人間は、肉体、こころ、魂の「多次元複合体」と言って良い。
今までは、「人間が単なる肉体である」という、意識を低次元に固定する「観念」によって、
人々の集合せる世界が、いわゆる3次元的世界を映しだしていた。
つまりマインド、観念、認識によって、そういう世界になっていたということだ。
正確には、なっていたのではなく、見えていたということだ。
ところで、人間の周りにある物質なるものの窮極を求め続けた量子物理学では、
その物質の存在のことを、大体次のように説明している。
物質の元になる素粒子は、もともと波動確率で存在しており、
それが量子場の観察者行為、観察意図によってその波動確率を崩壊させ、
観察可能な粒子形態へと自らを落とし込む。
・・・
簡単に言えば、目に見えない(観察していない)素粒子の波動が、
それを見ようとする<意図的行為>によって粒子性を帯びることで、
物質形態へと転移する(それが観察される)ということだ。
要は、意識的に観察するから・・現れる・・と言っているのだ。
あるから観察できる・・の逆、・・おー、なんてこったい!(笑)
例え観察するための機械が、高度な電子機器であろうが、それを操作し、
それを通じて最終的に・・あれがそれだ!と観測するのは、
機械でなく人の「意識」である。
機械が勝手に観測、感動なんかしない。
・・・
まず「意識」無くして、観測対象の「物質」は存在しないのである。
物質があって、意識がそこから生じている・・それが人間だ・・は嘘で・・、
全く逆の話であったということだ。
・・・
波動確率で存在している素粒子が、量子場の観察者行為、観察意図によって、
その波動を崩壊させて、観察可能な粒子形態へと自らを落とし込むように、
マクロの時空であっても、それが「真実だ!」という人間達の思い込みによって、
いわゆる現実なるものが現れてくる。
いや現れているように見える、・・つまり観察されることになる。
例えば、空気中に飛び交う様々な周波数帯域の電磁波なるものも、
その受信同調器によって波長を合わせなければ、映像や音声振動には変換出来ない。
つまり意図してチューニングしなければならない。
あるいはスプーン曲げのように、それが出来ると意図し、信じなければそんなことできるはずもない。
分析や疑念の少ない、素直に信じる子供達にスプーン曲げが起きやすいのは周知の事実だ。
なるほど、大人が創造的になるには、子供の心を取り戻す必要があるということだ。
電子、素粒子レベルでは「波動性」と「粒子性」を兼ね備えているといわれるのだが、
観察行為が無ければ粒子性など顕れようがない。
確率波動が崩壊して粒子になるには、観察者がいるのだ。
例えば、あなたが目の前の物を見ているということは、つまり観察行為に他ならない。
物が有るから・・見れると思っているだろうが、量子場からいえば、それはちと違う!
量子場での結論は、つまり誰か観察できる者が存在しなければ、
物質形態など存在しょうがないということなのである。
だから、あなたの今の・・意識の働きがあるからこそ・・・、
あなたの目の前の、何らかの物質も存在しているし、
空高く無限遠方に現前する宇宙も・・・存在している。
今までのように、まず物質宇宙があって、その物質の中から、
人間のような高度な意識が芽生えたとするのは、まったくの「見当違い」となる。
宇宙の中の塵のような、ちっぽけなかわいそうな人間・・という常識的見解も、
「意識」を全く無視した、物質人間という観念だけから来ているのだ。
唯物論者は 物質>意識・こころ と言いたいのだが、
実際は、百歩譲っても 意識・こころ≧物質なのだ。
物質科学を極めてゆく過程で、追い詰められた物質がびっくり仰天、とうとう・・・、
「旦那、いい加減になさいませな、そうではございませんよ、
あっし達は元々波動であって、あなたという観察者がいるからこそ、
粒子状に現れるものでござんす」 と言ったとか言わないとか。(笑)
つまるところ、仏教などで古くから言われているところの、
『唯心諸元』がまさしく正解であるということだ。
意識・こころ≧物質なのである。
ここに生きている間も、転生したとしても、また天界においても、それは変わらない。
上次元ならば、なおさらそうだ。
こころを度外視している機械文明の、空恐ろしき有様よ。
しかしながら、前世紀において、物質を追いまわした挙句の量子論の登場によって、
ようやく新たなる世界転換が始まったとも言えようか。
・・
欧米流の唯物論的追求によって判明した事実とは、
「その唯物論が間違っていた」という足元をすくわれた結果になり、
決して誰にも頭を下げない?伝統的な西洋科学者たちは、
今ではこの極めて重要な発見をなんとなく無視しているような感もある。
なるほど、無視しているというよりも、「物質」は「意識」の結果形だとなると、
