気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

光の時代とは?

2009-02-21 14:22:11 | 見えないものから見えるものへ

ゲリー・ボーネルの著「光の12日間」に関する記事の2回目です。ゲリー・ボーネルはアカシックレコードにアクセス出来るとも言っているようですが、それを実際に見た?わけではないので何とも言いようがないのですが、いつの時代の何処の世界であれ、また各人の形式・形体はどうであれ、その表現された、限られた言葉の中に、間違いのない大枠での真実を感じることも多いものです。これは論理等ではなく、フィーリング・共感・共鳴と言うしかないのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「光の12日間」 前掲 p117~118より

 創造のはじまりの瞬間に、2つの生命形態が生まれました。

 第一の存在のトライアードは、永遠不滅で一定の存在であり、変えたり、何かを付け加えたりすることはできません。

 トライアードは創造を観察する側面であり、「創造主の意識」とも言えます。地上では「」と呼ばれています。

 もう1つは、ダイアードと言われる進化するエネルギー形態です。ダイアードは、ただ「創造主-創造」のビジョンを満たそうとします。進化する物質はその形態が複雑化するにつれ、感覚意識を発達させていきます。それは自身の形態が消滅した後も生き残り、前回の記憶を携えて、次の形体の形成を助けます。

 私たち人間は、永遠不滅の魂の意識-トライアードであり、進化する物質的肉体であるダイアードに宿っています。ダイアード意識(身体意識)は肉体が死亡した後も存続するため、DNAのエネルギー情報を携えながら、転生から転生へと生まれ変わります。

・・・・・・・・p269より

 魂意識というものは、宇宙が生まれた瞬間に、一緒に生まれています。どんな状態も不変の、ともかく何があっても変らない存在で、創造主の意識と同じと言ってもいいものです。

魂意識は創造主から出ていき、各魂のユニークな視点から創造そのものを観察し、体験していくということです。

地球というのは、次元を持った現実です。地球に降りてきて、その現実をのぞき見るのです。

身体意識は不変ではなく、進化する存在です。最初に創造主が持ったビジョンの細かい部分を、満たしていくのがこの進化する存在なのです。身体意識は潜在意識というようにもよばれます。

身体意識には、初めて物質が地球に生まれてからの何億年もの記憶や知識がすべて入っていますから、非常に深淵かつ広大なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上

 古来から言われている創造と人間の関係、魂と生命、輪廻転生などに関する文章ですが、言葉の表現や言い回し以外、特に目新しくはないのですが、温故知新というか、連綿と続いている真実情報というか、そのようなものを感じます。

●変化するものと不動のもの

 文化、文明、その時々の信念体系などは、様々に変化してゆくわけですが、変らない真実、「人間とは本来何か」というテーマに対して、投げかけられた1つのアナウンスのようです。   

 世界に現われる様々な変化の中にある、1つ1つの不動の中心とも言うべき、「人間」に関する深い洞察を感じます。真実に関する表現は、どの時代にあっても、その時代、国、地域、言語表現などは異なっていても変ることがないようです。例えで言えば、目的とする山には、今だ登っていなくても、それを十分に知っていなくても、そのシルエットは、いつの時代にも、誰にも見える場所に見えているようなものです。井戸は違っても、大切な水は何処からでも湧出するようなものでしょうか。

●人間は永遠から派生した存在

 人は本来仏であるとか、神の子といわれる概念は、いかにも象徴的な表現でありますが、夢見るような希望的観測ではなく、間違いなく事実であるということが、どうも本当の事ではないかと思われます。創造自体が無限で在るがゆえに、人間としての不滅の魂意識は、観察や経験等、様々な変化を伴いながら続いているのだと考えられます。

 今の人間社会にあっては、永遠に続く事には疲れを感じてしまいますが(笑)、本来の創造とは、子供のごとき好奇心と楽しさを、様々な変化を通じて体現してゆくことでしょう。 また、変化する様々なものは、不動のものからの派生であり、また移り変わるもの、眼に映ずるものは、眼に見えないものからの湧出であるということを理解することが大切だと思います。

