気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

目覚めのプロセス(番外編)

2008-05-31 16:07:28 | 新地球文明論

つまらない小話を1つ・・・。    題して、

●自分を「車」だと勘違いしていたドライバーのお話・・・・・・・・

 その運転者は、いつか気がつくとある車の運転席にいました。最初は意識がハッキリせず、一体どこにいるのかすらも分からなかったのですが、徐々にですが目の前のフロントガラス越しの景色が理解できるようになりました。親と呼ばれている、近くの大きな車の親切なケアと指導で、何年か経って何とか自力運転もできるようになりました。

 そうやってやっとのことで、ガラス越しに見える世界を見ながら、次第にあちこちと動き回れるようになりました。ただいつも見ているのはガラス越しの向こうばかりです。それらは社会と言われているそうです。その中では車ばかりが行き来しています。中身は皆目わかりません。そのような車に溢れた社会のなかでは、毎日毎日運転する車体、ボディだけが頼りです。他の車に衝突でもしようものなら何が起きるか分かりません。だからこれを傷つけないように運転をしています。わたし達は車、ボディばかりの社会を構成しているようです。 

 一日が終ると車用のガレージに入り、数時間休憩をします。ガレージの中はいつも真っ暗です。そうこうしている間に夜明けが来て、またガレージから出て外界にドライブに行きます。そうです、常に私はいつも車と一体なのです。私は車、ボディです。だから車は常にケアが必要です。毎日このために一生懸命です・・・。

 しかし、ある時、ふと、車の中に視線をもってゆくと、バックミラーというものがあり、何者かが映るっていることに気がつきました。ビックリしましたが、あれはひょっとして車自体を運転している者ではないでしょうか。その者が運転しているのでしょうか。であれば、その者は私であり、この車の運転手なのではないかと思います。今まで外ばかり見ていて気がつかなかったのですが、車内を見ると何者かがいて、車を運転しているではないですか。 やっと自分を見つけた思いです。車が運転出来るのは、私という運転者がいるからだったのです。今まで車自体が私であるとばかり思っていました。

 また、この車には扉もあるのに気がつきました。ドライブに疲れ、夜いつものガレージに入っている時に、その扉のレバーを引いてみたんです。最初はどうしたものかと苦労しましたが、なんと扉が開くではないですか。私は車からちょっと出てみました。でも怖くなっていつもの車にもどってしまいました。

 朝がやってきて、またいつものように外の世界へドライブに出かけます。あれ以来、ガレージで眠っている時にも、いつのまにかそこから出ているような感じはしますが、普通と違う体験のせいか忘れてしまうようです。どうも何処かへ行っている気はしますが、いつも車の中にいるのに慣れているために、外に出るのが怖いのです。

・・・何年か経ちました。

 そう、最近は、自分が車ではなく、運転者であることがわかります。今まで自分が車だと勘違いしていたことにやっと気がついたのです。今では車を時々利用しますが、いつもその中に居続けることはありません。

あたりまえですよね。

そうそう、車から自由に出たり入ったりも出来るんです。ガレージなんかで寝泊りする必要はなく、ちゃんと暖かい家があり、そこにはゆったりとした部屋がいくつもあります。そこで寛ぐのが本来の私であったことを思い出しました。家族も友人も沢山います。本当の世界がこんなに広いということを、どうも忘れていたようです。やはりわたしは「車」ではありませんでした。

 私は本来自由自在に行動できる「存在」だったのです。

(という小話 ・・・・・終了です。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あなたがたの意識は

脳の内部にかたく拘束されたまま、

どこへも抜け出る事はないと信じていますか。

あなた方の意識の果ては、 肉体という境界線までだと思いますか。

もしあなたがそう考えておられるなら、

それはみずからを過小評価していることになります。

・・・・・・・(「セスは語る」  ㈱ナチュラルスピリット)


目覚めのプロセス 第3章(「私は在る」より)

