気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(7)意識の焦点

2021-01-31 04:28:52 | 意識の科学(総合編)

普遍意識・・無限意識・宇宙意識・神・が・・”ある時空に”焦点を結んで

まるで私個人として個別化したように見えるものが・・個別意識:わたしである。

 

個々のわたしとは・・無限そのものが・・無数の有限へと焦点を結んだ者である。

有限とは‥限りあるかたち・形・像・現象・・を意味している。

限りあるかたちの世界・・形は変化し、流転し、現れては消える現象世界。

 

無数に展開する現象世界・宇宙を、そのただ中で観ている者は誰か?

 

神だ・・。

 

有限の視点から・・無限へと眼差しを投げかける者、

観ている・感じている・経験・体感していることを通じて、

無数の有限世界に自己投入したものたちのことを「神々」という。

あなたはそれだ‥と言っているのである。

 

人間とは、

なじみの言葉で言い換えると・・

無限意識(根源)が・・・人の形に焦点を結んだ「像」のようなものだ。

 

 

人とは、普遍意識・無限意識がフォーカスして個々の意識として結像したもの。例えば今あなたは、特定の個人であると意識しているように。    

 

そして・・それぞれ・わたしとは・・

それに気づいている者・・自己自身を意識している者である。

神が自己自身の存在に‥気づいているということである。

 

いまあなたは・・自分が在る・・ことに気づいている・・。

 

深く・広く十分に気づいているかどうか・・?

鉱物・植物・動物・・人間へと気づきの総体・意識の集合体によって、

そのレベルや階層、展開は無数にあるものの、

意識の進化・深化・・こそが、潜在・顕在宇宙の大いなる流れである。

 

人はなぜ、今ここで生きているのだろうか?

そして、何度も違う時空間設定で生死を繰り返し、

違う人格として生まれて死んでゆくのだろうか?

 

 

なぜならば、あなたは・・いつか?かつて?

無限なるものから有限なる者へと焦点を結んだからだ。

 

有限なるもの・・個としての意識・・・へとフォーカスしたわけだ。

だから・・今、そこ、ここで 人間をやっているのである。

そして、誰も皆・・そこからの大いなる帰還の道にあるのである。

 

真の自分自身であろうとすることこそが、自然の流れ。

それを魂・意識の進化などと言う。

ある意味で、無条件の愛、温かい、懐かしき家へと帰る道にある、

それこそが・・楽しく、面白く、興味津々、ワクワクの道である。

 

形に現れたもの・・儚い物理的幻影を必死に追いかけ回し、

満たされぬ欲望、一時だけの事象、現(うつつ)に支配され、

苦難と苦渋の感情を歪ませながら、

わざわざ、小さく、限られて、狭く、暗く・・

無価値で卑賎な状況に我が身をやつし、

この地球という幼い意識集合体の中で嫌というほどまでもまれ、

心で泣きながら、エゴの波動をそぎ落とすまでそぎ落とし、

意識のレンズをきれいに洗濯するまで・・耐えた「魂」達よ・・!

歪んだ感情と爆縮する想念の渦から、勇躍浮かび上がる時が来たのだ。

 

わたしとは何か?・・・これは・・神自身の自己回帰への問いかけだ。

あなたはその自覚があるか?

なぜ・・意識が・・あるのか、自覚があるか?

世界や宇宙を投影・結実しているその意識・・の無限性に気づいたか?

 

普遍意識・・無限意識・宇宙意識・神・が・・

”ある時空に”焦点を結んで

まるで私個人として個別化したように見えるものが

・・個別意識:わたしである。

 

有限の視点から・・無限へと眼差しを投げかける者、

観ている・感じている・経験・体感していることを通じて、

無数の有限世界に自己投入(フォーカス)している者たちのことを

古めかしい言葉で言えば・・

「神々」という。

そう・・

今の、それぞれの・・・・わたしとは・・まさにそれだ。

 

 


(6)無限意識の焦点・わたし

2021-01-25 05:47:39 | 真我実現シリーズ

真のわたしとは、私の個人意識や、また

知覚対象としての”自分の肉体”や”思考”、

はたまた”物質環境、世界・宇宙”のほうではなく、

その ”背後のすべてに完全に一体化” しているところの・・

気づきの総体=普遍意識である

 

そして、その、

普遍意識・・無限意識・宇宙意識・神・が・・”ある”焦点を結んで

まるで私個人として個別化したように見えるものを・・個別意識・魂といっていいだろう。

あなたやわたしたちであり、全ての生命ということだ。

それらは、

膨大な海(無限意識)の上に生ずる、無数の個々の波頭(個人意識)のようなものだ。

 

あなたは、無限の宇宙にあって・・今・・わたし・・個として意識しながら・・

そこから、その次元での無限の顕現宇宙を観ているのである。

個別の焦点を通して・・・無限が・・無限を観ているのだ。

 

宇宙は生命の海のようなものであり、無数の星々の中の・・ほんの小さな小さな太陽の、そのさらに小さな小さな・・地球という点の上に、我々はいるのである。・・意識は・・肉体と違って大きくも小さくもないのが理解可能だろうか?

