気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か(15) 神々の目覚め

2015-11-30 03:08:44 | 新たなる地平線
わたしとは何か・・と問いかけているのは、わたし以外にない。

当たり前だ。

外の世界の誰も、わたしに代わって「わたし」は何か?と、決して問いかけはしない。

そりゃそうだ。


わたしの知覚する世界の中で、自己を自己として感じている者は・・・わたし以外にいない。

他者もそうだと思うのだが、他者は他者でそう感じているだけで、

わたしは、わたし以外にない・・・。


当たり前すぎて、何が何だか?なのだが、

「わたし」は宇宙で「ただひとつ」であるということに気付けるだろうか。

おいおい、私だけかよ・・さみしいじゃないか・・という必要もない。

全てが、皆それぞれ、ただひとつの意識だということ。

オール、イン、ワン。

・・・

大勢の人間がこの世界にいるし、話もするし、

色々コミュニケーションすることはできるが、

わたし・・は「わたし」以外にいない!


例えば、わたしが目を瞑れば、世界は見えなくなるし、耳をふさげば聞こえなくなる。

というよりも、その分だけ世界が消えるということ、

そういうことが言える。


有るのに・・見えないのではなく、有るのに聞こえないのでなく、

その時は、その分だけ世界は消えてしまうのである。


「そんなばかな!・・」というのが、いわば常識であるが、

それは、その他の人が相変わらず世界を見ていて、聞いていて、知覚していて、

あなたにそれを説明するからなのだ。


しかし、他の人も目を瞑り、耳をふさいだら、またまた別のその他の人が、

世界は有るよ・・・と伝えることでしかそれを説明できないのである。


例えば、宇宙の中に、それを知覚認識する意識主体が誰もいない場合、

一体誰が宇宙の存在を証明できるのだ?


宇宙すらも、自らの存在を自覚・証明できないだろう?

つまり宇宙は「存在していない」ことになるのだ。



つまり、「わたし」意識が無ければ、世界は存在しないということ、

自己を自己として認識する人存在、意識存在がいなければ、

宇宙すらもその存在を自覚できないということである。

意識的に・・自覚するからこそ、世界、宇宙があるということだ。




創造主、神なる根源の自己想起・・それが宇宙。


それは、意識的存在である・・人・・にあっても同じこと、

我々が有る・・、在る・・、あることは、神の宇宙創造と相似なのだ。


簡単に言えば、宗教がかって聞こえるのは致し方ないが、

意識的存在であるところの、「わたし」達は・・神々であるということだ。


大きな物を動かすとか、大金を所有するとか、ウルトラマンのように巨大だとか、

そういう物量の過多ではなく、目先の刺激や威力の大小でもなく、


存在そのものが、宇宙を創造しつつ、それを知覚認識しているという、

絶大で、かつシンプルすぎる真実に気付けるだろうか。


例えば、あなたが片目を閉じれば、あなたの世界はマジそうなるのだ。

そう見えるのではなく、そう成ることを・・「知覚」しているということ。




今までは、事物や環境が先にあると「思い込んでいた」からこそ、

客観世界が先にあって、私たちはその中の身体動物だと思い込んで、

あるいは、思い込まされてきたせいで、

わたしという・・意識が、わたしの世界のすべての根源にあるという、

このような逆転認識はピンと来ないかもしれないが、

全ての根源には、わたし・・があるという・・「真実に戻る」だけの話。


わたしは、わたしであるところの・・それである。

I am that I AM.

