気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

魂たちの学び舎

2012-08-26 09:23:56 | 覚醒意識

あなたは例えばこの世界を、今どう観じているだろうか。

  

ところで、

 

あなたやわたし達が魂であるならば、まさに永遠に属するところの魂にとって、

 

いったい全体、学ぶことが必要なのか?という風に感じるかもしれない。

 

いわゆる神や根源意識なる「それ」は、全てを知り、全てで在り、全てを為し得るのであれば、どうして今更「学ぶ」あるいは「進化」等ということがあるだろうと、いぶかしむかも知れない。

 

全知、全能、遍在のものが、例えばどうしてわざわざ個別の種にその身をやつし、自らを窮屈な土の中に投じてのちに、無意識の意識から成長を始め、再び日の当たる世界で目を覚ますようなことをするのだろうか。

 

例えばこの世界に生れてくるようなこと、

 

どうして何もわからず、何も知らぬ無垢な赤ん坊に生れ、そして分けもわからずその所作の行き着く結果もわからぬ大勢の人々の中で、ある時は叩かれある時は揉まれる経験をしたいと思うのだろうか。

 

どうしてわざわざ無明なる世界で、光を求めて動き回る人々で満ちた、このような世界に生れてくることを体験しようとするのだろうか。

 

理知的な人であればあるほど、

 

この世界の明らかに愚かな有様に気付きつつ、どこか厭世的な気分になりながら、さっさと滅んでしまえば良いのにとも考えることもあるだろう。

 

どうしてこんな歪(いびつ)で、それこそ生きにくい世界が存在しているのだろうかと悩む時もあるだろう。

 

しかしながら思うかもしれない、・・・・確かにそれには意味がある・・と。

 

・・・・

そうやって、どんな意味があるのだろう?と意識的に、あるいは無意識的に思案しつつも、目先の生活に追われているようなものなのだが、

 

そうした自らの生活に追われ追われて人生を経てゆくことで、この世界が嫌々ながらも病みつきになる魂たちが多く出ることになるのが常であったようだ。

 

嫌なのに・・病みつきになる・・とは一体どういうことかと言えば、

 

重い身体を持ち、混乱した思考に周りを囲まれ、ざわめく外の人々の慣習に内面から縛られることで、無知と不自由さの中に埋没するということだ。

 

人々の乱雑に発するところの思考と行為の中に埋没するということだ。

 

極限された集団思考によって、いわゆる3次元と4次元の間で閉じ込められつつ、まさに浮いては沈むような生と死の繰り返しを演じることになる。

 

これはすなわち、光の僅かにしか届かない地のなかに自らで「種」を撒くということなのである。

 

そうして無知がゆえに行ってしまうような、自らの愚かな行為によるカルマの反動をも繰り返し受けながら、幾多の生を生きては死に、それでも次第にようやくその行為と結果の関係が理解されてくるようになる。

 

まさに、そういう世界では『人生』とは、何十回、何百回の『生』と同義なのである。

 

いわゆるムーの時代あり、アトランティスの時代あり、エジプト、ペルシャの時代あり、・・・

古代中国の時代あり、名もなき幾多の砂漠や山岳の民の時代あり・・・

あるいは生と死の狭間の時代あり・・・・・。

 

実のところは、こうして我々魂たちは時間空間を超えて、自由自在にあらゆる時代あらゆる文化文明を体験をしているのだが、多くはそれに気づいていないということでもある。

 

あなたはどうだろうか。

 

なるほど、無知・無明から始めるが故に、この地の世界を卒業するための人生など1度きりで収まるものではないのだが、あろうことかその無知なるがゆえに、人生は1度きりだその都度考えていることが多いのである。

 

しかしながら、カルマで生成される幾多の人生を繰り返しつつ、その繰り返し自体の御蔭でその幾多の人生を経てきた自分に、いつかどこかで苦笑しながら気付くことになるだろう。

 

次から次へとこの世界に希望しつつやってくる無数の魂たちの、楽しくも・陥ってしまったところの、相変わらずの無知と無明の思考の群れに遭遇しつづけ、やっとのことでそれに『飽きる』ときがやってくる。

 

なるほど、この世界での無知なる自己の有り方にもどこかに意味があるとしていたからこその幾多の生であったわけなのだが、

 

そこには実はどんな意味も無かったという気付きに至る瞬間である。

 

どんな意味も無いとはどういうことだろうか?

 

それは意味や意義を最初に求めるような思考や観念に依らず、否応なしの幾多の経験・体験を経て初めて醸成されるものということである。

 

魂の学びとは、思考によらず、観念によらず、

 

まさにそれは経験を経なければ醸し出すことが出来ないことなのだ。 

 

またそれは撒かれた種が、暗い土の中の養分を吸収しつつ、ようやく陽光輝く光の世界に這い上がってくるようなものなのだ。

 

地球という学び舎はそういう特殊なところであるともいえるだろう。

 

なるほど、不自由な身体と極限された混乱した思考に満ちた世界であったこの地、地球は大きな、土・地の球体世界である。

 

その有限球体の地は、魂たちにとっては実に得難い学び舎なのだ。

  

時間空間を遥かに超えた魂存在が、わざわざ狭い時間空間に捉われるような、極めて特殊な経験をすることが出来る<場>とも言えようか。

 

その為にこそ、赤子のような無知から始めなければならないわけである。

 

赤子は無知や無力であるがゆえに可愛く、そのあどけない笑顔のなかに穏やかであるが無限の可能性を感じさせるはずである。

 

あなた方もわたしもそうやってきただろう。

 

私は誰?  ここはどこ? さえも思い至らぬ状態から始めるわけである。

 

そうしていつか、

  

わたしとは何か?

どこから来て、どこに行くのか?

今、何をすべきなのか?

