気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

探求者ロバート・モンロー(1)

2009-08-29 11:44:30 | 心の科学分野

 体外離脱や幽体離脱、またそれに関連する生まれ変わりという現象があるといわれている。経験したことがなければ、そりゃ一体なんだろうかと考えるにちがいない。特に現代社会においては、多分、多くの人がそれらの不可思議を全てまがい物と考えているかもしれない。また、好奇心がある人は、それは魂が抜けることか?とも考えるかもしれないが、それは違うようだ。

 現在の物質的な科学では、検証、観測可能なものしか扱えないため、肉体が動いていない状態での意識的体験ともいえる体外離脱は、公の学術・研究対象にはなりにくいのが現実だろう。しかしながら、現在、世界には様々な体験談の統計やその法則性の検証が行なわれている。

 確かに物質メカニズムではないメカニズムがあってもおかしくはない。電磁波も目には見えないが、その不可視の波動も周波数変調等により、TVや映画のような観測可能な現象として現れてくる。 多くの人が馴染んでいる携帯電話も、我々の五感に感じない波動を利用しているわけである。 どんな不可思議な現象も、それは無いのではなく、知らないのだと考えてしかるべきだろう。 どんなことも、それを知れば恐怖がなくなるものだ。

 少なくとも、五感に直接映じないからと言って「存在しない」という観点に縛られることだけはやめるべきなのだ。たしかに、そう思えるならば、世界は未知で輝く数多の星座のように感じるだろう。

 こころではどんなものでもイメージできる為、法則などないと考えるかもしれない。また、そこには確かに「主観」、「こころの働き」という意識的作用が強く働いていたとしても間違いなく法則があるのだ。体外離脱とか生まれ変わりというものは、人間および生命の変化のプロセスについてのものであり、そこにも「法則」があるということだ。

 体外離脱や生まれ変わりという、人間の「意識分野」でも、もしそこに誰でも再現可能なプロセスがあれば、それは追求・探求の対象とするべきなのだ。世界の歴史や昨今のスピリチュアルな書籍、臨床医学からの報告や統計なども含め、そのような先入観を外したアプローチをする勇敢な人々がいる。 

ロバート・A・モンローもその勇敢な一人だ。

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 自分は何者か、どこから来て、どこに行くのか、生命とは、生まれて死ぬとはどういうことなのか、その意図は?  等の貴重な示唆を与えてくれる書であると思う。特に今世紀を生きている意識的存在には必須ではないだろうか。 ご覧になれば、ひょっとして当初は私のように違和感を感じてビックリするかもしれないが、きっと良かったと感じるだろう。 

 貴重な体験である日常の生活もさることながら、少し先を導いてくれるような書に出会うということは、単に時間つぶしの読書の為のものでなく、生きた知識を得る、または本来の自分を思い出してゆくための援けの階段でもあるとも感じるのだ。

 

(以下、「究極の旅」 ロバート・A・モンロー著 日本教文社刊 から抜粋)

(「究極の旅」p2-5)

恐怖は、人間にとって大きな障壁となる。この世に生まれてくるとき、私たち人間が感じる恐怖は二つしかないという。大きな音への恐怖と落下の恐怖---どちらも誕生のプロセスにともなう恐怖だ。

しかし私たち(のほとんど)は、年齢を重ねるにつれ、より多くの恐怖を知ってゆき、成人する頃には、恐怖を山ほど背負い込んでしまう。私たちは肉体的には成長してきたわけだが、真の成長、すなわち自分の本当の潜在能力に気付くという点に関しては、ひどく阻害されたままなのだ。

未知なるものは、恐怖を生み出す。暗闇が怖いのは、何が隠れているかわからないからだ。また、肉体的な痛みが恐怖を生むのは、その痛みが何を意味するかわからないからだ。こうした「未知」(アンノウン)そのものが「既知」(ノウン)の知識に変わるとき、恐怖は薄れて消え去り、私たちは自分が直面する全てに対処することが出来るようになる。

私たちはみな、すでに充分すぎるほど「未知」なるものを、そして恐怖を抱えて生きている。これ以上(恐怖を)探す必要などありはしない。・・・

(中略)

一九五八年、思い当たる原因もないのに、私は自分の肉体から漂い出るようになった。自分で意図したことではないし、そんな芸当をしようと思ったわけでもない。睡眠中の出来事ではないので、ただの夢として片づけるわけにもいかなかった。私は起きている現象を完全な意識で自覚していたが、当然ながらこのことは事態をいっそう深刻にするだけだった。

これはひどい幻覚の一種で、何か危険な---脳腫瘍か、脳卒中か、精神病が引き起こしているのではないかと考えた。死の前兆かとさえ思った。

この現象はその後も続き、自分ではどうすることも出来なかった。それはたいてい、横になったり、リラックスして休息しようとしたり、眠ろうとするときに起こった。

(中略)

当時の私は健康的に申し分なく、たいした問題もストレスもないと思っていた。生活は大変に忙しかった。いくつかのラジオ局のオーナーをしていたし、他の事業もあった。ニューヨークのマジソン・アベニューにオフィスを構え、ウエスト・チェスター郡に家があり、そして何より、妻と二人の幼い子供がいた。薬はのんでいなかったし、ドラッグもやらず、アルコールもほとんど飲まなかった。特に信仰する宗教もなく、哲学や東洋思想を学んでいたわけでもない。こんな途方もない変化は、予想もしないことだった。

