気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

幼年期の終わりに

2009-06-28 12:35:23 | 宇宙的気付き

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 多くの人々は幼児期に幼稚園や保育園などに通った経験もあるでしょう。そこには様々な遊び場あります。ジャングルジム、砂場、積み木、絵本などでよく遊んだのではないでしょうか。もっとも遊びといえども、そのときには皆真剣に遊んだものです。

 三角・四角・丸などの形をした積み木で仲良く遊んでいるお友達がいると思えば、積み木の1つを爆弾と称して、折角の積み木のお城を壊して顰蹙(ヒンシュク)をかう子もいます。おどけるつもりで年少さんを驚かせたり、泣かしたりして喜ぶ年長さんもいます。はたまた、おままごとに熱中して、癇癪起こして喧嘩している父母のまねをしている子供たち。

 砂場では、山や城と称すもの一所懸命築き上げ、中には、何故か出来た後で一挙に地団太踏んで壊してみたり、はたまた砂場を掘って落とし穴を作り、お友達を誘い込んでは、それに嵌って、砂だらけになったお友達の顔を見て大喜びしたり、それが元で胸ぐらを掴みあうような喧嘩騒ぎになったりもします。

私たちは、そのような様々な真剣な遊びをしてきたものでしょう。

 

 今のこの世界もその「型」は全く同じようなものかもしれません。幼児期の遊びからどうも逸脱などはしていないと考えても、決して的外れではないようです。 小難しき、より複雑な概念や理論を創り上げただけの大人の世界。 ある意味で、社会に氾濫する様々な物質形態やシステム、様々な法律なども、単に複雑になった「おもちゃ」や、その「オモチャ」の使いまわしの為のお友達同士間のルールのようです。

 我々は、高度な「おもちゃ」を扱えるようになった、「大人の身体」と「幼児のこころ」を併せ持つ存在である・・といったら言いすぎでしょうか。「砂場」や「あそび場」が、小難しい「社会」になっただけのようだ・・と考えてもいいようです。

 様々な物質レベルの扱いを、より高度に操作することを学ぶ事でその知識量や人脈等を価値判断としての、様々な権威・権力を作りだし、また常なき宿命である諸現象の単なるシルエットともいえる、架空の豊かさを追求しつづけ、計測可能な物量を、自ずからの身の周りに御殿のように築き上げることが「成功」である? といったような世相の観念体系は、もう十分にその幻想性を理解出来る人々も多いでしょう。

 成功者、富者、権力者、フィクサーなるものに成り上がることが人生の成功である・・等とは、さすがにあからさまには誰も言わないものの、なんとなくそのような臭い・促しが社会の深層意識に、濁流のように流れていた事に気付くでしょうか。 

 この世界は、時を追うごとに、より複雑になり、更にバラエティーに富み、五感に刺激的なものが溢れてかえってきたのですが、それら外の世界の華やかさは、決してこころの平安をもたらすものではなかったのです。

 子供時代は、無意識な行動が多いものの、天真爛漫を旨とするその有り様は、まさに黄金期でもあり、それなりにその時を真剣に遊べるからこそ、大人に至るための大いなる経験意味があるものです。幼年期といっても、程度が高いとか低いとか、良いとか悪いとかの問題ではなく、無限の生命プロセスのなかでの素晴らしい黄金期には違いないのです。あたかも、我々皆々、この愛すべき地球生命圏という遊び場の仲間同士なのです。

 視点を変えれば、この世界の表面に生起する様々な出来事は、あたかも、楽しい幼稚園のなかでの、大勢のお友達の様々な遊び、幼児期の砂場や積み木やブランコでの遊びと、それほど変わっていないことがわかるかもしれません。これらの「遊び」は、外と見える世界の中での様々な経験を通して、自らの幸せを自ら創造することを学ぶプロセスとも言えるでしょう。

 今、地球生命圏は、その「幼年期の終り」 というプロセスを、一気に通過しているものであり、様々なレベルでの変化が起きてきているようです。外に現われているように見える経済変動、気象変動、地球を取り巻く宇宙環境の変化は、なにか今までとは違う?・・という感覚を持つ人々も多いでしょう。また、それらが全て単に人為的であると思い込まそうするプロパガンダもありますが、1つ言えることは、個人個人の意識、またその集りである人類集合意識が、水面下では明確に、ある意識段階での「飽和」を経験しつつあるということでしょうか。誰しも注意深く観察するならば、自分の内の意識の変化がわかるでしょうし、また愛すべき、ごく身近な人々もその意識レベルが大きく変化しているのがよくわかるはずなのです。

 

 そのような「意識変容」を促すような様々な情報や、形而下でのエネルギー等も内外から溢れてきているようです。一風変わった表現をすれば、それはあたかも、我々を愛してやまない大いなる根源からの眼差しであり、父兄たちの心づかいのようであり、父母の愛のようであり、先輩たる諸先生方の思いやりのようであり、はたまた、創造の根源より現われ出でたところの、我々と同じ大いなる「魂の分け御霊(わけみたま)」 たちの暖かすぎる応援のようでもあります。

 例えて言えば、今の時期は、あたかも悠久の時間の遊びの中で定期的に行なわれる「大運動会」のようであり、お遊戯発表会のようでもあり、いつもながらその桟敷には、子供達の成長を願ってやまない様々な家族が詰め掛けているものです。

  

 一般的に言って、「飽和」の次には、大なり小なりの相変移、量子励起ジャンプ、カタストロフィー、脱皮、解脱、ステップアップというイメージで説明できそうな 「非連続な変化」 が起きるであろうと考えられます。人類の歴史において、何事においても今ほど加速された変化のある時代はないような見識をもたれている人々も多いと思われます。またその中に埋没していることで、変化も何も気付かぬ人々も多いでしょう。

 また往々にして、人間の意識の変容過程は感情の放出を伴うものであり、一見不安定に見える様々な感情変化は、内面の経験や気付きを整理整頓している、無意識レベルの意識活動でもあるのでしょう。同じく地球という意識レベルでも「感情の放出」とも言える、自然界の大きな変化もあるでしょう。

 個々の存在のこころ(意識の働き)は、地球とも宇宙ともつながっているものであり、各自のこころ模様が、できるだけ平安で美しく、また暖かいものであれば、その個々を取り巻く世界もまさにそのようであるのです。常に我々は「信念」、言いかえれば、その段階段階において、「真実そうだ・・と実感できる意識状態」 を外に投影している存在です。

 そんなことある分けないじゃないか・・とも思いやすい、一見非常にわかりにくい概念ですが、これが例外の入る余地のない「存在原理」「創造原理」でもあろうことは、今のいま、我々の目の前に在る世界の有り様そのものが示しているのです。

 汝が信じるごとく汝になる・・・という言葉は、例外のない「存在原理」であればこそ、外の世界の変幻を見て大騒ぎする必要もなく、それを観ている各人の「こころのスクリーン」こそを清らかにすべきものでしょう。外の世界を映し出すのは、我々皆々にあるところの、「こころのスクリーン」でしかないのですから。

わたしたちは何者か? 生と死とは、 生命とは、 世界とはなにか?