 

 ・・・という疑問符が生じてくる意識に至るのだ。

 

それは、意識せざる『意識』から、

 

意識せる『意識』へと変移を遂げたということでもあり、

 

あるいは夢遊のような無責任で無自覚な、あなたまかせの無意識から、

 

わたしは常にわたし』であるという自覚的な意識に至ったということだ。

 

多分あなた達もそうだろう。

 

自らが撒いた種、あろうことか自己の一部をこの地に自らで投げ入れて、

そこに意識を持ち来たり、その自らの地を這うような苦楽と静と動の体験と経験を通じて、

 

再び自由自在な<われ>を思いだすような、全くあり得ないような学びが行われてきたのだ。

・・・

 

そういう生々しい学舎である地球を安易に「悲しみの星」と言うなかれ。

 

なかなか気付かぬ人類という幼子の群れを長く受け入れることは、

 

まさに母なる大地にしか出来ないことである。

  

地球、それはまさしく幼き魂達の為の、あり得ないほどの愛に満ちた学び舎にほかならないのだ。

 

学び舎における何もかも、

 

物も財産も、名誉も権威も、肉欲も、情も、嫌悪も、憎しみも・・・・・・

 

ただ、一時(いっとき)の学習教材なのである。

 

そしてそれらに対するこだわりと執着も、元々は持っていなかったものである。

 

人は皆本来、自由自在の高みを謳歌するまでに至った魂の同胞(はらから)なのだということに、あなたも気付けることだろう。

 

この世界には幼子は実に大勢いたとしても、憎むべき奴らや他者などいるわけも無く、

 

宇宙においても、さらに大きな世界であっても、ただ有るのは、

 

それぞれの視点の、そして様々な段階での<われ>または<わたし>なのである。

そうして、

 

この荒い荒い、物だ金だと言われる世界においてこそ、

 

執着も偏執もなく、ただ淡々と生きたことがあるとするならば、

 

嗚呼、それは何という得難い経験となることだろう。

 

 

 

Photo

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

 


夢の話(3) 太陽へ part2

2012-08-19 20:43:05 | 宇宙時代の考え方

太陽に行ったという、人によってはまるで意味不明で全くどうでも良いような、夢のような夢でないような個人的な体験話の後半である。

 

・・・・・

 

私が「太陽へ行こう・・・」というある意味で不埒な?意図をもった瞬間に、

 

・・・すでにもうどこか違う雰囲気の世界にいることに気付いた。

 

その世界での視界はずいぶんと薄暗く感じるのだが、これは謂わばわたしの意識の眼のフィルター・あるいは翻訳機能の未熟さによるものだと思われた。

 

私の場合、俗に言う霊的視力あるいは眼球経由の視覚映像でない知覚、あるいは言われるところの松果体レベルでの直接視のような場合には、あたかも白黒の映像のように見えることは以前からの自分の経験で知っていたからだ。

 

いわゆる<内面で直接観る>というような感じの視覚認識である。

 

世間に五万とあるようなアイフォンや携帯電話のような明確なフルカラー映像でないのは、自分の意識上の<知覚フィルター>が未熟なせいなのだと思われる。

 

あるいは、周波数同調が慣れないために「同調が今一つ」であるとも言えるだろうか。

・・・

 

そこは巨大な切り立った山岳地帯?のような雰囲気であり、またそれら山と山の頂きの間には何か大きな放電現象のような、エネルギーの橋渡しかあるいは弧を描いたようなものが起きていたようである。

 

ここは一体どこだろうかと一瞬思ったが、行こうと意図したところは太陽であるはずなので、やはりそうに違いあるまいとも思った。

 

私の視点は、まるで音のない超音速ジェットのように太陽?内の時空を自由に滑空・移動していたのだが、

 

そのうち 「あれれっ・・・なんとなく場違いなところにいるのでは?」 という通常感覚が頭を持ち上げて来ていた。

 

こういう時には、大体肉体意識が目覚めかけていることを示している。

 

つまり変性意識状態から、日常の顕在意識の方に移行し始めているということを示しているのだ。

 

要は睡眠状態から覚醒状態へとシフトし始めているということなのだ。

 

そうしている間に、例によって少し怖くなってきたので、そろそろ切り上げようという想いが生じてきた。

 

高速に移動するわたしの<視点>はあたかも人工衛星が1回だけ天体周囲をスイングバイするような形で帰還ルートに乗ろうという感じで動いていたのだったが、

 

ふと、太陽地表面と思しき辺りに意識を向けると・・・

 

なんと!大勢の人型の白いシルエットのようなものが見えてきたのだ。

 

人の形・・というか、人間のような存在形・・というか、そういう意識的な存在達が地表でこちらを見上げている (えっ?!)・・・そんな風景・ビジョンなのである。

 

「太陽に人のような存在がいる???そんなはずは・・・?」 とか何とか多少びっくり気味な衝撃も感じつつ、

 

早く帰ろうと焦りつつも移動しながら見える地表面とおぼしきあたりに、明らかに多くの人存在形のような者達が見えたのだ。

 

またその上、その全ての存在達がこちらに気付いていることがなぜかわかった。

 

そうして、それも・・・・どうも・・<手を振っているように>見えるのだ。

 

その手を振る仕草のような人型存在から伝わってきたのは、

 

根源からのと言うしかないような・・あるいは「慈愛のこころ」のこもったと表現するしかない・・・・・そういう波動感覚であった。

・・・ 

 

その時感じた想いは、良くいわれる<無条件の愛>としか言いようがない、極めて・・極めて暖かいものであった。

 

こんな重大な感覚は今までなかなか味わったことが無いような、ハートの根本からの感覚・・とでも言おうか。

 

それは、そう・・・まさに、無条件の愛・・・という表現がふさわしい直接的な感動波動のようなものだったのだ。

 

太陽は灼熱ではなく、実は暖かかった・・・等という「落ちの話」ではない。

 

・・・・気付けば・・・

いつの間にか布団の上で目が覚めている自分に戻っていたのだった。

 

 

大体、こういう意識の旅行?のような体験(夢)では、「行き」はなかなか突発的あるいは面倒なのだが、その反面「帰り」はほとんどあっという間であることが多い。

 

要は状況にもよるのだが、夢以降の謂わば多次元的?なレベルの意識状態から普通の意識、即ち顕在意識、あるいは肉体意識に戻るのは「あっ」という間であることが多い。

 

