気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りの道標(15)アニタの臨死体験 注釈

2016-07-30 06:12:00 | 人間とは何か
これは臨死体験の1つの報告例だが、様々な臨死体験記録の中の、ポイントと思われる部分に、勝手ながら注釈を加えたものだ。

臨死体験と言う表現は、生と死の狭間の体験という意味合いであり、そのどちらにも「わたし」という”意識”、そう意識というしかない、それが在ることがわかるだろう。


アニタの臨死体験

私はがん(ホジキンス・リンパ肉腫)の終末期にあり、自宅で療養していた。私は、酸素ボンベにつながり、看護師がフルタイムで付き添っていた。その日2006年2月2日の朝、私は目を覚まさなかった。私は昏睡状態に陥っていた。私の夫が医師に電話をかけた。医師は、すぐに病院に連れてくるようにと言った。この老練な腫瘍学者は、私を見ると、夫に言った。「手遅れです。臓器は既に機能停止に陥り始めています。後36時間は持たないでしょう」。医師は続けて言った。「できることは何でもしてみるつもりですが、回復は見込めません。既に、臓器が機能していないからです。心の準備をしておいてください」。その時、私の身体は膨張し始めており、皮膚には損傷が現れ始めていた。薬剤や栄養剤の点滴のため、また酸素吸入のため、いくつものチューブやパイプが私の身体につながれた。

(・・・決して本意ではないが、余命いくばくもないかもしれない・・という現実を知覚した段階と思われる。つまり覚悟せざるを得ない状況にあったという事が言える。)
.
私は、この間、意識を出たり入ったりしていたのだと、はじめは思った。なぜなら、私は、私の周りで起こっていたことを全部知っていたからである。しかし、あとで家族や医師に確認したところでは、その間、私はずっと昏睡状態にあったのである。私は、私の病室から10数メートル離れた1階のホールで医師と夫が会話する姿を見、その声を聞いていた。私は後で夫にその会話の内容を確認し、夫を仰天させた。

(・・・馴染んだ3次元空間のなかの肉体内にある・・としていた「わたし意識」が、その中に留まらず、四方八方に拡大していることを示すもの。意識は・・そこに在ると意識するところに在る、と言う意味もあろう。)

やがて、私は次元の境を「越えた」。私はそこで完全な愛の中に包み込まれた。

(・・・「越えた」という表現は、わたしの在り方・・が局限された3次元的制約を超えたということを示している。次元のベールを超えたということであり、また制約された意識が無限性へと拡大することで、宇宙の本来の法とも言える、愛というしかないものに包まれたことを表現しているようである。)


そこで、私は、なぜ私ががんにかかったかを完全に理解した。さらに、そもそも何故この人生を始めたのか、家族の一人一人はその中でどんな役割を演じたのか、そして、人生というものがどのように機能するのかということも完璧に理解した。この状態で私が理解したことは、とても言葉では表現できない。言葉には限界がある。

(・・・人生とは何か、どうして今に至ったかを、パノラマを観るように明確に「知る」こと、あーでもない、こーでもないという思考ではない、直接知といって良い。魂の目的は成長にあることをも意味していよう。)


私のいたところでは、この3次元世界では決して心に受容することすらできないものが如何にたくさんあるかということを理解することができたのである。私は、人生がどれほど素晴らしい贈り物であるかということを理解し、また、私たちが気付かない状態でも、如何に多くの霊的な存在が私たちの周りにいて愛してくれているかを知った。

(・・・なぜ局限された世界にわざわざ生まれたのか、そしてその為にどれほどの霊的サポートがあるのかを悟ったのだろう。誰でも親の気持ちになれば推して図れるものである。)

私は圧倒的な量の愛を感じ、その視点から見ると、私たちがどれほどパワフルな存在であるか、人間としての物質世界の人生の中で、どれほど多くのものを獲得できる可能性を秘めているかということを知った。私は、その時、私の人生の目的は、この新しい知識を用いて「地上で天国の生活」を送ることであり、この知識をすべての人に分かつことであると知った。

(・・・逆説だが、天国は真実在る・・けれども、それを地上にも創る・・べきものであるということを示していようか。
次元上昇とは、あらゆるものが愛という根源に近づくプロセスであり、
「既にある」を、ここかしこに形態表現として表現することが、わざわざ荒野の様な地に降り立った、喜々とした魂のゲームともいえようか。)