今無意識から目覚め、たとえ真実の一端であっても、それを「知る」べきときが来ているようです。無意識に遊ぶ幼年期の終わりには、古いオモチャはそれぞれのこころの小箱にしまうことが必要でしょうか。それこそ、古い遊びに飽きるということは、まさに「飽和」することであり、一段と認識レベルが広がる為のエネルギーが満ちたということもいえるでしょう。

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 本日も、拙い記事をご覧頂きまして、まことにありがとうございました。


感謝は世界を浄化する

2009-06-21 09:41:55 | 心の科学分野

●感謝で浄化されるあなたの世界

 我々の意識すなわち思いや感情のうち、「感謝」はそれを発する存在を取り巻く世界全てを浄化する働きをもつものです。なぜなら、感謝は「ありがたい」「ほんとに有難う」という思いであり、同時に「本当にそうだ」・という感情実感を伴うものであり、それが人の周りの環境や物事のほんの一部についてであったとしても、ありのままを全面的に、多面的に「肯定」する想念であるからです。

 

感謝は積極的な「肯定」なのです。誰でもいつでも行う事ができる、シンプルではあるが最強のポジティブ想念とも言えるでしょう。

 

この感謝の想念には、単にこころの浄化のみならず、人の知覚する、いわゆる外の世界に通じた確実で深い法則が存在しています。  

   

個々の意識には個々の責任があるものでしょう。なんでもかんでも、皆一緒は不可能なのです、そうであれば、少なくとも気付く存在の知覚する世界だけでも、責任をもって感謝、浄化すべきでしょうか。そうすればこそ、世界にも光が漏れてゆくものです。責任は各自・自分自身という無限の可能性を少しづつでも観てゆくことにあるのではないでしょうか。 

    

 我々が孤独でつまらなく感じられたり、自分を取り巻く世界が、あたかも敵だらけ・ゴミだらけと感じてしまうような傾向がある?今の世界通念体系において、どのような小さなこと、ものに関してでも、その存在意味を最大限に感じ取り、否定どころか大きなこころの頷きをもって発する「肯定」「同意」の想念が「感謝」なのです。

 

 「感謝」は、単にありがたいな・・という空虚な思いではなく、我々が今生きて在るところの、この創造された世界が、実はなんと素晴らしいものであったのか!と気付くような、とんでもなく創造的な行為なのです。世界に在るわたし、わたしが見る世界・・時折、一見わけがわからぬ現象や不快感に満ちたこの世界において、そこに時々見え隠れするキラキラと輝く瞬間、小さな善意やチャンス、人の情け、動植物の愛らしさ、自然の不可思議で完全なる調和・・等を垣間見た時に感じるのが「感謝」でもあります。 

 小さな動物の可愛さや肉親の情や友人の気遣い、赤の他人の小さな親切なども、それに気付かせてくれる貴重な使者と考えられるのです。彼らの時折示す光のメッセージともいうべきものは、こういうことを言っているのでしょうか?

 

●自然からのメッセージ

『世界はあなたが感じているかもしれないような、つまらない世界ではありませんよ。

あなたの見方次第でどのようにも見える世界なのです。

あなたは世界を力づくで変えるものだと勘違いしているのではないですか。

また、ひょっとして、外の世界があなたに富や栄華をもたらし、

安寧なる思いや・幸せをもたらしてくれるものだと勘違いしているのではないですか。

・・・

もうすでに在る、自然なあるがままのそのままが、既に極上の創造世界であり、

それにあえて包装を施して見えなくしているのは、

単にあなたの「重い」思いのベールだけなのですよ。』

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確かに無数の自然の仲間達には「思い」のベールはなく、小難しいアピールなどはありません。まさに、そのままです。花も木も草も物言わずとも、人間であればこそ、そこにただ在ることに、こころから感謝してあげることもできるのです。(気がつかないですいませんでした。)

 あなたやわたし達や、この無限とも思える世界の「今」在ることに感謝する瞬間は、それを創造した根源意識の思い自体を感じる瞬間でもあります。時折訪れるのは小さな感謝かもしれませんが、その「感謝」は全てのすべてを、全てのすべてとして有らしめ続けている創造の本質に「同意」する想念なのです。まさに創造に意識的に参加していることに気付く瞬間です。そこには小さいも大きいもないのです。

 

●一見仇(あだ)と見えるものに感謝できれば、その仇は解放される

 一見イヤだと思えるものやことに、逆に感謝することができれば、その嫌なものやことの存在「意味」を感じてあげられることになるものです。逃げる事は誰でもいつでもできる事でした。しかしながら、その一見嫌なものやことに勇気をもって合い対峙し、それを見つめ、そうしてその嫌なものやことの群れの、裏に隠れた切なる演技を認めてあげることこそ、その嫌なものやことを開放してあげられるものです。

 

確かに、どんなものにも感謝ができそうです。

 

●一見無責任とも感じる近所の人への感謝

 近くに一所に住んでくれてありがとう。あなたがどういう人かわからないけれど、近くにいることでなんとなく連帯できるのです。たった1つの会話も半年かけてしかできないけれど、それでも、ここが極北の極寒のさびしい地域でないことは、実にあなたがたのおかげです。ゴミをたまにずさんに振りまいていたとしても、そんなことぐらい許せます。いつもありがたいと思っています。

 

●仕事場や仲間内での、そりの合わない人への感謝

 他人を罵倒し、細かいことをあげつらうことで、あなたなりの仕事の厳しさを、ことさら大げさに教えてくれているのですよね。あなた自身が大変であることがわかります。例えわたしをののしっても、それで嫌な感情を抱えるのは、まずあなたの方でしたね。わたしは、どう捉えるか選択の余地があるのに、あなたはもう嫌な感情を抱えてしまっているのですね。そこまでして示唆を与えてくれてありがとう。あなたが無意識であってもそれに気づける事に感謝します。

 

●電車のなかの大勢の無表情な乗客への感謝

 いつもながら何かに不満なのか、決してにこやかではないのはよくわかります。席が空いたら我先に突進して座るナリフリかまわぬあなたも、やはり疲れているのですね。咳1つしただけで変な顔してそっぽを向くのも、インフルエンザやらなにやら何か不安があるからでしょう。ラッシュで足を踏まれて「ムカっ」とくる自分も許してください。わたしがあなたの足を踏んだら「ムカっ」ときてもいいので、後でいいので同じように許してください。誰ともわからぬ多くの人々は、わたしと同じ世界に、それもすぐそばにいてくれていますね、ほんとうにありがとう。

