気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

体とこころと魂と(9) 人間とは成長する本質・魂である

2012-11-25 09:46:58 | 覚醒意識

太陽はいつもそこにある。

 

そこにあるがゆえに我々は生きている・・・。

 

まー当たり前だと言われるだろうが、

 

これは科学的な・・という必要もない「事実」である。

 

こころが様々な社会観念というフィルターで曇っていない人間は、いつでも誰でもそれに気づくことが出来る。

 

これも、

 

実に簡単過ぎて、常に取り逃がしているかもしれない根本的な事実である。

 

その事実に向き合うのに、難しい化学式や計算式は必要が無い。

・・・ 

毎朝の晴れた日の輝くような黄金の光を感じるだけでわかるだろうし、

 

思わず知らず、顔の前で両の手を合わせることにもなるかもしれない。

 

光をもらうからありがたい・・というだけでなく、

 

朝の冷気を溶かしてくれるから有難い・・というだけではなく、

 

例えば太陽の、その光と熱を通じ、

 

今、我々が生きてること、それをサポートしている無数の存在があること、

 

その無数のサポート造り上げる宇宙的な周期、リズムの中で、

 

人間達がその毎日の生活によって次第に魂の体験・学びが深まること、

 

同じく進化する魂である、鉱物、植物、動物達が生き生きとして活動していること、

 

天と地、太陽と地球、宇宙と星々の無限のサポート・生かし合い、支え合っている有様に気付けるはずである。

 

そう・・・極めて簡単に言えば全ては「お互いさま」・・・なのであるが、このシンプルさに気付けるだろうか。

 

・・・簡単過ぎるだろうか?

 

それとも、次から次に繰り出される複雑なものの中に真実があると思っているのだろうか。

 

いいや、実はわけがわからないからこそ複雑怪奇になるのだ。 

 

今・・この時に、

 

何かありそうで実は何も無い、あるいは迷い道であそぶような社会観念を投げ捨て、 

 

本来の、人間としての顕れている「魂」としての根本的なあり方のほうに、あなたやわたし達のその意識を据えようか・・・。

 

意識を据えてそして行動に移すことである。

 

それは、 

 

目先の欲や得の獲得にその人生を賭けるのではなく、

 

大勢の無意識の人々の走り抜ける世の濁流に身を投じることなく、

 

これ見よがしの美しげな毎度のプロパガンダにこころを投資することなく、

 

こちらが良いとか、あちらが気持ちいいとかの嘘の呼び込みに耳を貸すことなく、

 

ただあるがままの大自然、宇宙の姿にこそ、我々の依って立つ根本があることを、こころの底から感じる生活を主眼とすることである。

 

そして何事にも意味があるということに、感謝することである。

 

身近な人々に、親や子や縁者や、あるいは近所の人々に、

 

あるいは道行く見知らぬ人々に、

 

あるいは電車に乗り合わせた赤の他人様にも、

 

時を同じくして、時代を同じくして生きているという御縁に、

 

感謝と共感を感じるところまで、

 

あなたの意識を深めようではないか。

 

この人生とは、この世界の魂の進化とは、それが1つの目的でもあるだろうか。

 

生きているということ、人類という仲間達と生きているということ、

 

そしてその意識次元は違えども、

 

あなたのこころの癒しの為に、あなたの食料となって支えている動物の為に・・・、

 

あなたの歩く風景に存在してくれている花や植物、石ころや建造物になっている鉱物達にも、

 

こころから感謝と共感を感じようか。

 

人間は意識的な魂存在として、

 

その意図と意識を想いや実感として放射出来る存在なのであればこそ、

 

感謝と共感と、そして思いやりを、意図しつつ投げかけることが出来るのだ。

 

溢れてきた人類のカルマの所産、銭金、生存、権力、ごまかし、真実隠し、陰謀や・・・24時間その事にことさら思念を集める時は過ぎたのだ。

 

顕れたカルマは、ただ灯篭の川流しのようにただ流れてゆくだけである。

 

・・・

我々はとかく世界、社会、人々の愚かさを嘆き批判するものであるが、

 

