気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か (19)自らを分けること

2015-12-27 06:50:10 | 新たなる地平線
この世界の72億人が最も重要なものとしているのは何かといえば、

間違いなく、また当然ながら・・・「自分」のことである。

なんだかんだで悩むのも「自分」がいればこそで、

それを何とか良くしよう、維持しようとすることであるし、

今までも苦労をしてきたのは、ひとえに自分の為と周囲の身近な人の為、

他者との軋轢も、またおバカな戦いも、またその「自分」を守ろうとするためだ。
・・・

そう、無意識的か意識的か、大か小かは別として、

また着眼点の違いはあるとしても、あなたも最も重要なのは「自分」に違いない。

そして「自分」とは、一般的概念で言えば「私個人」ということになる。

・・・
人類は今まで一体何をやっているのかと言えば、「自分」達つまり個々人の生存と安楽さを維持・追求するということだ。

自己保身も自己主張も、あるいは自己逃避もまったく自分の、その為。

私個人が大切だから、それを守らなければということで、様々な行為をしてきたというわけ。

あまつさえ、なんだか知らないが、他人から自分を守らなければという風な競争のなかに居たようでもある。

話は全く逸れるけれど、

欧米的的価値観の世界は、特に戦争に負けた後の日本は、皆がそういう競争や頑張りで、銭・金・物稼ぎを出すための経済植民地だったということだ。

oh no!

日本は戦争に負けて、アーラ不思議、民主国家にされちゃった・・ではなく、投資と回収の効率の良い経済植民地にされていたということだった。

それと気づきにくい、姿の小ぎれいな奴隷のような事をやっていたとも言えるだろう。

今でも頑張ってそれをやろうとしている部分もいるようだが、

これら何も陰謀論ではなく、陰の謀(はかりごと)ばかりで出来ていたのが今までの世界。

なるほど、こういう面からも目覚めなければならないわけ。

そう、陰謀論ではなく、陰謀だらけ、嘘の宣伝だらけで出来ていたのが、

今までの3次元的閉塞世界なのである。



・・・

個人が大事、個人が重要という、バラバラの個体で出来たのが烏合の衆、

烏合だから、それをコントロール、支配しなければならないという、ある意味で必要悪が許されてきた。

国家・政府、世界組織、企業連合、利益団体、全てコントローラの部品のようなもの、

それらは全て、自分達の物質的利益の追求団体であって、烏合の衆全体の幸福など、はなから眼中にない。

烏合の衆は待てども待てども、何も来ないことにそろそろ気付いているはずだ。

ところが、その支配という必要悪どうしが、行き着くところまで肥大化してしまい、

最大の利益獲得のための最後のバトルを始めている状況に来ているという話だ。


二つに一つの勝負は、いつも最後になって出てくるものだ。

白と黒の、陰と陽の、虚々実々の「対消滅」プロセスは、すでにもう始まっているし、

まともに世界ウオッチしている識者はそれに気づいているはずだ。

「マジ?えー、どうなってしまうのか~?!」・・みたいな。


・・・

俺が!・・私が!・・という、個人が大事、個人が重要という、バラバラの個体で出来たのが烏合の衆、

しかしながら、その個人という「私」達・・が、根本的に言って、

実は幻想・・、実際には存在していないとしたらどうだろうか。

個人は存在していない??・・

「え?いくら何でも、そればかりはあるはずもない!・・」と思う。


現に、『今ここに私がいるという感覚』は、どうあっても事実だと感じているため、

私個人が幻想など、とてもとても(笑)、

どんな証拠があって?等と思うかもしれない。


でもそれは幻想なのだ・・、ということを理解できるならば、

どんな個人的不満や不幸ともおさらば出来るだろう。

悲しい映画を観終わっても、ずっと泣いている人がいる?わけはなかろう。


幻想である個々人、バラバラ別個の個人同士が競い、争い、誤解し、ぶつかり、いがみ合い、罵り合う事で、不幸や不満や悲しみが生まれているということに気付けるだろうか。

幻想が、さらに不都合な幻想を作り出して、その幻想を見て大騒ぎしている幻想の個人。

あなたは笑えないか?

・・
でも、でも・・、

私という個人が幻想だなんて、信じられないかもしれない。

それでも、それは事実なのである。(ほんとうか?)

信じる信じないは、思考の癖であって、すぐに治らないかもしれないが、

事実は曲げられない・・、そうだろう?


