気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

生死は・・夢まぼろし

2021-06-03 06:46:10 | 意識の拡大

あなたがこの世界に生まれる前はどうだったろうか?

「生まれる前?、そんなのあるわけないじゃ無いか!」・・とそう思う人が多いだろう。

生まれていないし、存在などしてしてないじゃないか・・それが常識と思っているだろう。

その常識とは・・・、

生まれて初めて、わたしという今がある。

それまではわたしは存在していなかった。

従って、死んだら存在しないことになってしまう・・と考える。

あなたは偶然にも生まれて、爺さんや婆さん、他の人がそうであるように、あなたもやがて確実に死んで終わりとなる。

それが事実だと・・人生でそう観察しつつ、そう思っているだろう。

そして恐れている、

恐れているからこそ、それを避けようと生き残りに夢中になる。

 

でもこれらは・・すべて「そう・・考える」ことなのだ!

言わば思考・観念ということだ。

 

・・

ここで大勢の誰かは言うはずだ。・・

生まれること、死ぬことが・・「考えること」だって・・?、

だってみんな赤ん坊で生まれて、年を取って死んでゆくじゃないか!

爺さんや婆さん、他の人がそうだったように、あなたもやがて確実に死んで終わりとなるじゃないか・・。

それは考えることなんかではなくて事実だ、それは現実なんだよ!

と言うかもしれない。

・・・

あなたはどう思う?

 

でも、それはあなたや人々の「肉体」の観察結果なのである。

あなたや他人様が=肉体(物質)・・ならばその通りである。

ならば、あなたは肉体(物質)であって、形に現れたら消えてゆく定めにある。

この三(四)次元世界では物質については多く習っているため、

物質とは顕現・消滅・変化するものであることは既に知っているからだ。

 

あなたは物質・肉体である・・という前提・思考・信念があるからこそ、

あなたは生まれる前には存在せず、死んだ後にも存在しない・・

たまたま偶然生まれて、結局は死んで終わりである・・という、

そういう ”信念” になっているということなのだ。

そして、そうした低い強い信念が悠久の魂の記憶さえ遮るのだ。

 

そして、この三(四)次元世界の多くの住人がそう信じているからこそ、

そのその他大勢の常識、同調圧力によって力を得ながら、その信念体系の中にとどまっているという事なのである。

 

 

町中を行き交う人に聞いてみれば良い、

あなたの親兄弟・友人に問うてみれば良い、

 

もっとも常識的と言われる人たちは尚更に・・

わたしは生まれる前には存在せず、死んだ後にも存在しない・・

たまたま偶然生まれて、結局は死んで終わりだである・・という、

漠然としながらそうも思い込んでいるはずである。

 

だってそれが現実じゃないの?・・・・・と、

そう思い込んでいるのである。

 

ただ、そう思い込んでいること・・

意識による投影像・・現実だと・・思い込んでいること、

それが・・幻想である。

 

繰り返すが・・世界・物質・形とは・・人(意識)が知覚しているからこその世界・物質・諸形態であり、

あなたが行為するための肉体も、あなた(意識)が知覚している対象物なのである。

従って、あなたは決して肉体そのものではない。

 

あなたは「意識」であることを悟ったならば、ことは容易に理解できるのである。

 

実のところ・・・ここが肝心かなめの峠なのだ。

 

簡単に言おう、

あなたは意識であるのか?

単なる肉体なのか?

これが旧次元である三(四)次元世界と、

次に来る五次元世界との、言わばボーダーラインなのである。

 

少なくとも此処までくれば、彼岸の世界への解脱が起きる。

まず意識上の進化・解脱が起きる、

というより、

真に気づく・・ことが覚り・・なのだ。

 

全宇宙を顕現しているのが宇宙の意識であり、

人間を顕現しているのもその意識であると知り、

 

あなたが意識である・・と自覚するならば、

物質が中心の、狭く重い時空間に縛られた存在形式から解脱し、

3次元的物質肉体現象の生と死など超えて、

さらに大きな次元生活へと進むことになる。

 

幻想とは・・想いで創り上げる・・まぼろし、

それを現実だと・・信じ込む・・信念が・・

それにふさわしい・・まぼろしを創るのである。

疑いもしない・・まぼろし・・・実に深淵ではないか。

 

あなたは今まで、この次元世界で一体何を信じ込んで、信じ込まされてきたのだろう?

