気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

こころを観る次元へ

2010-04-30 08:13:31 | 新地球文明論

●こころを観る意識次元へ移行する時

人はこころをもっている。

そのこころとは、動物とは違うより複雑で幅広い想いや感情であり、意識的存在:人として生きている証なのだ。

それは高度な有機組織体に備わった次元観察の窓のようなものである。そのこころの窓を覗いている、すなわち世界を見、聞き、感じながら発する意識作用を有する人間は、すなわち想っている、感じているところの人間は、実は全てを包含する宇宙意識そのものの個別化された有り方なのだ。

普通に思っている「自分」とは、そのときどきの限られた人生という体験群とそれに対する想いや感情の記憶だ。

いわゆる個我の「あなた」とは、人生の記憶断片でしかない。すなわちその時々の「仮の自己」というべきものである。この限られた人生以外のフェーズでは、それは「あなた自身」ではなく、単なる「記憶」として残るだけのことである。

過去という記憶も、未来という希望も、つねに今の瞬間にあるのだ。

覚者の特徴は、自己のアイデンティティーは過去でも未来でもなく、全て今の瞬間にあることをほぼ完全に理解している人のことである。

また今の瞬間は、無限の可能性そのものであり、その可能性をその時々での出来うる限りの最高の真・善・美で飾ることが出来ることに気づいている存在のことである。

見る聞く嗅ぐ、味わう、感じることが出来る、大きなこの世界というあなたの小部屋を、いかようにも飾り付けるのは常に「今」のあなたの「こころ」によるのだ。

●何をしているかが「分からない」・・ことが問題

我々は「仮の自己」を維持し太らせる為だけに、世界という舞台で様々に騒ぎまくっているのかもしれない。騒ぎが何かを生み出すとでも勘違いをしているのかもしれない。

我々の多くが、まるで一時のお祭りに興じている若者達であるとも考えれば、なにもどうということもないかもしれない。

生きるとか死ぬとか、怖いとか許せないとか、悪辣だとか善良だとか・・そのような感情の爆発を、それを、あたかも生きている証だと誤解しているのであろう。

言葉を変えれば、現前する宇宙の顕す大いなるいわば「親こころ」には未だ気づくことはなく、また自分の「こころ」にも気づかず、その創造主の属性である自らの「こころ」自体を、無意識のうちに担ぎ上げで遊んでいたのだともいえるだろうか。

無意識の人々が終始するのは、自分に対する他者の行為と自己利益の勘定のみであり、それをもとに人や世界が良いとか悪いとか、裁くとか訴えるとか・・そのような方向、すなわち他者のあり方と自己保存の利益に、意識的エネルギーを費やしてきたようだ。

それは本来の方向ではないために、多くがいわゆるネガティブなエネルギーとして現象に結実してしまう場合が多いかも知れない。

●自らの土台、舞台を壊すべからず

争い、諍い、戦争、騙し、略奪、環境汚染・・すべて自己保存に特化した個々の集合的なあり方から来る結果である。

それもこれも、根にあるのは「自己は肉体であり、それをまず他よりも優位に維持しなければならない・・これが各自の至上命題である・・」等という極めて卑小な固定観念である。

その極めて卑小な固定観念を、人間の尊厳だとか、民主的だとか、公平だとかという「偽りの絹」を着せて社会を構成しているのではないか。

人間の生きる権利や尊厳の前に、それを包含し、それを生かし続けるところの大いなる大自然の尊厳はどうしたのだろうか!

自らの存続を基本から支えている大自然を、汚してなにか良いことでもあるわけはない事ぐらい、大の大人が気づきそうなものだが、生活の為に繁栄の為にという「お題目」を信じ込んでいるカルトの信者のようなものではないか。

多くの人にとって大切な肉体は、元々大自然の精妙なプロセスから生み出されているのだし、人はことさら何もせずとも、その目的を果せるように本来仕組まれているのだが、その仕組みに無理やり干渉し、イビツに変形させてしまうことを、人類の叡智だとか、創造への参加だとかという風に誤解している文明の有様を見よ。

そうして、肉体表面レベルの意識に固定されている多くの我々の有様を見よ。

●徳のない文明は消え去る

先の文明が滅び、洞穴生活からようやく這い出し、極めて深い自己反省をしなければならなかった人々が、曲がりなりにも築き、踏襲してきた地球各地の古い民族の諸文化を、それを未開と称して根だやしにした現代文明は、その存続の「徳」というべきもの、いわば質草をすでに失ったのかも知れない。

