気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

どうやって解脱するのか (5)空(くう)とは即ち無限である

2014-12-30 07:30:32 | 日記
空(くう)は空っぽではなく、無限の可能性そのものである。

われわれは、まさにその真っただ中にいると同時に、それを観ているものである。


無限の可能性の真っただ中にいるにも拘らず、それに気づかないということは、

良く例えて言われるように、海の中の魚が水を渇望しているようなものだ。

その真っただ中にいるにも関わらず、どこか遠くにはきっと何かがある、未来にこそ希望がある・・、

山のあなたの空遠く・・にこそ理想があるとしつつ、今の瞬間を「我慢している」ようなものだ。


明日の生活、金銭の過小、他者との折り合い、世間への迎合と軋轢、・・・

そんなものばかりを<意識の中心>に据えて毎日を送ることの可笑しさに、

もう気付いても良いほどの経験は、すでに十分に過ぎたのではなかろうか。


それはそれ、あれはあれとしてこなしつつ、

本質的な意味で・・・自己を大切に思う時ではないだろうか。


同じ瞬間は二度となく、なじんだ古い世界も、嗚呼もう過ぎ去る運命にある。

古い時は、もう僅かもないのである。

・・・

我慢や忍耐はもういい加減に通過しようか、

人が変わるのを、世界が変わるのを待つのはやめにしようか。

そう、・・・自らが、理想的な方向への自らを意識し・再創造すべき時なのである。

その為に、世界に<ただひとつ>の「わたし」という意識があるのだ。

あなたのことは、あなただけが変えることができる。


そうだろう?

それとも、未だ愛をくれるはずの、どこか外の世界の人々を追いまわすのか?

まだ、経済がさらに成長すれば幸福になると信じているのか?

どこかの政治家が貴方の問題を解決してくれるのか?

ワハハのTVのバラエティーの中に、何か真実があると思っているのか?

皆と同じ姿で街を歩けば安心が得られると感じているのか?

十分な安心が得られるものと、何十億円もの資産を望んでいるのか?


人々の重大問題は、実は、

そういう何かありそうで何もない、観念の束縛からの「解脱」なのである。



誰にもある・・・「わたし」・・・という自己意識、

それは単に頭の創るイメージに過ぎないと思っているならば、

それこそ無知蒙昧というものだ。


死してなお生まれ変わるものは、「わたし」という意識である。

無数にある<わたし>の経験を今思い出せているかどうかは別として、

意識あるいは個性化の経験をしている「魂」は「時間空間」を越えている。

あなたはまさに魂・意識である。

いまこの瞬間でも、そう・・『わたしは在る・・』という常在する意識があるだろう?


それは小さいながら、神の・・・光あり、我ありという原理そのものなのだ。





空(くう)という無限の意識の母体に揺らぎを生じさせるのは、

自己へ気付きとその時の「想い」であり、

その神なる無限の意識と、そこに生じる無数の色合い・想いによって多次元的な宇宙が生じている。


同じようにして、あなたやわたし達も・・・この宇宙、地球、世界の中に居る。

そして、その世界の中に居るように見えるところの、

あなたやわたし達という意識存在は、

また存在原理としての「神」そのものなのである。

謙遜する必要もなく、卑下も全くふさわしくない。



全ては意識の顕現であり、神の顕現であり、

またその「自己に気付いて」いる・・「自意識をもつ存在」は、

実際は既に<神なる自己に>・・・目覚めているのである。


すでに、もう・・われあり・・・ではないか?

