気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

空(くう)は充満する意識 (14)宇宙調和への回帰

2014-05-24 10:23:11 | 見えないものから見えるものへ

●宇宙・大自然は調和そのものである

 

ここでいう「宇宙」とは、大気圏外の、宇宙空間のことではなく、我々が生きている大自然、宇宙、森羅万象の舞台であるところの存在諸世界という意味である。

 

宇宙は全くの調和で満ちているのは分るだろう。

 

美しい大自然を見てもわかるだろうし、生態系、植物圏、人間以外の動物たちのダイナミックな姿を見てもわかるはずである。

 

 

実に、「美しさ」とは、そこに全き「調和」が見いだされる場合に表現する言葉でもある。

 

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日本の古語にある 「和をもって尊しとなす」 は、

 

まさに<調和>が人の、国の主軸であるといっているのである。 

 

<和>とは、人間同士の和、談合の和、人の集まりの中の平和維持等、という小さい意味ではなく、

 

根本には、人が大自然、宇宙との調和を維持することが実に尊いことだと言っているのだ。

 

 

●人存在の役割は宇宙の調和を学ぶことにある

 

人が大自然、宇宙との調和を保つという事はどういう事かと言えば、

 

自然環境を人間側で保護、育成するというような、後追いの自然修復努力というものではなく、

 

宇宙との調和とは、

 

宇宙大自然において、本来、人のあるべき姿、なすべき姿を維持するということである。

 

では、人の本来あるべき姿とは何だろうか。

 

・・・・ 

 

それは宇宙大自然、お互い様の人々に生かされていることに気付きながら、

 

それを通じて様々な体験、経験、思考、感情を培い、

 

人の本質である「魂」の進化、拡大のプロセスを意識的に歩むことなのだ。

 

例えそれが、転生による他生に渡る学びのプロセスであろうと、

 

そのための宇宙・大自然・人間達なのである。 

 

・・・

 

●自我、エゴは調和を乱す要因

 

何のために我々にとって、宇宙や大自然があるのか。

 

その時々の自我・エゴを満たすためのゴミ箱か。

 

ただ単にその世界の中で、あれが美味しいこれはまずい等と言っては、

 

美食をむさぼり、糞尿を排出し、身体的な快楽環境を長く維持することだけにあるだろうか。

 

次々に様々な自己主張を立ち上げ、結局嘘で終わるパフォーマンスをして政治人生を頑張ることなのか。

 

集団の中で出来るだけ良い位置を確保すること、間違いと知りつつ保身人生に命を捧げることなのだろうか。

 

 

人間社会だけのために、大自然を奴隷のように扱って森林を伐採し、地中を採掘し、

 

生きるためと言って、人間にさえ悪影響をもたらす汚染物質をまき散らし続けることなのか。

 

人の生活、富の確保のために、次々と生態系を壊すのも・・・・致し方のないことなのか。 

 

・・・・

 

いやいや、それは違う・・・・

 

ということは誰でも分るものである。

 

分っているのだが、

 

それを忘れてその他大勢の流れの中で、何とか生きてゆかねばならないとしているわけだ。

 

そうやって今まで、頑張ってやってきたのである。

 

おいそれとは固まった信念は壊れそうにない。

 

そういことで大枠・・・集合意識が・・・決したのかもしれない。

 

 

 

●豊かさを得る手段がいつのまにか目的と化した資本主義

 

資本主義という欧米発明の、豊富な物資創出・循環手法によって、

 

投資と回収という車輪でもって、200年程度で指数関数的に物質文明は成長してきたものの、

 

その反面では、我々の依って生きるところの地球環境が重度に汚染されてしまったことに、

 

あるいは物が豊富に取り囲む環境のなかで、「真に感じられる幸福」から離れてしまっていることに、

 

もう十分気付けることだろう。

 

 

長く生きている人たちは、自分が若いころと今とでは、豊かな自然が人間世界から大きく後退したことがわかるだろう。

 

便利ばかりの生活の中で、根本的に必要な水や空気が安心できなくなったとは・・・どういうことか、

 

民営化という嘘を使って、とうとう水まで企業商品にして売り買いするとは・・・・、

 

真に心ある人には、これいかに?・・が実感であろう。

 

ちがうだろうか。

 

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・・・

 

●核汚染は生態系システム上の不調和の極み

 

環境ホルモンやら人工的微分子やらで、

 

川からは次第に生物、魚がいなくなり、山からは多様な生物種、植物種の多くが消えてしまった。

 

海は汚染物質で次第に生物の為の滋養が失われつつあり、

 

大気は人口汚染微粒子の濃度がずいぶんと上がってしまったし、

 

さらに、昨今ダメ押しの様な原発事故による核汚染がまき散らされてしまったわけだ。

 

水、土、空気、火がすべて汚染されてしまったわけである。

 

 