こうした状況で私が感じていた恐怖と孤独感は、筆舌につくし難いものだった。誰にも相談できないし、---心配かけたくなくて、はじめのうちは妻にも話せなかった。私は一般的な西洋文化と科学に深くなじんでいたので、当然のように従来の医学とオーソドックスな科学に答えを求めた。医者は、精密検査の後で、脳腫瘍もなけらば、生理的名原因も見当たらない、と太鼓判を押してくれた。だが、それ以上のことはわからなかった。

その後ようやく、友人の精神科医と心理学者に、この問題をうちあける勇気が湧いてきた。うち一人は、私が精神病ではないと保証してくれた(この友人は、私のことを知りぬいている親友だった)。もう一人は、インドの導師(グル)のもとで、何年か修行してみたらどうか、と言った。---これは私にはまったく思いも及ばない考えだった。私はどちらの友人にも、他の誰にも、自分がどんなにひどく怖がっているかをうちあけることは出来なかった。これまで自分が属していると思っていた文化、賛美し敬意を払ってきた文化の枠からはみ出してしまったのだから。

とはいえ、生存本能とはしたたかなものだ。少しづつ、ほんのすこしづつではあるが、私はこの現象をコントロールするすべを覚えていった。これは必ずしも死の前ぶれではなく、制御が可能であることがわかった。しかしまるまる一年を費やしてようやく、体外離脱(体脱)体験というものの実在を受け入れるに至ったのだ。 (今でこそ、OBE-- out-of-body experience という呼び方も定着しているが) 私は体脱の旅を、慎重に確認しながら四十回以上も繰り返してはじめて、信じることができたのだ。この旅は、、私に-私だけに-豊かな知識を与えてくれた。その知識に出会うと、たちまち恐怖は消えてゆき、それにとって代わったのは、同じくらい強い好奇心だった。

(②へ つづく)

 

出会い「こんにちわ クールベさん」    クールベ:1854  

 Cour0311

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


一 即ち 多

2009-08-23 19:53:20 | 宇宙的気付き

全ては一つである。

このメッセージを、こころの「根っこ」で理解するには「直覚」が必要だろう。また世界の諸現象を説明できるであろう波動という概念がその理解に有効であるかもしれない。

 

●全ての疎通は共振・共鳴による

 直覚は、分析によらず、論理にもよらないもの、別の表現をすれば、人間においてはマインド(こころ)での共振ともいえるだろうか。 経験と論理、分析と吟味という作業による探求努力、あるいは、同調努力の先に、突然現われる「共振点」のようなものだ。

 古(いにしえ)から伝わる、ヨーガ、タオ、禅等でいう、不意の悟りと称されるものも、 意識的努力の後の、不意の空(くう)による共振によって得られるものと言えるだろう。ある意味で、それは、時間を越えた意識次元での、根源意識波動との共鳴ともいえるのではないだろうか。

 共鳴・共感は波動現象無くして語れるものではない。また、波動間の親和作用、共鳴の原因は、例えば映像においても、音叉においても、肉体五感の体験においても、こころにおいても、 それらを通じて振動せしめるところの「根源波動」、いわば「根源より発する意識」が 当たり前のごとく、唯一つであるがゆえのことだろう。

 全てを貫く一なるものは、いわゆる宇宙意識といわれる「意識波動」と言えるかもしれない。意識は我々にも、動物にも、植物にも、鉱物にもある。それは、その存在していること自体が、意識の現れと見なせるからなのだ。

 その中でも、我々人間の特性は、常により意識的になることが出来るところの、完全なる自由意思という、無限の方向付けを行なう能力を有していることであると言っても良いだろう。

 

●波動は、「情報」または「意味」を乗せている

 物質の元と言われる原子も分子もあまねく振動している。空気を媒体にして震える音叉も、我々のイメージを創り上げる人間の意識作用、すなわちこころ模様も、あるいはまた、物質形態を現す身近なボディ・肉体も、それらが様々な存在形態という「振動媒体」ではありながらも、意味の無い偶然の振動そのものではないことがわかるだろうか。

 波動自体に意味は無く、それを様々に変調することで、かもし出される表現、意図、または情報にこそ、その存在意味があると言えよう。波動は思いを伝えるところの様々な媒体を振るわせるエネルギーであり、別の言い方をすれば 「情報」「意味」を乗せる意識・あるいは根源からの光であるとも言えるだろうか。

 人の意識というものも、感情や想念を観ればわかるように、そこに「情報」というものを必ず有している。その個々人の乗せる情報あるいは意図は、思いや感情という想念波動によって、自己の環境や集合意識という時空スクリーンに描き出されているということが真実ということなのだろう。

 網膜や視神経で光を感じることも、触覚で温度や圧力を感じることも、電磁波による情報伝達も、すべからく波動による情報感受であり、また、今は潜在的にしか体感されない傾向のあるテレパシーという、想念を媒介にした、いわば高次の意識周波数帯での、ダイレクトなコミュニケーションもそうだろう。

