気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

想いの浄化

2009-12-27 17:09:33 | 心の科学分野

我々1人1人づつの自覚と意図をもって、我々の周りの世界を清めることが今大切なことではないだろうか。

周りの世界を清めるにはどうすればいいのだろうか。

それは、我々が今まで無意識に行ってきた方法と同じことでありながら、その方向性の違う行為においてであろう。

自己の想いに気付き、それを浄化するのだ。決して他者のそれではない。

 

 

まずもって、誰にもできることは、全てに対する「感謝」であろうか。

人が感謝の念を起こすことが出来れば、その人自体が清まっているという証拠になり、また感謝を受ける対象側もそのために、その分だけ浄化されることになるのではないか。

対象が何であれ、その対象が 「どうもありがとう」 などと喋らないからといって関係はなく、自他の本質は浄化されることになるのだ。

あなたやわたし達の想いは、全ての世界に潜在的な層において筒抜けなのだ。

すなわち、想念波動は一瞬で全ての時空、次元に伝播しているともいえる。空間の「空」または「虚」は、全ての表出する意識のカンバスであり、意識においては距離も時間もあって無きがごとくであり、すなわち、我々の想いは一瞬でその「空」に「色」づけをするのだ。

 

我々の表面の意識は氷山のほんの一角でしかなく、潜在層では全てが繋がっている。社会の改革と称されるものは、その浮き出た一角同士を集め、組み合わせ、または離散集合させるような行為でしかないだろう。

 

分かりやすい結果ばかりを組み合わせることで創造のイロハを学んできたのが、今の我々の人類文明であったというのは、言いすぎだろうか。

想いという、根源意識と同質の作用に気付かない文明であったとも言えるだろうか。

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・・・

感謝は

否も応も無いあるがままの受け入れであり、

今の奇跡の瞬間への気付きであり、

存在している諸物との共感といえようか。

その想いは空虚に消えるものではなく、

空の中の潜在的なエネルギーを励起し、

あからさまな現象となって立ち返ってくるのだ。

 

時間・空間への人それぞれ、自らの縛りからの解脱の程度に応じて、

その因果関係が明らかになってゆくだろう。

 

自己の想いを観ることが出来れば、すなわち

原因と結果の間にある時間・空間は澄み出してクリアーになってくるだろう。

重い時空のベールは透き通り、

より自由・自在な表現が否応無く可能となる。

 

それは各自の意識の浄化によるものであり、

自己以外のいかなる者も、それを為す事が出来ない。

それは本来の自己責任であり、

ただそれに気付くだけでも良いのだ。

そうすれば、

この世界と言えども、

独立自尊の者達の創る華やかな世界となるだろう。

言われるところの次元上昇とは、意識の進化・拡大のことである。

地球の物理次元のやりかえでもなければ、

社会システムの根本的な改革でもない。

それらは否応無く、必然的に生じるものであり、

人的な力で捻じ曲げて創るものではない。

 

今は、

自己の意識作用、すなわちこころを見つめ、これを浄化すべき時であろう。

「個々」と「全て」は、多元的なメビウスの輪のように、表と裏がリンクしているのだ。

そうであればこそ、

  

今、世界、社会への執着や憤り、不安や不信を廃し、

己の意識・魂に「意識」の焦点を戻し、

全ての根本にある、また自分の中にもある、

今のこの瞬間にこそ感謝をすることではないだろうか。

  

 

理由は不要である。

宇宙はただ在る。

全て良し。

まさに、全てに感謝しかないのではないだろうか。

 

感謝は、すなわち愛であり、慈しみであり、

悠久に、あるがままである宇宙に気付くことなのだ。

・・・・

家族に感謝できるだろうか。 あるいは、

 こんな家に生まれて・・と不満たらたらだろうか。

  

友人知人に感謝できるだろうか。 あるいは、

 淋しさを紛らすためだけの近しい人達だろうか。

  

近所の人々に感謝できるだろうか。あるいは、

 どうしてたまに顔を見るだけの人に感謝する必要があるのか解せないだろうか。

 

見知らぬ人々に感謝できるだろうか。 あるいは、

 人によっては何を考えているのか分からない、自分にとっては不明な人々だと感じているだろうか。

 

社会に感謝できるだろうか。 あるいは、

 身勝手な奴ばかりのどうしようもない集団だと日ごろから思っているだろうか。

 

