気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(24)過去も未来も・・今・・在る

2020-05-27 16:08:42 | 意識の科学
われわれが存在すると思っている「時間」は存在しなかった。

時間とは様々な現象変化の進捗度の違いを表わす”概念”であり、

時間というそれ単体、何かの実体は存在しないという意味である。

時と時の間・・・「時間」は・・有る様に見えて実在しないのである。

それも簡単に言えば・・空(くう)である。

それでは、何があるのかということになるし、毎日毎日あるこの生活、時間?とともに瞬間瞬間我々が存在する時間感覚は・・一体なんだろうか?

ある人にとっては、こう言えば直感的に理解可能だろうか。

あるのは・・今・・だけ、今・・この瞬間だけ・・だ。

そう・・あるのは<今>というこの時・・だけであり、その連続が時間という感覚を生み出しているということだ。

瞬間・瞬間の余韻、あるいは記憶の連鎖が、連続した時間感覚を生み出している。



これは比喩としての2次元画像の映画フィルムでも理解可能だろう。

今ここ・・に展開するのは一瞬の一コマ(空間にある形)であり、

その一瞬一瞬が連続・運動しているからこそ、

時の流れとしての時間あるいは歴史が生み出される。

それもこれも、

その一連の関連づける記憶や認識、つまり意識の働きがあるからこそ、

この世界やあの宇宙の展開が起きているのである。

その「今」という・・一瞬、一瞬を・・生み出してるのは・・・神か?創造主なのか?・・・

いま・・在る・・こと・・いわば・・Being  なのである。

それは・・意識・・それぞれの I AM・・だ。

それぞれ・・・あなたのことだ!



一瞬一瞬が・・いわば・・ビッグバンなのである。

”過去”のいつか・・ビッグバンが1度だけ、あるいは何度か起きた・・?わけではない。

「あるのは・・今・・、今・・この瞬間・・」

しかしながら、技術的に云えば、その記憶・情報さえあれば、

いまこの瞬間に・・”過去のこと”が再現できるのも確かである。

たとえば自分の無数の過去生の記憶、あるいは地球の昔、太古の記憶なども、

<今>に・・情報として畳み込まれているため、その技術的解析が出来るならば、

過去も・・<今>・・・再現が可能であるということである。

しかしながら、それは過去に還る・・ことではなく、過去を観察・認識できるということだ。

それは過去のいつかに・・再現することは出来ず、常に・・今・・なのである。

さらに未来も・・今この瞬間に無数の展開可能性として畳み込まれており、

今・・その未来を・・再現、この場合は予見という表現となるが、

それも可能であるということになる・・。

但し・・未来とは・・想定する・・その時の・・今・・であるため、

今この瞬間・・の言わば実在する・・今とはプロセス上の大きな誤差があるだろう。


もう一度言えば、


今の生存、生活、出来事とは何か?

今ここ・・に展開するのは一瞬の一コマ(空間にある形)であり、

その一瞬一瞬が連続・運動しているからこそ、

時の流れとしての時間あるいは歴史が生み出されるが、

それもこれも、

その一連の関連づける記憶や認識、つまり”意識”の働きがあるからこそ、

この世界やあの宇宙の展開が起きているのである。

・・・

意識が全ての根源であるということ、

この、今まで隠されて来た根本的な真実に気付かなければならない。



しかしながら誤解してはならないだろう。

時間とは存在しないものだということを忘れてはならないはずだ、


今というこの時が・・限られたこの時間・空間が、

たまたま・・意識を創っているのではなく、

そうではなく、

意識が・・無限の今・・無数に展開する・・「今」と同時に、

その時空・世界・宇宙の展開を映し出しているのだ。



意識の働き、認識、観察が無くて、時間や空間、つまり世界・宇宙が独自にあることはない。

本当に理解可能だろうか?

すくなくとも思い巡らせることが出来るだろうか?


