気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

今起きていること (10)想いの加速的現象化

2014-08-26 06:36:30 | 見えないものから見えるものへ

 

●誰にも身近になった大自然の変化

 

この世界は大きく変わっていることは既に気づいていることだろう。

 

今までとは明らかに様子が異なることは、人的世界、自然界を見てもわかるはずである。

 

何が根本的に変わってきているのか。

 

 

例えば昨今の空のそして雲の状況は、以前と違うことに気付いているだろうか。

 

大気の動きの急な変化は、地球の地殻、大気圏内のエネルギーの上昇が原因であり、

 

昨今は自然自体が次第に、まるで荒ぶる神のようになってきているだろう。

 

例えば天気が急に変化し、雨や風が極地に集中する現象が増えている。

 

そう、世界のあちこちで水の災害や事故が増えているし、竜巻や突風も増えている。

 

 

●時空全体のエネルギー増大と時間の短縮

 

古い言葉で言えば、土、水、空気、火と言われる、地上の基本要素の動きが激しくなっているということだ。

 

これに太陽からの光が加わり、つまり太陽からの「エネルギー」が増大しているために、

 

地上の「変化」が今までにない状態になっている。

 

そして今あちらこちらに生起している、あっという間の増水やら、洪水、大気の急変は、

 

現象自体の時間的な加速であり、それはまた「局部的な時間の加速」を意味している。

 

そう、加速とは現象変化が速まっていること、あるいは時間の縮小を意味しているのである。

 

古典的数式でもその関係性が分るかも知れない、

 

V=ΔX/Δt、 (V;速さ、X;変化量、t:時間)

 

そしてエネルギーの増大も意味している。

 

(エネルギー)E∝ (ΔX/Δt)の2乗、

 

 

今起きている根本的なことがらは、それである。

 

地球の何らかのエネルギー系の変化、時間の展開速度の加速、

 

要するに、何らかの現象化を促すエネルギーが増え、時間が加速しているということだ。

 

 

 

●意識・想念と現象世界のリンクに気付けるか

 

そしてそれらの観察主体であるところの、地球の意図、意識、人類の意識が変化している。

 

尚、意識や意図は物理量を示す数式では表わせない。

 

逆に、現象と意識のこの<リンク>を見抜けるための人としての「意識の飛躍」が必要でもある。

 

 

意識・意図 ⇒ ②想念 ⇒ ?エネルギー ⇒④諸現象 

 

この「想念、想い」  と 「エネルギー」 の関係性に気付けるかどうかが問題である。

 

 

●気象の変化は意識・想念とリンクしている

 

ケムトレイル、気象改変プログラム、コヒーレントな(位相を揃えた)電磁波エネルギーの照射による局部的な地域の変動実験等も密かに行われているようだが、

 

それは大自然の動きに、人類の一部が、愚かにも、気付かず知らず合わせている行為だともいえるだろう。

 

危険で愚かで、作為的、悪意までも読み取ることの出来るこういう好奇心的実験は、

 

要は、自分達が大自然やら人間やらをコントロールしたいが故のものであり、

 

自然の征服とやらいう欧米的傲慢さの賜物であろうか。

 

彼らは自然の中に生かされているという事実を認めることを頑として拒み、

 

自分が、自己が、自我が全てを支配するという、

 

刹那でしか存在できないエゴ・自我の言うままに行為しているのだろう。

 

聖書に書かれていること、人は地上の全ての支配を与えられているという言葉を、全くもって曲解しているに過ぎないのだ。

 

ある意味で、今までの支配欲、エゴ的欲求が暴走、爆発、消尽するプロセスにあるとも言えるわけで、

 

そういう現象があちらこちらで生起しているのである。

 

壊れる前の電球は、最期の前に一時輝きを増すというが、まさにそういうことだ。

 

今起きているのは1つにそういうことだ。

 

 

●想いの調和も歪もすぐに現象化する時節

 

自分さえ良ければいい、物銭金に囲まれていれば安心だ、人のことなど構ってられるか、

 

頑張って獲得するのだ・・・・そういうエゴがあからさまに、むき出しになってきただろう。

 

国が国に、民が民に立ち上がるかのような、

 

世界の紛争地域等は、まさにそういうエゴのカルマの刈り取り場のような状況ではないか。

 

騒げば騒ぐほど、煽れば煽るほど、恐れれば怖れるほど、火は燃えさかる。

 

鵜の目タカの目でそれを追いかける者たちは、業火の中に飛んで入る夏の虫である。

 

さらに、あちらこちらで起きてくるのがこういうカルマの現象化である。

 

カルマは人間達の培ってきた、無意識に温存してきた「想念の歪」、悪感情の吹き溜まりであり、

 

それが急速に現象化しつつ、その役目を終えるプロセスにある。

 

カルマは世界のどこかにあるわけではなく、大なり小なり我々全体の「こころ」の中にあることなのだ。

 

そう、外の世界ではなく、こころの・・・中に在る、いや在ったものなのである。

 

あなたは自分の中にある・・・こころの歪みを既に解き放っただろうか?

 

 

 

そして、調和と信愛の精神波動を放つように転換しただろうか?

 

それぞれが行為すべきは、他者への反発でも要求でもなく、批判でも攻撃でもない。

 

賢明な人ならば、類は友を呼ぶこと、

 

反発は反発をもたらし、要求は要求を生み出し、

 

批判や攻撃はそのまま自らに還ってくるを知っているだろう。

 

目には目が、歯には歯が・・・・これは、やってはいけない事実を述べた言葉であるが、

 

目には目を、歯には歯を・・・・というように、

 

やむかたなく促がしているような表現にしたのはいったい誰か?

 

おバカにも程度(ほど)があろう。 

 

 

●変えるべきは自らの根幹の想いである

 

今全てが大きく変化を遂げている。

 

そしてその背後には意識と意図があるのだ。

 

あらゆる「現象」の背後には、「エネルギー」がある事を知っている人はそれに気付けるだろう。

 

何らかの事象「変化」の要因は「エネルギー」であり、そして、エネルギーの背後には「意図」がある。

 

そう・・・現象の背後には意識と意図があるのである。

 

人間にあっては、それは想念として顕れる。

 

そして、想念及びその行為の、長年にわたって歪んできたものが人間のカルマといわれるもの。

 

 

例えば、様々な問題が生起している世界の中に、周囲の中にそれを観ることができるはずだ。

 

想いが現れているのであり、その歪んだ想いがカルマとか悪業とか言われるものであり、

 

残念ながらそれが悲惨という姿となって・・・・現れて消えてゆく定めなのだ。

 

唯心諸元である・・・・。

 

 

 

大自然の変化には大自然の意図があり、宇宙の変化には宇宙的な意図がある。

 