 

●どこかすっきりこない両親へのあらたな思いの感謝

 あなたがたは良く子育てをしてくれましたね。私たちが、大人になって、今ここにいること自体がその愛の結果です。ほんとうに感謝します。大人も皆皆発展途上ですよね。大人と称して好き勝手なことをして、たまに怖い事や嫌なことも目の前や見えないところで行なっては、その反面教師ぶりを発揮してくれた時もありましたね。この世界の中で生きるのはやはり結構大変だったでしょう。それなりに努力してこられました。子供達は、それこそ親のおかげで、よい事わるいことなども教わるものです。それがなければ薄っぺらな人になっていたかもしれません。お父さんお母さんありがとう。誰よりこの世界で最も近くに居てくれて、こころから感謝します。

 

●陰謀巡らす道化芝居のピエロさんへの感謝

 社会の頂点で大勢の人を影で動かすことを面白がっているんですね。自分を観察し自分を動かす前の学びなのでしょう。お金や権威を溜め込む事でそれを使って他人を使役する力を大切に思っておられるのでしょう。面と向かって人に誠意を示すことの方が疲れることを良くご存知ですが、結局はいつかそれを通らなければならないようです。古くは私たちのやってきたかも知れない権力と支配の道化芝居を、今見せてくれてありがとう。それがなければ浅薄な平面世界で終っていたでしょう。善や悪が相対的な、ま反対の同じものだとダメ押しのように気付かせてくれてありがとう。この世界に、光と影の陰影をつけてくれて感謝します。もう影のお役目は十分でしょう。皆気付いてきましたからね。

 

●眼に見える見えない多くの仲間への感謝

 思えば宇宙の中で1つでも根源からでてきていないものはありません。きづかずにごめんなさい。外の世界を切れ切れに分割し、分析し、小さな一片まで追及したところ、そこには宇宙が広がっていました。

  いつ果てるとも、どこが限度ともわからない宇宙は、実は私たちのこころの反映でしたね。反映である外の世界ばかりに眼がいく事もあるのですね。内に在るのはその世界を投影する根源でした。内なるこころがなくて外なる世界は現われてはこないことは、宇宙の無限からも感じることが出来たのです。内なる意識を辿れば、そこには数限りない同じ意識を発見することでしょう。そうすれば外なる世界からも大勢の仲間が現われてくるものでしょう。外は内の反映ですから。眼に見える見えないに関わりなく、数限りない多くの仲間たちに、こころから感謝します。

 

●母なる地球・父なる宇宙への感謝

 我々にいつもある直覚知を再び思い出し、使いこなす段階になりました。、理論や実証などの乳母車は二の次でよいのですね。いつも、今在るのは私たちの魂と意識、そしていま地球から与えられているこの体でした。天真爛漫に遊べる宇宙という砂場、いくつも在る無限の世界が創られていることに驚きと感謝をしないではおられません。

お父さんお母さん、いつもいつも有難うございます。

兄弟たちいつもありがとうございます。

全ての全てに、せめて今の瞬間だけでも、魂こめた精一杯の感謝をさせてください。

 ・・・ 

「有難うございます。」

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。


地球生命圏の仕組み(3)

2009-06-14 10:31:14 | 宇宙的気付き

<地球という「バーチャル体験」フィールド>

●今までもあったこの世界の構成を示す情報

 前回の記事ではこの地球という惑星生命圏というものが、今我々が極めて限られた五感で知覚するところの三次元物質表現レベルのみでなく、霊界、天界と古くから象徴的にいわれてきたような存在フィールドも含めて、多層構造になっているというものでした。この情報は何も昨今発見されたものでも、この記事の勝手な思いつきでもありません。

 それらが確かなのかどうかは、書物や言い伝えなどをも精査し、そのなかにある、おとぎばなし的な一部のウソや誤解をより分け、自分自身の環境観察や内観を行いながら、自分の内面で咀嚼・実感することが、今大切なことではないかと思われます。 

 例で言えば、「霊」などという言葉にも、亡霊・幽霊・心霊などという、どこか恐怖を感じるごまかし・カムフラージュがついており、人々を遠ざけるような仕組みもあったようです。それはしかしながら、確かに、誰かの陰謀というよりも、物質・肉体というわかりやすい観念体系の中でまどろむ経験がしたかった我々の無意識の経験意図であったのかもしれません。

 

●地球生命圏は平面的な平屋(ひらや)構造ではない

 我々の今存在している(と信じている) この時空は、例えれば平屋ではなく、多層階(複数次元)の構造物だと普通に考えてもいいかもしれません。なるほど、1階の住人には壁や天井があり、そのままでは2階も3階も決して眼には見えません。また2階3階等があることすら気付けないでしょう。平屋の隅にある昇降階段を発見するまでは。実はそのような階段または昇降装置は我々の内面に発見されるものです。

 その時々の人類の共通観念というフロアの片隅にある意識の扉を開ける場合だけ、多層界につながる階段を見つけることが出来るものです。通常は、生死を通して何度も無意識に霊界・現界などの各階(次元)を移行しているのですが、無意識でなくとも、それをはっきり認識した、今までの多くの先達の解脱や悟り、覚醒という形態を通じてそれをはっきり知覚することも可能でしょう。

 何もわからぬ表面意識状態で生まれ・死ぬということは、我々の顕現意識での未開化を示す幼児性を現しているのかも知れません。またそのような幼児性を演じることが可能なのも、この大いなる広大な世界の「愛」によるものだと考えてもバチはあたりません。無意識な赤子である我々をケアする親身な存在もたくさんいるのです。

 更に大いなる自由を思い出す鍵は、外の世界にはなく、あなたや私たちの「内面」にあるのです。外面(今の物質世界)は、法則をともなったところの、内面(普遍意識)の様々な反映でしかないからです。

 

●バーチャルなリアリティ(仮想現実)

 今我々が生きているこの現実といわれる世界は、例えれば、三次元立体映像を五感で体験できるフィールドといえるでしょうか。 昨今流行のバーチャルリアリティなどは、仮想現実と称されていますが、それらはTVやゲーム、航空機の操縦等にも使われています。航空機や電車、車などの操縦の習得の為に、予め記録された映像をあたかも実演しているかのように、目の前のスクリーンに投影することでシュミレーションをするものです。仮想でも十分に訓練になるものです。さらには、出来るだけ平面的でなく、奥行きを持たせたような立体映画などもそのバーチャル技術によっています。

