気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

続・意識の話(2)観る者は誰か?

2019-04-24 06:32:38 | 語り部の章
間違いなくこの記事・文章・あるいはメッセージを読んでいる人も、

今この世界に生きて、存在している。

いやこの世界に存在していることに・・”気付いている”と言い変えよう。

繰り返すが、存在していることは・・「気付き・意識」に依拠している。

3次元的時空世界や様々な物質が、そこにただ独自に存在しているのではない。

それに気付くこと、意識することが無ければ、世界も物質も存在しえない。

深く観察、吟味しなければならないのはこのことだ。

毎日行われていること・・それに気づかないのは・・実に愚かしいことと、

あなたはプライドが許さないだろうが、そう言われても全然おかしくはない。


あなたが熟睡モードにあるときには、あなたにとってどんな世界も存在していない。

つまり意識が目覚めていない、どんな世界も現れない。

それは単に ”眠っているだけ”・・で終わっているが、

意識が何ごとへも気付いていない状態では、世界は出現・投影されないということだ。


かなり”余計なお世話的”な表現であるが、

人々は自分が物質的肉体存在だと思い込んでいるため、

気付いていること、意識していることという、

”ことの重大性”に何千年も気付かなかったかもしれない。

この地球という世界で、

何千年も繰り返し同じような人生という「夢」を観てきたのだと思えないだろうか。

そう、

わたし・・意識が、わたしの世界のすべての土台にあることに気付かなかった。

そういう想いはしっくりくるだろうか?

ならば目覚めたと言っていいだろう。


わあ、何という事だ!

常に・・いま、それが・・そこに・・在るにもかかわらず・・だ。


意識から生じる様々な想念・観念・概念・・

それは意識という木から生じる無数の枝葉のようなものであり、

その無数の観念の集団体系がこの世界であるが。

それは「現実」というよりは、想念・こころ・観念で出来た幻想である。


「そうはいってもねえ、・・この体の現実がねえ・・」
「毎日のこと、何とかしないとねー」

そうやっていつも引き戻されるのかもしれないが、

たしかに、それは観念に束縛されている状況のままであることを意味している。

今の現実とは、逃れるべきもの、変えるべきものではなく・・

まず、それが幻想であると見破るためのものだ。


「いや現実だ」という信念があるから・・

真剣になってより良きものに変えなければならない・・となり、

現実だという信念があるから・・それから真剣に逃れなければならない・・となる。


よく例えで言われるが、

映画に見入ってしまった人は、想念・感情も顕(あらわ)にこぶしを振り上げ、

あるいは恐怖におののき、必死に逃れようとする。

映画は始まり・終わるものと知っていて、

観賞しているのはわたしだと知っているため、

一時の視聴覚体験を楽しむわけだが、それとは次元が異なるだけの、

この現実という世界ではそうもいかない・・と”集団で”考えている。

「だって、この現実が・・~!」・・頑張れ・・変革せよ!


あなたが真実を探し回っているかもしれない無数の情報世界、

この世に溢れ、氾濫する想いの群れはまったくそれである。



しかしながら、それさえも誰しも一時の人生でのことだを知っているだろう。

いや、それとも、永遠にその世界で怒り、嘆き、あるいは逃げ惑うつもりだろうか?

誰しも、そんなことは出来るはずもないことは知っている。


現実という「夢」、そこから目覚める話なのだが、

悟りを勧めるようなこの話は、・・さて、これは一種の逃避だろうか?

あなたが寝ている時に、観る夢から覚めたこと・・これは逃避だろうか?


いや、無数に観る実に現実的な夢・幻の1つから目覚めることが、

それが責任回避や逃避ではないと”真に”気づけるならば、それは「悟り」である。



宇宙・世界を観ているのは・・誰か?

世間という他者の群れか?

この体か?

頭脳か?

この想いか?

いいや、違うだろう。


誰だろうか?







ここで、
黒い人型シルエットは、そうではない白い全体がなければ存在できないことを意味している。
我々は皆、個人だ、私だと自負し、競争心やプライドを持っているが、空(くう)がなければ有限の形など存在しえない。
また空(くう)であるからこそ、そこにどんな映像も描き出すことができる。
そんなことも気づかず知らず、ただただ黒いシルエットだけの、分離した”肉体個人の集合体”の中で、繰り返し、繰り返し、気づけば一瞬の生命を、なぜかお互い同士闘いながら生きていたということであろう。
気付けば、面白いではないか?