●人間は「思い」を「観る」ことが出来る

 眼に見えるものはすでに現われた「結果」であり、その因たる、眼に見えないもの「意識」による表現ともいえます。自分自身が「原因側」にあると気付けば、不安や恐れは無くなってゆくものです。結果の世界で翻弄される経験に、真実嫌気がさす瞬間は、その本来の自分のあり方に気づく瞬間ともいえるのではないでしょうか。

 今の我々の思い、感情、想念は間違いなく「今ある」のを感じますが、それ自体は肉眼では見えません。頭の中に在るような?無いようなそのような「思い」も、誰しも確かに、自分の中に知覚しているのですが、普通の五感によって見たり聞いたりするものではないわけです。それを例えていえば「観る」ものといえるでしょうか。

●現象だけを見る時代の終り

 人間皆、外の世界の物や価値など、元々持ってはいなかったし、もってゆくこともできないものです。物質も富も名誉も、一時の「幻想」であるというのはまさにそういう意味です。そのことは古来から言われ続けてきたことなのですが、一時は極端な物質偏重を経験しなければならなかったのだろうとも思われます。どこかでわかってはいるが、どうにもダメ押しまでやってみたいようなものです。

●光(知覚)が増しつつある時代とは

 我々の「魂意識」及びその作用とも言うべき、人間存在としての「思い」や「感情」は、毎瞬毎瞬、我々が内面に実感しているリアリティーですが、実はその潜在的なリアリティーこそが、自分の周りの世界の雛形になっているということに、人類意識は気づき始めているようです。

 今の人類意識は、現われ続ける有象無象の現実を見て、各自の思いを通してそれらを体験することで、実はその「因たる自己意識」に気づく過程にあるのかもしれません。そう考えれば、今まで自己の無意識のベールで隠されていた、世界の様々な明と暗に気づき始めた今の時代は、確かに「大いなる過渡期」と言ってもいいのではないかと思われます。

 「光に満ちた世界」とは、ものごとがあからさまに「見える世界」という意味でもあるようです。またそのような時代は、人の認識や知覚が大きく広がることにもなるでしょう。ただし自己の思いを見る行為が出来ることが、その根底にあるような気がします。

・・・・・・・・・・・・・・・

●自分自身の執着から自由になること? 

 (「I am that 私は在る」 ニサルガダッタ・マハラジとの対話  より)

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 あなたはまず、自由にならなければならない。
 世界の中で自由になるには、世界から自由にならなければならない。
 さもなければ、あなたの過去が、あなたとあなたの未来のために決定するのだ。
 起こったことと、起こらなければならないことの間に、あなたは捕らわれている。
 それを運命、あるいはカルマと呼ぶがいい。
 だが、けっして自由ではない。
 まず、あなたの真の存在に戻りなさい。
 そして愛のハートから行為するのだ。

------------以上抜粋

 なるほど、本来の創造はまず自由であるからこそ可能です。自由であるとは、外の幻想からの自由の獲得というものではなく、自分自身のマインド(こころ)からの自由というべきものでしょうか。思いや感情がマインドというものであればこそ、それをに振り回されず、それを観察し、それを出来るだけ上手に使うことを学ぶべきなのでしょう。移り変わる外の世界は本来我々を支配・束縛など出来ないことに、ようやく、やっとのことで気づくことが出来るのも、また一つの有意味な経験とも言っていいのではないかと思います。

マハラジは、その中心にあるのは愛・ハートであると言っているようです。

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 


ユニティへのシフト?

