●迷信とは、迷った信念・思い込み
人類の歴史においては、実に古くから生まれ変わりの概念があるが、
近代、現代にいたって物質的な分野の科学的分析や法則化が進み、
転生・魂とか、そういうものは迷信だという強い風潮が席巻してきた。
仏教的教えや古くからの言い伝え等がある優れた文化でも、
そういう思想も、いつか現代科学の進展に準じて消滅してきたとも言えよう。
宗教はカルトに堕し、哲学は既に陳腐化してしまった。
●末法の世では、確かに、こころが否定される
いわゆる末法の世とは、仏教が廃れる世の中という事ではなく、
人間の霊性や精神性なるものが、全て物質的なものに置き換えられてしまう世、
ある意味で、ぐちゃぐちゃした、こころ模様を消去するかのような世界、
実にわかりやすく単純ながら、
味気なく、刹那的で、無味乾燥的な状況になってゆくことを意味している。
●こころのゴミを消し去る働き
この末法の世とは、大変な悪がはびこる末の世の中と考えるものだが、
そういう善悪の価値判断だけの話ではなく、
一種の「マインド浄化」、こころのゴミの断捨離に必須なプロセスでもあって、
実のところは・・これは必ず通過すべきものであるため、
古くからあるような予言等が可能なのである。
●崩壊と再生は予言されたこと
旧約・新約聖書、イスラム、仏教経典にある末期の時代を語る記録は、
このタイプの集合意識世界が、どのように進化・変化してゆくかという、
一種の科学的法則からの帰結としての記録であると言えよう。
●カルマの解消・昇華
ぐちゃぐちゃした感情的因縁の絡みあった集合意識内の精神的なゴミ、
幾世代間で絡み合った因果応報の反応の繰り返しの膨大な蓄積物、
あるいは枝葉の繁茂しきった状況からは必然的に腐敗が生じることになり、
当然ながら、あるいは必然的に自壊と崩壊に至ることは火を見るより明らかなのである。
この地球の生体系では、魂の進化に沿って出てきた副産物としての
腐った有機物あるいは調和から逸脱したシステムが飽和した段階では、
当たり前のように、短い時間スパンでの分解と崩壊が必然なのだ。
やや大きくは、
地球という大きな意識生命体におけるカルマの解消時であるとも言えよう。
カルマとは・・無知無明、因縁と悪感情という想念の塊のことであり、
その個々の魂・意識の波動や、それを受け入れ同期している地球という意識波動の、
そのかたまりを解きほぐすことが、アセンションとも言われるものである。
誰もが避けて通れない、カルマの解消と昇華への苦しい過程は、
エゴの作った閉鎖意識からの魂・意識の開放をもたらすことになるのだ。
●今はもう、もうは既に・・
こころすべきは、今がその末法の世、または黙示録の時代、
あるいは予言が成就される時代という事である。
アセンションという概念で言えば、ある人は2020年の冬至までが、
そのゲートの開いている時期である・・とも言っているが、
誰がそんな勝手なこと?・・等とは言っていられまい。
また、なにもおどろおどろしく宗教がかる必要もない。
身構えて、肉体・自己保身に走っても・・まったく意味も効果も無い。
生きるとか死ぬとか、怖いだとか、サバイバルだとか、
そういう我欲の想念形だけでは全く役に立つまい。
●他者の事ではなく、それぞれのわたしのこと
ある意味で、わたしたちの・・意識で・・知覚している世界、
大きなシステム全体の転生の時なのである。
なので、それぞれの人生のこと、生きる死ぬ、のみならず、
その・・わたしとは何か?
