こういう話は全く荒唐無稽のように思えるのだが、
普通、人は世界の中に<わたし>がいると・・思っている。
宇宙があって、月があって、太陽があって、恒星、銀河があって、
そして最近は数十光年先に、太陽系と似たような惑星群が発見されたとか、
そういう広大な世界、宇宙の中に・・・
小さなわたしが・・いるというものだ。
世界の中に小さなわたしがいる・・そう思っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/3b/b8321f00db8cbde4b81a8c85b3ee6205.jpg)
いやいや、思っているのではない、主観ではなく、
単に「思っている」のではなく、しっかりした観測事実だとしている。
それが「現実」だと・・。
・・・
そうではないか?
しかしながら、それらの観測や観察そのものは、
人間の働きによって行われている。
例え巨大なスペース宇宙のことであっても、
それを知るのは<わたし>という、意識がある人間である。
そう、宇宙という広大なスペースのことであっても、
それを観ているのは・・わたし以外にない!
事実だ、事実だ・・!としているのは、誰か?
人間の意識以外にない。
さらりと言う表現だが、
実に驚天動地のことであることに気づけるだろうか?
宇宙は<わたし>を通して現れているともいえる。
わたしが微小な肉体であるという観念により、
大きさや重さの規模の比較による優劣の観念で染まっているからこそ、
その事実に気づかない。
大勢の人が、大きさ、物量、面積、重さ、
刹那でしかない、目先の肉体維持とそのサバイバルに特化しつつ、
・・そういう現れている「量」にしか目がいかないようになっている。
ということである。
例え巨大なスペース宇宙のことであっても、
それを知る、認識するのは<わたし>という、意識がある人間である。
そう、宇宙は<わたし>を通して現れているともいえる。
宇宙はわたし達のこの手で、肉体の手で造形したものではないし、
こころの中の希望によって、都合よく現れてはいないが、
意識によって映し出されているという事なのである。
科学の世界では、
世界の本質がバーチャルな仮想現実であるという議論がされているが、
その仮想現実の投影されているもと、あるいはフィルターは、
我々の「意識」に相違ない。
これは安易に、「思うえばそうなる成功法則」のようなものではなく、
もっと根源的な世界の出現、あるいは投影システムといえるのだ。
意識が空(くう)なるスクリーンに投影されたものを世界という。
ならば、
その世界を観ている者、あなたという意識は、
世界の元に在るものであって、
世界の中に、スクリーンの中に、ポツンといるわけではないのだ。
様々な世界に自らを投影し、そこに入り込んで、自我を創り、
そのスクリーンの中の小さな登場人物として出現している。
本来世界を投影する、また世界を含んでいる方の<わたし>が、
逆に、その世界の中の、微小で小さな弱弱しい、
私個人という経験を味わっている。
受け入れやすい、普通の言い方をすれば、
それは観点の違い、意識のポジションの違いであると言えようか。
世界の中の小さな私とは、
世界を含む大きなわたしの逆転投影、自己投入に過ぎない。
これがどんな利益を生むのか?
生活の糧に寄与するのか?
もっと楽になる?・・
映画の中の必要性のような、そんな話ではないことが分かるだろう。
自ら引き起こされた自己没入は、自らが解くこと以外にない。
なぜならば、私個人という投影像は<真のわたし>の「像」であり、
生と死、カルマの解消という、
そのスクリーン映画内での無意識的な経験の続きに気づくこと。
例えば、あー、これは映画だったと心底分かることが、
昔から言われる「解脱」である。
心の底、あるいは最高次元と言わず、
そこに真我(まことのわたし)があるということだ。
そことは、今・・ここのこと。
肉体自我の想起している<こころ>が、
真の<わたし>と、個人としての<私>の間に在って、
様々に投影物を醸し出している。
この世界に在るということは、まさしくそれだ。
しかしながら、そうではあっても、
間違いなく言えることは、
全ては「楽しかるべき」である。
まったく、そうではないか?
