気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

大切な伝達(copy)

2008-04-29 19:31:52 | 色々な気付き

あるブログのコピーですが、素晴らしいので、掲載させて頂きます。

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「目覚めた者へのメッセージ」

この感動を
この胸の震えを
どう伝えたらいいかしら

あなたたちは
インターネットという
光を手に入れ
加速度的に
結束しだした
  
ああ やっと   
私たち あなたたち
ここまで来れたのね
  
本名なんて知らなくても
たとえ会うのは初めてでも
すぐに同類だと仲間だと
瞬時に分かるこの感覚
懐かしさに言葉が出ないでしょう
点が線で繋がる度に 
ゾクゾクするでしょう
懐かしい瞳をたくさん見たでしょう

私たちも何度見ても
あなたたちが再会し繋がってく様子は
嬉しくて涙が出るのよ

もはや 何回会ったとか
何時間 語り合ったとか
そんなものは全く関係が無いのよ
時間じゃないわ 
密度なのよ

ハグだけで
目を合わすだけで
笑顔だけで
全てのエネルギー交換は出来るし
愛の連鎖は果てしなく続く

例え 相手が忙しそうで
声をかけられなかったとしても
ああ、あの人も居てくれると
感じるだけで 
ちゃんと伝わってるし

相手の気分も
訳も分からず良くなるのよ
だから貴方の気分が
訳もなくいい時も
誰かが貴方にいいものを
送ってくれた証拠なのよ

よくぞ ここまで辿り付いてくれました
心から祝福します 
おめでとう


ねえ
あなたたち 何をしてるのか分かってる?
例え短い時間だろうと
同じ志の者 集いて 同じ祈りを捧げ
また それぞれの土地へ
持ち場へと帰ってゆくこと

それは
肉体が無い時にやっていた
魂の集会 そのものなのよ

銀河連合の集会の縮図を
魂の同窓会の縮図を
肉体を持ちながらも成し遂げたのを
確かに見せてもらったわ

自由な魂が宇宙で銀河でやっていたことを
あなたたちは
そんなにも制限がある地球で
実現させ始めているのです
可能にしようとしているのです

飛べない肉体を持ちながら よくぞ
時間やお金の拘束を抜けながら よくぞ
数々の不安や恐怖をふりはらい よくぞ
直感に従ってくれましたね


自然と調和しながらも
飛行機やネットの近代的な恩恵をも受けて
見事に使いこなして
光のサーファーとなり
各地を飛び回るその様子は

アトランティスでも
ムーでもない
アトランティスでも
ムーでもある

融合させようとしてる
新しい姿だわ
とてもとても
美しい姿だわ

地球って
人間って
素晴らしいわよね
本当に・・・ありがとう


また 日常に戻れば
何てことは無い暮らしでしょう
TVを見れば悲惨なニュースも多く
街を歩いても電車に乗っても
暗い顔の人も多く
仕事中に あなたの輝きを封印する必要もあるでしょう
自分は何てちっぽけで世界どころか
身近な人さえも変えられないのかと
落ち込んでるのも知ってるわ

でも あなたたちなら
自分を変えるのがどれ程大変か知っているでしょう
それを相手にだけ押し付けるつもりかしら
自分は正しいからいいのかしら
相手の正しさは尊重しなくていいのかしら

誰も誰かの物なんかじゃないでしょう
誰かに幸せにしてもらうなんて
本当の幸せじゃないでしょう
そう 誰もが
自分しか変えられないのよ

目覚めた者よ
目覚めた者たちよ
あなたたちは
魂での状態を覚えてる者達である
思い出してくれた者達である
目で見えないものを感じれる者達である
でも特別なんじゃないわ
みんな本来はそうなのよ
忘れてしまってる者を責めないでね