続・意識の話(1)わたしは・・それ

2019-04-22 10:06:45 | 語り部の章
この世は夢の世界のようなものである。

”誰が”それを見ているのか?

・・すべて・・わたし以外にない。

夢見る者、それを”わたし”と言っているが、それは”きづき、意識”のことだ。

気付いていて、あるいは意識しているからこそ、

その対象が存在する(ように見える)。

わたしとは・・意識・・である。


いや違う、肉体頭脳があるからこそ、世界が知覚できる、

もちろんそうだ、肉体頭脳はこの世界の観察機能窓のようなものだから。

しかしながら、決して、わたしは肉体・頭脳ではない。



「わたしは肉体・頭脳である・・」とは誰が言うのか?

それも、わたし・・だ。

どこかの先生・学者が言っている・・と言うのは・・誰か?

わたし・・以外にいない。

夜空を見上げて、宇宙があることを知るのは誰か?

わたしだ。

時折、怒りに怒り、また嘆き悲しむのはだれか?

それもわたしだ。

突き詰めれば・・そういう・・わたしとは・・

つまり・・意識・・である。

人の肉体・頭脳はこの世界の機能的な窓口であり、わたしはそれではない。



意識が観るのが、その知覚対象たる”世界”であり、

その意識の「内容」によって、さまざまなストーリーが展開する。

夢とは、肉体という粗大な身体を経由しない意識体験であり、

この世の現実というのは、肉体という”粗大なレベルの意識体”経由の経験である。


そして経験ストーリーの脚本である「意識の内容」とは、

意識の培った”想念”の束、集合体のこと。また「魂」とも呼んでいる。

「意識」という場合は、わたし意識や無限・宇宙意識という意味もあり、本来はひとつの無限意識であるが、当然個別の意識もそれに含まれる。

その無限(宇宙)意識の中の、個性化と見える部分の記憶層がそれぞれの「魂」と言っていいだろう。

あなたが観る星空・宇宙は宇宙意識の壮大な層であり、あなたやわたし、君や僕、

あの子猫、ワンちゃん、動物、植物・そして鉱物さえも、

その意識の多彩な層を意味している。



さらに、

想念の束、想念の集合体の・・歪んだ部分のことを「カルマ」などど言い、

肉体の快楽と苦痛の経験に根差した、感情・想念の記憶のことだが、

不調和・不快な世界経験を繰り返しを再生するものであって、

これは早めに洗い流したほうが得策なのである。


そのためには、その自己の意識の内容、中身を自分で観る行為が必要だ。

自らの世界展開の脚本を自分で処理する・・当たり前の意識行為である。

東洋の古からの教えでは、それを行う者が「菩薩」であり、”観自在”・・という修業だ。

それはむつかしい話ではなく、

日常において、自らのマインド、こころ、想いを観察することだ。

あなたが、このいまの地球という世界にいる理由がそれではないか。

また、古からある瞑想などは、その集中的な行為に他ならない。


想念を観る・・・こと、これは避けて通れない。

それまでは、何が何だかわからないが、

結局は自分の想念の回りくどい現象化に悩むことになるものだ。

今のあなたやわたし達が、たった今そういう世界を観ているとおりだ!


とはいえ、悩むことに意義があると思う者は、それを続ければよいだけの話だ。


意識によって世界・宇宙が投影されるため、

その現象世界、世界・宇宙が展開する様式である時間空間は、

意識の中に含まれており、無限遠方の空間も、何千年という時間さえも、

あっという間に過ぎ去るものだ。


在るのは・・今という奇跡の瞬間だけであり、

それを想像し、また振り返るのも、

今の・・あっと、いう瞬間しかないのである。

あなたが毎日代わり映えしない生活であったとしても、

常に、いま・・あっという間が通過しているということだ。

様々な、どうでもいい他人情報の氾濫にうつつを抜かしていることで、

その奇跡の・・今・・わたし・・を、

取りこぼし続けているのかもしれないと、気づくことはあるだろうか。


意識が観るのが、その知覚対象たる”世界”であり、

その意識の「内容」によって、さまざまなストーリーが展開する。

輪廻や転生も同じ仕組みの、大きなサイクルの輪に過ぎない。





不思議の国に入ってしまった「アリス」は、時計を気にして走り回るウサギさんに遭遇するが、この夢の世界の大勢の人も同じ有様であることは、確かに夢の世界での実際の経験者しかわからないかもしれない。




