●3次元時空とはなにか
例えば、DVDビデオを再生プレーやにかけると、スクリーンに映像画面が現れ。
その中で様々な人物や時代、土地、歴史の物語を観ることが出来るように、
我々の世界も実際それと似たような構成と言えるわけで、この世は幻想だとかホログラムだとか言われる所以である。
しかしながら、この世界は、いわゆる「次元」という存在ファクターが2次元平面ではなく、つまり、TVスクリーンのような2次元画面ではなく、それは3次元的なものであり、
立体的な感覚つまり「空間」と、その中のエネルギー:物質、それらの変化の持続つまり「時間」を認識することが出来るものだ。
●現代科学ではこの世は4次元
簡単に言えば、我々は・・・
XYZという3次元空間の中の、様々な物質形態の運動・変化を観察しているわけだ。
太陽があり、月が運行し、風が落ち葉を舞い上げ、川が流れ、
人々が往来し、鳥が空を飛んでいる・・、
我々は、そういう3次元的な時空の中の、様々な変化を観ているということだ。
そして、様ざまな変化の履歴・記憶が「時間」と呼ばれるものであり、
それらが4次元時空と呼ばれる我々のこの世界ということになる。
これは物理学的な常識であって、突飛な思いつきではない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/b4/2c1bb2c21a4b5fa5cf91535b6ca714f8.jpg)
・・・
●時空はそれを観るための「スクリーン」でしかない
しかしながら、ここで肝心なのは、その時空間が出来ている、
物理的な背景をどうしたこうしたと追求している・・その以前に、
それを認識している「人間」がいなければならないはずだ・・ということ。
人間は、それを「意識する」「観察する」ことが出来る存在という意味だ。
●意識不在の欧米型科学の終焉
結局欧米流の科学技術は、外側のスクリーンの動き方ばかりを探究しているわけで、
究極のヒッグス粒子やら、CERNの極大化されたエネルギー場での時空の挙動、ブラックホールが出来るか等、ドキドキしながら試しているわけである。
つまり、あれは「多次元時空」に気付いているからこその、それも実に「危険」な実験なのである。
地球の時空間スクリーンに「穴」を開けられるか?そこから別次元が見えるか?という実験だ。
しかしながら、時空間スクリーンに「穴」を開ければ、向う側が見えたとしても、こちらのスクリーン自体が、つまりこの時空自体がひび割れて、崩壊してしまう危険性もあるということだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/9c/dacbb16de0a62760d8670b778cf0c10f.jpg)
なるほど、ここにも究極の唯物論的世界観の飽和と崩壊が見てとれる。
行き着くところまで行った、人間不在の物質的世界観・・の、その崩壊を見てとれるのである。
・・・
●世界は意識の中に現れている
多次元大宇宙に、その物質現象として、小さな人間がいる・・としている観点。
つまりこの小さな肉体が人間だという観点にほかならない。
何cm、何kgという物理的大きさによる自己存在規定であるが、
世界というもの、それを認識する側の人間の「意識」に気付いていない。
観察者不在の・・観察対象などあり得るはずもないではないか。
観察する行為がなければ、観察物は存在していないも同然である。
「意識」しなければ、何事も「顕れ」ようがないのだ。
あなたも人生において、これを会得したはずである・・・。
あるいは、得たのは自分以外認めないところの、
その時だけの儚い自己の地位や名誉や、財産だろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/77/53972f66a1a069020f5807845ce04b8a.jpg)
●観なければ現れない
そこに花瓶があって、花が活けられていたとしても、
誰もそれを観ることがなければ、それが存在していることを誰が証明するのか?
誰も観ていないものを、一体全体だれがその存在の証をたてるのだ?
いいや、永遠に存在していないままなのである。
在るのに気づいていない・・のではなくて、存在していないのだ!
意識で・・気づかなければ・・・何も出現しない。
つまり、人は皆色々なものの存在を与える者、つまり創造主の端くれなのである。
極めて身近で単純で、当たり前なのだが、ここに気付いていない人々が多いのである。
人が気付いて、観察し、認識をしなければ、何事も存在しないという事実である。
例えば、色々な常識ならざる奇跡なども、観ることで現象化するという原理原則から来ている。
スプーン曲げも明確なイメージと確信による現象化だし、
ラッキーな出会いや遭遇なども、その要因が意識の中にあるからである。
したがって、何に気付いているか、何を想っているか・・常に注意が必要でもある。
だから、<自己観察>が極めて重要なのはそれが理由である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/2c/49b2b4b76190e81b517383726ff93004.jpg)
・・・
そう、あなたがいなければ、あなたの世界はないように、
人間がいなければ、あーだ・こうだという世界は現れない・・!
主人公は、外の世界やそこで動き回る物ではなく、
それを観察しつつ世界を描き出している、それぞれの「あなた」なのだということだ。
決してスピリチュアルな気休めでもなく、これが厳然とした「事実」である!