 人間の五感は、それがリアルか仮想かは問わないようであり、それを敢えて「仮想である」と知っていながらも、実際に現実世界で行なうとおりに反応します、しかしながらその経験知は決して「仮想」では無く、しっかり記憶に残るからこその模擬シュミレーションなのです。

 

●波動で構成される世界で、仮想は現実ともいう

 我々の現在行なえるバーチャルリアリティ技術での仮想空間演出は、光の干渉や音声振動などの部分的な波動でしか行なえません。それは我々の身体の五感・表皮を通じた人工的な情報取得でしかないのです。我々の身体は別個に存在しているレベルでの、身体の外から得られる仮想情報システムです。五感に映ずる情報では、それが現実か人工的かの見分けがつかない・・という事実を利用したのが、昨今のバーチャルリアリティ空間演出の面白さでしょう。我々の知覚の窓口である「五感」は、簡単に騙されてしまう面白さを示しています。

 

●重い・硬い感触も波動情報でしかない

 しかしながら我々の現実世界と言われるものが「仮想」かといわれれば、そのようには見えないかもしれません。我々の五感の情報によれば、石、木、テーブル等、身近にある物質等は実に堅固に出来ていると感じており、また遥か遠くの山の頂上までは相当な距離があると感じています。実際に歩くとすれば、相応に時間がかかるのも事実でしょう。また大きな石を蹴ってしまえば、つま先には衝撃を感じ、怪我する場合もあります。

 そうであれば、一体全体どこがバーチャル(仮想)なのかと思うのが人情です。ぶつかったり怪我したり、そのようなしっかりした感触があるではないか・・、この現実世界は実に堅固じゃないか・・と感じるのも無理はありませんが、その堅固の根拠となる物質の素粒子自体が結局は「存在確率」でしか表わせないことが量子物理学でわかっています。素粒子自体はある意味でアバウトな存在かもしれないが、それが集合したところの物質形態はリアル(実在)である・・・などという事がはたして出来るものでしょうか。例えば、レンガで出来た1軒の家が、いかに堅固に見えたとしても、レンガ1個1個が、つきつめれば確率存在でしかなければ、そのレンガの集合で出来た家自体は特別であり、リアルなものである・・とは決して言えないのです。

  

●地球での3次元への通過は「忘却」を伴うルール

 我々がこの世界に生まれ出てくるときに、この世界がある意味仮想であることを忘れるようになっていたとしたら、どうでしょうか。これが仮想現実であるということを忘れ、実に良く出来た感覚センサー付き360度の立体映像バーチャルスクリーンに取り囲まれていれば、それが「仮想」であったとしても、それがバーチャルな世界だなどとは到底考えもしないことでしょう。 例えば、時空という舞台設定まで使った念入りな「仮想映画館」に入り、(なぜか)急にボケてしまって?記憶喪失になったとしたら、きっと目の前に展開する世界がその全てだと思うに違いありません。

 我々は親の子宮から細い産道を通りこの世界に出てきますが、初めて赤子として生まれるような形をとっていることが、肉体という降下次元のボディをまとうという、その「忘却」という次元通過時の「約束事」を表わしたゲシュタルト(形態)のようです。何も知らない白紙の意識状態から始める形態をとっていることは、実に良くできた「忘却」の仕組みと考えられます。

 またトンネルやチューブでの移行形態は、やはり次元間の移動を示したもののようです。何もSF映画に限った事ではありません。実際のところは、霊界または天界からこの三次元世界への転移を示す、すなわち転生を示すものでしょう。

 親達もそんなことも露知らず、一から授かった大切な生命として子供達に接するために、その子供達もそういう風に思い込んでしまうようです。子供時代には前世の記憶なども出やすいのですが、新たな自我が育たないうちに、それが存在しないと考える大人の観念世界に馴染んでしまうものです。そうして大体の転生において、一から始める形態をとることで、ゼロから生じる創造の雛形をしっかり思い出すようになっているのかもしれません。

我々の生誕は、ある意味でビッグバンのようなものであり、それは何も物理宇宙の発生概念のことだけのことではありません。新たな世界への自己投入、それが生誕というものであり、我々は何度もそのような、ある意味でビッグバンを経由してこの世界の創造に参加している・・と考えることも出来るのです。

 

●忘れて思い出す、魂のゲーム

 もっとも、全てを憶えて生まれれば、この世界がバーチャル三次元の世界であると見破るゲームが面白くないのも事実でしょう。バーチャルというのは仮想という意味と、変化し続ける意味などがあります。変幻し続けるこの世界の有り様は、意識の投影され、逐次現われるバーチャルな世界ならではのことでしょう。永遠不変の形態ではない世界、常に川のように流れながら命を表現する世界、変幻自在の世界、バーチャルな「仮想世界」という言い方が、実は的を得た説明かもしれません。

 ここで大切なことは、我々はこの仮想世界に「もて遊ばれ」に来たわけではないということです。我々の内面にある魂の可能性を1つ1つ引き出し、「大いなる遊び」をするためにこの仮想世界、三次元世界にいるのだと思えないでしょうか。

  

●物質ゲシュタルトも「意識」の影

 暗示をかけられて、そう信じ込むことで、火傷もしないのに赤あざが出来たり、一般人ではとうてい大火傷を負うはずのものが、火渡りも行者にかかれば不思議に無傷になるのはどういうことでしょうか。通常は、何かの修行によるものだと漠然と考えて「終わり」ですが、要は繰り返すことで「火」が影響しない「こころ」のレベルまで、到達しただけのことであり、決して皮膚が「厚皮」になったのではないと思えないでしょうか。皮膚が訓練でセラミックなみの耐熱機能を持つなどと考えるほうがおかしいのです。

 現象同士が相互に影響を受けなくなるのは、意識による「波動の乖離」によるものだろうと思われます。波長が微妙に異なれば反撥も共振も、すなわち相互作用が起きにくくなるものです。一般には、高周波の状態では低周波に対しては素通りすることになる、影響を受けなくなる、というのが波動の性質であり、また相互に影響をしないという理屈は、TVや無線のような周波数帯域の違いによる乖離と言えるでしょう。

 繰り返しの思いにより、意識が固定されると、それが現実になるということでもあり、その思いの内容だけによって、いわば存在周波数帯域のずれ、次元のずれ?を生じることになり、火も皮膚もお互いにそれぞれ存在するとしても、相互に影響を与える事はないということになると考えられます。

 火渡りの行者?は1つ、火についての固定観念、自分の観念のなかにあった限界思考を「超えて」いるだけようです。これは身体の訓練以上に、ある現実に対する新たな認識・意識の固定・信念の構築による、意識周波数の変化を表わすものでしょう。

 