ところで、幻想とは、ぼんやりしたアヤフヤなイメージということではなく、

単に、それが形や現象の移り変わりという意味だ。

ぼんやりした霞ではないが、常に移り変わる個人という現象、

それが、俺が・・私よ、あんただ、彼だという個々人なのだ。


そのものが実体などではないもの、それつまりを幻想と言っている。

そう、「想い」が創る実にリアルに見えるところの「幻」の現象だ。

それが、私個人というもの。


自分という「個」人は、そう、「宇宙・全体から分離した自分」という幻想。

宇宙・全体とは隔絶した、別個の実体とでも思っているからこそ、

何かが不安で、恐ろしく、自己を守らなければならないとなる。


宇宙大生命の饗宴のなかで生かされているのではなく、

個々が必死て生きてゆかねばならないと勝手に思い込むこと、

それが集団発生することで、個々人という生存バトルの世界が造られる。

それが今までの地球という学習場だった。


おいおい、天地万物があって、わたしは生きている・・という事実を、

どうして忘れたんだろう?

これこそ、ある意味で・・奇跡と言えるもの。

なんとまあ、この時空はそういう学習場でもあったわけだ。


全体が畳み込まれた部分と見える、人間という意識体が、

いつかそれがちっぽけな肉体個人に特化し、

体重何kg、身長何cm、あれ?背が低いな・・、

顔が良いぞ、金持ってるぞ、お前より偉いぞ・・、

とか何とか、別個の個人という演技を、実に何千年も過ごしてきたのかもしれない。


でもそういう宇宙全体から分離した個人は幻想なのだ。

例えば、輪廻転生、生まれ変わりという生命の転換作用に気付いている人は、

その時々の個人生命は一時のものだとわかっているだろう。

何かが怖い怖いと思っていれば、道ですれ違う、

なんということもない、変なおじさんにも警戒するかも知れない(笑)




しかしながら、それが当たり前だとしている、

私という個人さえも幻想であったということに気付くのは、

実に極め付きのことであろうか。


・・今ここに「私」がいるという「感覚」・・・は五感としての感覚、

ただ、あるのは「感覚」あるいは「触感」であって、実体そのものではない。

私という感覚があるだけで、個人的実体は存在しないということ。

自己観察をすればすぐにもわかるかも知れない。

私という個人を設定している・・何か気づいている「働き」はあるが、

「私個人という実体」はどこにもなく、あると見えるのは、

感覚から生じる総合的な存在感だけであり、

私個人というのはそれは「概念」でしかない。

・・・理解可能だろうか。


まだ意味不明かも・・だが、単にそれは今まで調べて来なかったせいである。

外側ばかりで自己内面を調べていなかったという話であって、

それを調べたら、実際に「私個人」が発見されないという、衝撃の事実を知ることになる。

世界を覆い尽くす、様々な観念、概念が・・実際とは違うということは、

このことからもわかるものだ。

その極めつけは、

概念が独り歩きして、自分という私個人を創っていたことだ。

・・・

私個人は無く、ただ生きている・・複雑で総合的な生命感、臨場感のみがある。

そして、それに気づいている意識があるということだ。

あるいはそれを可能にしている、宇宙に遍満する意識があるとも言えるだろう。

在るのは、それだ。

そしてそれは、常に今・・ここに現にある・・。

あなたや、あなたの周りや、家族や、空の景色や、五感や六感で感じるあらゆるもの、

多い少ないで騙されてはいけない。

今在ることそのもの・・!



普通であれば、個人が幻想だなんて、全然意味不明・・・(笑)

それはそうだ、

今まで個人だ、個体だ、肉体だと盛んに吹聴する世界で馴染んで育ったわけで、

生れてすぐに固有名詞としての名前が付けられ、

例えばあなたは山田太郎だとか鈴木花子だとか、そういう

独立個人として、個体としての自分が全てとしてきたわけで、

全体という、あらゆる全てから『分離した個人』としての感覚が強烈に根付いている。


自意識・・が、個別のバラバラの「意識」としてスタンドアローンしており、

宇宙全体というサーバーシステムから外れていると信じている・・という表現は、

結構わかりやすいかも知れない。

確かに、今どきそんなパソコンやスマホは有るはずもなかろう(笑)


俺だ!、私よ!、あんただ!君だ!・・・という自分感覚は、

あるいは固まった自意識同士の、競争や戦いは、

全体と分離した自分・・を醸し出しているのである。



自分とは・・文字通り・・自らを分ける・・ということ。

『わたし』・・が自ら、分離して、私という個人を創るということ。

『わたし』・・とは、自らに気付いている「意識」であり、

「全包容的意識」が自らを分けて、「自分」というもの、

個人という「私」に分離しているということを示すのだ!

 ’OH MY GOD!’