そうそう・・それが単に夢の証拠だよと言われそうだが、夢の全てがそうではないことは自分が感得・察知するしかないのも現状である。

 

前回で提示したように、夢を良く覚えておくような経験のある人ならば、夢とはそれが何でもかんでも夢というフェーズで片づけられるものでもないこと、

 

夢⇒明晰夢⇒体脱現象・・そして次元間の意識的遷移・・というような謂わば多層に重なった次元とも言うべきそれの微妙な質的違いがわかるものである。

 

なるほどこれは実際経験してみなければ、なかなかわかるものでもないし、多分これは<意識>が時間や空間という一種の物理的エネルギー形態を超えていることから来るものだろうと思われる。

 

そういう意識的経験、あるいは内面経由と言われるダイレクト情報の取得等も、潜在意識の造りあげるところの特殊な夢だということで片づける思考に終始する人もいるだろうが、

 

しかしながら、何でもかんでも単に夢と片付けて終わりでは、決して本来の科学的な精神とは言えないと思うし、

 

それに気付かなければ、その時々の魂レベルでの肝心な何かを見逃すことにもなるだろう。

 

元来人間は、物を造り、物を集め、単にあからさまな物質的な人生を生きて、そして死ぬためだけに存在しているわけではない。

 

言わずもがなであるが、あらゆる物事の根底には、気付きや進歩や成長や進化と言われるものがあるのだ。 

 

それは巷で謂われる競争や闘争などでは毛頭あるはずもない、一見困難に見えることの中からも蓮の花が咲くような、無理なく、自然な、当たり前の、嬉しく、楽しい花道を歩くようなことなのである。

 

意識が拡大するということは、すなわち意識での知覚がより大きな周波数帯域をも含むようになるという事でもあり、良くいわれる魂意識の振動数を上げるということにもつながってくるということである。

 

表現が難しいけれども、今言えるのは、夢も体脱体験も、そして遠隔知覚(リモートビューイング)等にも、

 

ある意識状態からある意識状態への遷移が介在することは間違いが無く、

 

またそれは意識~エネルギー~現象~知覚という存在顕現形式とその認識作用に他ならないのである。

 

我々の慣れ親しんでいる五感で感じる物質形態も、その存在顕現形式のベースにある波動周波数帯域のごく1部にしかすぎないということである。

 

そういう意味で五感経由であろうが、それを超える知覚であろうが、それはまさに意識の働きである創造およびその目撃・観察であるとも言えるだろう。

 

いわゆる常識を超えた、あるいは次元を超えたような現象も、

 

それは無いのではなく、

 

未だ十分に知らないだけなのだと考えることのほうがより合理的なのである。

 

我々は未だ宇宙の事を何も知らない赤子のようなものとこころ得るべきなのだ。

 

・・・・・・・・・・・

ところでこの件で後で気付いたところでは、

 

その時のビジョンでの山と山の間の放電のようなものは、太陽で良く観測される黒点間のエネルギーの流れや、フレアーのような現象と裏腹にあるのかもしれないということだった。

 

なんとなく太陽の存在形態の一部を感じたことだけは間違いなさそうである。

 

また、古代から密かに言われ続けてきたように、実は太陽は冷たい、つまり灼熱の世界ではないということはあながち嘘でもなく、

 

それを表現をするならば、

 

あるいはやはり太陽も多次元層で構成されているるということだろうし、

 

我々が普段観測するような灼熱風の太陽は、単にその3次元的表層の姿であろうということだ。

 

そして、地球惑星圏という存在フィールドに我々という地球人がいるのと同じように、

 

また多分・・・「太陽人」?なる表現をすべきかどうかは別にして、太陽自体にも集合意識が存在するということではなかろうか。

 

常に何事も事実は小説よりも奇なり・・・なのである。

 

・・・・

 

翻って、我々の本来<自由自在な魂意識>そのものが、

 

架空の地球小説・あるいは造られた小さな観念の中に閉じこもっているのかもしれないということでもある。

 

ある意味で押し付けられた同じ小説ばかり読んでいることで自己幽閉に陥り、

 

あっという間の何千年何万年の時を過ぎ、すっかり近視眼的な魂の表現レベルに陥っているということはないだろうか。

 

例えば今回の記事のような、太陽に意識で行ったら太陽に人的存在がいた・・・というような、普通では明らかに一見荒唐無稽な話を、あなたはどう感じるだろうか。

 

・・・・・・

  

また、今回の話とはうって変わって地上的な話になるのだが、

 

あの「太陽」をあからさまに国旗にしているこの「日本」という国は、そういう意味では真に地上で唯一の国あるいは何かの雛型といって良いとも思うのだが、

 

それも単なる偶然で済ませてしまうのだろうか。

 

極めて穏やかではあるが、それを無条件の愛という言葉で言えば決まって軟弱とも揶揄され、誤解されるかもしれない、実は最も強力な光のパワーを発散させる国なのだと感じないだろうか。

 

常に自らが・自らで宣言するところの、日出ずる国とは、

 

本来すなわち、超古代と言われる時から伝わる自然との調和を元とする優れた叡智と慈愛の<光>を地球全てに発散させることの出来る意識の人々の多くいる国のことを・・・言うのではないだろうか。

 

太陽人?とは言わないまでも、日の本(もと)の人々・・・とはある意味でそういう人々のことではないだろうか。

 

なるほど、世相を観ずれば、・・

 

今はもう、何もかもが肝心な時に差し掛かってきたようである。

 

どこか世界の大勢の人々のこころが次第にざわついて来たことにももう気付いていることだろう。

 

これから人々は自ら自身をどう想い、どう自覚し、どう感じ、またどう選択するのかという、最大の問いかけが必要な、胸突き八町ともいえる時期に差し掛かることだろう。

 

・・・ 

ただ覚えておくべきことは、意識的存在とは、すなわち、常にちょうど自らの意識で認識することをその体験とする存在であるということであろう。

 

人の意識も、そしていわゆる神なる根源の意識もまさに自己創造とその観察という意味では全く同質なのだということ、

  

ならびに創造は、実にそれが楽しいから<ある>のだということを忘れてはならないはずである。

 