大地は滋養をそがれ、川は赤く汚れ、大気は不純物が混じり、海は薄い毒に犯されている現実に、我々は気付かないわけにはいかないだろう。

自然をどう汚しても、誰かが何かがいつか取り返しをつけるだろう・・等と言うような責任転嫁の資本主義的自己主張はもう一切やめなければならないときではないのだろうか。

我々の生きてあるこの地球という生命圏が、以前とはすでに違うことを理解する必要がある。自然界の活力の衰退は、例えば年配の人々はわかり易いはずだ。人類の犯して来た無知の行為の結果は、すでに我々の身の周りの世界に現れている。

大きな変化は、決して気のせいではないのだ。

●フィードバック機能による調和の維持はいつもある

またその不調和にたいする地球のフィードバック的な修正、地球の自浄作用が起きていることにも気付く必要があるのだ。

地球は巨大な物量の丸い土の塊ではなく、我々と同じような身体と意識をもった生命体である。ぺちゃくちゃ喋らないからといって、単なる物質の塊と考えるのは無知蒙昧のなせる業である。

人間を肉の塊であるとボンヤリ思っている者達は、地球も同じようだと考えるだろうか。

あなたや私たちがそうであるように、病んだ身体やこころは、それが癒されるのが自然の有り方であり、同じく、いわゆるガイアである地球も、その巨大な規模でもって癒しの過程に入っていることは判るはずなのだ。

その癒しのプロセスは人間にとってはなまやさしいものではないのは想定内のはずだろう。地球のちょっとした身震いは、数キロmの地殻の上下動となるし、地球大気の癒しはその循環を微小に変えても、人間にとっては甚大な変化となる。

蒔いた種は刈り取らなければならない定めなのだ。

●各自のこころでフィードバックすべし

今、その不浄の実りを各自の意識の内に潔く刈り取るべきである。

少なくとも大自然にたいする不遜な態度を、尊敬の念へと転換しなかればならない。またなぜそうなのかを自らで問い直し、こころの底で地球や宇宙の調和のあり方を理解しなければならないのだ。

その他大勢の眠れる者たちの顔色を見るのを止め、自己のこころの有り方を振り返り、出来うる範囲で謙虚な想いと行為に切り替えてゆかなければならない時が来ているのだ。

どんな利益があるのか・・等と言う、いまさらながらの問いかけは問題外である。

少なくとも、現象化する自浄作用によって生起するであろう怒涛の濁流に流される愚だけは避けなければならないだろう。

各自で各自の実りと不調和を「こころの段階で刈り取る」ことで、不調和のその大きな現象化は防げるのも宇宙における因と果の法則である。それもこれも全て個々の意識の作用に従って個々の環境に生起することは忘れてはならない。

皆々全て一緒ではないのだ。そのための意識の個別化である。

それに気づかず、知らぬ存ぜぬを通すことは出来ない相談なのだ。自己の蒔いた種は自己で刈り取るのは、すなわち、大いなる創造者の子である個々の意識存在の役目なのだ。

何がどうなるかは、誰か、何処かの他者が決めるものでは毛頭あるはずも無く、全ては意識の湧出点であるところの、あなたやわたし達のそれぞれの役目なのだ。

あなたやわたしたちにある、それぞれのこころの歪をそれぞれで解消し浄化しよう。そうすれば人類意識に浮かぶ小さな泥舟は、その仮の覆いを剥がし、天空まで駆けることの出来る壮麗な姿を自ら現すだろう。

こころを自然に調和させ

穏やかに、

欲少なく、

朗らかな笑いを努め、

人に出来るだけ優しく、

自分にも優しく、

すなわち、

大いなるこころの有り方、大自然に調和したありかた、

歪の少ない自由自在な自己表現を心がけ、

物質に媚びへつらわず、逆にそれを思いを込めて加工、進化、そして昇華させ、

人間お互い同士を自分の鏡像と心底理解し、

無限の愛という生命に少しながらも感謝しつつ、

今のこの偉大なる瞬間を「観続ける」存在に戻る時である。

その前に、いつの世にもどこであっても、

常に必要なのは、自己の自己を創り続けるところの

あなたの「想い」を観ることである。

 

