気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

あなたも創造者のひとり

2016-02-24 16:23:24 | 人間とは何か
人間は、肉体、こころ、魂の「多次元複合体」と言って良い。

今までは、「人間が単なる肉体である」という、意識を低次元に固定する「観念」によって、

人々の集合せる世界が、いわゆる3次元的世界を映しだしていた。

つまりマインド、観念、認識によって、そういう世界になっていたということだ。

正確には、なっていたのではなく、見えていたということだ。


ところで、人間の周りにある物質なるものの窮極を求め続けた量子物理学では、

その物質の存在のことを、大体次のように説明している。


物質の元になる素粒子は、もともと波動確率で存在しており、

それが量子場の観察者行為、観察意図によってその波動確率を崩壊させ、

観察可能な粒子形態へと自らを落とし込む。





・・・

簡単に言えば、目に見えない(観察していない)素粒子の波動が、

それを見ようとする<意図的行為>によって粒子性を帯びることで、

物質形態へと転移する(それが観察される)ということだ。

要は、意識的に観察するから・・現れる・・と言っているのだ。

あるから観察できる・・の逆、・・おー、なんてこったい!(笑)


例え観察するための機械が、高度な電子機器であろうが、それを操作し、

それを通じて最終的に・・あれがそれだ!と観測するのは、

機械でなく人の「意識」である。

機械が勝手に観測、感動なんかしない。

・・・

まず「意識」無くして、観測対象の「物質」は存在しないのである。

物質があって、意識がそこから生じている・・それが人間だ・・は嘘で・・、

全く逆の話であったということだ。

・・・
波動確率で存在している素粒子が、量子場の観察者行為、観察意図によって、

その波動を崩壊させて、観察可能な粒子形態へと自らを落とし込むように、

マクロの時空であっても、それが「真実だ!」という人間達の思い込みによって、

いわゆる現実なるものが現れてくる。

いや現れているように見える、・・つまり観察されることになる。


例えば、空気中に飛び交う様々な周波数帯域の電磁波なるものも、

その受信同調器によって波長を合わせなければ、映像や音声振動には変換出来ない。

つまり意図してチューニングしなければならない。

あるいはスプーン曲げのように、それが出来ると意図し、信じなければそんなことできるはずもない。

分析や疑念の少ない、素直に信じる子供達にスプーン曲げが起きやすいのは周知の事実だ。

なるほど、大人が創造的になるには、子供の心を取り戻す必要があるということだ。



電子、素粒子レベルでは「波動性」と「粒子性」を兼ね備えているといわれるのだが、

観察行為が無ければ粒子性など顕れようがない。

確率波動が崩壊して粒子になるには、観察者がいるのだ。

例えば、あなたが目の前の物を見ているということは、つまり観察行為に他ならない。

物が有るから・・見れると思っているだろうが、量子場からいえば、それはちと違う!


量子場での結論は、つまり誰か観察できる者が存在しなければ、

物質形態など存在しょうがないということなのである。

だから、あなたの今の・・意識の働きがあるからこそ・・・、

あなたの目の前の、何らかの物質も存在しているし、

空高く無限遠方に現前する宇宙も・・・存在している。

今までのように、まず物質宇宙があって、その物質の中から、

人間のような高度な意識が芽生えたとするのは、まったくの「見当違い」となる。


宇宙の中の塵のような、ちっぽけなかわいそうな人間・・という常識的見解も、

「意識」を全く無視した、物質人間という観念だけから来ているのだ。


唯物論者は 物質>意識・こころ と言いたいのだが、

実際は、百歩譲っても  意識・こころ≧物質なのだ。


物質科学を極めてゆく過程で、追い詰められた物質がびっくり仰天、とうとう・・・、

「旦那、いい加減になさいませな、そうではございませんよ、

あっし達は元々波動であって、あなたという観察者がいるからこそ、

粒子状に現れるものでござんす」 と言ったとか言わないとか。(笑)