しかし、私は、地上に戻るか、このまま死に向かって進むか、選択しなければならなかった。私は、今はまだ死ぬべき時ではないとわかった。しかし、いつでも選択の権利は与えられている。もし、私が死を選べば、私の残りの人生が私に与えてくれる贈り物を受け取ることはできない。はじめ、私は、戻りたくはなかった。なぜなら、私の身体は重い病気にかかっていたからである。私は、臓器が既に停止しており皮膚に損傷が出始めている身体に戻りたくはなかった。しかし、ほとんど瞬間的に、私は知った。もし私が戻ると決めたら、私の身体は急速に回復するということを。月や週の単位ではない。数日のうちに変化は現れるはずである。

(・・・選択は常に我にあり・・魂の選択によって、身体や物質環境はそれを表現するものだということだ。本来つねに意識が先で、物質や現象はその表現形でしかない。)

私は、それから、病気がどのようにして、最初エネルギーレベルに現れ、それから肉体レベルに現れるのかを理解した。もし私が人生に戻ると決心したら、私のエネルギーの中からがんは消え去り、肉体はそれに急速に追いついてくるであろう。さらに私は理解した。人間が医学的な治療をする時、それは肉体レベルからは病気を追い出すが、エネルギーのレベルでは追い出さない。そのため、病気がまた戻って来るのである。もし私が戻るとしたら、それは健康なエネルギーを持って帰るのであり、そのため、肉体は急速に、そして,恒久的に、それに追いつくのである。

これは病気つまり肉体的状態や心理的状態に限ったことではないと私は理解した。私たちの人生の中で起こるすべてのことが、このエネルギーに依存しており、そのエネルギーは私たちが自分で造り出しているのである。

真実に存在するものは何もない。

私たちは自分の環境や条件を作り出す。それはこの「エネルギー」がどの状態にあるかに依存する。私たちが何を手に入れ、何を手に入れないかということは、私たちがエネルギー的にどこにいるかによって決まる「現象」なのである。もし私が私の身体に戻ったなら、私はこの原理の「証拠」を見ることになるだろうとわかった。

(・・・魂と呼んでいる不滅のそれは、言わばあらゆる周波数レベルの波動を含むエネルギーであり、そのエネルギーの振動レベルがどうあるか・・によって、その体験世界を形作るのだとも言って良いだろう。魂の振動・波動が高くなるにつれて意識の視界は広がるのであれば、どうして魂の進化を避けることが出来ようか?)


私は、この世とあの世の間を行ったり来たりしていたが、あの世に入るたびに、より深く入るようであり、さらに多くの「場面」を見せられるようであった。

(・・・臨死体験者の報告に必ずと言って良いほどある、人生の回顧、パノラマビューだ。常日頃の人生の中で、自己の想いと行為を観続けることが如何に大切か理解できるだろう。)

ある場面で、私は私の人生の中で人々とどのように関りあったかを見た。それは一種のタペストリーのようであり、その中で、私は私の周りの人々にどのような影響を与えたかを見た。別の場面では、飛行機に乗っている私の兄を見た。彼は、私が死にかけているという知らせを聞いて、私に会いに来ようとしていたのだ。(このことは後で確かめられた。私が戻った時、兄はそこに居て、飛行機で駆けつけたのだと言った)。私はまた、前世と思われる場面で、兄と私を見た。私は兄より年上で、彼の母親であるように見えた。その人生では、私は兄を保護する役割だった。突然、私は、飛行機で私に会いに来ようとしている兄のことを思い、「兄に私が死んだところを見せるわけにはいかない!」と思った。 また、私は夫の人生の目的が私に関係していることを知った。そして、二人で一緒に人生を送る決心をしたことを思い出した。もし私が死んだら、間もなく彼も私の後を追うことになるだろう。

(・・・ここで言う「あの世、この世」は、意識がどこでも在る・・、と、肉体の中に在ると思っている状況との違いとも言える。カゴメの籠の中の鳥と、籠を出ている鳥の違い。籠の外は空(くう)であり、また空(くう)であることで、あらゆる全てと一体である<わたし>に帰還すると言っても良い。)


その上、私は私の臓器の検査が行われていることを知っていた。その結果はまだ出ていなかったが、もし私が戻ると決心したら、まだ臓器が機能しているという結果が出るはずであることがわかった。もし、私が死ぬことを選んだら、検査の結果は、私ががんによって内臓を侵されて死んだという結果を示すだろう。私は、私の選択によって、検査の結果を変えることができるのだった!