●あなたは仮想世界を超えた存在

 ここで、この「世界」が比喩的に立体仮想空間であると言うのは、我々の身体も含めてすべてが仮想立体空間であるということであり、肉体の表皮内外などの安心できる?境界等は無く、すっぽりすべてが仮想エネルギー・波動で構成された空間であると言うことです。肉体も木々も岩もビルもすべてがすっぽり波動で構成されていると言うことも出来るでしょう。いわゆる波動で構成された世界という意味です。これはあながち否定が出来ないでしょう。何せ、素粒子自体が波動性を体現しているのですから。

 仮想といっても何も不明確な、いい加減なものではないのは、TVや映画のスクリーンを見てもわかるでしょう。しかしながらそれらは突き詰めれば、光・音波・電磁波・振動波という「波動」でしかないのも事実なのです。波動の性質は、その振動媒体と、周波数、振幅などで規定されます。それらの一定集合が素粒子という粒子形態での存在確率で表わせるものでしょうか。

 我々の本体なる魂は、それらを超えた存在であり、そうであるからこそ、そこに没入する体験もまたそれを観察する体験も可能なのです。観察するということは、観察主体自体すなわち「わたし」という存在のあり方が、バーチャルな物理世界を超えた存在であるということです。

 

●生・死とは意識の転換のことである

 死とは単に周波数帯域の間を移行することでしょう。周波数帯域が異なれば当然ながら相互干渉は出来ないのが原則であり、その意味で現実といわれるこの三次元とはまったく異なった世界に移行することになります。

 この地球生命圏では、普通は1階の現実階から2階の中間階、いわゆる霊界に移行します。その2階(霊界)も遥かに広大なフィールドを有しており、各自のこころの波長に合うポジションに移行します。(機械的に言えば周波数の同調ですが) 無意識の状態で死を迎えると、それに気付かず面食らってしまう人のために、天界以上には様々な高次のガイドや指導存在がいるようです。天使や神様、指導霊、ガイドなどといわれるこの「地球圏の管理人達」ともいえるでしょうか。彼らは卒業生といえるかも知れません。卒業生ならでは経験を元に、次元間を自由に行き来できるわけで、適宜な指導や啓発をも行なっているようです。当然ながら各自の顕在意識の自由な学びに障りにならないような裏方に徹しているのです。

 この霊界でも、各自の意識は神の鋳型であり完全な自由を有すのもまた事実であり、あまりにも固定された観念や執着をまとう存在には、そのような、それこそ仮想世界も用意されているようです。というかそれぞれで創っているもののようです。同じような意識周波数の存在同志の共鳴、類は友を呼ぶという法則、あるいは波動の共振の法則によって集まり、その仮想世界を創り上げるのは、この世界でも同様ですが、いわゆる霊界は、思いが重い物質を経由せず、比較的ダイレクトに現われるような、意識が主体となる世界であるのが特徴でしょう。

 誰しもかつて、この地球生命圏に天界から入り、次元降下し、もっともラフで粗い、ある意味なんでもありの三次元世界での経験と、その休息や反省期間である霊界体験を通じて、新たな人格群をその高次のボディに加えてゆくことで、更に己の無限の可能性を現してゆく魂のゲームを行なっているのです。  なにか腑に落ちるところはありませんか。

 

●全ては完全な自己選択によるもの

 生命の全てには、生命自身の責任と完全な自由度があるため、自分の発する意識波動と無縁な世界には決して行くことが出来ません。気付く気づかないにかかわらず全ては自分自身の選択によっているものです。従って我々の行うべき事は、その都度その都度、今、考えられる最高の意識を高く掲げ、その方向に歩く事なのです。最高と言っても魂には限界がないので何も怖れる事はありません。正々堂々、その時々で最高と思われる意識を選択すべきでもあるでしょう。

たとえ、ある段階の「悟り」を通過したとしても、何も消えてなくなるのでもないのです。

 この地球圏で忘却を通じて次元降下し、現実世界と霊界の間で様々な体験や思索、感情の開花を経ながら、より多彩な人格を蓄積しつつ、再び天界まで次元上昇していくことを、そのゲームの基本としているのでしょう。

 今の時期の特殊性といえば、ある意味で、このありがたい地球生命圏・三次元立体映画館の「興行」内容が切り替わる時期なのでしょう。またそのベルが聞こえるかもしれません。そろそろ、そこにどっぷり入るポジションから目覚め、その映画を見ている当の自分という主人公に戻る時でしょうか。

ここにいながらにして、かつ、それを超えたところの存在、この世界の片隅の、か弱い一ピースではない<本来の自由な存在>に戻るときなのです。

(了)

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マハラジの言葉  (アイ・アム・ザット「私は在る」;より)

・・なぜなら、何かが起こるには宇宙全体が符号しなければならないからだ。

ひとつの出来事の原因が何か特定のものと信じるのは間違いだ。

すべての原因は普遍的なものなのだ。宇宙全体がその創造と存続に貢献しない限り、あなたの身体は存在しなかっただろう。

ものごとは起こるがままに起こる。なぜなら、世界はあるがままだということに、私は完全に気付いているからだ。

出来事の流れに影響を与えるには、世界のなかに新しい要因をもたらさなければならない。

そして、そのような要因は、私のなかで焦点を合わされた愛と理解の力である私自身でしかあり得ないのだ。  

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身体が誕生するとき、あらゆることがそれに起こる。そしてあなたは自分を身体だとみなして、それに関わってゆく。

あなたは映画館でずっと席に座っていて、画像が光の戯れにすぎないのを良く知っているにも関わらず、画面を見て笑ったり泣いたりしている人のようなものだ。

その魔力を破るには、スクリーンから自分自身へと注意を移行させるだけで十分なのだ。身体が死ぬとき、あなたが現在生きている身体的、精神的出来事の連鎖である人生は終わりを迎える。

それは身体の死を待たずとも、今でさえ終らせることができる。

注意を真我に移行し、そこにとどめておくだけで十分なのだ。

あたかもそこに、全てを創造し、動かす神秘の力があるように、全ては起こるのだ。あなたは動かす人ではなく、ただの観察者なのだということを自覚しなさい。

---------------以上抜粋

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 


地球生命圏の仕組み(2)

2009-06-08 07:43:14 | 宇宙的気付き

<地球という生命圏>

●波動に満ちた世界

 地球生命圏での諸現象は、今は未知なる様々な相の波動をも含め、電磁波・音波・振動波などの様々な既知なる外的・物質的波動と、それを生み出す因とも言うべき、意識・精神活動による潜在的・内的な波動で構成されており、地、空、火、水、植物・鉱物・動物・人間で構成される巨大な地球波動交響楽?ともいえる一大シンフォニーを構成しているのです。

 

