気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か?の考察 その10

2019-01-29 07:05:52 | 語り部の章
それぞれの「わたし」は、
現れ出ては消え去る現象の性質そのものに、
無限なる自らの発する高次の思考、思念、想念を投入し、
消えては現れ、現れては消える現象世界、そしてこの世の肉体、環境、
それ自身を・・わたしと・・錯覚している。

深く錯覚し、誤信して痴呆のようになっているともいえるだろう。
人間は社会的動物である・・という外から与えられた想念形にとどまり続け、

その肉体的・物質的自己を維持せよという世相の指示に沿って、
大勢の流れの中で、肉体生のために必死で頑張って人生を消費する。
嬉しいことも悲しいこともあるけど、それだけだよ・・的な、
究極の消費者・・?のような、
そんな繰り返し人生を送ってきたのかもしれない。

あなたは・・今・・どう思うだろうか?

よくこの世界は、発展途上の3次元的世界とも言われ、
幸福が基調にある表現豊かな顕現世界とは程遠い。

それは幻想の中のさらなる幻想、
味のまずい、うまくない幻想が支配的だからだ。


真のわたしの周囲に、無数の幻影が取り囲み、
わたしは・・・その観察する対象たる”幻影を、
「わたし自身」だと”思い込”んでいる。

この仕組みがわかるだろうか?
これは・・わたしの世界の根源の・・真のわたしの顕現法則のようなもの。

”I AM THAT I AM”の自己存立原理そのままだ。

それが今のそれぞれの”私たち”ではないか?
どこに行こうと何をしようと、
”I AM THAT I AM”の自己存立原理そのままだ。

そうそう、
私たちは皆”個人”あるいは”肉体人”だと、
集団で思い込んで(まされて)いるということだが、気づけるだろうか。


あらゆる顕現事象、世界、それにそった宇宙は、
その根源である中心から放射される無数の振動率、波長によって創られる。
この、”創られる”という言葉の概念は、
何か大変な思いで創造されるもの・・というイメージがあるが、
それは全く、この世的物質偏重の勘違いである。

真のわたしが、自らの発する・・
想念・マインド・こころの波動域に”自ら”を・・置き、
さらのその波動域の末端遠方、辺境ともいえる、周辺波動域である、
物質的世界と言われる領域の一部に、いわば出張しているようなものだ。

とはいえ、この幻影としての地球という住まいも、
実に壮大・精緻この上なく出来ているということに感嘆するではないか。
あなたは今、この世界に出張している神のようなものだ。(笑)

あなたの見る・・この壮大、精緻、感嘆に満ちた世界も・・
すべてであるひとつの根源である・・真のあなたの・・投影像である。

真我にとって宇宙は・・自己の投影像を「観る」ことなのであり、
真我の根源的な 在る・・いわば実在感によって・・投影されるもの。


それは、あなたが眠り、夢見、そしてこの現実の生活に入るという、
ある一定期間の生の、その毎日のサイクルに見事に示されている。

常時・・今・・在ること・・わたし・・の中に
・・その根源があるなぞ・・・

”夢”にも思わないだろうか。

誰でも気付いている肉体ではなく、
--意識である・・わたしに・・気づかない間は・・。



わたしとは何か?の考察 その9 

2019-01-21 07:24:37 | 語り部の章
小さな波も、大きな波も、壮大な海であるように、
私が私が・・と言っているわたし・・意識も、
無限の意識の一部であり、

また”意識に”おいては、その一部はまったく全てでもある。

私は個人だ、肉体だ・・は全くの枝葉観念、辺境の非常識、
波の波頭ばかり見て、海を見ていないということに過ぎない。

この世界の人々は、いや魂・意識は、
まず、私とは何か?に疑いを持ち、それについて探求する必要がある。

そのために、この現実世界をその歪(ひずみ)と苦痛を伴って味わうもの。
「なんで、こうなんだ・・?」
「どうして私は幸せでないの?」
「なんで世界、世間はこんなにも冷たくお粗末なのか」
「どうして人々はバラバラで、心底親切になれないのか?」