(・・・魂の選択とは、本来の想念のパワーを表出することと言えようか。3次元的日常の悩みや不安、不信の多い「思考」とは質が異なるダイレクトな「意図」である。無限の空(くう)に生じている意識と意図が、神の想いであればそれは創造の元であるわけだ。)

私は決心した。そして、目を覚ます用意をした。私はとても混乱していた。私はその時、自分がヴェールのどちら側に居るのかわからなかったからである。医師が部屋にかけ込んで来て、満面の笑顔で家族に言った。

「いい知らせです! 検査の結果は、彼女の臓器がまだ働いていることを示しています。信じられないことです。彼女の身体は、完全に機能停止状態だったのです」。

その後、私は急速に回復し始めた。医師は、私が安定するのを待って、がんの痕跡を探すため、リンパ節の生体組織検査をおこなったが、私のリンパ節は肥大化すらしていなかった。病院に運び込まれた時には、私の身体中のリンパ節が肥大しており、頭部から下腹部にいたるまで、レモン大のリンパ節であふれていたのである。医師たちは、骨髄の検査もした。それは、がんの活動状況を見て化学療法の調整をするためであったが、骨髄からは何も発見されなかった。医師たちは困惑していたが、私には、突然化学療法が効いたのだろうと説明した。医師たちは、自分自身何が起こったのか理解できなかったので、検査につぐ検査を行った。私はあらゆる検査を完璧にパスした。そして、私は検査をパスするたびに元気になっていった。医師たちは、私の全身のスキャンをした。それでも何も発見できなかったので、専門の放射線技師にもう一度同じことをさせたほどだった!!!!。

私の経験から、私は知り合いのすべての人に、奇跡はいつでも起こり得るのだと話している。私は不可能なことは何もないということを知り、人は苦しむために生まれてくるのではないと知った。人生は、素晴らしいものであるはずであり、それに、私たちは深く深く愛されているのだ。私の人生を見る目は劇的に変わった。そして、「この地上で天国の生活」を送る二度目のチャンスを与えられたことを心から喜んでいる・・・・。.


(・・・この最後の下りは、人生とは本来素晴らしいもの、楽しいものだという真実を多くの人々に伝えようとしている。大勢の魂達に、目覚めてほしいと言っているようだ。)
・・

大勢の人々は、訳知り顔で・・この世界で様々に、気付かず知らず、生き死にしているわけだが、

例えばこの体験者のように、誰しもそれを忌まわしいとしている「死」というもの、

それを生きている間に・・真に理解しようと努めなければならないということであろう。

ただ偶然生きて、何も知らなくて、あなた任せで、便利さだけの快楽体験だけで、

たまたま起きる喜怒哀楽だけで、大量生産のごとく人生を通過することが、

それが人生だと言う・・そういう魂の学びは・・もう十分ではなかろうか。

・・・
そう、生と死を超えること、というよりは、

魂としてのわたしは、それを超えた存在であることを悟ることだ。

真実は・・他者がどうしたこうしたは一切関係がないところにある、

そう、

われは、在りて在るものなり・・である。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

悟りの道標(14)生きること・死ぬこととは?

