気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは・・何か(5)私と世界(つづきより)

2017-03-31 06:00:09 | 意識の拡大
こういう話は全く荒唐無稽のように思えるのだが、
普通、人は世界の中に<わたし>がいると・・思っている。

宇宙があって、月があって、太陽があって、恒星、銀河があって、
そして最近は数十光年先に、太陽系と似たような惑星群が発見されたとか、
そういう広大な世界、宇宙の中に・・・

小さなわたしが・・いるというものだ。
世界の中に小さなわたしがいる・・そう思っている。



いやいや、思っているのではない、主観ではなく、
単に「思っている」のではなく、しっかりした観測事実だとしている。
それが「現実」だと・・。
・・・
そうではないか?

しかしながら、それらの観測や観察そのものは、
人間の働きによって行われている。

例え巨大なスペース宇宙のことであっても、
それを知るのは<わたし>という、意識がある人間である。

そう、宇宙という広大なスペースのことであっても、
それを観ているのは・・わたし以外にない!

事実だ、事実だ・・!としているのは、誰か?
人間の意識以外にない。

さらりと言う表現だが、
実に驚天動地のことであることに気づけるだろうか?

宇宙は<わたし>を通して現れているともいえる。

わたしが微小な肉体であるという観念により、
大きさや重さの規模の比較による優劣の観念で染まっているからこそ、
その事実に気づかない。
大勢の人が、大きさ、物量、面積、重さ、
刹那でしかない、目先の肉体維持とそのサバイバルに特化しつつ、
・・そういう現れている「量」にしか目がいかないようになっている。
ということである。

例え巨大なスペース宇宙のことであっても、
それを知る、認識するのは<わたし>という、意識がある人間である。

そう、宇宙は<わたし>を通して現れているともいえる。

宇宙はわたし達のこの手で、肉体の手で造形したものではないし、
こころの中の希望によって、都合よく現れてはいないが、
意識によって映し出されているという事なのである。

科学の世界では、
世界の本質がバーチャルな仮想現実であるという議論がされているが、
その仮想現実の投影されているもと、あるいはフィルターは、
我々の「意識」に相違ない。
これは安易に、「思うえばそうなる成功法則」のようなものではなく、
もっと根源的な世界の出現、あるいは投影システムといえるのだ。


意識が空(くう)なるスクリーンに投影されたものを世界という。
ならば、
その世界を観ている者、あなたという意識は、
世界の元に在るものであって、
世界の中に、スクリーンの中に、ポツンといるわけではないのだ。

様々な世界に自らを投影し、そこに入り込んで、自我を創り、
そのスクリーンの中の小さな登場人物として出現している。

本来世界を投影する、また世界を含んでいる方の<わたし>が、
逆に、その世界の中の、微小で小さな弱弱しい、
私個人という経験を味わっている。

受け入れやすい、普通の言い方をすれば、
それは観点の違い、意識のポジションの違いであると言えようか。

世界の中の小さな私とは、
世界を含む大きなわたしの逆転投影、自己投入に過ぎない。

これがどんな利益を生むのか?
生活の糧に寄与するのか?
もっと楽になる?・・
映画の中の必要性のような、そんな話ではないことが分かるだろう。

自ら引き起こされた自己没入は、自らが解くこと以外にない。
なぜならば、私個人という投影像は<真のわたし>の「像」であり、
生と死、カルマの解消という、
そのスクリーン映画内での無意識的な経験の続きに気づくこと。
例えば、あー、これは映画だったと心底分かることが、
昔から言われる「解脱」である。

心の底、あるいは最高次元と言わず、
そこに真我(まことのわたし)があるということだ。

そことは、今・・ここのこと。

肉体自我の想起している<こころ>が、
真の<わたし>と、個人としての<私>の間に在って、
様々に投影物を醸し出している。

この世界に在るということは、まさしくそれだ。
しかしながら、そうではあっても、
間違いなく言えることは、
全ては「楽しかるべき」である。

まったく、そうではないか?
だから、そう在るべきなのだ。





わたしとは・・何か(5)私と世界

2017-03-30 06:42:58 | 意識の拡大
普通、私は何か?と改めて問うならば、
あなたはどう答えるだろうか?

