(ちょっと面倒な話かもしれないが、面白い真実の話と言っておこう)
時間というものは存在せず、それは架空の便宜上の概念である。
月がくるくる地球の周りをまわり、地球は太陽のまわりを周回する。
それでカレンダーができている。
そのカレンダーという「物差し」上で、月日を区分けしているだけだ。
時間というものは、そういう約束上の「概念」である。
・・・
3次元的世界での、物質とされるエネルギーの濃淡の、様々な変化を観察して、
その変化の違いを早い、遅いとして「時間」を導入しているのだ。
時間・・・そのものは観測できない。
観測できるのは、自然の変化だけである。
時間は存在しないのである。
・・・
マインドが澄んできた人は、これが明快に理解できるだろう。
他者依存心でなく、自分で生み出す探求心で、
今あることを観察、熟考し、気づけるならば、
時間がある、時間がない・・という世の中の様々な出来事は、
まったくの便宜上の概念、いわば嘘を元にしていることがわかるのだ。
時は金なり・・・、おー、なるほど!と思う時もあるが、
これは物欲資本主義のための言葉だ。(笑)
さらに、
歴史とはその架空の「時間軸」上の出来事の記憶ないしは「記録」である。
人間が記録を掘り起こし、再編纂したものであることは誰でももわかるが、
そういう作業をする者は、主に”時の”権力者の周辺にいる場合が多い。
歴史とされる記録も、それが大々的であるほど、
まじめな歴史家、研究者とその生活保護者ともいえる権力者の合成物語だ。
さらにそれさえも、きわめて断片的であるし、
支配層に都合のよい筋立てになるのは当然なのである。
あなたは、作文で自分の悪口など書かないだろう?
それが人情というものだ。
ましてや、権力者や支配者が「良い人」なわけもない。
聖者や覚者なわけもない(笑)
したがって、いわゆる公的歴史というものは、
支配者間で常に争いのもとになる。
これは日本の周辺でも、どこでも起きていることであり、
程度の違う・・ウソ同士の争いであるからして、
繰り返し蒸し返され、権力の栄養や物的簒奪の手段となっている。
どうでもよい嘘から出てくる事象に、
はっきり言って、それ以上どんな意味もない。
・・・
時間は存在しない、有るのは事象の変化である。
そしてそれを知覚観察するわたしがいなければ、
その事象の変化さえも認識しない。
「認識」しない物事は・・・それまで存在しないのである。
世界、宇宙は・・
知覚・認識しなければ、
存在なんかしていない・・ということだ。
知覚・認識・観察は、意識そして「気づき」からくる。
宇宙は「意識」の中にあるという意味なのである。
「意識」は宇宙、時間空間を超えている・・という意味だ。
自分の経験からいうのだが、
普段は肝心なことも何も考えず、
お金や競争、生存に忙しく生きている人が多く、
こんな身近のことを素通りしているのだが、
ここに次元の違いというか、世界の本質というか、
そういうものがすでに在るのである。
幸せが、どこか遠くにあると、思わされてはいないか?
いつかきっと・・幸せになると思わされてはいないか?
いつか・・の「時間」は、概念であり、
実際には存在していないものを待ってるわけだ。
なるほど、それらも架空の夢であり、
架空の「時間や空間」の舞台演劇ならではの「楽しみ」ともいえよう。
悲しみや苦痛を伴った・・楽しみ・・自虐的でもある(笑)
物理世界がそこにある・・・というのは誰か?
宇宙がそこにある・・と知るのは誰か?
其々の「わたし」以外に無いだろう?
さらに言うと、、
あなたが生まれた・・と知っているのは誰か?
あなたが生まれたというのは真実か?