 我々の世界で生じる様々な現象も、振動媒体における波動の共振・共鳴という形で行なわれる様々な情報の発信・受信と言っても、決して過言ではあるまい。光も言葉も触感も、全て振動で伝わることに相違はないのだ。多分それは現われ出でた、命に対する神の「感動」と言えなくもない。

 

●意識の統合

 共鳴の瞬間においては、その振動周波数自体には相互の差異はあり得ず、どちらも同質、どれも同じ波動、まさにそこにも「一」なるものが現出していると言っても良いだろう。

共鳴、それは多が一になる瞬間、または「異」が「同」に変質する瞬間だ。 それは、「多」でありながら 「一」であるということを示しているのだ。同が異になる方向は、分裂・分散、次元降下とも言える。異が同になる方向が次元上昇といわれるものだろう。その両方を含んだ有り方が、いわゆる統合意識というものではないか。

素粒子の遠隔状態における瞬時の情報交換も、人間における以心伝心も、テレパシーやシンクロ現象も、他者への思いやりも、 このような、ある意味での意識の「共鳴」を示すものだ。

統合意識とは、融合や混ぜ合わせ、はたまた依存関係で色づけされた個別意識の集合という意味ではなく、逆に自由意志を十分に自覚している責任ある存在達の間の感動であり、それはまさに共鳴・共感せずにはおられない意識の有り様を言うのだ。

テンでバラバラの自己意識という不協和音ではなく、個々のそれぞれがさしのべる、普遍的な意識による共感ということでもあるだろう。

それでこそ一即多、多即一を体現し続ける、無限なる宇宙が今ここに現前しているということではないだろうか。

個が個であると同時に全体であるということは、より普遍的な意識による、時間空間を遥かに越えたフィールドでの共鳴であると言っても良いだろう。

共鳴フィールド、なるほどそこでは、個は全体であり、全体は個である。全ての根源はハーモニー、調和なのだ。

 

●どこにも遍在する、神なる根源の意図

 ホログラムがそうであるように、あらゆる存在形態表現の中に、根源なるものの情報、意図が畳み込まれている。そうであればこそ、今在るありのままのを観ることを可能にする、こころの波長によってこそ、その無限からの意図を感じられるのかもしれない。

 我々の、姑息で近視眼的とも思える、無理を承知の汗水たらした人工化のその前に、我々は目の前に有る、あるがままの自然という奇跡の情報を読み取る努力をしなければならないはずなのだ。

 様々な現象の背後にある因は、つまるところ一つであるという直覚は、あるがままの有りかたを、そのまま受け入れることで得られるものだろう。

 普段の生活のなかに、子供たちの笑いのなかに、他人とのすれ違いの中に、揺れる風の中に、不自由な身体のなかに、苦や楽に遭遇する自分のこころのなかに、怒りを感じるような出来事のなかに・・・いつも在るのは、今のあなたや私たちの「思い」ではなかったのか。

 全ての因は我々にある。 何をどう知覚し、何をどう考えるか、全ての自由意志は、外の誰かに在るわけではなく、いつも、今からも、今までも、「わたし」にあるということを思い出す必要があるのではないか。

 因は内にある、それはまさしく神なる根源の現しつづけるところの、この宇宙の創造と同質といえるものなのだ。

「全ては一つである」 それは証明や検証不要の、目の前に現れているそのままの事実のことだ。

 この視座からあらゆるものを観るところの、意識の有りかたこそが、統合意識ということだろう。個人も全体も、男も女も、光も影も、苦も楽も、まさに相互補完、調和を演出する為のものではないのか。

 

●より意識的であること

 「何でも当たり前だ・・という観念の中にいること」自体にも気がつかない人間集団の有りかたを称して集合無意識というようだ。また、現在の我々の文明社会においては、多くの人々が物質中心の観念体系に自分の意識をフォーカスしている為に、何かといえば、「何が得られるだろうか」、「何が獲得できるだろうか」、「何が貰えるだろうか」・・というような、結局のところ、個我の肉体維持レベルの意識に引き戻されながら、自らが自らの観念に束縛されているような有様ではないだろうか。

我々は肉体に、その「意識」を置くことなく、意識自体にその「意識」を置く必要があるのだろう。

今、ここに生きて在ることを、自ら、知って気付いていること。

こころに生じる様々な思いに、自ら、気づいていること。

他の人もまた同じ存在であることに、自ら、気づいていること。

他の生命もまた自己と同じ過程にあることに、自ら、気づいていること。

全ては1つの因で生じているだろうことに、自ら、気づいていること。

 一見それは当たり前のことのように思えるかもしれない。 しかしながら、毎日毎日、生きて、思って、感じてはいても、往々にして、その様々な経験自体に 「意識的になっていない」ことに気付けるだろうか。 そのような無意識的・意識ともいえるあり方は、意識はあるものの、より意識的な意識への目覚めが待たれる段階といえるかも知れない。

 神なる存在は、宇宙という中の無限の各所から発意し、そして無意識から、より自己に意識的になることを通じて、無限なるおのれ自身に目覚めてゆくプロセスを楽しんでいるようでもある。生命進化のプロセスとはそのようなことではないだろうか。

