気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りの道標(27)騎牛帰家

2016-09-29 05:54:14 | 人間とは何か




  <騎牛帰家>
牧童は牛の背中に乗って、悠々と笛を吹きながら家に帰る。
もうマインドはあちらこちらウロツクこともなく、
家路に向かう道中を援けている。


「自分のこころのままに生きる」、ということが言われるが、
これは誤解しやすい言葉である。

人が、その時々の感情や喜怒哀楽、思いや希望の方向に動くとなれば、
常に・・ころころと変化する「マインド」に翻弄されていることになる。

こころ模様・マインドの状況は、まるで空模様のようなものである。
さらに今は、この地球の気象現象も相当に荒れてきていることも、
すでに知っているだろう。

思考や感情は常に意識内面に湧き出し続けており、
その湧き出す思考やイメージは、
常日頃培った・・こころの鋳型つまり考え方、感じ方の「癖」を
ひな形パターンとして湧き出してくる。

生活における体験、そのエネルギーの「鋳型」を、
自分の「心のパターン」が創っているのだ。
それは自動生起プログラムともいえよう。

プログラムに忠実に、進行・現象化してゆくのは、
何もパソコンやブルドーザや巨大クレーンや、ジェット旅客機だけではない。

自分の意識内面に描かれているプログラム、マインドの刻印
わたし・・の・・全ての原因は「ここ」にある!
マインドで自己創造しているのである。

何か嫌なことが心に溜まり、何日も悩んで憂鬱だったことはないか?
あるいは若いころ、不可思議な恋こころで、胸いっぱいになったことはないか?
そんな時には、世界がどうの、お金がどうの、政治がどうした等、
どうでも良いことではなかったか?

そう、外の世界の出来事は、大勢のマインドの共同創造の・・結果であって、
結果を何とかしようとすることの愚かさに気づかなければならない。

あの人が変わればな~、(・・・きっと自分は楽になる)
社会がよくなればな~、(・・・きっと私は認められる)
皆が悟ってくれればな~(・・・きっと俺たち住みやすくなる)

そういう一見切実な思いは・・まさに、そうでない!ことの宣言である。

例えば、国家の政治家たちが、国民の損になる事ばかり、
それも自信満々、嘯きながらやっているのは、
そうでない!ことを、現象として見せているのかもしれないわけだ。
・・だったら、・・くれれば、・・?
だから、いつもそうでない・・事実、
これに、気づけるだろうか。

だから憂鬱にもなるし、
胃のあたりが重たく、ハートが不安を感じる。
葛藤ばかりを生み出し続けていたこと、
気づけば実に馬鹿馬鹿しいとはこのことである。

嗚呼、それはもうやめようか。
古いパターンをどうした、こうした、少しいじれば良くなるとか、
それはもうやめたほうがいい。

すべての古い価値観を、放下するのだ。

「そうでない」ことの宣言はもう止め!である。
撃ち方止め!・・・だ。(笑)
敵はどこにもいない、葛藤そのものであったのだ。

望んでいないものをバンバン宣言し、
不都合なウソの真実を、気づかず知らず創っていた!

しかしながら、
すべての思いは、単なるマインドでしかない、
また、マインドはどんな幻想をも創り上げるエネルギーの鋳型であるが、
その鋳型を加工して様々に作り上げるのは、牧童である<わたし>・・である。

わたしとは、魂(霊)、マインド、身体の複合体であり、
その本質のわたし、魂(霊)が・・十牛全図で示す牧童と言えよう。

牧童が自己のマインドを観る・・、あるいは内面の面倒を見る、
そういう、内に誠実なプロセスを続けるうちに、
確実にそれに慣れてくることになる。
続ければ絶対に習得してしまうのが人間である、そうではないか?