いつか わかるから。
いいえ 魂レベルでは本当はもう知っているから。

そう あなたたち
宇宙飛行士でもないのに
地球を宇宙から眺めたことがあるでしょう
それは妄想なんかじゃないわ

魂の記憶なのよ

そして 至福に溢れた 魂での旅を完成させ
次のステージの舞台に
地球を選んだ者達である
勇気ある愛の戦士であるのは当然だけれど
あなたたちは何も勇者を気取りたかったんじゃないのよ
地球の美しさに惚れこんで
ここでの経験を壮大なミッションを
面白そう!だと思い
楽しそう!だと思い
一度忘れて また思い出すなんてステキ!と興奮し
あんな飛べもしない ちっぽけな肉体でまた仲間達と
広くて危険も多い地球のどこかで
再会するのはドラマチック!と目を輝かせ
ねえ どっちが先に覚醒するか勝負よ!と笑い
私があなたを見つけるから!と約束し
学びのプログラムをあんなに高く設定したから
抜け出すのに時間がかかるかもしれないけど
待っててね!と手を振り


OK 優等生 手伝うよ!と手を振りかえし
世界各地に日本各地に分散してゆきました
一番ドラマチックで感動的になるような見事な配置で。

この壮大なゲームを楽しみに
ワクワクとドキドキの好奇心と
全てを知りたい!という知的欲求をふくらませ
舞台を地球に選んだこと
あんなに瞳をキラキラさせて
地球にダイブした あの時のこと
忘れたとは言わせないわ


あなたは
映画が好きかしら
本が好きかしら
ゲームが好きかしら
スポーツが好きかしら
旅が好きかしら
音楽が好きかしら

琴線が震えるということ
それは魔法を受け取った合図

ねえ あなたはいつまで
自分の弱さにしがみついているのかしら
無いものを見つめ続けているのかしら

右脳が強い者だけで不安なら
左脳が強い仲間がいるじゃない
英語が出来ないなら 話せる仲間がいるじゃない
エネルギーを感じるものも居れば
目で見えるものも居るじゃない
何も感じないと言いながらも
必要な場所へ行けたりしてるじゃない
絵で描くものがいれば
踊りだすものもいるでしょう
スピリチュアルなことは興味なくとも
仕事としてプロとして目覚めてる者も沢山いるわ
そう 地に足をどっかり付けてる者達こそ
大いなる味方なのよ
沢山の人達のお陰で
衣食住が整って快適だからこそ
あなたたちは心の魂の問題にまで
向き合えていることをどうか忘れないで

せっかくの協力するという仕組みを
もっと活用していいのよ
自然の仕組みを
もっと信頼していいのよ
手を伸ばしさえすれば
あなたは一人じゃないのよ
誰もが全てを一人では出来ないこと
それはいいことなのよ

ねえ いつまで待ってもオールマイティーにはならないわ
すでに最初から完璧なんだもの
意味が分からないかしら?

神のように万能にならないと
何も始められないと思っているでしょう
美しい神殿を構えないと
人を呼べないと思ってるでしょう
サイババのように聖灰が出せないと
自分はまだまだと思ってるでしょう
あれも出来ないし これも苦手だし?

バカ言ってんじゃないわよ

世界を見なさい
まだこんなにも戦争があり
貧困に喘ぐ 国があり
破壊された自然があり
取り尽くされた資源があり
近所にさえ おかしな人がいるわ

あなたはそれを許さないというの
あなたはそれを存在させてる
それを許してる 
地球を許さないというの
地球をここまでにした
私たちを許してはくれないの

そう
自分を許していないから
神をも許せずに
あがいている貴方たち


完璧にコントロール出来ることに
面白みなんて無いわ
完璧な人間を目指すのでは無く
不完全さを変化を 許し受け入れるという完璧さを備えなさい

この人達はいいけど
あの人達はダメ?
スピリチュアルな友達と
一般の友達を分けている?
分離するのはエゴだけなのよ
妄想の幻想の霧を晴らしなさい

一人一人の意識のみがそれを晴らせる術である
マヤの長老の声を聞いたかしら

目覚めよ
立ち上がれ 
1グループももらしてはならない

と。

そう 2012年に破壊者が
地球に害ある者達が
全滅すればいいと
思う気持ちも分かるけれど
分からない奴は死ねばいいと
思うことがあるのも知ってるけれど
それでも やっぱり
1グループも置いて行っては行けないのよ   