「意識」を扱うべき・・になり、
それは旧態依然たる物質科学ではどうしようもないということなのである。
えーと何グラム? 何kmだっけ?では無理なのだ。
・・・
さらに、人々が観察者、ひいては創造者たるを自覚してしまえば、
物質機械文明での、富を持てる者による、飴とムチの支配ももう不可能になる。
「飴もムチもいらないよ、必要なものそんなにないし、全部自分達で創れるから・・」
こうなると、もう上を下への騒ぎとなるはずだが、未だ自覚をせざるに甘んじる人も多く、
多くの人が言い出すまでなかなか気付かぬことにもなるものだから、
古い信念体系と新しい信念体系が混ざって存在する期間が許されているようでもある。
今の崩壊・混乱期のような様相はそれを示すものだろう。
確率存在である素粒子の、その波動を崩壊させて粒子性を観測する者、
つまり意図することで、初めて物質形を顕現せしめるシステムの元である、
その意識ある人間が、どうして物質の後塵を拝すのか・・
「えー、ほんとに?・・もう、やってられない~!」となるだろう。
これは、旧態依然たる3次元的科学をもとにした、物質偏重文明は終わった・・ということでもある。
また、人間が物・銭・金のために奴隷のようにあくせくするような経済社会、
ローンや借金の為に貴重な人生さえも、銭金のやり取りだけに忙殺されるような社会も、
もうその妥当性、正当性を失ったということに等しい。
したがって、旧世界の世界・経済システムの崩壊は全く自然なことなのである。
言わば今の時期は、人類に、古い人と新たな神人の両方が混在し始めたかのようだ。
ここでの古い人間とは、今までの馴染みの物質主体の人であり、
また「神人」とは、意識的創造に参加する自覚を新たにした人だ。
どちらも創造者たりえる意識を有しているが、気付かないか・気付いているか、
たったこれだけなのだが、その意識の違いはある意味で次元の違いのようなもの。
そうだ、今は段差の大きい、極めてまれな過渡期にあることに気付くべきなのだ。
物質の奴隷に成り下がり、物質依存に馴れたまま、ゾロゾロ歩きながら一時期存続するか、
創造の参加者として、意識的意図の杖を使って、より創造的に生き始めるか、
まさに、その岐路にあるということではないか。
唯心諸元、
ただこころの働きこそが全ての元にあること、
つまり、それが真実だという人間達の、それが当然とする思いによって、
いわゆる現実なるものが現れてくる、観察されることになる。
例えば、体制側の今までの様々な宣伝、洗脳、情報の巧妙な偏向などは、
その思い込みを誘導する為のもので、ある部分だが支配側は昔からそれを知っている。
何故なら、想念・信念・・が事象を生起する元にあるからこそ、
それをコントロールせずして、支配など出来るわけもないのである。
ウソも繰り返して大勢が信じれば、それが真実になるという話はよく聞くだろうし、
それで人類の歴史があるとも言えるわけだ。
そうではないか?
・・・
量子場での観察行為による波動崩壊と粒子性の出現、
むつかし気な言い方なのであるが、
つまりは、人の意識の働きによって、人の現象世界、諸事象が現れてくるということ。
意識の働きとは、人間における「こころ」の働きに他ならない。
だから、我々は何をおいても、こころをまず観察しなければならないのだ。
なぜならば、意識の働き・意図や想いが事象や環境を決めてゆくのならば、
さらにそれ・・こころ・・・自体を観察し、フィードバックして再プログラムする必要があるわけだ。
多分人々の「こころの中」は、気付いてないだけで、
外側からのプログラムで相当に「汚されて」いるかもしれない。
「あー、やだ、何でいつもこうなの?」・・の場合は多分そうだ。
ロボットでなければ、ましてや意識存在のひとりとして、
不都合なプログラムはリセットし、自分で自分を再プログラムして当然だろう。
それは自分がやるしかないのは、どうあっても明らかなこと。
知識を探し回り、集めるだけではそれほどのことは無く、
分けのわからない事象に振り回される元である、
分けのわからない自分のこころ、それを見つめることの実践が、
「絶対に」必要と心得るべきであるし、その為の、
自己観想、想念観察、あるいは瞑想や自省という意識的行為は決して避けて通れない。
自己自身のこころの動きを・・自分で観ることで、
そこにあった歪(いびつ)な感情エネルギーを解消しなければならないわけだ。
なぜならば、それらが、それに相応しい体験へと押しやってゆくことになるからだ。
人生であっても、それを超えた先であっても、
「今の感情と想い」こそが、事象や体験へと導く「創造の翼」なのだと心得るべきであろう。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