 Photo_2

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


夢の話(3) 太陽へ part1

2012-08-18 08:31:51 | 宇宙時代の考え方

内面に生起する様々なビジョン、情報、印象、インスピレーションの類を一切無視し、五感によるセンシングのみを体験の全てと考えることは、ほんの狭い周波数帯域を覗いて観ているようなものであり、あたかもわざわざ偏光メガネをかけて世界を見るようなものだろう。

 

我々は意識的、無意識的に「そう」意図しつつ、その意図にしたがった体験をしているようなものである。

 

そうしてそれに気付いていない・・・そういうことが随分とあるのだ。

 

例えば、世の中で洗脳とか言われている、人的世界の執拗な宣伝や囲い込み等による特定集団への利益誘導の類だけでなく、もっと基本的な人類的思いこみがあり、まさにそれが集団的意図となって、まさしくそのような知覚世界を造り上げているというのが真相である。

 

それを共通現実、あるいは合意現実と言っている。

 

例えば中世において、世界が平面であると信じていたことも、太陽や星々がその地上平面を上り下りしていたと思いこんでいたことも、そのような人類の思いこみの一例である。

 

世界は今までも当時も同じであったにも関わらず、それを理解する人類の意識によってそのような世界認識で終始していたという典型例である。

 

確かに、当たり前の現実と言われる物事のなかに埋もれた真実も、それに気づくことがなければ、それは無いものと同じことなのだ。

 

我々は日常と言われる物事の中に『自らが埋没』しているがゆえに、その物事を観察することが出来ないという・・・言わば狭い意識の井戸の中のカエルのようなものかもしれない。

 

・・

数年前の事であるが、いわゆる体脱行程を経たのちに意識が『太陽』に行ってきたようである。(笑)

 

 

ここで(笑)を挿入することで、常識からみれば可笑しなことであるが・・・というどこかホッとした印象が醸し出されるわけであるが、ことはそう簡単なことではないようである。

 

記憶が残っているものだけで、その他にも2、3、宇宙的な?意識体験というべきものがあるが、今回は太陽の話である。

 

また、『体脱』とは、いわゆる意識の焦点が一時のあいだ肉体から離れる体験のことであるし、これも一般的な観念から言えば「はて?」となる人がいるかもしれないのも承知の上である。

 

普通には、太陽に行った夢を観たと言えば、なんとまあ突飛な夢を見たことか・・・として片づけておくことが一番簡単なのであるが、ことはそう簡単に片づけられるものでもないことは自分がいちばん感じることである。

 

要は自分で経験しなければ、実際にそれを知ることやそれに共感を得ることは難しいということだ。

・・・ 

 

最近は太陽の活動が衛星によってさまざまにモニターされており、刻々と出現消滅する黒点やたまに起きるフレアー爆発のように、その映像はいかにも燃え盛る巨大な天体としてのイメージがあるはずである。

 

しかし古代からの話では、太陽はあのように見えて実は内部は高温灼熱ではないという情報もあるようだが・・・。

 

Photo_2  

 

現代科学で解釈しているところのそのような核融合?あるいはプラズマ活動に満ちている天体?である太陽を意識体で訪れた・・・等と言えば、まさに荒唐無稽の範疇、思いこみ、あるいは単なる夢を誇大妄想的に捉えているとでも考えられるのが落ちであろうか。

  

自分でもそのような太陽に意識を飛ばす・・等というような行為をやること自体もどこか常軌を逸しているとしてもおかしくないはずであるが、

 

しかしながら、内面に湧きあがる情報や印象、ビジョン等の全てをこういう一面の常識的思考によって、片づけてしまうほど愚かでも無い・・・と自分では思っている。

・・・・

極めて突飛と思われる<夢>周辺の話としてもらってもかまわないし、

 

あるいは体脱体験等を知っている人はそういう経験の1つと捉えてもらっても良いし、

 

リモートビューイング等をご存知の人ならば、そんなこともあるだろうかと感じるかもしれない。

・・・・

 

その時の意識のプロセスと得られたビジョンや印象やについて話をしよう。

 

・・・・

朝方の、目覚めまで行かないが意識がはっきりして来始めたころである。

 

体はしっかり眠っているが意識が明瞭になり、眼の前の視野がクリアーになってきたように感じた。

 

その時なぜか何かの微振動あるいは自分の周囲の変化が起きていることに気付いた。

 

視点だけ、顔の周辺だけが何か強調された存在感があり、そのうちその頭部というか顔というか視点のベースというか、その辺りから<ズバーン>というような重厚でどこか大騒ぎの抜け出し感・・というのか、そういうことが起きた。

 

まるで人体が頭を先頭にして、いわゆる海の中に飛び込むような感じ・・・、しかしこの場合は下ではなく、何か上の方に飛び込むというのか・・・、なにかそんな感じの突出・発砲・飛び出しのようなものだった。

(これは後から調べたところ、いわゆる体脱プロセスであると理解される。)

 

ふと気付けば・・・自分の<視点>が宇宙の空間のようなところにいる・・・ような感じである。地球は見えない、多分地球を背にしたような位置であろうか。

(一般には地球の引力圏、あるいはヘミシンクで言うところの地球のフォーカスレベルを超えた帯域にあったかも知れない。)

 

その時、なぜか思ったことは・・・・「そうだ、太陽に行ってみよう」 ということだった。

 

もちろん、常識的な自分ではそんなことを思うことすらも無いはずであるが、なぜかその時・そう想ったのである。

 

これは実に面白い意識上の意図であったようだ。

 

・・・

 

(つづく)

 

 Photo

 

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


夢の話(2) 意識の階層

2012-08-12 10:27:03 | 宇宙時代の考え方

夢は単なる夢ではなく、それも間違いなく体験と言えるだろう。

 

体験といってもこの世界での『肉体の経験』という意味での体験でなく、当然ながら肉体が休止している間のものであるから、それは『意識体の経験』ということになる。

 

この『意識体』という概念で言い現わされるものは、我々という魂・・自己意識、自己認識をする主体・・多次元に渡る表現形・・というべきものである。

 