上がりなさい
上がった者は手が届く者を引き上げなさい
全ての生命を引き上げたいと思う気持ち
あなたたちにもあるでしょう

それは何も 波動の世界を知らない者達の中で
熱く語り ドン引きさせることじゃないのよ
恐怖と疑いにまみれた者達はますますガードを固くするわ
準備が出来た者に 少しづつ伝えればいい
第3の目が開いた者達が順番に
自然にあなたたちに引き寄せられるでしょう
思いがけない質問をして来たりするタイミングを見逃さないでね
ここだ!と分かるハズだから それまで見守り待ちなさい。

それだから あなたたちは
ヒッピーのコミューンで
仲間達だけで完結するのでは無く
制限された幸せで満足すること無く
それぞれの土地に住み
それぞれの役割を日常に溶けこます

そして また
たまの集会で
魂の同窓会をして
健闘を称えましょう
そして充電したら
また日常という持ち場で
1日1日を楽しく過ごしましょう
日常を幸せに過ごすこと
それが全てなのよ

目覚めた者へ
愛する者へ

目覚めたあなたたちへ
愛するあなたたちへ 
このメッセージを
伝えます


さらなる
壮大なる物語のステージへ
あなたたちが
上がってくるのを
お待ちしております

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空(くう)は無限の今の瞬間にある

2008-04-26 07:32:14 | 宇宙的気付き

●空と無

空は虚無ではなく、実在です。全てが常に可能で、それを現し続けることが出来るから「空(くう)」なのです。実在の不在を無と呼んでいます。

虚無などどこにも無いから虚無であり、実在である「空」そのものである、人間が想像した概念としてのみ存在しています。無はそれ自体無であり永遠のゼロであり、またそのゼロという存在の名前も付けられないものです。永遠に存在などしないものが無であり、永遠に存在し無限の可能性を持つものが「空」です。似て非なるものであり、空という無限の可能性の中に無限小の1点としての無が概念として含まれています。

●空と満

空があるからこそ、満(みつる)という事が可能です。逆に現象が満ちている場合こそ、その現象という現れの中においてのみ、その可能性を減じてゆきます。しかし空であることにはいつも変りがありません。実在は空なので、満ちて終わりという事がないのです。

海の満潮は干潮が来ることを現し、干潮は満潮を約束します。空(そら)も空(くう)の似姿であるからこそ、その中で雲が変幻万化することが出来ます。例えば何も描かれていない白い紙であればこそ、その中にどんなものも描くことが出来ます。

●今この瞬間は全てを含む

私達は生まれて、子供時代を通じ、学習や体験を通じて意識が段々と芽生えてきたと実感しており、その前の記憶がないために、生まれる前は無かったのだと思う人が多いでしょう。しかし無からは何も生まれないのは明らかであり、今ここに生きてあるという瞬間の気付きは、我々が空から生じた無限の可能性であるということを現しています。我々に、今その記憶がないと思っているが故に、その記憶が現れていないとも言えます。我々の準備が、意図が無い程度に応じて、そう自覚せざるを得ないのです。しかし過去の記憶は今のわたしたちの存在を補完するものでしかないことも事実です。こだわることも恐れることも何もないはずです。

今生きて有るというこの瞬間に全ての答えがあるようです。今、この瞬間に、生きてあることは永遠に生きていると言うことであり、世間でいう生と死はあくまでも一時的な身体の生と死であることに気付いてほしいと思います。