世界・宇宙という「夢」 その9 

2019-04-19 06:39:28 | 語り部の章
他人という多彩な鏡像

他者、他人は、それぞれの”わたし”のこころに映った鏡像、鏡に映った像形である。

それが日々の繰り返しや、五感感覚を伴うため、実にリアルな実体のように観えている。

しかし、それは”わたしという・・意識”の周辺に出現するわたしの「鏡像」である。

繰り返し理解しておくことは、わたしは・・観察される肉体・物体・ではなく、

それに気付いているところの・・”意識”であるということだ。


あなたは誰にも「意識」がある・・ことに気付いているだろう?

その意識から出る様々な想念が、あなたのそれとは違う別表現のものであるため、

あなたとはまったく別の個人、どうにもならない別の人格であると認識するが、

もとの「意識」はひとつであると気づけるだろうか?


実に、意識の無限性が故の・・様々な人格表現なのであるが、

あなたは自己の都合によって彼、彼女は良いとか悪いとか判断してしまっている。

しかしながら、それは無限の意識の・・実に多様な表現であり、

あなたが意識であるように、他者もまた意識なのである。


自己の何たるかを探求してゆくと、理解できるようになるのだが、

否応なくこの世の習いで身に着けた「損得勘定」が、

持続する生活の中で、毎度無意識に、執拗に頭をもたげる為、

他者は他者、敵は敵、味方は味方などという「観念の迷路」に彷徨い続ける。


他人の想念や行動、その経歴・記憶、あるいは肉体の様子は、

あなたのそれとは違う表現形であるし、

あなたの肉体の存在する位置・時間や想念が異なるために、

あなたとは別個の”存在”として観察されている。

それがあなたの周囲の人々、接触する人々、会社や世間の人々である。



人間の周囲には様々な他の人間がいる。


よく知った人、友人・知人、仕事上の顧客や仲間、親兄弟、家族、親戚、道を通りすがる他人、電車の中の人、

あなたのこころの中には、いつかどこかで、誰かの、他人の言動にトラウマがあり、

こころの印象が傷ついたまま放置しているおかげで、

平静を装いつつも、どこか知らず傷跡がうずき、こころ穏やかならぬ日々もあるかもしれない。


あるいは逆に、

他者の自分への愚かな行為にいきどおり、

あからさまに、或いは密かにそれへの復讐の念を抱きつつ、それをばねにし、

見返してやるべく頑張って生きている人もいるかもしれない。


しかしながら、

ハッキリ言って、それら他者のことはまったくどうでも良いことなのだ。


他者はどうでもいい?ってあんた、そんな無礼な!と言うかもしれないが、

他者に無礼をするという意味でも、いい加減に扱うという意味でもない。

社会では他者への言動が必ず自分に還ってくることを知っているならば、

他者やその集合社会は決しておろそかに扱うべきではないし、無視するべきでもない。


しかしながら、あなたにとっての他人とは、

あなたという意識の鏡像であることを理解するならば、


他者に真剣に媚びへつらい、隷属し、言われるがままに流されることが、

あるいは憤りや怒りを抱えと置くことが、

いかに愚かなことかがわかるであろう。

あなたが鏡に向かって吐く言葉を反射して自らで受け、・・・・

その”鏡の像”の吐いた言葉に・・自分で傷つき、恐れる・・、

おお、なんと、実に馬鹿馬鹿しいではないか?



他人がどうだからでなく、・・・わたしは・・どう在るべきか?ということである。

わたしの世界の全ての根源、ソースは・・・他人や世界ではなく、

それぞれ・・わたし・・だという事だ。

あなたが眠るときも、死ぬときも、あなたしかいないだろう。

意識は”ひとつしかない”・・のである。


生まれた時から、つまりこの1つの夢の世界に”意識が目覚め始めた”ころから、あなたの世界が展開し始めた。

生れたのは、「赤子だったあなたの肉体だ」というのは、あなたの親から観た物言いでしかない。

確かに、あなたの親たちは、この世に出現するための門・ゲートのようなものであり、

そこで”肉体個人としてのわたし” の印象が刻印されるのだ。


他者がどうしたというのだろうか?

