気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

時間とは・・・実在しない影法師

2013-11-27 18:07:17 | 意識の拡大

 

 

現象を観察するという意識的行為があれば、人には「時間」という感覚が生ずる。  

 

 

また、その時間とは、実際は物事、事象、運動の「変化」、テンポの違いなのである。  

 

 

時間とは、色々な物事の変化の相対的な違いのことなのだ。  

 

 

だからどうした、ややこしいな・・と感じるけれども、  

 

 

どういうことかと言えば、時間とは、現象の変化の早い・遅いの相対的な違いだという事である。  

 

 

外の世界を観るときの事象の変化の相対的な違いから、そこに「時間間隔」と「時間感覚」が生まれるということだ。  

 

 

あの人は足が速い、この子は足が遅い、あの彗星は動きが速い、地球の回転速度は1日1回だ・・等ということで、  

 

 

このように、時間とは、観察される現象の、相対的な変化の違いを云っているのである。  

 

 

事象、現象は様々な変化で成り立っているし、また変化がなければその事象、現象そのものが観察されないという事だ。  

 

 

また、全てが変化そのもの

 

 

諸行無常、

 

 

常なるものはどこにも無いということである。  

 

これは1つの悟りである。  

 

・・・

 

 

ところで、  

 

あなたである「観察者」は・・現象の変化・・・それを観て、時間の感覚が生じるのだが、  

 

ところが、<あなた>という観察者自体には・・・時間が存在しない!

 

 

Photo

 

要するに、時間は観察「対象」であって、観察「主体」ではないということである。 

 

観察されるものには、相対的に・・・時間があるように見えるが、 

 

観察者・・・には・・時間そのものが無い・・・・、  お分かりだろうか。

 

 

 

 

意識を有する者、観察者である「意識」主体・・・には時間というものは当てはまらないのである。 

 

 

聖者、覚者が言うように、  

 

あなたという存在には、<今>という、瞬間というか・・それしかないということなのである。 

 

<今>だけが・・・・全ての存在ステージなのである。

 

 

それぞれの・・わたし・・・には・・・いつも今しかない。 

 

・・・・  

 

しかしながら、多くの人々は、人にも、人類にも、国にも歴史があると思っている。 

 

過去があり、そして未来があると思っているだろう。 

 

いつの間にか、不変の「過去」があり、そしてやがて来る「未来」がある・・・そういう風に信じているかもしれない。  

 

 

例えば、あなたは子供の頃があって、学生になり、場合によって受験競争を経て、  

 

社会に出て、結婚し、家族を持ち、苦楽の人生を歩んできた人もいて、  

 

あるいはそれぞれ色々と、そうではない人もいる。 

 

 

いずれにしても、  

 

そういう「過去」が確実にあるではないか、そういう風に思っているはずである。  

 

多分、そうだろう。 

 

 

それでも、尚、<過去>そのものは「無い」のだ。  

 

まさかね。・・・ しかし・・・、

 

確かに、今あるのは、あの時はこうだった、この時は楽しかった、何年前は大変だった、

 

・・・という「記憶」である。  

 

 

 

過去は思い出に満ちていることは理解されるところであろう。・・・それに違わない。 

 

しかしながら、その「記憶」自体も、ほんのその時の断片的な視覚イメージや、それに伴う喜怒哀楽の感情の再生なのである。  

 

Thca53pxmz

 

  

例えば、あなたの小学校時代を今思い出してみようか。 

 

お友達、行事、運動会、遠足、嫌な奴、好きな子・・・様々なものが頭に浮かぶはずである。 

 

なるほどそう、「記憶」があるからこそ、人生の履歴が <今>思い出せる のである。  

 

だが記憶そのものは・・<過去>ではない! 

 

それは言わば主観的な、・・今・・再生する・・情報でしかないのだ。 

 

 

そう、過去の記憶を思い出すのは・・・常に<今>であり、 

 

記憶となる人生の諸経験や感情、思考の働きも、常に<今>この・・瞬・・間・・・なのである。 

 

 

 

人生のその時その時、幼児の時、青年のとき、大人になって次第に年取って来たその時々も、  

 

常にあったのは・・・<今>・・この・・瞬・・間・・・であったのだ。 

 

そして今もそうである。   

 

 

 

それを知っているのはあなたの常在の「意識」である。 

 

 

 

 

 

だが顕在意識、表面意識は気付いていなかった。 

 

 

 

 

 

事実そこに在るのは・・常に・・永遠の今の瞬間・・・なのである。  

 

 

 

そしてまた、今の瞬間には「全て」があるとも言えるのである。

 

 

 

普遍的意識の個別化された魂は、時々「忘れたり、思い出したり」 しているのだ。 

 

つまり、それぞれが、死んだり生まれたり しているということでもある。

・・・・

 

 

今までの3次元世界と言われるフィールドでは、 

 

この惑星次元世界独特の、様々な低レベルの常識観念に染まってしまい、 

 

自分のそれ、永遠の今ある無限の記憶を、全く全て忘れっぱなしで人生を終える場合が多いということだ。

  

無意識のうちに、人生すなわち・・生と死を通過するわけである。

 

 

生と死という主要テーマから目をそらし、 

 

 

 

人々がそれを・・忌避し、無視してやり過ごそうと、現実世界の中で、 

 

 

 

どうでも良さそうな観念を次から次に作り上げては、 

 

 

 

怖れに怖れ、・・・群れに群れ、・・・騒ぎに騒いでいるのは、 

 

 

 

その事実を知ろうとしていない、勇気と探究心の欠如なのである。

 

 

 

 

 

この人生で気付くべきは、それではなかったろうか。

 

 

 

  

 

 

 

本質のあなたとは何か? 