意識体は、ヨガや神秘学、あるいは古くからほぼ世界共通に伝わるところの上位の身体、すなわちアストラル体、メンタル体、コーザル体、エーテル体、・・等の複合された、次元の異なる世界への対応ボディと言って良いだろうか。

 

あらゆる在り方に対応した<わたし>という認識主体、あるいは魂の纏う(まとう)ものであるとも言えるだろう。

 

あるいはありとあらゆる存在世界、ありとあらゆる周波数帯に対応した内在神の観察主体・・といっても良いかもしれない。

 

意識エネルギー現象化  というプロセスを理解すれば、

 

我々は本来『意識』であり、様々なエネルギー・波動・力を介在して、様々な創造をしつつその創造世界を観察している<根源>の1部分であるということだ。

・・・

我々が一口に夢といっているものは、明らかに肉体活動レベルではない、意識体としての経験の1つなのでである。

 

自分の事を単なる知恵ある動物と思いこんでいる間は、このような表明は・・・まさに<夢物語>で終わってしまうことにもなるだろうし、それを善意に解釈したとして「あー夢があって良いですね」で終始することになる。

 

本当は、「夢」とはまさに低位次元からより広大な次元への、誰でも可能で解り易いゲートのようなものである。

 

あるいは、根源につながっている意識体としての<わたし>達の、存在体験周波数帯域の間の、自由自在なシフトの能力を示すものでもあると言えるのだ。

 

そう・・、夢と解釈されている意識状態は、より広い意識帯域の自由な移行を可能にする、ある意味で顕在意識的でないところの、または変性意識とも呼ばれる膨大な段階的在り方の一部でなのである。

 

・・・・

あなたは毎日のそのような「意識レベルの移行」に気付いているだろうか。

 

微妙なあるいは精妙な内面の意識の段階的とも言える有り方に気付いているだろうか。

 

それとも、寝て・起きて・騒いで・悩んで・笑って・・・また寝るだけの荒い小さなサイクルで終始しているだろうか。

 

・・・・

意識は無限小、無限大に、あるいはそのような大きさの問題を超えて連続しており、それは個人の<わたし>の意識から全体の<わたし>の意識へと、またこの次元の私から、それを含むところのより広大な<わたし>へと続いているのだ。

 

意識の<連続>は宇宙物理科学で昨今真顔で言われるところの「多次元」的な世界の段階的な<連続>に対応しているともいえるのだ。

 

常に気付けば、今ここに、今そこに全ての可能性があるのだが、往々にして世界のどんちゃん騒ぎの中に、何か自己にとって重要なものがあるのではないかと思ってしまい、外の世界を追いかけてしまうことになる場合もある。

 

我々は皆、他者や全てを愛する前に、まず原点たる自己を愛する必要があるという言葉をいつか何処かで聞くのだが、往々にして、世間の大勢の流れこそが正しいという、無意識的な無知によって何度でも外の表層の現象引き戻される経験をするものである。

 

人存在の内面を観るということの、如何に難しいことであるかを如実に感じざるを得ない。

 

外の世界に責任者は終生誰も存在せず、自己が自己であることの意義を証明することの出来る者など、あなたや私達自身以外はどこにも存在しないにも関わらず・・・。

・・・・ 

人の連続した意識のフェーズ・段階を説明するならば、大体以下のようになるだろう。

  

(この分類・段階は主に体外離脱体験者・ウイリアム・ブールマンの分類に基づく。

ウイリアム・ブールマンはロバート・モンロー等と同じく体外離脱の数十年に渡る経験者であり、その経験を元にして現代人にわかり易い科学的な表現手法で存在諸世界の構成を説明している。尚、個人的には非常に腑に落ちる内容である。)

 

  

①物理的な覚醒意識(五感を通じた現実対応意識)

②入眠前、瞑想、催眠等(現実から内面方向への変性意識)

③夢 (それを夢と思わずにビジョンを観ている)

④明晰夢 (夢と知っている夢見体験)

⑤自発的な体外離脱体験(通常良く言う幽体離脱)

⑥臨死体験(一度は肉体から意識体が外れて戻る)

⑦宇宙のある範囲の多次元意識レベル

⑧多次元宇宙の広大なレベルへ

・・・・

上記のような分類はすべて連続した意識の有り方を示しており、我々の普段のこの物理的世界へ対応している意識は、①のレベルである。

 

一般の日常生活における、ごく当たり前とされる意識状態、あるいは顕在意識の状態は『物理的な覚醒意識』と呼ばれるものである。つまり五感を主体とした狭い周波数帯域へ同調した意識とも言えるだろう。

あなたも普段はここに、場所が社会であろうと家であろうと主にここにフォーカス・集中しているはずである。

 

次の②は、その外面からの五感をある程度シャットアウトした意識の状態、睡眠前、瞑想中、催眠中、あるいは目を閉じて静かに内面を観ているような意識である。

尚、瞑想には様々な段階があるわけであるが、ここは一般に瞑目している状態と捉えてもらいたい。

 

次は③、体が完全に眠っている・休止している状態であるが、それは実は顕在意識が<自覚>出来ない状態であり、・・・その無意識とも言える状態で見る<夢>を憶えていることで、その休止状態自体にも意識があると気付くということである。

肉体中心の生活のみを全てだと思いこんでいる場合には、この「夢」すらも憶えておらず、またたまに憶えていても、あたかも砂漠に水が吸い込まれるように消えてゆくことになる。

これは誰でも経験していることではないだろうか。

 

次に④は同じく<夢>を観ている状態だが、その夢を夢として気付いている状態のことである。あーこれは夢だ・・とどこか知っている意識状態のことである。

普通の夢は、夢が夢とも思われず、日常と同じ体験であると感じており、嬉しい時にはそのもの嬉しく、また往々にして恐怖に歪むような夢を観るならば、それこそ髪振り乱しつつ、それこそ必死で逃げ回るような経験をするものである。