現代の科学はこの「意図」までは扱うことが出来ない。

 

それは本来哲学や宗教の範疇なのだろうが、

 

物質レベル、エネルギーレベルを超えるものに関しては、

 

それは、それ。。。精神的、意識的な事がらであり、当然ながら現象自体の観測しかできないために、

 

在るような無いような、単なる主観的なもの、想いの範疇でしかないとされているのだ。

 

現代物理学的、理化学的な解釈方法では、この先に行くことは出来ないということ。

  

また宗教は、往々にして何かありそうな雰囲気で人を集め、昨今は金集めの組織に成り下がることが多い。

 

そうではないか。

 

 

意識・意図 ⇒ ②想念 ⇒ ?エネルギー ⇒④諸現象 

 

見えないものは信じられないという狭い意識から、見えないものこそ現象の雛形であるという意識へ、

 

意識的なものが現象化することに気付くことが、今の人類意識にとって、極めて重要な事がらなのである。

 

身近な範疇では、簡単に言えば・・・・想いが現実化する・・・という、宇宙的な法則に気付くということである。

 

これは単なる主観的、抽象的な事ではなく・・・・厳然とした「事実」。

 

 

今回の生を終えるまでに、

 

身近な事ばかりに終始している狭い表層意識を拡大し、

 

自らの意識が膨大な宇宙的全意識につながっている事実に気付くべきなのである。

 

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その為に毎日の、苦楽の生活をしているのではないのか?

 

その為に人間関係の狭間で揺れ動いて来たのではないのか?

 

その為に、社会のなかで目標達成やら成功への方策を模索してきたのではないのか?

 

 

世間一般、TVやラジオでの宣伝、一般常識という・・・責任者の誰もいない・・・与えられる観念の中で、

 

無意識的な培養土上に生きている人々はなかなか気付けないかもしれない。

 

例えば死んだときにさえ気づかないだろう。

 

だからまた同じように、大いなる意識の仲間達の霊的次元でのケアを受け、

 

再び同じレベルの世界に生まれ変わっては、また無意識レベルから始まる転生を繰り返すのだろう。

 

いや無意識というよりは、小さい波紋のような狭い顕在意識からスタートするということだ。

 

 

●全ての背後には意識とその表現型である意図がある

 

簡単に言えば、あらゆる事象は <物質 ・ エネルギー ・ 意図 ・ 意識> という変換作用で起きているといえる。

 

目に見えるものは<物質>であり、<エネルギー>自体は目に見えない。

 

<意図>は変化を促すシナリオ、想い、目的意識ともいえるのである。 

 

また<意識>は、あまねく宇宙全てのベースバンドというべきものであり、肉眼で見ようと思っても無理である。

 

肉眼で見えるのは、その顕れである現象世界のみである。

 

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この展開パターンが、あなたの身近な生活でも地球でも宇宙でも起きているのである。

 

一事が万事・・・・あなたは身近な生活の中でも、この法則、意識が現象化している

 

いつでもどこでも再現される事実に気付けるはずである。

 

生まれ変わりもそうである。

 

それさえも、あなたの本質的な意図どおりになっているのだ。

 

他人のせいにしている場合ではないだろう。 

 

●既に人類に認知された精神・想念のパワー

 

物理学では、素粒子の動きを観察する事の中で、観察者効果というものがあり、

 

つまり素粒子(物質)は、観察者(意図・意識)の存在によって、その挙動を変えるという事実にもそれが現れている。

 

また例えばスプーン曲げも、人の「曲がれ」という意識的目的が、

 

直接的に 「ぐにゃり」 と曲がる現象化を促しているということだ。

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自分も含め少なからぬ人々が、このような想念とその現象化の事実を色々と確認しているはずである。

 

まさか、あれは全部うそ、マジックだという雰囲気で騙されてはいないだろう。

 

経験も信念もなく、ちょっと思っただけで出来るものではないが、

 

例えば、スプーン曲げも念写や遠隔知覚、テレパシーと言われる現象も全くの事実である。

 

自分にしてからが、科学技術的教育?も受けているわけで、確認しないで大きなことなど言えるはずもない。

 

スプーン曲げなどは、人の「意識」が直接・間接的に現象化するという典型的な現象であるが

 

しかしながら、他者に出来ることは自分にもできるのである。

 

そうだろう?

 

別段スプーンが曲がって、念写が出来て、シンクロ現象が増えたとしても、それが偉いことだというものでもないし、

 

そういうことが出来る為には、その結果の責任も生じることになるのだ。

とはいえ、

 

人がこのレベルの事象と原因に気付くためには、

 

意識的飛躍というものが必要なことも事実であろう。

そう、物質肉体の中で惰眠している場合ではないのだ。

・・・

今エネルギーが増大しつつ、現象化までの時間が短縮しつつあることが解るならば、

 

今までの古い次元レベルでの物事は、一時激しさを増すことになるのだが、

 

自然にその時間枠が少なくなっている、ということにも気づけるであろう。

 

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今起きていること (9)霊的極みと、その転換時期来たる

2014-08-17 08:51:08 | 見えないものから見えるものへ

真に感じるところによるならば、この次元世界の意識的存在達は、

 

実に小さな穴の中に自らを縛りこんでいるということが出来るかもしれない。

 

 

なるほど、3次元的地球ワールド・・・・それはとんでもないほど局限された世界であった。

 

そこまでやるか?というほどの「卑小さ」を演じることが出来る 「 It’s a Small World 」、

 

また自らの無限性をすっかり忘れることが出来る、言わば霊的逃避世界のようなものであった。

 

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千と千尋の神隠しで、千尋の通ったトンネルは次元の通路を意味しているようだ。

・・・

 

一体何を言っている?

 

余計なお世話だろうが、あなたもわたし達も自らのことを「割引」過ぎているということだ。

 

 

そう、魂としての自己を極端に制限し過ぎており、また自らの存在を卑小な、物質の塊のようなものだと・・・「想い違い」しているということだ。

 

それは、我々の出どころであるところの「無限の意識」が・・・低い振動レベル、物質レベルに・・・固形化されていたということ。

 

固形化されたという表現は決して言い過ぎではなく、

 

すなわち3次元レベル、物質形態レベルへ、自らの「魂・意識」を落ち込ませていたという事実を言っているのである。

 

 

 

言い換えれば、無際限に自己を表現出来るところの、無限の意識を自由に「体現」出来る存在達が、

 

あろうことか、

 

単なる猿の子孫のごとき地上をうごめく生物、ちょっと他の生物より知的に優れただけの生き物であるという、

 

笑うに笑えない、あるいはもう笑うしかない存在にいつかしら落ち込んでいたということだ。

 

生物の時間かなんかで習ったことだろう。

 

ヒトは、猿の進化した生物・・・そんな通説が、さも現代科学でようやく解明された事実のような、

 

実に「壮大な嘘」を、小さいころから教え込むような文明とは、一体なんという自己卑下的文明だろうか!