根源にあるのは「感動」「共感」「共鳴」という「波動」なのではないのか。

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●有り難い、当たり前の奇跡に感謝出来るか

 自他への「思いやり」 や 「感謝」は、いつの間にか勝手に生じるものではないはずだ。 皆々当たり前と思っていることに対して、どこにどうして感謝の念が生まれるだろうか。改めてそれに気付く意識的行為こそが有り難さに気付くことであり、それはまた、未知なるものが既知になる瞬間でもある。

 当たり前と無意識に思っていたことが、じつに「有り難い」ことであると、判然と気づく瞬間にこそ、こころからの感謝が生じてくるものだ。

 

●全て生かしあい

 我々が 「今生きて在る」 ということは、森羅万象を貫く存在意図によって「生かされている」ということでもあると感じないだろうか。

 我々が 「今生きて在ること」・・・ に感謝する行為は、自分の力だけで生きているのだ・・という自己中心の感覚からは決して生まれない。 全てが自分のお陰ならば、何所の、誰に、何に、どんな感謝の念が生まれようか。なるほど、カルマや苦労は、ある意味で感謝・感謝の現実に気付かせる為の恩寵でもあるだろう。苦にも気付き、それにもどこかで感謝が出来れば、またその存在の意味に気付いてあげれば、多分もうそれは現れることはないだろう。

全ては全てに感謝する為に、この世界に現れているのだ。あなたも、私も、鉱物も、植物も、動物も、その存在のそこに在ることを通して、有りがたい有様を表現している。

 個人が刻苦奮闘し、生活を維持し、頑張っているように見えても、それは全てによって生かされているという、大きな事実の中での個人芸にすぎないかも知れないと感じないだろうか。

 皆がみな、バラバラの個人芸で終っているからこそ、今の世相、世界が現れているようにも思える。 そこでは、他人も自然も、ある意味で競争相手であり、合法的な搾取が当たり前というような感覚を、どこかに密かに感じているからこそ、今の地球生態系も、死に瀕するがごとくに現れてくるのだろう。 ひいては、嫌々ながらも、人類自らを死に追いやっている状態に気付くことにもなるのだろう。

 

●在るがままを認める素のこころ、それはまた勇気でもある

 今までは、自然に対する敬意、あるがままへの感謝、実は生かされているという謙虚さが中心の社会でなく、いかに自己主張し、いかに獲得するかという「思い」が主流の社会であったことは、もう誰にも理解出来るだろう。

 裁き、訴訟し、獲得し、敗北し、泣き、叫び、他を排除し、極端には殲滅し、そうして獲得するものは、一体全体何であるのか? それすらも、誰も言えない社会に流されていたのかもしれない。

そのままで、手も足も出す必要の無い、素の有り様に心底気付くことは、まさに達磨・ダルマの心境といえるかも知れない。

確かに、確かに、例えばマハラジの言うがごとく、「今、わたしは在る」 という原点に戻る時なのかも知れない。それは「今」をおいて他にはないだろう。そういう意味では、いつも「時間」は無いのだ。

 200pxbodhidharmayoshitoshi1887(達磨の図柄はウイキペディアより。)

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


神様がくれたお守り

2009-08-16 11:21:41 | 心の科学分野

今日は飯田史彦さんの著「生きがいの本質」から抜粋させて頂きます。

飯田さんの著は「生きがい」「生と死」「使命」「こころ」という、人にとって最も肝心要(かなめ)なものを思い起こさせるようです。今回のお役どころに、こころからの敬意を感じないではおれません。(極めてローカルですが、出身高が同じであったということで、勝手な愛着を感じてしまいます。ご本人は知りませんが(笑))

  

・・・・・ 飯田さんの頂いた、神様からのお守りのお話しです。 ・・・・・

「生きがいの本質」 PHP文庫  飯田史彦著

以下p348頁より抜粋 ・・・

  

~神様がくれたお守り

一九九六年の七月二十三日、わたしのもとへ、このようなお手紙が届きました。

・・・  

「 先生の本を読ませていただきました。

 実は、息子が五歳の時、漢字も読めないのに、突然、不思議な文字を書いたのです。

 息子は、無腐性大腿骨骨頭壊死という、骨が壊死するという難病です。

きっと息子には、何か使命があると思っていたのですが、先生の本に出会い、やはりそうだったかのと思いました。

 これからは、親子で創造的に生きていけると思います。ありがとうございました。 息子の書いたものを同封します。  」  

   

「 イノチヲカケテモ ヒトヲマモロウ。

ボクタチ ノ ココロヲ タイセツニ ソダテヨウ。

ユウキ ガ アレバ デキナカッタコトモ デキテクル

アキラメズニ キボウヲ モテ。

力とおかねがせいぎではないこころがせいぎだ。

空ハカミサマがスンデイルトコロダカラ

空ニハ モノヲホカラナイ (ほからない=投げ出さない、という方言)

山の月きれい しんでもたましいはのこる。

男ノ子モ女ノ子モ トテモイイ子。

いいことをして人をよろこばすなぐさめる

わるいひともいいこころになるみんな天ごくゆき。

いいことをたくさんすればかならずかみさまはおよろこびになって

せかいがへいわになるだろう。 11/8 にちよん  」

  