自らが何者なのかという、本質的なテーマに取り組まなければならない時期であろう。
大きなお世話だろうか。
----
●今ここに多次元層あり
人類の営々と積み上げてしまった歪んだ記憶(想念の束)は、
生活のために必須だった家庭ごみのように、
地球の見えない波動域(層)に捨てられている。
実際は、どこかに捨てるつもりが、自らの時空内に波動となって記憶されているわけだ。
それは何も地球の物理的上空、あるいは静止軌道上の人口衛星のゴミばかりではないし、
各個人の肉体、DNA、頭脳等の局所だけに、個別に記憶されているわけでもない。
●原初の波動はすべての相(層)のベースにある
意識は原初の超微細な波動であるとすれば、
個々人の意識も、集合意識も、惑星意識も、宇宙意識も・・
その原初の波動帯(神・存在)にあるわけであり、
つまるところ、あなたの意識も・・原初・根源意識の中に含まれているわけである。
●人はみな原初の意識を体現している
空(くう)と称される・・空間・・そこらじゅう、あちらにもこちらにも様々なことが記憶されている。
なぜなら、最先端のまともな科学者が知っているように、
空(くう)はすべての波動母体だからだ。
想念も同じことで、人は誰も皆、熟睡中以外、夢の微睡であっても、
意識ある限り何かを考えているはずだ。
精神的なゴミの束は、人々の想いや発言、行為に如実に現れるものであり、
身近なことを含め、昨今の世界情勢をも観察している人ならば、
いまが相当に”来ている”状況だとわかるだろう。
あなたの知覚する身近な環境や社会の出来事の中に、
そして遠くの世界にも、今の時期は特に、そこから逃げにくい事象としても
その精神的なゴミ(カルマ)が噴出していることに気付けることだろう。
●想念は頭脳の中にあるわけではない
精神的なゴミはあるいは低次の想念波は、
電磁波が地球の大気を飛び回っていると同じように、
その時空内を伝搬振動していると考えなければなるまい。
その伝搬波動に同調するのが・・あなたの人体・頭脳・細胞ということだが、
これは妥当と考えられるだろうか?
頭脳が思いを作っていると考えるのは、
神経細胞の電気的信号を観察出来ることからきており、
それに間違いないものの、思考と同時に発生するその副次的に起きる電気信号は、
想念波動層からの受信結果であると考えられるだろう。
頭脳細胞の観察される電気信号は、情報受信の二次的結果として起きることである。
ある想いが、連想(同調)として瞬時に無数に想起されるのだ。
考えること・想念・・そのことである。
つまり、誰かが何かのきっかけでふと、「想う事」は、
その時空内の無数の定在波のうちの、ある想念波に同調していることを示している。
●スマホのでの例え
例えて言えば、スマホで、ぱっぱサラサラと何かを検索するのと似たようなものだ。
スマホは電磁波動帯の波動情報の感受だが、想念の場合も同じようなもの。
あなたの”意識する方向の何か”を 検索するようなものだ。
これは、アラジンの魔法のランプを使っているようなものだが、
ある人は、自分がお金持ちにならない限り、こういう奇跡のパワーに気付くまい。
定在化した意識に、同調して起きてくるのが「想い」であり、
想いが言葉や行為となるならば、
その想いや意識する方向性に・・注意すべきなのは、
まったくもって火を見るより明らかである。
●意識レベルを上げるとは
意識レベルを上げ、より俯瞰した意識的視座から自らを眺めることが重要である。
その意識の在り方を・・ありのままに観る行為、
つまり・・「観自在」を実践することをしない場合、
言い換えれば、
自らの・・意識の働きを観ない場合には、
想いの連関、連環、即座の想念出現の意味にも気づかないし、
その想念に翻弄されて、苦悩多き幻想の中を彷徨う事にもなろう。
あなたもそうだったかもしれないことに気付いているだろうか。
あなたが何かに”意識的に注意を向ける”時、
即座に”意識上”に現れる何かの”想い”は、
同調した波動域からダウンロードした情報であるとも言えるのである。
それを人々は・・考える・・としているのである。
もしそれがすでに経験済み、つまらないと分かっていることならば、
なぜことさら、繰り返しダウンロードするのか?
それが愚かな行為であるというのは、はっきり理解できることだろう。
それぞれのわたしたちは、何を意識するのか?
また、観自在であること、
自らの意識の在り方を、在りのままに観る意識的行為を通じて、
その様々な想いの上に自らを引き上げることが、
今の時期、いや今までも含め、
何を置いても大事なことではないのだろうか?