2016-07-23 08:21:25 | 日記
魂という「わたし」の本質は、時間空間に制約をされていない。

今この地球次元で生活している人々の多くは、その意識の集中する先が、

「波動の粗い」といわれる、いわゆる物質環境レベルに特化していると言うだけの話である。

つまりここは物質次元だけを観ている、あるいは観るような仕掛けの世界であると言えよう。

魂は、簡単に言えば極めて高いところから低いところまでを領域とする、

意識・意図を有する無限層にわたるエネルギー波動であると言って良く、

その低いところの波動は肉体・物質レベルであり、

生体エネルギー、思考や感情などより波動の高いところの層が、いわば高次元の波動帯と言って良いだろう。

いわゆる、こころが美しい人は、波動が低いわけがない・・。


そして通常今までは、3次元などと言われる世界では、低い波動レベルの、範囲の狭い世界だけを観察しているということだ。

これは世間一般が、常識全般と言う、見えるだけのごく小さな波動領域に、その意識を特化していることを示している。

良いとか悪いとか言うべきものではないが、それは極めて狭い範囲のものでしかない。


魂という「わたし」の本質は、時間空間、つまり我々の日常生活環境、地球環境だけにとどまらず、より広範囲の次元で「活きて」いるのである。

多くの人達の意識が狭い世界に固定されていた・・気付きの意識が広がっていなかったともいえようか。

簡単に言えば、何を信じ込んでいるのか、と、そういう話でもある。

・・・

したがって、例えば人が死んでしまう・・という現象は、

その低次元レベル、物質波動レベルの自己層の一部がこの世界との同調を外れ、

最外層の波動帯はその役目を終えて解脱することを意味しており、

本質たる「わたし」が失われることでは決してないのだ。

たとえ青空が曇っても、夜になって何も見えなくなっても、太陽がなくなるわけもない。


だから人間が死んだということは、その魂:本質の、外側の衣服を、単に脱いだだけのことなのである。

生命は多次元層、また多層のエネルギーで構成されているわけで、

昔の十二単(ひとえ)衣装のように、あるいは洋服にしても、季節・環境に応じて頻繁に取り替えるようなものだ。




こういう多次元的な生命としての魂、あるいは「生命の本質」に関して、その側面をよりよく理解できるのはいわゆる「臨死体験者」の経験報告である。
・・・・
下記は、「アニタの臨死体験」というあるサイトの抜粋であり、ここに表現されていることは、多次元的な「わたし」の本質が、生と死の狭間の体験として非常に参考になるものである。

わたし・・という意識主体が、時間空間を超えており、肉体・物質レベルのさらに上位の本質は、エネルギーの多次元層を含み、

その本質は、言わば愛で充満せる空(くう)、あらゆる全ての母体である空(くう)、

そしてそこに生じている無限の可能性を持った意識と意図であるという表現が妥当であることがわかるだろう。

人は進化のプロセスを楽しむ神自身であり、神の子であるというのも、

そう言った事実を示す別の表現なのである。
・・・

アニタの臨死体験


今は、こういう事実報告が多くなされるような稀有な時期でありながら、

常識ではすぐには信じられないのは、常識という「固定」観念からして当たり前であって、

しかしながら、全くそれに気づかず、知らず、あなた任せ、世間任せの意識レベル、

見えない揺りかご的支配に諾々としている状態は、もう既に卒業すべき時にある・・という、

慈愛のこもった宇宙レベルのメッセージとも言えよう。



政治や経済がどうなるこうなる、世界情勢がどうのこうのと言う情報も、

第三次世界大戦がありそうだとか、そういう外の世界の急変事象も、

それ自体大切な観察行為であるものの、

今まで馴染んだ地球という「時間と空間の急変」を察知し、眠っている時間の短くなった今の時点で、


それを観察している・・わたし・・とは、

あなたとは何者なのか、わたしとは何者なのか?


そういう問いかけとその探究、求道こそが、今喫緊のテーマなのである。、


人として、生れていることはどういうことなのか?

人として死ぬということは、どういうことなのか?


「今までも」そうであり、また「今ここ」でもそうであるように、

その問いかけと自己探求の先に、

その魂:本質にとっての体験の場、

新たな次元が展開して来るのだ。








本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

次回は勝手ながら「アニタの臨死体験」の補足説明の予定です。



悟りの道標(13) わたしとは・・本来無限・・の空(くう)

2016-07-20 06:55:58 | 人間とは何か
わたしとは何か。

わたしは肉体でもなく、こころ・思考でもない。


それでは何かと問われれば、その答えは・・?、

その答えは、

わたしとは・・「なんでもないもの」となる。


「何でもない者・・が私だって?

だって私は・・ここにいる・・わたしだよ・・えー?

それが何でもない、特定できない者だなんて、「馬鹿言うな!」

・・・
何でもない者・・それは何でもある者と同じなのだ。

特定の「現象に特化」した存在ではなく、

どんな現象特化も出来る存在という事だ。

生まれ変わりが出来るのは、あの人生でもあり、この人生でもあり、

あの人格でもあったし、この人格でもある・・わたし・・である。

「魂」というのはそれだ。

あの人格、この人格、あの経験、この体験、その記憶・・

どれが真のわたし・・とはいえない。

言うならば、どれも「わたし」である・・。


それは、色即是空で言うならば、様々な色・・そのどれもが「わたし」でありながら、

どれかがわたしとは言えない・・それ、・・が<わたし>であり、

様々な色が合わされば白になるように、

その究極の<わたし>は・・・、何かと言えば・・・、

わたしは「空(くう」ということになる。


そしてその空(くう)とは、壮大な宇宙(スペース)の全てを満たしている、

その空(くう)と全く同じなのである。

空(くう)そのものは、大きさも距離もない、

その空(くう)の中に、物質が存在すれば、その相対的な間隔が生じて、

それを空間(くうかん)と呼んでいるだけだ。


そう、空(くう)そのものには・・方向も距離もない!