いまはもう、ある意味で過酷で苦渋に満ちた、その夢まぼろしの世界も、短いその終幕劇のさなかにある。

もう本当に、・・・

今までのような、苦痛や悩みに満ちた低い次元の幻(まぼろし)から覚めたらどうだろうか?

 

あなたの本質は・・朽ち果てる肉体なのか?

それに気付き・知覚し、表現をするところの「意識」なのか?

 

頭の知識を憶えて情報量を増やすのでなく

・・意識で感じる・・実感すること、

今在る・・自分自身により深く気づいていく・・意識的努力が必要なのだ。

その意識の深みや広がりの結果によって、

真の知識や情報や経験が必然とやってくることになる。

 

 

 

 

 


わたしとは・・何か(23)回答集

2017-05-19 06:24:33 | 意識の拡大
以前、ユーチューブに出されている「ラマナ・マハルシとの対話」を紹介した。
誰かが朗読をUPしているというわけなのだが、
何ということか!
それは「わたしとは何か?」という命題の、
回答集のようなものであることがわかる。

すでに回答が与えられ(てい)たということである。

回答集といっても、
「あーそうだったか・・わかったぞ・・へへん・・」とか、
そんな数学の問題集の巻末にある回答編を覗くこととは違い、
(昔、よくやったな~笑)
そこに集約された内容を、
今在る・・人生を通じて、真剣に熟考、追試、感読すべき、
実に重要な指針であることがわかるのである。

ヒンヅー文化独特の言葉や言い回しはあるものの、
そんな枝葉にとらわれなければ、
そこには、実に偉大な・・という表現も色あせるぐらいの、

真実というか、本質というか、それに触れるような、
共感、共振する意識を感じないではいられない。

実は、
このサイト記事、「わたしとは何か」のテーマの記事を続けるうち、
自分もひょんなことからそれを知り、
「なんだかな~?・・」という思いが邪魔をしつつも、
通勤途上の電車の中で、何度も何度も繰り返して試聴した。、
今でもそうだが・・。

ここ、なんだか個人的な体験の話となっているが、
まるで「赤ペン先生?」(通信教育かよ!笑)のような事象が、
ここ一連の記事を続けるうちに現れた・・ということである。
これも、それ自体に・・気づくか、気づかないか・・?なのだが・・。

ラマナ・マハルシの語った言葉とされるもの、
肉声でもなく、単に日本語に変換された朗読内容なのだが、
ただ聞くだけでも、そこに含まれる、
「ほんとうの・・わたし」、真我といわれるそれの、
今は遠く離れてしまった、あるいは、忘れてしまっていた「根源」からの、
その「原初の想い」が感得されるのである。
そう、いつも変わらずあったそれとして。

これら言葉、思いは波動である。
またそれは根源からの精緻・精妙な波動であり、
自己内面という空(くう)によってその共感・共振され、
不完全な歪を有しながらも、そこに再現されるということだ!

不完全な歪(ひずみ)、マインド、こころの傾向によって、
人によって異なることは仕方がない。
また、全然感知しないことも、また仕方がないことである。
あるがまま、・・。

かつて、そしていつの時にも、
神なるそれ、<真のわたし>を思い出すために、
それを教えるための師というべき存在が、
この地球という生存カテゴリー内に様々な形で下生して去っている事実、
霊的知識のある人たちは知っているだろう。

そうではないか?

イエス、マホメット、仏陀、クリシュナ、サン・ジェルマン、・・・
あるいはエマーソン、バグワン・シュリ・ラジニーシ、ニサルガダッタ・マハラジ
その他大勢の師たち、あなたも幾人か知っているだろうか。



そして、シュリー・バガバーン・ラマナ・マハルシもそうだ。

19世紀から20世紀中期までの古い時代の人とはいえるが、
現代までに至る霊的胎動の先駆けとなった、師の中の師・・ともいえる、
実に偉大な存在であると言えるだろう。

うかつにも単にヒンヅーの裸の聖者等としか見ていなかった。
「裸でふんどしの人なのか・・」(笑)そこで、もう引っかかっていた。

さらに、文字が小さく難しそうという理由で、
ラマナマハルシに関する書籍を「BOOK-OF◇」に売却したことがあるが、
高い値段が付いたので驚いたものである。(大笑)