これは宇宙のまさに創造原理。

これがあなた方でもある。


極めて、最もシンプルなことが、

最も難しいなんて、まったく、どういうことだろうか。


言わば、これが聖書にある「ラクダの通る針の穴」だ。

物量観念、唯物観念では、確かにそんな大きなものは決して通れない。

しかし、わたしはラクダではない・・・。


わたしは・・わたしという認識主体、意識存在、意識体、いわば法則であって、

外の世界に投影された姿形、物量、現象ではないからだ。

現象や物量は現れては消え去るもの。


鏡に映った自分の姿形を求めて、鏡の表面をかきむしっても、そこには何もない。

投影された事物は<あなた>自身ではないのだ。


そう、

わたしは・・・鏡の中にはいない。

物質や、時空間の中にはいない。

外の世界の、中・・・にはいない、

ましてや集合意識の強制や束縛の中にもいない、

滅び去ることも、破壊されることもない。

何がどうなろうが、本質で何も心配など要らないということだ。


外の世界の、ほんの微小片がわたしだ・・ではなく、

そうではなく、外の世界を映し出す、こちら・・手前、それが<わたし>だ。

それを魂だとか、意識だとか、生命だとか、神だとか言っているだけのことだ。


主観論だとか、汎神論だとか、そういう頭の「観念」の話ではなく、

我々が、わたしとして・・今在る・・・事実を説明しているだけ。


だって、そうだろう。

目の前のパソコンやスマホは、

一体「誰」が見ているのだ?


夜空の星々は、

一体「誰」が観測しているのだ?


苦楽の人生を経験しているのは。

一体「誰」なのだ?


幾多の転生や世界を体験し、様々な人格を演じているのは

一体「誰」なのだ?


いまの、わたし・・という、宇宙の自己認識の働きそのもの、

それは消え去ることも、かつて生まれたこともなく、

それは、永遠に、いつも、「それ」なのだ。


わたしとは、それである。





本日も拙い記事を御覧頂きまして、誠に有難うございました。


わたしとは何か (14)全てが神成(かみなり)

2015-11-27 05:38:35 | 新たなる地平線
この世界には様々な宗教があり、そのほとんどに神という中心概念がある。

その言い方は、それが神でも仏でも、ご本尊でも何でもよくて、要は、

最大の権威と力と知力と愛を備えた、宇宙創成の無限者という風に奉られてしまっているわけだが、そりゃウソである。

全くの虚妄、だからこそ今の古い世界の最終段階で、宗教同士、あるいは銭・金・物信仰に篤い者たちが急に暴れ出るような状況になっている。

ウソがバレバレになって、もうやけくそになりそうな勢いで世界を混沌化しようとしているわけだ。

例えば宗教の派閥の争い、それぞれの神同士で争うことで、命までかけている幼児たちがいるし、それを囃し立てて漁夫の利を得ようとしている更に幼い者たちもいるわけで、

そういう背後の神は、神でもなんでもないことは、自明の理であるにも拘らず、その神たちを背景にした信条同士の陰湿な争いが中近東、あるいは欧米を中心とした時空間で生じて始めている。

そう、古い思想・信条、感情と記憶のごちゃ混ぜになった想念の極めて大きな塊が、砕け散るプロセスにあるようではないか。

メギドの丘、ハルマゲドン、最終戦争への誘引は、古い欧米文化の申し子たちの好きなそうな、最後で大爆発の3流映画のようなものである。


古い世界から新しい世界に一大転換する時には、嫌々をして駄々をこねる者たちが出てくることぐらい、旧約聖書以前の時代の叡智には、それがわかっているからこそ、ヨハネの黙示録やダニエル書などという預言書として残されている。

仏教ですらも、末法の世の有様を記録したものがあるくらいだ。

それが警告表示の為であるにもかかわらず、敢えてそうすべきだとのお告げだとか、それが天国に至る宿命だとか信じ込んで、

その方向に進もうとしている者たちの全き愚かさがなんとも言いようがないし、それを煽って銭物金を得ようとするハイエナになりきったような成金たちはもうどうしようもない。


・・・ちょっと考えれば察しがつくのだが、

あなたやわたしたち、動物たち、植物たちを神が創ったというのならば、

神は、全能で全知でそして遍在であるならば、

あなたやわたしたち、いと小さき者も、大きなものも、

神は全身全霊で創造していると気づかないのだろうか、

全身全霊である!