人は「想い」という「種」の蒔く存在なのだ。

そしてそれを「自ら」刈り取ることの出来る存在である。

今までは、自己が存続すべき肉体であり、そのために何でも掠め取る・・という根本的なエゴ的観念が結実した文明であったが、

これからは、

我々は肉体以上の意識的存在であり、それを生かし続けるところの大いなる大自然、宇宙との調和を根にした文明に転換するであろう、

そんなターニングポイントに「今」我々はいるのだ。

そのような肝心な「今」の時に、眠っていてはいけない・・と思う。

大いなる永遠なる意識存在・・それが人である。

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大いなる意識の目覚め

2010-04-24 18:37:18 | 宇宙的気付き

ドイツの哲学者であるハイデッガーは、

何も存在しないのではなく・・、何かが存在しているのはなぜだろうか?

という問いかけをしたといわれている。

まさに誰でも「ふと」感じる「問いかけ」であろうか。あなたは、なぜ世界は「無い」のではなく、「有る」のだろうか・・と、ふと感じたことはないだろうか。

この記事を今読んでおられる方々も、「今ここに有る」からこそのこと。

この不思議な感覚は、多分宇宙の謎であり、またその謎を問いかける大いなる者の問いかけでもあるのだ。

・・・・

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●一なる存在原理

我々の眼前に存在する「宇宙」という無限に展開する世界の、その、原初の産声は 「わたしは有る!」 という神なる者の初動的な気づき、目覚めによって生じたと考えてもいいだろう。

「自らへの気づき」、それは何ものにもよらない、全てにおける第一原因と言えるのだ。

それは「わたしは有る!」という驚天動地の自己への気づきと言えるかも知れない。

何ものにもよらない意識のあり方、「わたしは有る」・「I am that I am」  はどんな時空をも超えた存在原理と言える。どんな形によらず、常にわたしはわたしであるところのものである・・ということである。

それに、わたしとは、一体なんだろうか?という素の問いかけがあればこそ、宇宙そのものが様々に変化しつつ調和を保っているのだ。

常に無限なる自己自身で有り続けている様が、今現前する「あなた」であり、わたしであり、多次元ともいわれるいわゆる宇宙なのだ。

なるほど、わたしはわたしで有りながら常に変化するわたしである・・ところの存在である。

●あなたは時空を超えた存在

物理的な説明でのビッグバンは、時間と空間の域を超えていないが為に、宇宙の創生時期を想定することになる、すなわち130数億年前に始まる宇宙ということになるようだ。

しかしながら、「わたしは有る」という初動の意図は時間・空間によらず、それを逆に生起せしめる初動であればこそ、それはいつか何処かの過去ではなく、常に「今の瞬間」なのである。

他の何ものにもよらない有り方は、すなわち「一なるもの」のあり方そのものである。それを根源といい、宇宙の因といい、また創造主、神ともいう。

その根源と同質の有り方を再現している意識的存在である「人間」は、その永遠なる者であるわけだが、果しておぼろげながらでも、今それに気づいているだろうか。

どこにいようと生れようと、死のうと、何も変わらない「あなた」が存在するのだ。存在原理そのものはその投影の形態が変わろうと、何がどうなろうと、常に「わたし」であり続けることに気づいているだろうか。

「あなた」とは、存在原理そのものであり、時代や境遇に基づく、人生での体験記憶によって規定される「個我」ではないということである。

すなわち自己の身体に同化し、生き残りをかけて必死で闘いながら生きつづようとする個我、すなわち「エゴ」ではないのだ。

 

言い換えれば、この世界における人生での様々な体験・記憶自体が「あなた」ではなく、体験記憶する主体そのもの、存在原理そのものが「あなた」であると言うことである。

ここまでの理解がもしあるならば、どのような人生もそれは素晴らしい体験であると感じるだろう。

●さらばエゴよ

先般の記事にあるラメッシ・バルセカールの言葉、「全ては意識であり、誰も行為者はいない」という言葉は、不滅の意図と意識、それをまさに示している。

この人生で個人として生きている「あなた」とは、一般に言われる「個我」のあなたであり、生物的な側面を強調されすぎた社会に生きているがゆえに、その生き残りを終生の目的とする「エゴ」が生じるわけなのだが、その後天的なエゴは実は存在しない・・とは、空恐ろしいが、なるほど的を得た指摘ではないか。