そうは言うが、未だ未だ余力がある・・・・という考えは期待できそうにない。

 

余力があるから、終わらせなければならなかったのにも関わらず、

 

余力があるうちはと、イケイケどんどんで終始したのである。

 

 

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核汚染物質の垂れ流しは収束しておらず、それらは世界中の気流と海流で循環して蓄積され続けているのだ。

 

それでもまだ、あわよくば全ての原発を稼働させようとする考えの政党が、この日本に必死に陣取っている。

 

 

それらはまさに、考えられないほどの「不調和」である。

 

 

その不調和の原動力は何かといえば、そう目先の 「利」 の追求のためである。

 

目先の利益、利権、権益を守ろうとして、人を目先の愚鈍の状態にしばりつけ、

 

大自然を破壊し続けているという図式が明確に解るだろう。

 

 

経済発展のために・・・という文言は、現状では裏を返せばそういう意味である。 

 

 

●自然は便利なゴミ箱ではない

 

当然、破壊していること、危険を呼び込んでいる事を知っているはずなのだが、

 

自我保身の為の目先の利益優先を選択し、目の前の札束を選択している、

 

またその利益を追求すればするほど、大自然の破壊、不調和を増進するということに、

 

全く気付いていないということだ。

 

いや気づいていないというよりは、大自然を 「どこでもゴミ箱」 のように思っているのであろう。

 

自分達のわがままを、母なる大自然は何とかしてくれる・・・・という、霊的幼児の感覚である。

 

 

・・・・

 

あらゆるものの中で物質レベルで最も不調和、破壊的なものは「放射能汚染」である。

 

何故ならば、無理やり崩壊させた核種は、どこにでも飛んで流れてゆき、

 

長い間放射線を出しつづけ、生物種の青写真であるところのDNAをヒットし、壊し続けるからである。

 

大自然にある様々な生命体の設計図をランダムに書き換えてしまうということだ。

 

当然、設計図が変われば、出来上がる物、出現する形態は歪んでしまうだろう。

 

 

それは様々な病気、疾患となり、奇病となって現れてくるのである。

 

地球生態系内の有機物質の生成、生育、形態化に支障をきたすことになるわけで、

 

核汚染、これはある意味で、大自然のシステムに対する「反逆」のようなものである。 

 

 

・・・・

 

核汚染、実に、これだけはやってはいけないことだったのだ。

 

あまつさえ、特に、「和をもって尊しとなす」という言霊を発した日本という国が、

 

そこらじゅう不調和だらけにする、原子の崩壊力を、取り誤るということを仕出かすとは、

 

実に、考えられないほどの不調和である。

 

当事者らは、相変わらず、知らず、わからず、がんとして、不退転の決意で・・・・「不調和」に進んでゆきたいようである。

 

ハーメルンの笛吹男は、面白そうで何か期待のもてそうな音色の笛を吹いて、子供たちを連れ去る気なわけだが、出来る相談でもない。

 

 

●投資と回収という車輪の崩壊

 

なるほど、日本という戦後の国家システムも、ここに極まれり。

 

例えば、過去20年足らずで、うず高く蓄積された国家の借財、1200兆円とも言われる政府の負債、

 

40兆円やそこらの税収でどうやって返済するのか?、誰でも分ろうはずであるが、

 

それが、「投資」という名前になっている為に、誤魔化されているわけだ。

 

 

 

あなたは知っているだろうか。

 

要するに、国債投資等という形で、1400兆円とも言われる、

 

国民の全金融資産の9割近くまで使っているということを。

 

 

絶対に還すことの出来ない、いや還す気のない借金金額もそうだが、

 

放射能汚染と合わせて、既に・・・・極限を過ぎているのである。

 

 

ギリシアや中東、中欧やら米国、中国も含め、これは世界全てがそうであることを意味しているわけで、

 

文明の飽和点、言わば「飽和の極地」に至ったという事なのだ。

 

欲望特急、資本主義という名の列車の下には、もうレールが無くなった時点に到達してしまった。

 

 

 

人間サイドでは、もう如何ともしがたいところまで来たというサイン、

 

後は宇宙・大自然がはっきりと動き出す時点に来たということ。

 

また虎視眈々と、その崩壊時点でまた何かを得ようとする、ことさらの人為的工作もあるわけだが、

 

 

●その時に目覚めていられるか?