余計なお世話だが、あなたも出来れば、
ユーチューブにUPされている朗読を聞いてもらいたいものだ。

忙しくて、そんな暇は無いというかも知れないし、
目で情報を検索しているだけの人ならば、
まったくその気になれないかもしれない。

目で見ること、あるいは読書もいいが、
左右の耳で、つまり右・左の脳という感覚器官を通じて、
その波動を内面意識で知覚することは、
実に大きな目覚めの作用を促すかもしれない・・。

当初は違和感を禁じえず、「なんだかな~?」という思いが付随するのは、
いわゆる3次元的世界の特徴である「小さく分離した自己」から沸き起こる、
そのいつもながらの世俗的な「想念」によるものであることがわかる。

そう、輪廻転生でのその時々の人格を造る、
一時の生起現象であるマインド・こころは、
本来の自己、無限のわたしのことを理解しがたいからなのである。

限られた体積を持つ茶碗は、
無限の空間の中にこそあれ、
無限そのものを入れることはかなわない。

まさに、そんなものである。


  (天目茶碗)

例えば、人は、
物体化した茶碗が自己だと思っているが、
その茶碗は、無限の空間があってこそ、
有限の小さな茶碗として存在することができる。
どちらが本物だろうか?
現れては消える、一時の茶碗のほうか、
茶碗を含む無限の空間だろうか?

何時も、どこでも、そのただ中に生きて在る・・のに、
それに気づかない・・・

その、わたしとは何か・・。
あなたはもう気付いただろうか?

あなたはどこからきて、どこにいくのか?
何者であるのか?

・・・

題して、「わたしとは何か、回答集」

バガバーン・ラマナ・マハルシの教え






-----------

様々な形で、そこ、ここに、あちらこちら、
そして全てにおいて現れている・・真のわたし、
またそれを指し示す師たちに、
そしてこれをご覧いただいているあなたにも、
こころから感謝いたします。



わたしとは何か・・・了






わたしとは・・何か(22)観の一大転換

2017-05-09 07:45:32 | 意識の拡大
<世界はわたしの中にある・・>、

なぜならば、
わたしは存在全ての<第一原因>だからだ。
わたしが在って、したがってその知覚する世界がある。

そう言われて、あーそうだ・・と、
言うわけにもいかないかもしれない。(笑)

なぜならば、「わたしはこの体だ」・・という感覚が、
生まれた時からいつの間にか、それこそ強く硬い「信念」になっているからだ。

信念とは、こころの深層にある根っこのようなものである。
普段は全く気付いていない、自己存在の基本形を決める「想念」なのだ。

当然ながら、3次元的体積を有する人間の肉体、
この体、有限の面積・体積のこの身体、肉体の中に、
あの宇宙、天空の宇宙があるわけもないではないか・・!
これは、極めて当たり前の「思考」なのである。

そうではないか?
わたしのなかに宇宙がある・・などという言明に対して、
あなた?の今のしっくりこない感覚は正しい!
(いったい、どっちやねん・・?笑)

「全て、そして宇宙も・・わたしの中にあるって?・・」
いくらなんでも、そりゃ誇大妄想もいいとこであって、
まともな御仁ならば、聞くに堪えるようなものではない・・。

そんなの常識じゃないか!
えー?、思っている?どころではないだろう?、馬鹿言うな・・
それとも新たな刺激提示、新種のスピリチュアルパフォーマンスの類か?(大笑)

SF的な作り話、あるいは気持ちよさげな夢物語・・と思えば、
それでもまあいいか・・。
そんな風に思うものである。
でも不思議にもあなたはこの記事を読んでいる。

「全て、そして宇宙も・・わたしの中にあるって?・・」
いくらなんでも、そりゃ誇大妄想だ。

それは、そう、「わたしがこの肉体である」と思っているからだ。
それを掘り起こし、その思考の根っこを抜き去るのが実に大変な、
なかなか深く食い込んだ「信念」なのである。

人間、人類は、肉体存在である・・
世の中の常識で、これほど深く食い込んだ思想はない。

その思想、思考形態、そのものが、
この3次元的地球という、生存カテゴリーの特徴なのだ。

そういう信念、常識は、ことさら問題視しないところに、
実に大きな問題が潜んでいるのである。

世界の現象の中での、特定の権力者や闇の勢力、宗教の暗躍、
利権がらみのウソ政治の動きや、果ては宇宙人の善悪とかの話など、
昨今急に拡大された事象の類を問題視する場合もあるが、

最も重要な問題は何かといえば、
それらすべてを知覚し、認識し、思考し、思いめぐらせている、
すべての原点である、わたし・・という存在ではないか?