最も身近で、最も当たり前である自己存在原理に気付けるだろうか。


その自己への気付きの程度によって、あらゆる段階、階層ともいえる、様々な自己の存在形態を選択しているのである。

それぞれの魂は、それすなわち、経験をする神のことであり、また神の子などというにふさわしい。


簡単に言えば、

自己が自己である・・・とする意識に・・すでに神が顕現しているのであるが、

なんでも選択可能な神であるからこその、その「想念」選択において、

わざわざ低く狭い想念を、ことさら選択していたということである。

言わばそういう低次元に固定する役目をする者が、悪とか闇とか言われる働きなのだ。



それにほとんど気づけない段階の世界が・1つは・・今までのこの地球世界である。

狭く、暗く、重いこの世界を、宇宙では幽閉世界や牢獄惑星等と言われる所以である。





全ての可能性は空(くう)にあって、

それを顕現せしめるものは「意図」や「想い」であることに気付く時である。

その人の・・・世界の中心は「意図された意識」なのであって、外の誰でもないのである。


「われ・・・在り」


より良いとされ、より安心とされ、より幸せとされる世界に在るためには、

それぞれが他のそれぞれから、何か愛を得ることではなく、

それぞれが他のそれぞれへ、何か愛を与えることである。

その何かとは、自己の発する想いであり、言葉であり、行為である。

他者がどうだろうと、世間がどうだろうと、世界がどうだろうと、実際は関係がないのだ。


愛のない世界の、実に面白みの無さには、もう気づいているはずであろう。

そう、それぞれの「わたし」自身で、自己の周囲を思い切り、想いきり・・変えてしまおうか!

『想い』はそのためのツールなのだが、この言わば『極秘事項』に本当に気づけるだろうか。

・・・・

われわれはどういう世界にいるかといえば、真実はこういう世界なのだ。


空(くう)は言わば、無限の波動であり、様々な周波数の渾然一体のことである。

光のスペクトルのように、

赤、黄、緑、青、紫等の七色の色を合わせると<白>となるように、

空(くう)は無限の波動の混在する海のようなものである。

電磁波や重力、2つの核力など、発見されているもの以外の波動、エネルギーも空(くう)に在る。

我々は、まさに「空(くう」であるところの「意識」の顕現であり、また、「意識」そのものなのだ。



そう、それぞれの「わたし」自身で、自己の周囲を思い切り、想い切り・・変えてしまおう!
・・・・
 
空(くう)なる無限に・・・気づける者は、

空(くう)で在りながら、

空(くう)をも超えている。

それをなんと言って良いかわからない、それ・・・である。

 
 


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どうやって解脱するのか(4) 全ては空(くう)にあり

2014-12-23 07:44:06 | 日記
人は皆自分の肉体の五感、見る・聞く・嗅ぐ・等の言わば情報の海の中にいるために、

見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触るなどの<接点>であるところの肉体を「自分である」と”思っている”のだが、それは大きな間違いというものだ。

そう思っている・・そう『認識』している・・だけの話である。

というか、そういう風に思い込まされているとでもいうか、そういう認識レベルにある・・ということだ。
・・・

自分を、密集した肉体細胞の塊とでも感じているわけだが、それは実情と異なることに気付けるだろうか。
・・・
原子は核と電子の組わせで構成され、その組み合わせのタイプで様々な原子が生じていることは誰でも習ったことがある。

ところがその原子核と電子の間の空間、距離はどの程度かといえば、これは全く途方もない遠距離どうしであることが分っている。

原子のすぐそばに電子がまわっているような図柄を見たことがあるかもしれないが、電子は原子核から途方もない距離を隔てて運動しているというのが実情である。

サッカーボールのような原子核が東京ドームに1個あったとするならば、微小な電子はどこに位置するかといえば、小田原あたりの位置にあるとされている。

その間は何もない「空(くう)」、つまり空間が占めている。






原子の実体はそれこそ、めちゃめちゃ空(あ)いている、実にスカスカな空間なのである。

空間におけるエネルギー・粒子の占有率は・・・0.000000~0001とも言えない程なのだ。

だから身体も、宇宙の構成と同じようなものだという事である。


密集した物質で作られた肉体・・・?、

そんなものはどこにもなく、肉体も他の物も、そのほとんどが空間であり、

その中に極めて微小なエネルギー粒子のようなものの運動があるだけである。

自分が肉体物質だと信じているのならば、それは自分が空(くう)であるとしていることになるが、そこまで想いをはせることもなく、世間一般の意識次元レベルで固定されていたのだろう。

実際、全ての元に有るものは「空(くう」である。


・・・

我々はまさに、空(くう)に浸っているというか、空(くう)で満たされている存在である。

えー、マジか?だが、まっとうな科学的イメージでの結果なので否定できるわけもあるまい。

自分の身近な肉体は、固そうに見えて、密集しているように見えて、実はそのほとんどが空なのである。

そう、もっとも身近なものは何かといえば、「空(くう」なのである。

あなたやわたし達は、実際が空(くう)であり、またその中に生じているエネルギー微粒子なのだ。

エネルギー微粒子はクオークとも言えようが、それは空間に現れたり、消滅したりするエネルギー微子とも言えるだろう。

それは3次元的肉体物質レベルでも、いわゆる更に振動数の高い幽体レベルでも、霊体レベルでも同じことである。
 



つまり全ては・・・空即是色・・色即是空・である。
 

この空(くう)というものには「大きさ」も「重さ」もない。

どこもかしこも・・空(くう)であり、その空(くう)には、「あそこ」も「ここ」もない。

理解可能だろうか?