2009-02-14 14:55:13 | 見えないものから見えるものへ

 今回はゲリー・ボーネルの著書の紹介です。

 個人的にも、取っ掛かりはいつも「疑問」であり、「疑問」があるからこそ敢えて触れてみる、という内面の傾向があります。一見して違和感がある内容に接していくにつれて、往々にして、やはりそうだったか?という感じが湧いてくるのが、かなり不思議なことではあります。逆に、未知なるものを、直感的にはあるいは潜在意識では「知っている」がゆえに、既存の感覚に馴染んだ顕在意識の差し出す「疑問」さえも、あえて乗り越えて、見いだすことを試しているだろうか?というのが正直な感想です。

 既成概念の枠組みから出てみるという意識的行為自体は、結構勇気がいるものです。思考し行動するのは確かにいつも自分であり、ある意味孤独ともいえますが、それを超えれば多くの仲間がそこにいることに気がつくものです。すごく卑近な例で言えば、日常にある色々な試験勉強、修行、修業等もある意味そんなものでしょう。

 ボーネルの「光の12日間」も、自分では、なるほど・・という内容ですが、やはり一般通念から見れば、一体なんなんだ?程度に終るのではないかと思います。また、スピリチュアルな思考、意識的な無限の可能性など思いもよらない場合は、それらは全く別次元のカテゴリーとも感じるだろうし、またそういう場合は、そのような情報や書物など、手にとって見る機会すらないかも知れません。根拠が示されていなければ事実とは言わない・・という観念もあるものと思われます。主観と客観なるものとの境界なども、今だ誰も踏み込んではいないのではないかとも感じます。

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 この書物は、「ユニティへのシフト」といわれる、これから起きるであろう一大変化に関して述べたものであり、ある意味予言的な要素のあるものです。またその情報源が「アカシャ」(Aフィールド、アカシックレコード等)といわれるフィールドであるとしています。

 元々は1980年代に表したものを、2008年に日本でも改定出版されたようです。前世紀すでにAフィールドの概念をスピリチュアルな方面から提唱していたようです。今までの本記事に出てくるアービン・ラズロの科学・哲学方面からの提唱内容に絡む、ある意味1つの先駆けのようです。

 ただし、アカシックレコードなどは古代から、あるいはエドガー・ケーシーやその他の覚者や予言者?等からも提示されており、目新しいものではありませんが、実際に身体を持った存在として、意識レベルでのアクセス方法を経験し、文字通り身をもって体現しているのであろうと思います。ボーネルの自己回顧の書によれば、子供時代からいわゆる幽体離脱を行い、それもこの世界に十分接点をもったものも多くあったようです。

 自分の少ない意識体験、夢のレベルの記憶と分析等から言えば、あながち思い込みとは言えないものが感じられるのです。これらの五感以外の情報アクセスに関しては、世界に対しての自己の内面側からのアクセスルートともいえるでしょう。今は、各個人の直覚的な理解や、自己の体験との「共感」以外に、それを「知る」ことは出来ないでしょうか。

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新・光の12日間(著者:ゲリー・ボーネル、訳:大野百合子) 徳間書店刊 初版2008.10.31

●タイミングそして、ユニティへのシフト

すべての予言において、

いつ起きるのかというタイミングの問題はいつでも非常に難しいのです。

「いつ?」を特定するのが不可能というわけではなく、

「時間」という概念の複雑さのためです。

ユニティへのシフトが起きると、

人間のマインド(思考・感情など)は、直線時間の境界線を超えて、

宇宙時間のものさしの中へ入っていきます。(・・・・以上(p27)抜粋)

・・・

 私自身の今の理解としては、確かに時間は変化率であり、変化のテンポを表すパラメータのような気がしています。要は、時間が現象を決めているのでなく、現象の変化率が時間であるという意味です。たとえばの思考実験ですが、もし何も変化のない系、世界等があったとして、そこに変化というものが無ければ、時間などはどうやって計るのでしょうか?太陽の動きも、原子の振動等の「変化」が何も無い世界では、計れるような「時間」など無いのではないかと思われます。現象変化のテンポ、濃淡などを示すのが、いわゆる「時間」であろうと考えられます。