 

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表現型の進化は、それ自体の物質系の突然変異ではなく、それに宿る「魂・意識」の進化を物語る。

またこういう尤もらしい図柄そのものに、自らを制限した生き方にはめ込むようなイメージが含まれている。

 

 

嗚呼、人類はやはり数千年以上に渡って、次元降下を体験し続けてきたといえるのである。

 

それはあたかも天上の神々が、時間という「鎖」を身にまとい、いつのまにか地べたを這い回る姿に身を変じること、

 

卑小な肉体人間に自らを変化させるとは、一体全体・・・どういう自己創造なのか。

 

これもまた、ネガティブ方向ではありながら、あり得ない程の壮大な自己創造力とも言えるだろう。

 

 

自らの魂の無限性を・・・よくもまあ、ここまで制限することを探究してきたものだ。

 

その方面での達人であると、・・・ある意味でそういうことである。

 

 

しかしながら、あくまでも、自己を肉体に過ぎないという観念に沈み込んでいる場合は、

 

つまり今の物質が全てのような常識観念が、それが真実だと「思い込んで」いる場合は、

 

一体全体・・・何を言っているのかという「こころ」の反応となるだろう。

 

正直、あなたはどうだろうか。

 

あまりにも長く嘘のまかり通る存在世界に浸っていれば、

 

あたかも真実かのごとく、繰り返し話される迷妄観念、刷り込むような毎日の生活での常識観念の世界が、

 

・・・・それが事実であるかのような妄想で固定されるようになる。

 

時代時代の科学技術や思想の違いはあれ、そういうことが何千年にも渡ってなされてきたのだ。

 

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そのなかで、もっとも重大な事がらは「人は社会的な動物」に過ぎないという思想であり、

 

要するに、人は死んだら終わりの単なる物質生命であるという観念である。

 

当然ながら、肉体は死んだら土に還り、大気に蒸発して消えてなくなるわけだが、

 

それは無限であるヒトの「本質」を言っているのではなく、物質組成としての肉体を言っているにすぎないのだが、

 

そういう部分的でしかない事象だけを表明することで、ヒトが肉体でしかないというような・・・・迷妄観念にしっかりと誘導しているということだ。

 

99%の事実と1%の嘘・・・・その1%の欠如によって、事実と全く異なったものとなることの代表例である。

 

 

非常に身近な話をすれば、さも、まともなニュースメディアや広報機関、雑誌や宗教紙、教科書さえも、

 

全て「ウソ」というよりは、真実であろうことの。。。ごくごく小さな断片のみを宣べているにすぎないのである。

 

そのごくごく小さな断片だけを、繰り返し大衆に伝えることにより、全くの方向違いにも誘えるのである。

 

我々愚かな民衆が、与えられる虚実の嘘で右往左往する姿が見えてくるだろう。

 

あるいはそんなことなどにも気づかない人々もいるだろうし、また事実など、どうでも良いとしている者たちもいるかも知れない。

 

そのように、ごくごく小さな断片だけを、繰り返し大衆に伝えることにより、全くの方向違いにも誘えることなるのだ。

このことは、今までも、そして、今でも行われている、世界のあらゆる出来事の周辺で、はっきりと分るはずである。

 

身近には日本の従軍慰安婦の報道の虚実とそれによる政治的駆け引き、

 

あの原発の一大事故の周辺では、今ほとんど何事も無いような状況宣伝、

 

ウクライナの騒動での虚々実々の報道や、裏で行われている人為的な事変、

 

日本周辺での尖閣列島での地政学的、あるいは海底資源周辺をめぐる危機のタイミングの良い誘発、

 

同じ会社の航空機事故の原因が、不究明なまま放置されようとするあり得ない現実、、

 

地球温暖化問題の世界的流布とその虚実性、..... 

 

数え上げればきりがないほどの、嘘と真のまだら模様が現出されているであろう。

 

例えとして挙げたこれらは、全てどこか人為的な事件・事象であるにもかかわらず、

 

一体何が真実か・・・・わからぬ迷走状況にある事を示すのである。

 

こういう現況を観察するならば、外に出てくる情報そのものに、相当重大な「嘘がある事実」に、

 

判然と気づけるはずなのである。

 

 

ことほど左様に、大につけ小につけ、数千年にわたって、同じような虚実の世界で、

 

人類は迷妄観念の中でまどろんでいたということだ。

 

あなたもそうではないか。

 

そうやってこの世界で、繰り返し再生された人生であったろうか。

 

 

なぜそうなるのかと言えば、・・・・

 

肝心なところ、本当の現実の追求、真理への模索、自己探求をおざなりにしていたからなのではなかろうか。

 

自分以外の・・・外の世界に丸投げ、自分の尤も重要な真実探究を、他者にゆだねてきたということである。

 

それぞれの <わたし> を探究するよりは、肉体の生命維持だけに奔走させられ、

 

世相の渦の中で押し合い、へし合い、殺し合い、殺され合い、

 

往々にして、肉体を嫌々ながら離脱後に、

 

再び上位次元に浮かび上がっては、また下生して学びを続行する・・・そういうことを行なってきたのだ。

 

それが輪廻転生と言われるものであろう。

 

・・・・・

 

しかしながら、今は、今までの輪廻転生のような魂の学習形式が今変わってきているということに気付けるだろうか。

 

ヒトは死んだら終わりの刹那的、偶然の生命形態であるという固定認識は、

 

急速に廃れはじめているのである。

 

霊界通信やら、臨死体験、リモートビューのような超常能力、テレパシーやら引き寄せの法則などが知られるようになった、昨今の様子でも分るはずなのだ。

 

これらは、猿の進化しただけの、肉体人間の知覚機能の話ではない。

 

 

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当然、その中にも虚実があるわけであるが、比較的容易に真実の部分が見える時代になっているだろう。

・・・・・

無知と本能、生存目的に特化した人生のサバイバル、

 

弱肉強食で方向づけられたタイプの、魂の学びの世界は、

 

既に十分すぎるほどの「飽和」をしたということだ。

 

 

またその舞台である、地球の3次元フィールドが、生態系の調和を保てなくなる、ギリギリの線を超えたということもあるだろう。

 

環境汚染物質の増大、生態系のを壊すほどの、人類のめくら的活動、生態系の破壊どころか、

 

他人様の命さえも、自らの金勘定に組み込むほどの拝金思想がはびこる状況に及び、

 

 

これ以上は無い・・・・というところまで来ているということなのだ。

 