国や政府に感謝できるだろうか。 あるいは、

 有象無象の欲望を持った人達のいつも変わらぬ巣窟だと思うだろうか。

 

人類に感謝できるだろうか。 あるいは、

 分けのわからない自己主張の権化の支配する、いたいけな数十億の人間集団だと思うだろうか。

 

そんなことより、何よりも、父母に感謝できるだろうか。

お父さん、お母さん・・ありがとうと言えるだろうか。

生まれたあなたに、

素の想いから、時には弱気で、また、あるときはけなげに、本質はこれ以上のものがないほどの崇高な愛を教えた人達に・・

今はもう、間違いなく感謝が出来るだろう。

 

全ては我々の世界の同時存在達、同胞なのだとは思わないだろうか。

いや、それとも、何かをしてくれるどころか、期待を裏切るばかりしか能の無い、嫌悪すべき集まりだと思うだろうか。

 

彼らを変えるのは彼らでしかなく、自らを変えるのは自らでしかない。そこに焦りもなければ、憤りすらも必要ではない。

 

慈悲のこころとは、何者か高貴な存在が垂れるものではなく、

皆々、我々発展途上にある意識たちのお互いに発すべき、

お互いに対する 想い のことではないか。

 

  

 

いつも、 おかげさまで、 ありがとうございます。

 

 

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本年も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

良い年をお迎えください。


人と人の間

2009-12-20 11:39:57 | 心の科学分野

●他者は自己の鏡

他者は自己の鏡であるといえば、どのような感覚があるだろうか。

自分の行為によって他人からも相応の行為が返ってくるものという、処世経験から得られる法則のようなものであろうか。確かに社会に否応と無くこなれた人々には理解が出来るものだろう。

確かにそれもあるが、しかしながら、それはいわゆる人の間の「作用と反作用」のことであろう。

怒りを相手に発すれば、怒りが返ってくる。優しさを示せばそれ相応の優しさを返してくる。人を誉めれば、怒り心頭に達するような歪んだ人はそうそういるものではない。

相手をこころの中で認めれば、それはどこか親和的な表現や行為、言葉となり、それが相手に否応無く伝わるものであり、それ相応の反応が返ってくるものだ。

相手を嫌っていれば、それはどこか拒絶の表現や行為、言葉となり、それが相手に否応無く伝わるものであり、それ相応の反応が返って来るものだ。

これは「黄金律」として知られるものでもあり、人間関係の基礎をなす有り方を示すものだ。

他人に対して自分ならそれを嫌がるようなことはやってはいけない。自分の好むことを他人にも与えるべきである・・・という教え、黄金律といわれるものである。

あなたはもう気付いていることだろう。

 

●まず人の間の「作用と反作用」に気付くべし

我々はまず、この人間関係の法則なるものを理解する為にこそ、人生において様々な体験がやってくることになるのだ。他者からの理不尽な行為や、考えられないほどの悪意を感じる行為も、それを気付かせる為にあるのだ。

 

極悪人かと見える仕事上の上司も、いつも不幸ばかりを与えるようにみえる親達も、いじめが大好物と見える友人も、無関心のまま通りすぎる他人も、期待をあおりいつも自己満足の政治家も、一見上品な物言いの世界に跋扈する詐欺師達も、

 

それら皆、反面教師となって刺激を与え、もうこりごりだろうというまで、その歪をあなたに代わって表現し続けているということなのだ。

それが無ければ、我々は何が正道で何が邪道なのか、なかなか気付けないだろう。自分の幼い考えや信念も、その反作用が他者から得られなければ、どうやって気付くことができるだろうか。我々が過ちを犯しても不快感や不幸といわれるものが与えられなければ、どうやって成長することができるだろうか。

もう、全くもってとんでもないことだ・・と気付くことができるのは、作用に対してそのような反作用がなければならない道理である。

 

作用と反作用、難し好きな人々の言葉で言えば、カルマとも言えるだろうか。

また、もうそのカルマを超えても良い時期なのではないか。

 

●二元性の恩寵

影としての役目にも気付かなければ、明るい光も到底わからないだろう。

冷たいものが無ければ、暖かいものもわからないままだ。

闇を怖がり光に逃げようとするのは、光を眩しがり闇に逃げ込もうとするのと同質であり、その陰影の何たるかを悟っていない証拠であろう。

相対性、2元性のテーマは、そのどちらが正しいのかということでなく、その双方のあり方で生成される陰と陽の仕組みを悟ることにあるのだ。

 