 時間も相対的であるというのは本当のことでしょう。従って、予言などで時刻、時間指定できるとすれば、現象の原因を相当に把握できる場合であって、それが可能になるためにはいわゆる神技でなければ難しいでしょう。我々の世界にあっては、予言、予知も、人間としての存在においての試行であるわけであり、それらは多分に、時空、諸現象を理解しようとする1つの方法と思われます。理解への「試行プロセス」とも言えるものであって、それ自体が明確でないからと言って、全てを否定すべきものではないと考えます。

 ボーネル氏の情報ソースは、アカシャというフィールドへのアクセスとの事です。それは、人類意識を含む大きな情報意識フィールド?とも考えられるわけで、現象が生起する背後にある因側、シナリオ側へのアクセスと考えられるものの、常にダイナミックに変化し続ける意識、世界の有り様から言えば、確かに「時間」指定は難しいのかもしれません。

 誰にもはっきりわかるのは、そうなった時です。ただし、本質的には心配も不安も不要ですが、対応できるかどうかは各自の意識によるのみです。

以下、ほんの1部ですがピックアップさせて頂きます。

・・・・・・・・・・・・

●古代の光の輪

 創造の源からやってくるエネルギーの波の存在がなければ、

私たちは深い無意識の眠りに落ちて、

自分が誰であるかを理解出来ず、

お互いの本質にも気づくことが出来ないでしょう。。(・・・・以上p33抜粋)

・・・

 一説によると、全世紀末頃から、地球の周囲で謎の宇宙線、電磁波エネルギーなどが増加しているという科学機関からの報告もあるようです。観測機器が発達したおかげで急増したのかどうかは定かではありませんが、多分何かのエネルギーの増加が物理地球の周辺にも観測されたのではないかとも想像されます。

 またモンロー研究所の坂本氏も最近の書などで、銀河の中心からのエネルギーが強まっていると述べています。彼はそれは愛の意識エネルギーであるようなことを述べていますが、いずれにしても、今は未知なるエネルギーが変化急増しているという可能性はあるものと思います。

 自分勝手な思い込みの可能性は否定できないものの、わたし自身も、昨今なにかの重大な変化を感じるのです。たとえば経済社会は今激動の渦に突入しているような感もありますが、それも含めて、今進行していることは、100年に1度のような変化ではないかもしれません。100年に1度という言葉も、地球温暖化という宣伝と同質のような感じです。100年に1度どころではなく、ひょっとして?13000年に1度の何かかも知れません。

・・・・・・・・・

●1万13000年の間隔

 私たちの思考を増幅し、

エネルギーの方向性を定めるなら、

間接的に物質に影響を与えることができます。

大いなる叡智は、

存在するものは、

意識とエネルギーのみであると教えています。(以上p37抜粋)

・・・

物質はエネルギーであると今では多くの人々が知っていることでしょう。

E=mc2 (E:エネルギー、m:質量、c:光速度)は有名です。物質の中身はよく言われるように素粒子が高速に振動・回転等を行なっているものの、空間的には「すっからかん」と言われています。簡単に言えば、巨大な空間の中を、波動性の顕著な、ごく微細な素粒子が振動、回転などを行なっており、それらが重合し、原子核、分子、高分子などになり、細胞や結晶などに組織化されています。まさに(振動・・)エネルギーが物質形態になっているという直感的理解も容易かもしれません。スカスカの空間にある運動エネルギーとでも言ってしまいたいところです。

 ただし、意識とエネルギーの関係は現段階では、公式には未知なるものでしょうが、超感覚的知覚や念動、予知などが公式に理解されるようになれば、より明確になっていくでしょう。そうすれば、物質~エネルギー~意識(作用)の相互変換?が明らかになるだろうと考えられます。

 これは「現象はこころの投影」であるという、古代からの言葉をようやく実感できるということでもあるでしょう。

・・・・・・・・・

●12日間の出来事、そしてあなたの反応は?