見はるかす大宇宙は無限の空間に浮かんでいる・・と言われるが、

物質があるがゆえに、無限大とか、局所だとか、相対的な物量感が生じているが、

空間の元である・・空(くう)には、方向も距離も大きさもない・・。


また時間は、空(くう)の中にある物質の相対的な運動、微小には振動によって

それが有るように観察されるものであり、

空(くう)自体には、時間もない・・のである。


空(くう)はつまり、<時間>と<空間>を生じさせている、それを包含している、

なんでもない「それ」・・なのだ。

そして「それ」は、時間・空間を超えているということになる。


宇宙はまた、様々なエネルギーに満ちているわけで、

そのエネルギーは波動・振動であるとすれば、その波動帯域の多重化があるわけで、

いわゆる多次元宇宙、様々なエネルギー周波数帯域があることになるだろう。

何も電磁波の多チャンネル情報帯のみならず、今だ人類の未知なるエネルギー波動は様々な周波数帯域を生じせしめている。

物理学での最新理論でも、数学的な表現で「多次元」が常識となっているわけだ。

様々なエネルギーといっても、今の科学ては、それはクオーク、素粒子等と言われるもので、つまりはそれらも粒子のようにも観察される、超微細なエネルギー振動なのである。
・・・
我々の人体を構成している組織、細胞、分子はその中身がほとんど空っぽ同然の原子で出来ており、それ以外は真空と言われているが、

真空とは、まったき空(くう)ということだ。

この小さめの空(くう)と、無限大宇宙の空(くう)は全く同じ、それなのである。

空(くう)には大きさも、距離も次元もないので、

宇宙にある全ての事物、存在物、星であろうと、猫ちゃんであろうと、

99.999・・99%は全く同じ空(くう)であるわけだ。

のこり、0.000・・・1%は、エネルギー、つまり振動と情報、

あるいは、意識と意図、宇宙のマインド、宇宙意識・・そしてその投影像ともいえる
人間の身体や、星や大自然、様々な事物現象なのである。

つまり違いと言えばその、意識や意図、表現型の違いであり、

それはたった、0.00・・・1%のものなのである。


ちっぽけなあなたという肉体個人も、壮大なる宇宙も・・

ほとんどまったく対等、等質、同じ、まったく<一体>だという事である。

誰も皆、何もすべて、壮大な宇宙より小さく卑小なわけではないのである。


これが理解できると、さらに様々な壮大な事実も認識可能となり、

小さな固まった次元に閉じこもっている個人と言う肉体は、

たった0.00・・1%の幻影、現象、移り変わる時間空間でしかないことがわかってくる。

実に、あなたもわたしも全くもって宇宙と一体で・・在る・・こと気付くことになるのだ。

決して自己を尊大とか卑下とは関係なく、

OH MY GOD!(おー!、わたしの神とは・・わたしだった)


そして空(くう)とは、宇宙意識、宇宙マインド、神意識が、

そこに、どんなものでも、どんなことでも生じさせることが出来る、

無限をその中に畳み込んでいる、完全無欠のそれなのだ。

誰も、何も皆、そこに在り、それそのもの。

瞑想や禅は、自己観想は、分離された人間が、人となり、

大いなるわたしへと帰還を始めるための、

ダイレクトにそれと繋がる、言わば科学的手法なのである。









本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


読者応答編: 案ずるより、生むが易し

2016-07-15 05:28:12 | スピリチュアル雑感

そもそも「期待」というものが何かと言えば、<期を待つ>ということで、

「行動」とは、行い、行為、身体を含む自己表現とも言えるだろう。


例えば、今は<A>だが、<B>がよさそうなので、Bへの変化を「期待する」わけだが、

「期待」には、期を待つ・・時期を待っている、つまり動かないという要素がある。

・・・

つまり「期待」とは憧れや希望が起きているが、今は何もせずに待っている・・その時のことだ。

そして、それではダメだと気付いたら、何とかしようとして「行動」を始めるようになる。

そうではないか?

