ゲリー・ボーネルの著「光の12日間」に関する記事の2回目です。ゲリー・ボーネルはアカシックレコードにアクセス出来るとも言っているようですが、それを実際に見た?わけではないので何とも言いようがないのですが、いつの時代の何処の世界であれ、また各人の形式・形体はどうであれ、その表現された、限られた言葉の中に、間違いのない大枠での真実を感じることも多いものです。これは論理等ではなく、フィーリング・共感・共鳴と言うしかないのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「光の12日間」 前掲 p117~118より
創造のはじまりの瞬間に、2つの生命形態が生まれました。
第一の存在のトライアードは、永遠不滅で一定の存在であり、変えたり、何かを付け加えたりすることはできません。
トライアードは創造を観察する側面であり、「創造主の意識」とも言えます。地上では「魂」と呼ばれています。
もう1つは、ダイアードと言われる進化するエネルギー形態です。ダイアードは、ただ「創造主-創造」のビジョンを満たそうとします。進化する物質はその形態が複雑化するにつれ、感覚意識を発達させていきます。それは自身の形態が消滅した後も生き残り、前回の記憶を携えて、次の形体の形成を助けます。
私たち人間は、永遠不滅の魂の意識-トライアードであり、進化する物質的肉体であるダイアードに宿っています。ダイアード意識(身体意識)は肉体が死亡した後も存続するため、DNAのエネルギー情報を携えながら、転生から転生へと生まれ変わります。
・・・・・・・・p269より
魂意識というものは、宇宙が生まれた瞬間に、一緒に生まれています。どんな状態も不変の、ともかく何があっても変らない存在で、創造主の意識と同じと言ってもいいものです。
魂意識は創造主から出ていき、各魂のユニークな視点から創造そのものを観察し、体験していくということです。
地球というのは、次元を持った現実です。地球に降りてきて、その現実をのぞき見るのです。
身体意識は不変ではなく、進化する存在です。最初に創造主が持ったビジョンの細かい部分を、満たしていくのがこの進化する存在なのです。身体意識は潜在意識というようにもよばれます。
身体意識には、初めて物質が地球に生まれてからの何億年もの記憶や知識がすべて入っていますから、非常に深淵かつ広大なのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上
古来から言われている創造と人間の関係、魂と生命、輪廻転生などに関する文章ですが、言葉の表現や言い回し以外、特に目新しくはないのですが、温故知新というか、連綿と続いている真実情報というか、そのようなものを感じます。
●変化するものと不動のもの
文化、文明、その時々の信念体系などは、様々に変化してゆくわけですが、変らない真実、「人間とは本来何か」というテーマに対して、投げかけられた1つのアナウンスのようです。
世界に現われる様々な変化の中にある、1つ1つの不動の中心とも言うべき、「人間」に関する深い洞察を感じます。真実に関する表現は、どの時代にあっても、その時代、国、地域、言語表現などは異なっていても変ることがないようです。例えで言えば、目的とする山には、今だ登っていなくても、それを十分に知っていなくても、そのシルエットは、いつの時代にも、誰にも見える場所に見えているようなものです。井戸は違っても、大切な水は何処からでも湧出するようなものでしょうか。
●人間は永遠から派生した存在
人は本来仏であるとか、神の子といわれる概念は、いかにも象徴的な表現でありますが、夢見るような希望的観測ではなく、間違いなく事実であるということが、どうも本当の事ではないかと思われます。創造自体が無限で在るがゆえに、人間としての不滅の魂意識は、観察や経験等、様々な変化を伴いながら続いているのだと考えられます。
今の人間社会にあっては、永遠に続く事には疲れを感じてしまいますが(笑)、本来の創造とは、子供のごとき好奇心と楽しさを、様々な変化を通じて体現してゆくことでしょう。 また、変化する様々なものは、不動のものからの派生であり、また移り変わるもの、眼に映ずるものは、眼に見えないものからの湧出であるということを理解することが大切だと思います。
●人間は「思い」を「観る」ことが出来る
眼に見えるものはすでに現われた「結果」であり、その因たる、眼に見えないもの「意識」による表現ともいえます。自分自身が「原因側」にあると気付けば、不安や恐れは無くなってゆくものです。結果の世界で翻弄される経験に、真実嫌気がさす瞬間は、その本来の自分のあり方に気づく瞬間ともいえるのではないでしょうか。
今の我々の思い、感情、想念は間違いなく「今ある」のを感じますが、それ自体は肉眼では見えません。頭の中に在るような?無いようなそのような「思い」も、誰しも確かに、自分の中に知覚しているのですが、普通の五感によって見たり聞いたりするものではないわけです。それを例えていえば「観る」ものといえるでしょうか。
●現象だけを見る時代の終り
人間皆、外の世界の物や価値など、元々持ってはいなかったし、もってゆくこともできないものです。物質も富も名誉も、一時の「幻想」であるというのはまさにそういう意味です。そのことは古来から言われ続けてきたことなのですが、一時は極端な物質偏重を経験しなければならなかったのだろうとも思われます。どこかでわかってはいるが、どうにもダメ押しまでやってみたいようなものです。
●光(知覚)が増しつつある時代とは
我々の「魂意識」及びその作用とも言うべき、人間存在としての「思い」や「感情」は、毎瞬毎瞬、我々が内面に実感しているリアリティーですが、実はその潜在的なリアリティーこそが、自分の周りの世界の雛形になっているということに、人類意識は気づき始めているようです。
今の人類意識は、現われ続ける有象無象の現実を見て、各自の思いを通してそれらを体験することで、実はその「因たる自己意識」に気づく過程にあるのかもしれません。そう考えれば、今まで自己の無意識のベールで隠されていた、世界の様々な明と暗に気づき始めた今の時代は、確かに「大いなる過渡期」と言ってもいいのではないかと思われます。
「光に満ちた世界」とは、ものごとがあからさまに「見える世界」という意味でもあるようです。またそのような時代は、人の認識や知覚が大きく広がることにもなるでしょう。ただし自己の思いを見る行為が出来ることが、その根底にあるような気がします。
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●自分自身の執着から自由になること?
(「I am that 私は在る」 ニサルガダッタ・マハラジとの対話 より)
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あなたはまず、自由にならなければならない。
世界の中で自由になるには、世界から自由にならなければならない。
さもなければ、あなたの過去が、あなたとあなたの未来のために決定するのだ。
起こったことと、起こらなければならないことの間に、あなたは捕らわれている。
それを運命、あるいはカルマと呼ぶがいい。
だが、けっして自由ではない。
まず、あなたの真の存在に戻りなさい。
そして愛のハートから行為するのだ。
------------以上抜粋
なるほど、本来の創造はまず自由であるからこそ可能です。自由であるとは、外の幻想からの自由の獲得というものではなく、自分自身のマインド(こころ)からの自由というべきものでしょうか。思いや感情がマインドというものであればこそ、それをに振り回されず、それを観察し、それを出来るだけ上手に使うことを学ぶべきなのでしょう。移り変わる外の世界は本来我々を支配・束縛など出来ないことに、ようやく、やっとのことで気づくことが出来るのも、また一つの有意味な経験とも言っていいのではないかと思います。
マハラジは、その中心にあるのは愛・ハートであると言っているようです。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。