これは、神が神に・・言う言葉だ。

・・・

自らに気付いている何か、あるいは何でもないもの、逆に何にでもなるものが、

様々に次元降下して、様々なそこ、ここに、出現、出生するという物語を始めること、

<わたし>を出現させることが、人として在るということだ。



様々にわたしが在る・・ということは、

自らを様々に分けて、自らを創造・展開することなのである。

当然ながら、昔から神と言われるそれ、

何でもないもの、それは「無限」そのものであるがゆえに、

有限という現象としての姿を様ざま表現しており、

その様々な変化して出現する「私個人」自体は、またそれ、幻想でもある。

そう、

「私」という個人は幻想であり、実在する・・ものではない。


この世界でずーっと悩み苦しんできた「自分」

栄光と挫折の狭間で揺られてきた「自分」

人と人の間で苦渋や感動を味わってきた「自分」


まったく投げやりな意味どころではなく、

「自分」とは、展開する影絵、幻想であったということに気付けるならば、

きっと大笑いに笑えるはずである。

そして、これからは、それを楽しむことが出来るはずだ。

これはその筋でいうところの「次元上昇」ということだ。


見る、聞く、感じること、五感で経験しているのは、

個人としての「自分」ではなく、

普遍的な何か、また何でもない、無限のそれ、未知で満ちているそれ、

あなたも私達も、何もかも全てがそれの現れである。

あなたも「それ」に気づいただろうか?


 ’OH MY GOD!’

ちなみに、これは、神が神に・・言う・・言葉だ。


本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。




わたしとは何か(18) 空(くう)より来たるもの

2015-12-20 08:06:46 | 新たなる地平線
人は皆、「魂・意識」「こころ」「肉体」という相があり、

三位一体で示すことが出来る「意識生命体」であると言えよう。

人間は、死んだら終わりの単なる肉体なんかではない。


今この世界には、まずこの事実を認識すべく、様々な情報やメッセージが出てきている。

非常に稀有な時代、特別な時が来ていることに、

出来るだけ多くの眠れる魂達が、明確に気づく必要がある。

銭・金・物・地位や名誉や、世界の動乱など、全く意味がないことも知っておくべきである。

・・・

古来より、この世界の社会的マトリクスの中で夢を見ている人々が、

まずその夢から覚めるために、

いわゆる低次元から高次元への意識的探究をしてきた、つまり意識的解脱である。

3次元マトリクスからの離脱、解脱の代表的なものは、

肉体身⇒ 精神・こころ⇒ 魂 への拡大・上昇ルートである。

その推進力は意識の進化によって生ずるということ。

物・銭・金、地位や名誉、様々な事物への執着は逆に降下への力となる。

誰にでも適応される、わかりやすく言えば意識の力学のようなものである。

・・・

今、誰でもそこに居て、ここに居て、自らの有様を観ることが・・その梯子となる。

例えばジャックと豆の木の物語は、天へと至る意識的「梯子」を示している。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の物語も、それを示している。

だが、天とは物理的な空間のどこか・・ということではない。

だからといって、今までのここ、この時空間ということでもない。


誤解が出そうな表現かも知れないが、それは次元と言ってもいいかもしれない。

今、ここ・・このような時空間ではなく、お花畑でいっぱいの時空間でもなく、

そういう外側に投影される世界というものではなく、


真のわたし・・あるいは空(くう)だ。

空(くう)だからこそ、何にでもなりどんな経験も可能。

真の自由ともいえる。


それなくしてどんな存在もありえない、それ、

それは空(くう)と呼ばれる、無限の包容であり、

無限の可能性であり、

従って、感情的意味合いを含むかもしれない、

無条件の、無限の愛とも呼ばれる、それだ。

真のわたしを指し示すものは・・それ。

1億円で買えるようなものじゃない(笑)


いつでもどこでも常に在って、それに気づかない部分を残していることを、

人は皆、生命は皆「魂の進化の途上にいる」・・という表現をしている。

いま在るわたし・・を真剣に観ることは、

その進化という、魂の聖なる遊びを思い出す事だ。

誰でも子供の時の遊びは実に楽しかったはずである。



言葉や知的表明は、あくまでも方向指示器でしかなないが、

今ここで、人間とは何か、わたしとは何か?という問いかけの、

その答えの方向を指し示すとするならば、このようになるかも知れない。

・・

①肉体、物質表現体は、

「肉眼で見る」ことが出来る「わたし」の部分、

つまり五感で感知できる次元の「わたし」のことだとも言えよう。

いわゆる肉体身である。

誰でも大切に思っているその肉体の部分(物理相)だ。

見る・聞く・感じるという五感で感じる「自分」という「存在感」でもある。

飯を喰う、排出する、歩く、景色を見る・・等という動きのことであり、

普通はそれが生きている事、いわゆる現実生活としているものだ。

人が動き回って、何かをしていることを・・現実生活と呼んでいる。

そうだろう?