・・・ 「命を賭けても、人をまもろう」 「勇気があれば、できなかったこともできるようになる。

あきらめないで、希望を持て」 「力とお金が正義ではない。心が正義だ。」

・・・・・・まるで何者かから与えられたような、この言葉の中に、私が「生きがい論」シリーズ三部作を通じて読者の方々にお伝えしたかったことが、すべて言い表されています。

もしかすると、これらの言葉は、この男の子が人間として生まれる時に、「生きがいの源泉」(こころのエネルギー源)として、しっかり握りしめて生まれてきた言葉なのかもしれません。

まるで修行僧が、親から与えられた「お守り」を胸のところに首から下げて、厳しい修行の門をくぐるかのように、

そのありがたいお守りを心の支えに、意を決して、「人生」という名の修行に足を踏み出したかのように。

すでに、生まれた時から、誰の心の奥にも存在し、一本のキャンドルのように光り輝いている言葉・・・・・。

しかし、長年、人間として修行を積む苦しさの中で、しだいに曇りがかかって忘れがちになっている言葉・・・・。

・・・・それを、もう一度、思い起こして頂ければという願いを込めて・・・・

(以上「生きがいの本質」(飯田史彦著)から抜粋 p348~351)

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年のせいか?(笑) 涙が出てとまりませんでした・・・。

たった5歳の子供の切々たる言葉の中にも、深遠な意味を読み取ることが出来るものです。いわゆる神様は、そこらじゅうすべてがそうである存在のことです。あなたやわたし、その周りや無限の遠くまでが、すべて。

すべからく、人生も山あり谷あり、明あり影あり、大あり小あり、苦あり楽あり・・・過ぎればそれが得難い学びとなって、楽しさとなって、皆々に還って来ます。実に有り難いことではないでしょうか。

また、無限に展開する森羅万象の世界、それを、出来うるだけ歪みを無くする努力を通じて、その創造のあるがままを観ること・・・。そのために、今我々皆に与えられているところの「こころ」を磨いて澄ませてゆくことこそ、人存在としての、また心ある生命(いのち)としての使命なのでしょう。

 

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<海岸で遊ぶ子供達  メアリー カサット(1845~1926)

本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました


解脱の前に

2009-08-10 08:22:08 | 宇宙的気付き

解脱とは何でしょうか。

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解脱は、悟りの境地を見出した偉い人のこころのあり方でしょうか。

余人には到底うかがい知れぬ、高い、高い意識なのでしょうか。

全てを捨てた艱難辛苦の後にようやく現われる光明なのでしょうか。

世間の闇、不浄なものを切って捨てる勇気なのでしょうか。

全てを愛情というもので包み込む真綿のようなものでしょうか。

生きて在る事を忘れ、刹那の世界で自由奔放に生き切ることなのでしょうか。

悩み、苦労を重ね、その下積の中から這い上がるような刻苦の一大開放なのでしょうか。

自分はさておいて、他人に与え続ける奉仕に満ちた清い行いなのでしょうか。

・・・

Osho2

確かに、そういうこともあるでしょう。

 しかしながら、その前に、そうありたいも思うところの、あなたや私たち自身を知らなければならないのではないかと、まず考えてみるべきでしょうか。悟りや解脱や深い理解に至る当事者であるあなたや私たちたちが、それ自身何者か?を知らずして、解脱など出来得るものではないでしょう。自己が一体何者かが分からないそのままで、更にわけの分からない他者への奉仕や愛を与えようとすることは、実は誰かに認めてもらいたいというこころを表わしたものだけのことかもしれないのです。

 自己の因って立つ因であるところの「意識」「こころの働き」とその作用を自分でフィードバックして認識する行為が、自己観察、自己観照と言われています。今の自己に囚われている自己自身を、その籠から解放するのは誰でもなく、いつもあなたや私たち自身であるのです。

 悟りや解脱をする「当の」存在自体が、一体何者か分からずして、議論も推察も空虚に聞こえるのが当たり前のことなのでしょう。自己を知らぬあいだは悟りも解脱も分かりようがないのは当たり前かもしれません。今の世界では、多くの人々が自己など知らず、現われては消えて行く現象の波間に浮かんでいるようなものかもしれません。

 自己の観察とは、自分の想念、思いや感情を観る位置に上がることです。この世界に無意識に生きてるという囲いを自ら外す為にこそ、その自己の今の有り様に客観的になる必要があるという事なのです。自己を観る高次の自己が現われるのもそういった自己観照によります。どのような思いや想像を脹らませ、想念の様々な発信を行なっていても、この世界にある個我の自己というものを観る位置に上らなければ、その想念の世界に閉じこもることになるでしょう。

外を照らし合わせながら、自己を観てゆく行為自体がすなわち解脱であり、何かになると言う必要のないそのままのことであると気付くことでしょう。ことさら悟りや解脱など本来必要のない存在であることに判然と気付くことが、実は悟りや解脱ということなのでしょう。まさにパラドキシカルですが。