 

いずれにしても、

 

「まだは・・・もうなり」・・・・と相成り候・・なのである。

 

今後段階的に起きるのは、単なる「米ドルの崩壊」の話ではなく、

 

欧米の欲望追求を象徴した、今までの物質偏重文明の崩壊の話である。

 

人為的なものだけではなく、人類の想念に呼応した環境も出てくるはずだ。

 

宇宙・大自然のパワーが、おっとり刀で駆けつけて、今後強大な崩壊の後押しをすることになるだろう。

 

 

自然界の昨今の極端な動き、雨風の局所集中、頻発する洪水、旱魃、地震の増大、火山の噴火、

 

偶然と片づけたいのはやまやまだが? これらも1つのシグナルなのである。

 

聖書にもあるように、目覚めていなければ、その時は解らないのである。

 

人間社会の次から次へと噴き出してくる想念形の中だけで右往左往していては、到底そのサインには気付かないかもしれない。 

 

 

これは1つには人類文明の「不調和度」が極限に達したという事でもあり、

 

また、人類の魂的成長プロセスの転換点に来たという合図であり、

 

さらに、地球という生きた巨大生命圏の進化の通過点でもあるわけだ。

 

 

・・・・

 

●回帰すべきは、大宇宙・大自然との調和である

 

宇宙との調和とは、宇宙大自然において、

 

本来の人のあるべき姿、なすべき姿を維持するということである。

 

宇宙・大自然、あるいはお互い様の人々に生かされていることに気付きながら、

 

それを通じて様々な体験、経験、思考、感情を培い、

 

人の本質である「魂」の進化、拡大のプロセスを、意識的に歩むことなのだ。

 

宇宙・大自然の法則を学び、応用しつつそれらを発展開花させ、

 

またそれらを扱う側の人の本質・魂を磨いてゆくこと、

 

 

 

これが、

 

1つ、宇宙創造の「子」である人の役割であり、

 

また、それを魂の進化と言っている。 

 

 

日出づる国の住人は、 

 

和をもって尊しとなす。

 

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

 

 

 

 


空(くう)は充満する意識 (13)五次元意識

2014-05-18 13:00:21 | 見えないものから見えるものへ

●空(くう)は波動で充満しているから空(くう)である

 

空(くう)は意識で充満しているという表現が人間的だというならば、 

 

空(くう)は無際限の波動で充満しているという表現もできる。  

 

あらゆる色彩を重合すれば、それが白色になるように、 

 

あらゆる波動が満ちていれば、それは空あるいは空間となる。 

 

あなたのまわりの世界は何もない空間と見えているが、 

 

それはあらゆる全ての波動が充満しているということなのだ。 

 

何も無い空(くう)と観測されているその空間は、 

 

全ての波動が満ち満ちているというのが正当な認識なのである。

 

 

 

●空(たる)意識の海にエネルギー的「揺らぎ」を起こすのが想念である

 

①遍満する意識 ⇒ ②想念 ⇒ ?エネルギー ⇒ ④物質諸形態・・・・・ 

 

このプロセスによって人間に関わる現象世界が現れている。  

 

大きくは、宇宙、多次元世界の様相も同じプロセスであると言えようか。 

 

創造主の創造も、人の周囲世界の創造も、同質のプロセスだ。 

 

簡単に言えば、<物>が先ではなく、<意識の働き>が先だという事である。 

 

現在の物理学、科学的な認識では、上記の ?(エネルギー)と ④(物質) の関係だけが常識化されており、 

 

E=M×C×C (エネルギーは物質質量の光速度の2乗を掛けたもの) と定義されている。

 

たった1gの物質をエネルギー換算すると、実はとんでもない量のエネルギーに換算されるわけだ。

   

日常、目の前にある様々な物体とは、とんでもない量としてのエネルギーの塊とも言える。

 

それを無理やり壊してエネルギーを得ようとするのが原発である。

 

無理やりだから放射線が周囲に悲鳴のように飛び散ることになる。

 

 

 

目の前の物体は全て、空(くう)の遍満する波動エネルギーの局在化したものである。 

 

その局在化した要素の仕組みが、ミクロでいうところの分子、原子、クオークの関係だ。 

 

尚、エネルギーは目に見えない代物で、我々の眼に見えるものは、④の物質レベルのみである。  

 

そりゃ、そうだろう?  

 

五感は現象化した、局在化した波動の、ある一定の波長帯のみを知覚するだけの器官だから致し方がない。

 

①遍満する意識 ⇒ ②想念 ⇒ ?エネルギー ⇒ ④物質形態・・・・・ 

 

このプロセスが創造プロセスで、あらゆる現象化の雛形になっており、  

 

それは各個人で言えば、 

 

人間関係、健康状態等という現実生活に反映されているのである。 

 

要は、こころが知らない間に現実化しているということで、 

 

全てが物の関係、行き当たりばったり、あるいは確率的なものでしかないという認識は、 

 

はなはだしい誤解なのである。 

 

 

 

●思想統制、想念の統御が支配に利用される 

 

例えば、学校教育では、間接的ながらそういう物質偏重観念が植えつけられる。 

 

要は公的教育とは、戦後の資本主義的物質繁栄のための有能な要員を輩出するためのものでもあったし、 

 

逆に、精神的な要因はそれが計量化できない、目に見えない、ということから排除されて、

 