つまるところ、仏教などで古くから言われているところの、

『唯心諸元』がまさしく正解であるということだ。

意識・こころ≧物質なのである。

ここに生きている間も、転生したとしても、また天界においても、それは変わらない。

上次元ならば、なおさらそうだ。

こころを度外視している機械文明の、空恐ろしき有様よ。

しかしながら、前世紀において、物質を追いまわした挙句の量子論の登場によって、

ようやく新たなる世界転換が始まったとも言えようか。

・・

欧米流の唯物論的追求によって判明した事実とは、

「その唯物論が間違っていた」という足元をすくわれた結果になり、

決して誰にも頭を下げない?伝統的な西洋科学者たちは、

今ではこの極めて重要な発見をなんとなく無視しているような感もある。

なるほど、無視しているというよりも、「物質」は「意識」の結果形だとなると、

「意識」を扱うべき・・になり、

それは旧態依然たる物質科学ではどうしようもないということなのである。

えーと何グラム? 何kmだっけ?では無理なのだ。
・・・

さらに、人々が観察者、ひいては創造者たるを自覚してしまえば、

物質機械文明での、富を持てる者による、飴とムチの支配ももう不可能になる。


「飴もムチもいらないよ、必要なものそんなにないし、全部自分達で創れるから・・」

こうなると、もう上を下への騒ぎとなるはずだが、未だ自覚をせざるに甘んじる人も多く、

多くの人が言い出すまでなかなか気付かぬことにもなるものだから、

古い信念体系と新しい信念体系が混ざって存在する期間が許されているようでもある。

今の崩壊・混乱期のような様相はそれを示すものだろう。



確率存在である素粒子の、その波動を崩壊させて粒子性を観測する者、

つまり意図することで、初めて物質形を顕現せしめるシステムの元である、

その意識ある人間が、どうして物質の後塵を拝すのか・・

「えー、ほんとに?・・もう、やってられない~!」となるだろう。

これは、旧態依然たる3次元的科学をもとにした、物質偏重文明は終わった・・ということでもある。

また、人間が物・銭・金のために奴隷のようにあくせくするような経済社会、

ローンや借金の為に貴重な人生さえも、銭金のやり取りだけに忙殺されるような社会も、

もうその妥当性、正当性を失ったということに等しい。

したがって、旧世界の世界・経済システムの崩壊は全く自然なことなのである。


言わば今の時期は、人類に、古い人と新たな神人の両方が混在し始めたかのようだ。

ここでの古い人間とは、今までの馴染みの物質主体の人であり、

また「神人」とは、意識的創造に参加する自覚を新たにした人だ。

どちらも創造者たりえる意識を有しているが、気付かないか・気付いているか、

たったこれだけなのだが、その意識の違いはある意味で次元の違いのようなもの。


そうだ、今は段差の大きい、極めてまれな過渡期にあることに気付くべきなのだ。


物質の奴隷に成り下がり、物質依存に馴れたまま、ゾロゾロ歩きながら一時期存続するか、

創造の参加者として、意識的意図の杖を使って、より創造的に生き始めるか、

まさに、その岐路にあるということではないか。




唯心諸元、

ただこころの働きこそが全ての元にあること、

つまり、それが真実だという人間達の、それが当然とする思いによって、

いわゆる現実なるものが現れてくる、観察されることになる。



例えば、体制側の今までの様々な宣伝、洗脳、情報の巧妙な偏向などは、

その思い込みを誘導する為のもので、ある部分だが支配側は昔からそれを知っている。

何故なら、想念・信念・・が事象を生起する元にあるからこそ、

それをコントロールせずして、支配など出来るわけもないのである。

ウソも繰り返して大勢が信じれば、それが真実になるという話はよく聞くだろうし、

それで人類の歴史があるとも言えるわけだ。

そうではないか?
・・・

量子場での観察行為による波動崩壊と粒子性の出現、

むつかし気な言い方なのであるが、

つまりは、人の意識の働きによって、人の現象世界、諸事象が現れてくるということ。