どこかの経営者や権力者のように、騙しだまし、チマチマと小出しにしつつ、

飴とむちで人々を利用してなんぼのようなものだと勘違いしているのではないか。


神なる全ての創造の根源は、宇宙の中のどういう部分であっても、

大きいとか、小さいとか、広いとか重いとか軽いとか、

全く関係なく、

全身全霊で自らを顕しているのだと気づけないのだろうか。

愛とはそれだ!


全身全霊とは・・・、部分・部分が全て神だということだ。

幾らになる? 大きい? 価値がある? 役に立つ? 何万円?


そんな物量比較、他人との違いの比較裁定、そういう古い支配観念で終始していれば、

宇宙の全てのものが、部分部分が、創造者の「全身全霊」の表現そのものであるなどという、

極めて単純な事実さえ目に入らないだろう。


物質を信仰していては、本当に神の全身全霊なる創造を観ることが出来ないということだ。

自己保身のために、他人の顔色や考えや行動を気にしていては、到底目の前にある真実さえも見えないかもしれない。

いま在る・・てことは、どんだけのことか!
・・・

今生きて在ることの・・奇跡、「われ在り・・!」

それを自らの意識で気づいている人間こそは、

神の全身全霊の顕現の最たるものなのである。


自他の比較や高低、多い少ない、効率や値段、

そんな社会の道具にしか過ぎない観念を、

ご主人さまのように身に着けてしまったことに気付いた者たちは、

さっさと外してしまえる瀬戸際に来たのだと自覚すべきだろう。

・・・
山川草木、国土悉皆、成仏。

全ての全ては、部分も全体も、創造の全身全霊を宿しているのである。

社会生活の煩雑な事がら、世界の物量のやり取りなど、今はそれはそれとして、

しかしながら、ことの本質には確実に目覚めていることだ。

事の本質、即ち、あらゆる全てがいわゆるところの「神」であり、

あなたもまた<それ>であるということだ。

メビウスの輪の無限の向こう側は、元にもどるように、

全知全能なる最大の神と称するものは、今ここに、そこに、そしてわたしでもある。



神なるものの全身全霊さ、それが「神は相成り」、「神は愛なり」ということだ。

事実を、そのまま、ありのままで認めるだけでよいわけだ。

静かに感じるべきではないのか。

「そして我もまた神成(かみなり)」・・と。


いま在る、身体、こころそして魂において、全身全霊で感じることである。

静かに・・当たり前の、そこに在る事実、ただそれだけのこと。

嗚呼、なんてこったい!、一番身近な、それぞれのわたしが・・それだったとは・・!

しかしながら、それが、全き、今ある、永遠にある真実なのだ!

なんてこった・・!

おー、マイ・ゴッド!!