集団の中に埋没して、何か良いことがあっただろうか?

皆の中でどこか安心だったのだろうか?

集団のなかで、多くの命が次々生まれては、その傍では次々と去ってゆく、

生れては喜び、去っては悲しむ。

母は、子供を絶対の存在のごとく思いやり、それにいつかしがみ付く。

父は、不本意な世の中で闘い続け、いつも疲れ、酒や博打女?で憂さを晴らす。

子供はそういう世をどこか嗅ぎ取り、嫌々しながらもこの世界に順応しようとして成長する。

そのうちに肉体の快楽と苦痛の狭間で舟をこぐことを憶え、飴と鞭で刺激を受けながら生きる為に何とか人生行路を進んでゆく。

そうした日々の繰り返しの果てに、いつかきっと、いやまだまだ先だよと思いつつ、

いつか確実に、この世を去るという事態におののくことになるかもしれない。、

しかしながら、皆が皆そうなんだと思って、どこか安堵を感じつつもこれで良いのかという存念も残るかもしれない。

そうこうしつつ、生まれた時と同じく、認知症だとかボケだとか言われて治療の対象にされながら、生まれてきたときとは逆に、意識の覚醒と反対方向に戻ってゆくのだろうか。


さて、意識が「無意識」と見える方向に還っていったとして、それで終わりかと言えば、

毎朝目覚めるように、またいつか・どこかで「意識」が覚醒を始めるだろう。

生と死は意識の大海の波頭の浮き沈み、繰り返し没しては出現するような波頭のようなものである。

海に浮かぶ様々な物質形態は、やがて海の藻屑となって消える定めであるが、波そのものは繰り返し現れるようなものである。

あなたが「意識」であると理解できるならば、これは自明の理であろう。



いや、大勢の他者が言うように?わたしは「肉体」だ・・と信じているならば、

そう信じているように、波間に浮かぶ物質の塊のように、

その形は海の藻屑に消えて二度と帰ってこないと考えるだろうか。


またそう信じているかもしれない、多くの人々、

いや”あなた”のこころの鏡像である他人達は、どこからきでどこに行くのだろうか?

いやそういうことではないだろう。


大勢の他者のその肉体と想念は、それはあなたのこころの鏡像であり、

あなたが今まで繰り返していたのだということを示しているのだ・・と

今、気付けるだろうか?


実のところ、諸形態は無数に現れ消え去るとも、

不動の真実は現れることも、消え去ることも無い。


色即是空、すなわち、現れては消え去る実体無き「夢の」世界は、

・・・・誰にとって・・なのか?


わたしは何か?わたしは誰か?

わたしは親の造った肉体なのか?


それを越えている意識だからこそ、今ここに肉体・想念を伴って生きている。


ある高名な哲学者が言ったそうな、

「なぜ?、無ではないのか?」・・・と。

彼はふと、わたし・・在ること・・の重大性に気付いたのだ。


そう、

あなたも・・間違いなく・・今在る!・・

そこに時空を超えた無限性と永遠性の根源が・・潜在していることに、

深く、より深く気付かなければならないはずだ。


この世という夢の世界は、

<わたし>の展開する、多くの鏡像(肉体)たちが行き交う世界であり、

その鏡像である彼らは、それを十分に気付いていない・・そういう体験世界であると言えよう。

そして、あなたは気付いただろうか?

意識であるわたし・・以外に、わたしの世界の根源・光源は無いこと・・を。




世界・宇宙という夢・・の語り  了


世界・宇宙という「夢」 その8

2019-04-15 07:25:55 | 語り部の章
夢というのは、睡眠中に見るものというのが常識である。
そして睡眠中以外の時のそれは「現実」とされている。
そうではないか?

その現実が問題だと・・多くの人が思っているだろう。
人間関係、経済状況、家族の在り様、身体の状況、etc、
それらが実に重いと感じてもいるだろう。

TVやメディアでは食べることや他人の噂話などで、
皆、さも幸せそうで、楽しくやっているように装っているが、
どうだろうか?、人生の経験者から見れば、
そんなことあるはずはないと、どこか知っているかもしれない。

きれいな都会をさも楽し気に買い物をする人たち、
正当な目的ありげに忙しく歩くスーツ姿の人たちも、
その内面では様々な苦労を抱えながら、外見には何もない風を見せている。

都市、住居、インフラなどという外見は、
経済という未来への負債の回転によって増大したのだが、
いわゆる人々の内面はどんどん幸福感が増大したのだろうか?
「あー、わたしゃ幸せだよ」という安堵と平和な感情・思いを感じる人達は、
はたして同じように増大したのだろうか?
それとも現実を常に先延ばししつつ、
誠実なる者ほど、最後の気力を振り絞るようにして日夜頑張っているのだろうか?