個我の行為者であるあなたは実は存在しない、あるいは存在していると見えるのは、それは「架空の自己」であるということなのだ。

そのエゴたる架空の自己を必死で維持しようとすることを目的とする文明であればこそ、大自然も荒らして食い散らかしながら、そのゴミによって自ら窮することになるのだろう。

 

とはいえ、架空の自己が「ここ」に有ることは、どこの誰も否定しないだろう。その架空の自己を成立たせる為の背後の仕組みこそが、大いなる意識そのものであり、本来の「わたし」であるのだ。

大いなる「わたし」の1つの投影物こそが「個我」のわたしということである。本当のわたしとは間違いなく宇宙の第一原因である「わたし」に行き着くのだが、これが受け入れられるだろうか。

●いつもある「今」という瞬間

本来の「わたし」とは、大いなる「わたし」の中にある無限数の「わたし」でもある。それはまた、同じく大いなる「あなた」でもあるのだ。

人間の日常の生活、社会の出来事の知覚、悩みや喜びの体験もすべて「ここ」、それぞれの今の瞬間のわたし」から生じているのだ。

わたしはある・・すべてはここから生じている。毎日毎瞬あなたやわたし達にある普通の感覚、「わたしは有る」に意識的に気付くべきである。

ごく普通の、いつもやり過ごしてきた「ここ」の瞬間にいつもあったのだ。

人は肉体そのものではない。

また雑多な思考そのもでもない。

また胸を揺るがすところの感情でもない。

あえて言えば、それら全てを無限の泉から噴出せしめるところの、

無限小であり、また無限大でもある湧出点であり、

・・・

またそれらを超絶したところの「今」という無限舞台での創造演劇の観照者であるかもしれない。

人は、神なるそれから生れた者であり、また自己の神なるを観る、大いなる意識そのものなのだ。

 

子供たちの安心しきった寝顔、

近所のうるさそうな、おばさんの付き合いだけの挨拶・・・、

父母の柔和で心配そうな笑顔、

線路沿いに咲く、名も知らない草花・・・、

忙しそうに通り過ぎる電車、

そして、疲れた足取りで買い物袋を抱えて、

家路に急ぐ人々のこころ中にも、

この宇宙を創りたいと思った、

大いなるものの切なる想いを、

あなたは今、ここに、感じることが出来るだろうか。

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


すべては大いなる意識である

2010-04-17 10:38:25 | 偉大なる先達の言葉

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Who Cares?!「誰がかまうもんか」 ナチュラルスピリット  より

ラメッシ・バルセカールはあのニサルガダッタ・マハラジの弟子といわれている。1917年にインドに生れ、大学を卒業後、銀行に務めながら、妻と3人の子供を養い、最後には頭取として手腕を発揮する。退職後、ニサルガダッタ・マハラジに出会い、覚醒する。以後、欧米やムンバイの自宅で、世界中から訪れる探求者たちの質問に答える日々を送り、2009年9月に92歳で生涯を終える。

・・・・

 

 

・・・・以下 同上書p27~28より抜粋

「ラメッシ」

わたしには教えの基本があるのでしょうか? はい、あるんですよ。私の教えの基本は、

「意識が存在するすべてである・

つまり、「誰」もどんな行為もしていない。

神の意志がなければ、何ごとも起こらない」というものです。

そして、わたしが「神」と言うとき、

この現象界の内側や外側にいる、全能なる存在のことを言っているのではありません。

私が「神」と言うとき、それは、源泉、意識、つまり二番目のない一なるものを意味し、

その中で、現象化が起こっています。

仏陀は次のように言っています。

「出来事は起こり、行為は為されるが、そこに個々の行為者はいない」。

 これが基本です。

 これ以上短くシンプルな言葉でこのことを表現できた人はいないと思います。

出来事は起こり、行為は為されるが、そこに個々の行為者はいない。

ですから、個々の行為者がいないのであれば、「誰」がそれをするのか、という質問は不適切です。

けれども、知性が質問して、答えを得なければならないというなら、知性は、「誰の行為か?--神の行為です」と教えられるのです。

 

・・・・以上抜粋

 

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あらゆるすべては「意識」であり、「個々の行為者」はいない!?