これはXYZ、tの4次元を含み、それを越えている言わば五次元認識だ。
今までも、そうであったのだが、気づいて認識せねば、それが現れないという原理。
こころを度外視して、物理現象のみが追究するに値する客観的な事象だという・・
誤った3次元的世界「認識」は、もう不要である。
●旧世界文明は終っている
なるほど、今までは、この事実に気付かされる事のないように、
様々な便利で快適な文明の利器で誤魔化されて来たとも言えるかもしれない。
しかしながら、これ以上に便利な利器は出てきそうもない現実にも気づけるだろう。
手で操作する万能端末、スマホの普及の後には、それを頭に埋め込むのだろうか?
それは人間が次元をさらに下る行為であり、そもそも、人間にこれ以下の次元などありはしないではないか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/a8/e8bb5f50069c3a11ff56d787d8c1476a.jpg)
量子物理で発見された「観察者効果」は、あまり支配や利益に好都合ではないようで、
あくまでもCERNや核兵器等というような。より威力を求める方向に行っているようだが、
そちらの旧次元認識は、やがて崩壊してゆく定めにあり、
それらに惑わされない様にしなければならないはずである。
・・・
●わたしとは何か
わたしとは、わたしの世界の原点であり、
それは見はるかす限りの、聞こえる限りの、
知覚する限りの世界の「原点」なのである。
原点無くして座標軸、世界は生まれず、
その知覚する行為そのものによって、世界が生じているのである。
世界がまず先にあって、そこに私が偶然に転びこんだものではない・・のだ。
多次元世界であろうと、すべては全包容意識の投影するものであり、
その意識の中の、ひとつの意識である「わたし」が観ているのが、
それを観察して、在らしめているのが、この世界そして宇宙である。
意識的に、観ることでそれを在らしめている。
どう在るかは・・・、どう観じているか・・ということだ。
●正しく観る
古来からの仏教では「正見」といっている。
正しく見る、とは・・・自己の内面を、迷いなく観察する行為である。
収入の上げ下げや、他人様の顔色や、世界の混乱のことよりも、
それらすべてを観ているわたし・・・自己内面の観察なのである。
観察が正しくあるべきとされている・・、
なぜならば、人の諸行・現象は、その存在の内面の投影像であるからだ。
外の世界とみえるものは、内であり、内と観えるものが外として展開する。
意識~意図~想い~エネルギー・現象化・・であり、
それぞれの世界は・・・「意識」という、それぞれの「わたしの内面」の観察行為によって、
それぞれの・・わたしの世界に描き出されるものであり、
それは神なる根源が、あらゆる全てを展開している有様と同じなのだ。
一は多であり、多は・・すなわち、ひとつである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/a8/e8bb5f50069c3a11ff56d787d8c1476a.jpg)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
例えば、DVDビデオを再生プレーやにかけると、スクリーンに映像画面が現れ。
その中で様々な人物や時代、土地、歴史の物語を観ることが出来るように、
我々の世界も実際それと似たような構成と言えるわけで、この世は幻想だとかホログラムだとか言われる所以である。
しかしながら、この世界は、いわゆる「次元」という存在ファクターが2次元平面ではなく、つまり、TVスクリーンのような2次元画面ではなく、それは3次元的なものであり、
立体的な感覚つまり「空間」と、その中のエネルギー:物質、それらの変化の持続つまり「時間」を認識することが出来るものだ。
●現代科学ではこの世は4次元
簡単に言えば、我々は・・・
XYZという3次元空間の中の、様々な物質形態の運動・変化を観察しているわけだ。
太陽があり、月が運行し、風が落ち葉を舞い上げ、川が流れ、
人々が往来し、鳥が空を飛んでいる・・、
我々は、そういう3次元的な時空の中の、様々な変化を観ているということだ。
そして、様ざまな変化の履歴・記憶が「時間」と呼ばれるものであり、
それらが4次元時空と呼ばれる我々のこの世界ということになる。
これは物理学的な常識であって、突飛な思いつきではない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/b4/2c1bb2c21a4b5fa5cf91535b6ca714f8.jpg)
・・・
●時空はそれを観るための「スクリーン」でしかない
しかしながら、ここで肝心なのは、その時空間が出来ている、
物理的な背景をどうしたこうしたと追求している・・その以前に、
それを認識している「人間」がいなければならないはずだ・・ということ。
人間は、それを「意識する」「観察する」ことが出来る存在という意味だ。
●意識不在の欧米型科学の終焉
結局欧米流の科学技術は、外側のスクリーンの動き方ばかりを探究しているわけで、
究極のヒッグス粒子やら、CERNの極大化されたエネルギー場での時空の挙動、ブラックホールが出来るか等、ドキドキしながら試しているわけである。
つまり、あれは「多次元時空」に気付いているからこその、それも実に「危険」な実験なのである。
地球の時空間スクリーンに「穴」を開けられるか?そこから別次元が見えるか?という実験だ。
しかしながら、時空間スクリーンに「穴」を開ければ、向う側が見えたとしても、こちらのスクリーン自体が、つまりこの時空自体がひび割れて、崩壊してしまう危険性もあるということだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/9c/dacbb16de0a62760d8670b778cf0c10f.jpg)
なるほど、ここにも究極の唯物論的世界観の飽和と崩壊が見てとれる。
行き着くところまで行った、人間不在の物質的世界観・・の、その崩壊を見てとれるのである。
・・・
●世界は意識の中に現れている
多次元大宇宙に、その物質現象として、小さな人間がいる・・としている観点。
つまりこの小さな肉体が人間だという観点にほかならない。
何cm、何kgという物理的大きさによる自己存在規定であるが、
世界というもの、それを認識する側の人間の「意識」に気付いていない。
観察者不在の・・観察対象などあり得るはずもないではないか。
観察する行為がなければ、観察物は存在していないも同然である。
「意識」しなければ、何事も「顕れ」ようがないのだ。
あなたも人生において、これを会得したはずである・・・。
あるいは、得たのは自分以外認めないところの、
その時だけの儚い自己の地位や名誉や、財産だろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/77/53972f66a1a069020f5807845ce04b8a.jpg)
●観なければ現れない
そこに花瓶があって、花が活けられていたとしても、
誰もそれを観ることがなければ、それが存在していることを誰が証明するのか?