今までは、「人間が単なる肉体である」という、意識を低次元に固定する「観念」によって、
人々の集合せる世界が、いわゆる3次元的世界を映しだしていた。
つまりマインド、観念、認識によって、そういう世界になっていたということだ。
正確には、なっていたのではなく、見えていたということだ。
ところで、人間の周りにある物質なるものの窮極を求め続けた量子物理学では、
その物質の存在のことを、大体次のように説明している。
物質の元になる素粒子は、もともと波動確率で存在しており、
それが量子場の観察者行為、観察意図によってその波動確率を崩壊させ、
観察可能な粒子形態へと自らを落とし込む。
・・・
簡単に言えば、目に見えない(観察していない)素粒子の波動が、
それを見ようとする<意図的行為>によって粒子性を帯びることで、
物質形態へと転移する(それが観察される)ということだ。
要は、意識的に観察するから・・現れる・・と言っているのだ。
あるから観察できる・・の逆、・・おー、なんてこったい!(笑)
例え観察するための機械が、高度な電子機器であろうが、それを操作し、
それを通じて最終的に・・あれがそれだ!と観測するのは、
機械でなく人の「意識」である。
機械が勝手に観測、感動なんかしない。
・・・
まず「意識」無くして、観測対象の「物質」は存在しないのである。
物質があって、意識がそこから生じている・・それが人間だ・・は嘘で・・、
全く逆の話であったということだ。
・・・
波動確率で存在している素粒子が、量子場の観察者行為、観察意図によって、
その波動を崩壊させて、観察可能な粒子形態へと自らを落とし込むように、
マクロの時空であっても、それが「真実だ!」という人間達の思い込みによって、
いわゆる現実なるものが現れてくる。
いや現れているように見える、・・つまり観察されることになる。
例えば、空気中に飛び交う様々な周波数帯域の電磁波なるものも、
その受信同調器によって波長を合わせなければ、映像や音声振動には変換出来ない。
つまり意図してチューニングしなければならない。
あるいはスプーン曲げのように、それが出来ると意図し、信じなければそんなことできるはずもない。
分析や疑念の少ない、素直に信じる子供達にスプーン曲げが起きやすいのは周知の事実だ。
なるほど、大人が創造的になるには、子供の心を取り戻す必要があるということだ。
電子、素粒子レベルでは「波動性」と「粒子性」を兼ね備えているといわれるのだが、
観察行為が無ければ粒子性など顕れようがない。
確率波動が崩壊して粒子になるには、観察者がいるのだ。
例えば、あなたが目の前の物を見ているということは、つまり観察行為に他ならない。
物が有るから・・見れると思っているだろうが、量子場からいえば、それはちと違う!
量子場での結論は、つまり誰か観察できる者が存在しなければ、
物質形態など存在しょうがないということなのである。
だから、あなたの今の・・意識の働きがあるからこそ・・・、
あなたの目の前の、何らかの物質も存在しているし、
空高く無限遠方に現前する宇宙も・・・存在している。
今までのように、まず物質宇宙があって、その物質の中から、
人間のような高度な意識が芽生えたとするのは、まったくの「見当違い」となる。
宇宙の中の塵のような、ちっぽけなかわいそうな人間・・という常識的見解も、
「意識」を全く無視した、物質人間という観念だけから来ているのだ。
唯物論者は 物質>意識・こころ と言いたいのだが、
実際は、百歩譲っても 意識・こころ≧物質なのだ。
物質科学を極めてゆく過程で、追い詰められた物質がびっくり仰天、とうとう・・・、
「旦那、いい加減になさいませな、そうではございませんよ、
あっし達は元々波動であって、あなたという観察者がいるからこそ、
粒子状に現れるものでござんす」 と言ったとか言わないとか。(笑)
つまるところ、仏教などで古くから言われているところの、
『唯心諸元』がまさしく正解であるということだ。
意識・こころ≧物質なのである。
ここに生きている間も、転生したとしても、また天界においても、それは変わらない。
上次元ならば、なおさらそうだ。
こころを度外視している機械文明の、空恐ろしき有様よ。
しかしながら、前世紀において、物質を追いまわした挙句の量子論の登場によって、
ようやく新たなる世界転換が始まったとも言えようか。
・・
欧米流の唯物論的追求によって判明した事実とは、
「その唯物論が間違っていた」という足元をすくわれた結果になり、
決して誰にも頭を下げない?伝統的な西洋科学者たちは、
今ではこの極めて重要な発見をなんとなく無視しているような感もある。
なるほど、無視しているというよりも、「物質」は「意識」の結果形だとなると、