お分かりだろうか。

 

命も、世界も、そして、それぞれの<わたし>達の・・・・<魂>も、

 

・・・偶然に在るわけではないということを。

 

 

我々は、あるいは、たとえ鉱物、植物、動物でさえも、その本質は宗教的に言えば、「神」であり、

 

神自らが、自らの多次元宇宙的な、壮大な創造物語の中で様々な姿を示現しつつ遊んでいるのである。

 

そして遊びは・・・成長する子たちの楽しさを顕しているのである。

 

それが魂の進化であり、意識の進化なのだ。

 

・・・そして今、新たな「学び・遊び」の次元に突入したということである。

 

 

しかしながら、頑として、古い霊的レベル、観念レベル、知的レベル、情緒レベルで自らを甘んじるとするならば、

 

それもまた個別化された神ならでは自由意思であり、

 

いつかどこかの時空環境での、再生・再演になることになるだろう。

 

肉体は死んでも、魂であるあなたは不死であるからである。

 

これは昔から伝わっている事実の伝承でもありながら、ポッと出のような、西洋的物質科学で論議され、迷信と決定づけられるようなレベルのものではない。

 

・・・・

 

執着を捨て、物へのこだわりを捨て、古い小さな個人我:エゴから抜けて、

 

 

 

こころ穏やかに、

 

 

 

愛をもって、そして、こころを込めて、

 

 

 

今残された古い次元を「学び・遊べる」ようになった者たちは、

 

 

 

実に、幸いな魂達なのである。

 

 

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今起きていること(8) 混乱は意識の目覚めを示すサイン

2014-08-14 02:39:31 | 見えないものから見えるものへ

 

 

●人類意識場の強烈な揺らぎが起きている

 

今までにない異質な騒ぎや混乱が、外の世界に増えているのを知っている人は、

 

既存の情報メディアのみならず、インターネット等のツールや、内面の嗅覚も使えるところの、

 

まっとうなウオッチャーあるいは観察者とも言えるだろう。

 

 

何が起きているか、根本的なことは、例えそれがおぼろげであったとしても、

 

彼らは平均から突き抜けた感性の持ち主であることは間違いがない。

 

またある程度広範囲を見通す意識を持っている人たちでもある。

 

その場合何かが急変しても、それほどの驚きは生じないものである。

 

 

ところが、囲われた「マインドの壁」のなかで、今まで通りに毎日を送っている人々、

 

流行に追従し、風潮に染まってゆく人々は、

 

あるいは外の人の思考や行動に簡単に追従するマインドの人は、

 

多分、人の言うことをほとんど全て鵜呑みにしているともいえるわけで、

 

不思議にも、他人は皆、当然のごとく、善意の人々であるような感覚を持っているかも知れない。

 

あ、いやそうでもなく、真実は、自分の内面の無限性に気付けず、

 

良くわからないので、とりあえず大勢の意識の向いている方を見ているだけかもしれない。

 

 

 

しかしながら、稀有な時節である今は、その集合意識に内面からの霊的な目覚めを喚起するような極めて強い揺らぎが起きているとも言えよう。

 

人類の外なる混乱は、同じく、集合意識の内なるシフトの促(うな)がし、

 

あるいは意識進化の為の不可思議この上もないパワーを受けているからだとも言えるのである。

 

 

●停滞する意識場への目覚ましが起きている

 

そんな言わば眠れる集合の中に、何かの大騒ぎが起きたとすると、どえらいインパクトが出る傾向がある。

 

驚き、慌てることになるはずだ。よく言われる民衆のパニックである。

 

安穏な人間生活の場に、新たな刺激が加わると、想念と感情、そして行動の急激な反応が出てくる。

 

そういうインパルス的反応は、お互いの顔色ばかりを見ているような集団の場合、

 

その集合意識を強烈に刺激する効果をもたらすものである。

 

それが量的に拡大することが民衆のパニック現象と言われるものである。

 

その中でもっとも噴出しやすいのは、普段は秘められている「恐怖」である。

 

 

今起きていることはそういうことでもある。

 

 

●こころの歪は各自で解消、昇華されなければならない

 

今の時期、人間の潜在意識下の「恐怖」が解き放たれる時期に来ているのである。

 

それは地表面の下にたまったメタンガスが、気象の変化とともに表面に噴出するのと同じようなものである。

 

また物理的にもそういう現象が起きているようだ。

 

 

何故なら、

 

新しいステップでは「恐怖」という、依存や無知、肉体自我の孤独といったものから来る想念感情は存在不可であるからだ。

 

だから、否が応でも今、そういうものが顕れ出でて消尽し、そして昇華することが起きるのである。

 

押し殺している内面の歪、

 

それはぜんまい仕掛けのおもちゃのように、

 

その動きを通して解き放たれることになる。

 

 

何事も無いような表情をしているが、大なり小なり、

 

人は皆、自分、家族、周囲、仕事先、おつきあいの人間関係でのこころの歪を溜め込んでいる。

 

そうではないか・・・・?

 

 

その重い感情の歪に気づき、

 

それを「自分自身で」ネガティブからポジティブへと反転させ、

 

そして中和を通してその歪を解消することが、何をおいても大切な時期にあるということである。

 

 

●これから重要な日本的特性 

 

非常に特殊ながら、日本人の「一般民衆」の平均的反応は、かなり冷静で沈着な傾向がある。

 

当然全てがそうではないのだが、これは驚くべき、喜ぶべき、隠された事実なのである。

 

これは大震災の実際の出来事の中で実証されているはずだ。

 

震災を契機とする普通の民衆の中での感動的な思いと行動は、悲惨な出来事の衝撃とともに、

 

ネットを通じてあっという間に世界に感動と賞賛の輪が広がった。

 

 

大揺れや津波など、普段では考えられない事象が起きたことを察知し、

 

その他大勢に必死で知らせて多くの命を助けたり、事後も相互に扶助し合う傾向が多く見られただろう。

 

これは日本人の、悪く言うと皆右ならへ・・・という行動的特殊性の中にも、

 

お互い様という、相互の慈愛的つながりが、どこか色濃く存在するからである。 

 

●本当の日本的特殊性の輝きが見えるか

 

実は、これこそ数千年を超える時節を通じて流れている、DNAというか日本列島の波動というか、

 

日本という形態場の、どこか宇宙伝来ともいえる耀きなのである。

 

支配層が時代変遷で如何に入れ替わろうと、これは陰に陽に持続されているものであろう。 

 

人は皆・・・お互い様・・・これはいわゆる、ユニティ、統合を意味しているのだ!