これでどうなるのか、
それで何が得られるのか?・・・そんな損得のレベルの話ではない。
人類の歴史においては、実に古くから生まれ変わりの概念があるが、
近代、現代にいたって物質的な分野の科学的分析や法則化が進み、
転生・魂とか、そういうものは迷信だという強い風潮が席巻してきた。
仏教的教えや古くからの言い伝え等がある優れた文化でも、
そういう思想も、いつか現代科学の進展に準じて消滅してきたとも言えよう。
宗教はカルトに堕し、哲学は既に陳腐化してしまった。
●末法の世では、確かに、こころが否定される
いわゆる末法の世とは、仏教が廃れる世の中という事ではなく、
人間の霊性や精神性なるものが、全て物質的なものに置き換えられてしまう世、
ある意味で、ぐちゃぐちゃした、こころ模様を消去するかのような世界、
実にわかりやすく単純ながら、
味気なく、刹那的で、無味乾燥的な状況になってゆくことを意味している。
●こころのゴミを消し去る働き
この末法の世とは、大変な悪がはびこる末の世の中と考えるものだが、
そういう善悪の価値判断だけの話ではなく、
一種の「マインド浄化」、こころのゴミの断捨離に必須なプロセスでもあって、
実のところは・・これは必ず通過すべきものであるため、
古くからあるような予言等が可能なのである。
●崩壊と再生は予言されたこと
旧約・新約聖書、イスラム、仏教経典にある末期の時代を語る記録は、
このタイプの集合意識世界が、どのように進化・変化してゆくかという、
一種の科学的法則からの帰結としての記録であると言えよう。
●カルマの解消・昇華
ぐちゃぐちゃした感情的因縁の絡みあった集合意識内の精神的なゴミ、
幾世代間で絡み合った因果応報の反応の繰り返しの膨大な蓄積物、
あるいは枝葉の繁茂しきった状況からは必然的に腐敗が生じることになり、
当然ながら、あるいは必然的に自壊と崩壊に至ることは火を見るより明らかなのである。
この地球の生体系では、魂の進化に沿って出てきた副産物としての
腐った有機物あるいは調和から逸脱したシステムが飽和した段階では、
当たり前のように、短い時間スパンでの分解と崩壊が必然なのだ。
やや大きくは、
地球という大きな意識生命体におけるカルマの解消時であるとも言えよう。
カルマとは・・無知無明、因縁と悪感情という想念の塊のことであり、
その個々の魂・意識の波動や、それを受け入れ同期している地球という意識波動の、
そのかたまりを解きほぐすことが、アセンションとも言われるものである。
誰もが避けて通れない、カルマの解消と昇華への苦しい過程は、
エゴの作った閉鎖意識からの魂・意識の開放をもたらすことになるのだ。
●今はもう、もうは既に・・
こころすべきは、今がその末法の世、または黙示録の時代、
あるいは予言が成就される時代という事である。
アセンションという概念で言えば、ある人は2020年の冬至までが、
そのゲートの開いている時期である・・とも言っているが、
誰がそんな勝手なこと?・・等とは言っていられまい。
また、なにもおどろおどろしく宗教がかる必要もない。
身構えて、肉体・自己保身に走っても・・まったく意味も効果も無い。
生きるとか死ぬとか、怖いだとか、サバイバルだとか、
そういう我欲の想念形だけでは全く役に立つまい。
●他者の事ではなく、それぞれのわたしのこと
ある意味で、わたしたちの・・意識で・・知覚している世界、
大きなシステム全体の転生の時なのである。
なので、それぞれの人生のこと、生きる死ぬ、のみならず、
その・・わたしとは何か?