この今・・一瞬に絶対的に・・存在するのは何か?・・・

部屋の様々な機材の様子ではない、
町を行き交う無数の人々の姿ではない、
移り変わる世界の広大な風景ではない、
宇宙の無数の星々の輝きでもない、

それを観察・知覚している・・もと・・・意識・・

今・・在る・・

・・真のわたし以外にない!

(23)空間 も幻想である

2020-05-23 07:14:54 | 意識の科学
このように、「時間」とは単なる「概念」であって実在していない。

時間:tは、仮のパラメータのようなもので、実際には存在しないものである。

物理量としての微細な素粒子のごとく、
「瞬間」は無限小の時間量・・Δt・・と考えることも可能だが、
でも結局、時間とは、現象・物質量の変化のことなのである。

でも「時間」があると思っているのは、文字通り「思い込み」である。

集団での思い込み、集団幻想だ。


世界・宇宙はさまざまに変化・変転しているからこそ、
その一連の変化の流れとしての「時間」があるように見えるだけ。


時間という単なる便宜上の概念が、いつの間にか独立した存在として扱われていた。

しかしながら、実際には・・「時間」は存在しない。

「時間」とは・・つくられた概念・観念なのである。

実際に時間といっているものは「現象の変化」のことだ。

あるのは・・現象の変化だけなのだ。


あなたはこの観点に来ただろうか?


さてそれでは、”空間” はどうだろう?

お部屋の空間、一定容積の空間等と言っている「空間」だ。

空間自体には何も無い・・なので空(くう)・間(あいだ)なのだが、

それは距離、長さで測られるとされている。

空間・容積は・・距離、長さで測定されるものだ。

何m、何LDK、立方m、何km、何光年・・という大きさ、長さや距離だ。



この絵の意味するところは、空間自体には何も無いということ。 そこに何かの形が描かれれば、そこに大きさ距離として存在することが出来るということだ


しかしながら、空間自体は・・存在しない。

えー?なんでと言うかもしれないが、

上の立方体の絵は、立方体があるからこそ、大きさが出てくるということだ。

空間自体には・・何も無い・・空の間しかない(笑)・・空(くう)だ。

従って・・空間そのものも・・・存在しないのである!

「えー?!、って、そんな事あるわけない!絶対に・・」と思うだろうが、

ここで言っている空間は、文字通り「空間」のことであって、様々な形・物を含まない空間そのもののことだ。

といっても、あなたの周りの空間も・・実は空(くう)なのである!

様々な物にあふれているからこそ、そんなの何も無いわけない!と、そう思うだけだ。

物があり形があるからこそ、それを含むものを”空間”と称して、

その物と物の間を測定して、大きさや距離を出しているのである。

物や形が無ければ・・どうやって、何を測定する?

大きさや距離はどこにある?

何も無いではないか、・・つまり存在しないのである。





そう、実のところ・・空間は存在しないのである。

貴方がなんとなく有ると思っていた空間も実は存在していない。

それは確かに幻想だったのである。


「あのね!・・空間がないなんて・・あるわけないよ・・」と思うのは、

それは、様々な事物を含んでいる空間のことを言っているのであって、

空間・・そのものは・・存在しないのである。


実際には存在しないものを、
あたかも存在すると想っていることを「幻想」というならば、

たしかに・・・空間は・・幻想なのである。


空間・容積などは・・サイズ、距離、長さで測定されるものだ。

何m、何LDK、立方m、何km、何光年・・という大きさ、長さや距離だ。

しかしながら・・、

そう、

それらは・・空間という「幻想」の上に描かれたものということになる。


さて、「時間」は幻想だったと説明したが、
なんということか「空間」も幻想だったということだ。


詳しく言えば、
観念・概念としての時間、空間が、
実際に存在するように見えていたということである。


でも、
「えー?どうゆうこと?」・・みたいなことになるかもしれない。
ちょっとまてっ!・・言葉でだまされてない?・・(笑)みたいな。

時間・空間が存在しない幻想なんて、そんなわけないじゃん!

・・社会・世界はあるし、わたしはここにいるじゃないか!