マインドと格闘するような「胸突き八丁」を越えれば、
つまり古い観念によって生じる「葛藤」が消えてゆけば、

あなたはもう、周りの景色や条件に翻弄されることなく、
気づけば強力なマインド・牛を道ずれに、
ゆったりと笛を吹きながら、
すでに故郷に戻る帰途にあることに気づけるのだ。

やあ・・本当に・・よくここまで来たもんだ・・(笑)


悟りの道標(26)こころ静めて越える、胸突き八丁

2016-09-26 06:30:40 | 人間とは何か
1.尋牛、牛とはなにか尋ねる・・ 、
2.見跡、牛を自分で探してみる ・・
3.見牛、やっと牛の姿を見つける・・
4・得牛、ようやく牛を得ること、・・
5.牧牛、その牛を飼いならすこと・・

1.尋牛
ここでの牛とは、こころ、思考や感情、マインドである。
自分の思考、マインドに全く無頓着な意識レベルから始まり、

2.見跡
何か大切なものへの気づきが立ち起こり、自己探求が始まる。

3.見牛
自己探求においては、まず自分のこころ・マインドを発見することになる。
唯心諸元、
自己を自己として認識するのは、マインドの働きであることに気付くのだ。
私は誰それだ、個人だ、男だ、女だ・・
私は悲しい、うれしい、あれはダメだ、これは良いぞ・・、
すべてマインドの働きである。
スピリチュアルな知識への接触も、このマインドの多次元面の情報への接触である。

4.得牛
幸も不幸も自らのマインド内で創り出し、
感情でそれを実感しているということが分かってくる・・。
つまり創造とは何かに気づき始めるのだ。


5.牧牛
解ればものすごく単純な方程式だが、
しかしながら、頭で非常によく理解できる段階になっても、
こころの中の様々な轍(わだち)習慣になったパターンが残っているため、
その内面のパターンをさら地に戻す意識的作業が必要になる。
つまり浄化して、新たに組みなおす作業だ。

マインドがすべての原因だという明晰性を得られたものの、
こころの反応に癖が残っているため、
「そうは思うんだが、・・分かってはいるのだが・・」

いまだ他人の言動に影響され、物的条件で喜怒哀楽で踊りだす、
そういう心の癖が残っているため、
この浄化作業が、最も困難な意識的作業と言えよう。

このため、日常の生活が大車輪に使われている、
どうでもよさそうな日常の出来事、人間関係が、
どうでも良くない、貴重な修験道場ということだ。

ある意味で静かな修羅場を通過しているのである。

ここでは、常に自己との向き合い、マインドの観察と調律が求められる。

意識進化の大きな正念場。
これが「峠」越え。

大きくは、地球も、そしてそこに在る人々も、
今この峠越えに来ている。

問題は外の世界の混乱や出来事ではなく、
それぞれのわたしの意識内面のことなのだ。

マインドを鎮め、浄化ししてゆく行程、
4.得牛から、5.牧牛は、悟りの道を歩く人々にとって、
多かれ少なかれ、正念場、「胸突き八丁」である。







悟りの道標(25)牧牛 心を手なずける

2016-09-24 05:32:13 | 人間とは何か
十牛全図でいうところの悟りの道標の5番目は「牧牛」だ。
牛はもう勝手に動き回ったりせず、淡々と牧童と共にある・という図である。






こころ(牛)が静まって、無駄な動きをやめ、わたしとともに存在している。
こころが無くなるわけでも、貧弱になるわけでもなく、

牛が勝手気ままに動いたり、外からの刺激に無条件に反応して暴れたり、
無駄に右往左往したり、思わず怪我をしたり・・という事がなくなることだ。



悟りの5番目、牧牛は調教と似ているが、調教ではない。
調教というのはどこか良くないイメージがあるが、
それは動物等を人間の欲望に沿った方向に洗脳、飼育して、支配するということであり、
動物の本来の姿を失わせることなのである。
あるいは外から網を仕掛け、身動き取れない集団を作るという事にもなる。
世界での常識という・・マトリクス(支配網)もそれだ。
・・・

ここでいう「牧牛」は、牧童の無理難題を聞くように躾けられるのではなく、
牧童自身(わたし)が、牛(マインド)とともに在ることに、
何ら違和感を持ちえないような関係性に至るという事だ。
牛は牛でありながら、牧童と調和をもって相対しているのである。

この調和に至ると、内面からの「至福」感が生じることがわかる。
何らかの形で与えられる、無条件のうれしさ・・至福、
なんとも表しようのないこの至福感は、
その方向が合っていることを示す「道標」である。
この「至福」は、実践したものだけ経験するご褒美のようなものだ。

なにはなくとも、<在る>・・こと自体が、素晴らしいのである。
それともお金で買える?・・・わけないだろう。

牧牛とは、
霊(魂)と、マインド(こころ)と、身体が調和するということだ。
それまでは、こころがわけもわからす勝手し放題で、
身体と魂の間に亀裂や歪が生じていたわけだ。

