ち戻る行為になるのではないかと考えられます。宗教的な言葉で言えば、神の子は神だ・・ということです。

●本来の人生観

人間の本質は、自覚する「神」であるということは間違いのないところだと思います。我々人間の紆余曲折も、実は楽しい創造主自身の遊びであるとも考えられます。

 宇宙を顕現する為には、まず自分自身の無限性を現したいという意図があり、その結果現れ続ける宇宙全体を内観しているのが創造主、一なるもの、神、仏、法則と言われているものでしょう。

 今ある世界と本質の自分をつなぐ必要条件は、いわゆる内省、内観、自己観察という、一なるものの本質に立ち戻る、1つの必要な行為であろうと考えます。例えば、内観がどういう効果をもたらすのか?と聞くことは、まさに、いつもながらの他者依存の思考であり、おのれ自らが現す自発的な意識という根本から外れたことになるでしょう。

 自分を理解出来た分だけしか他者を理解出来ないということは自明です。気長に自分を観るという意識進化への、地道とも言える行為は、まさに存在する全ての元である無限の愛と理解に満ちた「創造行為」と同質なのだと言えるのではないでしょうか。

----------

 Nature1006

 

 

  

(本日も拙い文章をご覧いただき誠にありがとうございました。)