意識の働きとは、人間における「こころ」の働きに他ならない。

だから、我々は何をおいても、こころをまず観察しなければならないのだ。

なぜならば、意識の働き・意図や想いが事象や環境を決めてゆくのならば、

さらにそれ・・こころ・・・自体を観察し、フィードバックして再プログラムする必要があるわけだ。



多分人々の「こころの中」は、気付いてないだけで、

外側からのプログラムで相当に「汚されて」いるかもしれない。

「あー、やだ、何でいつもこうなの?」・・の場合は多分そうだ。

ロボットでなければ、ましてや意識存在のひとりとして、

不都合なプログラムはリセットし、自分で自分を再プログラムして当然だろう。

それは自分がやるしかないのは、どうあっても明らかなこと。

知識を探し回り、集めるだけではそれほどのことは無く、

分けのわからない事象に振り回される元である、

分けのわからない自分のこころ、それを見つめることの実践が、

「絶対に」必要と心得るべきであるし、その為の、

自己観想、想念観察、あるいは瞑想や自省という意識的行為は決して避けて通れない。


自己自身のこころの動きを・・自分で観ることで、

そこにあった歪(いびつ)な感情エネルギーを解消しなければならないわけだ。

なぜならば、それらが、それに相応しい体験へと押しやってゆくことになるからだ。

人生であっても、それを超えた先であっても、

「今の感情と想い」こそが、事象や体験へと導く「創造の翼」なのだと心得るべきであろう。







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霊的自我と肉体自我 その2

2016-02-13 10:15:00 | 人間とは何か
●記憶は活きた魂の英知
人間とは肉体を持っている「自意識」といえるだろうか。

そしてそれを「肉体自我」と呼ぶことにしよう。


肉体自我とは、ある人生、肉体経験で醸し出される「自己認識像」とも言えるもの。

その時々の肉体は、有限なる時間空間の中に出現し、そして時至れば消え去るものだが、

しかしながら、身体とこころで経験した「活きた記憶」は消えることはない。



肉体自我を通じ、様々な身体という現象世界との接触点で得られた「記憶」は、

壮大な「霊的自我」の一部となって、活きた記憶・英知として蓄積されるのだ。


それらは「霊的自我」の中で文字通り「活きている」のである。


●魂は肉体自我の英知の集合体
そう、霊的自我は、様々な人格自我の母体であり、また人格・記憶の集合体だ。

あなたの「本質」が、様々な世界で生まれ変わり、

様々な時代、土地、所という時空間で体験したこと、

人格として生きてきた記憶の「活きている」集合体・母体のことを、「霊的自我」と言って良いだろう。

記憶と言っても、無機的な過去の記録・・等では毛頭なく、

神が宇宙・自己創造において喜々として、

あるいは個々の魂を通して発見したことの「活きた記憶」である。

●存在世界は神のネットワーク
例えれば、霊的自我は他生に渡る、あらゆる生体験を記憶する巨大サーバーのようなもの。

その巨大サーバーも更に大きなサーバーシステムの部分である様に、

霊的自我、本質の「わたし」は、多次元世界、存在諸世界、多次元宇宙の全てを意識している、

根源なるひとつ、神なるそれに、確実に接続されている。

意識は、その霊的ネットワークという「大いなるわたし」の中を融通無碍に行き来することが出来るのである。

●生と死は、魂意識の次元間移行に過ぎない
この世の生とか死とは、「わたし意識」の、単にその次元移行を示すものである!

生まれるとは、霊的自我が、諸世界、諸体験世界に次元降下することであり、

死ぬとは、経験・体験・思索を通じて英知を培った肉体自我の次元上昇、


言わば、子である肉体自我が経験と英知というお土産をもって、

親である神なる中心に繋がる<霊的自我へ帰還すること>なのだ。


例えれば、学校に出向いた子供たちが、学びや遊びの1日を終わって、

家族の待つ家に帰るようなものである。

そういう魂の壮大なネットワーク、知っていただろうか?