 

 

話しが変わって、わたし自身、かの3,11の大震災出の揺れを東京の仕事先で遭遇し、

 

還暦前の身体で、冬夜に歩いて延々7時間も水戸街道を歩いて自宅に帰った経験があるが、

 

同じ道を歩いている帰宅難民には疲れはあったが、少しもパニック感覚は見られなかった。

 

押し合いへし合いもなく、肘で他人を小突く者もなく、歩く流れを乱さずにみんな我慢強く歩いていた。

 

不安や恐怖を押し殺しているというよりは、これはこんなものだという、あきらめというか、達観というか、律儀な現場対応というかそういうことであろうか。

 

当然地震で揺れている最中は、誰にも怯えが見られたのだが、それが済めばその後はほぼ淡々とやるべきことをやっていたというわけだ。

 

騒いでパニクッって、乱暴して自我主張をしても、何の解決にもなりはしないという達観でもあろうか。

 

また、いざという時には「腹をくくる」というような武士道的精神も、どこかうかがえるのである。

 

こういう特質を、軟弱なあきらめ感情ととるか、執着を放す意識的行為ととるか、微妙ながら、

 

少なくとも、騒ぎを増幅して、この世の終わり、上を下への大騒ぎになることはないということだ。

 

経済競争で勝った負けたとか、売り言葉に買い言葉すらも下手な国だとか、

 

そういう低い損得観念レベルで日本人を、あるいは自らを評価するのは極めて愚かである。

 

 

●怖れ慌てることを恐慌という

 

多くの人は、銭勘定や自己利益の大小に、当然の権利のように目くじらを立てているわけだが、

 

それは競争社会における当然の自我の主張、生存の権利を求めているということだが、

 

しかしながら、皆々当たり前だとしている他者への自己の主張等、・・・実はどうでも良い事なのである。

 

 

例えばそれは、その他大勢の浸かっている、汚れたプールの中で騒ぎ、がなり立てているだけのことなのだ。

 

本来は、その中で必死に手足をばたつかせる必要はなく、

 

ただ必要なことは、その汚れたプールで必死になるのをやめることなのである。

 

そしてゆっくりと汚濁のプールから上がることなのだ。

 

水に浮くためには、まず手足をバタつかせて騒がないことであろう。

 

要は社会の中で、ざわめく風潮に怖れ、慌てて、流されないということである。

 

 

怖れ慌てることを、恐慌という。

 

今度のそれは80年前のような単なる経済恐慌ではなく、時空全般の建て替えに伴う変化の加速である。

 

 

騒げば騒ぐほど、騒ぎは増大するのだ。

 

怖れれば怖れるほど恐怖は増えるものではないか。

 

今の時期、人間の潜在意識下の「恐怖」が解き放たれる時期に来ているのである。

 

 

●時空という存在場のトータルなリニューアル

 

それは地表面の下にたまったメタンガスが、気象の変化とともに表面に噴出するのと同じようなものである。

 

また、地にたまった歪がその揺れをもってエネルギーの解放をする地震のようなものである。

 

そして地中に偏ったマグマが気中に放出されるようなものである。

 

そう、今は物理層でもそういう現象が起きているということ。

 

歪の解放と昇華、

 

今起きていることはまさしくそういうことでもある。

 

 

「体」は大切ながら、さらに大切なのはその上にある「こころ」であり、

 

更にはそれらの元にある「魂・意識」なのだ。

 

今、問われていることはそういうところにある。

 

 

何が優先され、何がそうでもないという意味ではなく、

 

それぞれの、わたしの本質は何か? それを思い出す、気づく、

 

あるいは根本的に理解するかどうかということである。

 

 

●全ての存在は愛すべき発展途上の魂である

 

この世界にいる多くの存在達は、愛すべき・・・発展途上の魂・意識達であり、

 

何が何だかわからなところから、少しずつ理解してゆく体験をするために、

 

この時空に来ているという、霊的な事実がある。

 

銭金の多さ、安楽さ、見てくれの良さ、そんなものは全く関係がない。

 

この世という次元の突端、表層意識ではなかなか気づけない、はるかに広く高い自己、

 

それをハイアーセルフというならば、その窮極の本質に近い自己が、この世界での経験を望んだのだ。

 

 

その為にわざわざ、その魂によっては、かなり厳しい環境に生まれたり、

 

激しい事象に巻き込まれたりするのである。

 

誰しも人に言えないような苦しさやつらさを経験しただろう。

 

 

そしてそれは、ほとんどが人間や人間の「こころ」の歪みとの遭遇による試練なのである。

 

そうではないか?

 

 

これに引き換え、大自然との闘いなどという観念は愚か極まりない代物である。

 

自然が無くて人間は生きられないものを、その大自然を征服するなどという観念は、

 

本来克服すべき「自我・エゴ」から目を離す逃避行為である。

 

自然を征服し、様々な還元不可能な物質を量産し、その汚染で自らの首をしめることになっている。

 

 

そうであれば、何時までたっても汚れた観念の流れ、

 

人為的プールの中で足をばたつかせて、何世にも渡って騒がなければならないことになる。

 

 

 

この世界にいる多くの存在達は、愛すべき・・・発展途上の魂・意識達である。

 

それはまず自分の内面のこころの動きや反応を観察することで解ってくる。

 

人や物事や事象に対して、自己がどのように感じ、思うかという自身の反応を観ることだ。

 

 

 

●自らを観ることが出来れば、同時に他者は理解できるもの

 

様々な人々、物ごとに対する、自己自身の様々な内面の反応に・・・十分気付けるようになれば、

 

自分のどこかある卑怯な反応や、臆病さ、あるいは狡猾さ等という闇の部分にも日が当たる。

 

また、どこかある元からある善意や良心にも気づけるものである。

 

 

そして、自分のことが解るように、その分だけ、鏡の反射のような他者のことも理解可能となる。

 

唾(つば)を飛ばすような、がなり立てや、尤もらしい自己主張だけでは、

 

自己のことも他者のことも、皆目見当つかないことになり、

 

それが争い、戦争となって、やがてはその場の一巻の終わりとなるのも自然の理なのだ。

 

こういうパターンは、どこでも、そう自分の中でも、家庭でも、職場でも、身の回りの環境でも、

 

企業同士でも、そして国同士でも、

 

そう、今地球の各所で行われているだろう。

 

 

 

●問うべきは常に自分自身である 

 

解消すべきテーマ、問題はどこか誰か、どこか遠くにあるわけではなく、

 

わたしたちのこころの中にあるのだということを、忘れてはいけないのだ。

 

 

銭・金・物、地位や名誉、安楽で便利な生活などの外側の要素は、

 

潜在する歪が全て現れる試練の時期、本質が問われる時節においては、

 

そんなもの実際何の役にも立たないだろう。

  

●今もっとも大切なものは何か? 