これらが頭だけでなく、いわゆる感覚・ハートでわかる人は、すでに真の「あるがまま」 を理解している人であると思う。

 

●世に言う人格はエゴで流されている 

我々が自己と思っているバラバラの個我のこころ、逆に言え

ば社会で法的に平等と認められている?個々の「人格」ということも言えるのだが、その、極めて大切に扱っているその個我の人格達は、いわば「エゴ」で流されている。

「エゴ」とは、相対的な世界で自己だけは生き残るのだ・・という適者生存の催眠による想いや行動であり、それはまた「肉体」のみが自己であると言う目先だけの狭い見識に閉じこもっている意識の段階を示すものである。それらを人類が様々に強く主張し続けているその先にあるものが「不幸」「争い」「戦争」である。

肉体が自己であるならば、当然それに執着する傾向が否めず、その維持と物質環境の向上に「死ぬまで」走り続けることになるだろう。大なり小なり、また程度の差はあれ、あなたや私たちもそうではないか。

ぶつかって行くか、逆に逃げてしまうか、それらは同じ線上の行為にすぎないのだ。

 

●個我は別の個我を批判し裁く

例えば、今の我々の経済社会生活で眼や耳にすることは、何をどう取り繕ってみてもその個我の自己主張的水準にとどまっていることを示している。やれGDPだ、やれどこの国に勝った負けた、やれ政治家が馬鹿だからだとか、やれすべては巨悪の陰謀であるだとか・・、

結局は無意識的に、今の自己の不遇、不快さの原因を自己より強そうな不特定他者に擦り付けることに終始していないのか。

 

肝心な理解は、この世界のどこの誰でも自由に自己を表現しているということであり、それが良いとか悪いとか評して、他者を結局は裁いているようなことであるならば、裁かれる者と変わりがないということである。

この世界がどのようになるか、全て人間が決めてしまう・・という驕りがどこかにあるがゆえに、同類である人類の所作を気にして恐怖し、それをやめさせなければならない・・それを改心させなければならない・・社会全体を改革しなければならない等という想いになるだろう。

 

●社会変革という虚妄の観念

社会改革の観念・・ここには大きな虚妄があるのだ。人のためと称してその人々の血を流してきた歴史、カルマの車輪のように繰り返す人類の歴史を見れば、もう充分理解可能ではないのか。外の世界の改革や変革の掛け声についていった先は、いつも騙しであり、失望である。

なぜなら自己を見ずにあくまでも自己を救ってくれそうな他者を見ている過ちを犯しているからだ。

いつの時も外から聞こえるハーメルンの笛は聞こえが良いものだ。

「この時代」の最終幕においても、またその虚妄に巻き込まれるような意識は持たないが良いと思う。

例えれば、世界で1つの政府などは、人類の今の意識においては人為的な最終で最大限の虚妄であろうか。

今の個我の意識の段階での形ばかりにユニティは、まさにこれでドン図まりであり、それ自体エゴ的な人間文化の最終章となるだろう。外の刹那の世界に幸せと安寧を求め続けた人類の悲願は最後の仇花となるのだ。

 

●誰も何も裁けない

それは例えれば、卒業の問いの1つともいえるものである。

我々が裁かれたくないように、他者も裁いてはならない。

何も裁いてはならないのだ。なぜなら宇宙の根源意識が自己を裁くこと等ないからだ。我々が裁かれたくないように、他者も裁いてはならない。この意味はそういう意味である。我々自体が宇宙の根源意識そのものであるからだ。

分裂、それはまさに今我々の行っている個我の意識のありかたである。個我の我々が、自分が何が何だか解らない有様は、はめ絵の1ピースが全体像を忘れて右往左往しているありさまともいえるだろう。例えば権威や権力の言いなりになるのは、わけのわからない1ピースが別の、それに輪をかけてわけのわからない1ピースにものを尋ねているようなものではないか。話を聞くなら別に問題はないが、鵜呑みにしたり、それに支配をゆだねたり、あるいは喧嘩を始める始末はなんとも言いがたいではないか。

 

●必要なのは「個我意識」(エゴ)の浄化である

変えるべきなのは、常に「わたし」、自己自身なのであり、それは小乗・大乗という枠にはまるようなものではない。また古い・新しいというものでもなく、いつの時代も常にそうであるところの自己発見と刹那の個我からの卒業なのだ。

自己を変革せずに、どうして他者を変革できるのか?