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その無限・絶対・・が個別化したものが個としての生命であり、

さらにそれを自覚している者・・は、

I AM THAT (・・・・)を知っている。

わたしは・・女だ・男だ・・大人だ、悪者だ、善人だ・・日本人だ、何々人だ、地球人だ、好きだ嫌いだ、身長は・・、体重は・・という、

個別の何かに成っているということである。

 

そしてそれを知る者は・・

I AM THAT I AM.  なのである。

 

本来の意識的存在・・人間の役目ともいえるもの、

わたしは・・何かのそれである・・という個人化、個別化をしながら、

その焦点から、自らの創造宇宙を観察あるいは二次創造をしている者だ。

 

特に自己意識の自覚を有する人間は、・・本来ならば・・・、

無限・絶対の個別化した焦点であることが理解可能だろう。

そして、

あなたもそれだ・・と言っているのだ!

 

今までの地球という生命カテゴリーにおいては、

動物の一種、高度な肉体を有する個人であるということだけが、

実に重く、執拗に喧伝されてきたため、

多くがそのように自己認識した世界を創り上げ、

何千年という転生の月日を ”気付かず知らず”・・創出してきた来たのだ。

 


(5)意識は気づきの総体

2021-01-16 06:22:21 | 意識の科学(総合編)

意識・・とは、気づいていることの総体である。

何かに気づくことで、その対象が存在しているということがわかる。

つまり、気づくこと・意識なくしてその対象は存在しない。

しかしながら通常は、

対象が存在しているから・⇒・それに気づくのだと・・誤解している。

全く逆なのである!

物質やその多彩な変化、諸現象が先にあるのではない。

まずこれを真に理解しなければならない。

実に単純なことだが、ここが重要な認識転換だ。

 

簡単に言えば、

物が先か、意識が先か・・ともいえるだろう。

どちらが先か?といえば、時間の後先を連想するが、そうではなく、

物質が意識を作るのか?意識が物質を作るのか?ともいえるだろう。

 

どっちだろう?

あなたが図画工作をするときに、図画工作が先にあったのだろうか?

もちろん、わたし(意識)が先だ。

それは図画工作をするプロセスを知っているからである。

手で加工し、それを仕上げることを知って記憶しているからだ。

 

これは一種の創造であるが、世界や宇宙という話になると、

自分の思考や肉体の手足で造るものではないため、

わたし(意識)が世界や宇宙より先であるわけはないと思う。

 

もちろん、

世界や宇宙はそれぞれ私個人の思考・設計・手加工で造られたわけではない。

わたし=思索する肉体個人・・という信念であれば、

世界やましてや宇宙は、私個人の創作なんかではないため、

わたしの見る世界や宇宙は、わたし由来のものではないと思うのが当然だ。

世界や宇宙が、厳然と先に存在していて・・後でわたし個人が生まれた。

これはもう絶対的な事実だと・・そう思うのである。

「思うって?あんた、だってそうじゃない」である。

 

わたしとは・・何か?・・の理解の先・・・、

ここに次元の違いがあるようなものだ。

 

あくまでも、人間は多分サルから進化した肉体個人であるという自己認識であれば、その進化した猿がどうあがいても世界や宇宙など比肩しようもないという話になる。

小さな現象形態(肉体個人)が、より広大な現象形態(世界)を創り出しようもない。

 

しかしながら、その・・わたしとは何か?の認識が違ってくると、その謎のベールが薄くなってくる。

 

わたしとは、知覚対象としての肉体や思考、物質環境のほうではなく、

その背後のすべてに完全に一体化しているところの・・

気づきの総体=意識である・・ことを理解すべきなのだ

 

気づくこと、意識なくして、その意識にとっての対象は顕現しない。

 

普通は・・、

様々な物が存在しているから・・後で・・、

それに気づくのだと思っているということだが、

物質が現実として・・先に存在しているから、・・それに気づく・・のではなく、

気づくことが無ければ・・物質は存在し得ない!・・ということである。

 

あるいは、

気づく過程において・・その様々な対象物が存在していることが認識されるということ、

気づくプロセスの内容・進行に応じて、様々な対象(物)現象が順次出てくるように認識されるということだ。

つまり、

気づきのプロセスが無ければ・・物的対象・事象の出現プロセスも無い。

意識の働きが無ければ・・物的事象・万象の変化の動きもない。

 