 

一体何が大切な「物」なのかではなく、一体何が最も大切なのことなのか?

 

素晴らしき「物」、現象を創り上げるのは何か?・・・匠のような人の「こころ」、精神であろう、

 

その「こころ」を生じるのは何か、

 

存在宇宙に・われ在り・それ有りとする・・・普遍的「魂・意識」である。

  

それは全てに遍満する「」とも言われる根源動力である。

 

それを意識内面で「実感」できるならば、

 

思考、実感で生じる意識場はすぐにでも、あたかも旭日光のごとき波動が輝きだす。

 

そして、それぞれの意識場、あるいはオーラ場に光が増せば、それを通して観る周囲世界はやはり輝いてみえるものである。

 

当然ながら、生命場の輝きのなかには光と影がありながら、

 

またそうであればこその輝きなのである。

 

何事も、ああでなければだめだとか、これとは違うとか、そういうことはなく、

 

全ては・・・・まさにそう・・・である。

 

まさに全てが奇跡・・・・・有難うございます・・・・としか、言いようもないのだ。

 

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今起きていること (7)古い世界の崩壊のサイン

2014-08-09 17:04:27 | 見えないものから見えるものへ

 

 

今人類の一大変換点にあるというけれど、それはどういうことなのか。

 

またその明確な予兆はあるのかという感覚もあるだろう。

 

それを見抜く、あるいは感じるには、自分のこころなかの、刷り込まれた「癖」を見直さなければならない。

 

 

これは人生を通じて多くの人々、社会との関わりにおいて植えつけられた、意識的、無意識的な「嘘」の数々を、

 

自分の中から放出する、つらい意識的作業が伴うのである。

 

そうでなければ、ただ集団の中で常識とされる、無意識的な反応を繰り返すだけの生活、

 

次から次へと考え出される、必要以上の新たな刺激や便利さという「餌」に食いつく、

 

消費者魚(うお)のようなもので終わってしまうかもしれない。

 

 

 

社会の全ては人間が造っているいるということ、

 

それが絶対的な真実だというものは無いということ、

 

あるのは便宜上の慣習だとか、便利さだけで採用していることだとか、

 

更には不特定他者の見えない支配的思惑が塗りこめられているということにも気づかなければならない。

 

 

小さいころから教わってきた、あるいは経験上で培った来た見識の中には、

 

本当のこと、ただ便利だけなこと、全くの嘘であることが混然となっているわけで

 

更に社会を覆う外側にある、支配のための見えない嘘にも気づく必要もあるだろう。

 

世間一般で、国で世界で、今行われていることは全て正しく妥当なことであるというような

 

漠然とした刷り込み観念で送る毎日は、確かに人生の経験は蓄積されたとしても、

 

いつかは現次元から必ず飛躍すべきであるところの、魂レベルでの、拡大された自己認識は生まれないかもしれない。

 

そう、多くがそう思っているところの・・・・偶然に生まれて、偶然に死んでゆく人生、

 

無・・・意識的人生を、またどこかで再現するだけかもしれない。

 

 

さて、以下は、身近な経済社会の崩壊のサインと考える事象の一部である。

 

●紙幣の増刷は、すなわち異常事態を示す

 

日本においても、1960年代の東京オリンピック、1970年代のプラザ合意、その後の日本の資産バブルとその崩壊によって、

 

戦後の資本主義的繁栄を謳歌した時代は完全に過ぎ去った。

 

失われた10年と言われていたものが、いつのまにか失われた20年になり替わり、

 

それを打破するというふれ込みの「何とかミクス」とかいう、夢を持たせる子供だましの宣伝、

 

嘘まがいのプロパガンダでやってきたことは、最期にやってみたかったところの、主に「紙幣の増刷」なのであった。 

 

何か難しいことがありそうな経済政策、QE2だとか○○ミクスなどという名前でもって、民衆の期待感を煽りつつ、

 

実際に行ってきたのは、経済での禁断の手法、魔の打ち出の小づち、

 

つまり実体経済に即さない、単なる紙幣の大増刷による損失補てんでしかないのである。

 

また資本主義の象徴である株式市場の崩壊の先延ばしでしかなかった。

 

・・・・

 

やってはいけないはずの手段、民間資本である中央銀行が結局は国債を買うこと、

 

つまり紙幣増刷してその国の予算に回す、さらなる赤字の積み上げを、やけくそのように行っているのである。

 

しかしそれも、どうせそのうちチャラになることを知っているのだ。

 

チャラになるということは、国民の金融資産でツーペーにする、あるいは不足分は国家財産を切り売りするということ。

 

結局全て国民が被るということなのだ。

 

誰かが代わりにやってくれるわけではない。

 

 

●国民の金融資産は政府の借財の担保になっている

 

1200兆円とも言われる政府借金は、年間税収の25年分であるが、その危機的状況に、

 

未だピンと来ないのは、それがどこか、回収できる投資に回っていると思わされているからであろうか。

 

しかしながら・・・その投資先が・・・・他ならぬ政府の1000兆円以上の負債の「帳簿」である。

 

これらは、経済産業省のHPでも、誰でも見られる事だ。

 

これは400万円の年収入で、1億円の借金に相当するのだが、

 

ちょっと考えれば、これは尋常の沙汰どころではなく、

 

経済的に言えば、これは既に「終わっている」のである。

 

なるほど、国民の金融資産、株式、生保積立、年金積立その他等が、

 

1200、1300兆円ほどあるとされており、これにて、ほぼ差引き≒ゼロでござる・・・というわけだ。

 

エコノミストたちは、この金融資産の担保のおかげで、まだまだ大丈夫だと言ってきたのだが、

 

今はもう、どうもそれを超えてしまったという話なのだ。

 

おいおい、いったいどうする? ということである。

 

●戦争はどこか歓迎の雰囲気があるだろう?

