気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

今起きていること(1)地球の異変

2015-04-29 09:04:20 | 地球の一大変容
今の時代の特徴の1つは、2-30年前から言われてきた「異常気象」であり、またそれが顕著になったことだ。

確かに、2-30年前と比べて、異常気象という言葉を知らない人はほとんどいなくなった。

若い世代の人々は、その新旧比較のしようがないためにピンとこないだろうが、結構長く生きている人々は、明らかに以前とは異なった気象に気付いているはずである。

大気中の気象異変や、地震に代表される地殻の異変は、統計的に言っても、今世紀以降その数やエネルギー規模が増えている。

それらの原因を、全て地球温暖化ということにして、尤もらしいの理由づけをしている感もあるわけだが、逆に、地球温暖化?という概念の流布自体が、ここ数百年来でかつてないことだ。

それは、以前とは異なる状態がこの地球上に生起している事実の、権威筋からの婉曲的な示唆と考えて良い。

資本主義的グローバリゼーションによる2酸化炭素の増加が原因だとする言い分は、ごく一部の話に過ぎず、1つの要因を殊更大きくして、その他を隠す事になっているようである。

異常気象や地殻変移は、個々人の毎日の狭い生活範囲には関係がない事だという想いがあるかもしれないが、そうではない状態が次第に顕在化してきている。

それらは、一時の偶然の気まぐれな変移であって、また平均的な状態に戻るだろうという楽観思考には実際何の根拠もなく、

またここ何十年来の次第に増えてきている様々な経過を見ても、決して妥当な見解ではないのだ。


情報システムや科学技術が発達したおかげで、単に自然環境のデータが増えただけだとすることもできない。

どんなに狭く、鈍い知覚の持ち主さえも、我々のいる地球という惑星の生態系、あるいは時空環境が大きく変化していること気付かざるを得なくなっているはずである。

そう、今地球には異変が起こっているのである。


異変とは ’通常とは異なった変化’のことを言うわけだが、旧態依然の意識から観れば、これは何か、嫌な変化、ネガティブな事変だと捉えられるだろうが、実際はさにあらずである。


大きく言えば、これらは人類のカルマ、繰り返された不自然な意識パターンの解消のために起きているとも言えるのだ。

資本主義という物質繁栄システムによって、行き過ぎた自然の採掘、伐採、汚染がこれ以上進むことを良しとしない、地球意識の再生過程が起きているとも言えるだろう。


極めて優れたシステムには、例えば人間の構築する機械だとか電子システムだとかでも言えるように、

機能保全と修復のためのフィードバック、自己再生機能があるのである。


地球が単なる土塊であると考えること自体、幼稚で無知なことを示している。

・・・・

人間が好き勝手に大気を汚染して生命の環境を棄損し続けても、地球はそのままだと思うのだろうか。

人類が必要だと言って、地殻の中から地球の体液ともいえる原油を無限に汲み上げ続けても、地球はそのままだと思うのだろうか。

自然界にはないほどの濃縮された放射線を発し続け、何百年、何千年も生命の青写真たるDNAを破壊しつづけても、地球はそのままだと思うのだろうか。

地球上のファミリーである動物種や植物種を次々に絶滅させ続けても、地球はそのままだと思うのか。

あちらこちらで紛争の種を植え付け、武器や兵器を消費することで、何千何万という人間の人生経験を勝手に終わらせ、憤りや悲しみを増やし続けても、優しい地球は黙って見ているのだろうか。

たとえば、あなたならどうだろうか?