そのような人類の愚かさが見えるように、気付けるようになったことに感謝すべきではなかろうか。

 

様々な人生経験は、それぞれのわたし達の無知を英知に変え、無意識に意識の光をもたらし、汚濁をいかに濾過・浄化すべきかの極めて有意味な魂の成長のプロセスなのである。

 

そういう個々人のそれぞれの経験、体験をどうしてか社会通念にあてはめてしまうことで、失意と落胆におちいるケースがあるのだが、

 

どのようなことであっても、全てに意味があるということは<魂レベル>で考察すれば、自ずとその歪みは解けてゆくだろう。

 

魂レベルでは、何が良いとか悪いとかの、この世界の小さな価値基準は決して当てはまるものではない。

 

何事も経験しなければその意味はわかるはずが無く、

 

また多くの人々の苦難や憤り、あるいは成功感、達成感、あるいは悩みや苦悶にも意識を向け、

 

真の同情や共感を通じて自らの経験に転換することが出来るのも、

 

この人類という同胞達のおかげなのだと考えることが出来るだろうか。

 

平和でハッピー・・・なだけの上っ面の与えられた幸福は真の幸福ではなく、

 

まるで泥の中から蓮の花が咲くように、

 

自らをその明確な意識を通じて成長させつつ、

 

汚濁の風雨に耐え、無知の嵐を笑い飛ばし、やがては悲しみを歓びに変換し、

 

自然が促すところの、集合意識の創り上げる様々な変化・変節も、

 

その全てをあなたの足の下にあって、魂の成長と深化を支えてくれるものだと悟ることである。

 

何十億、何百億以上の魂達は・・・それを百も承知でこの表層の世界に飛び込んできたのではなかったか。

 

あなたはもう魂レベルで思い出したであろうか。

 

 

 ・・・

この期に及んで、

 

我欲の造り上げる世間の様々なバラエティさに騙されてはいけない。

 

他者に期待をあずけ、誰かが何かをしてくれると考えてはならない。

 

ある意味では、今の世界のどんな他者もあなたをことさら幸せにしようと真剣に動くものはいないのだ。

  

そうだろう。

 

主人公はそれぞれの<わたし>なのだ。

 

欲を抑え、我を張らず、全てに本来の調和を見いだす意識的な行為、

 

それらを主眼とした日常のありかた、

 

それは欲の少ない、質素でシンプルな生活かもしれないが、

 

別にそれでも普通に生きて行けるのだ。

 

いや・・それは逆に多くの真実を見いだす静けさに満ちた生活になるだろう。

 

今この時期に大切なのは、何でも暴発して終わろうとする観念の流れに巻き込まれずにいなければならないことなのだ。

 

政治権力や社会経済はその最後の胸突き八丁にさしかかったようだが、

 

訳知り顔をした、未だに目覚めぬ者達のかしましい声が響いている。

 

目覚めず、理解できずに持ち越す魂の、謂わば宿題のことを、すなわちカルマという。

 

カルマなど持ち越すな。

 

・・・・

 

宇宙も常にそこにあるし、太陽も常に顔を出してくれるし、尚更地球と言う土台は常に足の下で生命達を支えているではないか。

 

自分達で造ったものでもないにも拘らず、好き勝手に何百何千何万年をかけて培われた森林を伐採し、無軌道に地殻を掘り抜き、無分別に汚染物資を垂れ流し、あまつさえ、生命の遺伝子を壊す性質を持った原子崩壊最中の放射性物質を垂れ流しながら、

 

・・・・今・・誰も・・何もできずにいる・・のである。

 

例えば福島の問題は人為的英知でもって既に解消したのだろうか?

 

終わったのだろうか?

