気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(24)この世に生まれる・・とは?

2017-08-25 06:43:47 | 真我実現シリーズ
(ちょっと面倒な話かもしれないが、面白い真実の話と言っておこう)

時間というものは存在せず、それは架空の便宜上の概念である。
月がくるくる地球の周りをまわり、地球は太陽のまわりを周回する。
それでカレンダーができている。
そのカレンダーという「物差し」上で、月日を区分けしているだけだ。
時間というものは、そういう約束上の「概念」である。
・・・
3次元的世界での、物質とされるエネルギーの濃淡の、様々な変化を観察して、
その変化の違いを早い、遅いとして「時間」を導入しているのだ。

時間・・・そのものは観測できない。
観測できるのは、自然の変化だけである。
時間は存在しないのである。
・・・
マインドが澄んできた人は、これが明快に理解できるだろう。
他者依存心でなく、自分で生み出す探求心で、
今あることを観察、熟考し、気づけるならば、
時間がある、時間がない・・という世の中の様々な出来事は、
まったくの便宜上の概念、いわば嘘を元にしていることがわかるのだ。

時は金なり・・・、おー、なるほど!と思う時もあるが、
これは物欲資本主義のための言葉だ。(笑)

さらに、
歴史とはその架空の「時間軸」上の出来事の記憶ないしは「記録」である。

人間が記録を掘り起こし、再編纂したものであることは誰でももわかるが、
そういう作業をする者は、主に”時の”権力者の周辺にいる場合が多い。
歴史とされる記録も、それが大々的であるほど、
まじめな歴史家、研究者とその生活保護者ともいえる権力者の合成物語だ。
さらにそれさえも、きわめて断片的であるし、
支配層に都合のよい筋立てになるのは当然なのである。

あなたは、作文で自分の悪口など書かないだろう?
それが人情というものだ。
ましてや、権力者や支配者が「良い人」なわけもない。
聖者や覚者なわけもない(笑)

したがって、いわゆる公的歴史というものは、
支配者間で常に争いのもとになる。
これは日本の周辺でも、どこでも起きていることであり、
程度の違う・・ウソ同士の争いであるからして、
繰り返し蒸し返され、権力の栄養や物的簒奪の手段となっている。
どうでもよい嘘から出てくる事象に、
はっきり言って、それ以上どんな意味もない。
・・・
時間は存在しない、有るのは事象の変化である。
そしてそれを知覚観察するわたしがいなければ、
その事象の変化さえも認識しない。
「認識」しない物事は・・・それまで存在しないのである。

世界、宇宙は・・
 知覚・認識しなければ、
  存在なんかしていない・・ということだ。
 知覚・認識・観察は、意識そして「気づき」からくる。

宇宙は「意識」の中にあるという意味なのである。
「意識」は宇宙、時間空間を超えている・・という意味だ。


自分の経験からいうのだが、
普段は肝心なことも何も考えず、
お金や競争、生存に忙しく生きている人が多く、
こんな身近のことを素通りしているのだが、
ここに次元の違いというか、世界の本質というか、
そういうものがすでに在るのである。

幸せが、どこか遠くにあると、思わされてはいないか?
いつかきっと・・幸せになると思わされてはいないか?
いつか・・の「時間」は、概念であり、
実際には存在していないものを待ってるわけだ。

なるほど、それらも架空の夢であり、
架空の「時間や空間」の舞台演劇ならではの「楽しみ」ともいえよう。
悲しみや苦痛を伴った・・楽しみ・・自虐的でもある(笑)



物理世界がそこにある・・・というのは誰か?
宇宙がそこにある・・と知るのは誰か?
其々の「わたし」以外に無いだろう?

さらに言うと、、

あなたが生まれた・・と知っているのは誰か?
あなたが生まれたというのは真実か?

変な問いかけと思うだろうが、続けると、

わたしは親から生まれた、それは親だよ・・というのは違うのである。

親に聞いて、「あーそうか」という出来事を通じなければ、
あなたが「生まれた」と・・あなたが知ることはない。

親が、「あなたはかわいい赤ん坊だったよ~」と言っても、
あなたがそれを聞いて、「そうなんだ」と認識しなければ、
あなたは生まれてきた・・と「知る」ことはない。

知る・・・というのは「認識」するということだ。
・・・
わたしは生まれた・・とするのは、親でも役所の戸籍でも、
ご近所の証言でもなく、
「わたしが生まれたんだ」と認識する・・ことである。

親が、私は子を産んだ・・は、ただ親の事実認識である。
あなたが人間でなければ(変なたとえだが)そこで終わり。
親が、私は子を産んだ・・で終わりだ。
たぶん、猫や犬の子は、そうだと言っておこう。

翻って、
・・自我意識のある人間の場合、
地球や親にお膳立てされた赤子の身体と同時に、
「わたしは生まれたんだ~」という、
 <自己認識>の種が”芽生える”のである。

我々が生まれたことに関する、1つの描写表現と考えてもよいが、
これらもずーっと素通りしていたのだと気づけるだろうか。

多くの私たちは、<わたしの本質>の方向でなく、
目に見える世界や人々の方ばかりを観ていた・・と気づけるだろう。

映画に見入り、それを観ている当の<わたし>を忘れていたのだ。


(つづく)