しかしそれらすべては実体ではなく、存在感、単なる五感の情報、感触なのである。


わたしの物理相とは、肉体そのものというより、

肉体による存在感、臨場感というべきものである。


②精神・こころ(マインド)は、

それらの行為に対して’意識的に気付いている’「わたし」の部分である。

五感で感じる様々なことに・・気付いている「わたし」の

・・・様々な意識的反応・・が、つまり、こころ・マインドと言われるものだ。

あれは嫌いだ、好きだ、正しい、違う・・などというこころの反応。

当然それ自体は、肉眼では見えない。


③魂・意識は、

そのこころ・マインドの反応・動きに対して

’意識的に気づいている’「わたし」の部分である。

「肉体身」の経験や反応に気付いているのが、「こころ」であり、

さらにその、「こころ」の反応に気付いているのが「魂」である。


魂という名づけが適当かどうかは別として、物質や時空間に左右されないもの、

わたしの「本質」としての無限性のことを「魂」と言うならば、


それは、肉体やこころ、マインドを超えているからこそ、

それを観ている、気づいていることが出来る・・。


あなたが自分の体を見ており、そして、こころやマインド観ていることが、

あなたが’それ’であるという証なのだ。

当然ながら、物的証拠を見せろという物言いが、

まったく見当違いも甚だしいことがわかるに違いない。

自らが、それなのに、どうして他所から証拠を持ってくる必要がある?



空に高く上がった鳥が、地上を一気に見渡すことが出来るように、

次元を上がるほど、その下位というか。それを含む「部分」を観ることができる。


肉体・物質顕現相は、マインド・想念の相に含まれており、

マインド・想念の相は、魂あるいは「意識」に含まれているということだ。

そういう言わば質的な相の違いを次元の違いと言って良いだろう。

今ここに重なって在るのが次元相であり、何処かの別の時・場所ではない。


わたしが物でもなく、肉体単体でもなく、

精神やこころの反応そのものでもなく、

それらに気付いている・・意識・・と言って良いそれ、

それで満ち満ちているのが、空(くう)なのだ。

満ち満ちているのが空(くう)というそれ、

嗚呼、空っぽ、ああ何もない、・・あれくれ、これよこせ・・

違うだろう(笑)


空(くう)が無ければ、何物も、何事も起こり得ない。

あらゆる全ては、何でもないもの、言わば空(くう)であり、

空(くう)であるからこそ、何でもそこに有ることが出来る。


空(くう)に不可思議にも、意識が生じ、意図や想いとなり、

それが運動・エネルギーを生じて森羅万象、現象、肉体身としても現れる。


万物は皆 空(くう)より生じ、空(くう)に還る。

これが我々の日常、毎日の生活、社会や国家や、ひいては地球、宇宙大自然の、

全ての元にある現実、真実である。


一体全体、なにがどうしたというのか?

常に、こころは騒ぎ、様々な観念の世界を創り上げるけれども、

それは空(くう)に投影されたる、こころの影法師で遊んでいるようなもの。

それはそれは、実に楽しい遊びなのである。


そう、宇宙の全ては、ただあるがままの創造であり、

何かありそうで、何かあってもなくても、何も問題なく、

大も小もなく、低いも高いもなく、多いも少ないもなく、

死ぬも生きるもなく、怖いも怖くないもない。

死んだらようやく悟れるということもなく、生きているのが地獄ということでもない。


全ては空(くう)というカンバスに、

マインド、こころが描き出す様々な物語なのである。


人も皆、元は、空(くう)であるからこそ、そこに、ここに出現しているのだ。


万物は皆 空(くう)より生じ、空(くう)に還る。

これが我々の日常、毎日の生活、社会や国家や、ひいては地球、宇宙大自然の、

全ての元にある現実、真実である。


何でもないものが、全てであり、

あらゆる全ては、何でもないもの。


あっけらカーンとした空(くう)を曇らせているのは、

その空に浮かぶ黒雲という、

あなたの、こころ・マインドの不安なるざわめきだけである。


意識の点が、そのこころという黒雲の中から出て行くことが出来れば

無限の空に、ぽっかり浮かぶ雲の景色全体をも観ることが出来るだろう。







本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

わたしとは何か(17)五次元とは?