思考、思い、イメージがやってきて、感情として色付き、内面に湧き上がり、

それがいわゆるわくわくするような、夢と希望があるような想念となれば、

それを実現しよう、・・実際の身体経験として体験しようと、

様々に思考や身体を使って、「行動」するというプロセスだ。

これは日常生活でも、実に前向きでいわゆるポジティブな生き方だといえる。

また「思考」が「行為」に自然にシフトするわけで、

宇宙から来るエネルギーブロックや歪が少ない生き方となる。


まさに、案ずるより・・生むがやすし・・・ということだ。


「期待」と「行動」は、1セットになることを、・・期待・・されている。(笑)

期待だけでは、悶々とした歪が溜まりやすく、

その歪みを開放すべく行動に移すともいえようか。


「思考」は実際は、情報を伴なった高い次元のエネルギーであり、

その人の周囲、環境世界に示現、顕現、表現するのが、人の創造行為と言えよう。

人生とは多かれ少なかれ、それだ。

期待と行為、それは1セットになってこそ、人間の進化が起きるものだ。

・・

但し、「期待」の内容・・が、エゴ的なものか、利他的なものかによって、

地獄と天国の様相を呈することになる。


期待は期待でも、ワクワクするとしても、

例えばお金の蓄積だけや、他者の支配や権力奪取、富の独占だとしたら、

極めて個人的、利己的なものとなって、多くの他者を痛めることになり、


逆に例えば、より良き生活を真剣に実現しようということならば、

多くの他者に福利をもたらすことになるだろう。


今までは、残念ながら前者の利己主義的な期待と行為が主流のようで、

またそれが、にこやかで利他的な衣を着て、誤魔化されているために、

なんだか・・おかしい?世界から、とうとう嘘で固めたような世界となった。

今はもう、政治や国際関係、経済社会のひずみが、モクモクと噴出してきている。

今はもう、政治、経済、国際社会、すべてがガタガタになって崩壊中であることに気付いているだろう。


今までの様々な歪、カルマとも言えるものが、世界で噴き出してきているわけだが、


しかしながら、地球や人類の意在意識は、

地球環境の汚染や人的世界の精神的退廃をもたらした、

自我追及主義、競争至上主義という、

過ぎた利己主義という「思考」に飽き飽きしてしまった。


つまり「飽和」してしまったが故に、

この次元世界に新たな「転換」が起きているということである。



利己主義が超利己主義になって、それぞれがバラバラとなって、

システムの破滅が明確になったとしたら、どうするだろうか?

