気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か(9)時空を超えた観照者

2015-10-25 06:03:35 | 新たなる地平線
●3次元時空とはなにか
例えば、DVDビデオを再生プレーやにかけると、スクリーンに映像画面が現れ。
その中で様々な人物や時代、土地、歴史の物語を観ることが出来るように、

我々の世界も実際それと似たような構成と言えるわけで、この世は幻想だとかホログラムだとか言われる所以である。

しかしながら、この世界は、いわゆる「次元」という存在ファクターが2次元平面ではなく、つまり、TVスクリーンのような2次元画面ではなく、それは3次元的なものであり、

立体的な感覚つまり「空間」と、その中のエネルギー:物質、それらの変化の持続つまり「時間」を認識することが出来るものだ。

●現代科学ではこの世は4次元
簡単に言えば、我々は・・・
XYZという3次元空間の中の、様々な物質形態の運動・変化を観察しているわけだ。

太陽があり、月が運行し、風が落ち葉を舞い上げ、川が流れ、
人々が往来し、鳥が空を飛んでいる・・、

我々は、そういう3次元的な時空の中の、様々な変化を観ているということだ。

そして、様ざまな変化の履歴・記憶が「時間」と呼ばれるものであり、

それらが4次元時空と呼ばれる我々のこの世界ということになる。

これは物理学的な常識であって、突飛な思いつきではない。




・・・
●時空はそれを観るための「スクリーン」でしかない
しかしながら、ここで肝心なのは、その時空間が出来ている、

物理的な背景をどうしたこうしたと追求している・・その以前に、

それを認識している「人間」がいなければならないはずだ・・ということ。

人間は、それを「意識する」「観察する」ことが出来る存在という意味だ。

●意識不在の欧米型科学の終焉
結局欧米流の科学技術は、外側のスクリーンの動き方ばかりを探究しているわけで、

究極のヒッグス粒子やら、CERNの極大化されたエネルギー場での時空の挙動、ブラックホールが出来るか等、ドキドキしながら試しているわけである。

つまり、あれは「多次元時空」に気付いているからこその、それも実に「危険」な実験なのである。

地球の時空間スクリーンに「穴」を開けられるか?そこから別次元が見えるか?という実験だ。

しかしながら、時空間スクリーンに「穴」を開ければ、向う側が見えたとしても、こちらのスクリーン自体が、つまりこの時空自体がひび割れて、崩壊してしまう危険性もあるということだ。



なるほど、ここにも究極の唯物論的世界観の飽和と崩壊が見てとれる。

行き着くところまで行った、人間不在の物質的世界観・・の、その崩壊を見てとれるのである。

・・・
●世界は意識の中に現れている
多次元大宇宙に、その物質現象として、小さな人間がいる・・としている観点。

つまりこの小さな肉体が人間だという観点にほかならない。

何cm、何kgという物理的大きさによる自己存在規定であるが、

世界というもの、それを認識する側の人間の「意識」に気付いていない。

観察者不在の・・観察対象などあり得るはずもないではないか。

観察する行為がなければ、観察物は存在していないも同然である。


「意識」しなければ、何事も「顕れ」ようがないのだ。

あなたも人生において、これを会得したはずである・・・。

あるいは、得たのは自分以外認めないところの、

その時だけの儚い自己の地位や名誉や、財産だろうか。




●観なければ現れない
そこに花瓶があって、花が活けられていたとしても、

誰もそれを観ることがなければ、それが存在していることを誰が証明するのか?

誰も観ていないものを、一体全体だれがその存在の証をたてるのだ?

いいや、永遠に存在していないままなのである。

在るのに気づいていない・・のではなくて、存在していないのだ!

意識で・・気づかなければ・・・何も出現しない。

つまり、人は皆色々なものの存在を与える者、つまり創造主の端くれなのである。

極めて身近で単純で、当たり前なのだが、ここに気付いていない人々が多いのである。

人が気付いて、観察し、認識をしなければ、何事も存在しないという事実である。

例えば、色々な常識ならざる奇跡なども、観ることで現象化するという原理原則から来ている。

スプーン曲げも明確なイメージと確信による現象化だし、

ラッキーな出会いや遭遇なども、その要因が意識の中にあるからである。

したがって、何に気付いているか、何を想っているか・・常に注意が必要でもある。

だから、<自己観察>が極めて重要なのはそれが理由である。



・・・

そう、あなたがいなければ、あなたの世界はないように、

人間がいなければ、あーだ・こうだという世界は現れない・・!