また自己が己を変革できれば、そこには変革すべき他者はいないのだ。

それは確かに、一時は苦渋に満ちた方向転換であるかも知れないが、自分という存在の中心の方向を観なければならない時期にあるのだ。自己を観るとは、自己の想いと行動を観ることであり、それを観察し、自己の自己たる存在を顕現せしめている有様に気づく行為なのだ。

人間は確かに肉体という高度な有機生命機能を使っている。ラメッシはそれを「肉体精神機構」と言っている。すなわち、人が人間と思っているものは、肉体と精神の複合体・・ともいえるものだ。別表現をすれば、常にプログラミングされている身体ともいえるだろう。極端に言えば、プログラムの組み込まれた有機機械体と言っていいかも知れない。確かにこれは、我々が思っているところの自己に相違ない。

 

●まず「エゴ」に気づく必要がある

朽ち果てるべき肉体・・それが我々であるという唯物的な自己像ではないか。

その自己像のお陰で、世間での競争と騒ぎがあり、他者の動向を覗くためにニュースがあり、膨大な自己主張群を綱引きし平均化する非効率極まりない政治があり、さらにそれを利用する狡猾な支配が蔓延るものだ。

朽ち果てるべき肉体に執着することを、いかさま「生」への意欲と勘違いしてしまう。また肉体の維持と存続にかかわる本能的な所作を「愛」と勘違いしてしまう、それらがゆえに様々な不幸といわれる体験を繰り返すことにもなるだろう。

自己への執着は正当ではなく、それは単に執着なのだ。それが外れるのが悟りであり、朽ち果てるべき虚妄の肉体自我からの解脱なのだ。自我から外れた存在は、本来の「わたし」に戻ることになる。

自我(エゴ)はそれを怖れるのだが、その怖れ自体がまさに不幸の元であり、実は逆に快楽や見栄えを追及する「エゴ」にとっても不幸であることが解るまでのことなのだ。

虚妄の自己が虚妄であるがゆえに起こす不幸や難儀を、その虚妄の自己が悟るまでのことだ。エゴ自体がエゴにとって宜しくないと解ったときには、どうなるだろうか。エゴは自らに飽きる時が来るだろう。

「わたし」は(わたし)であるところのものである。

常に自らを創り続けている意識・・大いなるもの・・それが「わたし」であり、「エゴ」も、大いなる意識の読みふける一時の物語のようなものなのだ。

・・・

・・・

ラメッシ・バルセカール(1917~2009)の言葉は極めてシンプルであり、理性的でもあるが、その格調は遥かに高いところにある。

誰が、どんな地位の人が、どんな経歴の人が・・というような余計な、理解の障りとなるようなものは関係がない。どこの「誰が」何を言うのか?ではなく、そこに「何が」語られているのか?だけが重要なのだ。

 

彼が言うには、

 

「意識が存在するすべてである・

つまり、「誰」もどんな行為もしていない。」

 

それぞれが、行為者であるという自覚をしているところの個別の自己はいないいうことである。「行為者」とは分裂した個我のことを言う。

実は、バラバラの個人は本質上は存在しないということであり、逆に雄大な宇宙意識、一なる根源、それそのものの個別表現としての人間があるのみということであろう。

まさに「天と地」ほどの自己認識の違いともいえよう。

「えーっ・・自分はいないの?」

普段「わたし」と思っている「個我のわたし」が、実は存在しないと言われて「怖れ」を感じない者はいないかも知れない・・

多分、その時、わたしは「エゴ」のわたしを感じているのだ。

まさにそれで良いのかもしれない。

我々の真に克服すべきものがそこに現れた証拠なのだから。

 

実のところ、克服すべきものはどこにもなく、もしどうしても・・あるとしたいならば、それは・・ただ「わたし」自身なのだ。

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桜はいいですね。

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございます。


わたしは(わたし)である

2010-04-03 16:24:12 | 宇宙的気付き

●偶然はどこにもない

  

我々はたまたまこの地球に生まれ、たまたま死んでゆくという無意味な偶然産物的な生命ではない。

確かに、社会のありきたりの教育と集団の中での経験、社会に出ての体験だけでは、このような重要なことは考えにくいかもしれない。

 

人生に起こる様々な体験を、ただランダムな出来事と考えたり、また様々な出来事を確率や偶然の結果として扱ったりすることが、どこか現代的で近代的なことであるという嘘に流されているのかも知れない・・と感じたことはあるだろうか。

 