 

・・・

そう、

 

終わってしまったのは偽りの物質文明の方であり、

 

残ったものは、自然のほんのちょっとの操作を覚えただけの者達の、

 

茫然自失した姿だけなのだ。

 

いかに誤魔化そうとしても、いかに言いふらしても、如何に隠し立てしようとも、

 

現実化する事態に茫然自失することは、せめてもの人間らしさと言えるだろう。

 

逆に、そのような姿勢を持った人間がどれほどいるかが今問われている。

 

それは無知の知といっていいだろう。

 

何も知っていないことを知るという人間の真なる知への原点である。

 

宇宙大自然に謙虚でありその調和に沿った生き方をすることでしか、

 

真の知恵は生じないことを、こころの底から<知る>ことである。

 

世界は今大きく変容しているが、

 

事前に推察出来ない人々にとってはまさに驚天動地の変化もあるかもしれない。

 

しかしながら、それがどうしたというのだろうか、

 

それは人間の本質である<魂>の学びの為の、次なる段階へのシフトであると同時に、世界自身の進化・成長のためでもある。

 

忘れてはならないことは、

 

何を感じ、何を想い、何を学ぶのかは・・・

 

肉体やこころではなく <魂> なのだということである。

 

 

 

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体とこころと魂と(8) 魂の進化

2012-11-17 09:34:27 | 覚醒意識

体はご存知のように極めて短い間の乗り物のようなものだ。

 

まるで組織で構成された立体的なスエットスーツのようなものだろうか。

 

そして今の人間は一定の学びが終わる時点で乗り物を降りることになる。

 

それもその多くが顕在意識では理解できない状況で降りてしまうことが多いだろう。

 

車を降りること、これがいわゆる人々がいう死であるが、これは単なる魂の転移にすぎない。

 

世間的な観念では目に見える肉体が動かなくなることで、その存在そのものが終わったと勘違いしているが、

 

それは人間が肉体だと思いこんでいることによる誤解であり、あるいはそれ以上の自己認識に至っていないせいである。

 

単にそういうことであるが、今のこの世界の人々は、眼に見える・耳に聞こえる、あるいは触って感じるような、波動域としては極端に狭い範囲の知覚に「縛られて」いるために、そこまでの知識、理解に至っていないせいでそう感じているわけである。

 

そういう風に感じている人は、車の車体、フロントガラス越しに見える風景、窓から聞こえる騒音ばかりに意識が集中しているドライバー・運転手のようなものでもある。

 

車の外の世界のみを見ていて、その大勢の車の流れの中で上手く運転することだけに集中させられているようなものである。

 

運転手が何時からその車(体)に乗ったのか、そのドライバーたる自分は何なのか、とんと忘れており、またその車の中から覗く、いわゆる世界の方にしか意識が行っていないということでもある。

 

それに明け暮れしていると、車(肉体)のほうがその存在感を持ってしまい、それを動かし改装し、燃料を仕入れ、あちらこちらに動き回る元である・・・「あなた」というドライバー(運転者)に気付かない有様となってしまうことにもなる。

 

当然運転手が無ければ車など動くはずもないのだが、それすらも気づかないようなものである。

 

運転手が車(体)を降りるのがいわゆる死であり、運転手が赤子として車(体)に乗ってくるのが生誕である。

 

簡単な比喩で言っているのだが、これは宇宙全体の極めて完全な仕組みで行われているところの、魂の学習システムの一環と言うことが出来る。

 

学習と言ってもそれは魂の経験とそのフィードバックを行うためのものであり、現世の詰め込み学習やら、意味の少ない複雑なだけの人為世界の仕組みの取り込みや論理・計算・記憶学習等とは全く無縁のものである。

 

肉体を使ったこの次元世界の体験と、こころによる吟味、反省、感慨を含めた総合的な宇宙の仕組みへの理解を促すものである。

 

そうすることで、肉体とこころの出現元である魂の拡大・深化を進める仕組みなのだと言えるだろう。

 

魂はその理解の拡大と深化によってその振動数を上げる・・・と言う表現でいうところの進化をするわけである。

 

意識~(意図)想念~エネルギー~現象化(肉体)  という顕現維持のプロセスを理解していれば、振動数の上昇とは、元に在る「魂意識」の振動数・周波数が高くなるという意味でもあり、あるいは意識の表現がより精妙になるということでもある。

 