主人公は、外の世界やそこで動き回る物ではなく、

それを観察しつつ世界を描き出している、それぞれの「あなた」なのだということだ。

決してスピリチュアルな気休めでもなく、これが厳然とした「事実」である!

これはXYZ、tの4次元を含み、それを越えている言わば五次元認識だ。

今までも、そうであったのだが、気づいて認識せねば、それが現れないという原理。

こころを度外視して、物理現象のみが追究するに値する客観的な事象だという・・

誤った3次元的世界「認識」は、もう不要である。


●旧世界文明は終っている

なるほど、今までは、この事実に気付かされる事のないように、

様々な便利で快適な文明の利器で誤魔化されて来たとも言えるかもしれない。

しかしながら、これ以上に便利な利器は出てきそうもない現実にも気づけるだろう。

手で操作する万能端末、スマホの普及の後には、それを頭に埋め込むのだろうか?

それは人間が次元をさらに下る行為であり、そもそも、人間にこれ以下の次元などありはしないではないか。




量子物理で発見された「観察者効果」は、あまり支配や利益に好都合ではないようで、

あくまでもCERNや核兵器等というような。より威力を求める方向に行っているようだが、

そちらの旧次元認識は、やがて崩壊してゆく定めにあり、

それらに惑わされない様にしなければならないはずである。

・・・
●わたしとは何か
わたしとは、わたしの世界の原点であり、

それは見はるかす限りの、聞こえる限りの、

知覚する限りの世界の「原点」なのである。


原点無くして座標軸、世界は生まれず、

その知覚する行為そのものによって、世界が生じているのである。

世界がまず先にあって、そこに私が偶然に転びこんだものではない・・のだ。


多次元世界であろうと、すべては全包容意識の投影するものであり、

その意識の中の、ひとつの意識である「わたし」が観ているのが、

それを観察して、在らしめているのが、この世界そして宇宙である。

意識的に、観ることでそれを在らしめている。

どう在るかは・・・、どう観じているか・・ということだ。

●正しく観る

古来からの仏教では「正見」といっている。

正しく見る、とは・・・自己の内面を、迷いなく観察する行為である

収入の上げ下げや、他人様の顔色や、世界の混乱のことよりも、

それらすべてを観ているわたし・・・自己内面の観察なのである。


観察が正しくあるべきとされている・・、

なぜならば、人の諸行・現象は、その存在の内面の投影像であるからだ。

外の世界とみえるものは、内であり、内と観えるものが外として展開する。

意識~意図~想い~エネルギー・現象化・・であり、

それぞれの世界は・・・「意識」という、それぞれの「わたしの内面」の観察行為によって、

それぞれの・・わたしの世界に描き出されるものであり、

それは神なる根源が、あらゆる全てを展開している有様と同じなのだ。

一は多であり、多は・・すなわち、ひとつである。







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今起きていること(19)地球人の輝き

2015-10-20 17:46:16 | 地球の一大変容
めったに他を拝借しないけれども、つむじ風さんのブログサイトに感動する記事があったので、ここに勝手ながら拝借掲示する。

地球に生きている人の輝き

出来れば、頭でさーっと通り過ぎず、ゆっくりと今を感じて頂ければと思う。

この世界で醸し出された同朋の、苦楽を通り越した、その人生の輝きでもある。





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今起きていること(18)マトリクス崩壊と次元転移

2015-10-17 09:07:55 | 地球の一大変容
出来得れば、この世界に次元降下して人間として実体化している多くの人々が、

自分が肉体でしかない・・という自縛観念を外すことが望まれる。


わたしは死んだら終わり何もない、一時の偶然の産物でしかないという、漠然とした信念であるならば、

I AM THAT I am.