また偏向した思想、つまり<欧米的なものに反する思考>が植えつけられるのを防ぐためということもあるようで、  

 

なるほど、それは戦後の被支配の構造でもあるということだ。  

 

戦前が良いとか戦後が悪いとかの話ではなく、

   

思想、思考、常識的観念という<見えない囲い>があるということに気付く必要があるということだ。 

 

要するに、思考、想念という、エネルギーと現象を規定するところの上位ファクターに・・・ 

 

気付いていない、あるいは気づかせないという、  

 

微妙で確実な社会、国家的な、支配・被支配にも使われているということである。 

 

それは、迷える子羊の見えない囲い柵であり、また同時に、むしり取る羊毛の為の飼育のようなものではないか。 

 

自分で考え探究しない人々に、便利な思考を提供し、その思考の中での生産を収奪する。 

 

そう、投資と回収の自由主義的、民主主義的、仕組み、・・・ということなのだ。  

 

しかしながら、古いそれは色々なレベルで既に破綻している状況になっていることは、 

 

心ある世界ウオッチャー達には理解できるだろう。

 

 

 

●集合意識が飽和している現代の様相 

 

混迷度を増した世界状況、やらせの政治、富の偏ってしまった経済、

 

意図的・カルマ的な局地紛争、 

 

経済成長に沿った自然破壊の増大と、はっきり現れだした環境異変、 

 

振れ幅の増えた異常気象と、極めて身近になった地殻の動き、 

 

それらの様々な「現象」に既に、現れている! 

 

現象のレベルの変化のみを観測するならば、そりゃ単なる偶然だ・・と考えるだろうが、 

 

全ての現象の背後にある、 

 

意識、想念、エネルギーを推し量るならば、その意味が分るはずなのである。  

 

今は既に次第に見えるようになった時節の変換点、変曲点、あるいはカタストロフィー点である。

 

・・・・

 

 

 

●見えないものが見えるようになるのが道理 

 

想念が物質形態に反映される・・・・見えないものが見える物となる・・・・。 

 

例えば病は気から、健康状態はこころの反映という言葉が古くから伝わっているが、

 

これは、意識の物質化のプロセス

 

  ②想念 ⇒ ?エネルギー ⇒ ④物質形態

 

こころ、あるいは思考や感情の歪みが、相応の「エネルギー」を創りだし、  

 

それが物質形態、肉体に顕れることを示している。 

 

ところが唯物論的思考では、④の物質形態どうしの反応による、さらなる物の変化のみに捉われているわけで、 

 

想念、思考、感情という高次の精神的なものが、 

 

エネルギーを通じて形態化するなどとは露とも思えないわけだろう。 

 

 

 

●こころ・・という高次元要素 

 

身近な話だが、 

 

何かに「常に悩んでいる意識状態」では、胃のあたりが重く感じられ、 

 

それを恒常的に維持していると、例えば慢性の「胃潰瘍」その他の症状になって現れる。

 

余りに神経過敏を維持すると目や頭の周囲が痛くなる場合もある。 

 

これらのこころの肉体への影響は、実際自分の肉体で経験すれば分るはずであるし、 

 

あるいは他の人々をよく観察すれば理解可能なこと。

 

 

 

 

そんなことなど何も気づかずに、 

 

不本意ながらも病気になっている人のなんと多い事だろうか。 

 

好みではない人間関係のバトルに巻き込まれている人のなんと多い事だろうか。 

 

「こころ」という高次元ファクターを人類はいつから忘れたのか、誰が忘れるように仕向けたのかという気にもなるが、それが次元降下ということになるかも知れない。 

 

 

 

 

●こころ・・・を自ら、観察し制御すべし 

 

全ての現象の雛形は想念形態にある。  

 

これは自己にとってもあるいは集団にとっても言えることであり、 

 

自己にとって不都合極まりない形態・状態は、それ、 

 

不都合なこころの状態の現れだということに気付かなければならないのである。 

 

自己内面の・・・・微妙で複雑な観念の綾、それが表面に物質形態レベルに投影されている。

 

そう、人は皆気付く気づかないにかかわらず、自分で何事も選んでいるというわけだ。  

 

これは笑いごとでも、観念上のたとえ話でもない。

 

選挙で人を選ぶ話ではなく、自己が自己たる・・・自己を演じているということ。

  

想念とは青写真そのもの、創造の杖のごとく働く、意識の意図の絶大なるパワーを示しているのである。 

 

 

 

想念を操作、観察できないという事は、 

 

創造の杖を扱えない、あるいは振り回されている段階であることを示している。

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空(くう)は充満する意識 (12)生と死は同じもの

2014-05-10 09:56:11 | 見えないものから見えるものへ

我々は皆いつかどこかで思うものだ。 

 

俺は、私は・・何で、生きているんだろうか? 