I am that I AM.

(わたしが信じている・・とおりの<わたし>・・となっている)

引き寄せの法則とか、成功の法則とか、
それらすべては・・意識の方向性によって、体験世界が現実化するという、
これら幻想世界の物語の、そのシナリヲの書き方のことである。

--------
ジム・キャリーの場合
彼も、真のわたし、(宇宙)意識との合一体験者のようだ。
こころの晴れ間には、仮に一瞥ながら、かならず光は差してくる。

--------

どう「信じるか」によって、どういう風になるのか?
その話なのである。

肝心なのは・・それが当然、正規、常識、当たり前だ・・という
そういう思考、観念なのである。

あなたは、シナリオライターなのだ。

そして、そこにたどり着くまでには、
自分自身、世界の事象、宇宙・大自然の働きも観察し、

それらすべての原因としてある、<意識>・・と言われるもの、
現実というもの、そのシナリオである思考・想念を作り上げる、
意識を探り当てる、そのプロセスが必要ということだ。

それが、まことの自分探し。悟りのプロセス。

幻想世界とは、あなたが見ている今の、この世界であり、
重さや大きさ、温かさや冷たさなど、実にリアルに感じている、
例えば、この世界のことである。


毎日毎日経験していることに、
観点・視点の違いで、まったく見逃していた真実を、
それに全く気付ないことに・・・
一度は腰を抜かす必要があろう。(大笑)


あなたが熟睡すれば、あなたの世界は消え、
あなたが夢を見れば、時折、そのおぼろな想念でできた夢の世界にいる、

そして朝になって、おぼろな夢から次第に顕在意識が目覚めてきて、
毎度おなじみだが、少しづつ異なっている・・この現実世界という、
同じく想念のシナリオどおりの夢の世界が現れてくる。

<わたし>という意識がなくて、どうして世界が立ち現れるのか?

グレンとひっくり返る・・、
実に・・ここに、重大な「観の転換」がある。



わたしとは・・何か(21)I am THAT I AM

2017-05-06 18:16:25 | 意識の拡大
「在る」こと・・存在のことを、英語ではBeing(ビーイング)と言うようだ。

Be に、ing(進行形)がついている。

活動しながら在ること、在り続けること・・という意味だ。

あー、なるほど。

しかし、これは概念での説明であって、実経験が重要である。

今自分が・・在ることを調べてみることだ。


人に関して、在る・・とは何か、

「生きていること」とでもいうのだろうか。

また、生きている・・ことを意識があると言う場合がある。


よく医学系のドラマなどで、

「あー、先生!、この患者、まだ意識があります・・!」という場面があるが、

生きていることは、”意識がある”というわけだ。

生きている、存在している、意識している・・は同じような意味である。

多くの人はこれをすでに知っている。

生きている=意識がある・・だ。

生物的に活動している・・生きている・・意識がある・・である。

・・・

しかしながら、人に意識があるということを、

考えるとか、感情反応するなどと解釈している場合は、

動物、人間などに限ったものと考えているかもしれない。


あなたの家の猫や犬にも、意識があると気づく人も多いだろう。

<散歩に出してくれ、ご飯をおくれ!・・>

そういう個体としての意思表示があるから、動物にも意識があると感じる。

意思を、意識と同じように考える場合があり、

意思のある生き物には意識がある、と考えるのだ。


当然すべてに意識がある、

なぜならば<在ること>、存在すること・・それは意識だからだ。

そうではないか?