真実は常に・・今ここにあるというが、

毎日の眠りと目覚め、この世の生活のサイクルで教えられていることに気づく必要がある。

人類は、毎日毎日、意識が目覚め・眠りのサイクルを繰り返しているが、朝目覚めてから以降の、現実という感覚生活だけに注意を払ってしまっているために、なかなか事の重大さに気づかない。

 

世界という知覚対象物の動きの激しさには気づいているが、それを成立させている仕組み、意識のほうに気づかなければならないという事だ。

 

意識は熟睡・目覚めという、非顕現と顕現のサイクルを繰り返していること、

あるいは無意識と意識のはざま、潜在意識と顕在意識のはざまを揺れ動いているということに気づかなければならない。

それを例えるに、広大な海が「潜在意識」で、その表面の波立ちが「顕在」意識であるということだ。

そして、個別に見えるわたし・・とは、その潜在意識が・・表面に出現した1つの波立ちともいえよう。

広大な海には無数の波立ちがあるように、

この世界、あの世界、宇宙の無数の世界も、その無数の顕現意識、意識的存在で満ちている。

 

 

わたし・・1つの波立ち・・は、海に生じる1つの個別の顕現・意識波動であり、

膨大な海、潜在意識の働きによって起きるものでありながら、

もとは膨大な海そのもの、潜在意識そのものである。

そして、わたし・・1つの波立ちの周囲には無数の波紋が生じるように、

1つの顕現意識からは無数の現象世界・宇宙が生じるのである。

人はそれぞれ、小さいながらも、眠りと目覚め、生活、思考・感情・・見聞きする範囲、目に見える遥かの彼方に発散しているかにみえる宇宙も含め、

それぞれ意識が気づいているからこそ、存在しているのである。

 

元はひとつの無限の海、宇宙意識、絶対無限の意識・・である。

 

 

わたしたちが様々な事物を目視できるのは、

放射される「光」(電磁波動)によって事物への反射像が見えるからだが、

それと同じように、

気づき・・意識は、光よりもさらに微細な根源からの波動であり、気づくという意識的働きによって、様々な事象が知覚対象として浮かび上がるのだ。

意識はすべての・・背後に完全に一体になっているため、

どこまで行っても、常にそれ自身であり、

何か別の、特別の具体的対象としては現れないために、

具象化した現象ばかりを観ている限り、いつも見逃すことになる。

 

したがって、

あなたは根源の意識、真我、常にそれ自身である・・

どこを探す必要もない・・というのである。


(4)唯一者

2021-01-08 06:49:07 | 意識の科学(総合編)

●気づきの総体・わたし意識

<わたし>とは ”気づいていること”の総体であるともいえよう。

わたしたちは・・単なる岩とは違う、

意識している、気づいている存在ということだ。

 

毎日の日常生活のすべて、

見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れることを通じて、

その世界に”気づいている”・・存在であるということだ。

また、

そこから生じる様々な感情や想いにも”気づいている”存在ということだ。

 

●意識なくば世界は無い

つまり、わたしとは、意識存在であり・・

世界・環境・身体・・周囲に気づいている・知覚している・存在である。

自己をそれと思いやすい「肉体」も・・もちろん気づきの対象であり、

それはまた環境・世界との間の波動共鳴フィールドともいえるだろう。

 

何かへの気づきが無ければ・・どんな対象も知覚できない。

あなたが眠っているときには、

あなた自身の知覚するどんな世界もないはずだ。

熟睡中は、どんな何も無い・・ことすらも知らない。

その時には、

「あなたは眠っているだけで、しっかり世界はあるよ」

と教えてくれるどんな他者さえもいない。

 

●自身に気づいている・・根源意識

わたしとは・・様々なものに「気づいて」いる存在であり、

また・・その当の・・自分自身に「気づいて」いる存在でもある。

 

重要なことは・・意識、

気づきの総体を・・わたし・意識というならば、

自他に気づいている・意識・わたし・・は、宇宙すべての中で・・・

わたし・・しかいない・・ということだ!

 

●気づきの働き・・意識は全部で・・ひとつ

私のような多くの人間がいるから、宇宙にわたし一人なんかあり得ない・・と思うだろうが、

わたし・・自身に気づいている・・わたしは・・ここにいるだけだ。

 

わたしの世界に・・主体たるオリジナルな意識は・・わたししかない・・

他に多くの人がいる・・ことを気付くのも・・この・・意識である。

 

理解可能だろうか?

深く吟味すべきことだと思うがどうだろうか?