●こころは物質を超えていると思えるか

 例えば、音楽に傾聴することは科学的に言えば単なる空気分子の振動を感じることと言えるでしょうが、それを聞いて鑑賞するのは各人の「こころ」の働きです。空気分子の振動は、我々が信じている?ところの物質レベルのものですが、それを聞いて感情の変化を感じたり、風景をイメージしたり、各人各様の様々な感動を覚えることが出来るのは、我々の・・「内面・こころ」の働きです。

 この世界では物質がきっかけとなって様々なこころ模様を自在に描き出し、更にはそれを調律することを学んでいるといえるでしょう。様々な存在たちの意識・こころで発する音楽、それが無限宇宙の一大シンフォニーなのです。

 この内面の精神の働きというべきものを、ことさらに物質科学的に分析しようとする事自体、大きな誤りがあるのです。数値で表わすべく?その心を分解し、またその働きの起因を、肉体物質レベルでの化学作用に「求める」事自体が、「こころ」「意識作用」から逸脱していることに気がつくでしょうか。あくまでも物質形態に己を特化しようとする試み以外のことはありません。なるほど、確かに、本来自由自在な「魂」であればこそ、そのような奇跡も演じることが出来るのも、まさにこの地球という次元のおかげなのでしょう。

 我々の想念・感情は物資レベルから起因しているものではありません。こころ・すなわち、その時々のレベルでの意識作用が、素材・物質表現をすることで、その因たる己の意識作用をフィードバックして見ることが出来る、観察することができるのです。

 しかしながら、世間の常識的反論として?そのような事も、肉体があればこその「感動」ではないか・・と言いたいものですが、気をつけるべきは、そのこと自体の中に、もう既に三次元的観念、物質偏重の「観念が先行」してあることなのです。

 

●内面という領域の「こころ」の振動波

 精神活動に伴う、想念という我々の「こころの発する波動」も、しっかりと内面で知覚されています。例えば、1つのりんごのイメージを頭に描くのはそう難しくありません。その内面といわれる領域で見える明らかなりんごのイメージは、通常は肉眼で見える物質レベルにダイレクトに現われてはいないように見えます。それは、イメージの世界だけのものと考えるでしょう。しかしながら、テレパシー現象では、その内面のイメージが他の人の内面のステージにそのまま転送されるのです。不慣れな人では不明確な伝わりかたとなるのは当然です。自転車にしても車の運転にしても、慣れていなければどうしようもないのは全く同じことです。

 思ったことが現実化している世界にまさにいるのですが、そのこと自体に無意識であるために、気付いていない人々が多いようです。例えば、今日は出かけよう・・という想念がなければ、出かけることもないし、腹が減ったので飯を食おう・・という気がなければ、飯を食う事もないでしょう。・・そんなことは当たり前じゃないか・・これは上っ面でしか見ていない無意識の状態を示しています。

 我々は意図がなければ何事も生まれない世界に生きているのです。単に肉体を動かして行動しているだけの事なのに、何を言っているのか?・・とも思うことでしょう。我々は、いつもいつも変わり映えのしない思考や感情を繰り返している為に、それに気付けないのです。

 我々は物質の1つであり?、この巨大な宇宙の中の一片である?・・という漠然とした信念体系に自らの意識を投入していたということなのです。こころの牢獄は自らの信念で創るものです。世界や世間や他人のせいにすることは出来ません。縛りは「観念」の中にあります。

●三次元レベルの波動に同調している意識:顕在意識

 我々の存在するのは波動を元にした世界であることは大方の感じているところでもあります。この地球という時空圏を構成する世界は、波動の干渉、同調等の特性から生じるところの「周波数帯域という、飛び飛びの階層」があることに気付いている人も多い事でしょう。

 波動帯の「階層」構造の有り方は、電磁波での通信においても、間接的ながらも説明可能でしょう。この周波数帯域という存在形態は、実に腑に落ちる使い方ともいえるでしょう。TVなどの周波数帯は、電磁波の30~300MHZの振動域にあります。その振動域は周波数の違いによって、全く異なる各チャンネルの番組共存が可能なのはお分かりでしょう。周波数がほんの少し違うだけで、他チャンネルとは一切相互関係の無い独立した映像・音声・振動などを表わすことが出来るのです。

 我々のボディの一番の外皮であるこの肉体は、そのような三次元立体ホログラムの世界と接する窓口のようなものなのです。肉体という「窓口」には五感という刺激、波動情報が毎瞬飛び込んできているということです。我々の毎日はこのように行なわれています。

 繰り返しになりますが、「階層」構造は、住み分けであり、「同時に、かつ、一切所に存在する」ことの出来るあり方です。また、それらの階層の違いの根本要素は、その世界の究極素材というものの「振動数」「周波数」「振動密度」で規定されうるものでしょうか。振動数が違う帯域は、まったく違う世界と認識し知覚されるものなのです。我々の経験則で言えば、当然ながら1つのチャンネルだけを見ていれば、マルチ画面でもない限り?他のチャンネルは見えるわけもありません。

 突き詰めて言わせてもらえば、同じ「空」(くう)の中に現われるものでも、その波動の密度、周波数?の違いだけがその多層世界を分かつ境界ということになります。

 

●地球の存在周波数帯

 我々を取り巻く地球時空圏は大雑把に分けて、物質世界、霊界、天界という階層があるとも云われています。それらの3界のあり方は、隣接するが干渉しあわない「周波数帯域」どうしと言う事が出来るのではないでしょうか。それらは、我々の意識の拡大度、理解度に応じて同調が出来る世界と考えられます。発現意識の周波数に同調する世界ともいえるかもしれません。

 今生きている・・という意味は、我々の意識が単にこの物資世界に大枠で同調しているということです。また、死という状態では、我々の外側の肉体が外れることで、当然ながらその物質世界からの同調が外れることになりますが、いわゆる死んだ後は、通常はまず、隣接する世界、霊界といわれる世界に行く(同調する)ことになるものです。例えば、NHKチャンネルばかりを長年見ていた人が、番組終了と同時に、いつの間にかNHK教育チャンネル?に同調する時期が来るようなものでしょう。泣き叫んで執着したり、逆に忌み嫌ったりするようなものは、実のところどこにもないのです。変化を怖れるこころ自体が、いつのまにか執着というものに「変化」しているだけかもしれません。

 話は逸れますが、黒澤明の「夢」という映画も、その世界で本来あるべき素の生のあり方を表現したものではないかと思います。我々の世界、一見しっかりしたような世界こそが、実は実体の希薄な、刹那の「夢の世界」ということのようです。

 