2015-12-15 08:13:21 | 日記

●時間はどこにある?
今の我々の世界は物理学上では4次元世界とされている。

アインシュタインが示したように、空間と時間、XYZの3つ方向の空間と、時間tで表わされる4次元世界である。

つまり、この世界での現象は全て、あるところ(場所)で、いついつ(時間)何が起きたか、という表現で示される。

物理現象は全て4次元座標軸で示すことが出来るということだが、ところで「時間」というのは視覚化出来ないことに気付けるはずだ。

「おーい、時間はどこにあるのか、見えないけどな~」。
・・・




●時間は観念・概念でしかない

実は「時間」というものは存在せず、それを言うなら「時間」とは、

空間の中の事物の動き、運動の変化のことなのだ。

「時」と「時」の間、<時  間>、つまりある時と次の時の間(あいだ)、

瞬間と瞬間との間(あいだ)であり、その実体はない。

時間とは、

変化のストリーム・変化率とその記憶のことで、時間量t等は、便宜上の座標軸要素であって本来存在しない物理量なのである。

我々が常日頃使っている言葉、時間、それに追いまくられ、あるいは持て余す時間というものは、実際存在していないものなのである。

人間が世界や宇宙の動きを観測する、観察する、知覚するという意識的な働きによって、

その変化の一連の流れ・ストリームを記憶していることが、時間の流れという感覚を生み出して、あたかも時間が流れているように錯覚しているというわけだ。

「時間」とは単なる概念であって、実物として存在していないということ。

●時間は「変化」のこと

ある空間の中で、そこで何も動いていなければ、

それは時間が止まっているという話になるし、そこに時間の経過を感じることなど出来るわけもない。

空間の中で様々な事物が動いているからこそ、

時間の経過などという感覚が生まれるのだが、実際に「時間」単体というものは実在しないのだ。

時間は、原子時計や柱時計の針が「創っている」のではないことは知っているだろう。

そう、時間は、時と時の間・・・、つまり事象と事象の間(あいだ)のことであり、

それ自体は、空(くう)としか言いようがないものである。

・・・

宇宙に在ると観察されるものは、空(間)とその中のエネルギーの動き、変化だけ。

時間など、思考・観念以外、どこにも存在する余地がない、余地がないと言うよりも、変化しかないのだから。


●五次元認識で生じる世界
宇宙を観察する意識、つまり意識的存在であるところの人間は、

そもそも存在しない時間に縛られている・・、という、そういう観念を外すことで、

より自由度が得られるために、ストレスや強迫観念が消滅し、

結果として、寿命なども平均的なものに縛られる必要などなくなるだろう。

在るのは時間でなく単なる観念だということを悟るべきである。


ところで、五次元的世界とは、四次元を超えたものとされるのだが、

新たに1次元追加して4+1=5次元というものではなく、

時間と空間という四次元要素が、・・実在しないものであるという「認識」によって

浮かび上がる世界のことである。

これからの地球のコアとなる存在ステージはそれである。

今までは、時空間という四次元要素の中に、私がいるとしていたわけだが、

そこ、四次元要素の中にはもういない「私」という表現形態が現れてきているということ。


そこでは、局所的な時間や空間という仮想の囲い、檻(おり)、牢獄が存在しない。

身近な表現では、あるいは時空間での自由度が飛躍的に増大するとも言えようか。

・・・

実際、こういう世界は、空(くう)たる無限の宇宙に無数にある。

心霊やら死後の世界やらの説明は、そういう様々な認識世界があるということを意味し、

また宇宙には高度な星間文明やら、宇宙人の文化文明やらがあるとされるのも、同じことを意味しているのだ。

霊的なこと、スピリチュアル、UFO、宇宙人の話等、すべては一つの方向性の話を、

別々の角度から表現しているだけの話である。


多次元世界、霊界、幽界、物理界などという表現をされる場合や、

他の宇宙人文明等という表現をされる場合もあるわけだが、

同じことを別の表現で言っているだけのこと。


人とはそういう多次元世界を観察できる意識的存在のことであり、

宇宙の創造に参加している、あえて様々な無限点から宇宙を観ているところの、

個別の神々と言えようし、

多次元宇宙の中にいるとして、それなら宇宙人だとか、

高次元的な存在観点から言えば、天界人などとも言えるだろう。


枝葉の概念にこだわることで、更に枝葉が出てくるだけのことだ。

意識の進化という、魂の楽しい帰還の道には様々な風景があるように、

<わたし>・・の表現形態がより自由度の高い、「私」表現に移行している姿を示すだけのことである。

・・・

アジアの高地のある地域の人々の平均寿命が異常に高寿命なのは、汚染されていない自然環境のおかげでもあるが、巷の汚染された観念とほぼ無縁であるからだ。

彼らには、何の財産も知識も医療もないように見え、遅れた山岳民族である等と思う「癖」があるかもしれないが、それは物持ちが幸せになれるという「超おバカな観念」から来ている奴隷思考なのである。