例えばあなたも、他人の言動に怒り心頭に達したり、嘆き悲しんだり、
心が破けんばかりに憤ったりしたことがあるだろう。
それがそのままになっているのが「カルマ」なのだ。
絶対!他人が悪い・・としているのは「カルマ」である。
それは、それこそ何千年でも残るのもの。

だからすべてを許せと言われているのだ。
だって、自分が相手であれば、同じことをしていたかも・・
たぶん、絶対そうなのだ。(笑)

そう、それらは良い教訓を与えてくれたわけだから、
だから何でもかんでも許してOKなのである。
許すというより・・「手放す」といったほうがいいかもしれない。

もともと・・何もなかった・・ではないか?

牛を捉え、牧牛に至るまでは、
魂の微妙な声がなかなか聞こえず、直感や内面の促しを無視し、
外からの様々な刺激や扇動のままにうごめいていた。
そう、まさにまるでマインドのない野牛のようなものだった。(笑)


(モー、こころここにあらずだったかなモー)

他人様を頼っても、期待を何度も裏切られたり、
世間でもてはやす栄誉、栄冠を獲得したにも関わらず、
何度やっても、それは持続せず一瞬の快感で終わり、
外の世界に、真の栄誉などどこにもなかったことを悟れるまでの話なのだ。

人生や出来事や収穫の方向を決めるのはマインド、
常に変化を旨とする、幻想の世界を創るのもマインド、

そうであるからこそマインドを確認し、観察し、
それがどういう風に働いているかを知ることが、きわめて大切でなのである。

壮大なファンファーレを伴って、刺激を伴って、
やけに騒がしく現れるものの中には、決して真実はない。

真実は常に・・広大無辺な・・あなたの中にある・・

人がマインドを発見し、これをしかと観察して一体化できるまでには、
マインドのパワーを次第に自覚できるようになるには、
少なからず時間がかかるかもしれない。

悟りの5番目・・牧牛は、根気よく、静かに実践されるものだ。

悟りの道標(24)得牛・・こころの調律

2016-09-21 06:15:10 | 人間とは何か
悟りのプロセス、4番目は「得牛」だ。
牛を得て、おー、これはしめたものと売り払ってはならない(笑)
牛とは・・あなたのこころなのだから。

繰り返しになるが、十牛全図では、
「牛」とは実にパワフルなマインド、こころ、思考、感情のことである。

人間社会では、こころによって何事も起きていること、
立身も、陰謀も、時代というマクロな流れも、
個々の人生の経験も、成功も失敗も、高揚も失望も、すべてマインドの成すことである。
体が勝手に、偶然に動いているわけではない。

それを強く信じることができるものだけが可能な、
スプーン曲げ現象さえも起こすのが「マインド」のパワー。

人間がこころの働きの大きさを見失っていること、
それに気づかないのは、実に驚くべき意識の停滞であったと言えよう。

人間は、魂(霊)とマインドと肉体の複合体であり、
目に見えないレベルから次第に目に見えるものへと現象化している。
それを逆に肉体、マインド、魂へと、いわば原因側へ、高い次元へと
意識をシフトさせてゆくのが悟りの道程である。

気づける人々にとっては、
現代もうあからさまに行われている、世界の様々な混乱や扇動を見るにつけ、
まさに暗闇の時代、「末法」の世であったことがわかるだろう。
法とは、法則、仕組み、真理の探求、真の自己を見出すプロセスにあることを指す。

得牛(マインドを捕らえ、この調律を進める)




牛を捕まえた・・ということは、こころを自分の元に取り返すということ。
他人の思考を採用するのでなく、自分の頭で考えるべし・・とよく言うが、
牛を得るということは、それだけにとどまらず、
その牛の動きをよく見る、観察するということなのである。