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

わたしとは何か(13)こころを観る者、即ち<魂>

2015-11-21 09:15:32 | 新たなる地平線
●人類の喫緊の課題はこころの浄化である
人類の全てが最優先課題として注目すべきことは何かと言えば、

自己内面の浄化に他ならない。

浄化とは簡単に言えば、洗濯して汚れを落とすことである。

こころの洗濯とは何かと言えば、意識内面に付着した悪想念、悪感情を取り払う事である。

祝詞である「祓いたまえ、清めたまえ・・」は、周囲の環境のことでは無く、

その環境を投影・投射しているところの、基(もとい)である、自己自身のこころを、

汚れのない素の在り方に戻すことである。

唯心諸元、こころ、意識の働きが全ての顕現の元にある・・・のに、

その自己のこころを見ずして、何がどうしたこうしたも、あるわけもない。

●こころの歪みは即ち、歪んだエネルギー
大勢の私達は、支配者や社会や世間が言うことだけに歩調を合わせて、

それをいつのまにか信念として取り込み、そのプログラムに沿って生きることで、

往々にして、競争や争いのパターンにハマりこんでしまい、

本来そうでない魂・意識・・・とのギャップがストレスとなり、

その、「こころの持続せる歪」がエネルギーとなって、

様々な不都合な現象が降りかかってくることになる。


人々は、気付かず知らずに、そういう悪循環に陥っていたのだ。

今、世界で巻き起ころうとしている不穏な動きは、まさにそのパターンの極大化であると言えよう。

そう、今既に、聖書の黙示録の預言の世界に入っていると思えないか。

旧約のダニエル書にある「荒らす憎むべきもの」が既に跳梁跋扈しているように見えないか。

●こころの歪みは自分で創っている
しかしながら、悪いのは外の誰かや、社会や他者ではなく、

それらと接する自己の、そのこころに溜め込んでしまう「こころの歪み」なのだと気付くべきだ。

ここが、魂が人間関係や社会環境で学ぶところの重要なポイントでもある。

争いや無知の蔓延したこの世界、明らかに程度の低いかもしれないこの地球の環境も、

そういう意味で大切な学び舎なのだ。

従って、自己のこころがどういう状態なのか?に気付いていること、

そう、<こころの動きを観察すること>が最も重要な仕事なのである。


人それぞれが最優先にすべきことは、

世界の誰かの巨悪を暴くよりも、

社会システムに革命を起こす事よりも、

愚かな政策に集団デモで対抗する事よりも、

誰かの間違いを証明してあげることでもない。

●意識次元の上昇とは
魂たちが、自己のこころの動きを観ることが、まず最優先課題であり、

なんということもない、日常でのこころの観察という意識的行為こそが、

自らが単なる肉体でなく、単なるこころでもなく、

それらを生ぜしめている本質である魂だと気付くことにつながり、

肉体・物質レベルを含みつつ、それを超え、

マインド・精神のレベルを含みつつ、それを超えたところの、

本質、<魂>としての自己、言わば高次の自己意識に上昇することになる。

そこに在るのは、すべてを生み出すところの静寂でもある。

・・空即是色、そして色即是空・・・は、それを極めて簡素に示した言霊である。


簡単に言えば、我々の時空においては、

物質・肉体心・想念魂・意識  の順により高次元へとつながっている。

今ここで多次元を体現しているのが人間というものだ。

どこか遠くの遥かな別世界にあるわけではないのだ。


常に、自己の言葉や行動の元に有る「想念」を観ること、

例えば、古くからの禅の修業はまさにそれであり、かつての修業は、

騒がしい環境から離れ、ただひたすら自己の内面を観続けることであった。

そうして、何も生産的でないように見えるこころの観察、

こころを見つめ続けることで、こころと体の成りたちが感得されるのだ。

体をそれとして知覚しているのは、こころの働きであり、

そして、

こころと体を観ている行為は、すなわち、魂の視線を意味しているのである。




●自己想念観察の効能
常日頃の人間関係、社会関係の出来事の中で、その中に在りつつも、

常に自らのこころの動きに気付いている意識を維持することで、

どんな心の反応でも、それに埋没してしまうことなく、

悪感情が出てはあちらに・・、怒りが出てはこちらに・・、

さらさらと流せるようになる。

まるで台風の中に在っても、その中心に位置するようなものとなり、

外がどういう騒ぎであったとしても、

こころの不動と静寂の中にいることに気付けるようになる。

またそのこころの動きの中において、微細な情報を感じ取ることも可能となって、

他人の想いや、自然界の意識の働きまでも次第に気づけるようになるものだ。


これはいわゆる超能力とか言われる範囲のものでありながら、

意識は全てがつながっているという表現の、実地検証のようなものに他ならない。

これは実際の行動、意識的行為の先にあるものであって、

さらりと概念を重ね合わせで頭や思考で理解することではない。



こころを観るだって?

それで何の利益があるのか?