●R・モンローによる意識階層の説明

 隣接する多層世界に関しての説明は、今の時期では、前世紀のR・モンローが発見・体験したフォーカスレベルが、最も適宜ではないかと思います。ヘミシングを編み出したモンローが繰り返し行なったのは、「体外離脱」とも言われていますが、彼の偉業は、物質的に生きている状態の中で、その「肉体観念を外した状態」を作り出し、この地球圏の諸階層を探検したものとも言えるでしょう。地球を取り巻く多層世界の情報は、スエーデンボルグも含め、その他の多くの覚者等の記録も数多く伝えられているものです。しかしながら、最も偏狭な科学万能という信仰世界にあって、誰でも再現可能な方法をもって、現代人にもわかりすく提示しえたその偉業は賞賛されてしかるべきでしょう。

 フォーカスレベルを移行する意識状態になると言うことは、例えていえば、TVの前に座っている人が、1つのチャンネル映像に完全に没入していた状態から、その他の各チャンネルをある程度も自在に切り替えて楽しめる段階に至ることであるということです。そこには、TVドラマの中に完全没入している自我でなく、それを観ているところの、より高次の自己が、TV映像の「前にいる」ことに気付いた段階であるといえるでしょう。

 

●睡眠は肉体意識が外れている状態

 もっともヘミシング等に因らずとも、霊界・天界など、実は我々は睡眠中等に頻繁に訪れているのですが、あまりにも現実界に意識が集中している為にそれを憶えていないものです。 まさに、心、ここにあらざれば?何を見ようと視野に入らないような状態は、誰しも経験していることでしょう。

 睡眠中の脳波測定では、レム睡眠・ノンレム睡眠などの分類があります。また脳波の周波数等に応じて、α、β、θ波なども測定されています。ただ、それらの脳波情報はそれ以上の解析は行なわれていないようであい、そこがいわば物質世界と内面世界との臨界を示しているものでしょう。あくまでも物質世界でのデータは、肉眼で見える電位の観測データでしかありません。今の所その波動の中身の意味は、うかがい知ることが出来ないようです。

 多層世界・多次元世界への同調に、我々の脳が介在していることは、へミシンクでの左右脳の共鳴方式でも十分理解出来るのですが、実は、脳自体がそれを作り出しているのではなく、脳は、共鳴箱のような働きを通しての、多層、多次元世界に同調しながら、今我々がフォーカス(意識集中)しているこの三次元世界への「翻訳」を行なう機能をもっているといえるでしょう。我々の使える高度な「共鳴・翻訳装置」と言ってもいいかもしれません。

 

●夢には多層界の情報がある

 超常的な意識経験のようなものがある人や、意識的に注意深い人等は、夢にも各階層の意識状態があることがわかると思います。睡眠中に得られる色々な情報は、顕在意識の知識をベースに組み立てられ、あくまでも起きている意識状態による知識に基づいて翻訳されているのですが、顕在意識の知識や理解度があやふやである程度に応じて、夢の内容もあやふやなものになるようです。

 我々が思っているようには、夢体験自体はあやふやではなく、その不明確さは、それを解釈する顕在意識のフィルターに原因があるものです。対象が自体があやふやでなく、それを知覚する我々の意識状態の方ががあやふやであるのが事実でしょう。

 確かに、万事、何事においても、我々が意識を集中しそれを知覚しようとしなければそれは現われようがありません。例えば、催眠術をかけられて、ある特定の人が見えませんよ・・などという暗示を受け入れた場合に、実際にある特定の人が目の前にいたとしても、どういう具合か、暗示どおりに、その人がいたとしても眼に入らない・・というような催眠実験の話なども良くあるものです。

 自ら、意識的にそれが「有る」と思わなければ、そのとおり現われ出でない有様は、まさに宇宙創造と同じ雛形を有する人間存在ならではの業(わざ)ということも出来るでしょう。

 

●肉体を持ちながらもそれを客観視するレベルへ

 肉体を持ちながら、肉体観念を外す・という行為は、我々の本来有する多次元的な広大な意識の視座からこの物質世界を眺めると言う行為であり、より客観的な観察行為であるともいえるでしょう。これは古来からの悟りや解脱という意識段階に酷似しています。世界にあっても、世界に属してはいけない・・という古(いにしえ)の先達の自覚も同じ意識段階と言えるかもしれません。

 

●現界・いわゆる三次元世界

 物質界は、我々がそうと信じているとおりの物質偏重の世界、いわゆる縦・横・高さで計量される世界であり、三次元といわれる世界であり、いまのこの地球表面に現われている文明世界と、それを取り巻く自然界を観ている我々の観念世界のことです。

 そう、いまあなたや私たちが毎日起居し生活しているこの世界のことです。外側の肉体はちょうど我々が知覚し、認識しているとおり、まず肉体をベースにした世界であり、その肉体は、物質レベルの原子・分子・細胞で構成されており、五感という物質レベルのある一定の振動波を感受することが出来るのです。我々人類の集合意識的な総合観念がまさにそう思っているとおりでしょう。

 この現実世界・三次元世界に関しては、十分に理解されている人も多いと思いますが、今大切なことは、この次元世界の有り様とその意味付けを、自分の内面で理解し納得することが出来るかどうかなのではないかと思われます。納得できないならば、まだ十分な体験学習がされていない?と自分自身で思っているかもしれませんし、あるいは、単に執着や恐怖がまとわりついており、それを達観することが出来ないだけかも知れません。

 

●霊界・いわゆる四次元世界?

  三次元世界は、その現われた物質を主に観念の中心としている世界と言っても良いかも知れません。やはり物質偏重を特徴とする世界です。

 物理学等でいう「縦・横・高さ+時間」の四次元とは概念が多少異なるものです。相対性理論等で説明される四次元とは、XYZ座標で表わす「空間」と、それが歪んだ形態である「物質」原子も、元は「エネルギー」であり、またそれは「時間」とも相互変換されると言うことでしょう。 絶対空間・時間などは存在せず、物質・空間・時間も、全てエネルギーを経由して相互に転換するものであるということです。我々の物質世界を、あくまでも五感で観測可能な四元要素にまとめたものといえるでしょう。前回の記事のように、この物質世界には光の壁があるのです。またエネルギー自体も眼には見えない概念として残されています。

 翻って、霊界といわれる世界は、我々のボディのうち、肉体という最も外側の「スーツ」を着ていない状態の世界です。単にこの物質偏重観念が外れた世界であり、眼に見えないエネルギー?及び意識体(高次ボディ)が主体となる世界ともいってもいいでしょう。エネルギーは意識によって生じているという事が、まのあたりになる世界であり、そうであればこそスピリットの世界や、「霊界」といわれるようです。所謂「こころ」が主体となる世界であると言ってもいいものです。物質世界はその意識の創り上げる世界の内、一番外側・表皮にあたる世界ともいえるでしょう。