 

そして死んだらどうなるのか? 

・・・・ 

 

『そんなことわからない、それに死んだら終わりだよ。』 

 

大体そういう答えを返してくるだろう。 

 

しかしながら、その人は・・答えているが・・・実は 『答え』になっていないわけで、 

 

要は、解らないことを正々堂々と言っているに過ぎない。  

 

そういうのが分った風な『無知』というものであろう。  

 

要は、何も調べていない、探究していない、解らない状態であることを示しており、  

 

またその答えは「何かの受け売り」なのである。受けた物を何も斟酌せず、右に左に流すだけ、皆が言っているよ・・・って言うが誰も保証人もいない、そんな理由づけなのだ。

 

 

そういう刹那的人生観がさも当たり前だというのが、特にダメ押しのよう戦後吹聴された欧米流の思想である。  

 

死んだら元も子もないから命を大切にするべきだ、というのがそれである。 

 

命を大切にするのは当然だが、死んだら終わりだ・・・という嘘宣伝がそっと附随しているのである。

 

死んだら終わりだから、生きているうちに楽しく生きよう、物も豊富に獲得し、安楽に生きよう。 

 

場合によって他人を出し抜いても仕方がない、嘘を言っても仕方がないじゃないか・・。 

 

なあ・・、だって死んだら終わりで、人徳もくそもあったもんじゃないだろう。 

 

そういうことになる。 

 

ある意味では、決まって、未だにそういう意識レベルの存在達が世界の上層部分ではしゃぎまわっている、それが正しいんだなどというパフォーマンスを演じている、そんな時代に成り下がってしまった感もある。 

 

テレビやラジオ、メディアで著名な人々の、全部とは言わず多くがそういう存在であろうか。 

  

嘘を言っては、その他大勢の希望をかきたて、言葉と行為を使って自己利益、自己保身に利用する・・・そんな人たちが目立ってきた、いやあぶり出てきたということだ。 

  

政治も経済もそういう村になっている。 

   

分る人には解るはずである。 

 

・・・・

昔から日本には、仏教、神道、あるいは修験道等を通じた、あるいは武士道などにおいて、それぞれに花開いた死生観というものがあった。

 

 

 

春の桜を愛するという無意識の自然に対する憧憬にそれが顕れている。

 

 

 

 

 

今は欧米流のマヤカシ物で出来た造花が主流となってしまったが、それも、もう棄て去る時期にある。

 

・・・・・

 

死んだら終わりだから、生きているうちに楽しく生きよう、物も豊富に獲得し、安楽に生きよう。 

 

場合によって他人を出し抜いても仕方がない、嘘を言っても仕方がないじゃないか・・。 

 

なあ・・・だって死んだら終わりで、いざとなれば、人徳もくそもあったもんじゃないだろう。

 

 

・・・・

 

 

そういう無意識での、安易で浮ついた死生観が多くの人生の強烈な色づけをしているのだ。 

 

余計なお世話だが、あなたはどうだろうか。 

 

あなたとは肉体である・・・で終わりだろうか。

 

 

この文章を読んでいる方は多分違うことは分っている。

  

・・・・ 

 

確かに、今まではそういう時代であったといえるだろう。

 

 

多分数千年~数万年という直線時間軸を生きて来ただろうあなたやわたし達は、

 

 

どの時代も、どの時代も皆、そういう肉体レベルだけの存在を自分だと、感じざるを得なかったとも言えるかもしれない。 

 

時折高次レベルから『魂の教師』が下生して来ても、烏合の衆が集まり来たりて、 

 

ある時は磔(はりつけ)に処したり、自分とは違うとして、やんごとなき高みに祭り上げて、体よく誤魔化すぐらいだから、少しずつ光が差してくるにしても、多くがそんなことだったに相違ない。

 

そうやって多くの人々が・・・「死んだら終わり」 を繰り返してきた、 

 

つまりこの次元世界で無意識に『転生』してきたというわけである。  

 

魂のごく表層の記憶に、「死んだら終わり」 の恐怖の観念が根付いているから、 

 

逆にそれから逃れるべく「必死に」 生存競争をするわけであり、 

 

また生存に忙しいからとして目先のことばかりに捉われて、生存の間に、深く自己存在の何たるかの探究がなされない。

 

 

そうしているうちに肉体人生が終わる・・、そういう繰り返し。  

 

自己が肉体でしかないという、この世界で魂の「獲得した知恵」?にもとづいて、 

 

自己創造的に再び似たような人生、ちょっと違うが似たようなパターン人生に自己投入するわけだ。 

 

人類社会で刷り込まれた、曲介した主たる観念の為に、それを起点とした自己創造、自己完結ループでぐるぐる回るようなものである。 

 

回し車のハムスターのことを、決して笑うことなど出来はしない。

 

 

なるほど物質濃厚の観念世界では、木や草や紙のように、自らを朽ち果てるべきものと思い込むのも致し方がないし、 

 

水平方向のことばかりで忙しく、それ以上の次元というか、垂直方向の自己の可能性の探究など、そうそうできるものでもないかも知れない。 

 

そうではないだろうか? 