しかしながら、ここでいう、・・わたし・・「意識」とは、

思考や目的、思いや感情のもとにあるものだ。

思うこと、考えること、感情を持つことが、つまり「意識」というわけではない。

思いや感情=意識・・ではない・・ということだ。


例えば、

あなたが何かを見た!として、特別な「思い」が湧くとは限らないし、

何かを聞いた!としても、特別な「感情」が起きるとは限らない。

当然のこと、知覚したことに対する反応は、人によって千差万別なのだから。



人の「意識」は、思いや感情、思考という精神作用のもっと根源にあるものだ。

見る、聞く、味わう、触れる・・などの五感の知覚そのもの、

しかしながら、五感という知覚作用、その機能・働きではなく・・、

つまり、様々なものが存在している・・ことを<知る>、そのこと・・、

存在に・・<気づく>・・こと、そのもの、

それ・・だ。

それを「意識」という。



科学最先端のロボットには、人間の五感の機能に類似したセンサーがあり、

そこで受けた情報は、電気信号で情報処理されて、記憶もされる。

様々な・・IF、THEN・・のような反応プログラムによって、

人間に酷似した動きやしゃべりが可能だし、

内臓プログラムに記憶された論理情報を組み合わせることで、

あたかも思考しているかのような振る舞いが可能だが、

「意識」があるわけではない。





意識とは、まず自己の存在に気付いていること・・・、

わたしが・・わたしの在る・・ことに気付いていること。

それが・・・わたし・・である。


意味不明だろうか?


I am THAT I AM.

わたしとは・・わたしであるところの存在・・それが<わたし>である。


これは、なにものにも依存しない、自己存立としての第1原理だ。

これを・・存在の・・第一原理とすると、

わたしとは、なにものにも依存しない、自己存立なのだから、

I am [ ・・  ].の、

このカッコに入るすべての<対象物>は、真正のわたしではない。


例えば、

私は男だ、女だ・・は、性別に依拠している。

私の生年月日は、○年○日だ、は時間に依拠している。

私の体重は68kgだ、は体重計測に依存している。

これら本質ではなく、特定の「属性」のようなもの。


光の色でいえば、赤、とか青等と言えようか。

私とはこの肉体である・・というのも、

同じく特定の対象物である肉体に依拠している。

私の肉体形式、性別、年齢、経歴・・、

さらに思想、信条など、思考、感情、そして記憶の全ても、

具体的事物、または思考の・・概念・・ラベルでしかない。

つまり、真正のわたしではなく、私の一時的属性のようなものだ。



真正のわたしとは、・・わたし・・である。・・(笑)


これは論理や思考では理解できない。

なぜならば、概念、記号の組み合わせではないからだ。

まったくの・・禅の公案のようなものだ。



意味不明かもしれないが、お付き合い願えれば・・、


I am THAT I AM.

わたしは・・わたしである存在・・それが<わたし>である。


I am [    ]のかっこ内は、何かの対象物や記号ではなく、

そこにも・・わたし・・が入るのだ。

注意すべきは、論理でいう、

A=A・・ではないということ。

なぜならば、A=Aが成立するのは、

<A>が何か判っていることが条件である。


わたし・・は判っているのだろうか?

いいや、判っていないのである。


わたしは・・わかっていない、

あるいは知ることができない・・

が・・

わたしである・・ところの、存在。



意味不明だろうか?


・・でも、わかることがある・・はずだ。



I am THAT I AM. 


わたしは何か・・分かっていない、

しかし、<わたし>として、無数に立ち現れる、

現象がどれもこれも、わたしではない!


つまり、わたしは・・在る・・が・・知れていない、

知ることができない・・無限の、それである。

逆に、自己を知らないから、その自己を知ろうとして、

あれとか、これで無数に、無限に現れるとも言える。


また、

知ることができない・・とは、無知ではない・・。

無知ならば、問いかけ自体もあるはずがない!

無限に現れるものが無知なわけもなく、

まさしく無限の知性、いや英知を有すのである。


しかしながら、

無数に立ち現れるわたしの・・どれが、わたしとは言えない。

まさに、無限に展開される・・この宇宙・・そのもの。


大きさも何も関係なく、

今ここにいる・・わたしも・・それ、

I am THAT I AM. 


つまり、私は何者だ、どうしたこうした・・ではなく、

わたしは・・在る・・、つまり、Being  である。

それがすべての根源である。


いつかの時間とかどこかの空間とか、・・・ではなく、

何をどう考えるか、・・ではなく、


今・・在る・・それに、今・・・気づいているではないか。

それを・・意識・・と言っている。



根源意識は、マインド、思考の曇りがなくクリアーなため、

すべてに気付いている。

現象として現れた人間の意識は、マインド、思考、観念の曇りによって、

なかなか気づけないともいえようか。


しかしながら、

I am THAT I AM.