どうする必要もなく、破滅・・

しかしながら、それを転換と捉えることであろう。



期待と行動、そのネガティブ方向が・・破滅であり、

期待と行動、そのポジティブな方向が・・転換・進化である。


アセンションと言うのは、こういう稀有な時にあって、

あなたはどうするのか?と問われているのである。


バシャールさんたちが言う、第3密度からの次元上昇とは、

期待と行為、行動で表現すべきものは、自我エゴの肥大の為でなく、

大勢の仲間との協調、共生の為という、利他的なものが、

嬉しく楽しい世界に移行するということだ。


ある種の情報で、アセンションというもの、日本人が主導する等と言われるのは、

「えー、マジか?」と思うものだが、それは、

この「協調と共生の感覚」を色濃く持っているそのDNA(記憶)によっている。



どこにでもいる、目だたない、人の好い、素直で、正直な人たち・・、

第3密度ではそういう人達が、被支配者とされて、こき?使われてきたわけだし、

おバカよ、お人よしよ、子供よ・・平和ボケよと、冷笑されてきたかもしれないが、

それは逆に、そういう人達こそ、魂レベルでは、

歪や鬱積の少ない、軽やかな波動を持った存在なのである。

和気藹藹な軽やかさな、穏やかさ、静けさ、謙虚さにつながるだろうし、

そういう人達が多くいる世界は、感動多く、軽やかで楽しいものである。

すべてとは言わず、明治以前の日本の田舎には、そういう風景が点在していたのである。

明晰な観察者はそれを知っていることだろう。


例え知力、知識を蓄積しても、物質的富の蓄積には寄与するが、

魂の波動レベルには大きく寄与しない。

そうではなく、感情や、感慨、感動と言う「実感」こそが、

魂の成長の為の・・糧なのである。


感動しない映画は誰も見たくないはずだ。

また感動のない人生は、砂漠のようなものではないか。

そして感動とは、

あなたやわたし達にも経験が有るように、

どこか健気な、利他的行為を目撃したり、

嘘のない、純粋な、どこか無条件の思いやりを感じたとき、

決まって、

ハートから発して、喉を込み上げ、眼がしらを通じ、

頭部から上に噴き上げる、愛とも言われるエネルギーなのだ。

頭(知る)の時代から、ハート(感じ採る)の時代への転換、

そこには大きな次元ギャップがあるかもしれない。


・・・




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました

miffyさん、
すいません、こんな感じでまとめちゃいました。
これに懲りず、この際ですので、何でもどうぞ。

その他の方も、良かったらどうぞ。









悟りの道標(12) 瞑想の薦め   その2

2016-07-10 06:26:42 | 人間とは何か
●瞑想の本質

瞑想とは何も難しいものではない。

それは、我々の当たり前の、素の有様で”在る”こと。

素の有様とは、ただ在ること・・だ。



●人としての命の原型

ただ在ること・・これは生まれた時からの、生命の基本形。

この世界に在って、只今、生きていることの、

その存在事実を、しっかりと意識で感じることでもある。

生まれたての、無垢の赤子は、その時それ以外には存在しない。

あの無邪気で、愛おしく、何んとも可愛らしく

平和と純真さと、怖れなど何もない姿、そのものは、

得も言われぬ、生命の輝きを伴なった、存在・・そのものを示している。

そうではないか?

誰も皆、この世界でのスタートは、「ただ在る」だったのである。




●瞑想は魂への帰還の転換点

瞑想とは、意識的に、ただそこに在って・・

一時ではあるが、あの赤子のような在り方に身を置くこと・・

そう、身を置く、こころを置くことで、身体でもない、思考・マインドでもない、

素の在り方、ただ在る・・ことなのだ。

瞑想は、この世の幻想世界に逝っていた、自らの意識を、

元のベース・・在ること・・にひきもどす事だと言って良いだろう。


実に大変な現実だと思わされていたこの世界が、

実は幻想世界であったと気づいた魂達が行う、

帰還のプロセス、ノウハウと言っても良いかもしれない。

あなたは気付いているか?



●在りて在る・・もの

あなたの世界にはあなたしかいない・・という意味を、

本当に理解することが出来た、知ではなく、魂からの「探究者」は、

そのたったひとりのわたし、わたしの世界の中心である、・・在る・・に戻るのである。

「わたしは・・在る・・者だ・・」という認識に至る。

・・・

●誰でもできる瞑想例

簡単な瞑想を示せば、以下のようになるだろう。

まとめれば、調息と内面視による波動の上昇とも言えるかもしれない。

・・

●楽な姿勢で
静かなところで、

只、椅子に座るか、あぐらを組んでも良い。

自分でゆったりと持続できる姿勢を探して、それでOK。

しばらくは周囲の慌しさからその身を引き離すことになる。

そして


●ゆっくり大きな(腹式)呼吸

深い呼吸をしつつ、その呼吸に意識を集中する。

3-5秒程度で大きくゆっくり息を吸い、

少し止めて・・・7-10秒程度で・・息を吐き出す。

(吐き出す時は息をお腹に降ろすような形、腹式呼吸が良いが、

馴れない人は出来る範囲で良い。)


こうすると、1分で、3呼吸程度となるわけだが、

こうしたゆったりした呼吸は、新陳代謝が活発になりつつ落ち着きをもたらし、

また意識内面、こころの状態が、極めて静かになるのである。


また、呼吸がゆったりして、こころが穏やかに感じられる・・段階では、

脳波が忙しくノイジーなβ波から、落ち着いたα波になることが知られている。

脳波がα波になることは、悩みや気ぜわしさ、不安が無くなって、

インスピレーションや発想、明確な気づきが起きやすくなる。



●腹式呼吸だけでも大きなレベルシフトを感じるはずだ

大きくゆったり息を吸う事で、身体内の酸素の循環が大きくなり、

逆に、身体へのエネルギー供給供給・循環が大きくなるために、

心身・・全体が、穏やかでありながら、エネルギーが大きくなるのだ。

健康に良くないわけがないし、意識的な波動レベルも上昇する。

これは実施、実感しないとわからない。

・・・

●頭の中に湧きおこる「思考」から外れること

始めは手探り、自分の調子に合わせつつ、

「意識」・・を吸う息、吐く息自体に合わせることで、

頭の中にやってくる様々な思考やイメージから、意識を外すことが出来る。

思考がどんなふうに、どの具合、行きつ戻りつしているのが、わかってくる。

信条、宣伝も誰かの思考に過ぎず、その思考そのものに、

あなたを幸せにする力などないこともわかるだろう。



●脳波は意識(状態)レベルに符合する

雑多な思考にカカズラワっている場合の脳波は、β(ベータ)波であり、

ストレスやイライラが豊富に含まれている。(笑)