しかしながら、またそうでなければ、
いつか時空間を超えた次元から”ここに”来た魂は、この世界を超えることができない。

肉体的な苦痛、そしてそれから起きる感情的な苦悩や苦しみは、
より荒い波動の中に、より精妙な意識があるために起きる波動的ミスマッチともいえよう。
魂の無限性と、物質顕現の有限性の混在と混乱ともいえよう。

多くの人が自分は肉体である・・と思っている・・ではないか?
あなたはどうだろうか。
当たり前のような教育も、情報・報道も、世間の常識も、
それ以上のことはわからないし、言わないし、真剣に調べることもせず、
ただただ、目先の肉体的生活の改善や維持だけのために生きている。

そのコンセンサス(合意観念)から外れると、
人生が生きづらくなると信じて疑わず、
できるだけ肉体的・精神的苦痛を避けながら、
とりあえずの人生のまま終えてしまうことが多いかもしれない。

その信念のままであれば、わたしの・・その信念の赴くまま、
再びその信念の、最も整合した世界に出現することになる。

ラマナ・マハルシは生まれ変わる「魂」とされるのは、
「想念の束」である・と表現している。

そう、輪廻転生は自己によって行われるのであって、
何かの他者の押し付けでも、無理強いでもない。

I AM THAT I am.

大勢の人々の無知や利己主義に取り巻かれたような、
この世界、テラとか地球とか、アースとか言われる波動域は、
精妙なる波動域への上昇、魂の開花のための修行場のようなものであるが、
魂の開花とは・・魂が種から成長して開花するという意味であると同時に、
無限なる魂が自己自身を思い出す過程でもある。
下から上へ、上から下へ、あるいは天と地の合一とでも言えようか。

しかしながら、魂の成長過程、あるいは自己想起過程での最も幼いレベル、
「わたしはだれ?・・ここはどこ?」という、
魂の種の発芽、意識の衝動さえ抑え込まれるような、
自信満々の無知の支配する世界において輪廻することは、
いったいどんだけ~!!の修行と言えるだろうか?

そうだ、そういう信念体系、幻想中の幻想ともいえる世界にいて、
それすらも「気づかない」闇の世から自ら目覚めることは
いったい、どんだけ~!なことだろう?



苦痛や苦悩、不幸や悲しみは、意識の派生である感情の刻印の痛み?ともいえるが、
それは、時間空間内に、現れては消える肉体・物質的波動と、
時間空間を超えた”魂”とのミスマッチからくるだろう。

これは魂自体が十分に目覚めていないことからくると言えようし、
意識内面にある高次の自己を・・忘れている・・とも言えるだろう。

時空を超えて在る・・魂が何かになること、
時空の中の出現と消滅の現象である物質・肉体と”自己同一化”することだ。

例えばこれは小説のモチーフにあるように、
白紙に絵を描いた作者が、その絵の中に入り込むようなものだ。

自己が・・その物だと錯覚している。
わたしは・・現われ出たその物、事物・肉体・環境である・・と錯覚している。

そして、現れ出ては消え去る現象の性質そのものに、
無限なる自らの発する高次の思考、思念、想念を投入し、
消えては現れ、現れては消える現象世界、そしてこの世の肉体、環境、
それ自身を・・わたしと・・錯覚しているということだ。

しかしながら、そのあり得ない「錯覚」を、
生身の幻想で経験できる世界が・・地球という世界であったと言ってもいいだろう。

苦痛や苦悩、不幸や悲しみは、意識の派生である感情の刻印の痛み?ともいえるが、
それは、時間空間内に、現れては消える肉体・物質的波動と、
時間空間を超えた”魂”とのミスマッチからくるだろうか。

その魂のための波動のギャップを提供してきたこの地球という世界も、
人々が大いなる意識であるように、同じく英知ある意識であることを悟れば、
もうそれは十二分に過ぎたこともわかるだろう。

この地球という、それぞれのわたしの、
愛あるバックグランドの世界も大きく変わってゆく、心すべき時でもある。

人々は、繰り返し、繰り返し外から入れてしまった幻想の種を覆し、
自らの魂の種にすでに書き込まれていること、
それが真の当たり前であるところの幸せこそが現実であると、
自らで想像・創造・実感する段階にきている。

I AM THAT I am.