自分の家がゴミだらけ、火事は燃え放題、人間修羅場だらけになったらどうするだろうか。

それでも黙ってやり過ごすことが、愛や優しさなのだろうか。

いやいや、そんなことは決してあるはずもなかろう。


自分自身から逃げ隠れ出来ない「地球」は、必ず自らを浄化しようとするだろう。

そしてその経験を踏まえつつ、二度と同じような汚染や汚濁を許さない状況にしようとするだろう。


そう、明らかに、システムの「浄化と昇華」が行われるのである。


国益がどうだとか、GDPが上がった下がったとか、民衆をいかに誤魔化すかとか、金融立国がどうだとか、グローバルがどうだとか、

自然の生態系を完全に無視、犠牲となすことを前提とした、そういう人間の為だけの、それも自我・エゴの利益の為だけの行いは、すでにそのお遊び時間が過ぎているのである。


いたずらに怖れたりすることは全くもって本末転倒であるが、世の中には気になる「予言」というものが多々あり、

当たるも八卦当たらぬも八卦としても良いのであるが、人類マクロの想いや行為のパターンが変わらぬうちは、未来も見通せる話となる。

気味が悪い等とは決して思わないし、出どころも権威で保障されたものではないが、中身的にはかなり信憑性のありそうな予言の中の1つに、

知る人は知る・・ビリー・マイヤが宇宙から伝えられたという「エノック予言」というものがある。

ゆっくり中身を見てみれば、まだら模様ではあるが予言が現実になっているものがかなり多く散見され、また現状の世界の方向性が大枠で符号しているようにも感じられるのだ。

偏向報道を鵜呑みにせず、斟酌しながら世界を観察している人々には、今どういう状況になっているのか頷けるところもあるかも知れない。

当然、未来は決まったものではなく、持続する現在の延長であり、また人類の現在とは、多くの人間達の想いとその行為の、現状の総合的な「心的パターン」のことである。


しかしながら、それぞれの人の想いのパターン生成も、それに基づく行為も、

完全に自由意思に基づいており、

決して外側から規定されるものではないことも真実である。


これから重要な心構えは、

怖れや不信の濁流が増大しつつ押し流れてゆく方向に、

決してその想いを合わせないことである。

簡単に言えば、愛や調和に関する想いを常に心がけるということだ。

なぜならば、信念となる想いは・・現実の傾向を形作るところの青写真だからだ。




・・・・

人類の行ってきた想いやその結果である行為の行き過ぎは、ある時点ではっきりと気づき、人類自らの自省と修正が行われるべきなのだが、

残念ながらといおうか、肉体自我の為だけの生き方、物質的な繁栄とその代償である汚染と悲しみを、なお更に求めようとする歪んだ意図が消えないと判断できる時点に至るならば、

そしてそれによって、先行きが明確に見える時点がきたならば、

その時点、いつかどこかで・・・地球自身が軌道修正をせざるを得なくなるのである。

今起きている異常気象、地殻変動、火山噴火の頻発などの極端な事象は、明らかにそのサインである。

まだはもうなり、それはすでに起き始めているということだ。

本当に・・・、こころすべき時に来ていることに、気づけるだろうか。


魂は多次元 (2)魂の波動遷移の時至る

2015-04-27 07:36:47 | 魂の諸相
魂は例えて言えば、あらゆる意識・エネルギー・波動の根源とも言えるだろう。

聖書には始めに「言葉」ありき、つまり意識と波動があったと記されているように、

また人が何事かを行為する以前においては、先ず明確な意識と意図があるように、

またあらゆる物質といわれるものは、波動、エネルギーに還元されるように、

宇宙を顕している「全一性」は、

無限に微小から無限大に至るところの、

無限相に及ぶ波動形態を示している。

「言葉」とは、単なる音声のことではなく、「想いが乗った波動」という意味である。

それはシンプルで深遠な原理、つまりあらゆるものは「波動」ということだ。

見る物、聞くもの、触るもの、あらゆる事物は「波動」によって生じている。

そして、人の目に見える事象、物質は、その波動周波数帯域のほんのごく一部である。


先端物理学でのひも理論、超ひも理論は、素粒子以下のレベルの「弦」のようなエネルギー振動で宇宙を説明しようとするものだといえるだろう。

波動には最大から最小に及ぶ周波数があり、周波数帯域がある。



我々の知っている範囲の原子核は、全て電磁波動エネルギーの局所化した姿であると言える。

人間の体も動物も植物も、岩も土地もあらゆる物質形態は、(電磁)波動エネルギーということだ。

それが証拠に、原子は電磁波動を吸収したり放出したりして、別の核種、物質に変わってゆく。

これは、電磁波動の吸収・放出によって物質組成が変わることを意味している。

・・・

また、さらに高次元的波動である、人の想いもまた波動であり、波動であるからこそ、以心伝心やテレパシックな意思の疎通、直観による事実把握が出来るのである。

想念つまり思考や感情も「波動」なのだ。

あなたやわたしたちの思い描くイメージや感情さえも「波動」なのである。


頭の中で何かを描くことが出来るだろう?