調息と内面視が進むと、頭の中にやってくる様々な思考が、

不思議にも気にならなくなり、つまりゆったり安心的な場合は、

脳波はα(アルファ)波へと遷移する。

さらに静けさや、落ち着き、安心、静謐の意識レベルになると、

脳波はΘ(シータ)波へと遷移する。

この脳波は、まっとうな宗教家、あるいは修行を経た高僧や、

この3次元世界の、粗い精神波動から超脱した意識レベルを示す。


・・・

●意識的実践の時

大体以上の、非常に簡単な瞑想法があり、

これを1日に数十分以上実践することを薦めるものである。

サイトの閲覧者は、ただ文字を読んで、あーそうか、なんだそれ・・

という具合に、ただ単に「知的な興味」なのかもしれないが、

あなたの直観通り、これからこの幻想世界には大きな大波小波の局面が

最期のカルマだしっぺ・・・のようにやってくるはずだ。


出来れば3日坊主でなく、こういう瞑想を日常で習慣化することが、

これから来る、いや既に来ている、幻想世界の大波・小波、

びっくり騒ぎや悲惨のデパート化の中で、その中に埋没することなく、

それらの様々な「大変」を、ただ通り過ぎる走馬灯のようにやり過ごせるだろう。


残った時間を使い、例えば瞑想によって、意識内面の様々なものを浮かび上がらせ、

事前に、言わば「卒業」しておくことを強く薦めるものだ。

人間関係やあるいは毎夜の夢見においても、様々なものが湧き上がるかも知れないが、

辛抱強く、ただ自分に・・在る・・ことを保つようにすべきである。

そうすると、何を獲得するでもなく、はっきりと間違いなく解ってくる。



あなたが目を閉じれば、世界は視界から消え、

あなたが熟睡し、表面意識が消え去れば、この世界は消えている。

それぞれの・・あなたの世界があるのは、あなたが在るから・・展開している。

外の誰かが操るものでは決してない。

天上天下・唯我独尊・・・これは時空を超えた真実だ。

あなたのあること・・それは、今の身体や、環境など超えた真実である。、


瞑想とは、

実に大変な現実だと思わされていたこの世界が、

頑張れ頑張れ、頑張って獲得せよ、何者かに成り上がれ、

富と栄冠を!・・等と言ってきた世界が、

実は幻想世界であったと気づいた魂達が行う、

1つの帰還のプロセス、ノウハウと言っても良いかもしれない。


●意識波動の上昇と至福というお土産

これを実践してゆくことで、そのことでしかわからない意識レベルの上昇が起きる。

その途上で、たまたま、得も言われぬ至福が訪れることもあるだろう。

その「至福」は、まさに言葉で・・・表現は出来ない。

穏やかで、確実で、すべて・・、安心を超え、まさにそうである・・静寂、

ああそう、充満せる「空(くう」を・・感じるような、・・至福・・・。

だからどうってことはないけれど、お土産(おみやげ)は嬉しくないはずもない。

・・瞑想には、精神の落ち着き、健康増進以外に、そういうお土産もあるのだ。


あなたの世界にはあなたしかいない・・という意味を、

本当に理解することが出来た、「知」ではなく、「魂経験」を重視する「探究者」は、

そのたったひとりのわたし、わたしの世界の中心である、・・在る・・に戻るのである。

「わたしは・・在る・・者だ・・」という認識に至る。

旧約聖書の、モーゼに臨んだ神と言われる存在の言葉、

「われは、在りてあるもの・・なり」という下りは、すでに理解できただろうか?



瞑想を通じて、本質の魂、真我に気付くということだ。

何も座って瞑想せずとも、大いなる気づきは起きるわけだが、

乱れた外の世界の真っただ中で、他者を求めて右往左往してもそれはかなわない。


あなたには・・あなた自身しかいない・・そりゃ、実に当たり前だが、

その当たり前が、見えなくなっていた不可思議で、面白く、無知蒙昧で、

自信満々の物欲亡者の跋扈する世界は、今終わりを迎えている。

そういう有様が、我欲と執着によって、世界時間を引きずっている為に、

ここまで来てしまった感があるが、

既に、もうは未だなり・・・から、未だはもうなりに転換してしまった。

あなたは気付いているだろう。




汚泥に満ちた世界から生れ、またたとえそこに在っても、

それに左右されず、その汚泥に属さず、

そこにただ在る・・ことの中に、奇跡がある。

我々は、その為の人生を歩んできた。

そうではないか?





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

追記>
静かなること、林の如し・・でも良いですが、(笑)
意識的コラボレーションがあっても良い時期とも思われます。
何かご意見、ご感想、今一不明な点や共感、似たような経験、その他等があれば
気軽に、お便り頂ければ幸いです。

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