わたしとは何か・・と問いかけているのは、わたし以外にない。
当たり前だ。
外の世界の誰も、わたしに代わって「わたし」は何か?と、決して問いかけはしない。
そりゃそうだ。
わたしの知覚する世界の中で、自己を自己として感じている者は・・・わたし以外にいない。
他者もそうだと思うのだが、他者は他者でそう感じているだけで、
わたしは、わたし以外にない・・・。
当たり前すぎて、何が何だか?なのだが、
「わたし」は宇宙で「ただひとつ」であるということに気付けるだろうか。
おいおい、私だけかよ・・さみしいじゃないか・・という必要もない。
全てが、皆それぞれ、ただひとつの意識だということ。
オール、イン、ワン。
・・・
大勢の人間がこの世界にいるし、話もするし、
色々コミュニケーションすることはできるが、
わたし・・は「わたし」以外にいない!
例えば、わたしが目を瞑れば、世界は見えなくなるし、耳をふさげば聞こえなくなる。
というよりも、その分だけ世界が消えるということ、
そういうことが言える。
有るのに・・見えないのではなく、有るのに聞こえないのでなく、
その時は、その分だけ世界は消えてしまうのである。
「そんなばかな!・・」というのが、いわば常識であるが、
それは、その他の人が相変わらず世界を見ていて、聞いていて、知覚していて、
あなたにそれを説明するからなのだ。
しかし、他の人も目を瞑り、耳をふさいだら、またまた別のその他の人が、
世界は有るよ・・・と伝えることでしかそれを説明できないのである。
例えば、宇宙の中に、それを知覚認識する意識主体が誰もいない場合、
一体誰が宇宙の存在を証明できるのだ?
宇宙すらも、自らの存在を自覚・証明できないだろう?
つまり宇宙は「存在していない」ことになるのだ。
つまり、「わたし」意識が無ければ、世界は存在しないということ、
自己を自己として認識する人存在、意識存在がいなければ、
宇宙すらもその存在を自覚できないということである。
意識的に・・自覚するからこそ、世界、宇宙があるということだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/35/4488b40910eb4db89f7ae961a18f1c07.jpg)
創造主、神なる根源の自己想起・・それが宇宙。
それは、意識的存在である・・人・・にあっても同じこと、
我々が有る・・、在る・・、あることは、神の宇宙創造と相似なのだ。
簡単に言えば、宗教がかって聞こえるのは致し方ないが、
意識的存在であるところの、「わたし」達は・・神々であるということだ。
大きな物を動かすとか、大金を所有するとか、ウルトラマンのように巨大だとか、
そういう物量の過多ではなく、目先の刺激や威力の大小でもなく、
存在そのものが、宇宙を創造しつつ、それを知覚認識しているという、
絶大で、かつシンプルすぎる真実に気付けるだろうか。
例えば、あなたが片目を閉じれば、あなたの世界はマジそうなるのだ。
そう見えるのではなく、そう成ることを・・「知覚」しているということ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/02/24753478678e1d70812585e554e816cb.jpg)
今までは、事物や環境が先にあると「思い込んでいた」からこそ、
客観世界が先にあって、私たちはその中の身体動物だと思い込んで、
あるいは、思い込まされてきたせいで、
わたしという・・意識が、わたしの世界のすべての根源にあるという、
このような逆転認識はピンと来ないかもしれないが、
全ての根源には、わたし・・があるという・・「真実に戻る」だけの話。
わたしは、わたしであるところの・・それである。
I am that I AM.
これは宇宙のまさに創造原理。
これがあなた方でもある。
極めて、最もシンプルなことが、
最も難しいなんて、まったく、どういうことだろうか。
言わば、これが聖書にある「ラクダの通る針の穴」だ。
物量観念、唯物観念では、確かにそんな大きなものは決して通れない。
しかし、わたしはラクダではない・・・。
わたしは・・わたしという認識主体、意識存在、意識体、いわば法則であって、
外の世界に投影された姿形、物量、現象ではないからだ。
現象や物量は現れては消え去るもの。
鏡に映った自分の姿形を求めて、鏡の表面をかきむしっても、そこには何もない。
投影された事物は<あなた>自身ではないのだ。
そう、
わたしは・・・鏡の中にはいない。
物質や、時空間の中にはいない。
外の世界の、中・・・にはいない、
ましてや集合意識の強制や束縛の中にもいない、
滅び去ることも、破壊されることもない。
何がどうなろうが、本質で何も心配など要らないということだ。
外の世界の、ほんの微小片がわたしだ・・ではなく、
そうではなく、外の世界を映し出す、こちら・・手前、それが<わたし>だ。
それを魂だとか、意識だとか、生命だとか、神だとか言っているだけのことだ。
主観論だとか、汎神論だとか、そういう頭の「観念」の話ではなく、
我々が、わたしとして・・今在る・・・事実を説明しているだけ。
だって、そうだろう。
目の前のパソコンやスマホは、
一体「誰」が見ているのだ?
夜空の星々は、
一体「誰」が観測しているのだ?
苦楽の人生を経験しているのは。
一体「誰」なのだ?
幾多の転生や世界を体験し、様々な人格を演じているのは
一体「誰」なのだ?