そう・・これが実感だろう。







(22)「時間」 は幻想である

2020-05-22 05:35:02 | 意識の科学

今・・という言葉で表されること、これは何だろうか。
覚った感じの人は、よく・・今しかない・・と言う。

多分あなたは知っているはずだ。
ここでも何度も記事になっているし、他でも聞いた事があるはずだ。

でも、わかったようでわからない感じだろうか?

今とは何か?

今この時・・というくらいなので、「時間」のことだろうか。
その長い長い時間の中での、無限小の点・・だろうか?

多少とも科学に親しんでいる人は、この世界は時間と空間で成り立つと理解している。



また世界・宇宙という空間における諸現象に関しては、横軸にt(時間)縦軸に x(物理量)のグラフ等を示すことで時間推移や変化の特徴などを示すことが多い。/



3次元空間は直交する・X、Y、Zの立体的、3次元的空間を意味している。
時間軸もXYZと同じく独立した軸で、これらに直交しているが、3次元的には描くことが出来ないため、眼には見えない。ここから、この世界は4次元であるとされている。



ところで、日常生活の中で「時間は」・・どこにあると感じているだろうか?
一般的には、
時間とは・・文字通り・・ ”時と時の間”(あいだ) と書く。

時・・とは、1日の中で、寺の鐘がゴーンと告げる時刻・・。
間・・とは、日の光の・・出入り(門)・・だろうか。

つまり、これは1日の刻み、時刻の事をいっている。

時刻でなく、時間とは何か?となれば、

上の説明のように、3次元空間に直交する時間軸(t)は描けない、
どこにある?どこにも無い・・、描けない。
場所ではないからどこにある?、ここにある!というものではない。

つまり時間は・・様々な現象の変化でしか描けない。
上の図で言うならば、縦軸の物理量(位置X)の”変化”が無ければ・・時間軸(t)は無い。

さらに言うならば、
”時と時の間”(あいだ)一瞬と一瞬の間・・・・いわば・・空(くう)だ。

つまり・・普通の概念として使っている「時間」というものは無いのだ。

人は時間に追われる等と言う。
時は金なりとか言っている。
また、
まだたっぷり時間がある・・とか、もう時間が無い等と言う。

ところが、その時間は実在していない。

現象の変化があるが、
「時間」そのものは、どこにも無いのである。

有る様に見えて・・実は無いことを・・幻想と言っている。
つまり時間は「幻想」なのである。
幻想・・想いの創った・・幻(まぼろし)のことだ。


あなたやわたし達は、幻(まぼろし)の中にいたことに一寸気づけるだろう。
時間は・・存在しない。

これは何かの例えではなく・・事実なのだ。

でも、あなたは現実には「時間」はあるよねー、と思う。

回りの皆が皆、そんな事気付かず・・
実在する(と想う)時間の中で、生活のために必死で動き回っているから、
それを見て、やはり現実は時間があるよね・・と思う。


でも、まず理解べきは、

いわゆる世間・世界で言われる「時間」は・・存在しないのだということだ。

スピリチュアルで美し気なたとえ話・・ではなく、

われわれが縛られ、追われて、金に換算されたりするような時間・・、

そう、「時間」は、はなから・・存在しないのである。


世界・宇宙はよく「時間空間」等と呼ばれているが、
まず時間は存在しないならば、世界・宇宙とはいったい全体なんなのか?

そしてそれは・・実在するのだろうか?

目の前の世界、そして遥かなるあの大宇宙は・・実在なのだろうか?










(21)知覚と創造

2020-05-18 07:42:34 | 意識の科学
この世のすべては”意識”の表現型に過ぎない。
世界のすべてが「意識」であることを真に理解すべきである。

いろいろな物でつくられた物的宇宙・世界という観念は、
肉体の知覚範囲のある一定の周波数帯域のことを言っているだけなのだ。
それに物や世界は・・あなたが知覚しなければ存在し得ない。

そういう、やや高度そうな表現をしなくとも、
あなたが見て聞いて感じていること・・在ること・・そのものが・・
ただ既に有ったものを・・感じているだけ--なのではなく、
それこそが「意識」の”創造”なのだ・・・!と気づけるだろうか。