どんな効果があるのか?とか、

そういう物質レベルの損得の話ではないからこそ、

それは意識的に行われることでしか悟ることができない。


物質レベルの重い世界から離脱するためには、

こころを発見し、それを意識して使う必要があるということも言えるだろう。


逆に、物質レベルに終始することを選んでいる場合は、

メディアで盛んに宣伝している方向しか見ることが出来ず、

ましてや精神や心など眼中になく、そんなことよりも、銭・金・物、

名誉や地位や権力を、飽きるまで追いまわし続けるだろう。



そうだ、それが今までの古い世界での栄枯盛衰や民族、階級闘争の歴史なのである。

しかしながら、それはもう終わりが来ているのである。


●選択はそれぞれの吾(われ)にあり
新しい世界へのシフトの時が来ているのだが、、

注意すべきは、

誰かがそれを決めるのではなく、またそれまで待つということでもなく、

権威筋が決めるまで様子を見るとかでなく、

それぞれのわたしたちが「今」決めることなのだ。

意識的・意図は、想念となり、エネルギーを経て現象化する。


遅かれ早かれ、そういうことである。

魂にとって常に最善のタイミングでそれらは起きるのであれば、

遅いも、早いも、焦りも不信も全く不要である。

何ごとも、創造においては、全て良しなのだ。

それぞれのわたしのやるべきことは、

「何が楽しいのか・・」それを意識的に決めることである。

後は、潜在意識あるいはエネルギーが働いてくれて、現象という果実を落としてくれるだろう。

今の時期は、意識的選択がなければ、無選択という選択となって、

そのうち無意識の中からまた這い上がるような世界で目覚めるかもしれない。

I am THAT I AM.

わたしとは、わたしである、その者である。

わたしとは、第一義的な自己存立原理そのもの、

自己認識で自らの体験を選んでいる者、とも言い換えられる。

自らの選択に他者など入りようがないし、他者などもともと幻想であり、

わたしという、言わばひとつなるもの、神なるものが、例えば3面鏡で無数に投影されているようなものなのだ。


●文明としての次元上昇の意味
今までの、肉体や物質の観察から、こころの観察への移行によって、

いわゆる3次元的物質偏重世界から、

こころ・精神をも含む世界への移行が行われるということだ。

銭・金・物、物量の蓄積、起きている現象の解析・分析ばかりではなく、

人間の意識の働きが、それらの物質的事象の背後にある要因であると理解される。

これは量子物理上の発見に伴う科学的見解とも言えるのだ。


そういう一段と高い次元というか、意識レベルへ移行した文明・文化は、

時空間での自由度が相当に拡大し、精神性も格段と向上することになる。

そこに住まう者たちは、意識でつながったすべての生命は、

お互いが完全に独自でありながら、

すべてがひとつであると認識している。

●自己のこころは、自己以外とつながっている
自らのこころを観察し、その動きを把握できる存在は、

繋がった意識において、他者のこころとも容易に共感できるわけで、

詐欺や嘘も存在できず、ある意味で非常に効率の良い社会とも言えようか。

当然ながら、詐欺や騙しが存在できず、

そこでは競争や争い、殺戮などあり得るはずもない。

そう、唯一不可能なことを上げれば、お互いを傷つけるバカバカしい行為である。

物質のみならず、精神・マインドも観察対象にした高度文明では、

それが、あらゆる自由度が拡大した世界といえども、

残念ながら、嘘や騙し、そしてそれから来る闘争や戦争、

そう、分裂が故の混乱と騒乱、・・これだけは不可能である。





わたしとは何か (12)魂経験の転換点

2015-11-11 05:28:23 | 新たなる地平線
今までの地球の人類の平均的な在り方は何かといえば、

人間の構成要素である「魂」・・「こころ」・・「肉体」のうちの、

肉体への意識集中が中心であったと言えよう。

肉体へのフォーカスとは、つまり物質的在り方への偏執ということだ。


そう、五感で感じる世界の、そのベースと感じている「肉体」の維持や安楽さを、

まず最も重要な事だとして、生活を送り、文化を築き、文明を創り上げてきたということだ。


あなたの大切なものは何だろうか?