だから、そう在るべきなのだ。
普通、人は世界の中に<わたし>がいると・・思っている。
宇宙があって、月があって、太陽があって、恒星、銀河があって、
そして最近は数十光年先に、太陽系と似たような惑星群が発見されたとか、
そういう広大な世界、宇宙の中に・・・
小さなわたしが・・いるというものだ。
世界の中に小さなわたしがいる・・そう思っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/3b/b8321f00db8cbde4b81a8c85b3ee6205.jpg)
いやいや、思っているのではない、主観ではなく、
単に「思っている」のではなく、しっかりした観測事実だとしている。
それが「現実」だと・・。
・・・
そうではないか?
しかしながら、それらの観測や観察そのものは、
人間の働きによって行われている。
例え巨大なスペース宇宙のことであっても、
それを知るのは<わたし>という、意識がある人間である。
そう、宇宙という広大なスペースのことであっても、
それを観ているのは・・わたし以外にない!
事実だ、事実だ・・!としているのは、誰か?
人間の意識以外にない。
さらりと言う表現だが、
実に驚天動地のことであることに気づけるだろうか?
宇宙は<わたし>を通して現れているともいえる。
わたしが微小な肉体であるという観念により、
大きさや重さの規模の比較による優劣の観念で染まっているからこそ、
その事実に気づかない。
大勢の人が、大きさ、物量、面積、重さ、
刹那でしかない、目先の肉体維持とそのサバイバルに特化しつつ、
・・そういう現れている「量」にしか目がいかないようになっている。
ということである。
例え巨大なスペース宇宙のことであっても、
それを知る、認識するのは<わたし>という、意識がある人間である。
そう、宇宙は<わたし>を通して現れているともいえる。
宇宙はわたし達のこの手で、肉体の手で造形したものではないし、
こころの中の希望によって、都合よく現れてはいないが、
意識によって映し出されているという事なのである。
科学の世界では、
世界の本質がバーチャルな仮想現実であるという議論がされているが、
その仮想現実の投影されているもと、あるいはフィルターは、
我々の「意識」に相違ない。
これは安易に、「思うえばそうなる成功法則」のようなものではなく、
もっと根源的な世界の出現、あるいは投影システムといえるのだ。
意識が空(くう)なるスクリーンに投影されたものを世界という。
ならば、
その世界を観ている者、あなたという意識は、
世界の元に在るものであって、
世界の中に、スクリーンの中に、ポツンといるわけではないのだ。
様々な世界に自らを投影し、そこに入り込んで、自我を創り、
そのスクリーンの中の小さな登場人物として出現している。
本来世界を投影する、また世界を含んでいる方の<わたし>が、
逆に、その世界の中の、微小で小さな弱弱しい、
私個人という経験を味わっている。
受け入れやすい、普通の言い方をすれば、
それは観点の違い、意識のポジションの違いであると言えようか。
世界の中の小さな私とは、
世界を含む大きなわたしの逆転投影、自己投入に過ぎない。
これがどんな利益を生むのか?
生活の糧に寄与するのか?
もっと楽になる?・・
映画の中の必要性のような、そんな話ではないことが分かるだろう。
自ら引き起こされた自己没入は、自らが解くこと以外にない。
なぜならば、私個人という投影像は<真のわたし>の「像」であり、
生と死、カルマの解消という、
そのスクリーン映画内での無意識的な経験の続きに気づくこと。
例えば、あー、これは映画だったと心底分かることが、
昔から言われる「解脱」である。
心の底、あるいは最高次元と言わず、
そこに真我(まことのわたし)があるということだ。
そことは、今・・ここのこと。
肉体自我の想起している<こころ>が、
真の<わたし>と、個人としての<私>の間に在って、
様々に投影物を醸し出している。
この世界に在るということは、まさしくそれだ。
しかしながら、そうではあっても、
間違いなく言えることは、
全ては「楽しかるべき」である。
まったく、そうではないか?
だから、そう在るべきなのだ。