気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

創造と観察  認識は力なり

2013-03-30 09:53:38 | 新たなる地平線

前の記事では、人間の五感、認識によって人間の世界が顕れているということを話したのだが、これは一般的ではないことはわかっている。

 

しかしながら、繰り返しになるが、これは相対論と同じような観の転換を意味しているはずだ。

 

今は常識になった感のある物理学上の「相対論」によれば、世界、宇宙には絶対的な座標軸、あるいは絶対的な慣性系は存在しないということであるし、全ての慣性系(運動している者)は対等であるということである。

 

簡単に言えば、宇宙のあらゆるものはどれが静止して、どれが動いているのかという決め事はできない。

 

宇宙で絶対的な静止座標系はないということでもある。

 

いまいちピンとこないかもしれないが、

 

つまりすべては相関的な位置づけしかできないということだ。

 

またすべては等価、あるいは対等だということだ。

 

・・・

 

それを拡大解釈すれば、あるいはこれが真正だという1つの絶対的な尺度というものは存在しないということである。

 

要するに、現れた現象世界の諸事万端の中には、絶対的、不動のものはないということである。

 

・・・確かに、これは当たり前だと感じる方も多いかもしれない。

 

世界、宇宙は変化の中にあるということ、それを人がそれ風に言えば諸行無常という表現ともなるだろう。

 

あらゆるものは変化・変転することを旨としているということだし、確かにそれはそうだろう。

 

またそれを観察している意識・・・当然ながらあなた方やわたしでもあるが、その観察意識はそれぞれが等価であるとも言えるのだ。

 

身体、肉体、時間と空間を超えた、無数の観察意識を、・・・魂・意識と言おうか。

 

そのどの個別観察意識が真正で、どの個別意識が虚偽であるということは言えず、どれもこれも・・・逆に大いなる観察意識の部分であるとも言えるのだ。

 

あらゆるものを自らとする観察意識を、・・・神と言おうか。

 

 

観察することは即ち顕現であり、創造であるということだ。

 

観察主は即ち創造主ともいえる。

 

宇宙でも人間でも同じ法則だ。

 

だから、あなたが目を閉じれば目の前の対象物は、その間だけ「その物はあなたの世界からは消滅している」ということも言えるのである。

 

あるいは何かを信じ込んでいる場合には、それ以外のことは一切眼中にないということにもなる。

 

気付けるときが来なければ、何を言っても聞く耳をもたないというのも、そういうことである。

 

例えば、何か探し物をしていて、どうしても見つからないとして諦めかけた時、実はあなたのすぐそばにあったという経験は誰にもあるだろう。

 

自分の目の前に、ちょっと外れてそこに有ったのに、全然気づかなかった・・・等ということはよくあることだ。

 

ポケットにあったはずの100円玉を探しても見つからず、諦めてもう一度ポケットを探ったところ、奥の隅にあったということもよくある話ではないか。

 

それは、

 

「やばい!、あれを見失った!」 という観念が強く作用し、探し回らなければならない・・という行動・現象を導き出したのであり、逆にそれを諦めた瞬間、つまり、見失った・・探さなければ・・という強迫観念が多少とも失せた瞬間に、その物が出現したということも言えるのだ。

 

実によくある話ではないか。

 

また、そんなに頻繁にある話ではないが、本当のスプーン曲げもまったくおなじ法則の上にある。

 

それがそうなると、信じているというよりは、知っているからこそ簡単に金属も曲がってしまう。

 

TVで見た人も多いだろう。またTVによって忘れさせられたのかもしれないが・・。

 

昔かの有名なユリゲラーがTVに出演し、スプーン曲げなどを実演したところ、それを見ていた比較的多くの子供たちが、自分もできたと報告している。

 

中には焦ってズルした子もいたようだが、それでもってすべて嘘だったと考えてしまう大人は、本当に救いようがない。(笑)

 

要は、変な制約観念がない子供たちは比較的、いとも簡単にできるわけである。

 

 

余談ではあるが、

 

 

自分の例で言えば、スプーン曲げが流行った当時、(自分は子供ではなかったのだが)、残念がら曲げ落ちなかったが、持っているスプーンの首元が明らかに柔らかくなった記憶がある。

 

まあ、ちょっと真似した程度なので、そんなものだったのかもしれないが、あれは決して体熱によって柔らかくなったものではなかったことがわかる。

 

 

またポラロイド写真でイメージ念写をしたこともあるが、要は念を込めると称して、こころと体に力みがある間は何も映らなかったが、

 

疲れ果てて(笑)もうだめだと・・・諦めた時に、要は力みの観念が無くなった心境になったときに、・・・なんとたて続けに、何もない筈のネガフィルムに黄色い炎のようなものが映ったのだ。

 

「なんじゃ~これは!」みたいな。

 

今はない懐かしきコダック社のポラロイドカメラだったが。

 

自分ながらびっくり仰天するやら、やはりという達成感触やらが内面に湧き出したものだった。

 

 

この念写ついての実験は何年か前に記事にUPしているし、当時の数枚の写真は未だに持っている。

 

 

意識~エネルギー~現象化・・・というのは、単なるスピリチュアル情報の受け売りではなく、その時に事実として知ったのだ。

 

 

・・・

 

それが・・そうなる・・と、信じ込んでいるというよりは、知っている=すでに認識しているからこそ、以心伝心、テレパシー、シンクロニシティ現象にも遭遇する。

 

決して、知るまでは・・・、認識するまでは、それは「無い」のである。 

 

それが、当たり前であると認識するがゆえに、それは現象として観察されるのだ。

 

・・・

物理科学上の素粒子論の解釈によらずとも、

 

人の先だった観念、思考がその人の行動や結果に大きく影響していることは明白である。

 

ここが肝心なところなのだ。

 

・・・

 

それとも、人間は行き当たりばったり、偶然によって生きているだけの物質、例えばビリヤードの玉のようなものだと思っているのだろうか。

 

何かによって突き動かされ、他とぶつかり合い、オロオロしては右に行き、左に転び、翻弄されては疲れて隅の穴に落ち込んで、またビリヤードの台の上に気づかず現れているような、そんな物質粒子ではあるまい。

 