 

 

 

 

 

 

 

他人様のことが、どうしたこうしたではないのではなかったか。  

 

 

 

 

 

 

 

一体全体、何を思いわずらい、何を怖れ、何を守り、何を得ようとしているのか?

 

 

 

 

永遠の今の瞬間・・・それを意識しているもの・・<わたし>は、 

 

 

 

 

 

現象である・・時間というものを超越していることが分るならば、  

 

 

 

 

 

実際、変化はあれども、途切れる意識生命などなく、  

 

 

 

 

 

あると観えるのは、その投影物、対象物、現象、あるいは肉体、精神の変化である。 

 

 

 

 

 

そしてそれを観ているところの、永遠不滅の意識である、それぞれの<わたし>に気付けるだろう。  

 

 

 

 

 

普段のありきたりの生活は、それを思い出すための繰り返しステージのようなものである。  

 

 

 

永遠の今、それを観ているところの、魂・意識には過去や未来という時間はないのである。 

 

 

 

 

 

そう・・・、本質の意識・・魂は・・・普遍であり永遠である。

 

 

 

Astronomypicture2010apoybristlecone





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


波動とオクターブ(2)

2013-11-24 10:08:51 | 地球の一大変容

また・・・

 

さらに、人間の想念も波動である。

あなたの頭に浮かべるイメージ、記憶の再現、想像や思考は、

 

気付けば、まるでTV画像のように明確に意識<内面>に描かれるものであり、それが直接物質的でないというだけのことであって、まさしく「波動」ということに気付かなければならない。

 

また、それも、現象、物質形態の現れ方の鋳型、原因となる上位の、あるいは高次元の波動ということなのである。

 

それぞれの意識が、いわゆる精妙で緻密な振動帯域に同調可能となれば、普通に誰でも可視光が見えるがごとく、そういう精神波動も感知することが出来るのだ。

 

だから、 「わかる人にはわかるものだ・・・」 というような表現があるように、

 

意識の波動・振動レベルが高い者には、それが情報としてキャッチ、知覚されるということになる。

 

これが以心伝心、こころをもって・・こころが伝わること、直覚認識、簡単に言えばテレパシー等と言われているものである。

 

あなたやわたしのこころの全ては、要するに、意識波動に敏感な存在にとっては、まさに筒抜けであるということだ。

 

3次元的な認識、物理的現象結果だけに「意識」を集中している限りは、相変わらず潜在下のままであるわけだが、

 

想念が波動、意識の発露、表現形であると認識することが出来るならば、潜在意識でキャッチされるものが表層意識にも浮かび上がるということである。

 

全てが暴かれ、バレバレになり、明らかになるという世界の潮流は、そういう流れを意味しているわけで、

 

多分お分かりだろうが、これが次に出現しつつある、本来のユニティ・・和の世界ということである。 

・・・・・・

 

従って、それに反して何かを秘密にしようとか、隠して保護しようとか、そういう方向は全くの見当違いというか、脱輪というか、転落というか、そういう動きなのだ。

  

今そういう愚かしい動きが、政治や支配層の間で慌てて出てきていることが見えるはずである。

 

それは世界的な陰謀や、資本家の策謀や、支配と隷属の国家関係という低いレベルのうごめきだけの話ではなく、

 

もっと本質的な2極化の現象に伴うものだ。

 

全てが一体という、より拡大されて精妙な意識周波数ともいえる方向と、 

 

個我、エゴで固まろうとする、粗く、理解の不明な意識周波数の方向、 

 

その進化のベクトルとも言うべき2つの道が・・・明確になりつつあるということなのである。 

 

しかしながら、それは決して良いとか、悪いとかで語られるべきものではないことも事実である。

 

魂の経験と学習の周回数の違いのようなものであり、 

 

また魂の経験の為の次元上昇と次元降下の違いのようなものである。 

 

ところで、今この世界は次元上昇の時にあるのだが、なかなか我が強く、頑迷な存在もいるものである。

 

・・・

 

最も顕著にその嫌々な姿勢、駄々をこねるような現象が現れているのは、

政治や権力の世界、多くの人の欲望がが大なり小なり向かっている・・そういう場所であろう。

 

どこの国体であろうと、どういう組織であろうと、所詮は人の組織、人の想いの集会場であり、さらには税というお金の集まるところ、あるいは紙幣を発行できる権威に近いところであれば、

 

それが色濃く出てくるのだ。 そうではないか。

 

それにこの国も、どの国も、大なり小なりではあるが、よく見えない場所、自らを省みえないところに、

 

いわゆるエゴイズムが隠れ、潜み・・・指示を出している場合があるのだ。

  

自分のこころの中、あるいは日本の、世界の諸状況を見ればわかるはずである。 

 

そこは、普通に習った教科書の理想形の世界ではないのである。

 

全く何も正当性のない、エゴ、欲の権化とも言えるものが姿を現しているともいえようか。 

 