 

ここに、こうして生きている我々は、 

 

そういうある意味で得難いところの・・繰り返しの生死、無意識的転生経験をしてきたという事でもあるのだ。 

 

例えて言えば、今までは夢の中にいて、あろうことかちょっとした悪夢にうなされてきたようなものである。

 

その悪夢とは、 

 

「自分が単なる肉体である」という観念から生じている、競争と軋轢と誤解の数々の物語。 

 

閉鎖された狭い観念世界の夢物語・・・それは・・・・自己認識で自己を決めている・・・狭い範囲での閉鎖されたレベルでの『自己創造』に他ならない。 

 

・・・・・ 

 

しかしながら、その繰り返す悪夢の世界は終わりを告げたのである。   

 

前世を憶えている人々の増加、 

 

前世を語る子供達の多くの科学的検証報告、 

 

肉体死の経験の後に帰還した臨死体験者の体験談、 

 

ヘミシンク等を代表とする体脱による多次元世界の経験者の話、 

 

お花畑的と揶揄されるスピリチュアル系、チャネリングからの話もそういう筋のものである。 

 

・・・・ 

 

ちょっと、書店、体験者、インターネットを探すだけでそれに接することが出来る時代、そういう情報が一気にこの世界に出てきているのがわかるはずである。 

 

ここでの、こういう文章なども含めて、気づきある存在達、目覚めてきた魂達は容易にそれに接することが出来る段階に来ているのだ。 

 

「求めよ・・さらば与えられん」 

 

それがここにきて極めて容易になったということだ。 

 

これは言わば、芥川龍之介作の「蜘蛛の糸」、生前盗賊をやっていたカンダタを、迷いの地獄から救い出す、天から降ろされた1本の蜘蛛の糸のようでもある。

 

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起承転結のストーリーで言うならば、既に「結」の終わりに差し掛かっている。 

 

例えで言えば、教室で先生が問題の「答え」を出す段階になったようなものだろうか、 

 

「実はそういうことでした・・・わかる人は、はい手を上げて~・・・」かもしれない。 

 

 

・・・・ 

人間は肉体のみならず、幽体、霊体という風にいわれている、言わば周波数の異なる波動の重複した多次元的な意識体としての存在である。 

 

その複合した波動、すなわち無限段階の波長の光とも言うべき存在を「魂」というならば、 

 

肉体は魂のまとう一番外側の衣服なのである。 

 

土地に合わせ、季節に合わせた衣服、それが肉体である。 

 

なるほど我々の肉体は全部、地球の提供する素材で出来ている。 

 

そういう視座に立っていえば、 

 

肉体に固執し、自我に固執するのは、まるで、自分のものでもないなじんだ古い衣服にこだわって駄々をこねる幼児であろう。  

 

人は皆、季節によって古い衣服を脱ぎ、また着替えるように、 

 

魂は経験を通じた英知をより輝かせる目的で、様々な表層体を着替えるのだ。 

 

着替えと成長を願うのは、親なる創造主、あるいは根源神、内在神の眼差しである。 

 

それを駄々こねて、自分だけは安楽に維持しよう、死を遠ざけようとして、利己主義にはまり込み、 

 

闘争や軋轢、殺戮等で、兄弟である多くの魂の経験を妨げ、カルマを自作しては再びはまり込む、 

 

今まではそういう時代であったかも知れない。 

 

いうならば次元降下した世界での経験群であったのだろう。 

 

今行われている世界中のやらせや混乱、革命と称したカオス化は、霊的幼児たちの最期の時代、ドンずまりにおける駆け込み経験であろう。 

 

・・・・ 

 

どんな形態にも自己投入できるところの自在なる魂達は皆、 

 

あの時代、この土地、あの環境、この世界、そして幾多の星々という環境も含め、 

 

あの人格、この性格、この経験、あの体験をしつつ、 

 

存在宇宙、森羅万象内の様々な創造を目撃、探究、経験、成長するプロセスにある。 

 

それを魂レベルの進化というならば、それは楽しい遊びとそれで必然的に得られる成長のようなものである。 

 

生が苦しいものであるという宇宙で最もおバカな勘違いはもうやめようか、 

 

生きることは・・・本来魂の成長のための楽しい遊び、聖なる遊戯なのである。  

 

子供のころには色々な遊びを創造しては、暗くなるまでみんなで遊んだものではなかったか。 

 

今はもう、こころの根っ子にある、うらぶれた強迫観念を、さっさと棄て去る時が来たのである。   

 

古き観念を捨てられるか、執着してまた持ちこすか・・・・ 

 