2008-05-25 09:45:22 | 新地球文明論

「I AM THAT 私は在る」 ニサルガッタ・マハラジとの対話(㈱ナチュラルスピリット)から。

 この本はご存知の方も多いと思われますが、質問者とマハラジとの対話集です。これもまたシンプルではありますが、衝撃的な内容であります。

 今の人たち、すなわち何かにこだわり、執着をもっている多くの意識と、そうでない澄み切った人間本来のクリアーな意識との対比を如実に著わしているように思います。人として最も単純で純粋な存在であることを、何故か、難しくしている今の自分達の姿に、逆に不思議さすら感じてしまうようです。言葉の1つ1つをゆっくりと、わからないなりにも咀嚼していくことで、いつの間にか、一体何が問題なのかが明確にクローズアップされてゆきます。その問題の解き方も説明されていると思います。鍵の1つはやはりマインド(五感感覚と心の働き)に気付くこと、それからの解脱にあるようです。

まさに衝撃的な「目覚めの促し」のようです。

私は何か?という質問者の切なる問いかけに対して、マハラジは、あなたは特定の何かでは決してない。それらを表すことが出来る、それらを超えた無限のものである。そのためには、誰にでもある「私は在る」という感覚に気付くことが必要である、と言っているのでしょう。目覚めの糸口は、単に、今この瞬間にあるようです。

今の時期に沿った流れともあいまって、あり得ない程の「恩寵」を感じます。部分的な言葉のみでは誤解を生じることがあるものですが、あえて記事としてご紹介したいと思います。

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マハラジ: 

もしあなたが実在を探求しているのなら、すべての文化的な考えや感じ方のパターンといった背景から、あなた自身を自由にしなければならない。男や女であるといった観念さえ、(個々の)人間であるといった観念さえ放棄されるべきなのだ。

 生命の大海は人類だけではなく、すべてを包含している。まず、すべての自己同化を放棄し、あなた自身をあれやこれやと考えるのをやめなさい。あらゆる利己主義を放棄しなさい。物質的であれ、霊的であれ、あなたの幸福について心配するのをやめなさい。・・・。

あなたは今ここで完璧なのだ。あなたは絶対的に何も必要ないのだ。

それは何も、あなたが無能で無謀な、軽率で無関心な人になるべきだということではない。ただ自分自身に関する根本的な不安が去るべきなのだ。

わたし達のほとんどは、再び生きたいと願いながら死んでゆく、あまりにも多くの過ちを犯し、あまりにも多くの遣り残しがあるからだ。ほとんどの人々が、無為単調な生活をし、本当に生きているとは言えない。

彼らは単に体験を集め、彼らの記憶を豊富にするだけなのだ。

しかし感覚的でもない、観念的でもない、身体でもマインドでもない、しかもそれらを含み、

そのどれをも超えてゆく実在を、体験は否定してしまうのだ。

あなたはただ在る。

時間と空間と同一の広がりを持ち、しかもその両方を超え、それ自体原因のない、究極の原因である覚醒の一点なのだ。

もしあなたが 「あなたは誰か?」と尋ねるならば、私はこう答えるだろう。

私は特定の何かではない、しかしそれでも私は在るのだ」と。

(以上抜粋です。)

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真理は、最もシンプルであり、最も不思議であり、最も気付きにくい、あり得ないと思われるところ、

あなたの中にあるのでしょう。我々が五感の感覚をもち、感情や想念を発することは、いわばマインドによるものでしょうが、その根源にあるのは「私は在る」という事実なのですね。それを忘れてしまっていることに気付くことが今最も大切なことではないかと思います。私がなければ、それらに意味があるわけもありません。あらゆるものに感謝出来ることは、その根源に気付いていることでもあるでしょう。

Mw04

この宇宙も、実は我々の中にあるのかもしれません。

  

 

 

 


自分は自分が写った鏡?

2008-05-22 04:12:27 | 宇宙的気付き

またまた関西弁の天使さんが来たようです。久しぶりなので、現れ方がギクシャクしているようです。

・・・・バタバタッ、・・・バーン、・・・・ガサゴソ・・

関西弁の天使: っててっ・・・ ごっ、ごめんやっしゃー!