これは光がより周波数を上げてその輝きが増しよりクリアーになってゆくという意味でもある。

 

振動数が上がることにより、その情報量は増え、微細精緻な認識と理解が可能になるのは、例えば電磁波通信などの情報工学的な方面からも理解が可能ではないだろうか。

 

即ち「創造主」の個別化された魂・意識が、自己の理解を深めつつ同時に宇宙全体の自己への深化と言うか、進化と言うか、あるいは大いなる無限の<わたし>への帰還の旅と言うか、そういう自己認識の拡大プロセスが本来の「魂の進化」と言うべきものである。

 

それぞれの自己を造った宇宙への理解を増してゆくということは、

 

まさに宇宙各所の無数の一点から目ざめたそれぞれの魂が、

 

拡大・伸長・深化しつつ、

 

宇宙という自らを再確認するようなものだ。

 

今我々が人間として・・今ここ・・・に在るということは、その道にあるということでもある。

 ・・・・

また宇宙の仕組みと言っても、機械論的なメカニズムのことではなく、どうして宇宙が、あるいはあなたやわたし達が存在しているのかというような謎を多次元的に解き明かすことでもあり、

 

それはまた、最初は戦々恐々かもしれず、あるいはドキドキするような、本来は実にワクワクする様な魂の学習プロセスといえるのである。

 

それが本来の科学的・哲学的アプローチでもあるだろう。

・・・・

 

ところが今までの世界は物資肉体中心の、まさにエゴ(我よし・我さき)のレベルの世界であったわけで、

 

つまり先の比喩で言えば、ドライバー(運転手)自体が何者か知らず、単に肉体(車)の維持と安寧だけに血道をあげ、

 

その挙句がお互い同士の衝突やら事故やらによって、宇宙の用意したせっかくの肉体(車)を無碍に降りる羽目になって、また繰り返しを行わなければならないことも多かったというわけである。

 

それはすなわち、魂意識という、言わばドライバー(運転者)が自らを見失っているような状態であったとも言えるだろうし、取りあえず目先にある肉体(車体)を維持せねばならないという観念のみが先走り、自己保身に明け暮れしたわけである。

・・・ 

車(肉体)は地球と言う次元世界の資質で造られ、親という器のコピーによって自然の中で用意され、その中に転移するという形で乗り込むわけなのだが、

 

魂意識の経験の1つである「今生限りの自我」の成長する間に、肉体・・それを自分の物だという偽感覚が備わってくるわけであるし、そして成長する過程で自己所有の物を断じて死守せねばならないという世間的な風潮によって煽られるのだ。

 

その為肉体保身のために自己の周りに様々な物資を集め、安楽な建物を造り、様々な組織を組み上げては最も安心できそうな地位にありつこうとするわけである。

  

そういう者が世の中で偉いのだという妙な観念があるがゆえに、まさに常に世は末に向かっているような天地逆さまの状態になるのも仕方がないだろうか。

 

今のあぶり出された歪みによって混乱を呈している政治経済、社会情勢を俯瞰すればそれを良く観ることができるはずだ。

・・・・

しかしながら、そんな競争・バトルばかりを行うことは、逆に身を縮め疲れ果て、本来の魂の為の肉体経験学習の多くを取り逃がすことにもなるのであるが、

 

・・・これがなかなか気付かないものである。

 

これはこの世界の人類独特の「波動の低さ」にも関係している。

 

波動が低いとは、認識レベルの粗さ、知識の偏り、人類観念の「狭さ」を意味している。

 

そうであるからこそ、何度も何度も上に戻り、また下に降りてくるような無意識的転生を繰り返すことになり、その無意識レベルから意識が目覚めるまでのこの世界での長い輪廻転生を要することになるのだ。

 

またそれも得難い魂の経験であるわけだが、そのようにして何百、何千億と言う魂達がその遍歴を経て、その間で膨大な経験と想念とプールしつつ居眠り続けたある時点で<大いなる援助>を通じて、どうしようもなく目覚めることになるようである。

今はちょうどそのステップUP、切り替わりの時代なのである。

 