毎日、毎瞬行っていることだ。

他人へのイメージや感情、時折思い出す風景さえも、その波動帯域の中で実際に存在しているのである。

「思念波動」は電磁波動ではないが、スマホやTVの画面を描くシステムと同じように、よく言われる表現であるが、精妙極まりない多次元層での波動システムによっているのだ。

想念波は、電磁波のような物質密着レベルでない<相>というか、高い次元というか、そういう帯域にある波動と言えるだろう。

・・・
この想念も波動であることはバクスター効果といわれるものでも理解できる。

犯罪心理学の専門家であったアメリカのバクスターは、たまたま植物に「ウソ発見器の電極」を付けたところ、植物が人間の想いに強く反応することを発見したのである。

そう、想いやイメージも、多次元宇宙というか、空(くう)というか、その波動帯域に存在しているものへの同調と受信、送信なのである。


無限の存在波動域のことを多次元宇宙といい、また様々な「部分周波数帯域」のことをそれぞれの世界と言っていいだろう。

多次元宇宙には、様々な宇宙があり、恒星や惑星があるのは、多くの部分周波数帯域、チャンネルがあるということを暗示している。

それぞれの衛星TVや通信システムが多チャンネルを持っているようなものである。

・・・

あらゆるものが波動として存在しているわけで、

その波動で構成されているこの世界が、実は幻想であるという言い方も、

この地上の人類世界は、つまり波動で描き出されている、3次元的スクリーンに過ぎないということの謂いである。

平均的な人類の認識している波動域が、ごく一部の物質密着的なものだということだ。



幻想といっても、何もぼんやりしたような「幻想」という意味ではなく、常に千変万化する波動世界であるという意味なのだ。

魂・意識は同じく、

無限の可能性を有する、あるいは無限層で構成される多次元「波動」
といってもいいだろう。

その在り方は、まさにいわゆる宇宙創造主というか神というか、根源生命というか、宇宙存立の原理というか、

それとまさしく同じものである。

あなたである「宇宙の一部」は、・・・本質において・・・宇宙そのものである。

物理的、計測的、3次元的な認識では、人など無限大の宇宙の単なる微小片と観てしまうが、

それは極めて低い次元認識であり、何g、何m等という大きさ・重さの物量的な物差しを

当てているに過ぎないのである。

・・・

想いや感情、イマジネーションなどは、どこにもどんな制約もない。

そして、それらこそが生活や文明、物質的表現形態の「原因」でもあることに、

今は多くの人々が少しづつでも気付き始めた段階であり、

いわゆる物質性を超えた、精神性の重要度に再び気付き始めた段階である。

それはまた、魂の表現形が、内在する無限の波動域の、さらにより高い波動域にその「意識の軸足」を移行する時期であると言えるだろう。

簡単に言えば、想いや感情で表出されるところの「魂」の波動周波数が、低い振動域から高い周波数に移行することである。

映像システムが白黒TVからアナログTVへ、そして地上波デジタルへとより高周波数帯域に移行したように、

あらゆる宇宙の、あらゆる生命表現形は、低い周波数から、それらを含みながらも、より高いより広い波動エリアに拡大進化するようになっているのである。

繰り返しになるが、今は、もうその時なのである。

魂の無限性に気付くか、気づかないか、そのどちらかだと言えようか。








魂は多次元 (1)人は本来生きとおし

2015-04-23 07:11:05 | 魂の諸相
あなたはもう、自分が死んだら全て終わりだと想ってはいないだろう。

そりゃそうだ、あなたは本質において「魂」であって、時間空間など超えている存在だ。

また「そう想う」こと自体が、既に自己創造的であり、またそれが本質的な進化であるということなのだ。

「自己がそうだと想う」ことは即ち「自己認識」であり、それは勝手な想像ではなく、自己創造であり、かつその意識存在の「真実」なのである。


ややこしい表現であるが、

想いによってこそ「自己」を創り上げているということでもあり、

それはまた、