目の前に、近くに、遠くに有るとみえる諸物は・・、
(あなたの)意識で・・そこに知覚し定立されている、
・・創造・・されているのだ。

創造というと、
私たちが芸術品や技術製品を作るように、
何かエネルギーを駆使して、苦心惨憺作り上げ、捏ね上げるものというような、
そういう観念があるだろうけれども、
それはあくまでも時空間内での人為的、人工的な創造の1形態に過ぎない。

いわゆる創造主・神(宇宙意識)の創造はいとも簡単に、いや、
簡単とか困難とかそういう観念もまったく余計なものであって、
当たり前のように自然に行われているものである。

いまここで、そこで、あそこで、あちらで、様々な事物・事象があり・・
あなたはそれを知覚している・・ことだ。
今・生きている・・在ることだ。

これはとんでもない・・奇跡・・とかなんとか・・
それさえも凌駕するとか・・そんな表現さえも意味が無い・・

---宇宙創造--の一端なのである。

宇宙意識の覚醒の第1原理・・わたしとは何か・・という発意によって、
意識は・・無限に自らを、
覚醒させ続ける・知覚し続ける・探索し続ける・探求し続ける
様々な形に現し続けるのである。

疲れも飽きもない・・ただ如意自然に・・在る・・・。
本来楽しくないわけがない・・!

目の前に、近くに、遠くに有るとみえる諸物は・・、
(あなたの)意識で・・そこに知覚し定立されている、
・・創造・・されているのだ。

いまここで、そこで、あそこで、あちらで、様々な事物・事象があり・・
あなたはそれを知覚している・・ことだ。
今・生きている・・在ること・・・天地創造・・。
天地創造は過去なんかではなく・・常に・・今・・・!

他者や他の事物は・・もとはひとつの・・無限の意識が、
その無限のなかから別の表現形を伴って・・向こうから現れているのである。

”わたし”・・の知覚するすべては、実は・・”わたし”・・なのである。

わたしの世界のすべてが・・ミクロも大宇宙も・・、
実は”わたし”・・真我の知覚対象世界であること、

わたしとは・・わたしの肉体ではなく、
それを含んだ、わたしの知覚世界すべてのことなのである。


そういう観点で他者や世界を観る意識的努力をするならば、
気付けば・・根本的に・・グレンと引っ繰り返ることになるだろう。

神という概念は・・・どこか遠くの何かではなく、
とんでもない力とか権威と物量の何か・・なんかではなく、

いつでもどこでも在るところの、
それぞれ・・わたし・・いわば真のわたし・・を現す言葉であることに、
ようやく気づけることになるだろう。




超やばい天の川銀河映像?
別に宇宙が無限に大きいからというわけでもないが、このユーチューブなどは、あなたやわたしが無限を見ている者であるという意識感覚を呼び起こす助けになるかもしれない。

(20)マインドの上に

2020-05-07 07:24:43 | 覚醒意識
意識という言葉には人のこころの意味もある。
こころとは何かといえば、思考や想いである。
何をどう思っているか?・・あれはこうだ、これはそうだという「思い」だ。

その総合したものを「想念」という。
そう、想念とは、様々な思い・観念・信念などの総合されたものである。

想念の <想> は、木の年輪(目)のようにつちかわれた「こころ」を意味する。
想念の <念> は、”今”の・・「こころ」のあり方・・のことだ。

この想念をしっかり観察しなければならない。

いまはそのための日常生活であると言っても過言でないだろう。
外界を眺め、怖い怖いの合唱に同調し、鬱憤晴らしで喧嘩している場合ではない。
また隠微で解りにくい世界大戦争など、カルマの解消以外に意味は無い。

今起こされている集合意識の1部の汚流に対しては、無視せず、また入り込まずだ。
創られた恐怖の流れの行き着く先には、決して幸福も真実も無い。


想念は”情報”であり”エネルギー”でありまた”波動”である。
あなたはそれを超えた存在、観察する者であり、経験を味わう本質だ。

意識的存在(人)の行く末を決めるのは・・その「想念」である。
もちろん人の想念には極めて多岐・多次元にわたった複雑さがあるわけだが、
今・ここに・・在る・・気づいている意識・・としての<わたし>は、
まず、その根幹にある主たる想念の形に気づいていなければなるまい。
表現、行為はそれに従ってあるがままに現れてくるものだ。