あなたの多少の財産だろうか・・。

あなたの周囲の肉親・家族だろうか・・。

あなたの生活する家だろうか・・。

生活の糧を得る会社や組織だろうか・・?


そりゃそうだろうと思うのだが、それはなぜかと言えば、

この世界で、まず安全に安楽に生きることが先だと思うからだ。

なぜそうなのかと言えば、

魂は、この世界を十分に経験することを目的にしているからだ。


せっかく次元降下して下生したにも拘らず、

分けのわからない人間達の、思惑と無知の流れに押し流されて、

その争いや混乱によって肉体を失い、すぐに天に戻っても、

それは魂、本来の目的ではないからだ。


誰しも、今もどこかで行われている、エゴ同士の衝突に巻き込まれ、

命を落としたことが何度もあるものだ。

あなたは憶えていないというかもしれないが、何度も転生した魂には、

その記憶が間違いなくある・・・。



えー、どこにあるかって言えば、

あなたの「こころ」のどこかにある「恐怖」として残っているではないか。

その恐怖は、単なる身体維持機能上の「警戒心」のみならず、

子供のころに遭遇したかもしれない、大人の歪んだ世界の衝撃による「トラウマ」のみなtらず、

こころのトーンのなかの波動として残っているものである。

とにかく何か怖い、それは時折の夢などでも示されるものなのだが、

気付いているだろう?


自分の潜在意識にどこか「恐怖」があるのを、自らで観て取る必要があろう。

しかしながら、その恐怖はこの世界ならではの「教材」なのである。

そして、恐怖が無くなれば・・その教材は消滅する、そこまでのものだ。


肉体を失う恐怖が、今までの人類の共通の歪んだ感情となっていたのだ。

魂が十分に経験せずに、天に戻ってしまうことは、繰り返し転生で補う事になり、

この粗い世界での数々の、生と死の経験によってその恐怖が蓄積されてきた。

この3次元世界と上位との次元往復を輪廻転生と言って良い。


・・・・

「あー、この世は天国のように居心地が良く、温泉宿のように気楽で、どんなことを所望しても叶えられるところだ、・・・何度でも訪れたい・・!」

・・・等と言うような世界ではなかろう?



近代の、自由で民主的だ、平等だというスローガンは絵に描いた餅のようであり、

結局それは騙しの錦の御旗として、世界で林立して争ってきた、この小さな丸い3次元世界、

その身にとっては意味もなく殺戮が行われ、意味もなく無知が横行し、意味もなく支配者という幼児がのさばってしまっている、まるで千と千尋の「湯屋」。



一体全体・・なんでこういう世界にわざわざ降りてきているのだ?