わたしとは・・わたしであるところの存在・・それが<わたし>である。

存在そのもの、・・あらゆるすべての第一原因である。







わたしとは・・何か(20)宇宙はわたしの中にある

2017-05-03 18:00:30 | 意識の拡大
灯台元暗し

毎日、毎日忙しく生きているにもかかわらず、

我々は本当に身近すぎて見えないことが多すぎる。

自分のことをほとんど知ることなく、外側の世界で右往左往し、

うわさ話や出来事で一喜一憂しているかもしれない。


世界を知覚し、知り、記憶するその根幹にある・・・わたし・・について、

まったく無知蒙昧と言わねばなるまいに、


というか、無知、それ自体に気づきもしない有様ではなかったか。

わたしのことを肉体だ・・と簡単に決め込んで、

よくも何千年も知らずに、あるいは知らされずにいたものだと思う。

そうは思えないか?


●内奥のわたしが・・根源

わたしに最も近いのは・・何あろう・・わたし・・なのである(笑)。

本当の意味で、・・

わたしが・・<わたし>のことを知る、識ることを悟りともいえようか。


あるいは、個人としての私、個人我、肉体自我が、

ほんとうのわたし・・真我・・を知る、識るということだ。

真のわたし・・は、<普遍意識>である。

意識、気づき・・普遍的なそれは、

遍く(あまねく)、宇宙すべてに、気づき、意識している、

宇宙意識、神、創造主・・色々表現があるけれど、それのこと。


●意識は分割されない

普遍的な意識と、私個人の意識はどう違うのだろう?

どちらも、気づき、意識なのだが、

個人の意識・・は、様々な想念で、重たく歪んで脚色され、

卑小な個人としての肉体に・・自己投入している形になっている、

もとは無限の普遍意識である。


小さな表面意識と、それを含む、膨大・無限の潜在意識との関係だ。


私個人の意識は氷山の一角のようなもの、

普遍的意識、大海の中から浮き出た氷山のようなものと、

そういわれることがある。




顕在意識、潜在意識、超意識などと呼ばれることもある

●わたし=神・ただし気づきの差

それも間違えば、大きい小さいの物量比較イメージに陥るが、

意識は物質、物量でなく、それは分割されないのである。

つまり、無限の普遍意識もわたしの意識も、まったく同一なのである。

ただ、顕在化している程度の・・差のよう。

物量・計量ではないので、差もあるわけもないが、

ただ、気づく・・気づかない・・の違いであるともいえようか。


あなたは、まだそれに気づいていないかも・・の差である(笑)。
・・・

●意識は思考、想念ではない

潜在意識は、文字通り「潜在」する意識ということであり、

また表面に出ているものを「顕在」とすれば、

日常の目覚めているときの意識は、「顕在」意識ということになる。

顕在意識は膨大な潜在意識のほんの表層のもの、

それはまるで大海の表面にある波のようなものだ。



また「意識」というのは思考やイメージ、想念ではなく、

知覚していること、意識していること・・根本的な気づきのこと。

意識、気づきは思考や感情ではなく、思考やイメージ、感情の発生する、

そのもとにある原因や根っこのようなものである。


・・・
●熟睡中は肉体も世界もない

意識に関して、あなたが熟睡しているときはどうだろうか。

身体はスリープモード、意識はどこかに消えているだろうか。


意識どころか、熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。

その時には、外側のことを何も気づいていないし、

自分の肉体すらも気づいていない。


というか、自分が存在している・・ことすらも意識にない・・わけだ。


そう、

それぞれの、わたしにとって、

熟睡中は、外の世界などまったく何もない・・そうではないか?

そのまま、仮に死んだとしても、何もわかるまい。

夢見の最中や目覚めた後ではないため、まったく無意識、

怖い怖いも、嫌だ嫌だも、何もない(笑)

宇宙や地球、自然も環境も何もない。


「えー?、世界は無いという等あるものか、、

絶対まだそこにあるよ・・」と、どうして言うことができる?