マスター: あーっ、なんだ、あなたですか!派手なラップ音なんかさせて、どーされたんですか。

関西弁の天使: すっ・すまんなー、騒いでもうて・・。時空のダイレクトな移動の衝撃は、音速の壁より激しいよって、こないな状態やー。っててっ・・

マスター: 大丈夫ですか? とりあえず、まーようおいでなさいました。

関西弁の天使: 久しぶりやないかー、上からは、よー見えてるんやがな、たまにゃーこの次元もええもんや。あんさんがたみんな、見られているの知ってますかいな。・・しーっ! ここだけの話や。内緒にしといてやー、誰しも見られているなんて、気色悪いさかいな。

マスター:  まー、ウスウスわかっている人も結構いるんではないですかね。別の自分が見ているような感じは誰にもあるもんです。別の自分との妙な感覚のやり取り、ありますよね。精神世界なんかで言うガイドやハイヤーセルフみたいな。

関西弁の天使: あれっ、実はその通りなんよ。上から見ているのは赤の他人でなくて、まー今のあんさんそのものではない、あんさんなんや。わかるか?

マスター: 上っていったら地球上空からってイメージですが、宇宙からみているもたいなもんですかね。宇宙人が観察しているような。

関西弁の天使: それはそれもそうなんやが、今はちょっと違うこと言うとるんや、上の次元、階層のことや。もちろん宇宙も階層構造なんやが。上、下というのは、よく見える、観察できる位置にある場合に、上なんや。下から上は見上げてもなかなか全体はみえんやろう。そういう意味での上下ね。

マスター: 私でない、私?が見ているんですかね。上から?ですか。私が上にも下にもいるんですかね。矛盾しているような、そうでないような。天使の私もいるような?・・・へえー。

関西弁の天使: それよ。 そこなんや。・・わてもな、天使ゆうて、あんさんとこに時々出て来るんはな、あんさんがいればこそなんや。あんさん次第で出れんようにも、出るようにもなるんや。わたしゃ一体何者なんか、わかるか?

マスター: 何者って言われてもわかるわけないでしょうに。あなたはあなたでしょう。私ではないんじゃないですか?それに来るのもいつも勝手だし、私が決めてはいませんよ。

関西弁の天使: そりゃそうなんやが、はっきり言って・・・わては実はある意味、おまえさん自身なんや。

マスター: ぎょえー!またまた・・やめてくださいよ。あなたがいて、私と話していますよね。だから、あなたは私ではないですよね。はっきりしていますよ。それに天使・・なんて上等すぎる言葉ですよ。恥ずかしくなります。

関西弁の天使: 天使ってゆうてもなー、ただ人存在の、上というか全体からというか、そういう風に見ている位置の存在みたいなもんであって、何も祭り上げるもんではないんじゃ。それに、見ているというのは、目だけの視覚的なもんでなく、全体認識的なもんなんじゃ。

マスター: 見るというのは観察する、観照するということでしょうかね。冷静に、余すところなく見れるような境地のことでしょうか。

関西弁の天使: おーおー、そーそー、よーわかっているやないかー。わしゃ嬉しいがなー。そこまで言えるなら、まー、わてが余計な事言わんでもええかもしれん。そう・・、なんとか自分自身を余すところなく観察できるようになるとな、・・例えば自分の全体を、あらゆるところから見ることになるんでな、影が出来にくくなるんじゃよ。ほれっ、1方向から見ればその向こうが見えんわけや、光ならば反対側が影になるように。・・わかるか?

マスター: 良くわかるような感じもします。1つの面だけ見て、他を省みないような、独善的な見方みたいなこともそうでしょうか。そんな場合は反対側にある影には気付きませんね。

関西弁の天使: それはそのとおり、考え方の偏りゆうもんやな。わてが言うのは、自分のすべて、肉体、思考、感情等の存在形態自体への、全体的な観察・観照のことや。 影が出来なくなるのは、影を見ようとするからなんよ。影を影としてしっかり見ようとする度胸もいるわけやが、そうすれば影ではなくなることになる。あらゆる方向から光があたってしまうんで、影が出来んようになるわけや。

マスター: あれっ・・それなんか、よくある写真館やスタジオなんかでの照明設備ですかね。

関西弁の天使: 確かに影をつくらない方法の比喩としては最適かなー。この自分の影の部分をしっかり把握しようとするのが、実にしんどいもんや・・。 それが出来るようになれば、何にも恐れることがなくなるがな。影があるからこそ、心の中では、本当に気になってしょうがない。無視を決め込むか、過度に気にするか、どっちかになってしまうもんやな。

マスター: 自分の心の働きを自分で見るのが大変重要な成長プロセスであることはわかっています。私なんかも、ついついアンバランスな考えや感情で突っ込んでいってしまい、よく後で反省なんかしますよ。その恥ずかしいことと言ったらありゃしない。