既に説明したように、わたしの身体感覚、
見ること、聞くこと、味わうことなどをしている、
この体のことだと感じているのである。

この体無くして人格も、人生の履歴、記憶もない。
記憶や精神作用は、頭脳で生成されている・・と、
そう信じているはずだ。

信じている?というより、世の人々、学者なども、
そうだと思い、また説明しているために、
それが事実当たり前だと、
そう思っているだろう。・・・そうではないか?
事実私個人(筆者)もそうだったから、よくわかる(笑)。

いや、これを見ている読者の中には、
「確かに、真実は・・そうではないかも」という、
驚天動地の感覚を既にお持ちの方もいるかもしれない。
何せ、このブログ自体が一風変わった?ブログだから(笑)、
それ観ていること自体が、どこか分かっているかもしれない、
そういう事を示している。

・・・
「私とは・・この体」であるとすることは、
どこが間違いかと言うと、
いやそれは間違いではなく、
いわばこの世的、3次元空間認識的見解であるということだ。
簡単に言えば、視点の違い、見解の違いとも言えよう。

私個人という肉体が、わたしである・・、
それは、真実ではなく、見解、認識に過ぎないという事だ!
平たく言えば、そう思っている・・ということ、

それも大勢の人々が、今までの大多数の人々が、
学者のように明確に、あるいは大衆のように漠然と、

そう思っていた・・ということだ。
「事実」ではなく・・「思考」であったということだ。
・・・
バカな!そんなわけない・・阿保かっ!
そう思う人も必ずいる。

そう思っている・・分けないのに、

体はこのままであって、年を取りつつも維持しなければならず、
小さな体が含まれる、さらに大きな外の世界があって、
例えば、ニューヨークがあって、エジプトがあって、
はたまた国会では、国民の金を浪費しつつ、
バカな議論がされて、中東では悲惨で陰湿な戦争があるではないか!

わたしが、そんな世界を「思考」しているというのか?

ああ、いつも疲れる人間関係も、
金稼ぐための仕事も毎日行わなければならず・・、
世界で目立つ者たちは、まるで阿保の集合のように感じる

そんな事思っているわけはないじゃないか。
バカ言うな!

わたしがそう”思っている”から、身体があって、人間関係、
その集合である社会、そして国、世界、71億人がいるというのか?

わたしは個人として、肉体として・・その中にいる・・
これが事実、そうだろう・・?
・・・

と、そう”想っている”のである。
私とは・・有機的肉体のかたまりであるという、
漠然として、常識と化していた、集合意識的な「見解」
あるいはそういう想念(思うことの集合・記憶の束)という、
視点であったということだ。

簡単に言えば、そう思っている・・いや、
そう思っていたわけだ。







(つづく)

わたしとは・・何か(4)「気づき」は思考ではない

2017-03-28 06:12:22 | 意識の拡大

あなたが普通「わたし」としているのは、個人としての「私」である。

私の顔・・、私の手・・私の靴・・私の考え・・
そういうものすべての元にある<私>のことを言っている。
ふつうそれは、私の・・私が・・私は・・の<私>とは、
いわゆる「1人称」のことだ。

その<私>が大勢の間の関係、人間関係の基本である。

彼、あなた、彼ら・・は2人称、3人称と言われるもので、
それら自体は、1人称とされる<私>の派生概念である。

<私>が確立されているからこそ、それに対して彼、彼らが出てくるのである。

私という個人がいて、その個人の<私>が、
同じような他の人々を認識している・・とそういうことでもある。
普段は意識しないだろうが、これは当たりまえのこと。

しかしながら、これらすべて、
今ここで述べている、書いている、表現していることは、つまり・・
「概念」「観念」でしかない。
つまり「思考」による言葉の表現でしかないということだ。

あなたが今これを読んでいることも、つまり概念を見ているということだ。
またこれも、当たり前のことである。

さて、多くの人が<私>であると思っているのは何かといえば、
<わたしの身体>であるということになるだろう。
手足の感触や、目で事物を見ていること、食べる時の味覚感覚、
耳で聞こえる感覚、自分の意思であちこち単体で動き回ること、

人とは違う意思と行動があるからこそ、
私・・個人の肉体として存在している・・と思っている。
・・そうではないか?