マインドは、魂からの派生なのであることを知り、
マインドを常に観察する高い視座を保つことなのだ。

あなたは牛ではない、マインドではない、
それを観ているもの、つまりここでいう牧童なのだ。
牧童だけが牛を、つまりマインドを調律できるということである。

マインドは実にパワフルな「エネルギー」であり、
それを誤操作したり、引きづり回されてはろくでもないことになってしまうだろう。

得牛・・牛を捕まえる、マインドを捉え調律すること、
きわめて大切な1つのプロセスなのだ。

例えば、スピリチュアルな知識を得ること、多方面の思考や情報を参照するだけでは、
目からうろこが落ちる・・とはいうけれど、それはやはり「見牛」である。

固まった常識とは異なる、何か真実がありそうな事象を「垣間見る」
・・つまり「見牛」に相当するわけで、
ここで留まっては意味がないということだ。

自己のこころが、いまだ野放図に動き回っているわけだから、
いつも、「なんでこうなるの?!」(萩本欽一風・・ちょっと古いか、笑) ということになり、
不都合な事象に遭遇しては、怒りや疑念や恐れまでも湧き上がるだろう。

人自体、人の環境など、すべてを創り上げている「マインド」を発見し、
それを捉え、調律しなければ意味がないということだ。

物質なるものの素粒子レベルでは、量子の観察によってその動き、
現象が変化すると実証されているように、

こころの観察によって、マインドも変化してゆくことに気づけるのだ。
変化というよりも、浄化(デトックス)といっていい。

単に考える・・から、その思考自体を観察することで、
その思考自体が、本来の魂のレベルへと次第にシフトしてゆく。

いわゆる振動数が上がる、意識レベルが高くなるとも言っている。
普通の表現では、視野が広くなるといえばそれも含まれるだろう。

こころの、マインドの重要さを、人生において心底体得したならば、
自然な成り行きとして自省的となり、謙虚で、穏やかになる。
進化を加速する瞑想に親しみ、当たり前の生活も簡素になってゆくものだ。

そうではないか?

なぜならば、牛・マインドの野放図な騒ぎが静まってゆくからだ。

そう、自己が何を考え、感じているのか・・観ているべきなのである。
これは単に知ではなく、意識における「実践」である。

他人や世間の外観ではなく、自己のマインドの挙動の観察のこと。
地味だが、マインドを自在に扱えるための、きわめて重要なステップである。

これが4番目・・・「得牛」。







悟りの道標(23)見牛・・ マインド発見!

2016-09-20 06:30:35 | 人間とは何か
(尋牛)わたしとは何か・・人生とは何か・・という疑問が生じ
(見跡)生活の合間で何かの糸口がつかめそうな感覚が生じる。

現状に甘んじながらも、それを全てとすることなく、
どこかで何かの真実を探す感覚を持っている人々は、
尋ねること、疑問、問いかけを意識に消すことなく持続しているわけで、
したがって、疑問や苦痛や、虚飾だらけの世界の中において、
おー、これは・・という感動を人生で味わうことができる人である。
人生の「味」を感じることができる人である。

多くのまじめな人々がまさにそうである。
あなたもそうではないか。





牛というのは古代は、牛は強い力を持った身近な動物で、
扱い方によっては人間に役立ってくれる存在であった。
そう、牛とは農耕作業や荷物運搬に使うほど身近なパワフルな存在という意味である。

したがって、禅の悟りの道標に・・どうして「牛」なのかといえば、
それが実にパワーのある、身近で親身な存在であることからきているのだ。



そのパワーとは何か?・・すでに気づいているように、
それはマインド、こころ、思考という精神の働きのことである。

牛とは、人生の道で、あなたをどこへでも運んでゆくパワーを意味しているのである。
あなたがそう思って、そう表現し、行為しなければ何も生じない。
決意、決心、あるいは日常に起きる軽い意図さえも、
常に何かを生じさせるのである。



そう、マインドがすべてを創り出しているのだ。

なんでもかんでも、人の在り方の方向性はマインドで決まるのだということ。
お金でも地位でも、獲得した栄冠でもない。
それらはすべてマインドの求めた結果、現象でしかなく、
やがてはすぐにも消えてゆく幻想なのである。

見牛・・は、不十分ながらも、そのマインドの姿を発見したということである。
・・・
世の中に五万と流れている宣伝や洗脳、政治のプロパガンダ、学校の偏向教育さえも、
このマインドを操り、方向づけするためのものだということも、
すでに気づいていることだろう。


牛の姿をようやく垣間見たこと、
これは・・それぞれのわたしの・・
マインド・思考、の何たるかを垣間見たということである。

あなたはもう、それを見たはずである。

これが・・「見牛」  だ。