人は、単なる人間という、時とともに地球上で偶然が重なって出来上がった有機物質の集合ではあるまい。

 

気付くべきは、

 

我々は世界、宇宙を観察している意識・・・であり、

 

観察対象である「物」ではないということである。

 

これを明確に自・覚・することを、目覚めるという。

 

語呂合わせではないけれども、  自覚 ≒ 目覚 である。

 

 

誰も証明して・・・くれる・・・ことのない、・・・自覚・・自己認識・・である。

 

 

観察者=創造者・・・としての自覚、目覚めである。

 

・・・

 

過去も、未来も、そして何時もあり、常にある、ここにも、そこにも在る・・・

 

それが「意識」であり、それはわたしでも、あなたでも、他人でもある、

 

木であり、水であり、空であり、星であり、ペットと言われる動物であり、花であり、

 

変化・変転する万物、森羅万象である。

 

・・・

 

それを『認識』している当の者、

 

・・例えばあなたは・・・そのあらゆるものの元にある、

 

・・根源の意識の一側面であり、またそれ『その』ものなのだ。

 

この世界にあってそれも良し、

 

ただ、荒く、暗めの観念から脱し、それに染まらず、

 

それを嫌も応もなく感じ、観察することがこの世界での人間意識の大きな目的である。

 

ある時は、

 

3次元的な観念世界に意識を生じさせ、知らずにそれに流されては、穴に落ち込み、また知らずの間に顕れてはまた流される、

 

その繰り返しの転生というその恩寵にも気付くときであろう。 

 

赤子のように、目覚めぬ状態での輪廻、転生それもまた良しである。

 

しかしながら、今はすでに時は至れり。

 

何をことさら大げさに構えずとも良し、

 

どんな刺激的な感情を抱かずとも良し、

 

変化・変転する森羅万象の中にあって良し、

 

当たり前の日常の中にあって良し、

 

淡々とした生活の中にあって良し、 

 

すでに不動・普遍の観察意識である自らに、・・・自らに気付けば良し、

 

あらゆる意識は、それぞれが永遠という名の時間と空間を超えた不動点であり、

 

それはまた、

 

神、あるいは根源意識、あるいは創造主そのもの・・でもある・・ということに気づくべきである。

 

目覚めた観察意識が増えれば、結果として、その投影される世界が変わってしまう。

 

他者が、世界が変わるのを待っている間は、未だ目覚めていないことに気づけるだろう。

 

他人が、外が変わるのでなく、それぞれの世界の中心である観察者の意識が変わるのである。

 

そう、観察者は創造者である。

  

無限か、大きいか、小さいか、違いはそれだけである。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

次回は真空エネルギーに関する記事の予定です。


創造と観察  物は幻影であるという意味

2013-03-24 11:33:59 | 新たなる地平線

人は皆、創造者であり観察者なのだが、なかなか気づけないだろうか。

 

生きていることそのものが即ち創造であり、またその観察なのだが、そのような認識は、まるで常識から外れていると考えるかもしれない。

 

騒ぎの増大した外の世界の中にあっても、心魂を静寂に保ち、今までもあった何か重要なことに気づけるならばこれに越したことはないはずだ。

 

我々が、こうして生きている中で、基本的で当たり前とされる常識の幻想を見破れるなら、末法の世に生きている醍醐味が味わえることだろう。

 

そう、ある意味でこのような稀有の時代に居ることの醍醐味がお分かりになるはずである。

 

そのような稀有の時代も、稀有であればこそ、あっという間に終わってしまうこともわかるかもしれない。

 

ゆらゆらする時間のゆりかごから、今はもう起きだす時である。

 

・・・

1つ試してみよう・・・。

  

眼から鱗が落ちそうになるか、あるいはバカバカしくて話を飛ばしてしまうかもしれない。(笑)

 

・・・・

 

あなたの目の前にある、何かを改めて見ること。・・・例えばパソコンやスマホの画面でもいいし机でもでもいい。

 

そう、例えば机としてみようか・・。

  

あなたは、机 それを見ていることに気付いている、あるいは手などを乗せている触覚感覚に気づいているはずだ。

 

当たり前だ。

 

でも、最も基本的で根本的なことなので、当たり前だと言ってその感覚を通り過ぎないことが大切だ。

  

何か情報や想念、スケジュール、家族へのケアや仕事のことも、とりあえず横に置き、

 

要は、今この瞬間に在る・・・ことを「体験」することだ。

  

毎日やっているって?、  余計なお世話だが、実は意外と植えつけられた思考の中で眠っているかもしれない。

 

あなたやわたしたちの意識とその働きである思考そして、

  

眼、耳、触覚、味覚、臭覚という五感があるからこそ、様々な存在を感じることが出来る・・ことに気づくだろう。

 

極めて当たり前でありながら素通りしてきた、毎瞬、毎瞬のあなたの存在状況に、気づけるだろう。

 

そうだ、五感を通じて、あなたはこの世界に存在しているという・・・当たり前の<今>出来事に、静かに気づくことである。

 

覚者である、ニサルガダッタ・マハラジ は・・、

 

<わたしは在る>・・・・という事実にフォーカスすべしと伝えている。

 

確かに、思考や想念は力やエネルギーであって、決して本質ではない。

  

ましてや、物質や現れた形も思考や想念の影であり、本質では有りえない。

 

 尚更、銭金や快楽や、名誉や地位、他人の犠牲に立った権欲などは、影のその陰にもならない。

 

そう、それらはすべて集団思考のまゆの中の幻影である。

 

まるでマトリックスである。(笑)

  

・・・

 

いったい全体・・当たり前すぎて、何を言っているのかわからないならば、あなたは相当に世間の混乱思考、汚濁の観念の中に埋没しているということかもしれない。

 

想念の濁流、激しい内容のニュースやら、様々な刺激と恐怖を内在した情報やらに毒されているかもしれない。

 

・・・

 

そんなことよりも、今・・ここにあること・・その存在感を、他者の目でなく、子供や家族の姿態や言葉でなく、社会の意見ではなく、・・・自分で自分を感じることが、あなたにとって最も喫緊の課題なのではなかろうか。

 