何かありそうで何もない、美しそうで実は醜悪な実態組織、平和そうでいて結局はそのためにお金を要求する仕組み、 

 

・・・そういう表面(おもてずら)の裏にあるのは・・・自らで刈り取る気のないカルマのゴミの山、

 

金満や官能をことさらあおり、見映えする地位や権威を、鞭や餌にしつつ、騙しを続けようとして焦っている者たちが実にはっきりと見えてきたではないか。 

 

かつてないこの時代の特殊性がもう見えるだろう。

 

難しそうな理屈や理論を前面に出し、無知で人の良い一般民衆にそれを意味もなく解読させている時間を使い、またぞろエゴと欲の隠れ家を作っているということなのである。

 

これは社会、組織、国家、あらゆるところに、今はもう崩壊すべきその心的パターンがあるのである。 

 

それが見え見え、バレバレになってきてしまったのである。

 

それでもなお、隠し通し、嘘を貫き、騙しに終止するならば・・・、

 

まさしく、その隠れた姿通りに、闇に葬りさられるのが定めというものである。 

 

引き返す時間、与えられたステージの踊りの引け時は、今はもう極めて少なくなった。 

 

なるほど、欲望の中枢に巣食うそういう想念形は、それが希望であるからには、 

 

行くところまで行って、そして今回の終わりである。 

 

そして嫌々ながらも、残った宿題ならぬカルマをいつかどこかで果たすのだ。

  

この世でいかに人をだまして自己利益を計り、それをいかに誤魔化そうとも、

 

それぞれの本質、魂レベルでは、それが重要反省点になるわけなのだ。

 

いわゆるこの世で帳尻を合わさない限り、その負債は持ちこしになるだけの話である。

 

ハリウッド映画のような、何でもかんでも最後には爆発してすべて・・はい終わり、リセットということにはならないのである。

 

演劇での役は終わっても、役者さん自体は続くようなものである。

 

役者や演劇と言えば、今までの権力周辺の舞台劇は2足3文にもならないようなものであり、

 

そろそろ幕を引いた方が良い事にも気づいていないのだろうか。

 

 

しかしながら、今はまだ全てがすぐにグレンとひっくり還る時ではないようである。

 

舞台が転回して、新たな舞台が出現するには、

 

それ相応の演技者の登場を済まさなければならないわけだ。 

 

 

それはまた・・・出来るだけ・・・多くの人々の中にある歪、存在宇宙と調和しないこころの波動が、清まるまでの猶予時間でもあることだろう。

 

嗚呼、それを、あくまでも自分とは違う外の世界のうごめきだと「想って」いるならば、 

 

それは見当違いと言うほかはない。  

 

<今>は・・・次元というオクターブの変換上昇時点である・・・・ 

 

といってもなかなかピンと来ないかもしれないだろうが、

 

実際・・・解る人にだけ分るような・・・魂達の、そういう特殊な時点に差し掛かっているのである。

 

 

 Thcau7eaql


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


波動とオクターブ(1) 

2013-11-23 10:58:36 | 地球の一大変容

あらゆる全ては波動である・・と言える。 

 

我々の住まう諸世界を理解するには、あらゆるものが波動であると認識することで、様々なことの理解が容易となるだろう。 

 

実際、全ては波動形態である。 形を持つものは波動によって形成されているのである。 

 

波動には振動数、周波数というものがあり、その周波数によって現れる現象、形態が異なって見えるのだ。

 

Adde4604

 

・・・・

原子核の周りの電子は、その軌道をジャンプするときに、エネルギーの吸収と放出をする。 

 

原子レベルにおいては、そのエネルギーが ΔE=h(定数)×振動数 とされているのは、振動数だけがエネルギーの値に変換されるということである。 

 

つまり原子レベルでは、エネルギー振動数によって決まる・・・・ということ。

 

またエネルギー自体は見えず、そのエネルギー波動が電子の動きをも促すということだ。 

 

全ては波動・エネルギーの授受によって成りたっているとも言える。 

 

そう・・・・、一見固そうに見える、あらゆる粒子は仮の名前にすぎないのである。 

 

・・・

 

なるほど、これらの話は古典量子論的な認識ともいえようが、とはいえ古典と言えども、量子物理論は宇宙・自然を波動として理解する切り口を提供した貴重な認識進化といえるものだ。 

 

様々な半導体、コンピュータや電子部品、レーザー、赤外線、紫外線などを発生する素子なども、この量子論的認識から生まれているのである。 

 

パソコンや携帯電話、様々な電子機器の内部では(電気・磁気)エネルギーの放出と吸収が高速で行われており、電気・磁気の波動も周囲に放出、吸収されている。  

 

目の前にあるパソコンも、全ては言わば・・・波動形態の重合されたマクロ的姿に他ならないのである。 

 

・・・・・

運動、現象、変化は全て波動に帰せられる。

 

天体の周回運動は円や楕円を描いていることは周知の事実であるが、円や楕円もサインカーブあるいはそれに近似されるウエーブ・波形で説明される。 

 

ちなみに、数学のフーリエ解析は、どのような波形も、四角いものも三角なものも、全て周波数と振幅の異なる無数のサインカーブ、あるいは円運動波形で組み合わせられるという解析方法である。 

 

海の干満、満ち引きも寄せては反す波である。波を構成する水の分子は円運動をしていることが知られている。

 