例えば、宇宙のかなたの星の周囲の空間も、ここの空間も・・・全く同じなのである!

つまり、全く違いがない・・・

空(くう)自体には、遠くも近くもない、こちらもあちらもない・・のだ。


つまり「全て」であるとも言えるのだ。

そして、あなたの身体も、まさに空(くう)そのものの・・・なかに在る。


我々に最も身近なもの、・・・・それは空(くう)である。

そこには距離も時間も、あそこも・・ここも・・ない。


そしてそれを、それとして観ている者、・・・『あなた』のことだが・・・、

それはどこに・・・あるのだろうか?






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どうやって解脱するのか(3) 自分に最も近いもの

2014-12-21 06:31:35 | 意識の拡大
あなたとは何か知らずして、あなたの幸福も何もあったものではないだろう。

それぞれが、わたしとは何か?を知らずして、

解脱も、悟りも、こころの平安も、何もあったものではない。

それぞれの<わたし>のことを知るために、わたしの最も身近なものを探究することも必要であろう。


我々の最も身近なものは何であろうか?

そう、あなたにとって、最も身近な・・近しいというか、そういうものは何だろうか?

あなたにもっとも近いものが、あなたという存在を説明しているかもしれない。

・・・

近いと言えば、そう・・家族か、子供か、・・・あるいは目の前のパソコンか、タブレットか、いやいや、さらに近いのは、自分の顔の鼻か?いや目であろうか?

いや、そういうものを含んだあなたの『身体』だろうか、ああ、多分そういう感じだろうか。

自分の体が自分に最も近いというか、そういうものだという感覚があるはずだ。

だから自分を肉体だ・・・と当たり前のように、思っているということ。

そう何十年もそういう基本感覚で生きてきたというわけだ。

そうではないか?

・・・

ところで、・・

我々にとって一番身近なものは、身体そのもの・・ではない・・・ことに気付けるだろうか。

ではなんだろうか。


身体、肉体は、60兆もの細胞で出来ていると言われている。

また細胞は様々な分子で作られており、分子はさらに細かな原子で作られていることを知っているだろう。

その数を言うならば、数えきれない原子で構成されている。

頑張って何億兆とか、カウントする、数えるような・・・そういうものでないことは、

その仕組みが、宇宙を見た時と同じであることに気付けるだろう。






そう、我々の肉体は、それこそ無数の原子というエネルギー要素ともいえるもので構成されているのだ。

手のひらを太陽に透かしてみれば・・という歌があるが、よく見ると、あなたの手も無数のクオーク、原子・分子で作られているのである。

さらに、それら無数の細胞、分子、原子は<完全なる協調、全き調和で>維持管理されているのだ。

そうでなければ、わたしやあなた達という存在は一刻たりとも維持出来ようもない。

想いをはせるべきは、

ゴミ箱をつつくかのような3次元世界の喧噪や、政治や支配の嘘だらけの観念放送ではなく、

かような、あなたの最も身近なあり方なのである。





あなたの身体は、それこそ無数のエネルギー要素、分子、原子で構成され、

それが全きの調和をもって維持されている。

それはまた、無限の先が見えないところの『宇宙』の構成と何ら本質的な違いがないということである。
 
あなたの肉体は、実際それなのである。

・・・・

あなたの身近な<身体>、それを維持するためのことに関して言うならば、

例えば、衣食住を維持するための、個人の働きによる金銭の稼ぎなど、

それが何億円あろうとも、本当に微々たるもの。

 
この世界を体験するために・・あなたの身体を維持している無限数にも及ぶ分子、原子、

完全なる調和で在りつづける様々な細胞、内臓、肺臓、血液など、

そういう生きた組織によって生かされていることに気付かなければならない。

 
これを『無償の愛』と言わずして何というのであろうか?


そういう意味では、保身に明け暮れ、競争に勝ち残ろうとあくせくしている人間達の努力、

あれを頑張れ、これをすべきだ、税を払え、経済を上げよ等としている現代社会の動き等は、

まるで目くそ、鼻くそのようなものではないか。


生きていることにおいて、肝心なところはそんなものではないということである。

・・・

そう、あなたの最も大切だとしている<身体>も、

それを自分として、当たり前のように思っているその<肉体>も、

自我でなんとか維持しているというのは虚妄の観念であり、

無条件に生かされている事実、与えられている事実、

身体の出現維持の、その・・・下には<膨大な>無償の「愛」があることに、気付けるだろう。


・・・・

そして、さらに身体以外に、さらに貴方にもっとも近いものがある。

それは何だろうか?