あなたは今・・・自分が、生きて在る・・その事実を・・・今自分で、感じているだろうか。

 

それとも、常に急き立てられ、あなた以外の様々な観念の方を見ているだろうか。

 

あなた以外の世間という集合意識、荒廃極まった世界の集合意識の方に意識をフォーカスしてはいないだろうか。

 

そうやって、世間や世界の常識という、わかった様で何もわかっていない集合観念の価値観の中に自らを生贄にしてはいないだろうか。

 

・・・

 

 

さて、眼から鱗か、あるいは馬鹿話なのか・・・・これから話をしてみよう。

 

基本中の基本のエクササイズだが、

 

目の前にある「物」をとりあえず眺めてみよう。

 

机でもパソコンでも、自分の手でもいい。

 

そこにあることが分るはずだ。そう・・・いつものことである。

 

そうして、その眼をつむるか、顔の向きを変えてみよう。

 

そうすればその「物」は、あなたの視界から消え去るだろう。

 

 

  

しかしその物は、その間も、存在をやめて消滅したわけではない・・とあなたは思っている。

  

なぜなら、また眼を開けるか、顔の向きを戻せば、そこにその物が変わらずあることに気づくからだ。

 

その「物」は、眼をつむれば視界から消え、目を開ければ視界に現れる

 

言えるのは・・・そういうことである。

 

そんなこと当たり前だと言うだろう。

 

「物」は、眼をつむれば視界から消え、目を開ければ視界に顕れる

 

・・・・

 

常識的には、「物体」がそこにあるからこそ、光りが当たって、その反射光を見ている・・という解釈をするだろう。

 

また見えなくなっても、手で触ればそこに物体があることがわかるので、その物体は厳然とそこに独立して存在していると思うだろう。

 

物体、物質は・・・我々に無関係にそこに存在している・・・と感じているのだ。

 

それって、極めて常識の話だと思っている。

 

物質形態を示す諸物は、人間の存在に無関係に、独立して存在している・・・と考えているということだ。

 

しかしながら、

 

我々の五感から消えるならば、我々には存在していない・・ということを意味していると考えたことはあるだろうか。

 

言葉の遊びではない。

 

・・・・

 

我々の五感の全て、その物体からフォーカス・注意が外れた場合、独立して物体が在るという証拠はないのである。

 

ある意味で、

 

我々がその物体を見る時だけそれは存在し、見なくなれば消え失せているとも言い得るのである

 

対象物は、認識するからそれが存在し、認識しないものは消え失せているという言い方もできる。

 

・・・

そんな馬鹿なことがあるものかと思うかもしれない。

 

ある人がその物を見るとか、触るとかしなくなっても、その物はそこに在る・・・と主張するだろう。

 

なぜなら、第3者の目では、物が相変わらずそこにあると認識しているからである。

 

「あなたにその物が見えなくなっても、私にはその物がそこにあるのが見えるよ」 と言うからだ。

 

要は、ある人には見えなくなっても、第3者の目で見えるからには、物が消滅したとは言えず、ただその視界から外れただけであり、物体自体は存在しているというわけである。

 

・・・・

非常に基本的な認識の話なので、わけがわからないかもしれないが、極めて転換的な認識の話なのだ。

 

あなたが何かの物体に注目している間は、あなたにとってその物は存在しており、あなたがその物体から注意を外した場合、(見る、聞く、感じることをやめた場合)、その物体は存在しなくなる。

 

ただし、あなた以外の第3者にとっては、それがちゃんと存在しているのは、その第3者は未だその物体に注目している、つまりそれを「認識」して・・・いるからだ。

 

その第3者がその物体から注意を外し、見る、聞く、感じるなどをやめた場合、その第3者にとっても、その物体は存在しなくなる・・・としか言えないのである。

  

なぜなら、その系の中には誰もその物体を観察している者がいない・・・からだ。

 

さらにあなたと、第三者である誰かのほかに、新たなる第四者がいるならば、前と同じように言うだろう。

  

「やれやれ、おいおいお前たち、俺の目には<物体>が見えているよ。だからその物体が存在していないなどというおバカな考えはやめたまえ。」

 

そういう風に言うはずだ。

 

ところが、その第四者も、先の二人と同じように、その物体から注意を外したとしたらどうだろうか。

 

明確に言えることは、その3人にとってはその物体は存在しなくなった・・と言えるのである。

 

だって、認識されない物をどうして存在していると言える?

 

当人たちには認識が出来ないにもかかわらず、存在しているということは言えないだろう。

 

常に存在を言い立てることのできる第三者とは、観察者のことであり、観察者が居なければ、諸物は存在して・・いない・・・のである。

 

いやいや、物はしっかり存在しているよ!  ということは、観察者がいるからである。

 

その物を観察している者が誰もいなくなれば、そもそも・・物体がそこに存在しているということは言えないのである。

 

例えば、あなたが目の前の机をその視野から外し、触覚、臭いさえも感じないならば、その瞬間に机は消えているというのと・・・同義なのだ。

 

面白い言い方だと思うだろうし、唯心論的に聞こえるかもしれないが、

 

今当たり前になっている思考、・・・物が先に先行するという、唯物論的世界観とは全く異なる考え方である。

 

しかしながら、これこそが科学的、量子論的な解釈なのである。

 

量子物理の解釈は、観察者の存在とミクロレベルでの物質の存在は不可分であるとしている。

 

観察とは意識による知覚というべきものであり、その意識の働きがなければ物質は存在しないということであるが、これはいい加減な拡大解釈ではない。

 

要は、誰も観察していないならば、その対象物は存在しない・・・ということである。

 

観察することによって、存在諸物が現れているということだ。

  

人の認識の働きの、基本中の基本というのはそういうことである。

  

宇宙もそのようにして現れているし、その中の人間も例外ではない。

 

 

 

根本的に言えば、我々の見聞き、感じることが、その対象から外れてしまえば、

 

その間、その対象は露と消えるのである。

 

相変わらずそこにあるが、見えないということではなく、事実存在しなくなるのである。

 

再び・・見ることでそれがまた現れる・・ということだ。

 

極端な物言いで申し訳ないが、事実はそういうことである。

 