それは例えば、江戸時代が不幸で、明治以降が素晴らしい等という仕込まれたウソの観念と同じなのだ。

起きている自然のサイクルの中で、ただ在る事、そしてそれなりに変化のサイクルに合わせて表現する事、つまり自然に沿って働きつつ気付きを拡大することのなかに、

どこに追いかけられる時間や、無理に働くことの重さがあるだろうか。

いいや、決して有りはしない。

●3次元的牢獄は崩壊した

超高級スポーツカーや、オール電化の超豪邸を持っているからこその幸せだと・・そんな話は誰もかつて聞いたことはないだろう。

時間に追われ、区切られ、その中でギャーギャーと騒ぎながら、物・銭・金、威力や物的富を集めるように仕向けられている、いわゆる文明人のほうこそ、相当に遅れた存在であることに気付けるだろうか。

急き立てられるような忙しさが、さも立派なことだというウソの観念、「時間という牢獄」に集団で入っていたようなものだ。

お互いの顔色を窺がいながら・・・。

しかしながら、原因側においては既にそれは崩壊した。

後は、崩壊していることに気付けるかどうか・・・だけである。

ここが肝心なところ・・・。

時間を買うために、銭・金・物が与えられる・・とかそんな話ではない。


●時間という幻想の檻(おり)

なんと人間は時間に縛られていたことだろう!

時間で縛られ、社会的なプログラムで追いたてられ、恐怖で一方向に釘つけられてきた。



よけいなお世話だが、ここで笑いが起きるべきであろうか。苦笑いかも知れないが。

しかしながら、人によっては、

古い世界でのこころの淀みの蓄積が、未だ「意識内面の壁」に付着しているかも知れない。

あるいはローン支払いや子育てや、仕事のタスクを終わらせなければ、どうしようもないという観念で突き動かされているのかもしれない。

人々は、時間で区切られ、時間で制約され、時間で労賃が決まり、時間で生命の長さが決まるような世界にいたということ気付く時である。

ある意味で時間とは、国家、社会生活での便宜上の時間割ということなのだが、

いつの間にか「時間」の牢屋に入っていたことに気付けるだろうか。

そうして、「時は金なり」という観念の流布によって、今は「お金」で縛られていたのが人類の基本的現実なのである。


何もここで理想論を言って気休めを得ようとしているわけではなく、現実逃避を試みているわけでもなく、大所高所からみた今までの人類社会の事実、真実を示しているだけだ。

そう・・・、存在しない時間という観念に縛られていたことに、薄々でも、判然とでも、愕然とでも・・まず気付く必要があるということなのだが、あなたはどうだろうか。

I AM THAT I am.

本来、何かにすがりつく必要もない。

なぜなら、わたしの本質は、何でもないものだからだ。


●時間は存在しないゆえに、終わりも始まりもない

死んだら終わりだ・・とする観念さえも、時間の始まりと終わりを想定している。

死んだら終わりなのは、わたしではなく、借り受けている「身体」のこと、

この地球という生命・生態系から借りているところの肉体のことだ。

現象の移り変わりに、そこに大きな変化があることで、

人間の思考は、何かの始まりと終わりという観念を創り上げる。

そして・・私・・が消えるという恐怖におののくわけだ。

しかしながら、わたしとは本来何でもない者であれば、消えるも終わるも始まるもありはしない。

ただ在るのは、変化だけだ。


生とか死とかいうのは、造られた局所的な始まりと終わりの観念でしかない、

変化、変転するのは着替えるわたしのまとう衣装のほう(個人の私)であり、

またそうでなければ面白くないだろう。

いつも同じ服では・・ダサいことこの上なかろう?(笑)


私個人とはその時々の衣装のようなもの、

それを意識している働き、気づいている「今のそれ」が・・真正の「わたし」である。

わたしとは、一過性の特定の個人そのものではなく、

それらを幾らでも演じるところの、何でもない者である。


何でもないから、何にでもなる。

何でもないから、いつでもどこでも現れることができる。

また空(くう)であるからこそ、どんなエネルギーも物質もそこに存在出来る。


大宇宙はただ調和と変化がありながら、

そこに始まりと終わりというものがどこにも無いことは明白である。

始まりとか、終わりとかは観念、概念でしかなく、永遠なる変化の一部を観念で切り取って、

ここから始まり、ここで終わると言っているだけのことなのだ。


人にあっては・・わたしが・・今在ることのなかに在る永遠に、既に気付けるではないか。

今までも、今も、今からも在る・・事実は、今この瞬間にある。







本日も拙い記事を御覧いただきまして、誠に有難うございました。

わたしとは何か (16)私とは=実在しない者

2015-12-05 06:26:47 | 新たなる地平線
わたしとは実際には「存在していないもの」を意味する。

そんな話をすれば「えっ!、そんなはずない」と言うだろうか。


何故なら誰でも、いつでも、今でも「自我」という感覚が続いているからだ。

そうだろう?

あなたは今でもそういう風に思っているだろう?


