●わたしは誰か
我々は皆自分自身を自分であると「自覚」しているように見えているが、実のところ、「自分とは何か」ということが、良くわかっていないのではないだろうか。
それでも、「わたしは、何年何月の生まれで、名前は何々で、こんなことをやってきました。年は何歳・・です。」 と言うかも知れない。 身長は、体重はこうです。わたしはそういう者です・・と、またこういう思想をもち、趣味はこうこうです・・と言うかも知れない。
自分の体験したことの、気付く限りの全てを言えば、「わたし」という者を説明できると、漠然と感じているのかもしれない。
多分、そうではないだろうか。
多くの人の言う自分、わたし、それらは殆んどの場合、身体とこころの「履歴」を言っているのではないだろうか。それは「わたし」が経験したことの「記憶」断片のことではないか。
つまるところ、わたしと思っているわたしとは、「わたし」の「記憶」でしかないのではないか。
しかしながら、われわれの認識している「記憶」というものは、その時々に想起する1表面だけのものであり、「そういえばそんなことも有った、こんなこともあったぞ・・」というように、後で気付くことが多いものだろう。これだけとっても、今想起することの出来る記憶だけで、それが「わたし」自身であると言うことは出来ようはずもないのだ。
あなたは誰なのか?
●「わたし」とは、「記憶」なのか?
もしそうであれば、一時のショックで記憶を失うような場合や、何らかの身体・頭脳の変調で記憶喪失になった場合は、その分だけ「わたし」というものが失われるのだろうか。
普通に「あなた」だと思っている自分、それは「あなた」自身ではなく、あなたの「記憶」なのではないか。それも、表面意識に浮かぶ、思い出せることだけの「記憶」であると思っているのではないのか。
確かに「記憶」がなければ、いつもまっさらの画用紙のようなものだろう。
そう、多分あなたやわたしの記憶が「あなた」や「わたし」であると思っているのかも知れない。
普通に思っているように、人生の過去の記憶の断片の集合が「あなた」や「わたし」なのだろうか。
・・・
しかしながら、それは単に「わたし」の歩んだ過去の軌跡、航跡のようなものを言っているのではないだろうか。
それは、例えば、画用紙の「絵」のことを言っているようでもある。
画用紙に描かれた「絵」(人生の記憶)が、「わたし」自身なのだろうか。
いいや、ちがう。
●自分の記憶は、即、自分自身ではない
確かなのは、今この瞬間にそれをそうとして認識している、意識している「わたし」がいる・・ということだけなのではないか。
「あなたは誰」・・・と問われて、あなたが色々説明しようとする「あなた」は、本当の「あなた」自身ではないのではないか。
「わたし」とは、画用紙に描いた「絵」なのではなく、その「絵」を描きつづけるところの者ではないのかということなのだ。
また、「誰か」が映画を観ている、あるいは創作しているとして、その映画の中味自体は「誰か」ではないことは自明であり、それを観ている、創作している当の誰かが「本来の誰か」ということだなのだ。
あなたの人生履歴、思い出す記憶の集合は、「あなた」自身では有り得ないということが、もう解るかも知れない。
ややこしく、難しく感じるのだが、すごく当たり前のことであり、すごくシンプルなこと。もっとも身近なことでもある。
●わたしとは今の瞬間の意識のことである
「わたし」という、いわば観察主体そのものは、過去にはなく「今」あり続けていることは「実感」できるはずだ。毎日、毎分、毎瞬、無限に「今」そうなのだ。
外の観念やイメージに自らを投げ込まず、できるだけ今という瞬間に気付いていること、これを意識的・意識の在りかたと言えるかも知れない。意識している自分を観ている生き方である。
それは、いわば過去を生み出し続けている、あるいは体験を続けているところの「最先端」の「わたし」に居るということも出来るかも知れない。
まさに、「わたし」とは常に今の瞬間にあり、そうであるがゆえに常なる変化であり、常に未知なるものである。またそれに気付いている意識、これを’わたしを観察している「わたし」’といえるだろう。
また、
変化し続ける「わたし」を、見続けるところの「わたし」は不変である。
変化し続ける「あなた」を、見続けるところの「あなた」は不変である。
また、実のところ、主・客は一体である。
●今に在り続ける自分に気づくこと
普段、自分自身と漠然と思っている「わたし」という存在は、想いや体験を通じて、
「常に今の瞬間を創り続けている者であり、それの体験を記憶し続けている者である」
という言い方が妥当ではないだろうか。
●汝ら、汝自らを知れ
デルフォイの神殿に書かれていたという言葉、
「汝自身を知れ」という言葉の「汝自身」の真意の一端は、
「汝自身が今在る・・ことに気付け」 ということなのだ。
これは、意識している自己に意識的であるということであり、
自分が意識的存在であることに気付くということでもある。
自己に意識でないところの意識状態を「無意識」と呼び、
自らの意識に気付いている、意識している有様を称して、目覚めているといえるのではないか。
覚醒とは、自己の意識的あり方自体に、判然と気付いた状態の意識のことではないか。
確かに、当たり前のことであるが、ことさらそれを実感している瞬間は少ないだろう。あなたはそれに、気付いていたのだろうか。
それよりも、なによりも外の世界の様々な物事を自分の意識に乗せているだけの場合が多いだろう。我々人類が、あるときは、集団で眠れる者たちといわれる所以は、意識はあるが自らに意識的でない状態のことであろう。
自らを知る・・ということは、例えば自己の魂の何億年にもわたる輪廻転生を思い出せ・・と言っているのではないことはもう理解できるかも知れない。また神なる自己の存在を無限の時空に渡ってそれを証明せよ・・と言っているのでもないことが解るだろうか。
汝、わたし・・それは、過去の記憶でも、目の前に展開する宇宙の果てに鎮座まします超越的存在である「神様」でもないのが解るかも知れない。
それは、言葉を変えて言えば、過去という時間でも、無限の容量を生じせしめる空間でもないということなのだ。
「汝ら、汝自身を知れ」 その汝・・知るとは、今この瞬間にある「わたし」を観ることで始まる。
いつかどこかでもなく、遠くの果てでもなく、今有る「わたし」のことなのだ。
究極の一なる創造の根源は、今在るからこそ、その雄大な宇宙を今観ずることもできるのだ。
同じく我々も、今在るからこそ、五感も、想念も感情も体験し続けることが出来る。
「今在ることを観じ続ける」ことは、まさに創造に参加していることを思い出すということに繋がるのだ。
存在そのものに気付くということは、「それで、何が得られるのか?」という利得の問題ではないことに気をつける必要があるだろう。
「今在る」ことは時間や空間を確かに越えている。また社会の通念での利益の次元でもない。
当たり前のことにこそ偉大な真実があるということだろう。なるほど、灯台元暗し・・とはよく言ったものだ。まさに愛すべき宇宙的な冗談である。
自分に気づかぬ自分というあり得ないような有り方に気付いて脱帽しよう。
冗談も気付かなければ笑えるものではないようだが、ちょっと笑ってしまおうではないか。
いつでも、どこでもなく、たった今の瞬間に隠れていた「わたし」たちに脱帽しよう。
●わたしは在る
I am that I am.