雲と地上の間でスパークする落雷も電気の波動である。

 

Thca91yeyr

 

ミクロでは、電子が運動やスピン(回転場)を持てば磁場が発生し、電磁波動となって雲と地上の間でその電磁エネルギーの授受が行われるわけだ。 

 

落雷で感電するのは電磁気エネルギーが人体に流れるからで、流れるという事はエネルギーを吸収するという意味である。 

 

また鳥の羽ばたきも振動、波動形態である。 

 

Photo


あるいは、魚が水の中を自在に動けるのは、ひれの動きや、体全体のひねり、波動的動きによって行われている。 

 

鉱物の結晶構造も振動分子、原子、クオークによって構成されている。  

 

すなわち鉱物も振動するエネルギーの塊ともいえるものだ。 

 

Thcaz6a6ta

 

水晶などは電気に対して親和性があり、電気振動を吸収したり放出したりしている。 

 

 

吸収、放出という波動的コミュニケーションは、そこにも意識があるということでもある。

 

 

動物、鉱物、植物、あらゆるものに「意識がある」ということである。 

 

 

また、動物の呼吸動動作自体も、吸っては吐いての繰り返し波動である。 

 

食物取り込みと、循環、排出もサイクルとして存在する機能である。 

 

原子自体、電子自体、クオーク自体が・・・粒子形状を姿形に投影しているところの・・・エネルギー波動である。 

 

波動の局所的な偏在が、1カ所にある粒子としての姿を描くのだ。

 

粒子、粒子というけれど、<粒子自体>それ自体は・・・どこにも存在しないわけである。

 

 

 

存在するのはエネルギーと、その局在あるいは伝搬、あるいは遍在する振動・波動である。 

 

また、毎日使っている身体の五感、視聴覚味覚等は、一部の波動に同調する機能なのである。 

 

ふと普通に眺め、こころを空しくして・・普通に周囲全ての方向を感じるならば、 

 

自然界全体が、様々な波動の壮大な組み合わせである・・・と理解することが出来るはずである。

 

Ohkawa

 

しかし・・・実に・・・なんと素晴らしいオーケストラだろうか、 

 

オーケストラといっても、音波や視覚だけの話ではなく、微細に壮大に表現されているところの、 

 

無限の宇宙空間という演奏ホール、その中の存在全体による壮大無比でダイナミックなオーケストラなのである。 

 

あなたはもうすでにその奇跡的な有様、有難さ、美しさに気付いているだろう。

 

それとも、わが身の棄損を怖れて、こわいこわいと宇宙・大自然を観ているのだろうか?  

 

あるいは自我・エゴの主張するわがままから来る苦悩に?、毎日毎日時間を忙殺され、安楽なだけの都会の中の小さな折(おり)の中で、その意識を眠らせているのだろうか。

 

いやいや、そんなどころの話ではないのだ。 

 

 

Thcatw6n88

 

我々は地球という愛深き「意識体」、そしてその顕現である生態系とも言われる『生命連鎖』の真っただ中に、生かされているのである。 

  

またそういう宇宙にある、数多の次元、惑星、遊星の生命圏で遊びつつ、学びをしつつ、次第に根源神へと帰還する「魂」の道を進んでいるのだ。 

 

それをまたイメージするならば、根源、中心から無数に、そして無限遠点まで放たれ、周回し、再び根源、中心に帰還する磁場の力線のトーラス構造のようでもある。  


中心から光(魂・意識)が生まれ放たれ、無限遠点までその意識を伸ばしつつ、そして無限遠点から再び中心へと帰一する壮大なサイクルも、まるで人の吸う息、吐く息のようではないか。 

 

実に神は、創造主は、あるいは根源は、超多産な?祖(おや)神様であるという表現も良いかもしれない。 

・・・

 

全ては波動として捉えることで、そうした多次元性、周波数のオクターブに伴う世界が存在するという直観的理解が可能となるだろう。 

 

我々の魂は、ちょうど、<今>・・・ある次元周波数帯域に、同調しているということだ。 

 

そこから見える宇宙も無限として観察されるものであるが、それはその次元から見えた部分、あるいは1つの切り口というか、ある断面からの観察に過ぎないとも言えるだろう。 

 

だっだっぴろい空間の中に、さまざまなものが運動している、人はその中の微小断片でしかないという、形、大きさ、物量という現象のほうからの自己認識であったということである。

 

今までは、いわゆる、よく言われるところの3次元的な観察から来る人類的な自己認識であったという事である。 

 

嗚呼、確かに・・そうだ、 

 

そういう切り口で観れば、人間とはまさにちっぽけで微細な生き物、まるで猿の進化した生物というまでのこともない、とるに足らない生命でしかないわけである。 

 

大きいものが良くて、小さいものが価値がないのか? 

 

物量やサイズがデカければ優れているのか? 