転んでつまずくことが無ければ、えいやと起き上がることも出来ない。

また、いつまでもころんだ時のその傷に執着しているのは意味がないことが判るだろう。

寒い冬を知らなければ、春のうららかな暖かさも知ることができない。

また、いつまでも冬の厳しさに嘆いていても意味がないことが判るだろう。

 

今の我々の身を置く、意識を置くところの、この世界にある相対性、2元性を、あなたはもう十分に気付いたことだろう。

 

●地球という1つの学び舎

全ては、魂・意識の学びの為にあると悟れば、怖いことも、嫌なことも、楽しいことも、嬉しいことも、単に教材であると理解出来るだろう。

教材の扱いのすべてはあなたの意識の在り方如何である。

教材から逃げることも、無理して集めることも必要が無いのだ。

 

一見混乱に満ちた人間社会を、それでも優しく包んでいる、この地球という生命圏は、まさに巨大な学校というべきものである。

我々は、我を忘れて学ぶことを行なっている、この地球という学校の生徒なのだ。

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●他者はあなたを目覚めさせるためにいる

人が無意識でいる限り、何が起きても不思議ではない状態に自らを置くことになる。全ては環境や他人様の意図次第という立場に置かれ、それゆえどこか恐怖でこころがすくんだ状態に自らを置くことになるのだ。 

我々は殆んどが親子、縁者、友人、知人、仕事の組織の人々、社会や世界の人々という、まさにあなたを中心とした人間関係の渦、想いや価値感の渦の中にいるようなものである。

あなたの意識の中には、近しい者からさらには遠くの世界にまで及ぶ人間関係の渦があるといえるだろう。それぞれがそれぞれの「意識」という中心点を持った、何十億という人間の「意識」の渦が干渉、反撥、重畳をとおして巨大な「人類集合意識の海」を構成している。

 

各人各人は、その眼を通してそれぞれ違う位置から意識している、すなわち発信している。

 

そう・・・、中心はそれぞれの「わたし」であり、「あなた」達の意識なのだ。

実のところ、人類はよせ集めではなく、独立自尊の意識的存在達なのだ。

 

それが三次元での身体という窓を通して世界を共有しているのが事実というものだろう。

それが出来るのも地球という、より大きく深いレベルの意識、いわば搬送波動的意識があるが故である。

 

●他者は別の自己自身である

真ん中はいつもあなたである。他者ではない。他者はあなたの周りをサポートしている仲間なのだ。時には厳しく、優しく、冷たく接しながら、あなたという魂・意識に刺激を与える仲間なのだ。

仮に、宇宙でただ一人 「あなた」 だけがいることを想像してみるがいい。

  

何も不満も憤りも、そしてストレスも感じないだろうが、逆に暖かさも理解も、共感というものも感じないだろう。

また、孤独ということすらも感じることができないことにも気付くだろうか。

  

仮に、宇宙でただ「あなた」だけが存在していることを想像してみるがいい。

あなたが発する響きはどうやって聴くことが出来るのだろうか。

あなたが発する想いはどうやってそれを自分の想いだと感じることが出来るだろうか。

自己以外の自己がそこに居なければ、どうやって「自己」を理解することが出来ようか。

「他者」が居なくてどうやって「自己」わたしと判るのだろうか。

 

「わたし」がわたしであると自覚するためには、

「わたし」以外の他者がいなければならないということなのだ。

 

ビッグバンはなぜ必要なのか。

究極の一点、「空」からの創造はなぜに「今」あるのか。

 

究極の一なるものが宇宙の開闢を「今」決めた瞬間から生じているのは、無限に反射する自己達なのであろう。

 

また自己を自己たらしめる為に、無数の別の自己が生じている。すなわち、我々の世界においては、大勢の他人なのである。

 

一なる根源から無限に生じる反射が、存在世界の数多の「いのち」であり、また我々でもあるのだ。

 

あなたを取り巻く大勢の他人達は、いわば別バージョンのあなたなのだ。

 

この世界にも、数多の存在世界にも、いつもあなたを取り巻いている大勢の全く違う「あなた」がいる。

親なるものの意図は普遍的にそうなのだ。

その元にあるもの、根源にあるのものは、

慈しみであり、また愛でなくしてなんであろうか。

  

一は 即ち 多なり。

多は 即ち 一なり。

 

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本日も、拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。