<わたしは・・わたしである・・ところのものである>という意識原理によって、

つまり、自らを自らでイメージして「自己創造」するという自己認識原理によって、

多次元宇宙における完全な魂の進化プロセスによって「次元間転移」が行われ、

「死んだら終わり・・何もない」という支配観念の世界、

小さく低い認識レベルの世界に、再び生まれ変わることになる。

それは魂の成長に好適な・・、ある時代の、ある地域の、ある環境への下生ということ。


この地球のこの次元に何度も生まれてくるのはそういう理由だ。

どういう意味でも、「自らが望み、選択して」来ているのだし、

決して誰かの強制でも指図でもない。

いつも、それぞれの・・<わたし>・・意識・・が決めるのだ。



「おいおい、もう良いだろう、お腹いっぱいだよ・・」という人もいるはずで、

確かに、過ぎたるは、及ばざるがごとしということもあり、

実際そういう見極めは、・・・魂で既に行っているのである。



多次元での生まれ変わりも、魂の自己創造と言える。

誰も皆、幾多の人生で、その都度「自分を創り」そして演じている。

不都合とか好き嫌いとか、全く苦労でとんでもないとか、

その都度の表面意識の想いはいかようであっても、

輪廻転生での、様々な時代や環境によって、魂は様々な「人格を創る」ものだ。

前世の記憶とも呼ばれるそれ、

そしてそれは、常に「今」の瞬間の記憶の中にある。

そう、我々に在るのは・・常に・・今である。

本来は、時間も空間も魂・意識にとっては、実在などしておらず、遊び道具のようなものなのだ。


そうではないか。


多次元での生まれ変わりも、魂の自己創造と言える。

誰も皆、幾多の人生で、その都度「自分を創り」そして演じている。

そうであればこそ、この地球さえも生まれ変わりを行なうということが、理解できるだろう。

地球も巨大で壮大ではあるが「意識生命体」であり、人間と同じように生まれ変わり、次元相転移を行なうのである。

地球が単なる土の塊だという観念は、まさに人間が単なる有機物であるとするのと同じ観念、
低い次元に固縛、固定するマトリクス観念なのである。

・・

しかしながら、どこか実に腹立たしいことは、

今の退化した社会や世界に流布され、定着されている社会通念があまりにも唯物的であり、

目先の物質環境以外、自己の何たるか・・に気づいていない意識生命体が多く、

まるで無意識の子供のままで、毎回毎回、外の世界という幻想の波間に人生を流されていたということであろうか。

いや、しかしながら、そういう無意識的「わたし」から、意識的「わたし」に移行する、

その魂の「目覚めのプロセス」を、

非常に粗野な精神の集団や、虚栄と無知の蔓延る集合世界のなかで行うという、

そういう実に、あり得ない、有り難い経験が出来たことは、

あなたやわたしたちにとって、実に得難い学びであったのである。

これをご覧の方々も、堪え難きを・・耐え・・忍び難きを・・忍び、

ここで実に素晴らしい進化をされたのだ。

とはいえ、体の成長ではなく、魂の成長である。

実に・・オー、マイゴッド!と言うほかない。


今までのそれは、いわゆるこの3次元マトリクス世界の在り方であったと言えよう。

しかし、今までのそういう地球という「魂の学校」も変化や進化の流れにあり、

言わば、人間知では測れない、壮大な宇宙レベルのプログラムによって、

今・・造り替えが起きている。

地球も生まれ変わりたいと望み、それが行われているのが今・・とも言えるだろう。

様々な地上や周囲環境の異変の顕在化は、よく陣痛とも言われるもので、

いままで、そしてこれからという時間感覚の中で起きている事はそれだ。


時空のあらゆるものが、ゆっくりから次第に加速され、

これ以上は・・という、時間感覚が一瞬ゼロになったような時点を通って、

あらゆるものがグレンと刷新・転換されるその中で、


魂達が、いまだ我を忘れた状態で、その肉体自我だけを死守すべく、

右往左往することがあるならば、実際問題それは、実に面白くないはずだ。

人それぞれだから、自由でいいよ・・とはよく言われることだが、

地球という回り舞台が大回転するその時期に、

例えば、在籍する学校が造り替えられるその時には、

そういうことは言ってられないわけで、

知った人、目覚めた人からその準備をするはずだろう。