 あなたがどのような12日間を過ごすことになるのかは、

どれだけあなた自身が内的葛藤と不安を

手放そうとしているかにかかっています。

このエネルギーのイベントに対して、

特別な準備は何も必要ありません。(以上p44抜粋)

・・・

 ボーネルは光の12日間の書の中で、そのエネルギーの最も強くなる時期を2011~2112年としていますが、先ほど述べたように、それは「その時にしか解らない」のです。宇宙にあるこの地球、それを取り巻く悠久の宇宙の様々なことを、我々は今の段階で十分に知っているわけではないのです。それをあるともないとも断定できないのです。

 そのようなものを ①事前情報と捉える人、②真っ赤なウソと感じる人、③そんな事など感知もしない人など様々な形態があるでしょう。今の時点では、各自がそれを知るのか、知らないのか、またどう捉えるのか・そして何をするのか・・くらいしか選択の余地はないようです。 

確かに、自分がどう考え、どうするのか?しかありません。

 ボーネルは、必要なことは、ただ1つ「葛藤」や「不安」を手放すことと言っており、これは意識の状態、こころの有り様のことを示しています。私の感じるところは、ある意味悟りのような、覚悟のような、吹っ切れた「こころ」のような、穏やかな不動心のような、そんなものでもありそうです。なぜなら想念が比較的容易に現象化してしまう存在レベルに移行してしまうからのようです。しかし動植物にとっては、その移行自体に、何ら問題がないとも述べています。

 想念を発する創造主のミニチュアとも言える人間にとって、自分に相応しくない考え、他人にとっても面白くない考えを、単に手放すだけのことかも知れません。なるほど、これが難しかったのが今までの人類だったのです。胸のつかえを思い切って捨てることかも知れません。執着を捨てることかも知れません。それ程難しくはないものでしょうが、やはり自分の心の持ち方のセルフチェックは必須なのではないかと思います。

 今はまだ、「思い」自体が、自分の世界の境界を決めている可能性など、夢のまた夢なのかもしれません。物理的宇宙にも今だに果てが見えないようですが、果てがあるのか無いのか・・を突き詰めていっても、さらにその果てが出てきます。まさに果てなどないから「果て」という事もパラドキシカルで面白いものです。

 ひょっとして、これから来るかもしれない?一大イベント、ボーネルの言う「ユニティへのシフト」は、どうもその「思い」次第であるような気がします。「思い」はそれぞれの内面といわれるフィールドに在り、また同時に外といわれる世界にも投影されているのではないかと思います。なおユニティのシフトとは13000年毎の分離と統合のサイクルのことでもあるといわれており、ある意味、意識進化の一大ターニングポイントとも言えるでしょう。

 古来からある自己観想、想念観察、内観、反省などは、いつの時代にも、どんなイベントがあろうとなかろうと、必須で有効な、意識進化のプロセスであるとも考えられます。

(尚、この「ユニティへのシフト」の詳細は、ゲリー・ボーネルの書「光の12日間」を御参照頂ければと思います。・・決して本の宣伝の意図はありませんが・・)

(つづく)

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 えー?どうなんだろうかにゃー?(龍之介)

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました

 


記憶は脳の外に広がっている??

2009-02-11 13:43:43 | 見えないものから見えるものへ

アービン・ラズロの言う量子真空の場は、A-フィールド(アカシック・フィールド)と言われているようです。量子真空は空虚な空間ではなく、逆に全てのものを生み出す根源的なフィールドであると言うことを提唱しています。なおこれも既成の学問の世界では、新しい提唱・仮説の段階にあるようです?が、個人的には頷けるところが多々あります。