 


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どうやって解脱するのか (2)肉体の呪縛を解放すべし

2014-12-14 05:37:48 | 意識の拡大
肉体への呪縛等というと、さもおどろしい表現ではあるが、それはこの世界の多くの存在が自分を肉体だと信じこんでいるということを意味している。
いや、そんなことすらも自問自答することもないかもしれない。

自己とは何か?・・・という、本質的な問いかけを、ことさら自らで起こす事さえもないかもしれないということだ。
・・・
自己とは何かだって?・・・と、真面目に問いかけることがあったとしたら、
それは「この体だろう、それ以外何がある?」・・・ということになるだろう。

何故なら、目に見え、いつも感触を得ているのが最も身近な身体感覚であるからである。
あそこが痛い、ここが冷たい、暖かい、腹が減った、気持ちが良い・悪いというような身体感覚である。

そしてその身体には、出来れば不快感を避け、安楽に維持しようとする機能が自己保存機能として備えられているし、それ自体は何ら問題のない、非常に良くできた自己制御機能であるといえる。


人間がいつも感じているのは、まずこの身体感覚なのであるがゆえにこそ、自分がその肉体であると漠然と「想っている」のである。ちがうだろうか?

・・・
想っているのではなく、それが「事実」だろう?何を言っているのだ・・・と言うかもしれないが、
そういう”認識をしている”という事実のほうに気付かなければならない。
・・・



そう、多くの意識ある存在達が、その意識を使って・・・自分を肉体であると意識しているのである。
それが漠然とした世間常識であろうと、それをそれとして「認識している」ということだ。

また、この世界では、多くの魂達が与えられた身体のその感覚だけを頼りにし、その身体を何とか安楽に、安寧に維持しようと思いつつ人生を送っているはずである。

経済が大事というのも、教育が大切というのも、銭金、地位等が効く等という処世論も、それらがそうした自己の身体を維持するための有効な手段であると信じ込んでいるからである。
突き詰めるとそういうことになるはずである。

・・・
自分が肉体でしかなく、死んだら終わりの存在、そんなものであれば、とりあえずそれを維持することだけが眼中にしかないという事にもなる。

また、その身体環境の維持と向上のための競争で煽られて、それに勝ち抜くことが重要だと言われれば、何をおいても自己保身だけに走ることにもなるだろう。

更に度が過ぎれば、自分だけは取りあえず生き残る・・などと言う話になって、他の存在を押しのけ、あるいは殺してもしかたがないという事にもなるだろう。
・・だろうではなく、既に幾度となく後でいつも後悔をするような、結局は意味不明の戦争を行なってきたのは、どこかの誰か、あるいはあなたやわたしが流れ流され、それも致し方ないと思っている部分があったからではないのか。

それもこれも、自分の肉体だけは、取りあえず保持したいという観念が底にあるからである!

・・・
論語で諭されている、「衣食足りて、礼節を知る」・・・は、
<衣食足りざれば、礼節を知らず>という逆説をも含んでいる。

それは人間の自己認識が、物質肉体レベルに呪縛されていることを示しているのだ。

はっきり言えば、これからそういう自己認識レベルと、そうでない1段と広い認識レベルの間のふるい分けが行われることになる。
それは、肉体の存在の振い分けではなく、認識レベル、意識レベルの振い分けである。


自分さえ良ければ、自分の組織さえ良ければ、自分の国さえよければ・・・、

もっとはっきり言えば、

自分達の肉体保持のための物質、銭金が獲得できれば、地位や名誉が維持できれば、

取りあえずそれでよい・・・という者たちが、一気に世界に炙り出されて来る。

いやいや、既に、目に見えるようになって来ているのだ。

気付けないだろうか・・・?


衣食足りざれば・・・、礼節など知らず

そういう流れが明確に解るのが、銭金を中心としている、今の世界の政治・経済の動向である。

・・・



・・・・


今までの世界は、そういう自己保身に走るだけの忙しい人間達が増えていたということだ。

様々な情報や価値観、物質装置、便利な機械が次から次へと現れるおかげで、何か良き方向に行くのではないかという潜在的な希望を抱きつつ、とりあえず皆で人生を走っていたということである。

常に・・・それで・・何が得られるのか?・・どういう利益があるのか?