時空を超えた創造主の一部としての「自己」を思い出すということでもある。

意識を有する存在としての人間は、

自己認識を拡大することで、さらに大いなる「自己」即ち、「魂」に気付くようになる。

・・・

地上にいる人々が、「生まれ変わり」に気付くようになると、

自らが実に様々な人生を送ってきた、また送っている存在であるということにも気付くようになる。

当初は漠然とながらでも、自分は一時の肉体としての自己だけでなく、肉体自我を含むさらに大きな自己の在り方に気付くようになるということだ。


様々な場所、時代、歴史のなかで、その様々な「生」を経験する「共通する母体」のことを「魂」と言っているはずである。

3次元的で物質的なだけの自己認識、死んだら終わりの、その場だけの偶然の生命としての狭い自己認識を越えて、

数々の生き様を演じている、その「共通の自己」なるものに気付く様になるのである。


魂、つまり様々な生における共通の自己のことを、大きい「わたし」と言い、

今の常識的なひとりの個人のことを「私」というならば、

例えば、

それぞれの歴史、人生舞台での特定の個人としての自己を「私」といい、時や場所を違えて生きてきた、色々演じてきた俳優、役者のことを「わたし」:魂という風にとらえてもいいだろう。

ひとりの役者が、実に様々な配役となって演技しているという意味である。

役者、俳優はひとりであるが、様々な演劇・ドラマにおいて主人公や脇役、通行人などの様々な出演経験をするわけだが、それらは全てひとりの役者が行なっているように、

魂、つまり<大きなわたし>は、様々な人生、当然生と死を越えた人生経験、生まれ変わり経験を行ないながら成長しているのである。

その魂、<大きな自己>に気付くことが「目覚め」といえるものである。

自分が、死んだら終わりの、ポット出の肉体生物でしかないという迷妄観念体系からの目覚めである。

自己認識が深化する、つまり「わたしは何か?」の問いかけが進むこと、

肉体自己を凌駕した、時代や場所を超えた、つまり時空を超えている意識レベルに拡大されるならば、無理をせずとも、自分の中にある前世や過去生の断片記憶もよみがえってくる。

ふとしたイメージ湧出や、夢での不可思議な情報、変性意識で得られる情報などで、自分で記憶の断片を思い出すか、あるいは退行催眠やリーディング等の手法で思い出すかは問題ではなく、

要は、過去生やら前世と言われる記憶情報、時代や場所を超えた経験記憶を蔵するところのわたし、生と死を超えた次元にある、その共通する「生きとおしの自己」に気付き始めるということである。

目覚める、覚醒するということは、何も虚構の政治・社会体制において、大衆が常に騙されていることに気付くというようなレベルのものではなく、

現在の肉体自我のみが「わたし」であって、

死んだら終わりの、儚く弱い存在であるという、

いつの間にか外から与えられた「迷妄観念」から自由になることなのだ。




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

人間は本来、多次元存在である

2015-04-12 08:06:22 | 魂の諸相
人間とは何か?とは、「あなたとは何か?」、ということであり、

それぞれにあっては 「わたしとは何か?」という問いかけである。

この「わたしとは何か」という自問自答から得られてくる、自分自身への理解こそは、
生きている上での、何ものよりも大きく重要なテーマに相違ない。

なんとなれば、

外の世界、人間関係等の経験の、そのあらゆる接点の「中心」にあるのは「わたし」以外にないからである。

「わたし」がなければ、その知覚対象たる世界など無いということである。

そして多くの人々の、それぞれの「わたし」意識がなければ、集合世界等ないということである。

<人間は神と共同創造することが出来る存在だ>という言い方は、まさしくそういうことを示している。

わたし・・意識がなければ、わたしは・・世界を知覚することが出来ない。


そう、

特に何か特別なことを、こねくり回す事が「創造」ということではなく、

意識すること、「在ること」そのものが「世界を創りだしている」という意味がわかるだろうか?