関西弁の天使: 確かに中心が動いて、バランスが崩れているんやな。ダッチロール飛行は怖いでー。そのうちに、すいすい飛行できるようになるもんやがな。そうなったら、結構自由になるでなー。しかし気がついたら、いわゆる1つ上から見れるようになってくる。どこに行くのも自由や。まーそれまでフラフラを楽しむのもええが、それを見ているもんの身にもなってもらいたいもんや。

マスター: なるほど、自分が自分を見てて、ヒヤヒヤドキドキみたいなもんですかね。ならば、あなたは私の親のようなもんですかね。

関西弁の天使: ・・というよりは・・鏡に写った、本来在るべき姿のあんさん自身やがなー。鏡がなければ自分を見ることができん。その意味では、鏡に感謝してもろうても良いかもしれんなー。それだけのことや。皆々それぞれの世界、しかし本当は共通の、たった1つの世界を創造しているってわけや。

マスター: 確かに、鏡があれば、もう1人の私がいるような気になりますね。沢山あれば無限に自分が写ってゆくことになるんでしょうかね。

関西弁の天使: ・・ってなわけで、久しぶりに真顔見れて嬉しかったわー。また来るかもしれんが、その時はよろしゅうに・・・・・・。ほなっ!さいなら。

マスター: ・・・・

・・・・・・・・ガサゴソ・・バタバタッ、・・・バーン!

-------どたばたコメディにもならない物語  一巻の終了でした --------


意識作用の現実への写り込み

2008-05-20 08:28:22 | 心の科学分野

●念写実験の試み

実は意識作用が物質レベルへの変換を起こすことがあるのは自分でも体験しています。以前、念写というのを実験した事があります。どうも若い頃から好奇心が旺盛なのは致し方なく、実際に試さないと気がすまない性質であり、その念写といわれるものも試したわけです。

以前ポラロイド写真機を購入し、念ずることが写るかどうかを実験しました。何を念ずるかを考えたのですが、黒い感光板に写すのだからという発想で、宇宙に浮かぶ星をイメージすることにしました。その当時「昴」という谷村新二さんの歌が流行っていたので、その昴または球状星団をイメージするのが良いと勝手に思ったわけです。

それでどうやったかと言いますと、いかにもそれらしい格好で、両手でポラロイド写真機を額の前に掲げて、念ずるものが写るように・・と気を込めるわけです。その気の込め方というものが、なかなかでして、「写れ写れ!」と思いながら、ついつい肩や手に力が入るようではだめなのです。当然ですが、力んでいると言うことは、疑っていると言うことでもあり、何か筋肉や現象からの力添えをしようと、見当違いの無理じいをしていることを示しており、「心→現象化」という新たな法則を、まだ自分の信念に組み込んでいないからなのですね。頭で理解することは大きな一歩なのですが、それを実際に検証すること、現象を確認することという行為は、それより更に踏み込んだトータルな理解になるわけです。頭で理解する、実際に行為・表現などで確認する、という2つのステップがあることがわかります。実はこれは科学や芸術などすべてに当てはまる人間としての進化の方法を現しています。

●現実世界への意識作用の確認 

それで、その念写テストは結局どうなったかと言いますと、1回1回念じた後に、これは!と思った気持ちになったら、ポラロイドから感光清みのフィルムを取り出して、その写り状況を見てみる・・という事ですが、4,5枚やっても何も写っていませんでした。どうしても心と体に「力み」が入るので、精神的にも疲れてきてしまっているのがわかりますので、そんなに続けられないな・・とも思いまして、あきらめの心境になりつつありました。

その時の心境としては、最初のテストなので、まーいいかな、あと少しはやってみよう・・と思って続けてみたところ、6,7枚目に何かが写りこんでいました。Img_1155(少し古くてわかりにくいですが、ここに掲載してみます)

Img_1158写真の周囲に黄色い炎のようなものが上下に現れています。光が漏れて感光したのか?とも敢えて疑ったのですが、その後の8枚目以降は何も写ってませんでした。光の性質からいって、カメラの外からの光の漏れであれば、画面一面に広がるわけですし、このような局部的な画像にはなるわけも無いのが理解できます。また、なにか人体の手や頭からのオーラの写り込みの様な感じもしますが、詳細は不明です。