そうでないと感じる人にとっても、今ここに生きている、存在している・・ということは敢えて否定などしますまい。百歩下がり、否定を許しても、それでは、その否定をする「存在」とは一体誰なのかを問われるからです。存在でないものがここに「有る」分けはないことを指摘されるからです。色々なことを否定し、疑い、その価値を無くすように都合よく自分自身を無に帰そうと、投げやりな努力をしても、それでは、そう考え、そう行なう存在自体は一体なんであるのか、と問われるからです。騒いでいる存在は一体なんなのかということが常に残ってしまいます。最後に残ったものがわたしということです。

●空と意識作用

空からは全てが現れ、無からは何も生じないわけで、空が、あまりにもとらえどころがないのは、我々の五感で感じるこの世界を超えているからです。きれいな絵を見る場合には、その絵の土台である空白を思い描くことは難しいのです。しかし空白があるからこそ様々な思いを絵にすることが出来ます。

しかしながら絵画を真に理解したいと願う時には、その空から生じる全プロセスへの理解が必要になるのと同じく、われわれ自体を理解する為には、それを存在せしめているプロセスにも思いを馳せる必要があるのです。自然に親しみ、触れ、観察をすることで、その一睡の乱れの余地も無い当たり前の調和と、繰り返しと見えて、1つとして同じでないその空の意識を感じるでしょう。

●空の中の物質世界

空間の中のごくわずかの運動エネルギーの渦が素粒子として現れては消えてゆき、それらをはるかマクロな地点から観測している人間が、それを物質として知覚します。「空」に現れる「意識」の渦の1つを物質と称しているようです。その物質にドエライ価値観を与えて敬っているのが今の私達のようです。私達が自分だ、と思いこんでいる肉体も、空に染み出す意識の渦である素粒子・原子の多様な相互作用で構成されています。さらにマクロにズームすれば、地球、太陽、太陽系を通り越して、銀河や銀河団、それらの集団である、超銀河団と拡大しています。われわれの及ぶ意識のはるかかなたまで「空」が広がっています。

知覚のまた想像の及ぶ無限小から無限大まであらゆる諸現象の共通の土台は眼に見えない「空」であることが解ります。空間は「空」の反映・現われであり、意識によって変化するプロセスが時間といわれます。

われわれは空であり、意識によって今この時空に「人間」としてズームインしているのです。われわれの意識のレンズを自由に拡大・縮小などが可能なわけですが、そのレンズの調節をするべき「心」が少しボケているようです。ボケるのも面白い経験であるのが楽しいわけでもありますが、あまりにもボケると何が何だかわからないようになっている、面白い「神」である自分自身を見ていることになるようです。

●空は全てを包含するわたし

宇宙のたった1つの星の中の狭い時空に現れている現象は、宇宙全ての法則を合わせた合意を元にしていると考えてもいいでしょう。宇宙全体、存在全体が、ごくごく小さなものにも、その全体の反映を見ています。全てが一体として、また個別として、空から現れていることに気がつくでしょうか。空で有ればこそあらゆるところに無限の可能性があるわけです。その無限の可能性は、全てを自分自身であるという絶対の実感:愛を伴うのは明らかです。少しづつ気付いてゆく過程に、そのものの慈愛を感ぜざるを得ません。

わたし達が、まばたきをする今の瞬間、瞬間に、全てが現れています。

・・・  

  放てば手にみてり  「正法眼蔵」(道元禅師)

放つべきは変幻する刹那の我であるということでしょう。そうする分だけ自然に真我が現れざるを得なくなるということのようです。放つとは、しっかり見据えることで可能となります。知らない・解らないと逃げている間は放つどころではありません。見るのは自分の中でもあります。外ではないようです。外は中の反映なのですから。光は常に中心から外へと広がるものでしょう。

・・・

今回もご拝読頂き、ありがとうございました。


ホ・オポノポノと「空」について(Hana)