しかしながら・・・
この事実を・・よくよく観察してみると、

あなたが仕事に行き、買い物に行き、家の中で動く、
あなたの身体が環境の中で動き回り、喋(しやべ)る・・、
それら身体の動きは・・、
それを動かす意思、思いで行われていることに気づくだろう。

何かを<思う>からこそ、それがいつもの習慣であっても、
常になにかの「思い」によって動かされていることに気づくだろう。
それが規則だからとか、生活に必要だからとか、・・であっても、
それは「思考」によって動かされているのである。

会社で誰かの指示通りに動く?ことであっても、
それをすべきだ・・というあなたの思いどおりに、動いているのだ。
そう、諾とする思いがなければ人間は決して動かない。

身体を動かすのは「思い」であるということだ。

普段社会や家庭や、様々な人間関係の中に埋没し、
忙しく立ち働いて、夜は「寝るだけだと思っている人も、
暇で小寂しいからTVやネットで憂さを晴らしている人も、
比較的静穏な生活をしている人はことさらに、

ここまではほぼ誰でも理解可能だろう。

つまり、身体というより、肉体というより、
人の人たる所以は・・「思い」「思考」であって、
身体の特徴、その経歴、年齢、顔かたちではないということだ。

さらに言えば、
わたしは身体に”気付いている”・・ことはあるが、
「私は身体だ」というのは「思考」である。

あなたは何?と問われたときに・・、
「そうさね、私はこの肉体ですよ・・」というのは、
実際のところ「思考」なのだ。

私とは何か?・・・と自問するときに、

自分の生きてきた過去の記憶から言って、また、
自分の身体に強く・・気付いているからといって、
「わたしはこの肉体だろう・・」という感覚は、
思考、そして習慣となっている思いの束、記憶であるところの、
「想念」に過ぎない・・ということだ。
・・・

これらは・・自己、その内面というものを観察しなければ、
到底その片鱗さえも・・理解不可能なことでもある。

実に、内面というのは沸き起こる思考、想念であり、
それに自体に気づく・・ことが、
人として通らざるべからざる道なのである。

わたしは身体に気づいてはいるし、その経歴、記憶もあるが、
そうであるからこそ・・!
それはわたしの「対象」であって、
わたしではない・・!

わたしは身体である、肉体である・・というのは、
決して事実ではなく、
それは・・思考、想念でしかない・・!

理解可能だろうか?

・・・

真実からの・・それ自身の表明


ラマナ・マハルシは沈黙の聖者とも呼ばれているが、
それもまことに余計なラベル張りである。

なんだ、ユーチューブか・・と思うことなく、
出来得れば、チラチラ覗き趣味で通り過ぎずに、
ゆっくりと傾聴していただきたいと思う。
どんな宗教も、カテゴリーも関係ない。

まったくもって、余計なお世話だが、
便利な時代にあり、また消えかかっている古い時空間の中にあり、

真実ここまで来ているということを・・、
たとえその片鱗であっても、
自らの真実に・・・気づくべきではないだろうか。

わたしとは何か?・・・
今、生きていることは何か?

常にある<今>から逃れ、
また、
いつかどこかで目覚めるのだろうか?


いや、いや・・
そう、桜の花はもうじき咲くだろう。



本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

わたしとは・・何か(3)まず<私>に戻ること

2017-03-26 05:35:08 | 意識の拡大
人々が世界や世間、社会で教わるのは、主に、
いかに生きてゆくか、いかに有利に、安楽に生きていくか、
いかに快楽、心地よさを求めてゆくか、・・・

当然ながら、社会という限られた自由の中で、
経済社会で競争しつつも、いかに秩序正しく生きてゆくか・・、
学校でもメディアでもそういう類のことをアピールしている。
国語、算数、理科、社会、数学、論理学、・・

それらはすべて生きてゆくための知的ツールなのである。
さらに自分の有利な状況を求め、様々な世界情報を集めることも行われるわけだ。
仕事のこと専門分野の情報、世界の情報など含めて、
それらを多く獲得したものが、権威となり、
自他ともに認める知的エリート呼ばれることになる。

しかしながら、それらすべてどんな知的情報も、
この世界という時空間で生きるための、外側の情報なのである。

つまりそれら情報を集め蓄積している<当の本人>というか、
<わたし>という主体が、全くおざなりになっているということなのである。
自分のことは全く探求せず、外側の世界、現象の世界のことばかりを
追い回しているということなのだ。