 

なるほど、政治経済と言っても人間が行うことであり、仮に何か大きな「不可抗力的な事態」になれば、

 

例えばどこかの国との戦争に巻き込まれ、円が暴落し、債権利回りが1-2パーセント上がっただけでも終わりである。

 

そうなれば、40兆円の税収のほとんどが利払いだけで終わるのは誰でも計算できる。

 

「皆さんすいません、こういう事態になっては、他にどうしようもなく・・・・」という言い訳が出来る事態が起きたとするならば、

 

一般庶民が何を言っても、確かにどうしようもないことであり、

 

それは例えば、70年前、昭和20年の敗戦の時のような、カオス状態とともに、旧システムのリセットと相成るはずなのだ。

 

そういうこともあり、国内、国外、国債情勢にも、様々な歪や問題が、どこか喜んだように?急激に出てきているのである。

 

為政者側にも、あとほんの数年先のゲーム・オーバーが見えているとも言えよう。 

 

まるで末期の徳川幕府のようなものではなかろうか。

 

またそれは敗戦前の日本政府のようなものでもあろう。

 

 

そして、その後どうなったか、推して計るべきことである。

 

 

●不景気での増税という自滅行為

 

景気が良くないところで増税をして、景気が良くなるという理屈は世界のどこにも無い。

 

それなのに、分っていながら、さらに税金を上げようとする事態にこそ、

 

既に旧来の経済社会システムが・・・・終わっている「サイン」であることに気付かなければならないのである。

 

余力が無くなったのを分って、悪い表現をすれば、とうとう合法的な共食い、あるいは収奪を始めたのだ。

 

難しいことはほとんど何もない。

 

 

●最大多数の最大幸福の夢破れ

 

日本の戦後は戦前の意識が残っていた30年ほどは、大枠で一億総中流という感じの、資本主義が目指すべき優等生的な経済であったとも言われるのだが、

 

本来、社会全体に物資・サービス・便利さを最大限供給するはずの経済が、

 

だいたい20年ほど前から、原価の極端な切り詰めと、株主・資本家への回収率上昇策に、嫌々転換されてからというものは、

 

庶民から見て物が安くなったという幻惑で騙されつつ、いつのまにか、

 

持てる者と持たざる者の乖離が進むことは明らかであったはずだ。 

 

いや、庶民も経済の偉い先生方も、良くわからなかったのかもしれない。(笑)

 

 

 

●混乱や騒ぎの増大の陰にあるもの 

 

そして挙句の果ての、貧富の差の極大化、また物質的な支配と被支配がはっきりしてきた時期であるといえよう。

 

更に先読みする者たちにとっては、発展途上時に特徴の、富める者はますます富む・・・時代の、その余禄もすでになくなって、

 

逆に、富める者こそ、その富の棄損を「怖れる」こととなり、

 

簡単に言えば、その物質的優位さのあるうちに、

 

多数の貧者側の余力までも、重箱の隅をつつくがごとく、更に簒奪しようとしている段階に来ているということであろう。

 

それも出来れば合法的に・・・というところだが、背に腹は代えられないという焦りが、

 

無理やりの世界各地の、あちらこちらの人為的事変や紛争となって現れているというわけだ。

。。。

 

 

●心の準備と意識的な自己創造

  

えー?マジ?というような、とうとう、本当に何が起きても不思議ではなくなってきた感じがする昨今であるが、

  

人的世界に起きることは、そのずべてが偶然ではなく、必然なのである。

 

しかしながら、すでにどこか叡智を宿す、意識的・意識を有する者は、

 

外に起きること・・・即ち現象とは、単なる結果であって、原因ではないことを知っていなければならない。

 

そう、過ぎ行くものは古き観念が噴出して描き出される<走馬灯>のようなものであり、

 

それを静かに観ている・・・者は、その・・・走馬灯に映ずる現象投影物ではないのである。

 

古きを映す走馬灯は、常に一瞬に過ぎ去るものであり、

 

いつまでもその投影物に執着することは極めて愚かなことであろう。

 

現象は常に変化しつつ、過ぎ去るものであり、

 

それを知覚、経験、観察する者、魂は、台風の目のごとく、常住不変の視座にある。

 

魂の視座にあるそれぞれの<わたし>に気付く者たちは、新しい・好ましい原因を、自らで創り上げる者たちである。

 

 

こういう稀有な時期に遭遇する魂たちの行うべきことは、 

 

それぞれの本質の不滅を意識しつつ、 

 

 

 

肉体に無理な負荷を掛けず、また肉体護持だけにこだわらず

 

 

 

こころを清め、

 

 

 

想念の騒ぎを鎮め、

 

 

 

愛すべき自らの、心底楽しい、その在り方を、 

 

 

 

おのれの内に明確に<実感>するのである。 

 

なぜなら、創造は・・・決して外からではなく、

 

常に内から発するものであるからだ。

 

 

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今起きていること (6)今が、魂・意識の選択時期

2014-08-06 21:32:05 | 見えないものから見えるものへ

世界では今急激に様々な騒ぎが起きている。 

 

それは意味のある必然のプロセスなのだ。 

 

騒いでいるのは、ここ数百年そうだったように、やはり欧米的唯物観念の周囲にいる者たちであることには変わりがないし、 

 

既に古い物質次元での、あらゆるレベルの飽和状態での、どん詰まりの状況における騒ぎなのである。 

 

極めて微妙で、かつ、とんでもない事態に展開する可能性のある、不安定な状況が現出している。 

 

超マクロに言えば、地球生命全般における、<一大分岐点>に来ているということでもある。 

 

経済がどうの、政治がどうの、金づまりがどうの、グローバルな勢力争いがどうのというような見方は、 

 

ちょっと近視眼的、皮相すぎると考えた方が良い。 

 

・・・・ 

 

日常、常識の範囲の中で動き、生活し、人間関係を営んでいるばかりでは、 

 

なかなか見当がつかないかもしれないが、 

 

しかしながらこのブログの記事を読んで頂いている方々にとっては、既に気づいている事だろうとも思われる。 

 

 

今の人類ステージ、それを簡単すぎる表現の仕方をするならば、 

 

第3次世界大戦の可能性が真剣に噂されるほどの、人類のそういう大きな選択時期にあるとも言えるだろう。 

 

そういう側面も含め、今人類においては、その意識レベルの極めて大きい変革の時が来ているのである。 

 

それは、社会でよく叫ばれる改革、革命、改善などというような、嘘まがいの政治題材等ではなく、 

 

人間にとっても極めて本質的な、意識的「進化」の時期だという意味である。 

 

人間というよりも、この地球上の・・・魂レベルの・・・進化、と言った方が良いかもしれないが、 

 

意識的に自らの在り方を選択出来るところの人類にこそ、その大きな問題が投げかけられているのである。 

 

魂レベルの進化かあるいは停滞か?

 

簡単に言えばそういうことだ。 

 

しかしながら、唯物論的思考内に自らの意識を固定化した者や、還元論的信者には多分、理解不能なことでもある。 

 

また、銭・金・物、地位や名誉という皮相的な価値のみを追いかけている者たちには、 

 

そうであればこそ、全く関知不能であろうとも思われる。 

 

だからこそ、今の世界の、収束すべきはずが全くそうではない、このような騒ぎになっている。 

 

・・・

 

全ての背後にあるところの意識、大霊、神、創造の根源の・・・・ 

 

その表出形、無数の子らであるところの、人間達、動物たち、植物・鉱物を含め、 

 

魂というか、霊というか、本質というか、 

 

そういう生命体または意識体の一大進化のステージが始まっていると言って良い。 

 

・・・・

 

とは言え、それって・・一体何?という人も多いはずである。 

 

何を言っているのか?進化?・・・それって、・・・・何よ?