なぜならば、人がこの世界にきてどのようであるか、
さらには、その経験と希望と英知の拡大のため、
またどこかの時空に転生することにも大きく関係しているのだ。


エネルギーには「保存則」というのがあって、
それは決して消滅することなく持続するということだ。
もちろんその表現型は現れては消え去るけれど、
その原因であるエネルギーは保存・持続される。
外形・表現体は当然様々な形に変化するのがその本分であり、
千変万化するのが当然であるが、その原因たるエネルギー自体は変化しない。
つまり・・その形を変えて持続する・・のである。

もちろん・・1つ1つの単独の・・形・物体自体は・・失われてしまう。

あなたが自分は肉体だと思っている場合は、
1つの形であると信じこんでいることであり、
現れた物質(肉体)としての自己認識に固定されているということだ。

「私とは死んだら終わりの物質肉体だ」・・と思い込んでいれば、
類は友を呼ぶといわれるような波動の共鳴によって、
わたしは肉体だという類の想念系と同調する。

例えばそこに恐怖が蔓延していれば、その恐怖の想念によって、
それに引き付けられ、巻き込まれるのだ。

肉体の消滅後、その保存されるエネルギー(情報)は、
その主たる想いのフィールド(集合意識世界)に同調し、
そこに想いのタネを下ろすことになる。

タネはそれにふさわしい土壌に植えられるわけだ。
魂はそれにふさわしい集合世界に体験の場を用意する。

自然界を観察し、その仕組みに感じ入ればこれは理解しやすいはずである。




目の前に鉛筆があったとしよう。
これはどうしてここにあるのか?
誰かがかつて鉛筆のイメージを持った、
こうしたほうがいい、これが便利だ、素材は・・などなど、
様々な思いを巡らして・・それを形に表した・・。
代々それを作り、それを販売し、それを購入して、ここにある。

もとは誰かの試行錯誤したイメージの集合であり、
それを身近な素材で形に仕上げたということだ。

そしてその鉛筆が無くなったとしても、
別のものを買うか、あるいは別のものを作るかすれば、
またあなたの目の前に存在することになる。

目先の物が大切なのか?
それを創造している想念・マインドが大切なのか?

古い想念形の形態化と消滅過程という、
ある種苦しいカルマの解消プロセスを・・突き抜けた先に開けている
新たな集合意識世界での基本認識であるといえよう。


主たる思いが人生の方向を決め、経験という実りを刈り取るのだ。
そして人生のみならず、幾多の転生のあり方をも方向づけるからだ。
そう、転生は偶然でも、何かの強制でもなく、想念にもとずいて起きる。
あるいは、別表現でいえは、
この想念(記憶)が、転生によって持ち越される生きた情報である。


一回ぽっきりの無駄な人生などあるわけもない。
そう思わないか?

1回だけだ・・と誰が勝手に決めたのか?
そう思って・・真剣に生きよう・・と言っているだけなのだ。

さらに、
人間として生まれて、たった数年で・・
・・わたし・・という自意識が勝手に発生すると思うか?

微に入り細にわたる想念という壮大な活きた記憶こそが、
人が人間であることを顕現・顕示しているのだ。

わたしが・・わたし・・で在ること・・意識・・それが「証拠」である。

I AM THAT I AM.

この意識原理が理解できようか、

それとも、まったく意味不明だろうか?

今・・人であること・・それは・・

それにふさわしい想念記憶、生きた情報があればこそなのだ。

これは・・あなたも幾多の転生を経てきた「証拠」である。

内面には幾多の転生を経た記憶、

膨大な情報・叡智を蔵している存在なのである。

一体全体・・誰に証拠を求める必要があろう?

必要なのはそれに、真に・・気付くことだけだ。