・・・・

誰かが大切な「鍵」をなくしたとしよう。 今まであったのに、どこかに置き忘れたと考え、それを探し当てるならば、その認識の中で再び現れたということである。

 

普通には、有る物を探し当てた・・と考えているだろうが、実は一旦存在しなくなり、改めてその物があなたの認識世界の中に再出現したと考えるべきものである。

 

 

 

 

つまり、

 

何かが在ると主張するからには、常に観察し、認識する第3者が居なければならないわけである。

 

いやいや・・物体は消えたのではなく、まだそこにあるよ・・と言うためには、常にさらなる第3者が居なければならないわけである。

 

極端に言えば、地球上のすべての人が認めていない物は、決して地球に存在などしていないだろう。

 

例えば宇宙にも観察者がいて、いやいや人類さん、そこにこういうものがあるよと言われたとして、地球の人類の大方があーそうだったと認識すれば、それはそこに存在することになる。

 

また仮に、宇宙全体の中で、誰も観察者がいないならば、そもそも・・その対象物が存在していることを・・誰が証明することが出来るだろう。

 

大きな話も小さな話も同じことであり、

 

要は、ある人が<その人の認識する範囲>で、その存在対象を認識していないものは、

 

かつて・そして今も・・・その人にとっては・・・存在してはいない・・・ということだ。

 

大方の人類の共通認識があればこそ、その認識の中でのみ諸物が存在できるということだ。

 

 

 

我々は見る聞く感じること、認識の働きを通して、その対象物を<創造><消滅>させているのである。

 

・・・・

 

 

もう一度確認してみようか。

  

あなたの目の前にある何かを見て、・・・

  

 

それから目を離してみよう。

 

あなたの視界から物体が見聞き出来なくなるが、

 

ちょうどその間は、その物は消えているということだ。

 

眼を再び向ければ、それがまた物体がそこに現れるのは、

 

再びその物体を、以前と同じように、あなたが認識することによるのである。

 

その対象物は、意識を有する人間の認識の働きによって、出現、消滅をしているということだ。

 

 

 

観の転換の話をしているつもりだが、人はそれをひとつの見方と言うかもしれない。

 

 

ままよ、それでも良いと思う。

 

先ほどの簡単、単純なエクササイズは、そういうことである。

 

見えなくなったり、見えるようになったりすることは、

 

即ち・・・我々の<認識の立体スクリーン上>に、出現したり、消滅したりするということなのだ。

 

我々の時間軸上における変わらない認識のおかげで、物も変わらずそこに有り続けるという形になるのだ。

 

単に、意識が変わらないおかげで、物質形態も変わらないということである。

 

 

 

それでは・・・、

 

 

意識を根本的に、認識を根本的に変えたならば、どうなるだろう・・・。

 

現れる形、世界は間違いなくその投影を変えるだろう。

  

それは意識を有する個人個人、あなた次第なのである。

 

本来でないと感じるならば、それに嫌々巻き込まれることも、流されることもないことが、お分かりになるだろう。

 

三界は唯心の諸現。

 

色即是空、空即是色。

  

これは単なる譬えや空念仏ではなく、事実の説明である。

  

あなたやわたし達の周囲の・・・、存在物は、まさに創造と観察によって・・・在るのである。

 

世には引き寄せの法則や、鏡の法則、マインドパワーの話が出ているが、

 

必死に念を込めずとも、こころの力こぶを入れずとも、他者を排除せずとも、

 

すでに自らの世界を知らず知らず創って、それを観察しているのである。

 

それを今まで気づかなかっただけの話である。

 

 

イエスが言ったといわれるように、

 

自らが何をしているのかわからない者たちの良き学習場が今までのこの世界であった。

 

 

どうしようもないと感じる程の愚かな者達による、今の日本や世界の様相、嘘や騙しのオンパレード、経済乱恥気騒ぎは、この地での最後のとどめ、うち止めを意味している。

 

この地の古き学びの演目はすでに終わったのだ。

 

皆が皆、創造と観察をする自らの本質に気づけば、何を恐れ、何にこだわる必要があろうか。

 

 

あなたもわたし達も、何時も今までも、自己を創造し、観察している者なのである。

 

実にそういうことなのだ。

 

Sk4


  

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日出づる国の人びとの役割

2013-03-20 11:12:34 | 新たなる地平線

日出づる国は不滅である。

 

太陽がある限り輝き続ける。

  

ある時は、それが見えない者が続出する時代となり、

  

ある時は、それを覆いかぶせようとする何かがあったとしても、

 

ある時は現代のように、あたかも岩戸に隠れたと見えたとしても、

 

一時、黒雲に隠されていようとも、

 

日出づる国はいつも・・ここ・・そこ・・にある。

 

あなたやわたしたちに普遍的に内在する「意識」の光がそうである。

 

それを識(し)っている者たちの与えあいやその集合の場が、

 

日、出でる国・・・本来の・・・日の本といわれる地である。

 

その地は、地球のへそ、命をつなぐへその緒なのである。

 

高次元と表面次元をつなぐポータル、結節点ともいえようか。

 

それは人々が意識の手をつなぎつつ、

 

それぞれの光を・・それぞれに放射しあうことで出現するのだ。

 

即ち与えあいや奉仕の意図と行為である。

 

まるい円を組んだ人々が、その円を中心にお互い向かってエネルギーを与えあえば、

 

そこに、人々の円陣の中心に、太陽のような光輝が増幅して現れるだろう。

 

 

 

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イメージは容易だろうか。

 

〇に・・? である。

 

日・・・・ノ・・・・本は、多くの意識体の放射する光、

  

それぞれの、輝く希望を乗せた意識波動、思考、エネルギーによって

  

高次元から降りてくる・・・

 

 

すなわち、我々の世界がホログラムだと言われているように、

  

思考で創る3次元映画のフィルムが、3次元現実と云われる銀幕スクリーンに映し出されるということだ。

 

普通では気づかないかもしれないが、

 

我々の表層の肉体を含む、多次元多層に複合した身体も、魂の映し出す3次元的、あるいは多次元的ホログラムとも言えるだろう。

 

・・・

日出ずる国、

 

その国は、その惑星意識体のへそにつながりつつ、大自然・宇宙の根源の有り方を、

 