自ら身軽になるか、重たい観念のままか、 

 

これこそ結構な大仕事でもある。 

 

しかしながら時は足早に過ぎゆく過程にあり、 

 

直線時間であとどのくらいあるのだろうか。 

 

いずれにしても、今はもう、2つに1つの分かれ道に差し掛かっている。

 

 

曇りなき眼で見るならば、昨今の様々な大自然の変移にもそれが現れているのである。

 

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空(くう)は充満する意識  (11)新たな次元軸

2014-05-05 09:50:30 | 見えないものから見えるものへ

空(くう)は充満する意識・・・、

 

それは要するに、いわゆる創造主、神、全ての元、ソース、根源のことであり、

 

それはそこ・ここ、あちら、こちら、俺、お前、あれ、これ等という個別化された現象形態、

 

あるいは人が想起する概念、思考、感情等を含む、あらゆるものが「それ」であるという意味である。

 

・・・・

それと我々とどういう関係があるのか、どういう利益があるのか?それでローン還せるの?

 

という感覚で、人にはついつい物事をとらえようとする「癖」があるのだが、

 

それは海の中の魚が、海は自分とどういう関係があるのかと思っているようなものだ。

 

そういう利害や関係性、社会性のものではなく、

 

それが全てである、そのなかに全てがあるという根本的なことなのだ。

  

我々は誰も皆、もともと、この世界に存在していなかった、

 

そして、今は生きて在るわけだ。

 

そうだろう?

 

そしてまた立ち去ることになる。

 

これは虚飾ない、嘘やごまかしのない事実である。

  

そう、もともと空(くう)であり、

 

そして今はこの時空間内に「在る」ということ。

 

人間だれも皆・・そうである。

 

違わないだろう?

 

また、空(くう)が、単なる空っぽ、永遠に何も無いのであれば、有など生じるはずもない。

 

ゼロに何を掛けてもゼロである。

 

しかしながら、

 

わたしは・・・在る・・・・と意識していることは、

 

その気付きが生じるのは、

 

大いなる普遍の「意識」で・・・・空(くう)が満たされているからである。

 

そう。。。。、わたしが意識している・・こと、が1つ、その証拠なのだ。

 

 

大いなる意識、全てであるところのそれが、

 

あなたやわたし達という存在として、『顕現している』のである。

 

I AM THAT ・・・  われはそれなり、

 

無限なるそれ、全包容的意識が有限体として顕現している、

 

それがそれ・・・、あなたやわたし達、動物、植物、鉱物を含めて、全てはそれなのだ。

 

ワンネスとか言うのは、そういう<ひとつ>が、無限に顕れて展開しつつ、

 

またすべてはひとつでもあり、

 

わたしもそれ、あなたたちもそれ、全てはそれ・・・だという事である。

  

一は即ち多なり、多は即ち一なり、

 

空即是色、色即是空・・・である。

  

しかしながら、こんなことを街中で叫んでそれを理解してもらう必要もないし、

 

それぞれの自分で静かに悟るべきものであろう。

 

・・・・

 

個別の物質形態だけに意識を向けている、それしかないと勘違いしている存在達が、

 

所謂ところの、3次元的世界の住人ということになる。

 

3次元とは縦横高さの空間のなかに、物として存在しているという「認識」で出来ている。

 

それに変化、動きを加えて物理化学では4次元とされているが、それ以上の次元要素が見当たらないと、

 

あちらこちらと、探しているわけである。

 

要は、それ以上物質的に認識できないということであるが、当たり前とも言えようか。

 

意識によって視覚化しなければ、現れないからだ!

  

 

高次元とはなんだろうか・・・とか、そういう探究もあるのだが、

 

ところが、その探している行為そのものは・・・『意識の働き』 に過ぎないだろう。

 

簡単に言えば、「思考」で、あーだこうだと思い巡らしているわけだが、

 

その思考、すなわち「意識の働き」自体に気付いていない。

 

それはなにせ、物銭金という有形物を探している思考形態に染まっているからだし、

 

眼に見える結果、つまり物質形態ばかりを追いまわしているからだ。

 

3次元的現実の中をいくら探しても宝物は出てこない。

 

追い掛け回しているそれ、そのもの、つまり「思考、思いめぐらし」、という「意識」の働き・・・・

 

それが3次元要素を超える「次元要素」であることに、なかなか気づかないわけである。

 

見えない解らないと探すだけではなく、意識で視覚化、現象化すること自体に、

 

高次元の働きがあるということに気付かなければならない。

 

 

これは量子場での微量子の挙動の「観察」と「現象結果」にも通じている。

 

 

通常高い次元というのを、さらに自由度と理解度が飛躍的にUPした次元と言うならば、

  

それは存在諸元の元にある。。。。「意識」のレベルの違いで色付けされるであろう。

 