  

大小、高低、幅や物量の大きさによって価値を決めるような皮相の観念は、 

 

蟻さんにはすまないが、それはそれは・・・小さな蟻の「思考」に過ぎないのである。

 

・・・・ 

 

がしかし、こころ表層とはちがい、誰も皆、意識内奥では、そうとは感じてはいまい。 

 

その内面に抑えられている真実には、すでに気付いているはずなのだ。

 

 

 

そう、全ての基本は、それぞれの

 

・・・・わたし・・・

 

 I am・・・という「意識」なのだ。 

 

 

それを人類共通の発生音で、言語の枝葉を介さずシンプルに表現すれば、 

 

アーオーmmm・・、AUM・・、 ムー・・・、日本語の最終音 「ん・・・」ということになるだろうか。

 

アルファでありオメガ、最初でかつ最後の・・波音である。 

 

これは何も宗教の話でもなく、誰でも発しているところの根源的波動音(おん)のことである。 

 

あなたは、・・・空(くう)に生じた・・・原初の波動を・・・・、 

 

・・・感じられるだろうか。

 

Thca30qjx6


 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


カルマの解消時期

2013-11-17 11:11:24 | 意識の拡大

カルマとはある意味で「因縁」とも、「因果応報」とも言われている。

 

あるいは身から出た錆(さび)などとも言われているかもしれない。

 

それは、仏教的な教えからくるもので、どこかネガティブなものとも感じられているだろうか。

 

いずれにしても、その言葉の語源や定義をどうのこうのという必要はなく、要するに人間の想いと行いに伴う原因と結果のことである。

 

人の人としての表現や行為は、その元に「想い」「想念」というものがあることは気付けるだろう。

 

それを全般に「こころ」と言っているのだが、その「こころ」の描くビジョンに起因する結果、現象を評価する意識的な仕組みのことをカルマと言って良い。

 

カルマとは、想いと感情と、それに伴う行為という信念形態表現から出てくる因果の法則の事である。

 

それは物理的なものではないところの、意識的「法則」とも言っていいだろう。

 

 

カルマ、それは魂の表現とその進化上の法則のことを言うのである。

 

どういう想いと、どういう信念表現形、すなわち言葉と行為が、 

 

どういう結果をもたらすのかという、 

 

魂にとっては絶対的に完全理解、咀嚼すべき意識上の法則なのである。

 

それは宇宙の創造の仕組みについての学びの1過程、

 

あるいは気づくべき魂の為のある段階のカリキュラムのようなものだ。

 

 

 

この意識の法則、霊的な法則というべきものに気付かずに、

 

自らの想いの発露と、行為と、そこから生起する感情を無軌道に生じさせ続けている間は、

 

どういう原因でどういう結果が起きてくるのかという整合性が発見されず、

 

初期の間は、なにがなんだかわからないような混乱人生を続けてしまうことにもなる。

 

Thca41drgq


 

政治がどうした、生活がどうだ、他国人が良いとか悪いとか、革命だ改革だとか好きだ嫌いだ・・・等、

 

外の世界を加工することやその動きばかりに目を奪われ、

 

その経験をしている当の「自己」とは何か、

 

そのすべてを見聞きし感じ、考えるところの・・・「わた」・・・・という原点、

 

魂の本来の目的たる自己発見、自己想起、あるいは目覚めを忘れている間に、

 

生起する諸現象の海の満ち引き、生と死を、無自覚・無意識のうちに通過するプロセスが輪廻・転生であるといえるだろう。

 

 

ある時代、ある地域に、<われ>という「意識」が生じ、無垢の状態から成長しつつ「自我」が生まれ、

 

その自我が<肉体である自己>という・・「肉体自我」のレベルまでしか行きつけず、

 

そうして何もほとんど霊的真実を知らない間に世界の荒波にのまれ、巻かれ、

 

その時代や地域の平均的な意識、社会常識なるものに「足」ならぬ「こころ」を取られ、

 

生まれてそして死んでゆく、

 

それをこの世界で、他生に渡って、何度でも人生を経験することを「輪廻転生」といっている。

 

誰も皆、また、ちょうどそうして、今そこにいるのである。

 

 

気づいていないかもしれないけれど、あなたもまた、今ここにいる限りは、そういう輪廻の輪の中で生まれ変わってきたということだ。

 

それとも、偶然にこの世界で意識が芽生え、いつか偶然に死んで、

 

そして消えてなくなる肉体自我であると本気で信じ込んでいるのだろうか。

 

いいや、余計なお世話だが、今のあなたは多分そうではないはずである。

 

 

 

あなたやわたし達という「意識存在」は、実に、自らの「想い」の質に応じた世界に、

 

自らの意識を押し出すのだ。

 

想いの質、すなわちその時の意識の発する波動に従って、

 

それに相応しい経験をすることでその本質を存在全体で理解し、

 

その反応と結果を知ることが出来るような世界や、境遇に生まれることになるのである。

 

かようにして、魂は・・・魂の切磋琢磨できる環境に赴くというわけである。

 

 

 

また、そういう生命・魂の経験する舞台、世界は、当然ながら地球のこの次元だけではなく、いわゆる宇宙に数多にあるのである。

 

イエスが残した言葉 「天には父の用意した住まいがたくさんある・・」 とはそういう意味であろう。

 

聖書で云う人の子という表現は、数多ある天の存在諸世界の魂達、あるいは意識存在のことをいう。

 

Thca1u0tcr

 

そういう意味では、昨今宇宙人がどうしたとか、いるとかいないとか、悪や善のエイリアンがどうだとか、

 

そういうスピ系の噂話にも、火のないところに煙は立たないということわざ通りの真実が垣間見えるのである。

 

意識体、知的生命体は宇宙にあまねく存在することの証左が今世界に顕在化しているわけである。

 

人類の意識が拡大されつつある今、例えばあの黒船の来訪の時と同じようにして、

 