死んだら終わりの単独別箇の肉体人間という観念は、地上最低の観念であること。


忘れないでほしいものである。

あなたも時空を超えた霊的自我、大いなるわたし・・から出向しているところの、

勇気ある不滅の魂なのだということを決して忘れないことである。



●刹那的物質偏重文明の大罪
出来事や事象の表層だけしか見えない現代機械文明では、

人間死んだら終わりだとか、相当に表層的で愚かな概念が世界にはびこっているが、

それは、あなたが学校に行って(生まれて)、

そこで過ごしている間に(生きている間に)、

学校に行った(生体験へ自己投入した)魂であることさえ忘れさせられ、

その日が終ったら(人生が終ったら)何処に帰っていいか、魂である自己を忘れて途方に暮れるようなものである。

●魂の家族は全て別バージョンのわたし
だから、地球の現文明のような、言わば低次元での(幼稚園のような)学び舎で体験している子供たち(魂)には、

次元移行の際に(いわゆる死の際に)、必ず「家」(霊的自我)から、その家族(霊的同朋)が出迎えに来る。

「アーよくやったね。お帰り!・・」みたいな。

出迎えの者たちは、言わば魂の親族あるいは「別バージョンのわたし」達である。

別バージョンの「わたし達」が、世界に出向し成長した肉体自我の「わたし」を迎えに来るということだ。

死の際に、親愛なるガイドや導き手が現れるのは、臨死体験者の共通する経験である。

●I AM(われ在り)だからこその輪廻
しかしながら、幼き段階の肉体自我、言うならば霊的幼児と言えども、「意識・意図」を有するものであり、

I AM THAT・・ 「わたしは・・である」・・という、

自己認識力による創造は有効であり、

それが、あまりにも唯物観念や不信の観念、エゴの観念で固まった者たちの場合、

そのエゴ自我の主張、低位の信念で身動き取れない場合は、

学び舎の周囲に留まってしまうこともある。それが選択した意図ということだ。

「自己が何者か」皆目わからず、サバイバルやエゴの観念で固まっている場合、

自分が単なる物質・肉体であるという頑なな想念波動で終始している場合、

本来の高次元の霊的自我への帰還がままならず、中間次元にとどまってしまうわけだ。

それはまるで探査船が中間起動で周回しながら立ち往生しているようなもの。


●学びが多く過酷だからこその繰り返し学習
今までのような、無知や不信、バトルやサバイバルが主なるテーマの世界から帰還する場合、つまり、

その生体験で受けた波動をまともに取り込み、浄化と英知への昇華を忘れたまま死に臨むならば、

その肉体自我の振動が低いまま、波動が粗いまま帰還をしようとすることになり、

そのままでは霊的自我への直の帰還がかなわず、霊的ガイドやヘルパーの導きを受けつつ、

帰還途中で留まって、好適な人生の可能性が起きた時点で、

再度地上世界へと降下して人生を繰り返し、

それを通じて本来の輝きを取り戻すまで転生を続けることになる。

それが輪廻転生といわれるもの。

なんという過酷な修業!そして、なんという雄々しい英知体験だろうか。


●体験・経験は、信念・想念での同調現象
いわゆる四次元だとか、中間世界だとか、低位の幽界だとかそういう風に言われている世界が地球の周囲次元、あるいは周辺周波数帯域の有るとされる。

ヘミシンクでは、フォーカスレベルと言われ、フォーカス21~26の意識世界がそれ、

そこには様々な信念体系世界がある(いや、かつてあった)と言われている。

宗教信念で固まった観念世界、闘いで明け暮れる観念世界、支配や差別の観念世界、・・

それらは「主たる観念」信念となった様々な想念の描き出す観念世界であり、

活きていた人間の自己認識作用、「想念」、「信念」の同調によって引き付けられる世界だ。

もっとも、肉体を通じて体験しているいわゆるこの世界も、

本質のところは、そういう想念や信念で出来ているのは、全く同じことなのである。

いちばん外側の肉体フィールドでの体験か、アストラル、エーテルフィールドでの体験かの違いだけのことだ。

●今在ることの中に全てのヒントがある

ことほど、左様に、

宇宙や魂の仕組みは、何処にでも窺い知ることが出来るはずだ。

毎日の生活、1日の生活、寝ては起き、想いや体で活動しては寝る事さえも、

壮大な魂のその仕組みやサイクルを示している。

熟睡すること、夢を見ること、起きて活動する事、様々な想いを発する事、

家族のなりわい、仲間とのやり取り、社会への対応、・・・

そういう当たり前の仕組みの中に、より壮大な魂の仕組みが畳み込まれているもの。

●肝心なのは「愛深い想い」とその行為表現
そうして、その中で肝心なのは、「清い想い」「愛深い想い」そしてその表現である。

銭・金・物、地位や名誉、富や権力は、

いつも泡と消えゆくもの、例えば幼稚園のお遊び用の積み木のようなもの。

それらに執着している限り、それらを捨てて、こころが身軽にならない限り、

その重たさで「霊的自我」への帰還は後回しとなり、

死してのち、いわゆる中間世界に引っかかり、

再度地上めがけて自己突入する学びが続く、輪廻という仕組みがあったのだ。

それは良いとか悪いとかの話でもないわけで、それはそれでもあるが、

しかしながら、多次元世界の魂の学びの仕組みは、実に壮大なことに気付けるだろう!