 

それは創造のレベル、プロセスの違いであるとも言えようか。

 

・・・・

例えば、案、思考やアイデアは全ての文明創造物の設計図であることは気付けるだろう。

 

車もスマホも、家も道路も、全てがもともとは誰かの案、思考、デザインである。

 

元は、思い巡らし、すなわち思考であり、それは「意識の働き」なのである。

 

デザイナーや設計・開発の仕事にたずさわる人々は、明確に解るはずである。

 

思考が、多くは間接的なプロセスを経るものの、

 

間違いなく現実の製品や機能を生み出すのだ。

 

 

さらに、例えば、スプーン曲げやら物品引き寄せ、テレパシー伝達、念写などは、

 

その意識の働きの、直接的な現れである。

 

全てを手品、マジックに帰すことは誠にもって愚かな「思考」である。

 

人の意識が3次元的観念で閉じこもっている限り、そういう実際にある、「時空を超えた現象」自体が、

 

どうにもこうにも理解できないことになるし、決まって全てが嘘だと決めつけることになる。

 

不可思議な現象を、・・・・それってなんだろう? と思い巡らし探究するのではなく、

 

そんなもの在るわけない・・・と、不思議にも、さっさと決めつけるのである。(笑)

 

それは未知なるものに恐怖を感じる「癖」がついているからだ。

 

 

安心して信じることが出来るのは、公的他者の宣伝、プロパガンダだけということになる。

 

昔、大屋壮一という識者が、戦後の日本人の精神傾向を見て「一億総ハクチ化」と言っていたが、

 

言葉の品位は別としても、なるほど予言であったなと思う。

 

現代教育は、資本主義的繁栄の為の、従順な働き人を輩出するために、

 

未知なる事象の可能性や、こころという肝心なところは放置したまま、

 

自分で思考を巡らさないように仕向けられているという風潮もあるのだが、

 

結局は、自分でしっかり「選択」しているということである。

 

だから、誰が悪いとか、社会の巨悪のせいだとか、

 

そういう責任の他者転化や他者依存は本質ではないのである。

  

 

想念が、3次元的諸物を創造しているからには、

 

想念、意識の作用、・・・それが3次元的時空間を超えたところの、

 

いわゆる「新たな次元軸」ともいえるのだ。

 

元々、昔から今もあった・・・それ、

 

あなたやわたし達の・・・意識の働き・・・それが探していた「高次元要素」といえるのである。

 

・・・・

 

意識の働き、それはいわゆる「こころ」とか、精神とか言われて、何かの抽象扱いに堕されてきた。

 

それより、うんと解りやすく、計量、計測ができる、物・銭・金、

 

それで人々を方向づけながら、

 

その思考、創造、アイデアという、気づかぬ「高次元要素」を使って、文明を築きあげてきた、

 

そういうことなのだ。

 

西欧流の物質科学文明とは、そういうレベルの文化・文明である。

 

「こころ」がおざなりにされながら、目に見える威力、豪華さ、安楽さだけを形に顕してきたのだ。

 

そしてそれは飽和してしまい、自壊作用の真っただ中にある。

 

銭金物の経済は実際崩壊を始めており、人工的な色々なごまかしや手法で延命してはいるが、

 

その土台である「地球生態系システム」自体が、

 

必然的で明らかな変移をしていることに気付けるだろう。

 

 

また、そういう人工的な文化文明の飽和と一大変移の他に、

 

 

 

想いという、意識の働き、こころの重要性、そして、

 

最高・最大の発意であるところの「無条件の愛」「慈しみ」とされる意識の働きに、

 

気付く意識存在達が増えるにつれて、

 

地球という生命圏は確実に顕現形態の進化、つまり次元転換を行なってゆくだろう。

 

さらにより意識自由度の増えた世界、

 

自由であるがゆえに本質的な自己責任を理解できる存在達の表現場としての地球が、

 

新たに出現しつつあるということだ。

 

 

 

愛とは何か・・・・

 

他者のこと、他の事物も含め自分自身のように感じること

 

 

打算や無理強いや、誘導や宣伝、要求や見返り、投資と回収などというものは、古い意識レベルでの、おもちゃ道具のようなもの。

 

 

 

一は即ち多なり、多は即ち一なり、

 

なるほど、元はひとつであるから、

 

実のところ、無条件の愛・・・それがもっとも安心で、極めて自然な思考、感情、行為なのである。

 

逆に言えば、無条件の愛・・・・だから、他者はどうであっても関係ない。 

 

これはまるで毎朝昇る、あの太陽のような在り方でもある。 

  

まるで無条件の光の放散のようなもの。 

 

これから先は何があっても何がなくても、 

 

毎日毎瞬の生きてある生活のなかで、

 

 

出来るだけこの意識フィールドに近づくことが非常に大切な時節にある。

 

 

 

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