自らが何者なのかという、本質的なテーマに取り組まなければならない時期であろう。
大きなお世話だろうか。
----
●今ここに多次元層あり
人類の営々と積み上げてしまった歪んだ記憶(想念の束)は、
生活のために必須だった家庭ごみのように、
地球の見えない波動域(層)に捨てられている。
実際は、どこかに捨てるつもりが、自らの時空内に波動となって記憶されているわけだ。
それは何も地球の物理的上空、あるいは静止軌道上の人口衛星のゴミばかりではないし、
各個人の肉体、DNA、頭脳等の局所だけに、個別に記憶されているわけでもない。
●原初の波動はすべての相(層)のベースにある
意識は原初の超微細な波動であるとすれば、
個々人の意識も、集合意識も、惑星意識も、宇宙意識も・・
その原初の波動帯(神・存在)にあるわけであり、
つまるところ、あなたの意識も・・原初・根源意識の中に含まれているわけである。
●人はみな原初の意識を体現している
空(くう)と称される・・空間・・そこらじゅう、あちらにもこちらにも様々なことが記憶されている。
なぜなら、最先端のまともな科学者が知っているように、
空(くう)はすべての波動母体だからだ。
想念も同じことで、人は誰も皆、熟睡中以外、夢の微睡であっても、
意識ある限り何かを考えているはずだ。
精神的なゴミの束は、人々の想いや発言、行為に如実に現れるものであり、
身近なことを含め、昨今の世界情勢をも観察している人ならば、
いまが相当に”来ている”状況だとわかるだろう。
あなたの知覚する身近な環境や社会の出来事の中に、
そして遠くの世界にも、今の時期は特に、そこから逃げにくい事象としても
その精神的なゴミ(カルマ)が噴出していることに気付けることだろう。
●想念は頭脳の中にあるわけではない
精神的なゴミはあるいは低次の想念波は、
電磁波が地球の大気を飛び回っていると同じように、
その時空内を伝搬振動していると考えなければなるまい。
その伝搬波動に同調するのが・・あなたの人体・頭脳・細胞ということだが、
これは妥当と考えられるだろうか?
頭脳が思いを作っていると考えるのは、
神経細胞の電気的信号を観察出来ることからきており、
それに間違いないものの、思考と同時に発生するその副次的に起きる電気信号は、
想念波動層からの受信結果であると考えられるだろう。
頭脳細胞の観察される電気信号は、情報受信の二次的結果として起きることである。
ある想いが、連想(同調)として瞬時に無数に想起されるのだ。
考えること・想念・・そのことである。
つまり、誰かが何かのきっかけでふと、「想う事」は、
その時空内の無数の定在波のうちの、ある想念波に同調していることを示している。
●スマホのでの例え
例えて言えば、スマホで、ぱっぱサラサラと何かを検索するのと似たようなものだ。
スマホは電磁波動帯の波動情報の感受だが、想念の場合も同じようなもの。
あなたの”意識する方向の何か”を 検索するようなものだ。
これは、アラジンの魔法のランプを使っているようなものだが、
ある人は、自分がお金持ちにならない限り、こういう奇跡のパワーに気付くまい。
定在化した意識に、同調して起きてくるのが「想い」であり、
想いが言葉や行為となるならば、
その想いや意識する方向性に・・注意すべきなのは、
まったくもって火を見るより明らかである。
●意識レベルを上げるとは
意識レベルを上げ、より俯瞰した意識的視座から自らを眺めることが重要である。
その意識の在り方を・・ありのままに観る行為、
つまり・・「観自在」を実践することをしない場合、
言い換えれば、
自らの・・意識の働きを観ない場合には、
想いの連関、連環、即座の想念出現の意味にも気づかないし、
その想念に翻弄されて、苦悩多き幻想の中を彷徨う事にもなろう。
あなたもそうだったかもしれないことに気付いているだろうか。
あなたが何かに”意識的に注意を向ける”時、
即座に”意識上”に現れる何かの”想い”は、
同調した波動域からダウンロードした情報であるとも言えるのである。
それを人々は・・考える・・としているのである。
もしそれがすでに経験済み、つまらないと分かっていることならば、
なぜことさら、繰り返しダウンロードするのか?
それが愚かな行為であるというのは、はっきり理解できることだろう。
それぞれのわたしたちは、何を意識するのか?
また、観自在であること、
自らの意識の在り方を、在りのままに観る意識的行為を通じて、
その様々な想いの上に自らを引き上げることが、
今の時期、いや今までも含め、
何を置いても大事なことではないのだろうか?
これでどうなるのか、
それで何が得られるのか?・・・そんな損得のレベルの話ではない。