●地球の幼年期は終了した
そして今の稀有な時期に気付くべきことは、

そういう輪廻転生や中間世界での待機と転生の繰り返しという事が可能であった、

3(4)次元世界としてのこの地球フィールドが、

一段と次元を上げた世界に移行しているということなのである。

実際、確かに、例えば自分が、人類が、いつまでも小学1年生のままだと思う方がおかしい。(笑)

●次元上昇は意識に沿ったもの
今までの地球の、5次元以上と中間(4)次元と、そして地上3次元の多次元構成から、

5次元以上と地上次元という構成になり、中間次元が無くなるということもあながち見当違いな説明でもないかもしれない。

地球もガイアなどと呼ばれる意識生命体であるからには、進化して当然なのである。

ちなみにヘミシンクでは5次元をフォーカス35等と言っており、それは地球の時空を超えたレベルでの移行が可能な次元ということになる。

つまり距離や時間という3(4)次元に固定されなくて済む、自由度の格段に広がった世界のことだ。

この次元は、まともな情報でいうところのいわゆる「宇宙人」とその母体である「宇宙船」の行き来する最初の次元でもある。

高次元からたまに次元降下して姿を見せるのが、いわゆるUFOである。


●中間次元というベールが晴れる時

中間次元が消滅するということは、

何か、予備校が無くなるような、手厚い保護施設がなくなるような、

甘えの構造がなくなるような、保育園の育児補助施設が廃止されるような、

あるいは低振動の悪想念のたまり場が一掃されるような、

中間次元に掛かっていた幻想(かすみ)の覆いが晴れるような、

そんな中途半端のないすっきりした時空世界になるということ。

低い次元を保てるような、ベールが無くなるということだ。


数字で表現もどうかとも思うが、つまりこの世界の次元が4~5次元以上になること。

つまり次元上昇やらアセンションとか言われているもの。

しかし、次元上層と言っても物理空間が勝手に変わるのではなく、

意識生命体の認識レベル、自己認識レベルがより大きくなり、

3次元的に制約された時空間認識を超えたレベルになること。

存在する人類のその意識レベルが上昇・拡大することなのだ。

そしてそれに伴った舞台の改編も行われるということである。

なるほど、舞台は常に物語や登場人物に沿った設定となるのは当然のことである。


●地球の胎動と集合無意識の混乱
今はその舞台転換の胎動で、地球そのものが動き始めているはずだ。

そして人類が無意識的に突き動かされることで、世界の騒ぎも増大している。

亜熱帯のあちこち雪が降り、一瞬の間に土地が陥没し、火山や地震は急増している。

ある地域で数日の間に何十度もの寒暖差が生じ、洪水が繰り返し起きている。

中東の国の富を、知らぬ顔をして周囲の国々が貪るように殺し合いや収奪を行ない、

それでも自分は悪くない、相手が悪いと罵り合い、

いわれなき戦禍で避難する民衆を、金をむしって他国に追い立て追いやり、

また金がかかると言って冷たくあしらう事しかできない西の諸国民、

こういう事象が世界で起きていても、

未だにわれ関せずと、経済・銭儲けに走り回る東の植民地の民衆たち、

経済低迷の打開と称し、他国から権益と利益を奪う準備の憲法改変と軍事装備の増大を図る愚かで無責任な植民地管理屋たち、

経済崩壊の崩壊音、難民の増大と混乱、世界戦争の種まきと導火線への火付け、何かありそうで圧政とコントロールでしかない新しい世界秩序の噂、

それら旧態依然とした隠れたエゴ観念の仕組みは、決して上位の波動に同調出来ず、

インパルス状に現れては破裂するバブルとなって、一瞬の走馬灯のごとくと消えゆくのみ。

要は、いくら頑張っても、もう波動が同調できないということ。

だから最後に、一気にそれが現れては消えることが起きているということ。

今世界で巻き起こりつつあることは、まさに過渡現象そのものである。

・・・

●その時に備えることも必要
事前に気付ける者は、ぼんやりすることなく、それなりの備えは必要であろう。

これから不足が予想される生活の基本物資等の出来うる範囲の確保もさることながら、

備えの中心は内面にあり、自らの不滅の魂・意識を自覚すること、

全ての存在の元にあるのは神の英知と愛であること、