終わりの始まり

2009-12-14 08:33:07 | 新地球文明論

貨幣経済はもう終わりかけているようだ。今進行しているのは100年に1度のものではなく、貨幣制度自体の最後のフィナーレなのだと思う。

 

もうじきそれがはっきりとする出来事が立て続けに起きてくるだろう。

貨幣を世界中に並べた「ドミノ」ゲーム、終わりの「始まり」だ。

 

古い制度の崩壊は、我々人類意識の潜在面では、既に終わりのフェーズになっていると思われるが、いつもながら狭い顕在意識ではなかなか気付かないものだ。

 

旧態以前たる、ある意味での貨幣信者たちは、まだ何とかなる、もう少し遊びたいという気持ちの者と、もう充分だという気持ちの者に分かれているようだ。折角積み上げた膨大なカジノチップの山を眼にして、これを何とか使って支配や権威ゲームを続けたいという者たちと、充分にその体験の飽和を感じている者たちとの静かなバトルもあるようだ。

 

傍目には何か高尚なことをやっていそうなさまざまな世界のトップ会議も、結局は人類意識の範囲を逸脱していないのがわかるだろうか。我々人類の「エゴ」をいかに丁重に扱い、いかに尊重しても、「我良し」の群れの間での低い次元での調和交渉でしかないのではないだろうか。

 

そこで行なわれるものは、高尚なテーマを元にした「エゴ」の利益獲得会議のようなものだろうか。なるほど、どこにでもある企業の会議とそれほど変わりはしない。陰謀も企ても結局は利益獲得のもの以外が、いつもそうそうあろうはずもなく、単に自己保身に目端の効く人間達の為せる技でしかないのかもしれない。

 

世情を見るにつけ、人類意識が最後の急カーブを曲がろうとしている軋み音が聞こえてくるようだ。

 

貨幣で生じる仮想の価値や物質偏重的な科学では、我々の肉体を維持することは出来ないことがわかるならば、その貨幣による世界そのものが一時の架空の遊びでしかなかったのだということもわかるだろう。

 

我々は、単に物資流通の便利な換算概念としての貨幣を、いつのまにか崇め奉るような一種の宗教の信者になっていた感もあるのではないだろうか。GDP信者といっても良いだろうか。

またある意味で、古い宗教と新しい宗教の戦いが、今もこの地上で起きており、体験すべき貴重な人生達を追い払っている。

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どちらにしても、どこに属しても、右に行っても、左に行っても、とりあえず肉体を安寧に導く為のものなのだろう。生きるために、そのために、闘っていることの愚に、もう気付かなくてはならないのだ。

 

それとも

人々は、自然、宇宙の中では闘わなければ生きていけないとでも考えているのだろうか。

 

古い権威や支配を打ち砕く為の、ある意味中性的な貨幣による自由・平等は、いつのまにか貨幣による支配へと変わってしまったようだ。

その経済発展による繁栄信仰の構図は、母なる地球からの無限の搾取を前提としていたのだ。貨幣の支配者へと変わった者たちは、子供達は、もうそれが出来ないということにも気付いている。

 

今起きている社会経済現象の多くは、ここから出てきているものだろう。母に甘えることが出来なくなってしまい、成長するか別の母を捜すかになっているのかも知れない。

 

気付いていながらも真には解らない者たちが、またぞろ何かの利益を出す為の新しいビジネスモデルを考えたところが、たとえば二酸化炭素問題であったのだろう。

大衆を1つ2つのイメージに固定させるのは、よくある、またいつもの支配構図である。希望と恐怖のセットも、また恐怖で大衆を身動き取れない状態にして、希望と称するたった1つ2つの方向に導こうとするやり方なのだ。

しかしながら、

 

残念ながらも、古い時は過ぎ去る定めである。

いまこそ、我々のこころのパターンから「恐怖」を取去る必要があるのだ。

身体の無限に広い空間内に、いつとはなしにこだましていた「恐怖」は、一体誰が吹き込んだのだ。

 

それは誰でもない、自分なのだ。

それでは、何のための「怖れ」なのか。

先にある「死」が、今怖いせいなのか。

肉体をまといながら、それを体験の道具として学んでゆくという、魂・意識たる「わたし」達自身を、忘れるままに放置していたからではないのか。

本来手段であるはずの身体維持、保身が、いつのまにか目的となってしまったからではないのか。また、その目的を効率よく果す機能としての便利な貨幣経済であったのではなかったか。