わたしは在る・・からあらゆる顕現世界が出てくる・・、

であることを悟るならば・・・、

今あなたは・・「わたしは・・在る」・・に意識を引き戻し、

わたしは・・・で・・在る!--と宣言すべきであろう。

わたしは・・わたし以外に・・いないではないか?


わたしとは何か?の考察 その8 

2019-01-18 08:30:56 | 語り部の章

・・在る・・Being ・・によって
常に・・今・・の”わたし意識”が生じている。

わたし意識とは何か?といえば、自己への気づきである。
自身への気づき・・そのものが・・自己・・わたしだ。

これは何にも依存しない・・自己自身の存立原理だ。

眠りと夢見と目覚めた後の日常も、すべて「意識」の変遷である。
眠りはその時には何も知覚認識がない無意識といえよう。
無意識的”意識”であって、無ではないことは、
また夢見や目覚めが起きることでわかるはずだ。

意識は、無意識・意識、また非顕現・権限のサイクルである。
プラス、マイナス、表層・裏層、出現・消滅だ。
生まれる・死ぬ・・と言っていることも同じだ。

人が生まれた、死んだと言うことは、
外側から見た肉体の現象のことであり、
それら物質形態は当然ながら跡形もなく消え去る。

わたしは肉体であり・・肉体として在る・・は消え去り、
わたしは・・原初の、在る・・に戻る。
I am some person.は、
I am THAT・・・.に戻り、

そして、
再び、何かになるために、顕現形態を出現させる。
意識と意図がある限り、波動は様々な層で自己を表現する。

あらゆる意識顕現の元にあるのは
・・わたしは・・在る・・だ。



海の波頭は浮いては沈みを繰り返す。
波頭の先の水分子は、進行方向に、くるくる車輪のように、
円運動をしていることを知っているだろうか?

まるで、より末端の次元の世界での輪廻転生と同じようなものだ。
そうではないか?

小さな波も、大きな波も、壮大な海であるように、
私が私が・・と言っているわたし・・意識も、
無限の意識の一部であり、

また”意識に”おいては、その一部はまったく全てでもある。

私は個人だ、肉体だ・・は全くの枝葉観念、辺境の非常識、
波の波頭ばかり見て、海を見ていないということに過ぎない。

---

自身の・・在ること・・気づく・こと。

これが、わたしが・・この世に生まれた・・原初に起きたことだ。

この世に生まれる・・とは、
この世で”意識が”目覚める・・ということだ。

ふつう、一般常識観念では、
生誕とは活動する赤子、肉体・生命が生まれることだ。

赤子(肉体)が親の体から出てくる・・次に、
意識の成長が開始されるように観察されるため。
まず肉体ありき・・精神、意識は2次的派生という観念が起きる。

親から見た子供・・である私ではなく、
外側・世間から見た・・私個人ではなく、
赤ん坊の時分に撮られた写真に写っている赤子である私でなく、

周りから見た、私の経歴、経験、姿ではなく、

・わたし・・意識・・そのものの話をしているのだが

生まれたそのとき・・の意識・・わたしは・・どうだったろうか?
赤子の時に、あなたは自・意識があったろうか?
その時の記憶はあるだろうか?

それは、毎日毎日経験している、
熟睡から目覚めへと移行する過程に似ていないだろうか?
毎日の場合は、日常の「記憶」が再び次第に蘇るため、
わたしは昨日の私である・・というアイデンティティがある。

生誕の時には、記憶がない・・あるいはすぐには思い出せないということだ。
さらに赤子から幼児期のその間に、・・様々な記憶が一生懸命植えつけられるため、
思い出すことを促されるどころか、
その記憶再現自体がかき消されるように排除される。

そういう風に思ったことはないだろうか?