 人存在の階層には7つの階層があり、その最下層である物理層が肉体という授かりものです。まさにインターネットの基礎である、TCP/IPのような階層ともいえます。肉体より上の位層には意識レベルの周波数のより高密度な存在の有り方があるようです。最下層、または最外層の形態は、今の肉体であり、それはあたかもこの地球生命圏での体験をするために身に着ける約束の「縫いぐるみ」のようなものでしょう。この世界を真に体験するために、その外側の肉体をまとう瞬間に、全てを一回忘れる仕組みでもあるのです。(誤解を招くような、イヤな仕組み?でもあるでしょうが(笑))

 宇宙、様々な顕現世界のなかの1つ、地球というテーマパークで遊んで経験する為の約束事です。皆、どこどこの誰かになって生まれてくることはそれらをその時々で身に着けることを言い、その肉体という高度な機能を持つ外皮は、宇宙でも珍しくない物質形態、アミノ酸、DNAという設計仕様を元に創られたたものです。

 このテーマパークは物質レベル中心の意識周波数帯域を演出してきたようです。物質中心の意識表現世界を探求すれば、実のところ五感で感じる全てのあり方が、意識作用/想念⇔エネルギー⇔物質 という階層で構成されていることが理解出来るでしょう。因である意識に気付く段階にあれば、その物質中心の周波数帯域の理解が既に進んだ存在であるわけで、その存在の意識的周波数帯域が、エネルギー、意識作用・想念の方にシフトしていると言うことであり、意識の変容が既に為されていると考えられるのです。結果の世界にあって分裂、分化して為すところの「重い表現」を理解したと言う事も出来るでしょう。

 これは悟りや解脱という意識視座にあることだとも言えるでしょう。元々の高次な自己に戻ることが解脱、悟りとも解釈できるでしょう。昔々、悟りを得るためと称して「出家」のような世捨て行為を行なったのは、このような物質中心の有り方を一切すてるという象徴的な意図を示す行為であったのでしょう。

 あるがまま、とは決して現状維持と言う意味ではなく、本来自然な高次の自己に戻るということでもあり、また自然、宇宙にある調和や法則に自らの存在周波数を合致させるということでもありそうです。あなたやわたし達の「あるがまま」とは、本来自然(じねん)の有り方ということであり、限界や囲いの無いあり方であり、自己の意識の内容次第に表現される存在であることに気付いていると言うことです。

 次元上昇とは、根源から派生した魂の中間視座にまず戻ることともいえるでしょうか。地球生命圏に降下して体験をしてきた現在の次元の、その前の次元・階層に再び戻るということでしょうか。スピリチュアルな昨今の言い方であれば、それが4次元、5次元意識ともいえるでしょう。

 今までの、特に物質文明は、個我に固定され、自然と闘い簒奪・加工するような、極めて特殊なテーマを演じてきたものでしょう。まさに現在、世界では様々なレベルでの「飽和」が現われていることに気付くでしょうか。経済、政治、環境など様々な分野が「あからさまに」なりつつあり、一体全体、どうしてこうなのだろうか?という段階になっていることに気づけるかもしれません。

自己の殻を破り、一段と大きい存在に戻る行為は、いつの時代にあっても途切れることなく続いてきました。まさにそのこと自体を促す仕組みが、この地球というテーマパークの「テーマ」でもあるようです。

今のステージの極めて特殊なことは、この地球生命圏というテーマパーク自体が、大きく様変わりしているということでしょう。多くの人々が、既にそのことに気付いているはずです。今はもう、まあ、そのうちに・・というステージでないのは、外の世界の観察と、内面の観察で理解出来るのですが、いかがでしょうか。

もう、理屈や権威付けなどの他者への依存心を捨てて、自ら目覚めるときでしょう。1つ重要な気付きは、人間は根源たる因から現われ出でた存在であり、決して肉体ではないということです。

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 淺川嘉富さんの「2012年アセンションの最後の真実」という書を読みました。いかにもまさにスピリチュアルな、いわゆるその方面の書と思われるでしょう。思いっきりスピリチュアルとも言える内容ですが、自分にとってはある意味当然の内容と感じたところが不思議です。(笑)

 UFOや意識のフォーカスレベルといった題材を元にした世界構造も記されています。これはスピ系おたくの好む題材とも取れるかもしれませんが、ところがどっこいそんなものではないようです。このブログを読まれるような方なれば、その内容に頷くか、または衝撃をうけるか、考えさせられるはずです。エキゾチックな読み物かやばい読み物か?読んで見なければどうにも解らないものですので、興味がある方は是非一読をお勧めします。(別に関係者ではありませんが・・(笑))

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 下記は、モンロー研のいう、フォーカス35レベルにある夥しい宇宙船のこと?、いわゆるギャザリングとその意味を説明しているのでしょう。実は私も「夢」にて、上空の開けたあたり?で遊んでいるような夢において、時々夢に出て来る、ガイドのような存在と2人で、超巨大母船のようなものの接近遭遇と、いつの間にかその中に転移してその中にいるような?、窓から外を眺めたような?、そんな夢での経験がありました。まあ、これは「夢」情報ですが・・、正直なところ、なにかそんなこともあるだろう・・とも感じます。事実は小説よりも奇なり、かも知れません。

以下抜粋)p396

「生命(いのち)の核」 山本耕一編纂 (イエスの魂であるサナンダ様のメッセージの転載)