 

大勢の「わたし」が、わたしと称するものはすなわち「肉体」であるという・・、漠然とした信念体系に囚われていたせいではないのか。

商売とは、大勢の欲求を満たす為のものであれば、今のような巨大資本に翻弄されるような人間世界であるのも良く理解出来るではないか。

外の誰かが「あなた」や「わたし」に何かを与えるものではないのだ。外に期待する大勢の人がいる限り、その期待を満たそうとする「ウソ」を売る商売が流行るのも仕方がない。人の良いけなげな我々は、そのような目端の効く商売人達に騙されたと思うのはとんでもなく早計である。

 

どんなことであろうが、全ては内から来ているのだ

 

外は内の写し絵なのだ。複雑怪奇であるが間違いの無い写し絵なのだ。

我々自体の意識の在りかたの中にこそ影や光がある。

我々のなすべき事は、光も影もあるあるがままの、素の「わたし」に立ち帰る事なのだ。

あるがままの嬉しい「わたし」、そのままでOKと言える「わたし」である。

それが出来るのは、いつも、永遠に「わたし」でしかない。

まさに、自然と同じく、そのままでOK。

 

その素の中にこそ、無限の知恵や感動が生じる「次元」があるのだ。

象徴的な表現をすれば、それはあなたやわたし達の「ハート」の中にあるともいえるだろう。

 

それは、我々人類という「放蕩息子」の晴れの帰還の場所である。

 

地球と人類の変容の先にある文明は、自然との共生が当たり前となるだろう。

その共生は新たな段階での、創造的な共生と言ってもいいものだろう。

また、

その共生という言葉の中には、宇宙に遍く顕示されているところの「調和」に立ち帰るという意味があるのだ。

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。


今はいつも奇跡の瞬間

2009-12-06 13:31:27 | 偉大なる先達の言葉

●わたしは誰か

我々は皆自分自身を自分であると「自覚」しているように見えているが、実のところ、「自分とは何か」ということが、良くわかっていないのではないだろうか。

それでも、「わたしは、何年何月の生まれで、名前は何々で、こんなことをやってきました。年は何歳・・です。」 と言うかも知れない。 身長は、体重はこうです。わたしはそういう者です・・と、またこういう思想をもち、趣味はこうこうです・・と言うかも知れない。

自分の体験したことの、気付く限りの全てを言えば、「わたし」という者を説明できると、漠然と感じているのかもしれない。

多分、そうではないだろうか。

多くの人の言う自分、わたし、それらは殆んどの場合、身体とこころの「履歴」を言っているのではないだろうか。それは「わたし」が経験したことの「記憶」断片のことではないか。

つまるところ、わたしと思っているわたしとは、「わたし」の「記憶」でしかないのではないか。

しかしながら、われわれの認識している「記憶」というものは、その時々に想起する1表面だけのものであり、「そういえばそんなことも有った、こんなこともあったぞ・・」というように、後で気付くことが多いものだろう。これだけとっても、今想起することの出来る記憶だけで、それが「わたし」自身であると言うことは出来ようはずもないのだ。

あなたは誰なのか?

  

●「わたし」とは、「記憶」なのか?

もしそうであれば、一時のショックで記憶を失うような場合や、何らかの身体・頭脳の変調で記憶喪失になった場合は、その分だけ「わたし」というものが失われるのだろうか。

普通に「あなた」だと思っている自分、それは「あなた」自身ではなく、あなたの「記憶」なのではないか。それも、表面意識に浮かぶ、思い出せることだけの「記憶」であると思っているのではないのか。

確かに「記憶」がなければ、いつもまっさらの画用紙のようなものだろう。

そう、多分あなたやわたしの記憶が「あなた」や「わたし」であると思っているのかも知れない。

普通に思っているように、人生の過去の記憶の断片の集合が「あなた」や「わたし」なのだろうか。

・・・

しかしながら、それは単に「わたし」の歩んだ過去の軌跡、航跡のようなものを言っているのではないだろうか。

それは、例えば、画用紙の「絵」のことを言っているようでもある。

画用紙に描かれた「絵」(人生の記憶)が、「わたし」自身なのだろうか。

いいや、ちがう。

 