その精神という意識とエネルギーの流れにその輝かしい希望・意図を刻印することで、発露、出現するのだ。

  

これは感傷ではなく、今ここに居る・・現実である。

  

日出でる国の国是は、愚かで稚拙な、排外思想でも、軍事強化でもない。

 

自虐でも、他虐でもない。

  

自尊でも、自閉でもない。

  

それらは本質からそれてしまった、低次元での暗い影のようなものである。

 

うすうす感じているところの本質の・・・残念ながら、完全なる誤解である。

 

・・・

もし人に希望があれば、その高次での実物である、人間のその希望の「思考」を明確に保持し、

 

前頭葉にそのイメージを投影し、内面の眼(まなこ)で繰り返し観ることが大切である。

 

当たり前だろう。

 

自分の希望を思い描き、それを経験するのは自分であって、・・・・他人ではなかろう。

 

・・・

具体的に言えば、

 

人の頭部前面のエリアは、高次元からのエネルギー降下の為のシナリオ生成の場なのだ。

 

内面のイメージとは、言わば体験希望の為の、シナリオ用の銀幕スクリーンになっているのだ。

  

ところが、その創造のスクリーンが、外来種の様々な思考でごちゃごちゃになっているために、

 

わけのわからないごちゃごちゃの現実世界を知らず知らず投影・体験している。

 

 

・・・

翻って、

 

騒ぐだけ騒いでいるような世界の様相は、混乱した「思考」から生じている現象である。

 

尤もらしく固まった常識や、生きる為だけに急き立てる経済観念や、

 

お互いに闘争して栄冠を勝ち得るという妄想などは、

  

人間という意識体に装備された現実化能力、創造の分担能力に、

 

ノイズを流すための強化作為であり、またある意味での試練であったと言えよう。

 

なるほど、それら一見悪意、障りと見えるものは、

 

何が宇宙的な調和で、何が本質的な道なのか、

  

何が最もうれしく楽しいことなのか、

 

何が愛すべきことなのか、

 

上っ面の間に合わせでなく、単なる雰囲気やセンチメンタルな感傷ではなく、

 

心底理解すべきものに気づくためのものであったのだと言えようか。

 

そのため、人々は往々にして、その希望の思考が定まらず、ほとんどノイズだらけになっており、

 

まともな創造の波動への同調に定まっていなかっただけの話なのだ。

 

・・・

 

しかしながら、それに気付けば・・・それが変換点となる。

 

例え、未だその変換点の向こうにいる人々が騒いでいようと、

 

何をどう理論づけようと、

  

そのような物質偏重の思考は、魂の為の試練であり、不動の信念に至るための反面教師であったと悟る時期であろう。

 

おのれ自身から発する、思考という創造力を駆使し始めた者たちは、

 

もう外の騒ぎや問題に恐れ、動揺し、引きずられることはない。

 

すでに内から・・・外への本来の創造の流れに乗っているからだ。

 

今までの、招かざるに、外から来るやに見える、闇や、病や、無知や混乱は、

 

全き幻想であることがわかるはずである。

 

こころというフィルターをきれいに磨き、

 

思考という現実化のエネルギーに気づき、

 

その思考に、輝く想いを乗せ、穏やかなこころでそれ保持、掲げることを実行することだ。

 

 

 

そして未来や過去に意識を分散せず、今この時を生きるのである。

 

今は、不思議にもその希望が現れやすくなっていることに気づけるだろう。

  

魂である光は、常に空(くう)の一点から始まる。

 

 

創造とは、本来あるがままの中でうれしき楽しき花を咲かせること、

 

単にそれを地で行くだけのことである。

 

 

Sakura6

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夜明け前の想い

2013-03-18 02:12:42 | 新たなる地平線

外の世界を見るにつけ、なんだかあからさまに、よろしくない方向へ方向へと意図的に進んでいるかのように感じているのではないだろうか。

 

長くこの世界に生きている人々は、今この国においても、以前には有りえないようなことが起きているのがわかるはずである。

 

狭い意識生活の範囲で黙々と生きている人々も、たとえ断片的な情報によったとしても、信じられないような事柄が進行しているのをどこか察知しているはずである。

 

 

はて・・・、それとも、昔と何も変わっていないと思っているのだろうか。

 

 

しかし、あなたは気づいていることだろう。・・・そう、それは気のせいではないのだ。

 

 

 多くの者が大なり小なり、物質崇拝、権威の獲得、支配の毒酒を盛られて病んでおり、

 

 

実のところ、人的世界のあらゆる構築物が崩壊しているということを・・・。

 

 

構築物の崩壊といっても、それは何もビルや建物が崩壊しているということではなく、まず人類的な「想念形」が崩壊しているということである。

 

 

それは人類の総合的、平均的な古い価値観念の「飽和」であり、また即ちそれは「崩壊」なのである。

 

 

その崩壊の中で新しいシステムとしての企業による世界運営が仕組まれているというわけである。

 

 

人的世界での原発やTPPなどという本来すでに意味不明の投げ網もそれだ。

 

 

要は、巨大企業を運営することが出来るならば、世界システムを運営して何が悪い・・ということだろうが、世界が株式会社になったとしたら、多分宇宙中のつまはじきになることだろう。

 

 

なぜなら企業は利益を上げざるを得ない宿命観念があるわけで、それを押し広げるならば、近隣宇宙の見境のない富の簒奪を始めることになるからである。

 

 

またそこまでいかずとも、まずこの地球が荒れ野原になること必定である。

 

 

・・・

しかし実のところ、それは有りえない。

 

 

地上全土が荒廃して、空気を吸うにもままならない事態は有りえないのだ。

 

 

・・・なぜだろうか。

 

 

地球は単なる土の塊ではなく、「意識ある生命体」であるからだ。

 

 

人間種のわがままばかりを聞くわけにはいかないからである。

 

 

親になるとはそういうことでもあろう。

 

 

生きている生命としての地球、それをガイア理論と言うようだが、それは理論、仮説ではなく、事実なのである。

 

 

地球という生態系、多様な生物種と鉱物、植物のの壮大な循環と調和が眼に見えないのだろうか。

 

 