古い学校のシステムから自らを外さなければならず、

例えの話、卒業するか一時帰休するかということになるだろう。

頑として気付かず知らずの魂達は、何が一体起きたかもわからぬ間に、

急激な建て替えの時空の流れに流されることもあるということに・・・

気付かず知らずながら・・、いや、潜在意識的にでも気付いているかもしれない。


卒業問題、人間とは何か、わたしとは何か、それが問われているのだ。

我々は本来の全体であるわたしへの帰還の道、魂の大道を歩いている。

いつまでも、自己中、偶然、漠然、言われるがまま、好きだ嫌いだ、この野郎!・・逆らうやつは殺せ、支配せよ・・富を生めよ増やせよ・・・、

そんな3次元的でシリアスなお遊戯から卒業すべき時が来たのである。


今世界では、ここでその体験をしたいという霊的幼児たちの、最後の駆け込み需要によって、

本邦最終回の大騒ぎ、今世界での騒乱の渦が急激に起きて来ているのだが、

どういう形であれ、古い役目の創造物は、陽電子と陰電子のように、対消滅で空(くう)に消えてゆくのだろう。

現状のままの流れならば・・・、古い世界は直線時間感覚で、あと5年も持つかどうか・・。

そういう稀有なステージに遭遇して、俺が、私が、銭・金・物が・・が有効であるはずもない。

それらすべてを超えているところの<自己>を思い出すこと以外は・・・。






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わたしとは何か (7)人間本来無一物

2015-10-12 07:18:54 | 日記
人間は意識(魂)、こころ、肉体で構成されている。


「肉体」は何かといえば、それはまさしく地球の素材で造られている。

その地球の素材を組み上げるのが、いわゆるDNAという「設計図」と言えよう。

その設計図が偶然にランダムに出来てしまった・・ものだ等という愚かな科学徒がいるが、

それは「宇宙」の意識や意図を、受け入れたくない者たちの苦し紛れの粉飾であろう。

またそれに簡単に騙される、いわゆる一般大衆も、それに変わりはない。


微細に、念入りに設計された生物種のDNA、言わば「設計図」が、

偶然に、勝手に出来る訳が・・・ない・・!ではないか。

「肉体」は何かといえば、それはまさしく地球の素材で造られている。

気付くべきは、肉体も、実際あなたの所有物等ではない・・ということだ。




人間は、息をして、飯を食べて、老廃物を排出して生きているが、

そのプロセス自体も、わたしたちは関与していない・・、ほとんど自動である。

地球という時空間での、地球内システムによって生存・維持出来ているのだ。


あなたの人体は、あなたが生かしているわけではない。

わたしの人体は、わたしの手でこねて作った物ではない。

あなたの子供も、あなたが造ったわけではないのだ。


地上全ての生命は、この地球の生態系システムによって働いている。

人間がやることは、ほんの少しだけ・・、

生命を生み出すトリガーとしての性行為や、

お腹にいれる食物の確保くらいのものである。

ああ、たったそれだけのことなのだ。



人体のごく一部の随意筋のみが、かろうじて、「わたし」たちの動かせるものである。

その随意筋で手を動かし、足で歩き回ることができる為に、

あたかも自分が「個別の肉体である」・・という錯覚をもたらすのである。


そして人体に備え付けられた五感感覚、見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れるという、

皮膚表面でのセンシング機能によって、「外界」と「自分」という感覚が生まれてくる。

皮膚表面以内が「自分」で、その外側が「世界」・・という感覚だ。

そうではないか?



・・・
しかしながら、

50兆とも言われる自分の人体の細胞が、つねに完璧に働いている姿さえ、

あなたは見たことも聞いたこともないだろう。

50兆の細胞を構成する様々な「分子」、そしてその構成要素である「原子」が、

どのように連結し働いているのかさえ、全く気付いていない。


わたしたちは、肉体のほんのごくごく一部のみを知っているに過ぎないのに、

わたしが肉体である・・という信念があるとは、

これは一体全体?・・何なのだろうか。

またぞろ、西洋科学に騙されているのか? あるいは無知のままだからなのか?