一体全体・・どうして「わたし意識」をいったんリセットしてまで、何度も赤子で生れてくるのかと言えば、


あなたの本質である「魂」が<経験>をするためである。

魂が経験し、「こころ」で感慨を生み出す、

そのための世界との接点が、「肉体」なのだ。


わたしが、自分が死んだら終わりの単なる身体であるというたわごとは、

たわごとを教えた、それが例えあなたの無知な親であっても、

あるいは、何か知ってそうで何も知っていなかった学校の先生であっても、

いつも何かありそうな騒ぎの社会であっても、


あなた自身が、それは戯言(たわごと)である事を<見切る>ことが、

それ即ち、そういう人生舞台での競演者たち、親や先生や社会や多くの他者のためになるということに気付いているだろうか。


過ぎたる銭・金・物、地位や権威や権力は、いっさいがっさい何の役にもたたない代物。

それらにしがみ付き、必死で執着するエゴの頑張りは、尚更恐怖を蓄積する行為であり、

まるで、いたいけな赤子の汚物のように、この世界や周辺世界をどこか汚染して来たとも言えるだろう。

それにしがみ付く者たちは、また同じことを違うところで繰り返すことを所望している。

・・

しかし母なる地球は人類のおむつ替え時期、幼年期を終え、

人類自らで歩けるようにという眼差しに移行した今の段階では、

一切の過保護を打ち切ることになるわけで、

それは、明らかに厳しくなった今の大自然の様相や、

それを無意識で感じている人達の、焦りや騒ぎで観て取ることが出来るだろう。


朋よ、今はそういう「舞台の転換」時期なのだ。

今はもう地べたに這いつくばっていてはなるまい。

銭・金・物、地位や権力、支配や収奪から意識を外す時なのだ。

肉体、こころ、魂・スピリットへと意識を戻す時期ということだ。

そして、今・・わたし・・に帰還する時なのである。




魂の経験のプロセスで昇華される、えも言われぬ味わい、

泥の世界でこそ、咲く蓮(はす)の花、

無明なる世界でこそ、光が灯ることを意味するのである。

それが、不自由でどこか不快なことの多い、

この世界の接点としての肉体経験で得た「魂の知恵」なのだ。


一体全体・・なんでこういう世界にわざわざ降りてきているのだ?

一体全体・・どうして「わたし意識」をいったんリセットしてまで、何度も赤子で生れてくるのか。



今・・ここにいるわたしたちは、もう、それに気づいているはずである。

魂の経験のプロセスで昇華される、えも言われぬ味わい、

泥の世界でこそ、咲く蓮(はす)の花、

無明なる世界でこそ、光が灯ることを意味するのである。

また、それに気付いたあなたは、既に成し遂げたと知るべきである。


そして・・今あるのは、あらゆることに対する感謝ではないか。

肉体よ、ありがとう、

こころよ、ありがとう、

スピリットよ、ありがとう。

真に実感することによって、

人間のそれら3つの層は、一つに統合された「わたし」に帰還する。

周囲の人々よ、ありがとう、

銭・金・物よ、ありがとう、

地球よ、ありがとう、


あらゆる全ての創造は、全てにおいて・・完全に良し!

そう、これからの魂の体験は、それが芯としてある経験になるだろう。

今来ている・・その魂経験の転換点を・・雄々しく越えよ!





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


わたしとは何か (11)潜在意識と顕在意識

2015-11-07 06:27:59 | 新たなる地平線
潜在意識という概念は、ユングやフロイトによって導入されたもので、膨大な意識の領域を示すものだといえるだろう。