変な問いかけと思うだろうが、続けると、
わたしは親から生まれた、それは親だよ・・というのは違うのである。
親に聞いて、「あーそうか」という出来事を通じなければ、
あなたが「生まれた」と・・あなたが知ることはない。
親が、「あなたはかわいい赤ん坊だったよ~」と言っても、
あなたがそれを聞いて、「そうなんだ」と認識しなければ、
あなたは生まれてきた・・と「知る」ことはない。
知る・・・というのは「認識」するということだ。
・・・
わたしは生まれた・・とするのは、親でも役所の戸籍でも、
ご近所の証言でもなく、
「わたしが生まれたんだ」と認識する・・ことである。
親が、私は子を産んだ・・は、ただ親の事実認識である。
あなたが人間でなければ(変なたとえだが)そこで終わり。
親が、私は子を産んだ・・で終わりだ。
たぶん、猫や犬の子は、そうだと言っておこう。
翻って、
・・自我意識のある人間の場合、
地球や親にお膳立てされた赤子の身体と同時に、
「わたしは生まれたんだ~」という、
<自己認識>の種が”芽生える”のである。
我々が生まれたことに関する、1つの描写表現と考えてもよいが、
これらもずーっと素通りしていたのだと気づけるだろうか。
多くの私たちは、<わたしの本質>の方向でなく、
目に見える世界や人々の方ばかりを観ていた・・と気づけるだろう。
映画に見入り、それを観ている当の<わたし>を忘れていたのだ。
(つづく)
時間というものは存在せず、それは架空の便宜上の概念である。
月がくるくる地球の周りをまわり、地球は太陽のまわりを周回する。
それでカレンダーができている。
そのカレンダーという「物差し」上で、月日を区分けしているだけだ。
時間というものは、そういう約束上の「概念」である。
・・・
3次元的世界での、物質とされるエネルギーの濃淡の、様々な変化を観察して、
その変化の違いを早い、遅いとして「時間」を導入しているのだ。
時間・・・そのものは観測できない。
観測できるのは、自然の変化だけである。
時間は存在しないのである。
・・・
マインドが澄んできた人は、これが明快に理解できるだろう。
他者依存心でなく、自分で生み出す探求心で、
今あることを観察、熟考し、気づけるならば、
時間がある、時間がない・・という世の中の様々な出来事は、
まったくの便宜上の概念、いわば嘘を元にしていることがわかるのだ。
時は金なり・・・、おー、なるほど!と思う時もあるが、
これは物欲資本主義のための言葉だ。(笑)
さらに、
歴史とはその架空の「時間軸」上の出来事の記憶ないしは「記録」である。
人間が記録を掘り起こし、再編纂したものであることは誰でももわかるが、
そういう作業をする者は、主に”時の”権力者の周辺にいる場合が多い。
歴史とされる記録も、それが大々的であるほど、
まじめな歴史家、研究者とその生活保護者ともいえる権力者の合成物語だ。
さらにそれさえも、きわめて断片的であるし、
支配層に都合のよい筋立てになるのは当然なのである。
あなたは、作文で自分の悪口など書かないだろう?
それが人情というものだ。
ましてや、権力者や支配者が「良い人」なわけもない。
聖者や覚者なわけもない(笑)
したがって、いわゆる公的歴史というものは、
支配者間で常に争いのもとになる。
これは日本の周辺でも、どこでも起きていることであり、
程度の違う・・ウソ同士の争いであるからして、
繰り返し蒸し返され、権力の栄養や物的簒奪の手段となっている。
どうでもよい嘘から出てくる事象に、
はっきり言って、それ以上どんな意味もない。
・・・
時間は存在しない、有るのは事象の変化である。
そしてそれを知覚観察するわたしがいなければ、
その事象の変化さえも認識しない。
「認識」しない物事は・・・それまで存在しないのである。
世界、宇宙は・・
知覚・認識しなければ、
存在なんかしていない・・ということだ。
知覚・認識・観察は、意識そして「気づき」からくる。
宇宙は「意識」の中にあるという意味なのである。
「意識」は宇宙、時間空間を超えている・・という意味だ。
自分の経験からいうのだが、
普段は肝心なことも何も考えず、
お金や競争、生存に忙しく生きている人が多く、
こんな身近のことを素通りしているのだが、
ここに次元の違いというか、世界の本質というか、
そういうものがすでに在るのである。
幸せが、どこか遠くにあると、思わされてはいないか?
いつかきっと・・幸せになると思わされてはいないか?
いつか・・の「時間」は、概念であり、
実際には存在していないものを待ってるわけだ。
なるほど、それらも架空の夢であり、
架空の「時間や空間」の舞台演劇ならではの「楽しみ」ともいえよう。
悲しみや苦痛を伴った・・楽しみ・・自虐的でもある(笑)
物理世界がそこにある・・・というのは誰か?
宇宙がそこにある・・と知るのは誰か?
其々の「わたし」以外に無いだろう?
さらに言うと、、
あなたが生まれた・・と知っているのは誰か?
あなたが生まれたというのは真実か?
変な問いかけと思うだろうが、続けると、
わたしは親から生まれた、それは親だよ・・というのは違うのである。
親に聞いて、「あーそうか」という出来事を通じなければ、
あなたが「生まれた」と・・あなたが知ることはない。
親が、「あなたはかわいい赤ん坊だったよ~」と言っても、
あなたがそれを聞いて、「そうなんだ」と認識しなければ、
あなたは生まれてきた・・と「知る」ことはない。
知る・・・というのは「認識」するということだ。
・・・
わたしは生まれた・・とするのは、親でも役所の戸籍でも、
ご近所の証言でもなく、
「わたしが生まれたんだ」と認識する・・ことである。
親が、私は子を産んだ・・は、ただ親の事実認識である。
あなたが人間でなければ(変なたとえだが)そこで終わり。
親が、私は子を産んだ・・で終わりだ。
たぶん、猫や犬の子は、そうだと言っておこう。
翻って、
・・自我意識のある人間の場合、
地球や親にお膳立てされた赤子の身体と同時に、
「わたしは生まれたんだ~」という、
<自己認識>の種が”芽生える”のである。
我々が生まれたことに関する、1つの描写表現と考えてもよいが、
これらもずーっと素通りしていたのだと気づけるだろうか。
多くの私たちは、<わたしの本質>の方向でなく、
目に見える世界や人々の方ばかりを観ていた・・と気づけるだろう。
映画に見入り、それを観ている当の<わたし>を忘れていたのだ。
(つづく)