学問はいったい何のためにあるのか。真理を追究するためではなく、飯を食うための道具に過ぎないのか。

 

 

・・・違うだろう。

 

 

最も先進的と自負している者たちは、近代以降の近視眼的で稚拙な見識に染まっているだけのことであり、

 

 

全てを物質としかとらえられず、物質という表現を行なっている・・生命、意識のことがわからない。

 

 

古き民族、古代の末裔、インディオ、アボリジニ、インデアン、ヒマラヤ周辺の人跡未踏のエリア、マヤ、アステカの末裔たち、欧米人達のもたらした惨禍をかろうじて潜り抜けてきた存在達は、そのことをいやというほど知っている。

 

 

彼らの多くが3次元的レベルを超えているがゆえに、3次元的有り方にまつろわないのである。

 

 

彼らのすべてが自然を大切にし、自然の中にあるものを精霊として重んじ、感謝と謙虚さの中で生きてきたのはなぜだろうか。

 

 

迷信を信奉する、自然崇拝だけの、文化の遅れた民なのだろうか。

 

 

物銭金を持つことが文明の証なのだろうか。

 

 

知的、霊的なレベルで遅れているのはどちらなのだろうか。

 

 

自然の中でしか生きて来れなかったという理由などではなく、彼らの先祖の時代の地球規模の一大崩壊を忘れていないということなのだ。 何をおいても、地球、生命との調和がまず第一に重要であることを、彼らのDNAに教訓として刻印されている。

 

 

いや、数千年をこえる間も、忘れないで綿々と引き継いできたのはまさに奇跡であり、またそれが先祖の罪滅ぼしということよりも、彼らが選んだ務めであったからだ。

 

 

この3次元世界では何があり、往々にしてどうなるのかを後世の者たちに伝える為なのだ。

 

 

ムーやアトランティス、さらにそれ以前のレムリアなどの文明のうわさは、絵空事でも、夢のある話でも、ロマンでもない。

 

 

古代の民族の伝承、言い伝えなどは、確かに何千年かの変節を経たものであり、かなり風化しているものの、何千年かの時を経て、何かを伝えることの稀有さに気づけるものは少ないかもしれない。

 

 

その彼らの敬虔で謙虚な思考に比べれば、現代の文明の新しい観念など1年も持ちはしない。

 

 

古代の末裔、彼らは無知で野蛮で文明化していない・・と大方の人びとは思っているのだろうが、実は霊的に知的にはるかに進んだ文明の末裔であるからこそ、現代のもっともらしい嘘の文明を見抜きつつ、それを非難・批判もせず、また決してまつろうこともないのである。

 

 

あらゆる地域の古代民の末裔たち、彼らはもう知っていたからである。

 

 

地球・大自然は現代風に言えば、ガイアであるが、

 

 

それは巨大な意識体、生命体としてこの無限の宇宙に輝きをもって生きている。

 

 

太陽はそれを支えるさらに巨大なサポーターであり、太陽系というファミリーに光とエネルギーを無条件に供給している。

 

 

規模は違えど、星も生命なのである。 あなたや私たちだけではないのだ。

 

 

そうであればこそ、規模の大小はあったとしても、地球もどこか人間という意識体に近い部分もあるはずだろう。

 

 

そうではないか。

 

 

体が度を越して汚染されたらあなたはどうするだろうか。

 

 

精神的なストレスが蓄積されたら、あなたはどうするだろうか。

 

 

これ以上は許容できないレベルまで想念体が歪んでしまったら、あなたはどうするだろうか。

 

 

まっとうな意識を有する者ならば、それを癒そうとするだろう。

 

 

癒すためにはどうするのか。

 

 

想念体を浄化し、心を落ち着かせ、身に付いた汚染物を洗い流すことを実行するだろう。

 

 

・・・・

これはどういう事かといえば、

 

 

地球という生態系を壊し、汚染し、毒物を生み出す要因を一掃するという作業である。

 

 

どうということはない、誰でも行う癒しのための作業である。

 

 

地球という生態系、生命支持システム、魂の働きの学習施設、精神の昇華のための学び舎が、

 

 

一大浄化のプロセスに入らざるを得ないとということだ。

 

 

 

それがどう云うことを意味するのか解らないはずはない。

 

 

地球という巨大で精妙な意識とその表現系である物理的地球、

 

 

人間と違って進化せる魂であるガイアにとって、その浄化に長い時間はかからないのだ。

 

 

今顕れている地球規模の気象異変、増大した地震や火山の噴火は、一時の気の迷いなのか ?

 

 

メキシコ湾流が寸断されたのは、何かの勘違いなのか。

 

 

無意識になって忘れてしまえば、またもとに戻ると決めつけているのか。

 

 

・・・

 

 

惑星の生態系、そして宇宙そのものは調和と変化と進化によって生み出されており、そのすべてのベースには人間が愛と呼ぶ波動がある。

 

 

性ではなく、愛である。

 

 

女だ、男だ・・ではなく愛である。

 

 

好きだ嫌いだ・・・ではなく、愛である。

 

 

誰かの利益ではなく、愛である。

 

 

生きる権利の主張ではなく、生かし合いの愛である。

 

 

生態系はそれぞれの生物種が、その他のレベルにエネルギーを与えることで循環しているのだ。

 

 

エネルギーの奪い合いなどでシステムが維持、循環できるはずもない。

 

 

・・・

 

親は子に無条件に与えつつ、見返りや利益を求めるだろうか。

 

 

本来は無条件の愛である。

 

 

太陽は見返りを求めているだろうか。

 

 

太陽を、おバカな燃える物質とでも思っているのだろうか。 

 

 

月は利益を求めているだろうか。

 

 

潮の満ち引きや生命の去就のタイミングは偶然の話だろうか。

 

 

地球は生存する者たちに、その地代を要求しているだろうか。

 

 

流水はそれを使った利子を帳簿につけているだろうか。

 

 

我々の住むこの世界で、何か、誰かが見返りやキックバックを要求している生命体があるだろうか。

 

 

愚かを地で行く我々人間以外はそんなことなど考えてもいない。

 

 

幼稚な人間とは、とにかく、取る、搾取、簒奪する一方の幼き者を言うのではないのか。

 

 

それは、自分たちが生き残るために必要だといっているが、

 

 

大自然があるからこそ生きてゆけるのではないのか?