そういう呪縛観念でまみれていたのは、自分が単なる死すべき肉体存在でしかない・・という、漠然ながらもそれが当たり前であるという「観念」が故である。

でもそれは「観念」でしかない。
その観念の呪縛こそが、これから、そして今から、解き放されるものである。

・・・

人間がいつも感じているのは、まずこの身体感覚なのであるがゆえにこそ、自分がその肉体であると漠然と「想っている」のである。

想っているのではなく、それが「事実」だろう?何を言っているのだ・・・と言うかもしれないが、
そういう”認識をしている”という事実のほうに気付かなければならないのだ。

ある意味で今までの平均的な人類意識では、自己認識が肉体レベルに固定されていたということである。
 
その固定された観念の呪縛こそが、これから解き放されるものである。

そういう観念にあくまでも執着しているのであれば、

おもちゃを手離すことを嫌々する幼児のように、

無理やり引きはがされると感じるような、文字通り・・苦痛を経験することになるかも知れない。

 
自己は、まず、その表現としての肉体を有す・・・・が、

しかしながら、肉体その物ではない・・・

ことに・・・気付いている・・存在である

・・・



 
・・・
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どうやって「解脱」するのか(1)世界はつまり幻想

2014-12-05 08:00:09 | 意識の拡大
人が偶然にこういう社会で生きて、そして死んでゆくだけと思っている人も多いだろう。

取りあえず、生きるために毎日を「生きている」だけ、

そのために人生がある・・と漠然と思っているならば、全然分っていないかも知れない。


しかしながら、そういう御仁はこういう記事など目にはしないのも分っている。

これをご覧の方々は、すでに、ぼちぼち「解脱」が出来るまで来ていると言えるかもしれない。


解脱というのは・・文字通り「解かれて・・脱する」という意味だが。

それでは・・何から・・解かれて・・脱するのだろうか?

解かれる・・ということは何かに束縛されている・・・ということなのだが、

何に「束縛」されているのだろうか?


それは、あれダメこれダメを規定した社会ルールだろうか。

いつも残高がある借金ローンだろうか。

なんだかんだで病気がちの身体だろうか。

何とかこなしている、実は重たい人間関係だろうか。


騒ぐだけでで、国をどんどん悪くしている政治家だろうか。

庶民の血が流れていようと、是が非でも収奪するための増税だろうか。

本当はどうして良いかわからない子育て、教育だろうか。

危険を安全と言われて、いつも騙され、ひどい目に合う愚かな大衆だろうか。

あるいは、それらすべてを仕組んでいる得体の知れない影の支配者だろうか。

・・・
 
解かれる・・ということは何かに束縛されている・・・ということなのだが、

そういう何か、あるいは人間関係に、あるいは生活のストレスに、

または収奪する社会システムに、あるいは、あなたをいつも騙している誰かに、

・・・「束縛」されているのだろうか?


そういう事だとするならば、外の世界が・・あなたを束縛しているという事になる。
 
また、周りの世界が悪いから、あなたは不自由だと信じているということになる。

それこそが、支配の原型というべきものであり、それこそが原因であることに気付けるだろうか。


では、そういう外の世界の誰かに聞いてみると良いのだが、

「え?あんた、一体何を言っているの」がせいぜいではなかろうか。

そう、世界の誰も、誰もだが・・・、あなたに責任など持っていないし、また関心などないことが分るだろう。

誰も何もしてくれわけもないし、悪いとも何とも思っていないことがすぐに理解できるはずだ。
 
その為の人生経験がある。

そうだろう?