自らの表現、経験する世界が広がり、その舞台に生きている幾多の宇宙的な生命への気付き、情報が増大してきたということである。

 

未だ善悪や恐ろしいとかやさしいとか、あるいは利益不利益で考えているならば、こういう宇宙的な事象さえも、オドロオドロしいおとぎ話にしか見えないかもしれない。

 

・・・・ 

 

因果応報、

 

作用と反作用、これは何かを押すとちょうどその程度だけ押し返されている・・・事実をいうわけで、中学生の時にでも習うものであるが、これは非常に意味深な法則とも言えるわけであり、

 

何も物理的な事だけに留まらず、あらゆる全ての現象に当てはまるものなのだ。

 

目に見える現象結果自体に、作用と反作用の法則が適用されるのみならず、目に見えないものから見えるものへも作用とその反作用が適用されているのである。

 

 

人は「想念」という創造のツールを操作できる存在であり、当然ながら、

 

創造のシナリオに参加出来る重要要素である「想念」に気付いていなければならない。 

 

 

何度も言えるように、意識体の集合せる社会は、

 

簡単に言えば・・・「想念」で創られているということ。

 

マクロ的、ミクロ的においても、意識⇒(想念)⇒エネルギー⇒現象  が展開している。

 

 

例えばミクロとも思えるあなたの「人生」には、

 

あなたの「想い」が現れているのであって、他の誰のものでもないのである。 

 

例えば他者に洗脳されたとか、促されたとか、強制されたとか、

 

しょうがないとか、どうしようもないとか、

 

そういう風に「見える」場合もあるものだが、そこにも・・・

 

それに甘んじる、嫌々ながらも許諾する、漠然と無意識に信じ込むというような、

 

「意識的」鋳型を・・・自らで創っていることに気付かねばならない。

 

実に信じがたい事かもしれないのだが、

 

その人の想念の鋳型、信念こそが・・・・その人の周囲に出現していることには変わりがないのである。

 

多分だが・・・・、

 

そんなことはあるものか、世界は不可抗力に満ちており、それにうまく従わなければ生きてはいけない、社会はそんな個人の想いだけで創られるような甘いものではない・・・・とそういう風に「想って」いるのかもしれない。

 

ここで、・・・想っている・・・・とは、単に希望するとか、思うとか、ちょっと考えたこと・・ということではなく、 

 

それが真実だという固定した信念・観念のことである。

 

 

なかなか気づけないところが、固定した観念というものである。 

 

そういう観念で出来上がっている世界、それを「信念体系」世界という。

 

 

この世界もその1つの信念体系ともいえるだろう。

 

 

無限の多次元宇宙において、別に唯一ということでもないのだ。

 

 

信念体系世界と言えば、

 

ヘミシンク等で探索された結果では、地球の周囲次元にも、あるいは幽界等と言われているフィールドにはこういう信念体系世界が取り巻いているとされている。

 

 

それらは1種のパラレルワールドとも言って良いかもしれないが、例えば昔から言う安楽なだけの天国やエゴのぶつかり合う地獄のような信念体系世界もあるということだ。

(もっとも、地球周囲の意識周波数帯域は、今は既に様子を異にしているようである。)

 

 

地上次元の人々は夢や明晰夢のような内的経験において、そういう多次元世界を垣間見ている場合もある。 

 

要は、全ての諸世界は魂の経験あるいは意識的経験の学習場であり、現世のように物理的な傾向が大であるか、小であるかの相違でしかない。 

 

それはいわゆる、より自由自在な霊的世界か、重く粗い物質的世界かの程度の違いなのである。 

 

とはいえ世界は、偶然に寄り集まった物質微粒子の世界というわけではなく、それを表現、顕現させるところの想念によって作られるものであり、そういう意味では数多の世界も「想念形」で構成されているといえるのだ。

 

あなたがどの世界に波長を合わせるのか、引き寄せるのか、あるいは引き付けられるのか、

 

その波長は・・・想いの集約、例えば価値観、宗教観、対人感覚、自己認識レベルによっているのだ。

 

宇宙とは、それが多次元宇宙とも言われるように、無数の意識の発露、想念の創り上げる世界で構成されている。

 

その根源にあるのが、言葉の表現もなかなかであるが、所謂ところの「神の想い」、創造主の意図、全ての全てに浸透している普遍的な「意識」なのだと言えるだろう。

 

誰も皆感じるように、まことに苦労の多いこの世界、

 

 

特にこの地球という惑星生命圏は、無知から英知への飛躍をまざまざと促すための、

 

ある意味では過酷とも思われる魂の学習場なのであり、その中のカリキュラムであったところのカルマとは、

 

創造の杖であるところの想念の使い方、その昇華の為の、恩寵の仕組みとも言えるだろう。

 

・・・・・

 

想いによってカルマの輪が生じ、そのカルマの輪の回転によって、ある意味での摩擦とも思える感情の軋轢を通じた切磋琢磨、言わば霊的頑張りをせざるを得ないことになる、

 

いつか逆に、カルマのその回転による意識進化のエネルギーをわがものとし、

 

間違うことのない魂の教訓を<身に着ける>ことが出来るのであり、

 

そうして存在達はやがて、地を這う物質的な生き物という観念カテゴリーから自らが抜け出して、

 

勇躍、次元の大空を舞うオオタカのような境地に至ることが出来るのだ。

 

 

カゴメ紋のなかの鳥は、今その次元の籠から飛び出すことが出来るのである。

  

気付ける魂達にとっては、本当に「お疲れさん」ということなのである。

 

・・・・・

そのためは、まず自らが自らであるところを創造するところの、

 

想念、想い、信念という杖の使い方を会得しなければならないのである。

 

 

毎日何を考え、何を感じ、何を信じているのか? 