 

 

実に矛盾した行為を行っているのだが、

 

 

実際のところ、これすらもわからないのかもしれない。

 

 

人間は特別頭が良いのだから、動物の頂点に立って支配し、大量の犠牲や利益を上げてもいいというわけではない。

 

 

大量のヒヨコを肥え太らせ、眠らせもせずに、騙して成長させた挙句にブロイラーにして市場に供給することが人間が生きるための知恵なのか?

 

 

牛馬を知恵おくれの生命体であるとし、その大量の肉を市場原理で流していることは、実際に人類が生きるための必要なものなのか。

 

 

あなたやわたしも、それをおいしいおいしいと食べたことがあるだろう。

 

 

 

すなわちあなたやわたしが創るわけでもない多種多様な命を食べているのだが、実のところは彼らは恐竜の餌食になっているようなものなのだ。

 

 

気付けるだろうか。

 

 

・・・

 

人間は精神を使って、自然界にあまねく実現しているところの調和や多様な生命表現の昇華、相互の生かし合いを更に深めるために存在しているわけだが、

 

 

欧米の流儀であると決めつけることはできないものの、どこをどう勘違いしたのか、恐竜の生存競争のような弱肉強食が当たり前だと云う観念に取りつかれている者が未だ居残っているようである。

 

 

人が信用できないとする、極度の個人主義に閉じこもり、その孤独な個々人の間を契約、約束で埋め合わせ、がんじがらめになって身動きが取れない有様を呈していることに気が付かないのだろうか。

 

 

なるほどお金があれば何でもできるし自由であると信じ込んでいるのだが、決してそこから抜け出せていないのである。

 

 

為政者や企業人たちが、そういう金銭的な欲得観念で、がんじがらめになっているからこそ、宣伝や洗脳にその資金を投入し、あるいは民衆の前で平気で嘘つ付きつつ、騙しても何らかの弁解で押し通すことも行うし、知らない間に徴取した金を湯水のように使ってしまい、平然とまだ足りないといって徴取金を増やすことを要求するわけである。

 

 

いったいどこの国のことだろうか。

 

 

多分ほとんどすべての国なのだろう。

 

 

やたら決定したがるが、責任を一切取ったためしがない者ほど上に行きたがる性向をもつ。

 

 

出来ない者ほど虚勢を張って主張する、それは何が責任なのかが未だわからないからである。

 

 

誰も皆それぞれ、魂での発展途上なのであるが、大勢の人の上に行きたがるのはそういう段階の魂なのである。

 

 

世間ではそういう者を指導者と云っているわけであるが、笑う気にもなれはしない。

 

 

嘘も休み休みでないとバレバレではないか。

 

 

全くの興ざめである。

 

 

おかげで大勢の者たちが不都合を蒙ることになり、眠っていたくても与えられる苦痛によって、いやでも目覚めることになるわけなので一概に悪いということでもない。

 

 

そういう言葉だけの無責任な者たち、我田引水しか知らない幼き者たちで行う「祭りごと」がデモクラシーというのならば、そんなものは一切やめた方が良い。

 

 

実のところ、インタラクティブな通信の発達した時代には、代議制は不要になっている。

 

 

コンピュータの改竄やバグを排除し、それをダイレクトな伝達手段として使うならば、直接民主主義が可能な時代なのである。

 

 

聞くところによれば、北方の過疎国であるアイスランドは、すでに人口が少ないという要因もあるが、苦しみの末本来の直接デモクラシーを回復し、崩壊をまぬかれたようである。

 

 

あくまでも民主主義が良いのであれば、そういう直接民主制を採用すべきであろう。

 

 

コンピュータの監視であれば、わけのわからない者の下心をあぶりだす苦労に比べれば、はるかに簡単で効率的である。

 

 

本当の民主的な祭りごととは、近所のおじさん、魚屋のおばさん、大工の棟梁、そこらじゅうに居て働いて租税を納めている者たちの意見を総合するシステムのことであり、

 

 

また総意という全体の責任の上で方向づけを行うところの<直接的な民主制度>にあるのだ。

 

 

未だ人類はこれ以上の仕組みを知らない。

 

 

世界の有り方を決めるのは、変質した代議員でも、ましてや特定の王族でも、企業の主でも、特権階級でもないことは、

 

 

何千年の経験からして、もうすでに明明白白ではないのか。

 

 

一人がすべてに開き、全てが一人に集約されるということは、

 

 

そういうことであり、

 

 

かといって特定の者だけが偉いわけでもありはしない。

 

 

神だけに尊厳があるわけでもない。

 

 

お互い様というのはまさに、

 

 

全てが個々のために、個々が全てのためにある宇宙的な存在事実を言っているのだ。

 

 

一は即ち多・・、多即ちひとつ。

 

 

日本に古来からある「和」とはそういうことである。

 

 

調和と変化、進化、・・・あらゆる部分が全体となって調和している宇宙、まさにそれが顕れつづける宇宙の法則である。

 

 

その精神を忘れようとする愚かな行為は、宇宙、大自然を敵に回すということに等しく、

 

 

自らを自らで排除することであり、生態系から汚染物として排除されることを意味するのである。

 

 

それとも、

 

 

いやいや、人間は何をやっても天罰も何もなく、地球や生物種を切り刻んでも許されると思っているのだろうか。

 

 

自己責任を果たさぬ生命種は、・・そう・・・淘汰されるのではなかったのか。

 

 

・・・

 

今、まさに夜が明けようとしている。

 

 

闇夜が消えて、光りが差し込む夜明けである。

 

 

古き舞台は今回も清められることになるだろうか。

 

 

物質豊かだった表面次元は一時閉鎖もあるかもしれない。

 

 

多くの人は薄皮1枚分の、1つ上の次元に行けるだろうか。

 

 

よく言われるように、夜明け前が一番厳しく寒いのである。

 

 

しかしながら、それによって魂達の目が覚めるようになっているのかもしれない。

 

 

自らのこころを変えるほどに難しいことはない。

 

 

嗚呼・・・なるほど、とうとうその時が来たのかもしれない。

    

幼年期はもうすでに終わりを告げている。

 

 

地球で育った子供たちは・・今・・・卒業の時期にある。

 

 

卒業に、嫌も応もないのはわかっているはずである。

 

 

・・・

 

 

そこに、無条件の愛に対する感謝以外の何があるのだろうか?