 

色々いう人はいるけれど、すぐに起きたためしはないし、どんな意味があるというの? 

 

それって、猿が人間になること?・・・・ 

 

等という感覚だろうし、 

 

何か普通にはない直観的感覚を持つ人も、 

 

ひょっとしたら、人生の嫌悪を忘れるような、何かとんでもないことが起きて終わりになるとか、 

 

あーら不思議なバラ色の世界になるとか、そういうことを考えているのかもしれない。 

 

しかしながら、そういう安易な厭世観や期待感とも違うだろう・・・。 

 

この先、世界の大混乱の末、爆発して終わりだとか、現状意識のまま支配に甘んじつつ何とか肉体が生き残ることとか、 

 

そんな風な取り方も、全く違うとは言えなものの、どこかやはり枝葉末節の捉え方なのである。 

 

 

今起きている事は、 

 

この次元世界において、意識の発露形態が大きく変わり、つまり想念形が質的に大きく変化し、 

 

 

 

意識的、あるいは知的生命体達の扱うエネルギーも、より精妙、精緻なものとなり、 

 

 

 

それらの結果としての地球惑星の次元環境もその本質が大きく変化するということだ。 

 

 

別の表現をするならば・・・、 

 

地上に存在する・・意識的な存在である「人」の・・・想いが、 

 

 

 

エゴ的なものから、自他共通愛的なもの、 

 

 

 

今までの自分だけが良ければ・・・まずまずというような、 

 

 

 

競争による淘汰、個人我の生存だけを意識した生き方が席巻する状態からステップアップし、  

 

人もその他の生命も、

 

お互い様・・・、

 

あなた達も、わたしも本質は同じだとする実感、

 

それぞれが個性でありつつ、尚且つ全体がより一体化した、

 

あるいは調和した生き方になって行くということである。

 

 

また、新たな生活次元を通じて、魂の経験を重ねて進化する為の手段としての、 

 

その扱えるエネルギーもさらに自由度の増したものになるということで、 

 

ある筋では既に可能とされている、いわゆるフリーエネルギーが雨後のタケノコのように出てくることになる。 

 

ところが、全てを物質に還元して、その組み合わせだけを眼中にするような想念では、 

 

我々自身を満たしている・・・空(くう)それ自体が、あらゆるものの源である等とは露とも気付けないし、 

 

色即是空も、一即多も、因果応報も全く理解できないかも知れない。

  

そういう高い認識から具体化する、さらに高いレベルの科学技術的な手段も理解できるとも思えないのである。 

 

・・・・ 

 

フリーなエネルギーとは、空間(くう)に潜在するエネルギーの引き出し、その直接利用を示すものであり、 

 

それは時空周囲のエントロピーが減少するタイプのもの、局所に集中して現れるタイプのエネルギー、生命の成長に寄与するタイプの高次なエネルギーと言えようか。 

 

逆に、今までのエネルギーは物質分子、原子の運動エネルギーの拡散場を利用する、あるいは物質分子の爆発的な動きを利用するものであり、 

 

附随的に余分な熱や摩擦がエネルギーの損失分として発生し、結果として周囲には熱や環境汚染物質が拡散する類のものであった。 

 

つまりその時空周囲はエントロピーが増大する、熱が増大するある意味で温暖化の方向、つまり無秩序化が進む方向のものであり、ひいては生命場に逆行するものでもあったということだ。 

 

次第に汚染される文明の中で、よくやってきたとも言えるのだが、そりゃ、そうだろう。 

 

自動車の内燃機関も、火力発電も原子力発電も、たき火も風力発電も、 

 

たいていは、何かを燃やすことや気体分子の流れを操作する事で得られる、分子や原子あるいは電子の運動エネルギーを利用するものなのだ。

  

 

そしてフリーエネルギー、空間から湧き出す真空エネルギーのような、 

 

クリーンでエントロピーの減少をもたらすエネルギーの利用によって、 

 

今まで無秩序化や汚染が進んでいた時空環境は、新たなステージとなり、 

  

今までのそれと逆行する、生命進化を加速する・・・ような現実がもたらされることになる。 

 

 

それが、簡単に表現するところの「次元上昇」した文明形態である。 

 

 

 

その文明では、自然の生態系は復元しつつ、

  

更に美しく、多様な生命場を表現しするようになるだろうし、

  

人存在はそれらを我が子のことのように観て、聞いて、感じることだろう。

  

それはまるで毎日がお祭りのようなものだ。 

  

そういうフィールドであれば、有難う、お互い様・・・・。 

  

そこには、嘘のない・・・・実感の創出こそが、人の役目であることを悟った人々だけがいることだろう。 

  

嘘のない内面から滲み出す絶対確実な・・・実感あるいは感謝や愛念は、 

 

実に、壮大な宇宙創造への感慨であり、また自己創造を通じた魂の進化への感動なのである。

 

・・・ 

 

しかしながら、それは「いつか、どこか」であり得ること・・・・でもなく、 

 

今この瞬間に、少しづつでも、それぞれのあなたに出来ることなのである。 

 

生命への感動と、生きて表現することの奇跡への感謝、 

 

本来、それは世界が混乱と混沌を通じてようやくの想いで達成されるようなものではなく、 

 

今、この瞬間・・・瞬間・・・瞬間に・・・選ぶことが出来ることなのだ。

 

そうでない場合にだけ、苦難の時節を通り抜けなければならないということだ。 

 

 

 

今の瞬間に感謝と愛念を実感できる、そういう存在が増えるに従い、急速ながら漸進的に一大変革が起きることになるわけなのだが、 

 

しかしながら、それもそれぞれの・・・意識的存在ならではの、自由意思がまず第1義的要因である事には変わりなく、 

 

それらの自由意思による、魂の先行きの方向分岐もまた必然なのである。 

 

どのような生命表現をするのか・・・・と、そういう選択は、 

 

完全にそれぞれの魂・意識にゆだねられている。 

 

その選択は、頭の思考や、さらりとした知識との接触等ではなく、

 

まさしくそれは・・ Let、it be・・・、 so be it ・・・・ 

 

 

まさに・・・そうである!・・・という自己認識・・・そう・・・・それは「実感」なのである。

  

人々は、何を考え、実感しているのか・・・それが全てであろう。 

 

 

しかしながら、幸運の女神には前髪がないという古い西洋の諺(ことわざ)にあるごとく、 

 

今のこのステージでは、自己の選択をするための、

 

その時々の割り当てられた「時間」は常に少ない。  

 

・・・・というか、今・・・しかないのである。

 

 

 

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