現実とは何か?
どうしても従わなければならない法則のようなものか?
絶対なる・・「現実」なのか?

もしそうならば、どうして様々な病気が増大しているのだろうか。
どういう理由でメディアでやたら病気の紹介とその治療の宣伝が多いのか、
どういうわけで食べること、あれがおいしいこれが名物だと、
やがては排出・排便するものに固執しているのか。
どういうわけで学校や組織での陰湿ないじめや事件が多くなったのか、

人類の歴史が蓄積されるほど、幸福感が巷に溢れてきたのだろうか。
物資は多品種になり、無数に流通しお金さえあればすぐに何でも買えるようになって、
便利な世界にはなったものの、その便利さのためのお金をどうする、こうするばかりに陥っている、

多分、そういう現実ではないのか?

あるいはそれとも、目まぐるしく変わりながら、きっといつか幸福になると、
そういう希望を抱き続けることが・・人として正しいことだと、
真摯に思っているのかもしれない。

例えば、あなたはどうなのか?
自分の内面にある潜在する「想い」を見えるだろうか?

無限なる意識が、その無限性がゆえに有限・別個である自己を想像・創造し、
その中に自らを体験世界の中に投入し、
形の世界に魅入られ、その形・物質形態の集合物の中で、
真の自分を見失ってきたこと、・・そういう可能性?はあると想うだろうか?

「何を言うんだい、馬鹿言ってんじゃないよ」
さあ仕事だ仕事だ、さあ子供が大きくなるまで・・ローンを返済するまで・・、
時間を死ぬまで消費する消費者がよいのだろうか?


現実とは・・ただそこにある、対応せざるを得ない・・絶対的なものなのか?

ならば、その「現実」とは何か?を考えてみてもいいのではないか。
現実が、現実が・・と生まれた時から騒いでいる社会・・
その中にいや応なく入り込んで頑張っている・・この現実とは何か?

立ち止まって調べることは極めて重要なことではないか。

いつもそうではあるが、
大勢の人々はただ「現実」に忙しく対応しているため、
その中で、自分だけ立ち止まって考えること自体、
置いてかれるのではないか?と、
何かとんでもなく恐怖を感じることもあるだろう。
それがすでに、生きるために食べ、排出し卵を産む、ニワトリの洗脳のようなものだ。

しかしながら、
人生という経験を積めば、いつか気づく時が来るものだ。
現実が・・現実が、地位が名誉が・・富が・・といって頑張り、
それらを身にまとってきた者たちが、あっさりぽっきりこの世を去ってゆく。

そういう現実を見ることを繰り返せば、
その繰り返しの面白さとそして儚さ(はかなさ)に気づくものだ。

既に知っていよう。
当然、現実とは絶対なんかではなく、すべて相対的である。
相対的というのは、大きくなったり小さくなったり、
現れたり、消えたり・・することを意味する。
無限に変化するが、これといった真実があるわけではない。

だから現実、それも意識の観る・・1つの「夢」に過ぎない。
実に精緻・精細ではあるが、1つのまとまりのある世界というまぼろしである。

そうではないか?





宮崎駿さんの「千と千尋の神隠し」は実に深い事実を面白いアニメに仕上げているようだ。
物語では千尋が時空トンネルを抜けて、湯屋の館世界に入ってしまい、最初に名前を奪われ「千尋」が千になったのだが、これは”千「尋」”という膨大な意識のすそ野・・記憶を忘れたということを意味していると推察できる。

世界・宇宙という「夢」 その7 

2019-04-10 06:06:33 | 語り部の章
夢も現実も何もかも、すべては観察しているものであり、意識の知覚対象にかわりはない。
そういう観点からすれば、
この世界もあの世界も、現世も彼岸も宇宙も
・・すべて夢の舞台のようなものである。

広大な時空間も宇宙も諸世界も、意識の無限性からみれば、
大海の中の小さな泡(あぶく)あるいはシャボン玉のようなものだ。
シャボン玉の薄い皮に、世界が映し出されているのを見たことはあるだろうか。



無限意識であるあなたは、いつかこの夢の世界に・・入ってきた。
無限なる者だけが出来る、個別・有限化というプロセスで・・だ。

そして、個別・有限化したそのおかげで、無限である自身を忘れ、
宇宙という夢舞台の1つである、この夢の世界にはまってしまった・・と、
そういうことは想像できるだろうか?