ふつうは、まず肉体があって、
経験を通じて、神経組織、頭脳が生育する過程で、
次第に”意識”が生まれると考えている。
それ以降、
肉体を保身、維持、成長させるための生活が開始される。

多くの場合、
生まれて、目覚め始めた・・”意識”はおざなりになり、
親や周囲の観念という衣を次から次へと何重にも着て、
現実というこの世の習いに適応してゆくのだ。

赤子から幼児にかけて、目覚め始めた意識の状態・・・、
そこにドットこの世界の観念が押し寄せるため、

数限りなく潜在下で記憶していることも思い出さない。
世間一般では、魂が転生するなどの観念が希少なためだ。

特に現代社会では、唯物論的観念の支配が行き届き、
「意識」そのものが、物質組成の中から偶然に生まれるなどという、
卑小極まりない即物的信念の世界ではなおさらである。


あなたもそうやってこの世界に自分の魂・意識を突入させたのだと、
思ったことはないだろうか?

自らの”意識”に気付くことが、いわゆる「魂」に気づくことだ。
魂に気づくということは、
今のあなたの表層の小さな意識を含む、膨大な潜在意識への気づきとなり、
必要とその意図に応じて、様々な記憶も思い出されてくるだろう。

例えば仮に、この世界がそのような文化・文明であれば、
生きること死ぬこととは、(魂)意識の変遷に過ぎないことが理解され、
その顕現形態、表現形である身体も真に安楽で快適であることだろう。
・・・

誰でも自分の肉体や周囲の環境、人間関係に気付いているし、
我が身や縁者のために様々な対応をしながら人生を送るわけだが、
その世界や環境を成立させている、原初の意識の方になかなか気づかない。

わたしが・・在る・・ことで、すべてが起きる・・その意識だ。
それがこの世に、生まれた時に目覚め始めた・・わたし・・だ。

その「わたし」に気付かず度外視しつつ、
外の何かの概念を集めてこのような世界ができるわけだ。

なぜならば、
知覚するその対象物は誰にも明らかで共通認識が可能だからだ。
「ねえねえ、そうだよね~」「そうそう、私もそう思うよ」
「みんなそう言っているから・・」
と、そうやって共通認識の世界が出来上がっている。

逆に、意識・・は、
それらすべての知覚対象を・・存在せしめている側でありながら、
あまりにも対象物の乱舞に気を取られるため、

わたし・・意識がなければ、
わたしの世界が存在しないことに・・、気づかない。

世界の中に、私個人が一時的にあるのではなく、
わたしが・・在る・・がゆえに、わたしの世界がある。
そのわたしの世界の集合したものが宇宙、世界でありながら、

わたしがいなければ宇宙も、世界も存在しえない。
真のわたしは・・すべてを包括する「意識」だからだ。


ひとつは即ち、無限であり、無限はまたひとつである。

あるいは、色即是空。

これは、
1つ2つの物質の勘定では決して理解不能である。

この気付きには、ご褒美も、肉体刺激も現世の利益もあるわけではないし、
ただたんに気の利いた単なる発想の類でもないく、

言うならば「意識次元」の転換とでもいうべきものだ。

わたしは・・在る・・!・・
その根源からすべての顕現、つまり波動が生じている。

だから、
これは意識における、一大転換なのだ。
肝心なのは、どこかの時空の何かではなく、

最も身近で、自分自身であるところの

・・意識・・わたし・・である。



わたしとは何か?の考察 その7

2019-01-15 04:34:59 | 語り部の章
・・在る・・Being ・・によって
常に・・今・・の”わたし意識”が生じている。

わたし意識とは何か?といえば、自己への気づきである。
自身への気づき・・そのものが・・自己・・わたしだ。


わたしは・・私に気付いている・・であり、その状態が”存在”だ。
それがーーわたしは在る--I AM であり、
他の表現で言えば、わたしは・・今・生きている・・となる。

そして、わたしは生まれた、成長した、そしていまここに在る・・と続く。

常に・・今・・だったが、その今の・・変化の過程が人生である。

意識としては、今・・わたしの連続であるが、
肉体の成長・変化、様々な身体経験、思考の「記憶」の積み重ねによって、
これが私だ・・という人格が作られるが、
実のところ、
それを・・今・・知っているということ。