自分が、それについてほとんど知らない、

その肉体のことを「自分」である・・と断定しているのであるが、

それは、みんながそう「思って」いる・・らしい・・からだ。

そうではないか?
・・・

自分は単に肉体である・・・等という世間的観念が、

どれほどの誤解であるか、理解可能だろうか。


土地や財産も当然ながら誰の所有でもなく、

わたしたちの人体さえも・・、

この地球という生命体、意識体の提供しているものであり、

わたしたちの所有物等ではないのである。


肉体も、自分自身などではなく、時空からの拝借物ということだ。

俺の物だ、儂の所有だ、おれが!、私が!・~・・ほど、お馬鹿なことはない。

「こっ、この野郎!」 も面白いけれども、もう十分だと感じないか。

もう、そういう世界は終わらせようか。


いや、それは他人事ではなく、外の世界の捻じ曲げでもなく、

わたしたちと、わたしたちの知覚できる周囲の時空間から変えてゆくということなのだ。


自らの思い、想念、そして言葉、表現、行為の数々が、

それぞれの「時空」を作り出して、共感共鳴によって、相互の共通世界が出来ている。

肉体とはその学びのための、無条件な拝借物なのだ。


さらに、今の時期は生命サイクル上でも稀有な時期であり、

時空のベース周波数ともいえるものが、より高い振動帯域に移行している。

それは、人の意識が共振できる帯域が、より繊細になってきたとも言えるだろう。

今までにない、世界の様々な異変はそれが原因で起きてきているわけだし、

そのベースバンド周波数に同調しない、旧来の低周波なものは、必然的に消えてゆくことにもなるだろう。


一段進化せる世界とは、

宇宙・大自然のあらゆるものが支え、支えられていることを、

知っている人達の住まう世界であり、そこでは、

生かされていることに、ただ、ただ有難う・・が、基本にある。


調べればわかると思うのだが、

実際に、江戸時代までは、無意識的要素が強いものの、

日本にはそれに近い文化があったのである。






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わたしとはなにか (6)在りて在るもの

2015-10-04 10:45:41 | 新たなる地平線
あなたは何か?

人間とは何か?

このテーマに関して、人がどう思っているのか、理解しているのか、

実に、極めて重要な、魂への問いかけ、「魂」のこなすべき問題集のようなものであり、

これこそが何をおいても理解・感得すべき、人生の最大のテーマ・問題である。


この世界で生きている為の諸物も、ままよそれなりに必要ではあるが、

今はもう、それは主ではなく、何のためのこの世の生活なのか、

そして、

真の現実・・・今・・生きて在る・・わたしとは何か、という問いかけが喫緊のテーマなのだ。

これこそが、真の現実というものだ。



先進的な予感とはいえ、アメリカがロシアが、どうしたこうした、世界戦争への序曲だとか、超管理世界が出てくるとか云々、不都合極まりない流れの加速、それは

一気に外に出てくる人類意識の蓄積された歪の、

その一大崩壊現象にすぎす、

そう、それは単なる、爆発して砕けちる、3次元世界での打ち上げ花火の、

その光陰で出来た枝葉でしかない。


だから・・・それがどうしたのだ。

在るがまま・・には、恐怖も期待もない。

そうだろう。


意識を真に・・向けるべきは、・・・それぞれの「わたし」にある!