またそれと同期をするようにこの地球もその役割を自認し、次なるステージへの自己変革を行うことが出来るのだ。

 

ある一定の割合の人類がある一定のレベルの魂の学習を超えたならば、それが起きると言われるのはまさにそういうことである。

 

あなたが単なる偶然の物質肉体でないように、そのあなたやわたし達の意識の表現形・魂達を受け入れている巨大な「意識体」であるこの愛すべき地球も、また古き舞台を卒業するのである。

 

意識体である人間が多次元的な層を包含しつつ転生しながら、魂の成長・深化、進化すると同時に、それをバックアップしている惑星意識も多次元層を包含しつつその1つの次元層を卒業するプロセスにある。

 

とはいえ、我々人間が今行わなければならないことは何かと言うならば、

 

外の世界の騒ぎや改革の戦、一か八かのやけくその勝負に参加することではなく、

 

・・・・ただ、今ある・・それぞれの<わたし>を観つめることである。

 

世界の様々な洗脳観念や誘導思考を与得る限りの<静謐さ>をもって鎮静化させ、

 

こころの中にあるそれらのうごめきや歪んだ心的エネルギーを観察し、

 

ほんらいそこには空(くう)という無限があることを理解することであろう。

 

空(くう)とは何も無いのではなく、全てを生じる「可能性」であることを理解することである。

 

あなたが自己を物質であると思っていればそれが出来ず、あなたがコロコロ変化するこころであると感じていればそれは出来ない相談であろう。

 

逆に、それらを生じさせるところの本源は、

 

肉体あるいはこころ、それを生みだしたところの・・・・魂・・それ・・であり、

 

また魂の本源は大いなる法則・・・あるいは愛と言える根本原理であり、また魂はそれから発した無数の<観察光>あるいは拡大深化する<根源波動>であると言えるだろうか。

 

謙虚にそれぞれの<わたし>を理解する方向に歩くことが今第一に大切なことである。

 

それは即ち、

・・・

無意識に流されずに、未知なるものへの好奇心が旺盛であり、

 

 

他者を悪く思わず、まず自己に謙虚であり、

 

 

外を批判攻撃せず、かえって自省的であり、

 

 

人に対しては出来るだけ優しく接し、

 

 

自己の言葉を主張する前に人の話を聞き、

 

 

知恵を持ちながら決してひけらかさず、

 

 

生活はつつましくあって、それで良しとする生き方でもあろう。

 

 ・・・

 

それは決して本来難しくはなく、また生きにくいことでもない。

  

 

それは今までもかつてこの日本にもあったことだし、当たり前のことなのだ。

 

 

ただ単にあなたやわたし達の中にあった、長い時代で巣くった嘘やエゴ的な観念をあぶり出し、洗い流すだけのことである。

 

 ・・・

なるほど・・難しいのは自己浄化・・・自分を省みる、観るということだけかもしれない。

 

そのためでもある・・・今・・日常にある生・・・、

 

ここが肝心なところである。

 

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体とこころと魂と (7)魂とは

2012-11-11 04:32:05 | インポート

魂という概念は既に古くからあるものだ。

 

誰に教えられるまでもなく、学校で習うカリキュラムからでもなく、いつかどこかで知っているものである。

 

誰もそうだと思うのだが、あなたはどうだろうか。

 

・・・・言葉は多分知っていることだろう。

 

ところで魂とは何か真剣に考えたことはあるだろうか。

 

幽霊だとか霊だとかの概念は面白怖ろしげに聞いたことがあるのかもしれない。

 

何か眼に見えない存在形態があるのだろうかと考えたかもしれない。

 

いや、考えてもわかるまいと・・・無視したかもしれないし、そんなことよりも現実生活の対応の方に忙しくしているのかもしれない。

 

また、現実生活への対応が実のところは面倒で、それが結構疲れるものであっても、

 

なぜか現実といわれる大勢の共通認識への追従のほうが、どこか安住出来ると考えている人も多いだろう。

 

・・・実はそれも無意識なのでわからないかもしれない。

 

肝心なところに向き合うよりも、大勢の他者の価値観のほうが何か大切だと感じていることもあるだろう。

 

生きるためと称して無意識に他者の価値観に染まっているということだ。

 

それをある面で言えば被支配という。

 

・・・

 

今・・生きてある・・・・・なぜなのか?