人類集合意識の中の、膨大にある気付いてない部分とも言えようし、個々においても、潜在として存在するけれど、それに「気づいていない」・・そういう意識のことだ。

未分化の気付き、現れていない気付き・・と言っても良い。

潜在せる意識、多かれ少なかれその人が「気付いていること」「憶えていること」を表面意識とすれば、

潜在意識は、その背後にあるバックグランド、意識表面の・・その背後にある意識と言えよう。

あなたが今世界で色々見ている・・その『後ろの正面』である。


それはよく海に例えられ、巻き起こる水面上の個々の波の・・その下には、膨大な大海があるということだ。




その「意識の大海」のことを、潜在意識あるいは「神意識」といって良いし、「根源意識」と言って良いだろう。

そう、潜在意識とは、人間の頭脳の片隅にある忘れている人生の記憶群だけではなく、

幾多の人生の記憶の生きた倉庫であるだけではなく、

それらのすそ野が多次元層に渡って交差しながら続いている、

その「無限の意識」のことである。


あなたが、今・・ここで生きて、五感で世界の様々なことを知覚していること、

またそれについて感じていること、考えること、感情が動くことは、

つまり、その都度現れている「表面意識」の波立ちのようなものなのだ。


意識の働き、それらすべて頭脳が作り出している等と言う短絡した定義づけは、

機械還元論者、物質収集好きの、言わば唯物論オタクのたわごとであり、

誰もそれを証明も検証もしていないものを、さも尤もらしく権威づけして、勝手に決めつけているだけのことだ。

そういう者たちがいわゆる人類の支配層に成り上がってしまっている為に、

気付きの少ない一般民衆はそれに騙されているか、あるいは安易に頼っているということだ。


意識の働き、それらすべて「頭脳が作り出している」・・等と言う短絡した定義づけは、

例えばあなたが持っている「スマホ」の中であらゆる情報全てが造られていると勘違いするようなものだ。

スマホは、情報通信を経由して、様々なサーバーと接続され、

情報がダウンロード、アップロードされているからこそ、スマホなのである。

スマホ内部で情報全てが造られているわけではなく、

それは情報通信、データ変換が主な機能であるように、

人間の肉体そして頭脳は、意識の大海の様々な情報、気づきを送受信、変換しているのだ。

そう、意識ある存在、人は皆、膨大な意識と常時接続されている。

別の表現では、人は神と常時接続されているということだ!


そしてそれに気付いていないなんて・・、なんという奇跡だ。

OH MY GOD!




なるほど、人が気付く範囲、顕在意識は確かに未だに小さいが、

潜在意識においては「人は神」ということになるが、あなたは驚かないのだろうか。

これこそが真なる現実なのだが、爆発的な感情が起きないために、まだそれに気づかないのだろうか。


目先のトラブル解消や、成果の達成、ローンの支払いがあるために、

根本的な真なる自己の「現実」を感じられないのだろうか。

なるほど、古いこころのパターンの覆いの脱落には、やはり意識的努力が必要である。

お金払って出来るものではない。


人は皆、膨大な意識と常時接続されている。

別の表現では、人は神と常時接続されている!


それを実感すれば、それが現れてくる。


幸福は意識的に実感すること⇒ で嬉しくも⇒ 現象化するのが「創造の法則」である。

想像は創造につながると言われる所以である。


原因は「意識」に在り、どうして「現象」結果が先行しようか?

現象結果が幸福だから・・・それを実感する・・真逆の「ウソ」によって、

3次元的、唯物論的人生に、永遠と思えるほどに、

こき使われることこそ、バカバカしい話ではないか。

・・・
豊かになったから・・・嬉しい・・・は、旧次元的なものであり、

豊かにならなければ、永遠に嬉しさは出ない様に仕組まれているものだ。

嬉しく楽しいから・・結果、様々で豊かである・・が創造的様式である。
・・・


潜在せる無限の神意識、それと常時接続ならば、幸福でないわけがなかろう。

ただ、それをイメージ・実感する・・そう意識的選択だけが必要である。


それを意識の顕在化と言うし、また創造というし、

そしてその顕在化の拡大が「意識の進化」である。

そう、無意識から意識的意識への目覚めを経験するための、

この次元世界での幾多の転生はそのためのものではなかったか。


なるほど今までは、

機械還元論者、物質収集好きの、言わば唯物論オタクの積極的な無知の宣伝努力のおかげで、それに気づける人びとは少なく、

教科書などで婉曲に刷り込まれたごとく、

自らが単なる高度な知的動物、動物よりは知能が高い肉体生物、社会的動物、

肉体間で切り離された単独無縁の個別の存在と思い込み、

その個別の肉体の生存維持、サバイバルを繰り返してきたというわけだ。

実際そういうことを何千年という歴史絵巻の中で繰り返していたわけだ。

嗚呼、なんという苦しさ、なんという楽しさだったろうか。

・・・

しかしながら朋よ、今はもう目覚める時が来ているのである。

幼稚園から小学校に上がるように、また学校で学年が上がったように、

通信機器の周波数がより高機能化のための高周波数帯に移行するように、

人間存在達の、今まで良しとされた狭い顕在意識が、より広い顕在意識へと拡張する・・、

今はその時期なのである。

人は神と常時接続されていること、

今必要なことは、それを実感することである。

多分・・それは、

今までのあなたの内面がどう変化して来たかを観ることで解るだろう。

潜在せる神の意識からのバックアップを、その人生で謙虚に感じられる人は幸せである。

人類の全てとは言わず、

気付ける者たちは、またあなたは、今それに気付いているはずである。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。