●自分の記憶は、即、自分自身ではない

確かなのは、今この瞬間にそれをそうとして認識している、意識している「わたし」がいる・・ということだけなのではないか。

「あなたは誰」・・・と問われて、あなたが色々説明しようとする「あなた」は、本当の「あなた」自身ではないのではないか。

「わたし」とは、画用紙に描いた「絵」なのではなく、その「絵」を描きつづけるところの者ではないのかということなのだ。

また、「誰か」が映画を観ている、あるいは創作しているとして、その映画の中味自体は「誰か」ではないことは自明であり、それを観ている、創作している当の誰かが「本来の誰か」ということだなのだ。

あなたの人生履歴、思い出す記憶の集合は、「あなた」自身では有り得ないということが、もう解るかも知れない。

ややこしく、難しく感じるのだが、すごく当たり前のことであり、すごくシンプルなこと。もっとも身近なことでもある。

 

●わたしとは今の瞬間の意識のことである

「わたし」という、いわば観察主体そのものは、過去にはなく「」あり続けていることは「実感」できるはずだ。毎日、毎分、毎瞬、無限に「」そうなのだ。

外の観念やイメージに自らを投げ込まず、できるだけ今という瞬間に気付いていること、これを意識的・意識の在りかたと言えるかも知れない。意識している自分を観ている生き方である。

それは、いわば過去を生み出し続けている、あるいは体験を続けているところの「最先端」の「わたし」に居るということも出来るかも知れない。

まさに、「わたし」とは常に今の瞬間にあり、そうであるがゆえに常なる変化であり、常に未知なるものである。またそれに気付いている意識、これを’わたしを観察している「わたし」’といえるだろう。

また、

変化し続ける「わたし」を、見続けるところの「わたし」は不変である。

変化し続ける「あなた」を、見続けるところの「あなた」は不変である。

また、実のところ、主・客は一体である。

 

●今に在り続ける自分に気づくこと

普段、自分自身と漠然と思っている「わたし」という存在は、想いや体験を通じて、

「常に今の瞬間を創り続けている者であり、それの体験を記憶し続けている者である」

という言い方が妥当ではないだろうか。

458pxsanzio_01_plato_aristotle  

●汝ら、汝自らを知れ

デルフォイの神殿に書かれていたという言葉、

「汝自身を知れ」という言葉の「汝自身」の真意の一端は、

「汝自身が今在る・・ことに気付け」 ということなのだ。

これは、意識している自己に意識的であるということであり、

自分が意識的存在であることに気付くということでもある。

自己に意識でないところの意識状態を「無意識」と呼び、

自らの意識に気付いている、意識している有様を称して、目覚めているといえるのではないか。

覚醒とは、自己の意識的あり方自体に、判然と気付いた状態の意識のことではないか。

確かに、当たり前のことであるが、ことさらそれを実感している瞬間は少ないだろう。あなたはそれに、気付いていたのだろうか。

それよりも、なによりも外の世界の様々な物事を自分の意識に乗せているだけの場合が多いだろう。我々人類が、あるときは、集団で眠れる者たちといわれる所以は、意識はあるが自らに意識的でない状態のことであろう。

自らを知る・・ということは、例えば自己の魂の何億年にもわたる輪廻転生を思い出せ・・と言っているのではないことはもう理解できるかも知れない。また神なる自己の存在を無限の時空に渡ってそれを証明せよ・・と言っているのでもないことが解るだろうか。

汝、わたし・・それは、過去の記憶でも、目の前に展開する宇宙の果てに鎮座まします超越的存在である「神様」でもないのが解るかも知れない。

それは、言葉を変えて言えば、過去という時間でも、無限の容量を生じせしめる空間でもないということなのだ。

汝ら、汝自身を知れ」  その汝・・知るとは、今この瞬間にある「わたし」を観ることで始まる

いつかどこかでもなく、遠くの果てでもなく、今有る「わたし」のことなのだ。

究極の一なる創造の根源は、今在るからこそ、その雄大な宇宙を今観ずることもできるのだ。

同じく我々も、今在るからこそ、五感も、想念も感情も体験し続けることが出来る。

「今在ることを観じ続ける」ことは、まさに創造に参加していることを思い出すということに繋がるのだ。

存在そのものに気付くということは、「それで、何が得られるのか?」という利得の問題ではないことに気をつける必要があるだろう。

「今在る」ことは時間や空間を確かに越えている。また社会の通念での利益の次元でもない。

 

当たり前のことにこそ偉大な真実があるということだろう。なるほど、灯台元暗し・・とはよく言ったものだ。まさに愛すべき宇宙的な冗談である。

自分に気づかぬ自分というあり得ないような有り方に気付いて脱帽しよう。

冗談も気付かなければ笑えるものではないようだが、ちょっと笑ってしまおうではないか。

いつでも、どこでもなく、たった今の瞬間に隠れていた「わたし」たちに脱帽しよう。

 

●わたしは在る

I am that I am.