・・・
外の世界、大勢がひしめき合っている世界の・・・何処にも、貴方に対する責任者はいない。


例え親兄弟であろうと、身体の生育や介護等が出来るだけであり、


あなた・・以外に、あなたの責任者、つまりそれを「そのせいだ」という筋の者はいないのである。


どこにもだ。


政治や政府や、尤もらしい宣伝に、眠ったようにして騙されている間は、

次こそは外が良くなるだろうという・・・餌に食いつく「魚さん」のままである。

 
外の世界には、あなたの責任者はいないのである。

誰も何もしてくれわけもないし、悪いとも何とも思っていないことがすぐに理解できるはずだ。
 
その為の人生経験がある。
・・


・・

真実は、

あなたの世界を、より良くしてくれる為の外の存在は・・どこにもいない。
 
政治家だろうが、ボランティアだろうが、何処かの大統領だろうが、親切な宇宙人だろうが、
 
そんなものはどこにもいないのである。
 
居るというならば、それは真っ赤なウソであることくらいはわかろうもん。

そういうことである。

しかし実際、政治家もいるし、ボランティアもいるし、大統領もあちこちいるし、宇宙的存在も五万といるが、

あなたの責任者は「あなた」以外にいないという事である。

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何事であろうと、

それがそうだと認識する・・・全ての認識主体は・・・完全に・・・<わたし>である。

わたしという・・・意識の中心、それがなくて「あーだこーだ」もないし、

間違いだらけの他人の見解を採用する必要ももない。

そうだろう?
 
世界の中心、3次元的に投影している体験世界の・・・真中心は・・・
 
それぞれの<わたし>なのである。

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目の前の時空間や生活空間、社会や国家、そして地球の自然環境さえも、

実は投影されている映像の様なものだからだ。

あなたやわたし達は、例えて言えば3次元空間映画のただ中にいるのである。

そう、あなたは実に立体的に見える、またリアルに感じられるところの、時空間映像を観て感じているのだ。





空(くう)のスクリーンに映し出された立体映画、それを世界と言っている。

言葉を変えれば、全くの「幻想」という意味でもある。

・・・そう誤解ない意味での「幻想」なのだ。

それ以上でもそれ以下でもない。


何十回も経験しているはずだが、

映画館に入った場合、目の先のスクリーンは「空白」だろう。

そして、おもむろに、映像が映し出されるだろう。

そうして、段々とそれに慣れてくるだろう。

展開する映像に、その内意識が入り込んでゆき、感情移入し、ハラハラドキドキ。

そして、その映画もいつか終わって、観客は皆、家路に急ぐことになる。

人生もそれと同じだ。


映画と人生の違いは、ただ2次元スクリーンか、3次元・五感感覚付きのスクリーンかの違いだ。

映画のように座って観ている感覚ではなく、人生という映像のなかに「入り込んでいる」感覚にも違いがあるが、実際は次元の違いだけである。

これは単なる比喩のレベルではなく、我々がそれがリアリティそのものだとしている時空環境は、

即ち・・・空(くう)に映しだされている波動映像、つまり「幻想」なのである。


例えて言えば、地球が映画館で、太陽が光源であるとも言えるだろうか。

実に良くできているではないか。

変幻自在、所業無常を旨とする「幻想世界」なのである。

しかしながら、

それを観ている・・本質である<わたし>は、その中には「実はいない」のである。

何故なら、それを観ている・・・からだ。
 
それを、「それとして観て」いるか、完全にはまり込んで「忘我」でいるか・・

単純に、2つに1つなのである。


 
映画を観て、大抵はマジに、むきになって、映画に向かって叫んだりはしないが、それは結局は楽しい映画だと知っているからだ。
 
実際の人生で、むきになって、叫んだりするのは、それがどうしようもない、嫌な「現実」だと思っているからだ。

そうだろう?

皆が皆、「そうだ、そうだ」と必死になっているからこそ・・、

そういう、嫌々をするような、必死になるような、不都合な仮想現実を観ることになる。


目の前の様々な事柄は「幻想」でしかない・・のに!


多くの人々がそういう「迷いの観念」にはまり込んでいた・・ことに、

今でもそこから抜けていない人々もいることに、

あなたは既に、気付けるかもしれない。

他の人々が、幻想に顔をしかめ、こころを歪ませ、騒ぎに騒ぎ、泣け叫ぶ在り様を見ても、

またそれを悲しむべきでもない。


それは、まだ嫌々の映画経験が十分ではないという存在達なのだし、
 
スリラーや恐怖映画に引かれているだけという事なのである。

・・・・

空(くう)のスクリーンに映し出された立体映画、それを世界と言っている。

言葉を変えれば、全くの「幻想」という意味でもある。

・・・そう「幻想」なのだ。
 
バーチャルなリアリティーのほうがシンプルだろうか。

それは、それ以上でもそれ以下でもない。


映画を観ていながら、そしてそこに自己投入、感情移入しながらも、


それを観ている・・・<わたし>・・に気付いていることが肝心である。


普通、どんな映画も楽しめるし、また飽きたならば、別の映画を観るのも<自分で>決めることが出来るのだ。

また、本来は、楽しくなければ・・・世界は現れていないのである。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。