体は重いし、この頃は寒くなってきたし、家の中は相変わらずだし、毎月の支払いもあり、

まー何とか生活しているが、そういう私が存在していないはずはない。

冗談じゃない・・、馬鹿言うな・・・。(笑)


これが世間一般の常識的な思考であり、またこういう話、

実際には、私という個人などいない・・等、

そもそも議論・検討すること自体が普通はあまりないことである。


「私」が存在していない?・・何?その話・・?

でも、こういう人は、目覚めかけていると言えようし、実に目出度いことである。

赤ん坊が生まれた時に誰でも祝福されるように。

実は「私」など、はなから存在しなかった・・

そういう事実までたどり着く可能性が見えてきたからだ。


実は私などはなから存在しなかった・・あ~?

そんなの絶対あり得ない~!・・類(たぐい)のことだが、

事実は小説よりも奇なり・・どころではない衝撃の真実である・・。


俺が先だとか、お前はダメだとか、あんたは大嫌いだとか、

もっと俺たちによこせとか、私は人より綺麗になりたいとか、

私はまだ死にたくないとか、俺は心より金のほうを選ぶぜ、・・とか、


そういう「私」は実際には存在していない。

??意味不明・・・


でも、ある思考の切り口で近づくとすると・・・、

それらは全て移り変わる「現象」だということがわかる。


現象、つまり今起きていること・・以外の、何ものでもないということだ。

私・・という事象もそう。


現象や出来事、人生もそうだが、そういう事象へ、個別に「ラベル付け」しているということだ。

実は、「私個人」・・というイメージも、そのラベル付け、概念、観念でしかない。


I am that I AM.

わたしとは、わたしが気付いている・・それの働きのこと。

特定の個人などではない。


何度も言えるが、これはあなたは創造主、でもあるということだ。

だから神々と言って良いのだ。

重い身体を何とかして、ビューと空を駆け巡ることではない、

でかい体で海をせき止めるポセイドンでもない(笑)。


もっとも、今まで何千年もだが、様々な観念ラベルを自分に張り付けて、

ラベルで覆われたぐちゃぐちゃ卑小な個人を、それを自分だと信じ込む・・

そういう創造だったのだが・・、

嗚呼・・!と言って悩むことなど何もない。

この際大笑いに笑ってしまうのが良い。


・・・

感じられるだろうか、

生きている命、活動する意識としてのわたしは在るが、

別々別個の個々人というのは幻想、あるいは概念でしかない。

特定の個々人とは、単に観念的なラベル付けということだ。

例えば、

あなたの世界で俺だ、私だ・・と言っている他人は、あなたの世界という中で、

起きている現象、人型演技的現象というようなものであって、

私だ、俺だと言っている、主張している個別の人格現象に遭遇しているという話だ。


あなたの世界で、いかにも真実そうに見える、

実在しているように見える多くの他人は、

絶対の実在等というものではなく、起きていることの中の言わば仮の出演者、

ある意味であなたの為に出現している、別バージョンのあなたと言えようか。




なぜならば、あなたの世界をそこで、

そこから観ているところの当の主体は、・・あなたという意識・・しかいないのだから。

実際、あなたが眠っている時には、世界は消えているだろう?