あらゆるものが、お互い様の愛によってつながっているという、

宇宙の真実、事実を認識していることである。

この期に及んで、外の混乱を、意識内に取り込まないことが肝要だ。

・・・

●これから起きる存在周波数転換

世界の騒ぎの先頭に立っているような、肉体エゴの保身の演技しかできない段階の者たちは、未だサバイバルテーマの学びが十分ではない者たちであろう。

したがって、仮に地球が次元を上げ切った段階では、次元との同調を外れることになる。

その存在を含んでいる「霊的自我」は、学び途中の「肉体自我」の帰還のあと、

また別のサバイバルモードの世界へ転移させることになるかもしれない。

「宇宙には住まいがたくさんある」というイエスの話はまさにそのとおりで、

この大宇宙に地球以外に生命がない・・等と断定する、愚か極まりない科学者はもう話をしない方がいい。


●これから予想される大荒れ卒業式

いずれにしても、どんな騒ぎが起きようと、どうなろうと何も問題はないはずだ。

古い世界でのテーマである3次元的分離の世界での、分離者同士のサバイバル、

もう十分行われて、そして飽和した2元性の世界のその卒業式に至り、

肉体の生き残り、富の収奪と闘争、それらは最終最後のフィナーレを迎えるだけのことだ。


よしや、例えば仮にこの世界で多くの肉体が短時日で消えるとも、

常に活きて在るところの「われ」、I AM、

様々な肉体自我の経験と英知の集合体である、大いなるわたし、

時空を超えた霊的自我、それが無限へと続く、

そのすべてを包含する根源なる神にとっては、

あらゆるものが体験学習であるがゆえに、

例えばこの時代、これから何があっても、なくても、

今の時期に関しては、

それは、1つの時空物語の実に得難い祝い事であり、

実に雄々しきフィナーレなのである。

それをアセンションとでも言うのだろうか。




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色即是空の話(4)空はまた全き充満である

2016-02-06 05:58:08 | 宇宙的気付き
色即是空、空即是色 実に深遠な言葉だ。


頭で考えてもわからない、いや途中までは理解可能だが、

世の中の全て、世界の全て、宇宙の全て、多次元世界の全ては、

簡単に言えば、空即是色、色即是空である。

世界の様々なこと、宇宙の様々な現象は一時も静止せず、常に動き変化している。

それは空(くう)が、無限の充満ということを示している。


充満というのは、箱の中に饅頭が充満している、沢山ある・・ではなく、

それこそ無限の存在可能性が充満しているということだ。

「なんだ可能性か?つまんない・」・・という感覚は、この世で刷り込まれた物質獲得観念がゆえであろう。

「えー、可能性より、物だよ、銭だよ、即効だよ、数字だよ・支払いもあるし~・・」

という経済植民地で巻きこまれた悲しい観念の癖。



こういう執着観念は、いつのまにか身体に浸透しているが、これは洗い流す必要がある。


本来は、物は二の次、三の次、また肉体自我を見極め、

こころの調律と観察、そしてそれを可能とする霊的自我を思い出すことが重要なこと。

その為には、宇宙大自然に遍満する愛という気、

調和の姿、全てを貫いて在る神なるものの意識と意図を見出して、

あらゆる全てが全託であることに気付かなければならない。

全てはひとつ、個々や部分と観えるなかに、全てが注ぎ込まれている。

つまり、空(くう)とはそれだ。


空即是色、色即是空。

現れた物は常に、常に消えてゆくのが現象世界の理(ことわり)だと知っている人ならば、

逆に様々な物が消えてゆくと同時に、現れてくるのが宇宙の創造だと気付いている人ならば、


空(くう)が無限の可能性であり、それは創造の根本であることが悟れるはずだ。

我々は、水の中にいて、水を求める魚のようなものだ。

最も身近で、無限に自己に近く、自己も他者も、あらゆるもの全てが「空(くう)」の中にいる。

空(くう)は、空間とか時間とか言っているところの空間(くうかん)でもある。



空(くう)にはそれ自体では、何でもないもので、エネルギーの局在化した物質というものが無ければ、例えば絵柄のバックグラウンドであるカンバスにも気づかない、つまり空(くう)は空のままである。