 

 

Thcalnj1uz


 

 

そうして、いにしえの教師、釈迦やキリスト、その他大勢の天界からの教師が残してきた言葉のごとく、

 

自己自身を観ること、省みることが重要であり、またそこから発するその想いを見詰めつつ、出来うる限りの和の波動、調和に満ちた想いと・言葉と・表現に努めることである。

 

 

本当によくよく吟味しなければならないのは、世間の有象無象ではなく、

 

その人自身、その・・今生きて在る・・・そういう当たり前の・・奇跡的事実なのである。

 

自己の自己たる事実を観照し、その意識的無限性に気付けるか、

 

あるいは他者の創り上げた相変わらずの3次元的、幻想的事象の中で這いずり回るか、

 

2つに1つの道が今世界に、御膳立てされて、顕れてきているのだと言えようか。

 

今の時代の特殊なところは、人類意識全体への重要な問いかけの時期、1つの大きな霊的成長サイクルの節目に来ているということなのである。

 

嗚呼、これも気づける魂にだけ気付けることでもあろうか。

・・・・・

 

あなたの想いを、創造の杖であるところの想念を、

 

いにしえの教師達が、天から降り下って、何度も何度も示したごとく、

 

出来るだけこころを広げ、愛という遍満する意識の質に調和させることであろう。

 

愛などは、軟弱で観念的で性的観念であると勘違いしている文化もあるだろうが、

 

 

嗚呼、朋よ、

 

肉体は一時の仮の宿にほかならず、

 

なおさら、物・銭・金、地位や名誉等をいったいどこへ持っていけるというのだろうか。

 

 

理解、慈愛、調和をベースにした想念は、宇宙で最強の意識の発露であり、

 

そうであるからこそ、今ここに世界・宇宙が展開し続けているのだ。

 

 

Full_tif_cluster_of_galaxies_11

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 


分岐点に至れり

2013-11-08 09:39:33 | 意識の拡大

 

今世界は、そしてこの国も、どこもかしこも、急激なカーブに差し掛かってきたようである。 

 

 

こここからはじきに、色々な現象、大きな加速度または歪が具体的に生じてくるだろう。

 

 

人為的、そしてそれを包んでいる大自然の動きに注視すべき時でもあろう。  

 

 

これからは、眠っていてはどうしようもない、そういう分岐点に来たようである。 

 

 

良くも悪くも、すでに大枠では、事は成れり・・・。 

 

 

しかし決して不都合なものに巻き込まれる必要もない。  

 

 

そこにいてもそこに束縛されることもない、そこに生きていても機械の歯車にはならない、本来の自由を表現するそんな生き方の時である。  

 

 

それは、悟りというほどのものでもない。  

 

 

自己が自己として、自己を理解しているあり方である。  

 

 

個人我、肉我、嘘我の自己ではなく、  

 

 

本質として、「魂」としての自己に・・・・気付いている、在り方である。 

 

・・・ 

 

そう、この地の人は自らで考え、自らで感じ、自らで歩く時が来たのである。 

 

外の世界にいる人々は、決してそれぞれの「あなた」のために何かをやってくれるわけではない。 

 

くれる、くれない・・・ではなく、与えることが出来るか、出来ないか・・という事のほうがテーマとなる時代ということであろう。

 

 ・・・・

 

例えば、政治家、為政者はこうあるべきだ、そうあるべきだ・・とされており、そうあるはずだ・・・と思い込んでいるだろうが、残念ながら決してそういうことではない。 

 

期待は他に対する重荷となり、また彼らは決してそれを担ぐことはないのである。

 

 

自らが何者かという霊的自覚、永遠なる魂としての自覚を有するまでに至ること、未だかなわぬ者たちは、 

 

 

自覚無き自己、嘘我、肉我を維持することに血道をあげ、金で得られた知識を嘘我に注ぎ込むばかりなのである。  

 

その為のもっともらしき学問であり、生活維持のためだけのスキルであり、競争という暗黙の反目ゲームにおける他者からの簒奪である。 

 

 

それはどこか英知ではなく、狡知であろう。 

 

 

その違いが分からなくなったからには、行く先はきまったも同然である。  

 

 

今のメディアに顔を出す多くの者たちを見よ。  

 

 

そのすべてとは言わず、多くのパフォーマーたちは、ただただ自己の想いを主張し、自我の目的を訴えるばかりで、だれ1人の幸せも考慮に入れてはいない。  

 

 

 

 

 

当然だが、例えばあなたの幸福など、他のだれが考えている?・・・実に明らかではないか。 

 

 

どこかの大統領が光の使者だとか、何処かの大臣が戦後のニューリーダーだとか、未だに目をウルウルして待っているような人も多いだろうし、 

  

金銭亡者となった古き大国が、そのうち民主化して生まれ変わるだろうとか、ほのかな期待を抱いている人もいるかもしれない。 

 