自分としては、このような意識の物質化とも言うべき現象が確認できたことで、それ以降のものの考え方が大きく変ることになりました。仕事や専門などから理系の考え方にも馴染んでいたため、頭では理解出来ても、本当にそうであることを実証できなければ、それが単なる知識としての位置づけでしかなく、重みの無いものに思えていたのです。

●心の力みや歪みが問題

実際にはきれいな星座は写らなかったわけですが、失敗を続け、あきらめからちょっと力みが取れたときの写り込みであったのと、外部からの光の入りようがない事実から、これは確実に意識の物質現象への作用であると確認出来たわけです。念写、念力、テレパシーなどはすべて心の意図:意識作用に関わるものであり、個人の実生活や人間社会の見えない原因となっていることがわかります。普段は意識に上ることが、意図的、または無意識的に抑えられている事で、現象が起きる原因そのものが不明であることから来る恐怖や不安が支配的なようです。

●意識から物質へ

不思議ともいえる気付きが意識作用となり、それが現象となってゆくという根本的な世界の仕組みが少し理解出来た検証でした。 決して物質から意識への流れではないのがわかります。原因と結果、それらは一体であったとしても、決して物質から意識への方向ではないと考えられます。

われわれの意識作用は、その気付いて意識する分だけ、その分だけ実際の効果を現すという事が言えるでしょう。気付きを元にした意識によって、現象という世界を無限にも広げてゆくという行為は、実は神なるものの宇宙顕現と同質のものでもあると考えられます。


目覚めのプロセス 第2章(肉体ではない私)

2008-05-18 11:13:27 | 新地球文明論

Hubble_earth_sp01 ●自分を肉体と思っているわたしたち

 わたし達がこの身体であるという感覚は、多くの人が無意識に持っています。じつはそうではないとしたら、どうでしょうか?わたし達が肉体でなければ一体なんなのかという事になり、いつも一体化しているこの肉体以外に、わたしという存在があるなどという考えに、簡単には同意できないでしょう。考えてみれば、このような疑問自体が出てくることもまれなのかもしれません。

●肉体でない自分への科学的アプローチ

 しかし昨今はこのような先入観が間違いであるという情報や報告が多く出てきています。昔からいわば宗教的な世界で言われてきた生まれ変わりという現象が、統計立って調査・報告され、学術的な文献としても多く出版されるようになって来ました。従来からある宗教的なものでなく、データの集積や分類などを含む科学的な方法論からの文献です。次第に世の人には受け入れやすい形式になってきたようです。ここまでわかり易くすべき時代になったのだともいえるかも知れません。

 ・前世療法(ブライアン・L・ワイス)   

 ・臨死体験 上・下(立花隆)  

 ・生きがいの創造・・他シリーズ(飯田史彦)

 ・魂の体外旅行(ロバート・モンンロー)   ・・・・その他多数

●生まれ変わりの検証努力

 これらは殆んどすべてにおいて、生まれ変わりと言うものを支持しています。体系的に調べれば調べるほど、人間の共通パターンとしての生まれ変わりを証明していくことになります。個人体験の口述などを、実際の事例で確認してしまえば、それは事実とせざるを得なくなります。あてずっぽうで言ったことがそんなに当たるはずもないのは、科学的な見解からすれば自明なわけで、多くの事例を見せられれば、生まれ変わりなど無い!と頑張ること自体が妄信ということになり、事実は新しい局面になってきたようです。ただし、未だ多くの人類がこれらの統計的、科学的な成果に気付いているとは言えないのが現状であり、またこれらの生まれ変わりを検証する努力が、正式な科学分野としても認知されていないのも現状です。

●生まれ変わりは価値観を変える 

 生まれ変わりが有るのか無いのかによっては、われわれの存在自体が全く違ったものになってくるのです。われわれという存在は実は肉体ではない、という事がはっきりと理解されてきます。その意味では科学的な実証や検証努力が行なわれ、それらが発表されている現代の状況は、画期的な時代でもあるのです。科学的と言われれば、人類の比較的多くがそれを信じることになるでしょう。たとえ話や可能性として、いつも不遇にあった生まれ変わりという概念が、事実であることになったら一体どういうことになるでしょうか。