わたしは私であるところのものである。ということだろうか。
「マハラジ」の言うがごとく、「今わたしは在る」ということそのものが、
過去になり続けるところの記憶を生んでゆくものであり、
その体験という記憶を創り続けるものは、
否応も無く、あなたやわたしの「今」なのだ。
●人は、今の自己の想いを観るべし
その「今」を彩るのが、意識的存在である人間の「想い」だろう。
「想い」とは宇宙、森羅万象の因であるところの、大いなる意識波動の湧出である。
禅でもいうところの内観は、その自己に生じる創造の念、想念波動の有様を観る行為であり、意識的創造に参加する者の作法であるといえるかも知れない。
それは、観察のない無軌道な爆発ではなく、意識的な調和をともなった創造に参加していることを意味するのだ。
●あるがままの意識進化
人が人として、動物や鉱物や植物と違うのは、その意識作用の緻密さと深さ、広さにある。
鉱物、植物、動物も全て意識が宿っているといわれるが、その意識レベルでの学びの違いがあるというだけのことだろう。
それは良い悪い、低い高いではなく、学びのステージの違いなのだ。
それは 「あるがままの意識進化」 といえるものだ。
遅れているも、進んでいるも無く、良い悪いでもなく、大きい小さいでもない、あるがままの学びのプロセス、自己覚醒のプロセスを「意識進化」といえるのではないのか。
人間という「意識存在」は、その発する意識作用の自由度が飛躍的に拡大した存在であるという事が出来るだろう。どんな想いも、「意図的に」生じせしめることが出来る。創作も製造も構想もその現われなのだ。
嫌悪も理解も、侮蔑も尊敬も、執着も潔さも、全て「想い」によって生じるこころのパターンのことだ。
人間はその気付くすべての意識生命をサポートする責任があるが故にこそ「意識存在」というのだ。その「想い」を、いわゆるところの調和と愛の波動に乗せて様々に表現・創造してゆく、いわば責任がある。
どこか奪い続けるような文明文化はどういうことになるであるのか、それは自明ではないだろうか。
「今」できることは、まず自然へのこころからの感謝しかないのかもしれない。気付けば、いつでも方向転換だけは「今」できるはずなのだ。
●全ては選択
洗脳とか、暗示とかという他者の働きかけの効果に従うのも、そうでないのも、全て自己の「決断」によっている。何も決断しないのも「決断」である。何も決めないということを「決めている」のだ。あるいは「選択」しているのだ。
無意識であるということもまた、意識的存在である人間であるからこそ選べる「状態」なのであり、無意識的な在りかたから、意識的になる選択をしてゆくことが「気付き」とも言えるだろう。
気付きとは、意識的意識の有り方を言うのかも知れない。自らの意識に気付き、それに意識的になることが重要なのだろう。なぜなら、我々は「無限」から生ずるところの「想い」にも、いまだ充分に気付いていないからなのだ。
それは「知らない」ことから「知る」方向への意識的目覚めであり、目覚めるに従いその視野が拡大するように、意識的気付きの範囲が拡大してゆくことを「意識進化」と呼んでもいいかも知れない。
●「わたし」とは何か
既知になった経験や体験は「あなた」自身ではなく、「あなた」の創造履歴ということだ。それを「記憶」といっても良いだろうか。
いつも「今在る」永遠なる存在である「わたし」には、この刹那の人生以外にも、膨大な「記憶」もあることが次第に分かることだろう。それを思い出してゆくことが1つには次元上昇というものであり、更に大いなる「わたし」に帰還してゆくということなのかもしれない。
次元上昇、次元降下、浮いたり沈んだりのように見える意識の進化のありかた、それは繰り返し・・ということではなく、変化・進化する波動のうねりであり、螺旋であり、また永遠の「今」の無限なる発掘作業ともいうべきものだろうか。
全ての人間に共通である「わたし」とは、
もと「ひとつ」であり、
また「多」であるところのものではないだろうか。
いいや、まさにそうなのだ。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。