まさにそれを「現実」と思い、真剣な切迫感からヒア汗をかいて目覚めることは誰でも経験しているはずである。

これに対して、夢は夢である・・・という意識があるならば、余裕が生じてくるものである。色々表現の仕方はあるが、これを明晰夢と呼んで良いだろう。

夢は覚めるものであり、夢は夢として観ているわけで、その状態とはその夢を超えた意識にあるとも言えるだろう。

 

次に⑤であるが、ブールマンは「自発的な体外離脱」と言っている。人の本体である意識体が<意図的、一時的>に肉体へのフォーカスから非物質的(別次元的)な周波数帯に移行することを言う。

 

ヘミシンクによるフォーカスレベルの移行はその例であり、日本では坂本正道さん他の人が有名である。それらの技法を使えば容易に意識レベルの移行が出来ることになる。

⑤の自発的な体外離脱体験とは、意図して意識同調レベルを変えることであるとも言えるだろう。自己が肉体を離脱超越した体験は、体外離脱という形態表現となるのだ。

次に⑥の臨死体験では、主には意図的とは言えない状態で、⑤の体外離脱が起きることであり、自己や病気等の何かのきっかけで、いわゆる一度死んでから何かの理由でこの世に本体意識が戻ることを言う。

 

これは極めて重要な体験であり、行ってしまった人が敢えて戻って来て、人々の行き先を教えるようなことなのである。

 

日本にも木内鶴彦さん等が有名であるが、実はそのような体験を世間に公表していない人も実に多いのが現実である。

 

そういう多くの人は、どこか間違いや勘違い、あるいは単なる極端な夢として半分納得しているだけかもしれないし、またそんなことを言えば世間から白い眼で見られることを理解承知の上で、無理ジイをしていないとも考えられる。

 

また一度、より高い本来の意識体に戻った存在は、夢見どころではない膨大な気付くべき真実を携えて戻ることにもなり、顕在意識に戻った段階での<こころ>の解釈による色づけがなされてしまう部分もあるが、

しかしながら、

それらは今の人類には極めて重要なことなのである。

 

いやいや人類というその他大勢のことではなく、あなたやわたしたち自身にとって重要なことである。

宇宙のある範囲の多次元レベルへのアクセスに関しては、

地球および地球を取り巻く複数次元の世界以外のより広大な意識生命圏に同調出来る「意識」と言えるだろう。

地球の表面次元(3次元)から見える世界から、地球の周囲次元即ち霊界等と呼ばれる意識体の中間休息エリアを超え、大きさで言うならば太陽系、近隣恒星をも含むところの多次元領域にも対応する意識レベルであると言えよう。

 

そういう観点から言えば、目に見えるところの宇宙、太陽系、恒星、そして銀河系もそれぞれが多次元構成となっていることがわかるのだ。

 

次の⑧の多次元レベルでの広大な意識レベルについては、それら全てを含んだ以上の意識としか言いようが無く、本来は宗教的なドグマとは一切関係がないところの、それを昔から本来の意味での創造神、創造主、あるいは究極の内在神あるいは<根源>と言っている。

 

あなたもわたしたちも、今は未だ明確ではないかもしれないところの、本来の<わたし>・・・・ひとつ・・・につながっているのだ。

 

どのような存在にも『今』がある、『意識がある』、それが<<証し>>でなのである。

 

それが例えば今は未だ、ただ遠くに山が見えるだけの道であったとしても、確かにその山への方向が見えているはずである。

今、我々は<わたし>を思い出すための、本来楽しい<道>中にあるということだけは確実に言えるのである。

 

そしてその道はそれぞれの<あなた>の中にあるということである。

(つづく)

・・・・・

 

取りあえず夢とは何か、ある程度の解釈と位置づけが出来たとして、次回は不可思議な夢、あるいは意識状態での様々なビジョンや情報、あるいは様々な高次からというべき支援等の話を出したいと思っています。

 Photo

 本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


夢の話(1) 潜在から顕在へ

2012-08-05 14:37:38 | 宇宙時代の考え方

たとえば夢とは何だろうか。

 

ここで言うのは、「夢があって良いですね・・・」とかいう夢でなくて、いわゆる寝ている時に実際に観るものである。

 

一般に言うならば、肉体が活動していない状態での、意識上の経験のことを「夢」と言っていいだろう。

 

夢は確かに日常的な物的反応を主体とする現実的経験ではない。

 

しかしながら夢を観ている自己の自覚、あるいは観ていた記憶など、『意識的な働き』や夢の対象があるわけであり、そういう意味で夢は意識上の<経験>であるということだ。

 

なるほど、夢は往々にして、時にハチャメチャで意味不明の展開ストーリーや、ちぐはぐな断片的映像や思考や感情で構成されているように見えるだろうし、

 

夢等は価値も意味もない単なる就寝中のランダムな脳活動とでも思っている人も多いだろうし、また夢自体をほとんど覚えていないという人も多いかもしれない。

 

たまに夢の内容を憶えていても、それが現実生活でのような、わかりきったストーリー性や、因果関係などが明確でないランダムなビジョンやイメージの繋がりのように感じるかもしれない。

 

要は、現実の生活とは無関係の、制御されない単なる脳内活動を<夢>としてカテゴライズしているだけであるということだが、

 

それはまた、物的経験以外は意味のないことであるという先入観念にすぎず、またここにも、人間は単に物質の有機的に集合した肉体でしかないという、謂わば3次元物質としての集団的な自己暗示、自己規制が暗在していたのだ。

 

それはどういうことかと言えば、夢を単なる無意識的な「脳内活動」であるとした漠然とした観念が行き渡っているということである。

 

あなたはどうだろうか?