彼らの役目は、あなたの肉体や生活を安楽にするためにいるのではなく、  

 

あなたを認めて抱き上げて、ほめてくれるためにいるのではなく、  

 

何もせずに待っていれば、より良い世界に導いてくれるのではなく、  

 

それぞれの魂が、自分で考え自分で感じ、その方向での意識の探索、良心のうずきを感じ取り、  

 

自我に固まることなく、偽我に閉じこもることなく、肉我に安住することなく、  

 

さらに高き自己を見出すための、「エゴ・自我へ苦痛を与えるため」の役目として現れてきているのだ。

 

 

今の世界的、国家的、経済的な寡占的なスローガンや、今までにない急いだ政策などは、ある意味で高度で複雑な大衆「いじめ」、あるいは何かの「恐怖に身構える」姿勢でもあろうか。 

 

それは複雑か単純化の違いだけしかない、まるで幼稚園のお遊びのようなものではないのか。

 

 

そういう裏腹パフォーマンス得意な者たちの役目は、 その深層にあるものは、 

 

彼らは、どこか無意識にありながら、不都合な流れ、不安な方向、危険な政策を敢えて行うことで、 

 

多くの人々の魂を、その安住していた物質我、肉我、エゴから追い出すためのものであろうか。 

  

もうそろそろ我々より上に行け・・・と言っているのだ。 

 

他者に、物に、金に、地位に、女に、男に、・・・そういう結果ばかりの現象に依存せず、・・・本道を歩け、霊的に向上せよといっているのだ。 

 

 

現実的には迷惑この上もない、霊的には、実にありがたい反面教師なのである。

 

・・・ 

 

今のまま、外の世界に期待をしているだけでは、どんどん悪くなりますよ、・・どんどん締め詰めつけますよ・・・ 

 

勝手に良くなると期待していましたか? 

 

それに、どんどん金もなくなりますよ・・・、まだこういう世界が良いですか? 

 

思わず知らずも・・・・そう言っているのである。 

 

それがいわゆる闇のお役目なのだ。 

 

 

今の政治経済を中心とした社会、国家、世界の流れもそういうことである。

 

期待すればするほど、その逆手に返され、不正が増大し、生活が悪くなり、嘘がはびこり、

 

 

解決不能の問題が増え、嘘の解答を何度でも出してくる・・・そんなフエーズになっていることに既に気づいているはずである。 

 

 

 

公的、私的、マイナー、メジャーなメディアや情報の世界を見れば、それがわかろうというものである。

 

いや、逆にわからないからこそ、そういうものが、さも当たり前の常識という仮面をつけて、観念の藪からでる虫のような想念形を流しているのである。

・・・・

 

ああ、朋よ、 

 

 

既に古き時代は終わりを告げたのだ。  

 

古き想念形の時代への、これ以上の追っかけや追従は、意識レベルでの未昇華を示すことになり、その流れに無意識にはまり込んでしまうことで、大きな変容の時流を外れることにもなるのである。 

 

他者が輝いていないことに文句をつけ、批判をし、無理やりこころの着せ替えをしてあげることは無用である。  

 

あなたは、あなた自身を輝かさなければならないはずである。 

 

・・・・ 

他者でなく・・・自己を観ることである。 

 

自己の内面を観ることである。 

 

常識観念で無い・・・・素(もと)からある「意識」を思い出すのである。 

 

良心や勇気は今でも、そこに永遠に健在であろう。 

 

思考や感情という青写真、直観という創造の眼、 

 

自己創造の原理を知ってはいないのか。 

 

 

外を見て、他者の無知に接触し、 

 

こころをぐらつかせ、気落ちして、ブルーに沈むことの・・・どんな意味があろうか。 

 

いいやありはしない。

 

 

 

自己を自己として、自己から光を発するのである。

 

より楽しく、より自由で、より面白き想念を、自己の中から発するのである。

 

外部参照は参照だけにすべきである。 他者に想いを・・依ってはならない。

 

 

それぞれの「わたし」は・・・それぞれが宇宙の中心なのだ。

  

それが毎日毎瞬の・・・・・現実なのである。

 

 

そこには、有難う、ありがとうしか言いようがない現実がある。 

 

あなたは、つねに「あなた」でしか・・・ないではないか。 

 

皆それぞれ、 

 

自己という存在の基盤、「わたし」という意識が全てを感じ、知覚し、経験しているのである。 

 

いまはもう、頭の浮ついた知識の一瞥の寄せ集めではなく、 

 

人々や世界の動きをチェスのようにして無責任に追いまわすことではなく、 

 

・・・・ 

世界の、社会の、存在宇宙の・・・すべての中心である・・・・あなた・・即ち・・わたし、 

 

それぞれの「わたし」が唯一の不動点、絶対基盤であると知るべきである。  

 

そして、  

 

唯一とは、

 

 

・・・ただひとつ・・・

 

全てがひとつであるということを・・・実感するところまで勇気をだそうか。  

 

また、  

 

わたしとは、個人我、肉我、生存だけが目的の有機物、個別別箇のパーソナリティなどでは毛頭なく、 

 

それぞれの「わたし」、すなわち全てをひとつ・・・と識(し)っている「わたし」である。

 

 

そして、気づく気づかないにかかわらず、 

 

あなたもまさに、それ・・・である。

 

 

Photo

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。