そう、常に・・今しかないのだ。

過去があるように見えるのは、肉体の成長と衰退が、
一連の物語として連続しているから。
活動写真、コマ送りのパラパラ漫画やビデオが
あなたの「記憶」の連続として思い出されるからだ。

しかしながら、いまはもう気づけるだろう。
誰もみな、赤ん坊、幼児、青年、大人になる過程を経てきたとしても、

常に・・今・・しかなかったことを。

今でもそうだ。(笑)

多くの人は、
ただ社会の中で、人々の中で経験し、思いめぐらして、
その連続が人生であるとしつつ、時間に追われる人生を刷り込み、
いつのまにか「時間」そのものを実在するものだと錯覚している。
これは「時間」に拘束されているということだ。

このままだと、いつまでも「時間」にとらわれたままだ。
「時間」とは輪廻の歯車の回転である。

これは空間のテーマと同じく、
宇宙には長い時間が存在しており、
わたしは・・その長い時間の中にポッ生まれては死ぬ、
あるほんの一時だけ存在する者であるという自覚だ。

あなたもそう思っていないか?

例えば大人は、多かれ少なかれ、鏡に映った自分の姿を見て、
「あー年取ったね~・・ヤダね~」などと思い、
時間の経過を実感するわけだが、

それを見てきたのは・・ただ・・今の意識・・であることに気付けよう。

過去とは・・今・・振り返る想念・「記憶」のことであり、
未来とは・・今・・思いめぐらせる想念「想像」のことだ。

鏡を見る人は、鏡に映った鏡像を・・わたし・・と思う。
つまり、
外側・あちら側・時間経過した肉体だ思っているが、

本当は・・こちらがわ、観る側・・
常に・・今・・わたしなのである。
その・・わたし・・は・・不変の気づきである。



在るのは・・今・・の瞬間だけなのだ。
瞬間・・といってもそれは決して捉えることができない。

在るのは・・実在するは・・「ただ・・今」 だけ。

それに気づいている・・わたしが在る・・から、今の瞬間がある。
意識によって今の瞬間が出現している。
今の瞬間の連続が・・コマ送りとなって時間連続
・・わたしの世界を展開する。

映画を観てその映画の主人公に感情移入するように、
展開する世界の、その光源側・・わたし・・に気づいていないで、
展開する世界の側、現象側ばかりに意識が行っているため、
終生、その世界、いや宇宙の中の、
1肉体個人と信じて疑わず過ごすことにもなる。


そして、自らが設定した1肉体個人の終わりを迎えるのだが、
1肉体個人は、他者から見て死滅することは誰でも知っている。
あなたも多くの人の生や死を見てきたはずだ。

例えば、そのわたし、
1肉体個人は、その人生映画の出演終了後、どうなるのだろうか?

いつものように、他人事でなく、そして、そのうちに・・でなく、
自らで真剣に考えてみるべきではなかろうか。

それぞれ、宇宙で唯・・ひとつの・・<わたし>のことなのだから。


わたしとは何か?の考察 その6

2019-01-12 04:14:35 | 語り部の章
なんでもないものは・・無ではなく、
無限のそのものであり、その無限性なるがゆえに
有限を無数に体験することが可能であるため、
特定の何かに・・なろうとすること・・意識が生じる・・
・・在る・・Being ・・によって”わたし意識”が生じる。
わたし・・意識は、
至高の実在、無限なるそれ、あるいは宇宙意識の証拠(しるし)である。
あなたは、”無限なるそれ”であり、
1つのこの時空世界への生誕という設定を通して個別化し、
この世に出現する過程を経てきたのだ。

しかしながら、
出現したこの世は相当な無知が常識と化しているところであり、
魂・意識がリセットから再び立ち上がってくると同時に、
社会や家族、親の強い想念形に洗脳されてしまうのだ。
なんだか言い方が良くない?けれど、
肉体ではなく、無限なる意識から見るとそういうことなのである。