2008-04-21 20:26:46 | 投稿記事

読者投稿記事を、またまた掲載します。著作者の方にはご了解を得ています。

皆様、投稿して頂きましてありがとうございます。それではHanaさん、どうぞ。

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~以下簡略抜粋です~

この宇宙は、最初は0(ゼロ)(何もないもの)でした。
やがてそこに苦悩が生まれたのです。
問題も生まれ、時間も空間も境界線も生まれました。
そして私たちに記憶というものが生まれたのです。
潜在意識の中に貯蔵された記憶は人類が生まれてからのあらゆる体験が刻まれています。
辛い体験もすべてです。
その潜在意識の中の記憶は、私たちが毎日生活する上で絶えず私たちを支配しています。
現実に起きるやっかいな問題や苦しい状況があるとしたら、それは潜在意識の中の刻まれた記憶による支配なのです。

その記憶を表面意識の意志によって消し去ることは不可能ですが、聖なる存在、神、宇宙、自然、天などと交信することによってその記憶を消し去り、0(ゼロ)の状態に戻してもらうという方法が「ホ・オポノポノ」なのです。

潜在意識にたまった辛い記憶を消し去り、それらに影響されない状態に戻すのです。

そして重要なのは自分が認識する世界はすべて自分が創り出したもので、「100%自分の責任」であるということを認めることです。
目の前にある問題は自分の内側にある問題なのです。

潜在意識に溜たまった辛い記憶を消し去り、それらに影響されない状態に戻すのです。

世界は0(ゼロ)から始まりました。そこにはなんの苦しみも問題もなかったのです。
その状態に戻るのです。

魂それ自体が経験を生み出しているのではないと悟ることが絶対に必要です。
魂は、記憶が見るように見るのです。(潜在意識の記憶の再生)
意識もまた、知らずして記憶の再生に従って動いています。
記憶の再生こそが、経験そのものを支配してしまうのです。

肉体と世界とは、それ自体が問題なわけでも、問題を孕んでいるのでもなく、潜在意識の中で再生される記憶の結果に過ぎないと悟ることこそが、問題解決のカギなのです

自我が魂の記憶の追体験にどの様に関わるかですが、それは本当の意味で自我が記憶という外的な力から離れ、内的な意識を持つ事ができるかどうかという事です。 

意識は、「すべての理解を超えた幸」つまり自己という贈り物に目覚めなくてはなりません。
生来の自己は、創造主つまり神性なる知能のように不滅であり、永遠です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「ごめんなさい I’m sorry 」
 「愛しています I love you」
 「許してください Forgive me」
 「ありがとう Thank you」

ホ・オポノポノの4つの言葉は限られていないそうです。
大事なのは神(内なる神性)に訴えかけるということなのです。「これでよろしいですか?」とか「すべてお任せします」といったように。
「愛してます」が言いにくいなら「大切です」、または「よろしくお願いします」など。
ただ心の底に届くように繰り返すことが重要なのだそうです。

なぜこの世界を創り出したのが自分達なのか?
それは内面の投影であり=鏡でありであるからだと思います。。
よく、「子供は親の背中を見て育つ」と言いますが、それと同じように、自分を癒していれば周囲の人にも波動として伝わるのではないでしょうか。

そうして自分を見つめ、心の中をクリーニングして削ぎ落として行くと、ワンネス(私たちは神の子であり、家族)で宇宙や神と一体であり、「無」=「空」である事に気がつくのだと思います。

私たちは野の花のように生きられるのです。
誰も見てくれないわけではないのです。
そこにそっと存在していて良いのです。

  光る
  光る
  すべては光る
  光らないものは
  ひとつとしてない
  みずから
  光らないものは
  他から
  光を受けて
  光る

(坂村真民)

存在しているだけで、輝いているのです。
私たちは皆繋がっていて、一人ではないのです。

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今の瞬間・・・が全ての舞台であるという事でしょう。過去も未来も、記憶も、予想も、「今」あるということですよね。

 