・・・・・・・・・・・・・

宇宙船というものは、基本的に、「魂の席」としてあります。

これはあなたがたの地球という星、そしてこの宇宙に存在する数多くの星々も、みな同じです。

それらは、すべて、「魂の席」として存在するのです。

あなたがたは・・・人は、それぞれみな、偶然にて、その星に生まれ、その星に育つ・・・と考えているかもしれませんが・・・・

実はそうではありません。人がある星に生を受け、その星の人として育つ・・・・、そこには神が定められた厳然とした秩序があるのです。

星は・・・、その星のすべての生命を受け入れます。その星に生を受け、その星に育つすべての生命の、魂の、定められた席として・・・その星は、この宇宙にあるのです。

(中略)

このように・・・すべての星々・・・、そして宇宙船は、基本的に「魂の席」、「魂の乗りもの」としてつくられておりますので、・・・・人が、自分勝手に、どの遊星に行きたい、どの宇宙船に乗りたい・・・というわけにはいかないのです。

「魂の席」というものは、神が、厳格にこれを定められますので、・・・人は、神の定められた星に暮らし、神の定められた宇宙船に乗るのです。

このようにして、・・・・今回の、この地球の「世の終わり」においても、・・・・

この地球上のすべての生命・・・・・

それは、あなた方人類はもとより、いかに小さな生命も、大きな生命も、・・・・この地球という惑星上に「魂の席」を持っていたすべての魂において、・・・・

私たちの、地球をとりまいている夥しい宇宙船の中に、それぞれの「魂の席」を、神が、厳密に定められます。

(中略)

ですから、「宇宙船に乗る」、「円盤に乗る」・・・と簡単にいう方もおられますが、先ず、それには、神が、その生命の席を、一つの宇宙船の中にきちんと定められる、その手続きが、絶対に必要です。

私たちの・・・地球を取りまく宇宙船の数が、異常とも思えるほどに多い理由も、これで納得いただけるでしょう。

そして・・・私たちは、この神の意図にしたがって、厳密な準備をすすめています。

<離脱>

それは、また、一つの神の配慮であり・・・、あなたがたは、そこに、神ご自身の意思を見るでしょう。

ですから・・・、遊星の魂が生まれ変わるとき・・・、

その遊星上に暮らすすべての生命の魂は、いったんその場を離れます。

あなたがたの魂は・・・、そして、すべての生命の魂も・・・

今まで、一体となって暮らしていた、この「地球」という場を、いったん完全に離れるのです。

(中略)

ですから、・・・・これは「祝事」(いわいごと)であります。

本来は、真の眼から見るならば、・・・古い縁をすべて絶ち切って、魂が新しい場へと完全に生まれ変わることのできる「祝事」にほかならないのです。

・・・・・・以上抜粋・・・・

Mir_sts63_j

本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました


あるがまま

2009-08-02 10:18:30 | 今大切な禅の言葉

 宇宙、森羅万象を見て驚愕し、その不可思議さの何たるかを感得しようとすれば、「論理」は結局役立たずであろう。 一見分かったような解らない様な、古来から綿々と続く「言葉」にも注意を致し、耳を傾け、心を傾け、共感することで、宇宙森羅万象の、その大枠の因の波動を感じることが出来るものではないだろうか。 結果を先に取ろうとする魂胆と期待を廃し、自ずから、見て、聞いて、ただ感じることのなかにこそ、あるがままを理解する「こころ」の姿勢が創造され、あるがままの宇宙の有様を映し出すことになるであろうと感じないだろうか。

 Anndoromeda

●挨拶 (あいさつ)

一挨一拶、その深浅を見んと要す」 (碧厳録)

 我々の人と人との接点にあるものが「挨拶」だ。おはようございます。こんにちわ。ごめんなさい。以心伝心の高度な意思疎通に気付く以前にわきまえるべき行為であり、それはおたがいの相互認識を、改めてお互いに示す「言霊の発信」と言えるだろう。また、その「挨拶」により、その発信者同士が、どの程度覚醒をしているものかわかるものだ。ある意味で生きてあるもの同士、求道者どうしの阿吽の励ましと共感ともいえるものだろう。

 素直に、こころ込めて他者に挨拶が出来る人は「1つ」間違いなく達成した存在である。小難しい表情、思わせぶりな態度、期待を促すような吸引、尊大な弾かれるような雰囲気の存在は未だ覚醒に至らぬものである。ましてや挨拶が出来ない・しないという有様は、人として「これからの存在」であることを示しているのかも知れない。

当たり前のことが、いかに自然に出来るか?それでその存在の「今」のあり方が解るものだろう。

 

●宇宙無双日 乾坤只一人

 「うちゅうに そうじつなく けんこん ただ いちにん」  嘉泰普燈録

 宇宙における太陽が、我々の全てを生かしているように、あなたも世界の中で、唯一無比の価値ある存在である。

このような言葉を、耳に心地良い単なる比喩ととらえるべきではないのだろう。まさにそのようであるのだ。乾坤(天地に)只一人、あなたも私たちも、ユニークで且つ唯一の存在だ。

 