形あるもの、例えば物質が、空(くう)に描かれることで、

物質とその背後(くう)が、同時に自らの姿を表わすのだ。

描く者はいったい誰か・・

空(くう)なる無限者が、自らを知ろうとすること、自己認識。

その意識の働きが、全てを生み出しているのだ。


我々の日常の周りは、ほとんど全て空間で満たされている、そう満たされているのだ。

人が歩くけるのも空(くう)がゆえ、世界に様々な物が有るのも空(くう)だからこそ。

空(くう)は全てに浸透、全ての母なるバックグランドだ。

しかしながら我々は全くそれに気づいていなかったかもしれない。

有る物ばかりを後生大事に、必死こいて獲得し、富という様々な物質を集めてきたが、

それは、それを許容しているところの空(くう)あればこそなのだ。

空(くう)は何もない、物がない、飯の種がない、役に立たない、何の価値もない、

悲しいかな、いやそういう気付き意識レベルであったがゆえに、無意識にスルーしていたのだ。



海の水が充満しているゆえに、魚はその海で泳いでいるのだが、

その魚は自分たちの存在を必死で確保しようと、何かを探し回っている。

既に・・そこにあり、それで満たされているのに、気づかず知らず、

いや、何処かに何か真実が、豊かさが、可能性があるものと「考え」て、

いつも、ここ、今、わたし・・以外の何かを追い掛け回すことをする。

餌、獲物、物・銭・金を、外から得ようと、あちらこちら、右往左往する。

そんなことより、何よりも、

空(くう)があればこそ、様々な事物がそこに存在することが出来、

様々な生命さえも自らを現出することが出来る。


例えば人は誰も、生まれるという物語以前にはこの世界にいなかった。

そうだろう?

人は、もともと何も無かった、本来無一物でオギャーと出現してきたのだが、

3次元世界の常として、それより高次の自己をサッパリ忘れ、

生があれば死がある道理、あるいは生も死もなく、変化のみがあること、

自己にも変化があることを忘れてしまう。



いつの間にか消えゆく定めの自らの創造物ばかりを追い掛け回し、

無限の可能性という住処である空(くう)に、いったん帰すこと復帰する事、

本質の自己である「霊的自我」の、生まれ変わりという、

その楽しき変化さえも恐れる始末になり、肉体自我や物的富にしがみ付くことにもなる。

そう、今までの古き世界は、

空(くう)である自らを忘れ、空(くう)が無限の充満であることを忘れ、

空(くう)に息吹を吹き込む創造者の端くれとしての自我を忘れ、

様々な可能性としての自己、創造主の一部である高次の「霊的自我」を忘れてきた。

それが3次元的認識世界で体験できる・・神聖なる、そして過酷なる遊戯、

あたかも単なる岩のようなごつごつしたダイヤの原石が、

荒波や風雨、人の間で削られ磨かれ、いつの間にか、

その中にある至上の愛が輝くための試練。

もう二度とごめんだというようなところまで、行き着くところまで行かねば気付かぬこと。

こころすべし!


嗚呼、朋よ、・・・。

消えゆく定めの、古き二元性の世界、

善悪、大小、貴賤、快楽・苦痛という比較観念の世界、

ある意味で激しく過酷な世界、

それは、

空(くう)であり無限の可能性の体現者である自らを、

自らで思い出すための・・・あり得ない、いや有り難い、仕組みであったのだ。


そう、何を信じ込んでいようと、例え意識がボヤケテいようと、

ここに居る、この世界にいる存在達は、肉体自我を演じている魂達は、

実に雄々しき者たちなのである!




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。