できっこない。

それを知覚する当人の意識が目覚めていないからだ。


世界や肉体や、環境は絶対まだそこにあるよ・・と、

それは目覚めている他人が言えることで、

熟睡している「わたし」は、そんなこと聞けないし、わかるわけもない、

そもそも、私が・・わたしが・・という自意識もなにもない。


そう、熟睡中は、外側のことを何も気づいていないし、自分の肉体すらも気づいていない。

というか、自分が存在している・・ことすらもわからない・・わけだ。

それぞれの、わたしにとって、

熟睡中は、外の世界などまったく何もない・・

宇宙や世界が存在するとは言えない。



●宇宙は意識の創造物

極端に言えば、全宇宙で人間のような意識ある存在が誰もいなければ、

どうして、宇宙が、地球が、あの横丁のタイ焼き屋(笑)が有るといえるだろう。


宇宙を知覚し、気づき、意識する存在がいなければ、

宇宙は存在しているとは言えないのである。

いや、創造主がいて、宇宙を見ている、気づいているだろう・・

というかもしれないが、

要するに、神も・・・宇宙を知覚し、気づき、意識している

からこそ宇宙が存在している・・ということだ。


意識、気づきがなければ・・

宇宙も多次元宇宙も、地球さえも存在しているとは言えない。


意識、気づきがなくて、

いくら物質がたくさんあって、右に左に動いていても、

どうしてそれが存在できようか?

いいや、存在できるわけもない。


あなたがいるからこそ、あなたの知覚する、意識する世界が生じている・・。

世界があるから、その二次的結果であなたが生じている・・わけではない。


熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。

その時には、外側のことを何も気づいていないし、

自分の肉体すらも気づいていない。


周りの人から見れば、あなたは単に寝ているだけで、

揺り起こせばすぐにも、あるいは不機嫌でも目を覚ますから、

単に肉体が休息しているだけだと思っている。


しかしながら、すべての中心である<わたし>意識がなければ、

宇宙も、世界も環境も、そして肉体も、存在しているとは言えない。

なぜならば、それらが知覚されないからだ。


それに気づく意識がなければ、

宇宙も、世界も環境も、そして肉体も、存在しているとは言えない。

気づいていないだけ・・ではなく、

わたしの意識にとっては、全く!「存在していない」のである。
・・・

●物質宇宙が意識を生み出す・・うそ

一般常識?では、

世界がまずあって、そこに私という身体が生まれ、

その身体の中で、身体機構、頭脳の働きで「意識」が生じる・・と考えている。

つまり外側世界、環境、宇宙があって、そこに物質構成の肉体が生じる、

そう考えているし、それが常識と思っているからである。

世界が先、私はあと、ということだ。

世界環境、宇宙が私を生み出している・・という考えである。

そう、それは「考え」・「理論」・「思い」・・でしかないのである。


他人が他人に意見を言っているだけで、

当人の直接体験なんかではない・・のである。


繰り返すが、

熟睡中は身体のことも、周りのことも全く知覚していないだろう。

その時には、外側のことを何も気づいていないし、

自分の肉体すらも気づいていない。

その間は、世界は存在していない。


そしてあなたが目覚めるにしたがって、

昨日と同じ、あなたの意識のベクトルで生じる、

その想念形式と同じ世界が、目覚めとともに生じている。

だから毎日同じような世界が現れているので、

どこか安心だし、またどこか不満なのである。

人生とはある期間設定での、その繰り返しといえようか。



気づきそのものとして、

意識としての直接経験では、

わたし:意識が存在していなければ、

肉体、環境、世界、宇宙は存在しないと同じ。

意識の目覚めで現れる、宇宙は・・

意識のなかにある、

わたしの・・・なかに・・あるということである。


私個人であると意識しているわたしは、

この宇宙、時空間という、立体スクリーンの中の登場人物の1人である

肉体自我という私個人であり、


それに気付いているのが、普遍的意識である・・わたし・。

よく言われる逆転の発想・・どころではない気づきからいえば、

人間という小さな私という個人の、

その・・全宇宙反転したすべてが、真のわたし・・である。



真のわたし・・無限の空(くう)、普遍意識、神意識、

それは一なるもの、

気づく、気づかないにかかわらず、

すべては・・ひとつである。