「わたしは誰? どこから来て、どこに行くの?」

そういう問いがあるとすれば、それ、そこに既に答えがあるではないか。


<わたし>は・・

誰でもなく、魂、意識と呼ばれる。

時間とか空間とか、何時、どこからどこへという事象を、

超えた存在であるというのが、その1つの「答え」。


偉くもなく、卑しくもなく、

何にでも自己投影して人格を演じることのできる、

男や女、人種や時代、あるいは地球に限らぬ多世界に出没する、

神の個別投影像、

本来は、何者でもない・・者とでも言えよう。

それを言うならば、

わたしは・・わたしである・・」なのだ。

I am THAT I am

理解可能であれば、実に御目出度いことなのだ。

「おめでたい」意味が違う事に気付けるだろうか。

・・・

問いを発することの中に、既に答えが含まれている・・

だから、問いかけは、既にある答えを感じるように意識を向けることなのだ。

・・・
文明世界は今まで、自然の汚染とセットになった物量で溢れてきたものの、

ここにいる多くの魂が、自らを問わず語らずの状態、無知と闇の中にいたようなもの。

難しい表現をすれば、

現在社会は、この世界での魂の経験と英知を見出すための霊的努力、

肝心なことへの、問いと答えの生活の間に、

様々な価値観念、概念、情報、主義主張を挿入して時間を遅らせ、

そのエネルギーを使って物質文明を興してきたともいえる。

しかし、そうした物質オンリーでの便利さは、すなわち幸福ではなかった・・ということだ。




それぞれが、気付くか気づかないかは別として、

事ここに及び、誰も幸せを感じないような文明となっていることを、

多くの人々がわかっているからには、例えすぐに消え去っても誰も後悔する必要もない。

そうだろう?

気付いている人も、どこか未だ執着や未練、恐怖があるのであれば、

こころの中を残された時間を使って精査すべきと思われる。

何に執着しているか?、何が怖いのか?

何が幸せなのか?

勇気を出して、世界や他人でなく・・自分のこころの中を見詰め、調べるのだ。


外の世界の、何か意味ありそうで何もない、消費と快楽だけのお祭り騒ぎは、

もうすぐ、ゴミや枯葉の散在する場所、祭りの後の廃墟となってしまうだろう。

これは、今までの人類歴史の、必然ではなかったか。

・・・

わたしは、個人我としての「私」ではなく、

時間空間を超えた様式で、

無数の「私」となって自己表現、想像、創造を楽しんでいる・・根源のことだ。

もと・・ひとつ、これがあらゆるところに、ときに現れていることである。

例えば、生まれ変わりを理解することは、それがその様式のことだとわかるだろう。

地球という次元世界に限らず、過去生は様々あり、来世も様々あるだろう。

なぜならば、すべての元にある・・永遠の・・今・・があるからだ。

今・・在ることを出来るだけ、意識的に感じること、

これが魂の・・常在の意識的実践課題なのである。

「今でしょ!」という言葉が、「今が買い時、加入時」等と言う宣伝に使われてしまっているが、

「今」とは、空虚な時間軸のゼロ点、ではなく、

意識体としての<わたし>が・・・在る・・事実のこと・・

今とは・・それなのだ。

人生で、何はなくとも、今我あり、いつでもどこでも「わたし」が在った。

そうだろう。

何が有っても、無くても・・在るのが・・・今・・わたしである。


神意識・・・とは、全てを観ているそれであり、

人にあっては「わたし」意識となって投影されている。



今までの地球では、生まれ変わり・死に変わりの・・間の記憶が断絶するほど、

わたしが個々人の「私」としての意識であったのだが、

アセンション・次元上昇という名の魂の卒業イベントによって、

次なる魂の表現型、さらに大きい「わたし」の表現型へのステップが行われる。

それが今だ。

・・

個人としてのわたしは、実に無数にある。

個人としてのあなたも、実に無数にあるのだ。

そのすべての共通点は、何かと言えば・・「わたし」という意識、

時間空間を超えた「わたし」意識、

在りて・在るもの・・・である。


例えば、それがかつてモーゼの出会った者、旧約で記録されている者。

すべては、ひとつの根源・わたし・意識が、無数に展開している。

全ての中の、たった一つのものであっても、

それは一つという形で現れている、全部の「ひとつ」なのである。

あらゆる事象・事物はそれなのだ。

一は多なり、

色は空(くう)なり、空(くう)は色なり。

今、この時期には、長年のいや長い転生での様々な感情の歪が噴出しているのだ。

それを静かに観てとり、それを感謝の念とともに、空(くう)に返還すべき時なのである。

個々も、国も、世界も、そして巨大なる地球生命圏もそうだ。


こころすべきは、・・・そう、

慟哭や思い入れや、胸の感情の爆発があってもいい・・、

追いすがることなく、執着もすることなく、

それを解放(ときはな)すことなのだ。


今こそ、解き放つべし・・・!






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。