 

 

いいや何も有りはしない。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


魂は多次元光(3)

2013-03-15 08:39:33 | 見えないものから見えるものへ

今までの人類の最も大きな問題はその自己認識の小ささにある。

 

 

人類の多くが無意識に自分が「肉体でしかない」という既成観念があるだろう。

 

 

そんなこと誰も明言しているわけではないが、それ以上のことはめったに聞こえてこないというわけだ。

 

 

人間が多次元的な存在であり、肉体はその一部の自己表現形態でしかないと云う話は常識の世界ではなかなか聞こえてこない。

 

 

本当の「わたし」とは、今の自分が表面的に見知っているよりもはるかに高く、はるかに広大な存在であるなどという話はなかなか聞こえてこないだろう。

 

 

常識の中に埋没する形の人生を目指している場合はそういうことが多くなるが、ところが何かの問題や解決すべきテーマが前面に覆いかぶさっているような人生に気づかざるを得ない人々は、何処かその重さやトラブルに向き合わざるを得ず、どうしても自己の意識を拡大させざるを得ないような状況になるわけだ。

 

 

問題があるがゆえにこれを解決しようとする意識的行為に促されるのである。

 

苦労は苦労の為のものではない。

 

 

それがあって良かったのである。苦労や問題はまさにそういう御役目なのだ。

 

 

古来から悟りや目覚め、深い落ち着きやいわゆる霊的進化を経たといわれる人々は、目覚めるきっかけとしての何かのトラブルや悩み、解決すべきこころや体の問題を抱えていたのだ。

 

 

世間で嫌がり忌避する傾向のある様々な自分周囲の問題は、そのための梯子段、恩寵のようなものであるが、どうしてか表面(つら)の悪さで騙されるわけである。

 

 

何も苦労もせず、何も問題意識を持たず、いつの間にか「あーら不思議」というようなことは、この荒い波動の世界には有りえない。

 

 

しかしながら、本質で気づけるならば、そこには実際問題など何もなかったことを悟るわけであるが、問題があればこそ、ハードルがあればこそ・・・それを超える醍醐味があるのである。

 

 

外の世界に、何かあるように見えて、それに怯え、それに囚われ、それを見破ることが出来るまで付き合ってしまうがゆえに、

 

 

そしてそれに飽き飽きして、捨ててしまうまでのことなのであるが、なるほどここまで来るのはこころの登山のように、なかなか険しい道のりかも知れない。

 

 

そう・・・、一度次元降下して降りてきた穴蔵のような、暗い、狭い観念で満ちたこの世界から元の光輝に戻るためには、そのような苦しいけれども喜々として行かざるを得ない、言わば精神の登山のような道のりがあるわけである。

 

 

そのような、ある意味で精神の登山のようなものを要求する今の世界、なるほどそれがこの世界の、魂の学習場の目的でもある。

 

 

こんなところによくやってきたものだと思わないだろうか。

 

 

確かにここに居て眠っている魂たち、目覚めかけた魂たち、あるいはすでに目覚めたことを自覚している魂たちは相当に勇気と度胸があるといわねばならない。

 

 

あなたも私たちもそうなのだ。

 

 

だから私は、道行く見知らぬ人々も、電車でスマホばかりを見ている人、マスクだらけの人々に対しても魂レベルでの同胞のように感じている。

 

 

わたしがそうであるように、あなたがそうであったように、この世界の魂たちは無理を無理とせず、困難を困難とせず、危険を危険とせず、

 

 

広大な自己、広大な次元を自由に行き来するそれぞれの<わたし>達は、あえて宇宙、多次元世界の最も辺境といわれるこの世界にダイブ、降下してきたのである。

 

 

そして次元降下に伴う存在周波数の低下によって、より高いより精妙な波動周波数をすぐには表現できない状況に入ってきたのである。

 

 

すなわち自己が何者であるかということを忘れてしまったということだ。

 

 

・・・

 

誰も皆、母の産道という言わば次元トンネルを、無垢な赤子として生まれてくるのはそういうことを示している。

 

 

この荒い世界でもまれ、知恵を獲得し、再び以前以上の魂の表現周波数をその身に発するまで繰り返すことになるわけである。

 

 

カルマや転生はすなわちそのゲームをするための補助システム、恩寵の仕組みなのである。

 

 

すなわち、せっかくの次元降下なのであればこそ、魂たちの周りにある無知、無意識、あるいはこころの歪みは大なり小なり体験経験すべきものであるが、それは囚われたり、毛布のように引きずったりするべきものではないということだ。

 

 

すでに十分味わったのであればこそ、その役目は十二分に果たされたといわねばならない。

 

 

全ては、何も実際のところは・・・・どうーってことはない・・・のである。

 

 

様々な問題意識、どうしようもなさそうに見える無知なる衆合の根本にある、

 

 

様々な執着を外すことである。

 

 

過ぎたるは、まさに及ばざるがごとしである。

 

 

そうすれば、そこに居ながら身軽になってより自由になることが実感できるだろう。

 

 

気持ちだけの問題ではなく、あなたの生活、表現型全てが次第に身軽になってゆく。

 

 

それはすなわち次元上昇の方向にあるということだ。

 

 

それとも、まだ重い自己の方が良い魂もあるかもしれない。

 

 

他者をどうするとかしないとかという重い重い観念・・・アンカー、錨(怒り・いかり)を引き揚げよ。

 

 

肉体の老いも若きも魂としては全然関係なく、

 

 

そう、外から付着した色とりどりの執着を1つ1つ味わいつつ、

 

 

潔く棄て去って、身軽になってよい時期なのである。

 

 

古い価値観念を捨てる事の恐怖自体を捨てるのである。

 

 

元々そんなものはありはしなかった・・・。 

 

 

すでに時来たれり!

 

 

 

それが常にあるところの・・・・今の瞬間  のことなのだ。

 

 

Futta1305m


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