まず、ほとんどの親たちは、かわいい赤ん坊を見て、
それが愛しく幼気な、肉体生命だと感じるのである。
「あー、わたしのいとし子よ・・」という感情・驚きとともに、
母親は、自分の体を痛めて産んだ子だ・・という強い感情を持つ。

まずその時に、あなたの外側から、つまり親の目線から、
あなたは「肉体からできてた子だ・・」と刻印されるわけだ。

世間一般、まかり間違っても、
おなかから出てきた子供を「魂・意識」とは思うまいし、
当然ながら魂にある、
より大きな生命サイクルの記憶の可能性など眼中にない。

もちろん、そうであるからこそ、
あなたはこの世界の肉体住人としてのスタートを切ったのだ。

そんな風には考えたこともないはずだが、
まず両親の意識・想念によって、次には社会によって、
生まれた子であるあなたに対して、
「あなたが肉体である」として刻印されたのだ。

とはいえ、この世界の血を分けた仲間、
家族ができる親達の嬉しさはいかばかりだろうか。
「ようこそ、この世界へ、来てくれてありがとう」

しかしながら、
あなたもすでに経験しているだろうが、
この世界が並外れて過酷で、複雑な想念形でできた世界だと、
その試練ともいえる世界に放り出されることに気づくのは、
いつも後になってからなのである。

そうではないか?

あなたの人生も、極楽トンボのようなものではなかろうし、
お金はたくさんあるし、家族もみんな幸せだよ・・でもなかろうし、
社会、国家が煽るあるべき人生の先には
決して幸福なんかないとすでに知っているだろう。


毎夜毎朝の繰り返しサイクル、
夜の眠りから朝の目覚めのごとく、この世界では”輪廻”転生と呼ばれる
肉体死から再生誕という大きなサイクルの無意識的な繰り返しが起きているが、
確かに、それがこの世界の特徴であるともいえる。

ある面、一度はまったらなかなか抜け出せない「超やばい!」体験劇場だ(大笑)。
したがって、あなたは、
女々しく、ひ弱で、明日をも知れぬ、はかない身の上?どころか、
魂・意識から見れば、トンデモナク度胸があり、勇気と英知に満ちている
そういう存在であると言わねばならない。


真のわたし・・無限なる意識が、
それ自身が作り上げた1つの肉体の中に、はまるとなるとどうなるだろう?
隠れ家に隠れてしまったらどうなるだろう?
”わたし”自身のことを、”わたし”が忘れてしまったらどうなるだろう?

最低次元の創造物に中に、”至高の存在”が閉じこもったらどうなるだろう。
無限意識そののものが、かろうじて自意識を持ちながら、
そのぎりぎりの形態、肉体に甘んじたらどうなるだろう?

つまり、言い方はいろいろだが、
今のこの世、この世界、この地球上、この次元の
一時の人生を経験している人々、あなたも、
こういう夢の世界に飛び込んできたと思えないか?


我を忘れて、個別の何かになろうとする宇宙劇場、夢、映画・・、
・・、輪廻転生という忘我の繰り返し人生劇場だ。


<わたし>・・在る・・ことに気付いていること。
無限のそれから、すべての顕現形態が生じる。
意識、想念、無数の知覚対象物、あらゆる事象だ。

またその可能性の中には、
それらの事象の中に、自らを投入・同一化、個別化する、
無数の人生・転生経験も起きるのだ。

あなたや私たちが・・今、ここに生きている・・ことだ。

確かに、チコちゃんが言うように、「ぼーっと」生きているとしても、
自己に気づいている意識があることは・・無限者の意識の・・その証である。

しかしながら、ただ茫然とそのままでは、
またまた輪転機の輪の中に、個別化するのではなかろうか?



誰かが起こしてくれる・・のを待つ?・・・
あなたの世界には、あなたしかいないのに、一体誰が起こすのか?

目覚め・・それは常に内面から起きてくるもの。


なんでもないものは・・無ではなく、
無限のそのものであり、その無限性なるがゆえに
有限を無数に体験することが可能であり、
特定の何かに・・なろうとすること・・個別の意識が生じる・・

・・在る・・Being ・・によって
常に・・今・・の”わたし意識”が生じている。