 

ちょっとわかった風な科学的解釈?それを比喩的に言うならば、夢を観ていることなどは、まるでコンピュータ(脳)がそこにあって、そのコンピュータの中で電気信号が回っているにすぎないというような認識が常識的な見解となっていたということだ。

 

当然ながら、人間の無意識下のランダムな「脳内活動」の結果が夢であるという、一見常識的な自己限定思考によって、確かに夢は夢としての位置づけでしかなかったのだろう。

 

これらもある意味で低位の集合的な自己認識による共通現実である。

 

共通現実というのは、皆でそうだと・・あるいは集団で思いこむことで現実を造り出しているということである。

 

創造は自己認識であり、すなわち自己の想いの現象化であるから、その通りでしか顕れようがないことになる。

 

また多くの人は肉体活動の休止している状態を、何もない状態とボンヤリ位置付けてしまっているために、意識の働きには間違いないところの「夢」から有意味な情報等も得られないということでもある。

 

肉体が活動している時の意識、それを「顕在意識」というならば、その「顕在意識」とは人間が起きている状態での、五感の働きを通じた「意識の働き」であるわけで、これに対して「夢」というのは潜在意識での働きということである。

 

つまり顕在意識とは、五感のセンシングを中心とした意識の働きであるということであり、日常の起きている時の生活全般がその顕在意識で回っているといっても良いだろうし、またそれに対して夢は潜在意識が中心となっているわけである。

 

五感での感受を「情報」の感受とするならば、我々の顕在意識での生活全般は、主に見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる等の五感、謂わばそれも極めて限られた振動数帯域の情報を身体が感じとり、身体細胞や脳細胞がそれらの情報処理をしているということでもある。

 

それらの身体細胞の情報処理の結果が、・・・見た、聞いた、嗅いだ、味わった、触れた・・という経験になるということだ。

 

また、それらの経験に関して起きる自発的な高次の『意識の働き』すなわち認識の働きが生じ、様々な経験について何か・・思った、感じた、考えた・・という思考や感情等が生じるのである。

 

つまり、日常においては、五感の情報の取得の様々な組み合わせと、それらに対する様々な顕在意識的な<認識>が起きているということである。

 

・・・

一般に夢というものは、あるいは夢に限らず、体が眠っているか五感が休止している状態での『知覚』に関しては、通常の肉体の五感情報を経由しない・・・直に、内面に発生する様に見える脳内活動の様相を呈しているわけであり、

  

例えば夢などもあまり価値も意味もない、単なる偶然の脳内活動であるとしている理由はここら辺にあると思われる。

 

五感が直接関与しない脳内活動など、単に心理的なもの、意味のない偶発的なものと考えるわけである。

 

・・・・

ところが、五感情報を元にしないダイレクトな情報の授受、直感認知あるいは常識では考えられないような遠隔での知覚等が存在していることは間違いがなく、非公式ではあるが各国レベルでは盛んに研究されているのも事実である。

 

テレパシーや未来予知や遠隔知覚、リモートビューイングなどは実際に非公式でありながら間違いなく研究段階や試行や実践段階にあるのだ。

 

要は、五感というものを経由しないダイレクトな情報の受信と発信は現実に存在しており、一般常識ではすぐに受け入れられないことと合わせ、その多くが極秘に情報を収集するという軍事的な目的にも関与しているために、非公式という隠れ蓑を着ているのである。

 

またそれらが未だ公になっていない理由を善意的に解釈すれば、

 

それらは完成された研究課題でもあり得ず、また意識に関する事象を扱うがゆえに主観的な要素が大きく介在することで、数字や計測的な客観説明が困難である傾向があることも非公式下で進めざるを得ない理由かもしれない。

 

肝心なのは、そういう<常識>範囲外の、直接的な情報授受、コミュニケーション、知覚などが、何処か遠くの無関係な事象であるということではなく、明らかに我々の身の回りにある事象であるということなのだ。

 

それは断片的であっても実際は誰でも経験していることであるが、常識という無知によって偶然の出来事と思いこんだり、あるいは全然気付かない場合もあるだろう。

 

テレパシー的、シンクロ二シティー的といわれるような体験もそういう五感を超えたところで起きる直覚知がベースにあるわけであり、五感を超えた知覚というものに気付かなければ、それは存在しないということにもなるだろう。

 

例えば、

 

夢で見たような感じの出来事が日常で起こった。

 

ある情景、状況が以前どこかであったような不思議な感じの体験。これはデジャビュー(既視感)などと呼ばれている。

 

ある時誰かのイメージが不意に湧いたと思ったら、数日後その人と合うことになったとか。

 

カレーが食べたいと「ふと」思うと、大体の場合晩御飯がカレーだった・とか。

 

今日はなんだか嫌な日だなと感じたら、その日は仕事でさんざんだった・とか。

 

地震のことが急に気になったら、数日後地震が起きた・とか。

・・・・

実際には、数え上げればキリがないほどあるのだが、それらに気づいていないとか、あるいは自分のこころ、即ち自己の内面をほとんど観ないような人々は、そのような事象があることさえも知らない場合があるわけだ。

 

ここが肝心なところであろう。

 

要は、気付いてそれを認めなければその事象は身の回りに顕現して来ないということだ。

 

すなわち認めなければ顕在化して来ないわけである。

 

ここにも観測者の行為によって観測対象、あるいは現象の挙動が変わるという、あるいは認識によってそのものが顕れて来るという、謂わば意識的な創造の原理・原則が適応されるのである。

 

本当のところは、要するに<認めないものは現われない>ということだ。

 

ここで注意すべきは、一般にはこの逆で 「現われないから⇒認めない・・・」 としていることだろう。

 

また本当のところは、<知らないものは見ること(知覚)が出来ない>ということなのであり、

 

同じく、一般常識ではその逆の 「知覚できないから⇒知らない」 としていることなのだ。

 

簡単に言えば、超感覚的に知る・知覚するということは『積極的』な意識によって起きることであり、待っていて何もせずに知ることのようなものではないということである。

 

これは厳密に言えば、勝手に想像することがそのまま現われるというわけでもなく、何かに意識を向けることによって初めてその先に対象が知覚されるということであり、

 

超感覚的な知覚では、簡単に言えばレーダーと同じく、意識的サーチに依らなければ対象は認知できないということである。

 

妄想の類とは全く違うところの、意識的観察による事実の直覚的知覚のことである。

 

至極当たり前であるが、なかなか気付かない根本原理である。

 

またこういう五感を経由しないダイレクトな情報の授受などは、昔からしっかりあったわけであるし、今更科学に遡上させてあーだコーだという事もまさに遅きに失したようなものである。