ラズロの世界観に関するご紹介シリーズの最後の記事であります。よろしければ通読してくださいね。

下記の文章は、以前と同じく 「生ける宇宙:アーヴィン・ラズロ著」からの抜粋です。

-------------前掲書 p86~p87

 脳と真空のあいだで双方向のコミュニケーションが存在しているという事実は、脳内にはそこそこの量の情報しか保存できないのに、人間には長期記憶があるのみはなぜかという疑問を解決する。

 平均的な一人の人間が生涯に経験するすべての知覚、感覚、感情を保存できるような容量は脳にはなく、このことは大きな謎であった。コンピュータ科学者のサイモン・バーコビッチは、一人の人間の生涯の経験すべてを生み出し保存するには、脳は毎秒10の24乗もの操作を行なわなければならないことを計算によって明らかにした。

 オランダの神経生物学者ヘルムス・ローミンは、脳内に存在する1000億個のニューロン全てが関与したとしても、このようなことは不可能だと示した。そして実際、脳内のニューロンのすべてがそのような活動に関わっているわけではない。大脳皮質には200億個のニューロンしか存在せず、しかもその多くは、はっきりした脳の機能を担ってはいないのである。

 しかしこれは何ら問題ではない。なぜなら、長期記憶は脳の内部には保存されているのではないからだ。長期記憶は体外に保存されているのだ。生涯の経験は、大脳皮質の内部ではなく、脳や身体を包み込んでいるホログラムのフィールドに保存されている。

 このフィールドは、信じ難いほどの記憶容量をもっている。適切な位相共役状態(たとえば、瞑想、祈祷、黙想、精神的高揚、そして臨死状態など)では、このフィールドのおかげで、すべての人が自分の生涯に経験したほとんどすべてのことを思い出すことができる。

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 (ここからはこの書物のなかで、ラズロが提唱していることに関する、自分の類推・所感等でありますが)古代から言われてきた、我々が持つと言われる物理的な身体以外オーラやメンタル体、アストラル体などと称する、常人の目には映じないボディ、意識フィールドのようなものとの関連を覗わせます。

 もし、脳髄の外の真空場に個人としての「記憶」があるということであるならば、我々自身の意識なるものは身体の中にあるのだ・・という一方的な既成的感覚は疑う余地が大いにあるのではないかと考えられます。意識を有した状態でのいわゆる幽体離脱や、肉体を見下ろすような臨死体験なども、その説明が今までよりもわかりやすくなるかもしれません。

 個人が見る夢なども、必ずしも脳内にあるニューロン細胞の記憶の単なるランダムな再生だけとは限らないかもしれません。ひょっとすると、夢や幽体離脱、臨死体験などのような個人的な意識内での現象等、肉体感覚以外の体験(意識的体験)は単純に、A・フィールドやアカシックフィールド、古代インドから言われてきた「アカーシャ」または量子の学問分野から提唱されている「ゼロポイント・エネルギー場」などのようなフィールド起きていることかもしれません。

 ラズロの提示から個人的に想定されることは、「わたし」という意識は、必ずしも五感で感じる現の身体だけに閉じこもっているのではなく、それを超えても存在しているかもしれない?ということを示しているのではないだろうかと思うのです。マハラジやその他の先達が言ってきた宗教的とも直感的ともいえる言葉との相関性も感じるのです。

 自分でも身体の外に出る?ような不可思議な個人体験をしている為に、このようなアーウ”イン・ラズロ主張には説得力を感じています。個人にとって、その体験自体に理論付けは必要ないのかもしれませんが、どうしてなんだろうかという疑問はいつもあるのです。

・・・・・・・以上

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 本日も拙い記事をご覧頂きまして誠にありがとうございました。

(勝手ながらこれで何とか、ようやく194記事目です)


命溢れる宇宙像の出現

2009-02-01 11:05:28 | 宇宙的気付き

●意識的宇宙の発見

 宇宙とは宇宙空間という意味ではなく、我々が「今在る」広大無辺なステージのことです。最新の量子物理や天文学という分野からは、我々の認識している、この広大無辺な宇宙自体が常に一貫性を保ち、また部分部分が瞬時の結びつきを行なっていること、そしてそれらは意識的ないわゆる進化のプロセスにあることが提示されてきています。