 三次元世界での肉体・物質レベルの振動波を感受するように、肉体以外の高次のボディによって同調する振動波を感受する世界とも言えです。物質レベルよりもさらに精妙であり、こころ・意識の内容が極めて容易にフィードバックできる世界とも言えます。一層分、根源に近い領域かもしれません。

 この霊界では、こころの状態が極めて柔軟かつ直接に現われる傾向をもつ世界、より意識的な世界ですが、やはり意識作用たる「こころ」を投影する為の「素材」がしっかりと存在しています。決してフワフワでなく、三次元よりも極めて緻密でリアルな世界ともいえるでしょう。

 実のところ、物質世界においてこそ、「こころ」の鍛錬をするようになっています。それにも係わらず、今の物質文明の心のなさは異様であり、それは、鍛えるべき「こころ」を観測対象外と称して外した故のことでしょう。本末転倒が局限まで行けば、そのあり方の意味が失われてしまうのは、自明の理なのではないかと思います。

今の三次元世界は、まさに、こころ、ここにあらざる観念の刹那の世界と言って良いのではないでしょうか。

 勝手ながら、霊界なるものの一つの側面として、例として下記のサイトにある記事を引用したいと思います。「ブルーアイランド」という物語ですが、ご存知のない方がおられれば、ご覧になっていただくのもよいと思います。(なわふみとさんのサイト)

 http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/blue-island.html

●天界・いわゆる五次元世界?

 一般通念で天界といえば?・・神さまがいて・御殿があって?・・・・云々のイメージがあるかも知れませんし、ギリシャ神話や、様々な宗教などでかもし出される神々や仏達のイメージを彷彿とされる人もいるでしょう。

 ここで言う天界といわれる世界は、この地球圏に属してはいるものの、物質の質量観念によって生じる重い領域からすれば、遥かに「外淵」にある世界といえます。階層で言えば地球圏で最も周波数の高い意識レベルの振動波で構成された階層とも言えるでしょうか。 この世界はこの地球の重力圏や、意識的な観念の束縛から自由なレベルの振動波で構成されているようです。

 顕在意識において、意識的にこの世界の振動に共振することが出来る存在は、それが究極の有り方ではないとしても、少なくとも物質レベルからは自由自在であり、その意味でより高次の意識レベルにあるとも言えるでしょう。

 この天界は、さらに広大な世界や宇宙との自由な行き来が出来るプラットフォームともいえるのものです。スピリチュアルでいわれる5次元の世界といってもいいでしょうか。

 モンローの書や坂本政道さんの本等によれば、ここには様々な宇宙存在達の集合 (ギャザリングと言われている) もあるようです。

 

●天界は多次元世界の出入り口

 この階層は、地球圏という、いわば「すり鉢状の階層」の、遥か上の階層であり、地球時空圏以外の諸世界とあるレベルにおいてフラットな関係の階層であり、例えば銀河系やその他の次元世界との行き来等もより容易になっているようです。モンロー研のいうフォーカスレベルで言えば27-35あたりでしょうか。

 また、ここではこの地球圏の維持運営をする意識存在達?大勢いるようであり、我々への影ながらの指導や助言、ケア等も行なわれています。もっともある意味で、我々というのは、彼らにとって見れば親の心子知らずみたいな存在でしょうか。また、言葉を変えて言えば、我々は、管理人の苦労をあずかり知らぬここ地球というテーマパークの観客であり、その体験に熱狂しているようなものかもかもしれません。

 また、世間で言う「宇宙人」などという概念にも、しっかりと手垢がついており、おどろおどろしい恐怖や不安を持つ人もいるかも知れません。あるいは、そんなことにも気付けない人々すらも多いと思われますが、 実は、この地球生命圏に入ってきた (同調した)我々の多くが、この上位の階層から各自の「魂」を投影し、ここ地球での体験を希望して「すり鉢」の中に降下してきたもののようです。また更に上位の階層は、歴史上の偉大な教師が現われてきたところとも考えられます。

 これは次元降下といえるでしょう。また、次元降下は忘却の約束をともなうものです。そうでなければ、降下の意味がないことも理解出来るでしょう。そこでの体験を有意義にする為に、身ぐるみ全てをロッカーにしまって?入るようなものかも知れません。どのような偉大な教師も、かつては忘却の淵から目覚めてきたのです。これが地球という三次元劇場の共通のルールでもあります。

 

●地球の特異な体験学習システム

 地球時空圏という、すり鉢構造体の中において、転生というドラマを、現実界と霊界の間で行き来しながら演じているのが現状でしょう。もっとも、そのような様々な体験をしている事すらも忘れているのが今のあなたや私たちの現状でしょう。また、自己自身を思い出すまでの経験と認識を再び得ること自体が、この地球時空圏での1つの得がたいテーマでもあるです。なにか思い当たるふしはないでしょうか?

 模擬的に一から体験することが出来るのが、この地球生命学園のテーマの1つでしょう。一から得られた体験を叡智として、すり鉢を再び自力で上昇する約束の元、今の我々がここにいるのが真実と思われます。これが1つ、いわば宿題といえばそのようなものでしょうか。

 物理世界で地球「重力」として現われている引力は、別側面から見れば、この多次元の地球という世界を、1つの時空圏として維持している親和の法則の顕現でもあります。すり鉢を這い上がるといっても、この物理的な重力を、ロケットを使って克服しただけでは、三次元での近傍を探査することだけのことであり、本来の次元克服にはならないでしょう。我々は魂であり、多次元的でありまた無限の可能性を秘めた意識体そのものであるからです。

●我々は意識的世界にある事実に気づくこと

 この三次元といわれる世界において、意識が先で物質素材はその後に来ることが理解出来るならば、我々はその作用を生じさせる「こころ」をまず第一に考えるはずなのです。想念が時間空間を越えた働きをすることが理解出来れば、また一切所に偏在する波動であるという直覚知を得るならば、まず何をおいても我々にある「こころ」の調律を行い、そこから出でる想念を無限の可能性の方向に開花させる楽しい創造努力を行う事になるはずです。

  昨今のスピリチュアル情報や物理的異変情報も含めて、この地球自体の変容と思しき変化が数多く現われているようですが、当然ながら、進化や変化が行なわれるのがこの森羅万象・多次元宇宙の1つの法則です。地球自体も巨大な意識であることを考慮すれば当然のことのように思われます。

 この地球生命圏に参加しているところの多くの意識存在が、こころ・想念の浄化と発展の方向性に気付けば、現実世界、霊界、天界などというカテゴリーの枠はそれほどの意味がなくなることでしょう。またそのような周波数帯域は統合され、新たな1つの広い意識帯域として出現するに違いありません。

 (つづく)

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本日も拙い記事をご覧頂きましてまことにありがとうございました。