誰も観ていないものを、一体全体だれがその存在の証をたてるのだ?
いいや、永遠に存在していないままなのである。
在るのに気づいていない・・のではなくて、存在していないのだ!
意識で・・気づかなければ・・・何も出現しない。
つまり、人は皆色々なものの存在を与える者、つまり創造主の端くれなのである。
極めて身近で単純で、当たり前なのだが、ここに気付いていない人々が多いのである。
人が気付いて、観察し、認識をしなければ、何事も存在しないという事実である。
例えば、色々な常識ならざる奇跡なども、観ることで現象化するという原理原則から来ている。
スプーン曲げも明確なイメージと確信による現象化だし、
ラッキーな出会いや遭遇なども、その要因が意識の中にあるからである。
したがって、何に気付いているか、何を想っているか・・常に注意が必要でもある。
だから、<自己観察>が極めて重要なのはそれが理由である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/2c/49b2b4b76190e81b517383726ff93004.jpg)
・・・
そう、あなたがいなければ、あなたの世界はないように、
人間がいなければ、あーだ・こうだという世界は現れない・・!
主人公は、外の世界やそこで動き回る物ではなく、
それを観察しつつ世界を描き出している、それぞれの「あなた」なのだということだ。
決してスピリチュアルな気休めでもなく、これが厳然とした「事実」である!
これはXYZ、tの4次元を含み、それを越えている言わば五次元認識だ。
今までも、そうであったのだが、気づいて認識せねば、それが現れないという原理。
こころを度外視して、物理現象のみが追究するに値する客観的な事象だという・・
誤った3次元的世界「認識」は、もう不要である。
●旧世界文明は終っている
なるほど、今までは、この事実に気付かされる事のないように、
様々な便利で快適な文明の利器で誤魔化されて来たとも言えるかもしれない。
しかしながら、これ以上に便利な利器は出てきそうもない現実にも気づけるだろう。
手で操作する万能端末、スマホの普及の後には、それを頭に埋め込むのだろうか?
それは人間が次元をさらに下る行為であり、そもそも、人間にこれ以下の次元などありはしないではないか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/a8/e8bb5f50069c3a11ff56d787d8c1476a.jpg)
量子物理で発見された「観察者効果」は、あまり支配や利益に好都合ではないようで、
あくまでもCERNや核兵器等というような。より威力を求める方向に行っているようだが、
そちらの旧次元認識は、やがて崩壊してゆく定めにあり、
それらに惑わされない様にしなければならないはずである。
・・・
●わたしとは何か
わたしとは、わたしの世界の原点であり、
それは見はるかす限りの、聞こえる限りの、
知覚する限りの世界の「原点」なのである。
原点無くして座標軸、世界は生まれず、
その知覚する行為そのものによって、世界が生じているのである。
世界がまず先にあって、そこに私が偶然に転びこんだものではない・・のだ。
多次元世界であろうと、すべては全包容意識の投影するものであり、
その意識の中の、ひとつの意識である「わたし」が観ているのが、
それを観察して、在らしめているのが、この世界そして宇宙である。
意識的に、観ることでそれを在らしめている。
どう在るかは・・・、どう観じているか・・ということだ。
●正しく観る
古来からの仏教では「正見」といっている。
正しく見る、とは・・・自己の内面を、迷いなく観察する行為である。
収入の上げ下げや、他人様の顔色や、世界の混乱のことよりも、
それらすべてを観ているわたし・・・自己内面の観察なのである。
観察が正しくあるべきとされている・・、
なぜならば、人の諸行・現象は、その存在の内面の投影像であるからだ。
外の世界とみえるものは、内であり、内と観えるものが外として展開する。
意識~意図~想い~エネルギー・現象化・・であり、
それぞれの世界は・・・「意識」という、それぞれの「わたしの内面」の観察行為によって、
それぞれの・・わたしの世界に描き出されるものであり、
それは神なる根源が、あらゆる全てを展開している有様と同じなのだ。
一は多であり、多は・・すなわち、ひとつである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/a8/e8bb5f50069c3a11ff56d787d8c1476a.jpg)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。