●「空」(くう)は無限の創造フィールド

 全ての空間というものは、まさに「空(くう)」であり、科学的に言えば「量子真空」であり、常態ではバランス点にあるために、その存在自体は五感感覚には映ずる事がありません。空と空の間、空間のなかに我々が存在しているわけです。空と空の間(空間)とは、一体なんでしょうか。空の「間」とはイメージしがたいわけですが、ゼロポイントエネルギーの現われ出たところであり、我々生命の満ち溢れる現象世界と考えてもおかしくないでしょう。それは、宇宙においては恒星であり、惑星であり、銀河であり、銀河団であり、超銀河団であり、そしてこの地球という惑星生命圏であり、国であり、地域であり、あなたや私たちの周りの、ごく普通の生活空間なのです。

 我々の生活空間、物があり、人がいて、社会がある、そのような身近な生活空間は、この瞬間にも実は宇宙全体と密に繋がっているのです。遥か遠くも、今ここも、同じ量子真空・空(くう)という無限のフィールドの中にあるからです。

●空即是色

 その無限のエネルギーを蔵した空(くう)は、第1義的な意識によって「励起」し、その微小な空(くう)の揺らぎのなかから、回転し運動する素粒子を生み出し、クオークや原子核の波動となってわれわれの眼に見える、眼に見えない世界を現出しています。

まさに「色即是空」「空即是色」の科学的な証明でもあります。

●古い信念体系を「今」捨て去る

 眼に見える世界の創出を、直感的に言い表してきた言葉がいわゆる「神の創造」というものでしょうが、これらも人々や民族の認識レベルにより様々な捉えかたがあります。不思議なヒエラルキー、序列を形成してきた宗教のような階層組織などは、一定の意識の「踊り場」では有効なものではあるのですが、なにかを信じているだけの変化を認めないような有り様は、まさに様々な人間関係、他の「自己」たる兄弟姉妹との軋轢や、誤解の繁茂するものとなる場合も多いわけです。 

 場合によっては、我々自身の認識力と洞察力の、遅々たる進歩の有様、または覚醒レベルの不足によって、ずいぶんと歪な観念に馴染んできてしまったのかも知れません。何処かの誰かが、我々の生きて在る宇宙を創造するようなイメージはすでに適合していません。宇宙は特定の「部分では」出来ておらず、全体そのものが全てであるからです。

●水の中にいて、水を恋もとめるが如し

 創造は、今この瞬間にいつも、どこでも行われており、我々は知る知らずに関わらずそれに参加しているのですが、いつの間にか、何処かの遠いところで、誰かが宇宙を創造し、支配しているなどという「観念体系」が集合意識の重いベールとなっていたようです。それは「光」をはるか遠くに見ようとする無意識のなせる業であり、他者依存的意識であり、自分に、今ここに在る、光を見ることをしない稚拙な行為でもありました。光は認識せずば現われません。かなたこなたでなく、今在る自分が、意識としての光を発散していることに気付くべきなのでしょう。

●一即多(全体は部分であり、部分は全体である)

 宇宙で起きることは、瞬間に宇宙全体に確実な情報となって伝播または記憶されます。それはアカシックフィールドの干渉波によるホログラムとなって、あらゆる時空表現の原因情報ともなるようです。前回の記事で素粒子間の瞬時の情報交換の現象を紹介させていただきましたが、これは宇宙の一貫性、一体性を表しており、また無限の宇宙での生命形態の一貫性も表していると考えられるのです。

 

●宇宙は偶然でも博打でもない

例えば、我々が偶然に、この地球に生きているというような感覚、これもなにか博打のような考えかたであり、かなり歪んだものであろうということに気がつくでしょうか?そこ、ここ、かしこにある空(くう)という無限は、人間のような、より意識的な存在によって、現象となって花咲かせることが出来るのです。