 あなたやあたしが肉体存在であり、死んだら何もない単なる生物であるという刹那的な信念が、どれだけわれわれの世界を不遇にしてきた事でしょう。われわれが偶然の生物であり、どうせ理由等何もないのだから、何をやってもかまわない、人を殺めるのも別に構わない、生きている時だけは面白おかしくしてどこが悪いのか・・、という考えが蔓延するのも当然と言えば当然です。そういった社会は、社会そのものを維持させるための法律で、がんじがらめにしなければ、到底存続出来ないわけです。確かに今の社会は色々な法律で溢れています。

●既成の事実としての臨死体験や体脱体験

 われわれは肉体ではないという事実は、このような科学的なプロセスでの膨大な事例報告や統計から知る場合と、自分自身の直接の体験で知る場合があります。臨死体験や体脱体験というものです。これらも次第に多くが報告されるようになって来ています。臨死体験は体脱体験と同じ現象とも考えられ、これらもすでに文献となって発表されています。これらの個人体験があくまでも脳内で作られるイリュージョンであるという考えと、実際のリアルな体験であるという2つの考えがある訳ですが、体験した本人には到底それが幻想等とは思えないものであるのも事実です。私個人も、実は体からずぼっと抜けて宇宙を移行した体験やら、浮揚した体験やら、多くを経験しています。主観による想像か意識的なレベルでの事実かは、当人が直知するものです。自己体験は人に言われるものでもありません。

●個人体験は普遍的な法則の証拠

 生まれ変わりを認めるかそうでないか、実はこの解釈の違いがわれわれの進む方向を大きく決めてしまうようです。物質によって物質以上の存在形態を説明しようという固執した既成の学問的見地と、物質以上の存在形態を素直に認める新しい視点をもたらそうとする見地では、われわれの進化の方向がまるで違ったことになるでしょう。例えて言えば、3次元の世界の法則をもって、未知なる高次元の世界の法則を決めてしまうという、固執したやり方が妥当とは思えません。未知なるものが既知になるには、新たな法則や理解が必要なのです。そのための1つの方法として、現象を素のままに捉えて分類整理し、共通の法則を発見してゆく科学的な方法は、ここでも有効だと思います。すべてを脳と言う未だ未知なる機能のせいにしてしまうのは、訳わからないことを、訳わからないブラックボックスにしまい込んで、時間稼ぎをしているようなものでしょう。唯物論や既存の権威から抜けようとしない行為であり、このような権威からのもっともらしい見解には注意が必要です。

●生まれ変わりは、高次の自分を気付かせる

 生まれ変わる「私」とはなんでしょうか。肉体という物質に自己同化している「私」とは一体なんでしょうか。今言えることは、自分と言う存在には意識に応じた高低の階層があると思われる事です。生まれ変わりという事実によって、何度も自分という経験を重ねた結果かもしれません。今は思い出せない過去の経験を思い出せば、その時の自分も思い出す事になるわけであり、今この瞬間に存在している自分という存在がとてつもなく大きな存在としてクローズアップされてきます。今回生まれてからの過去の記憶が自分であると思っていたものが、その前の過去の記憶も含まれるようになれば、たった今、この瞬間に存在する自分と言うものがどんなに大きい、生きとおしの存在であるかが理解出来るでしょう。そうなれば、必然的に目先の現実に振り回されることが馬鹿馬鹿しくなり、もっとゆったりと楽しく生きる事が出来るに違いありません。

このように、わたし達が肉体ではないという明確な認識を得た状態は、目覚めた状態といえるでしょう。

●新しい文明への生みの苦しみ

自分が生きとおしの生命であることが、真から理解出来れば、世界は様変わりすることになってしまうでしょう。目先の物欲や名誉、快楽などが取るに足らないおもちゃのようになり、自然と捨て去る事になるのは明らかです。1つ上のしっかりした理解に基づいた文明になるのは、無理の無い自然な過程です。未だ未知なるものに囲まれてはいても、自分が永遠とも言える生命の1部であることがわかるだけでも、とんでもない大きな成長をすることになります。

現代の状況は、苦しみや悩みなど有象無象に満ちており、益々混迷としてくるでしょうが、その中にある輝かしい光の胎動に気付く必要があります。間違いなく幼年期は終りつつあります。