自分の知覚する範囲に関しては、全て自分の責任範囲であるということに衝撃を覚えました。外にあるといわれるこの世界に関しても、その本質認識については全て、全て自分の投影だということが事実であるという直感。ウスウスわかっていたつもりですが、本当に事実であるということに、やっぱり心はしびれてしまいますが、これが本当の事のようです・・・本当は実は素晴らしいんですね。皆々、一人の例外もなく、間違いなく、素晴らしいと思います。


存在の諸相は常に光

2008-04-19 15:19:14 | 宇宙的気付き

Img_0875●まぶしい光

飯田史彦さんの本に、臨死体験中に複数のまぶしい光に出会って、意識の直接会話をして、様々なことを教わった、思い出したということが書かれていました。本当は実際に死を通り越していった場合に遭遇することなんですが、彼は今の働きに相応しく、臨死体験というプロセスを経てその重要な情報を、体験として持ち帰ったのです。

 詳しくは「ツインソウル」という本に書かれています。p74から抜粋します。

<私は、その光の、あまりの波長の高さに、驚きました。まさに「究極の光」(極限までまぶしい光)と呼ぶしかない、唯一無二の存在であるかのように、感じられました。魂(意識体)の姿にもどっている私には、肉体的な「目」はありませんでしたが、もしも「目」があったとすれば、あまりのまぶしさに目がくらんで、目を開けておくことさえも、出来なかったことでしょう。(物理学的な用語として「波長」という単語がありますが、ここで述べる報告は、物質世界ではなく精神世界での経験であるため、意図的に、波長という漢字を用いて区別しておきます。)

 私は、その光に向かって、問いかけました。・・・その、ものすごくまぶしい光は、ただ微笑んでいるように感じました。・・・・・以下略>

●無限の波動湧出点

この例によらず、色々な情報によれば、人の魂、根源意識体ともいわれるものは、それを知覚した場合にはまぶしい光であると言う事です。光という言葉は様々な情報ソースからも出ています。ライトボデーなども直訳すれば光の体です。我々の実相、実存が光であると言う事はどういうことなのでしょうか。光とは科学的に言えば電磁波と言われていますが、我々の本体の光とは、電磁波等をも含むあらゆる波動の発現点であると言うことも出来るでしょう、何物にもよらずそれ自身で発している「意志」は意識されてそれ自身を顕現している、あらゆる存在形態を表すことの出来るあらゆる波動の湧出点と言うことも出来ます。その存在諸相を全て含む波動は、我々の個別意識としても存在します。

あらゆる物理現象から生命現象に至るまで、全ての時空の無限小ポイントの1つ1つが、あらゆる波動の湧出点であり、人間生命体はその高度の波動湧出ポイントであるといえるでしょう。中心点、ゼロポイントはいつも空でありそこからあらゆる波動が湧いてくるともいえるでしょう。

●素魂(すだま)の面

我々人間生命体を含むあらゆる個別意識は、無限の可能性の湧出点です。それはあらゆる波動形態を含むものであり、それらを精妙な意識レベルで知覚した場合は、湧出点から放射されるまばゆい光の玉などと見えるでしょう。あらゆる可能性を持ち、またそれ自身が「我在り」という創造主たる意識をもっています。その光はあらゆる振動数体を構成することが出来るわけであり、その最も表層は、今我々が現実と思っているこの自分であり、その鏡たる世界であると考えられます。根源と一体でありながらその最先端でもあるのが、私たちでありこの世界なのです。

その個別創造主とも言える光は我々の魂、実相であり、本質は無窮の者、大いなる一なるものと本質的に同じです。

●恒星・惑星も意識生命体

光の玉はあらゆる波動の湧出点であれば、あらゆる波動形態を表すことも出来るでしょう。たとえば我々の地球を含む惑星や、あの太陽も光の玉です。あらゆる波動の形態は、電磁波、物質波などに変換され、振動数降下などによって、いわゆる3次元物質世界なども現すことが出来るわけです。あらゆる波動を、意図、意識でもって調合すれば、どんな波動現象も現すことが出来るでしょう。このように考えれば、巨大な星も意識体であると言うことに合点が行きます。彼らも生きているのは、我々が生きているということと本質では変わりが無く、違いはその意識作用の段階や発現規模であるといえます。