人生に偶然など実はどこにもないと、どこかで気付いている人々は多いし、人類の文化や歴史に垣間見える考え方や習慣の中には、その真実をどこかで伝えているものも多いだろうが、たんなる比喩やおとぎ話として捨てているのかもしれない。

すべては必然である。

  

そう、

今ここに我々が生きているのも、我々の選択によっているのだ。ただ、それを忘れているところに、その面白さと、はたまた苦渋があるものでもあるが。

 

●我々は今、海の底の竜宮城にいるようなもの

 

モンローその他、先駆的冒険者達の説明する地球の多層世界においては、この地上、すなわち3次元的物質観念で覆われているこの地上世界は、ある意味で例えば「海の底」のようなものだろうか。

  

海の底は下に行くに従って水の圧力がのしかかってくるような、重く、圧縮された時空世界であり、はるか洋上に燦々と輝く光も届きにくいものだろうし、またそんな海底で動き回ること自体が相当な不自由さをもたらすだろう。

 

例えれば、地上にそびえる超高層ビルも、なにか海底の竜宮城のようなものとも思われる。

 

●物質世界も多層の世界の単に一つの層である

 

海の底の竜宮城文明?・・確かに、これは比喩であるが、我々のこの3次元といわれる世界も似たような構造ではないだろうか。

 

人間の五感で知覚できる範囲の地球の周囲は、知っての通り「重力」という物質形態に親和性のある力があるが、これは物質形態レベルでの時空の歪同士の同調による保護エリアを造り出し、その形態世界を、1つのまとまりとして保つ仕組みでもあるともいえるだろう。

  

ある意味で、物理的な層での地球体験ワールドとその外を分かつ為の自然の「保護壁」である。

 

例えば、人類の宇宙開発への努力は、引力すなわち、そのハードルとなっている時空境界を突破する為の切なる願いから出ているところの物質次元での努力なのだ。

 

●地球は多層の意識体験世界

 

霊的、意識的存在レベルでも、地球は階層構造になっているようだ。

 

R・モンローやスエーデンボルグ、その他信憑性のある霊界通信や、あるいは古来からの聖者や覚者たちの教えや報告も、天界や霊界といわれる各階層世界もそれなりに立派にリアルな世界であるとしている。

  

それら多層の世界は我々が白昼夢と考えるようなあやふやな世界ではなく、その階層エリアにとっては実に「リアル」な「体験領域」といえるのだ。

 

実のところ我々の五感を通じてフォーカスしているこの現実世界も、霊的世界も単に存在周波数帯域の少しの違いでしかない。

 

こちらが現実であちらが虚ではなく、あちらも現実であり、またあちらもこちらも本来は虚と言えるかも知れない。

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     同種の想念の同調で創られる集合観念の周波数帯域

 

中間領域は主に「想念」による創造世界であり、ある意味では我々の物質世界での想いの鍛錬と浄化の程度を試す為の試しの場であるとも言えるかも知れない。

 

意識体である人間の「肉体死」の前後に通過するといわれるその領域は、天と地の間、地球体験領域の中間エリアとも言われる場所だ。

 

古くから「霊界」等と呼ばれている意識領域であり、はるかに自由自在な、いわゆる天界以上の意識レベルからみて、地球的に歪んでいる意識階層と言えるだろう。

 

例えは悪いが、本来通過するべき「一杯飲みの赤提灯」のような、ついつい同調してしまうひっかけ階層といえるだろうか(笑)。

 

少々引っ掛かってもすぐに出られるのならばなんの問題もないのだが、自らの重い想いでそこに眠り込む「意識体」もある。

 

また地獄と形容されるような修羅場で切った張ったを繰り返す者もあるようだし、浮かれ天国のようなところで極楽とんぼのように過ごす者もあると聞く。

 

結局は、自己の発する想念(想いや感情)のコア周波数帯によって、どの世界に引かれるかが決まるのは理解が容易であろう。

 

類は友を呼び、同一波長は共鳴するのだ

翻って、我々の現実世界は物質的な世界といわれているが、これもやはり「想念」の世界と言えるのだ。

 

時間の経過や概念の複雑さに混乱させられてその因果関係が不明瞭に感じているかも知れないにしても、人生ではその個人の想念に従った出来事が起きているのだが、その想い自体に気付いていないおかげで、何が何だかわからないようになっている。

 

正確にいえば、この3次元世界では想いと現象化の間に、しっかりとしたフィルターが掛かっているということだ。

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