 見えないからこそ見えるものにいくらでも転換することが出来るというのは、まさに考えようもないほど素晴らしいパラドックスのようです。アインシュタインが言った言葉、「神はサイコロを振らない」は、宇宙には一貫性すなわち法則があるという意味であると思われます。

 

●生きた宇宙に、今生きている事実に気付く

 宇宙がまさに生きているということは、単なる例えではありません。その広大無辺なスペースのごく1部のみを目にしていれば、自分たちしか見えないのは当たり前のことです。普通に、そう、普通に考えて、我々に身近な生命を育む世界が、宇宙にどの程度あるのかという科学的な見解も現在では大きく変っています。

 生命場としての地球以外にも、様々な生命場があると言うことは、科学的にも常識となっており、地球のみが偶然の産物であるという、今までの漠然とした思い込みは、何処をどう考えても無理があるのです。

 

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(前掲、アービン・ラズロ「生ける宇宙」より抜粋)

「私たちの宇宙には10の20乗、すなわち1000京個以上の恒星が存在し、その全てが活動期にはエネルギーを生み出す。その多く、おそらくほとんどが、自らの周りを周回する惑星をもっており、化学的条件と温度条件が適切な惑星の上では、やがて生命にいたるような自己組織化が始まる可能性が高い。

 生命を育むことが可能な惑星がどのくらい存在するかについては、確かなことはわかっていない。推定値はばらついているが、徐々に大きい数へと修正されている。ハーバードの天文学者、ハーロウ・シャプリーは、控えめな見積もりを行なって、まず1000個だけが、適切な距離に離れた惑星をもっていると仮定した。彼はさらに、恒星から適切な距離にあり、適切な大きさをした惑星の1000個に1個だけが、生命を育むに適した化学組成を持っていると仮定した。そのようなたいへん控えめな見積もりをしても、宇宙には生命を育むことが出来る惑星が、少なくとも1億個以上は存在するはずだということをシャプリーは見出した。

 天文学者のス・シェ・ファンは、もっと楽観的な推定値を導き出した。彼は、恒星と生物の進化の時間尺度、惑星上で生物が居住可能な領域、そして、関連する動的因子を考慮し、宇宙に存在するすべての恒星系の少なくとも5パーセントが生命を維持できるはずだとの結論に達した。だとすると、1億個ではなくて、1000億個の惑星が生命を育めることになる。ハリソン・ブラウンは、これによりもなお大きな数を得た。彼は、光学的手段で観察可能な(つまり「見える」)恒星の近傍に、光学的には観察不可能な(つまり「見えない」)惑星状の物体が多数存在している可能性を検討した。火星よりも重いそのような物体が、恒星の周囲に60個ほども存在している可能性があるという。その場合、見える恒星のほとんど全てのものが、部分的もしくは完全に見えない惑星系をもっていることになる。ブラウンは、私たちの銀河だけでも、少なくとも1000億個の惑星系が存在すると見積もった。そしてこの宇宙には、(さらに)1000億個の銀河が存在しているのだ!

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 我々は孤独でなんか有り得ない宇宙に、今生きて在ることに驚き、感謝することがまさに、あり得べき普通の感覚ではないかと思います。例えば「ありがとう」という言葉、想念、感情は、今この瞬間にも宇宙全体に伝播し記録されているのです。我々は身近な生活の中で、全体から還るその「反響」を聞くようになっています。知らない間に、少なくとも身の周りの創造に参加している事実に気付くべきでしょう。個から全体へ、全体から個へと反響し続けるのが、宇宙創造における存在波動の妙なる交響楽といってもいいかと思います。

我々が気付く気付かないに関わらず、「今」「生きて在る」ことが、まさに生ける宇宙にいる証拠です。なるほど、これ以上の証拠はありません。

  

L504606_3 本日も拙い記事をご覧頂き、まことにありがとうございました。