●放てば手にみてり

はなてば、てにみてり 」   正法現蔵:道元

 何かを持っていては他のものが持てないということ。当たり前のことであるが、1つのことに執着していては他の理解が出来ないと言うことでもある。お金も地位もあるいは執着している価値観も、全て現われては消えて行くさだめのものである。手放すということは、感情込めていやいや捨て去ることではなく、元々手には何も持っていない・ということに心底気付くだけのことであり、あるがまま、そのままを観る行為にすぎないのだ。

 執着を放てば、あなたの手には、只元からのあるがままが残る。残るのは、ただあなたやわたし達の「あるがまま」しかないということだろう。悠久の無限を現しているように見える世界の全ての有様を感じること、それは、まさにあるがままを持つことに他ならず、それ自体に恐怖など不要ということだ。もともとそうなのだから。

 

●無一物中無尽蔵  

 「むいちぶつちゅう むじんぞう」   蘇東波(そとうば)の詩

 「人間本来無一物」とも言われる。 しかしながら現代は、いかに多くを所有するかの競争にはまり込んでいるのだろう。まさにその為に大勢が大忙しのようだ。 そうして何も持たず去ることになることすらも理解が出来ないお芝居をしている最中でもあろう。 確かに普通ならば「あり得ないほど」の体験をしているのだ。

 森羅万象、人間も含め、あらゆる生命表現の因は、それが無限であるからこそだ。その無限を怖がっていることも、1つ、本来無限たるあなたやわたし達の、実は愉しい遊びなのである。

Flower1008

●照顧脚下

しょうこ きゃっか」 

 前や外ばかりを意識していては、元である自己がおろそかになるものだ。自己を顧(かえりみ)て、その存在たる本来の有り方に気付くべきだろう。 あなたが見ている外の世界はあなたなくしてあり得ないのだ。その世界を認識している「あなた」が元にあることを忘れるべきではない。 他の人の世界も他の人がそこに在る間だけの世界であり、あなたやわたしの世界も、まさにあなたやわたしが認識している間だけの世界である。

 元の元なる自己を顧ずして、外の世界がわかろうはずもないのだ。おのれのこころを顧(かえりみ)て、それを知らなければ、他の人のこころも解りようがない。極めて当たり前だろうか。

 

●明歴歴露堂堂

めい れきれき ろ どうどう

まさに明らかな(歴々)ありのままの美しい世界を見るべし!・・

 いまある視覚を通し、五感を通し、あるがままの世界を、内面のこころで感ずるべきものだろう。その世界をいかに切り刻んで加工し、挙句の果ては汚濁にまみれたものにしようとも、今この世界があなたやわたし達の目の前に現われ続けてくれる事実を観るべきだろう。

 必要なことは、世界の加工・改革などでは毛頭なく、自分の内面にある多くの「影」を観ることであり、それを辛抱強く観ることで影に光を当て、それを体験として認識・昇華することであろう。外を眺める心の窓が、本来自然(じねん)の有様になれば、そこから見える世界は、本来自然(じねん)の有様であることは、まさに自明の理ともいえるのだ。

●掬水月在手

 「みずをきくすれば つきてにあり」  春山夜月:干良史(うりょうし)作

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中唐の詩人・干良史の「春山夜月」という詩の一節。

月夜に水を手ですくってみれば、月の姿、光は手のなかに在る。

 あるがままの自然をそのまま丸ごと、単に認めることで月もあなたの手の中にあることが分かるだろうか。それとも何億トンという物量の塊の月が所望だろうか?我々の意識の段階、ここ、いま在るところであっても、いつも最善を超えた美しさが無数にある事に気付くことが出来るのが、恩寵でありまた責務とも言えるだろう。

 

●逢茶喫茶 逢飯喫飯

ほうさ きっさ ほうはん きっぱん」 (螢山禅師)

茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては 飯を喫す。

 当たり前のものごとが、自然であり、いや、それこそまさに奇跡であり、有り難いことであることに気付くならば、求めているものは既にあることに感謝しか感じないだろう。求めて求める行為の止んだときに、既に在るものに気付くことだろう。お茶を飲む時はお茶を飲み、飯を食うときは飯を食う。観念の世界に閉じこもることなく、今、当たり前に感謝することが「悟り」ともいえよう。ほんの少しの違いだが、全く違う次元にあるとも言えるかもしれない。

既にそこにあるものに気付くか、気付けないか、只それだけのことでありながら、ホンの少しのこころの違いがまさに、断崖のように立ちはだかると感じるかもしれない。量は質の投影であれば、まさにそのように映ることもあるだろう。人の意識が、物量の中に埋没したならば、まさに物量の壁が立ちはだかるのだ。

 「静」かの中にこそ、無限の「動」きを見ることが出来るものだ。激動の世界を見て一喜一憂しているその当人であるところの自己を観る必要性は「今」をおいて他にあるだろうか。各自の世界という影絵の、作者である当の自分を観ることが出来れば、それは、今でも、いつでも本来自然の「道」にあることを示している。

 「あるがまま」とは、いま在ることが、今の今、常に最高最善であることを知ることなのだろう。

そこには執着も逃避もない。固定観念も夢想もない。神も悪魔もない。過去も未来もない。

 ただいま」、只、今がある。 あなたは放蕩三昧から、今、あるがままの大いなる元の自分に帰り着いただろうか?

Anki(谷中 安規  作)

本日も誠に拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。