しかしながら、

いまのあなた・・そのものなのだと気付くだけ、

様々な幻影を映し出す・・その・・光源のことである。

 

わたしの観察・体験・知覚する世界の・・根源・光源は・・ひとつである。

ひとつだから・・光源・根源なのである。

その・・ひとつから放射される投影像の中に

大勢の他者という幻影も含まれているが、

それは自己の幻影を万華鏡のように映し出すものであり、

それらも・・ただひとつの光源・根源の現れであることが理解できるだろう。

 

●他者とは、万華鏡に映し出された”わたし”の姿

大勢の他者とは・・ひとつの根源・・真我(真のわたし)・・が、

こちらとは違う・・向こう側から・・

無数に・・出現している姿なのである。

 

もちろん意識は無限であるため、

その姿形、想いや考え、価値観や信念などは様々であることは、

それに気づいた者として理解しなければならないはずだ。

 

分離の世界、極まれり

この世界は、その真逆の体験場、地球という分離の世界、監獄世界、

魂意識が、我さきに、我勝ちに・・分離と分割の極致へと分け入り、

いつか物質的幻影のなかで、その中に入り込んだ当の自分(魂・意識)すら、

忘れてしまう集合体験世界であったといえよう。

 

それが今終わりを迎え、意識である”わたし”たちへと帰還を開始したのだ。

今はもう、知覚する事象、意識するものごと、想いの質が・・急激に変化する過程のただ中にあり、

どこか、古き懐かしき暗雲の下から上へと

嵐のような激動の中を突き抜け、

大いなる目覚めの輝く、意識の上空に戻らんとする途上にある。

 

●天上天下・唯我独尊

言うまでもないことだが、ここで”唯我独尊”とは、

私個人だけ尊い・・等という愚かな解釈ではなく、

唯一尊い我とは・・真我・・あらゆるすべての根源意識のことである。

 

あらゆるすべては・・ひとつの根源の放つ・・意識の諸形態であり、

その幻影、先映えであるマインド・肉体・環境の物語が創出されているのだ。

 

自己自身に内部から気づいている・・わたし・・は、

わたしの気づく範囲の世界・宇宙すべての中で・・・

わたし・・しかいない・・ということだ!

 

 

世界・宇宙とは・・

わたしの知覚する様々な事物・物質・現象のことを言う。

そして、

その世界に気づいている・・者は・・

唯一者である・・わたし・・という事になる。

 

意識である・・わたしとは、

わたしの気づく範囲の世界、果ては宇宙まで含む世界・・

つまり見る・聞く・感じる、考え・想像する、

あらゆる事象・物事に満ちた世界における、

・・唯一者・・であるということだ。

 

これは・・それぞれ・・意識としてのわたし・・が、

ただ在ることの無限性、至高の存在であることを意味しており、

意識レベルによって、おうおうにして付帯しやすいところの、

利己主義も傲慢も全く関係がないことを知る必要があるのだ。

 

天上天下、唯我独尊・・

謙虚に受け取るべき真実ではないだろうか。

 

 

 


2021 新年のご挨拶

2021-01-04 05:12:18 | 意識の科学(総合編)

 

日本人にとって富士山は、常に崇高な存在であり続けてきました。

春夏秋冬、四季折々の姿を自然に身にまとい、いつ見てもしっかりと、そこに不動の存在として在り続けることは、

多くの人にとって、常に美しさと安心と気高さをもたらしてきました。

いつであっても、ただ在ること、その周囲で起きている大自然の変化、調和、美しさ、静かさ、壮大さ・・・あらゆる美辞麗句を寄せ付けない、えも言われない不動の存在の、暖かさと荘厳さを感じないではいられません。

 

 

新年

 明けまして

 おめでとうございます

 

ーーー

昨年は、世界的にも異常なほどの変化が起きていることは、もはや多くの人が気づいてるでしょうが、

実のところ、もう何十年も前から人類の激動の時代は始まっています。

それがようやく誰にとっても、否が応でも、知覚すべき時になったということでしょう。

自分にとって良くなる、悪くなるという期待や危惧の想いにこだわらず、

また世界で起こされるカルマの放出の流れに入り込まず、

繰り返す葛藤や戦いを避け、過大な一喜一憂の刺激を求めず、

ただあらゆことに意識的に注意を払いつつ、

内なる静かなる直感を忘れぬ羅針盤として保持し、

今在る人生を出来るかぎりほがらかに過ごすことが大切でしょう。

 

決してあの富士山のようにはいかないものの、

地球人類の春夏秋冬、大きなサイクルの変化するさまを目撃しているのだということを知っておく必要があるのではないでしょうか。

ーーー

 

いつも記事をご覧いただきまして、誠に有難うございます。