わたしは私であるところのものである。ということだろうか。

「マハラジ」の言うがごとく、「今わたしは在る」ということそのものが、

過去になり続けるところの記憶を生んでゆくものであり、

その体験という記憶を創り続けるものは、

否応も無く、あなたやわたしの「」なのだ。

  

●人は、今の自己の想いを観るべし

その「今」を彩るのが、意識的存在である人間の「想い」だろう。

「想い」とは宇宙、森羅万象の因であるところの、大いなる意識波動の湧出である。

 

禅でもいうところの内観は、その自己に生じる創造の念、想念波動の有様を観る行為であり、意識的創造に参加する者の作法であるといえるかも知れない。

それは、観察のない無軌道な爆発ではなく、意識的な調和をともなった創造に参加していることを意味するのだ。

 

●あるがままの意識進化

人が人として、動物や鉱物や植物と違うのは、その意識作用の緻密さと深さ、広さにある。

鉱物、植物、動物も全て意識が宿っているといわれるが、その意識レベルでの学びの違いがあるというだけのことだろう。

それは良い悪い、低い高いではなく、学びのステージの違いなのだ。

それは 「あるがままの意識進化」 といえるものだ。

遅れているも、進んでいるも無く、良い悪いでもなく、大きい小さいでもない、あるがままの学びのプロセス、自己覚醒のプロセスを「意識進化」といえるのではないのか。

人間という「意識存在」は、その発する意識作用の自由度が飛躍的に拡大した存在であるという事が出来るだろう。どんな想いも、「意図的に」生じせしめることが出来る。創作も製造も構想もその現われなのだ。

嫌悪も理解も、侮蔑も尊敬も、執着も潔さも、全て「想い」によって生じるこころのパターンのことだ。

人間はその気付くすべての意識生命をサポートする責任があるが故にこそ「意識存在」というのだ。その「想い」を、いわゆるところの調和と愛の波動に乗せて様々に表現・創造してゆく、いわば責任がある。

どこか奪い続けるような文明文化はどういうことになるであるのか、それは自明ではないだろうか。

」できることは、まず自然へのこころからの感謝しかないのかもしれない。気付けば、いつでも方向転換だけは「」できるはずなのだ。

 

●全ては選択

洗脳とか、暗示とかという他者の働きかけの効果に従うのも、そうでないのも、全て自己の「決断」によっている。何も決断しないのも「決断」である。何も決めないということを「決めている」のだ。あるいは「選択」しているのだ。

無意識であるということもまた、意識的存在である人間であるからこそ選べる「状態」なのであり、無意識的な在りかたから、意識的になる選択をしてゆくことが「気付き」とも言えるだろう。

気付きとは、意識的意識の有り方を言うのかも知れない。自らの意識に気付き、それに意識的になることが重要なのだろう。なぜなら、我々は「無限」から生ずるところの「想い」にも、いまだ充分に気付いていないからなのだ。

それは「知らない」ことから「知る」方向への意識的目覚めであり、目覚めるに従いその視野が拡大するように、意識的気付きの範囲が拡大してゆくことを「意識進化」と呼んでもいいかも知れない。

 

●「わたし」とは何か

既知になった経験や体験は「あなた」自身ではなく、「あなた」の創造履歴ということだ。それを「記憶」といっても良いだろうか。

いつも「今在る」永遠なる存在である「わたし」には、この刹那の人生以外にも、膨大な「記憶」もあることが次第に分かることだろう。それを思い出してゆくことが1つには次元上昇というものであり、更に大いなる「わたし」に帰還してゆくということなのかもしれない。

次元上昇、次元降下、浮いたり沈んだりのように見える意識の進化のありかた、それは繰り返し・・ということではなく、変化・進化する波動のうねりであり、螺旋であり、また永遠の「今」の無限なる発掘作業ともいうべきものだろうか。

 

全ての人間に共通である「わたし」とは、

もと「ひとつ」であり、

また「多」であるところのものではないだろうか。

いいや、まさにそうなのだ。

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。