「意識」を扱うべき・・になり、
それは旧態依然たる物質科学ではどうしようもないということなのである。
えーと何グラム? 何kmだっけ?では無理なのだ。
・・・
さらに、人々が観察者、ひいては創造者たるを自覚してしまえば、
物質機械文明での、富を持てる者による、飴とムチの支配ももう不可能になる。
「飴もムチもいらないよ、必要なものそんなにないし、全部自分達で創れるから・・」
こうなると、もう上を下への騒ぎとなるはずだが、未だ自覚をせざるに甘んじる人も多く、
多くの人が言い出すまでなかなか気付かぬことにもなるものだから、
古い信念体系と新しい信念体系が混ざって存在する期間が許されているようでもある。
今の崩壊・混乱期のような様相はそれを示すものだろう。
確率存在である素粒子の、その波動を崩壊させて粒子性を観測する者、
つまり意図することで、初めて物質形を顕現せしめるシステムの元である、
その意識ある人間が、どうして物質の後塵を拝すのか・・
「えー、ほんとに?・・もう、やってられない~!」となるだろう。
これは、旧態依然たる3次元的科学をもとにした、物質偏重文明は終わった・・ということでもある。
また、人間が物・銭・金のために奴隷のようにあくせくするような経済社会、
ローンや借金の為に貴重な人生さえも、銭金のやり取りだけに忙殺されるような社会も、
もうその妥当性、正当性を失ったということに等しい。
したがって、旧世界の世界・経済システムの崩壊は全く自然なことなのである。
言わば今の時期は、人類に、古い人と新たな神人の両方が混在し始めたかのようだ。
ここでの古い人間とは、今までの馴染みの物質主体の人であり、
また「神人」とは、意識的創造に参加する自覚を新たにした人だ。
どちらも創造者たりえる意識を有しているが、気付かないか・気付いているか、
たったこれだけなのだが、その意識の違いはある意味で次元の違いのようなもの。
そうだ、今は段差の大きい、極めてまれな過渡期にあることに気付くべきなのだ。
物質の奴隷に成り下がり、物質依存に馴れたまま、ゾロゾロ歩きながら一時期存続するか、
創造の参加者として、意識的意図の杖を使って、より創造的に生き始めるか、
まさに、その岐路にあるということではないか。
唯心諸元、
ただこころの働きこそが全ての元にあること、
つまり、それが真実だという人間達の、それが当然とする思いによって、
いわゆる現実なるものが現れてくる、観察されることになる。
例えば、体制側の今までの様々な宣伝、洗脳、情報の巧妙な偏向などは、
その思い込みを誘導する為のもので、ある部分だが支配側は昔からそれを知っている。
何故なら、想念・信念・・が事象を生起する元にあるからこそ、
それをコントロールせずして、支配など出来るわけもないのである。
ウソも繰り返して大勢が信じれば、それが真実になるという話はよく聞くだろうし、
それで人類の歴史があるとも言えるわけだ。
そうではないか?
・・・
量子場での観察行為による波動崩壊と粒子性の出現、
むつかし気な言い方なのであるが、
つまりは、人の意識の働きによって、人の現象世界、諸事象が現れてくるということ。
意識の働きとは、人間における「こころ」の働きに他ならない。
だから、我々は何をおいても、こころをまず観察しなければならないのだ。
なぜならば、意識の働き・意図や想いが事象や環境を決めてゆくのならば、
さらにそれ・・こころ・・・自体を観察し、フィードバックして再プログラムする必要があるわけだ。
多分人々の「こころの中」は、気付いてないだけで、
外側からのプログラムで相当に「汚されて」いるかもしれない。
「あー、やだ、何でいつもこうなの?」・・の場合は多分そうだ。
ロボットでなければ、ましてや意識存在のひとりとして、
不都合なプログラムはリセットし、自分で自分を再プログラムして当然だろう。
それは自分がやるしかないのは、どうあっても明らかなこと。
知識を探し回り、集めるだけではそれほどのことは無く、
分けのわからない事象に振り回される元である、
分けのわからない自分のこころ、それを見つめることの実践が、
「絶対に」必要と心得るべきであるし、その為の、
自己観想、想念観察、あるいは瞑想や自省という意識的行為は決して避けて通れない。
自己自身のこころの動きを・・自分で観ることで、
そこにあった歪(いびつ)な感情エネルギーを解消しなければならないわけだ。
なぜならば、それらが、それに相応しい体験へと押しやってゆくことになるからだ。
人生であっても、それを超えた先であっても、
「今の感情と想い」こそが、事象や体験へと導く「創造の翼」なのだと心得るべきであろう。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。