 

なぜその自分というものを探求せずに、他人ばかりを追いかけ回すのだろうか。

 

どこかの責任者、あなたの伴侶、あなたの親、国の指導者、外国のどこかの統領、あるいはどこかの宇宙の神々を・・・想念で追いかけ回すことは、

 

あるいは、

 

自分の満たされないこの世の欲求を、

 

どこかに別のところに投射している行為であると考えることはないのだろうか。

 

他の存在がどうであるか、どうあるべきか、どう考えるべきかと問いかける前に、

 

あなたは一体何なのか、

 

そしてどうあるべきか、

 

どう考えるべきかを・・・自らに問いかける必要があるのではないか?

 

・・・・

 

あなたは・・・いったい・・何なのか?・・・知ってるのだろうか?

 

生きているとは・・・一体どういうことなのか?・・・知っているのだろうか?

 

今・・在る・・・ことは、・・・どういうことなのか?

 

わたしとは・・・何であるか?

 

質問だらけのはずなのに、いつの間にか・・批判だらけになっていることに気がつくだろうか?

 

・・・

 

そうあるべきだ、こうあるべきだ・・・

 

こうでなくてはいけないのに実に世界は反対だ・・・

 

あいつは絶対間違っている・・・

 

金持ちは邪悪だ、・・・

 

民衆は馬鹿だ・・・いやいたいけな者たちだ・・・、

 

かの国の大統領は光の使者だ?・・・(笑)

 

かの国の首相はどこかの国の意志で動いている・・、

 

本当にあの人は自己中だ、

 

ところで・・あの人はわたしに理解がある・・・、

 

・・・・

 

いやいや、そういうことではなく・・・

 

その問いかけをしている当の・・・あなたは何なのか?

 

自己への真摯な問いかけをしているものが、あなたの<魂>である。

 

宇宙は根源なる・・神なる者の問いかけで顕れている。

 

それは実にあなたの問いかけと同じなのだ。

 

問いかけて得られる答えは・・・・

 

その都度その都度・・・完全無欠に・・・あなた次第なのだ!

 

他に答えを求めて・・・いつも期待はずれは当たり前のことであろう。

 

答えは・・・常に自分で創造するものである。

 

宇宙とは・・・・

 

根源である、いわゆる・・神なる、あるいは創造主である・・・、

 

それぞれの<あなた>という・・・言葉で言えば・・・「魂」(たましい)なのである。

 

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体とこころと魂と (6)愛すべき人類

2012-11-04 10:37:06 | 覚醒意識

我々は何を大切にしているかといえば多分「体」かもしれない。

 

多くの人はその「体」を維持するために色々なことをやっている。

 

取りあえず、まずはそういうことであろう。

 

殊更必要以上にお金を稼ごうとするのは、そういうことから来るのだろうし、

着飾ってことさら見た眼を良くするような努力もそういうことから来るのだろうし、

契約を使って合法的に他人の物を奪おうとする行為もそういうことから来ているだろう。

  

そう、例えばどこかの国のように、

よそまで出張って人殺しをするのもそういうことから来ているだろう。

人を支配する地位に登ろうとするのもそういうことから来ているだろう。

世界的な組織を造っては富の簒奪をしているのはそこから来ているだろう。

 

また、今のこの世界は、そういうわけのわからぬ者達が何故か物知り顔をしつつ、結局は自らもわけのわからぬことを行っているような、まるで乱痴き祭りの騒ぎを呈してきているようだ。

 

それを観ている者達も、あいつが良いとか悪いとか、こいつはまだましだとか駄目だとか、そういう者達を評価し上げたり下げたりを繰り返しているお囃子(はやし)のようでもある。

 

しかしながらその騒ぎのベースにあるのがやはり「恐怖」であることに気づいているだろうか。

 