一般に「夢」という概念はこういうことを言うようだ。
---
<睡眠中に、あたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像。視覚像として現れることが多いが、聴覚・味覚・触覚・運動感覚を伴うこともある。「怖い夢を見る」「正 (まさ) 夢」・・>---

つまり、睡眠中と限って定義されているのが夢だが、
現実とは・・肉体という感覚フィルターが付加された「夢」であり、
普通いう夢とは肉体の感覚を外した、内面意識の観る「夢」だ。

つまり広義に言えば・・夢とは”意識”の知覚するものであり、
心の働きが加わって如何様にも展開する物語である。

とすれば、この現実とされるものも、「夢」に違いはない。

意識の観る物語だ。

この世が夢って?
一般にはそんなこと”考え”もしないだろう。
この現実、生きるために複雑で面倒なこの社会、世界が「夢」であるわけがない、と、
そう”思って”いるかもしれない。

あなたはどうだろう?
夢の中の偉い先生方が言うのを待っているのだろうか?
それとも・・夢から覚めたいと思っているのだろうか?

世界・宇宙を・・観ているのは・・ただ「あなた」自身である。

誰かが何かをしてくれるなどと、そんなこと待っている理由などありもしない。
自らで、深く考え、調べて、観察してみると誰でもわかるだろう。

般若心経の冒頭にある・・観自在菩薩・・とは、
深くらのるをる・・存在のことを意味してしている。

しかしながら、真剣に探求することが大切であり、
そのための短い人生といってもいいかもしれない。

「・・ねばならない事」に追いまくれれて、やれやれ・・と一息ついたころは、
もう再び眠る時期になっている・・その繰り返し、
離脱する英知を思い出すまでの輪廻の仕組みに気づいただろうか?

悪夢に追いまくられることにほとほと飽きた人ならば、
夢を夢と知る・・探求努力が必要ではなかろうか。
ことは、お金を出せば誰かが代わりにしてくれるものではないからだ。

何を調べるのか?といえば、それぞれの”わたし自身”のことである。
私たちの「身体」ではなく、身体、こころ、世界、環境に気付いている「意識」のことだ。

わたしたちは・・この世の習いに染まり、
自己自身が「肉体」であるかのような刷り込みを受けてきたが、気づけば実に浅薄な観念ではないか?

夢とは、私たちが寝ている時、つまり肉体感覚がないときに知覚する観念や心像、視覚映像とされている。それは日常の現実とは違う単なる「夢」だとしているだろう。
夢のなかは、毎回異なった場面設定やストーリー、ちぐはぐで非合理な物語のようなものであるため、かなりいい加減なものだとしているはずである。

夢の中で、悪い夢から必死に逃れようとして悪戦苦闘した挙句、目が覚めてきて「あー、なんだ夢だったのか!・・」と一安心するというのはよくあることだ。

そうではないか?

熟睡中は全く無意識であることは誰でも知っているが、無意識であること自体はその時には知らない。
無意識の間は--”意識してはいない”--わけで、そういう期間があったことを後で気づけるということだ。
「なんだ、あれから5時間も眠っていたのか!。。」と後で時計を見て気づく。

そう、
無意識・・とは”意識していない状態”ということであり、
意識が”無い”--存在しないということではない。

同じく、
あなたが生まれる前の事を記憶していないからといって、
それは無かったのでははなく、
無意識・・意識していない状態であったということに気付けるだろう。

わたしが・・今ここに・・在る・・意識している現実・・は、
何を意味しているのか? すでにわかるはずだ。

真の現実とは、種々雑多な観念で作られたこの迷妄世界ではなく、

今・・意識している・・わたし・・の在る・・ことである。

今在ることは・・永遠だという意味にも気づけるだろうか?