「在ること」そのものが、それぞれの「世界を創りだしている」のである。

在るがまま、まず、それはすでに創造なのである。


・・・・

わたし・・という「意識」がなければ世界を知覚することは出来ない。

例えば、

目やカメラは物体像を捉えているが、それは視覚情報として通過しているだけであり、

その目やカメラ越しに、「あなた」が居なければその情報を「認識」できないのだ。

耳やマイクは音の振動を受けているが、それは音振動の情報が通過しているだけであり、

その耳やマイク越しに、「わたし」意識がなければその情報を「認識」出来ない。

「意識」があってこそ、何かを何かだと「認識」することが出来るのである。

・・・
例えば、人は死んだらそれで終わりだという観念は、半ば当たりだが、半ば大間違いな見識なのである。

人が死んで居なくなった、だからその人は存在しなくなった。

多くの人はそういう風にだけ思っているのが常だし、

死んだら終わりだから、人生等どうでも良いと思っている人もいるだろうし、

死んだら終わりだから、それは怖い事なので死にたくはなく、

例え保守的でも悪くでも、死ぬまで何とか自分を維持すれば良いという風な日和見的な、

あるいは、ずるいあるいは無関心な取りあえずの・・生き方で終始している人も多いだろう。

あなたはどうだろうか?

・・・・

死んだら終わりは・・・半ばその通りだが、半ば完全に見誤っている見識である。

本当に死んだら終わりなのは、あなたから見た他者の「肉体」でしかない、

逆に、

あなたが死んだら「あなた」がどうなるのかを、生きている間には確認できる術がなかろう?

それでも死んだら終わりで何もない・・・と頑固に勝負するひとは、

どこか何か大きな「恐怖」があるからなのだし、また魂レベルにおいて、この物質偏重世界を味わい足りないとしているからであろうか。
・・・

臨死体験の話は、医者から死亡宣告を受けた本人の意識が肉体から外に広がっていることを如実に物語るものであり、

そういう『知覚認識の働きが、肉体を含んだそれより大きい次元範囲で行われているという事象』が、世界で報告され出した背景には事情があるのだ。

どういう事情かと言えば、

<肉体の死滅は、意識(魂)の死滅にあらず>という、より大きい事実認識が、この3次元的世界に浸透してきたということなのである。

スピリチュアルで言われる、より高い元世界に移行しているという意味でもある。

半霊半物質などと言われるもの、あくまでもそれは「どんな物質か」と考えてしまうことに大きな誤謬があるのだ。

・・・
我々はいわゆる3次元的な自己観念、つまり人間は物質組成の肉体であり、その肉体の中の頭脳が全てを認識しているという観念から、解脱しなければならない時期にあるということだ。

それぞれの私個人の肉体は、この体験次元での表現型式、言わば地球という舞台の借り物衣装であるが、

わたし・・であること、その意識は借り物などではなく、

わたしは・・・わたし以外にあるわけもない。

そうだろう?

単純すぎて、物的証拠など必要でない・・直接認識に気付けるだろうか


多くの魂達が、つまり本来、より大きい次元範囲で存在している本質の「わたし」が、

3次元時空の小さな鳥籠のなかにわざわざ入り込み、そこで汲汲としていたということである。

実際のところは、籠に入るも出るも自由な鳥であるにも関わらず、

籠の外に怖れをなして、ほんの数十cmの中をバタバタと動き回り、

狭い範囲で生まれ変わり、死に変わり、お互い同士が自己保身に明け暮れていたということだ。

自己保身に明け暮れるということは、

狭い範囲でぶつかり合い、押し合い圧し合い、極端には攻撃し合い、殺し合いながら、さらなるカルマというものを増産していたということである。

それもこれも、

自分が死すべき肉体でしかないという、刹那的自己認識観念、あるいはどこかプラグマティックな観念支配が故のことだったのだ。

・・・

かーごめ、 
 (自分を閉じ込める籠目:マトリクス世界で)

かーごめ、
 (自分を閉じ込める籠目:マトリクス世界で)

籠の中の鳥は~、
 (3次元閉塞観念に閉じ籠っている私は)

いつ、いつ、出やるー、
  (ほんに、いつ目覚めるのだろう)

夜明けの晩にー
 (少なくとも、そう、ある特殊な時に至れば)

鶴と亀がすーべった 
(千年、万年という幻想の時間の囲いが壊れて)

後ろの正面、だーれ?
 (個々としての繰り返し転生を観ていた、本質の・・わたし・・に目覚めるのだ)


そう、目覚める・・その特殊な時、というのは・・「今」・・のことである。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。