政治屋が何をしでかすやら、特権官僚が何を隠しているやら、おバカな体制を固持する国々が何をしでかすやら、・・そんな恐怖があるからこそのお囃子なのだろう。

・・・・

 

そのような世界がまるで呆けた者達の巣窟のように感じている者ならば、もう気づいても良い頃ではないだろうか。

 

この世界は既に飽和し、ようやくその古い学びを終える時が来ているということを・・・。

 

ある意味で、分離された他者を他者と観ている自分に気づき、他者が顕している思考や行為を他者のものとせず、

 

それを観ている当の自分の中にあるものだと知ることである。

 

外に映るものは全て内にあるが故のことであると知るならば、

 

騒ぎに浮かれた世界の有り方、様々な矛盾、これでもかという理不尽な行為も、どこか自分の中にあるものが浮き出してきたのだということに気付けるだろう。

 

過ぎたる所有欲、過ぎたる生存欲、過ぎたる性欲、過ぎたる物欲・・・それらが世界中にぶくぶく泡立ちながら現われて来ているのではなかろうか。

 

巷でネットやメディアで報道されているものは、その多くがお金の話や破れかぶれのような情報であり、さも世の中がどんどん悪化しているようなものばかりではないのか。

 

そう・・・古い時代は確かにもう終わっている。

 

・・・・

 

しかしながら、

 

これらを見つつ嘆き悲しむことはない。

 

歪みは必ず解放されなければならないからだし、また解放されるが故の数々の異変にことさら恐れ慄くような愚を演じてはならない。

 

様々な不都合や矛盾が噴出してしていると見えるならば、それは人類の内面にある様々な歪みがようやくそのエネルギーを解放しつつあると知っているだろう。

 

それらを自己の中にもあったものとして、

 

それをしっかりと観ることである。

 

それらの汚れはこころの底から浮き出しながら昇華されなくてはならないのだ。

 

今は肝心要の峠に来ているのである。

 

それらの噴出する観念にまた囚われるならば、騒ぐ行為を通じて濁流に流されることになるかもしれない。

 

ゆめゆめ外を流れる歪んだ観念に捉われてはならないのだ。

 

捉われてそれをまた内面に取り込むならば、またその歪みを抱え込むことになるし、またそれをいつか解放しなければならない。

 

見ている、観ている、・・ということは、外に投影された内面からの影絵を観察していることに他ならないのだ。

 

人類が無意識ながらも極めて愚かなことを演じているのならば、それはあなたやわたし達にそれを見せるためのものであり、

 

そういう意味でまさに我々は学びの為に集まった同胞なのだと感じるはずである。

 

実に愚かな者達の集まりと思える我が人類は、まさにたとえようも無く雄々しい発展途上の魂達、まさに同胞(はらから)なのだとわかるだろう。

・・・ 

 

それを受け入れている、この次元の地球という魂の学び舎にこころから感謝しようか。

 

日本という国のみならず、地域社会の人々のみならず、ましてやあなたの大切な親・兄弟そして子供達のみならず、

 

全てのこの地、この学び舎に降下してきた意識達が、

 

たとえ苦しくとも、楽しくとも、悲しくとも、

 

たとえ誰の理解を得られずとも・・・

 

夢を持ち、愛を探しあぐね、

 

そして全ての根本にあるそれぞれの<わたし>に気付けるまで黙って見守ってきた・・・

 

その魂達の為の学び舎に感謝しよう。

・・・ 

 

この世界での学びは極めて峻烈で極めて愚かではあるものの、それを敢えて行って来た魂達が実にいとおしく感じられないだろうか。

 

転生を通じ、短い人生を何度も何度も浮いては沈み、叫んでは嘆き、悲しみに震え、

 

歓びにこころを輝かせることが出来るこの世界は、

 

実に有難い学び舎なのである。

・・・

そして、

 

その古き世界は、今大きく変わろうとしている。

 

魂である<あなた>はそれに恐怖など感じないはずである、

 

今はもう潔(いさぎよ)く、そして感謝を持って見守っているはずだ。

 

  

02008xchi  

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