いまの、わたし・・という、宇宙の自己認識の働きそのもの、
それは消え去ることも、かつて生まれたこともなく、
それは、永遠に、いつも、「それ」なのだ。
わたしとは、それである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/cf/84a5eee8f3ca6ac4dadd6784269348a4.jpg)
本日も拙い記事を御覧頂きまして、誠に有難うございました。
当たり前だ。
外の世界の誰も、わたしに代わって「わたし」は何か?と、決して問いかけはしない。
そりゃそうだ。
わたしの知覚する世界の中で、自己を自己として感じている者は・・・わたし以外にいない。
他者もそうだと思うのだが、他者は他者でそう感じているだけで、
わたしは、わたし以外にない・・・。
当たり前すぎて、何が何だか?なのだが、
「わたし」は宇宙で「ただひとつ」であるということに気付けるだろうか。
おいおい、私だけかよ・・さみしいじゃないか・・という必要もない。
全てが、皆それぞれ、ただひとつの意識だということ。
オール、イン、ワン。
・・・
大勢の人間がこの世界にいるし、話もするし、
色々コミュニケーションすることはできるが、
わたし・・は「わたし」以外にいない!
例えば、わたしが目を瞑れば、世界は見えなくなるし、耳をふさげば聞こえなくなる。
というよりも、その分だけ世界が消えるということ、
そういうことが言える。
有るのに・・見えないのではなく、有るのに聞こえないのでなく、
その時は、その分だけ世界は消えてしまうのである。
「そんなばかな!・・」というのが、いわば常識であるが、
それは、その他の人が相変わらず世界を見ていて、聞いていて、知覚していて、
あなたにそれを説明するからなのだ。
しかし、他の人も目を瞑り、耳をふさいだら、またまた別のその他の人が、
世界は有るよ・・・と伝えることでしかそれを説明できないのである。
例えば、宇宙の中に、それを知覚認識する意識主体が誰もいない場合、
一体誰が宇宙の存在を証明できるのだ?
宇宙すらも、自らの存在を自覚・証明できないだろう?
つまり宇宙は「存在していない」ことになるのだ。
つまり、「わたし」意識が無ければ、世界は存在しないということ、
自己を自己として認識する人存在、意識存在がいなければ、
宇宙すらもその存在を自覚できないということである。
意識的に・・自覚するからこそ、世界、宇宙があるということだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/35/4488b40910eb4db89f7ae961a18f1c07.jpg)
創造主、神なる根源の自己想起・・それが宇宙。
それは、意識的存在である・・人・・にあっても同じこと、
我々が有る・・、在る・・、あることは、神の宇宙創造と相似なのだ。
簡単に言えば、宗教がかって聞こえるのは致し方ないが、
意識的存在であるところの、「わたし」達は・・神々であるということだ。
大きな物を動かすとか、大金を所有するとか、ウルトラマンのように巨大だとか、
そういう物量の過多ではなく、目先の刺激や威力の大小でもなく、
存在そのものが、宇宙を創造しつつ、それを知覚認識しているという、
絶大で、かつシンプルすぎる真実に気付けるだろうか。
例えば、あなたが片目を閉じれば、あなたの世界はマジそうなるのだ。
そう見えるのではなく、そう成ることを・・「知覚」しているということ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/02/24753478678e1d70812585e554e816cb.jpg)
今までは、事物や環境が先にあると「思い込んでいた」からこそ、
客観世界が先にあって、私たちはその中の身体動物だと思い込んで、
あるいは、思い込まされてきたせいで、
わたしという・・意識が、わたしの世界のすべての根源にあるという、
このような逆転認識はピンと来ないかもしれないが、
全ての根源には、わたし・・があるという・・「真実に戻る」だけの話。
わたしは、わたしであるところの・・それである。
I am that I AM.
これは宇宙のまさに創造原理。
これがあなた方でもある。
極めて、最もシンプルなことが、
最も難しいなんて、まったく、どういうことだろうか。
言わば、これが聖書にある「ラクダの通る針の穴」だ。
物量観念、唯物観念では、確かにそんな大きなものは決して通れない。
しかし、わたしはラクダではない・・・。
わたしは・・わたしという認識主体、意識存在、意識体、いわば法則であって、
外の世界に投影された姿形、物量、現象ではないからだ。
現象や物量は現れては消え去るもの。
鏡に映った自分の姿形を求めて、鏡の表面をかきむしっても、そこには何もない。
投影された事物は<あなた>自身ではないのだ。
そう、
わたしは・・・鏡の中にはいない。
物質や、時空間の中にはいない。
外の世界の、中・・・にはいない、
ましてや集合意識の強制や束縛の中にもいない、
滅び去ることも、破壊されることもない。
何がどうなろうが、本質で何も心配など要らないということだ。
外の世界の、ほんの微小片がわたしだ・・ではなく、
そうではなく、外の世界を映し出す、こちら・・手前、それが<わたし>だ。
それを魂だとか、意識だとか、生命だとか、神だとか言っているだけのことだ。
主観論だとか、汎神論だとか、そういう頭の「観念」の話ではなく、
我々が、わたしとして・・今在る・・・事実を説明しているだけ。
だって、そうだろう。
目の前のパソコンやスマホは、
一体「誰」が見ているのだ?
夜空の星々は、
一体「誰」が観測しているのだ?
苦楽の人生を経験しているのは。
一体「誰」なのだ?
幾多の転生や世界を体験し、様々な人格を演じているのは
一体「誰」なのだ?
いまの、わたし・・という、宇宙の自己認識の働きそのもの、
それは消え去ることも、かつて生まれたこともなく、
それは、永遠に、いつも、「それ」なのだ。
わたしとは、それである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/cf/84a5eee8f3ca6ac4dadd6784269348a4.jpg)
本日も拙い記事を御覧頂きまして、誠に有難うございました。