  

やはり多くの場合が肉体活動次元の五感情報やそれにまつわる思考にフォーカスしていて、それに終始してしまっているということである。

 

これはある意味で、それに気付かずに3次元的な制限された観念に手足を縛られているということでもある。

 

目が覚めていて肉体活動している間が、現存在の全てであると思い込まされているということでもある。

 

言葉を変えれば、表面意識、顕在意識のみが<わたしの意識>のすべてであると思いこんでいるということでもある。

 

今は誰でも知っている用語であるはずの「潜在意識」については、とんと無頓着を決め込んできたのだとも言えるかもしれない。

 

潜在意識は文字通り「潜在」であり、「無」ではない。

 

実のところ、潜在意識を<顕在化>させることが「意識の拡大」なのである。

 

ある段階までは膨大で複雑で、ある意味で多次元的な潜在意識を知ることによって意識が拡大するということも言えるだろう。

  

現状結果に不満たらたらでありながら、あいも変わらず外の世界を血眼になって追跡・追従するだけ、あるいは自己の可能性を見ようともしないあり方は、

 

それは自分の直下を掘れば湧き出すような豊潤な地下水脈がありながら、カラカラの砂漠の上で水をいつまでも求めるようなものである。

 

私自身も以前はそうであったのだが(笑)、夢などは全然見ないと豪語している人々は日常生活が忙しいと誇らしく?表明しているようなものでありながら、

 

また違った観点からいえば、世界という現実に埋没しつつ、自らを単に3次元的肉塊であると無意識的に決め込み、本来人間が進むべき意識の拡大に気付いていないのかもしれない。

 

例えば夢というものを考えてみても、現実といわれる世界でそうであるように、同じく自らの『意識』の経験の一部であり、そうであるならばその夢にも気付き、精査する必要があるはずだ。

 

違うだろうか。

 

ところで、

 

また、「夢」とは潜在意識を読み取り顕在化させるための無意識的行為の1つであり、謂わば無意識・潜在意識における意識行為であり、それは時空を超えた知覚を含んでいるのだ。

 

また同じく夢のような無意識的行為ではなく、こころで制御された意識的な行為がESP等と呼ばれるダイレクトな情報取得なのである。

 

遠隔視、リモートビューイング、確率予知、シンクロ二シティを生じる思念の同時共有等は、ひとまとめに言うならば、ごくわずかな表面意識でないところの、膨大な潜在意識の働きを『顕在化』させたものである。

  

意識の拡大とは、ある意味では情報取得の拡大でもあり、その情報によって自己認識の深化、理解、拡大、進化が可能になるともいえるだろう。

 

自己認識の拡大とは、自己の拡大であり、自己の拡大とは大いなる<わたし>への拡大とも言える。

 

我々がフォーカス、あるいはアクセスすべきは、実に未分化の潜在意識の方向であり、すでに現われた顕在意識の様々な群れ、即ち外の世界の現象の方ではない。

  

我々がこれから真剣に注視すべきは、実にそれぞれの<内面>と言われる方向である。

 

ここまで述べたごとく、内面は外面にメビウスの輪のように繋がっているといえるからだ。

 

往々にして、内面のアクセス、あるいはこころの注視等が非活動的であって価値がないとか、非生産的で無意味であるとかのイメージがあるかもしれないが、

 

それこそ大いなる誤解・誤認であり、ここにも物だけに価値を付与するような3次元的な刷り込み観念があるわけである。

 

例えば、コンピュータを修理するのに、大声で走り回るだけでは到底修理できないだろうし、本体を激しく叩いたりあるいは飾りつけても決して直せるものではなく、

 

ただ静かに、その中身を精査し、プログラムの間違いや書き換えやあるいは壊れた微小部品を交換するようなものである。

・・・ 

 

意識的存在としての人間は、現象の因たる意識の働き、内面の思考、感情を注視しなければならないということだ。

 

思考、感情、想いの生ずるところの<わたし>自身の「意識」を観ることである。

 

超古代からある、瞑想やあるいは座禅、内観等は、そういう自己の依って立つ自らの意識を注視する宇宙で普遍的な意識的行為なのである。

 

毎日毎日そのチャンスがある就寝中の意識の経験ともいえる「夢」も、決しておろそかにすべきではないはずだ。

 

一見意味のなさそうなランダムなビジョンやイメージで構成されるような夢にも、実はその中に極めて高度で複雑なメッセージ・情報が含まれている。

 

夢は、それぞれの自分自身にちょうど合致した、その時その時の魂の拡大・進化の為のメッセージで満ちていることがわかるだろう。

 

夢は肉体レベル、あるいは狭い3次元的周波数帯域を超えたレベルでの意識の経験を顕在意識によって翻訳・意訳したものと捉えても良い。

 

例えば夢も・・・、それをどうとらえるか、どう変換するかは我々の「マインド」こころの働きに全て依存しているのである。

 

今はもう、

まず自らを理解することが世界を理解することになり、決してその逆ではないことをその旨とする人類の時代がきた。

 

意識の進化・拡大により、結果情報処理や記憶等を司る生体組織あるいは遺伝子といわれるDNA構造も必然的に高度化してゆくことになるのが道理である。

 

ただ・・生存のみを目的としつつ、外の現象世界をその表面レベルでいじくり回し、そのプロセスで得られる儚い物質的成果物の蓄積を旨とするような今までの3次元的な表層世界はその役目を終えたのだ。

 

なぜならば、より多くの意識的存在達が、その意識のフォーカスレベルをより広くより多次元的なものに広げてきたからである。

 

この世という世界、日常といわれる世界、あるいはこの3次元世界は、実は多くの次元を含んだところの、広く・深く・大きい世界の表層でしかないのである。

 

そして「意識」とは、その全てを貫いているところの根源の気付きといっても良いかもしれない。

 

例えばあなたもその意識的な気付きなのであり、意識のレベルはそれぞれ異なっていたとしても、鉱物も花も動物ペットや空も大気も、なにもかも全てそうである。

 

それがまさに基本中の基本ではないだろうか。

 

Photo

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。