それは原点のない座標軸のようなもの・・、
基本を押さえずして、いきなり応用ばかりチャレンジするようなもの、
鏡に映った自分の姿を見て、そこに・・そう、鏡の中にこそ・・
自分がいると考えているようなもの。
こちら側にいる自分を全く無視し、自分とはあちら側にいると考え、
鏡に映った気に入らない自分の鏡像を、爪でカシカシかきむしるようなもの。
(これなど、じつに不快な感触だ・・笑)
・・・
自己とは何か?私とは何か?
自分が生きているからこそ、この世界を体験している・・その私・・
限られた人生としっていながら、ただ一時だけの外の世界と知っていながら、
私が生まれなければ、今ここにいなければ、
生まれてからの人生経験なども有り得ないにもかかわらず、
その原点たる自分のことを全く探求などすることなく、
無知に沈んだような、大勢人々の実に活発な動きばかりを追まわし、
安楽と苦痛のはざまを体験することが人生だったかもしれない。

そして、その中から、これは全くおかしなことだと・・・
・・心底・・気づく時にいたるまで、
生まれては死に、また死んでは生まれるということを、
余計なお世話だが・・、あなたは繰り返してきたのだ。

そしてそれ自体に無意識であったのだ。
それ自体に無意識であるからには、
無意識的に生まれ、無意識的に死んでゆくそれを「輪廻転生」という。

くるくる回る輪の中に・・閉じ込められ、
その中がすべてであるような意識のままでいた。
くるくる回る洗濯機の中の洗い物のようでもあった(笑)。

人間の無数の個体の集合の中で、
出ては没し、没しては出るような、
まるで海に漂う浮き草のように、何回も、何十回も、何百回も、
この世を味わってきたということだ。



自分は何?ここはどこ?
そういう<本質的な自問自答>が生まれるまで、
様々な世間や社会、世界での苦痛や、時折の快楽のはざまで、
無限の作り出す波動サイクルを味わうことができたということだ。

それって、生活の糧になるのか?
何の得になるのか?・・と世間では笑われるような、質問、

そもそも・・わたしとは何か?
そういう自分への問かけに、
行きつくことが・・今・・最も重要なタスクである。
社会、仕事や家族、上司部下、ご近所、親子関係、人間関係などは、
あくまでもこの世界の属性であり、
決してそれらにとらわれず、その中に埋没した自分という個体意識から、
自らを自らで抽出・・客観視しなければならないのだ。


  (一休禅師自画像)

現象世界のすべてを客観視しようとするように、
それらを観ている・・主たる原因としての<わたし>に目覚めるのである。

少なからぬ人々が、いまもう・・この世界で目覚め初めている。
この世界という、リアルな幻想世界からの目覚め・・・
1つのカテゴリーでの現象世界、
あるいは例えれば、1つの学年からの進級のようなもの。

非常に微妙で気づかないかもしれないが、
そのふるい落としが進行している・・そういう時代だ。

一部欧米から流行ってきたアセンション、
あるいは非二元というワンネスの概念も、
つまりは、
肉体の自己から、普遍的な自己への<目覚め>のことである。

そのためには、意識という眼(まなこ)を外から、
内へと切り替えなければならないのだ。

そのポイントが「わたし・・とは・・何か」という、
わたしへの・・問いかけなのである。
これは、
勇気ある魂が、体験次元の底に到達した暁に、
再び浮上するための意識的なツールともいえようか。

今はもう、急速に変化が起き、乱れ始めた世界に気づける人々は、
古い世界がはっきりと終わってしまう、その前に、
今がその時だと気づけるだろう。

洗濯機の中の洗い物のようだった?それぞれのわたしが、
無意識に浮き沈みを繰り返すような、
そんな輪廻転生からの解脱の時が来たのである。

そのためには、意識という眼(まなこ)を外から、
内へと切り替えなければならない。

そもそも、世界や現象を観ているところの、
すべての・・・原点である・・

わたしとは・・何か?