また起きて、同じ生活があるからと言って、ずーっと世界が有るなど、

誰も証明できないではないか。

・・・

みんな、俺が、私が、いや儂(わし)がと、頑張って生きているわけだが、

I am a man・・・は起きている現象説明であって、真実等ではない。

I am a lady・・も起きている現象説明であって、真実等ではない。


そもそも、真実というのは「窮極の何か・・」を示す「観念」「概念」でしかない。

また、

現象は移り変わるものであって、どれが「真実」であるとは言えないし、

変化し続けるものは、どの瞬間こそが「実在」である・・とも言えないのである。


枯葉が木からハラハラ舞い落ちる時・・・どの瞬間、ショットが真実だとは言えない。

あらゆる出来事、事象、現象の中には、どの瞬間、どの領域、どの部分だけを取って、

さあ、これこそが事実だ、真実だ!・・ とは言えないのである。


・・・

人間関係がどうの、対人関係に苦悩があるとか、人間が嫌いだとかは良くあるが。

まず、あなたの世界の中には、絶対的な意味での、あるいは真実の、または事実としての、

他人という「個人」は・・・実在してなんかいない。


個人という現象はあるが、それは今起きていることの中の一コマのことだ。

その一コマの中の人格が、口をきいている、主張しているという話なのだ。



ただそこにあるのは、

それらを見ているところの「意識」というか、「気づいている」・・それ・である。

それ、今のそれ、それ以外は、移り変わる事象、いわば仮の投影、

観ているのが、真のわたし・・意識、あるいは気づいている・・それ。

それは決して、俺やわたしや僕という個人ではないということ。

それらの元にある・・それ・・というしかない、何でもない者。



大勢の他人とは、あなたがDVDビデオを楽しんでいる、

その物語の中の人物達のようなものである。


映画やDVD映像は2次元平面への投影であるが、もっともらしく見えるものだし、

この世界の現実とされるものは、3次元立体的であるが、それももっともらしく見えるものである。

それは言わば生きて経験している臨場感、

この世界で、見る・聞く・触る・味わう・嗅ぐ等の五感で総合的に感じているために、

尚更もっともらしくなっているし、あなたはそこに入り込んでいるわけだ。

私がいて、ここに有り、座っている・何かを見ている・という感覚は、つまり臨場感。


体があって、そして重量感や温度感覚もあるし、視覚や聴覚等とい五感感覚を感じている。

確かにそうだ、それが現実だ・・・! やっぱり、現実が・・・、


しかしながら、その現実と言うのは何かといえば・・

そう、持続する時空間の中で、五感の感覚で何かを感じているということ。

体の重さ、皮膚感覚、周囲を見る視覚、生活上の音などを感じている。

だからそれらを集合的に感じている者、つまり「私」がここに有ると想っている。

つまり自我意識であり、それは

感覚の持続と記憶によって、私は個人だという見解が生まれているということ。

見解というのは思うことである。


通常、赤ん坊の時の記憶がないのは、当然ながら「記憶」の蓄積がまだ少ないせいである。

つまり特定の「個人」というのは、「記憶」以外の何ものでもない。

だから個人は死んだら終わりだが、エネルギー保存則のように、

その記憶は持続されるために、別の人格へと転生、生まれ変わる。


もっとも、今までこの世界ではそういう認識が広がっていないため、

魂と言われる、活きている微細で膨大な記憶、それを思い出すのは至難であり、

多分あなたも過去生なるものの記憶はそれほど多くないか、

全く浮上してないのかもしれないが、そんなに気にすることもない。


私・個人というのは有るように見えるが、実際は実在しない、


人生での「個人」という仮の自己像、自画像のために、必死になって喚(わめ)きまくる必要もなく、

別バージョンの自己である他者との軋轢や争いも、気づけば実にバカバカしい。

ましてや仮の自己像を維持するため、恐怖や苦悩に沈み込む必要もない。

一体全体、だからどうしたっていうんだい?(笑)



普通はなかなか自己の在りようを調べないで、人生を他人の真似して、無意識のまま素通りしているのだが、

多少自分自身の在り方を真剣に調べてみれば、そういうことである。

他人が今眠っていようと、どうであろうと関係ないのである。


わたしとは何かって言えば、何でもない者ということだ。

何でもないものだから、何にでもなる。(笑)


繰り返すと、

多くの人は、体の重さ、皮膚感覚、周囲を見る視覚、生活上の音などを感じている。

だからそれらを集合的に感じている者、つまり「私」がここに有ると想う、

個人だ、私だと思うし、社会もそうだそうだと言ってきた。

みんなそう言っているよ!というウソで造られた社会、

個人の権利だ、自由だ、金稼げ、経済を上げろ・・(笑)


個別の身体で別々に行動しているものだから、皆バラバラだと思うし。

そして個人というものが単独に有るように錯覚している。

でもそれは観念・概念で創り上げたもの、


それが「私」という個人の幻影を創っている。

でもそれは一時の仮の自画像であり、また

まるで創造主の特殊なお遊びのようなもの、


過ぎては去り、来ては行くもの、

今のこの瞬間の絶えない変化、

今の・・ありのままの生、意識経験、それへの気付き、

それ自体が・・実際に有り難い事実・・・つまり奇跡なのである。



もともと、特定の個人など実在なんかしていなかった。

そして、それが元での苦悩や怖れ、

そんなものは単なる概念でしかなかったということが、

明らかな生の経験、今在るということが、

実感で浮上してくることに気付けるはずである。



余計で重たい概念や観念を取り外すことで、

在るがままの生にもどる事が、そう悟りと言えようか。

外して手放す、ことが・・・それだ。


無理に想いを丸めて、このやろ、エイや~、ではなく、

チョット調べる意識的努力は必要だが、

ここでは、

「ありゃりゃ~、こりゃウソだった!」と気づくことを・・捨てる・・と言っている。



個人としての私・・これが最後に手放す「観念」である!



「私」が存在していない?・・え、何?それ・・?

わたしとは何かの探究において、実に目出度いことである。


ちょっと早いが、

明けまして、御目出度う、ございます。

そういうことになる。




本日も拙い記事を御覧いただきまして、誠に有難うございました。