わたしとは・・・何か?(2)わたし!への気づき

2017-03-20 07:14:36 | 意識の拡大
あらゆるすべては波動である。
わたしが・・観察する対象物とはすべて波動であるということだ。

わたしが見ている、観ている世界は1つのもれもなく、
エネルギーの波動によって作られているということだ。

わたしの・・外側とされるもの、事物、事象、
それら時空間での表現、現象は、
すべて波動エネルギーの動きによって行われている。
簡単な言葉表現ではあるが、世界の根本構成説明はそれ以外にはない。

あらゆるものが揺れ動いているがゆえに、
1つとして固定されたものはなく、
常に変化変遷してやまない、常無き変遷、無常の世界である。
それは、それ自らがその無限性を表現し続ける、
ダイナミックな宇宙を顕現し続けているのである。

事物、事象、現象、世界、宇宙を観ている人間は、その無限の宇宙を観ているのだ。
大きいとか小さいとか、宇宙空間とか、身の回りの生活空間とか、
そういう物量比較、区別などまったく意味をなしていない。

人間とは、それに「気づいて」いる存在なのである。
無機物ではない有機生命は、その「気づき」の意識というべきものが、
無限の段階で発現している諸形態ともいえるものだ。

猫や犬、動物にも人間ほどではないが、しっかりと意識がある。
そして感情もあることは今はもう誰でも知っているだろう。
嫌だ、好きだ、欲しい、いらない、嬉しい・・など、
誰でも観察できているはずである。

それは生命の本質である「意識」の働きなのである。
何かを・・意識する、気づいている・・のである。
あらゆるすべてにある「気づき」、それを「意識」と言っている。

意識といわれるものに、数式表現やら物質相互間の説明をして、
すべては脳の生体化学反応によって行われているとして満足する行為は、
例えれば、本を見て、それが紙でできているとか、
そこに文字や写真が印刷されているとか、
ページ数は何枚だとか、紙の材質がもとは木であるとか、
そういうことばかりを挙げて満足しているようなものである。




本の材質、体裁、形、値段などばかりを見ているだけで、
その本に書かれている・・<肝心な内容>のことを全く見ようとしない行為に似ている。

唯物論的世界観というか、意識的精神的なものを全く度外視して、
現れている形態、動き、プロセスだけを追いかける行為だ。

書物の目的であるその・・、肝心な内容を読まずして、
書物の外側ばかりをあげつらっているわけである。
ただ本を買うだけで、全く読まずに積んでおくようなものである。(笑)
あるいは人生を生きていて、それが何なのか?気づかず通過してしまうようなもの。

書物の中身は、いったい何が書かれているのか?・・・
あるいは、人生で生きている意味は、何なのか?・・・

目に見える、あるいは観測される世界、物質形態状で現れた世界、宇宙、
そして日常の周囲世界は、なぜそこにあるのか?

なぜ、「わたし」はここにいるのか?

いや、そもそも・・・、

それらすべての経験のもとにある・・わたしとは何か?


人はまず、ここにたどり着かねばならない。

これは個人の自由だとか、考え方の違いだとか、人によって異なるとか、
そういう価値観、つまり思考の多様性のようなものではなく、

意識ある者、気づいている者、俗にいう生命体の
通らざるべからざる・・通過点なのである。
そして、そこを通るのは・・・わたし・・しかいない。

大勢で和気あいあいと、誘導された集団で通れるものではなく、
ラクダは針の穴を決して通れないという比喩のように、
あの人、この人、大勢が気づいていなくても、
気づいた者から、ひとり通ってゆかねばならないものである。

なぜならば、

自らの意識自体に・・気づくこと・・。

世界の現象がどうなるこうなるではなく、
他者が悪いとか良いとかではなく、
世界が続くとか終わるとかではなく・・、

物でもなく、五感感覚でもなく、時空間でもなく、ことさらマネーでもない。

それらすべてに・・気づいていること・・わたし感覚。
世界経験、観察のおおもとに在るのがそれだ。



ここに留まることが、純粋な気づき、意識へとつながってゆく。
あるいは赤子の神々しい姿態や、
全宇宙がわたしと観じている「宇宙意識」へとつなってゆく。

針の穴をとおるのは、ラクダ、つまり物量・物質の「わたし」ではなく、
質量、大きさ、荷重、さらに次元さえも超えているところの、

・・・意識、気づきなのである。

その道は、あるいは自らに・・故郷に・・戻る道ともいえるが、

ああ、それはまさに、禅のようでもある。


頭で考え、覚えるのではなく、つまり「知」だけではなく、

まさにそうである・・、今あるがままの・・中に留まること、

そうだ、それは、

在ることの・・実践・・なのである。


気づきの階梯(ルバート・スパイラ)