●惑星は生命の学園

我々の住む惑星は、その光の発現レベルが高度とも言える段階にあるために、鉱物、植物、動物、人間のような生命体に相応しい乗り物を与えることが出来ます。その肉体ともいえる表層の存在形態を無数に造って、我々を遊ばせ学ばせてくれている、優しく強い、巨大で複雑な形態をも創造している、高度な意識生命体でもあるのです。

●全ては大いなる一なる意識

宇宙はあらゆる存在形態を波動で表現する、超巨大オーケストラという表現も面白いかもしれません。全ての時空は1点1点が創造意識の表れであり、あまねく調和に満ちながらも、創造を楽しんでいる大いなる一なる意識と考えて間違いはないでしょう。


未踏の審神(さにわ)とは・・・想像領域 及び 考察(P)

2008-04-16 20:31:25 | 投稿記事

Pさんの投稿記事です。 解かりやすいように、また面白いように出来上がっているわけですが、しっかりした自分の考えを表に出されています。   それではどうぞ・・

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 相手のことを本当に知るには、どうすれば良いでしょうか。相手の姿を知っている場合には、自分の場合、強烈に相手のビジョンを思い浮かべます。そうすると、大概のことはわかってきます。その時にやっていることと言うのは、相手を「姿」→「目に映る魂の具象」→「光」に変換して、その粒子性・波動性を解析して、審神(さにわ)している と言えます。
 余談ですが、自分の場合、相手に服などのプレゼントをする際にも、その人がいない状態でも、強烈にイメージしてから購入しますので、多くの場合喜ばれることが多いです。・・・あんまり、関係ないか(笑)

 では、インターネットの世界ではどうでしょうか?これは、相手の言動について、その言葉の響きや内容を波動化し、光に置き換えて互いに他を判断するしかありません。レベルの違いこそあれ、皆、大なり小なりこれを実践しているわけです。

 この「普段」の審神(さにわ)が発展していくと、我々は何処に向かうのでしょうか?他者を神とみなし(尊重・受容・解析・認識)、自己の内在神が発露(光そのものと認識)すると、自然に自身の内在神の光と他者の内在神の光が融合し、それを起点として他者の内在神に影をさしている状況、若しくは光の色の原因(個性・執着・過去領域)を知ることができるのではないかと考えております(直感レベル~霊視レベルまで)。また、目に見えない存在のことであっても、その存在(外部領域)に「目」という「五感」で直接アプローチするのではなく、まず自身の内側に入って、その光からその存在へアクセスし、感じる取ることで認識することができるようになるのではないかと「想像」しております。

 内側に光の強い方は、アストラル=ビジョンとしての創造・想像領域 も強いです。光には、形はなく、どんな像も即座に結ぶことができます。光の強さはまた、思いの強さでもあります。思いの強さは、思念のパワーであり、この二極性の厳しい現実社会の各局面でも自分が内在神であることを保ち続け、様々に創造・実現してきた艱難辛苦の経験値の総量(思念の現実化力)がそのまま数値変換されます。つまり現実世界に於いて、どのくらい健全な自己実現をはかれてきたのかの「経験値」と言い換えることができるように思います。(世間体とか、権威等とは別の霊的価値・ヒエラルキーにおける現実化の程度)

 この場合、大切なのは、現実でないビジョンは「妄想」であり、妄想は内在神に裏打ちされた秩序ある具体像を結ばないが故に魂の進化した存在が有するべき力とは、無関係かつ乖離していると認識することが重要です。

こうして高めた、自身の光、これらはエネルギーでありますが、それを拡張し広がり、新たなる能力を持たせる為には、「他者」もまた 光=神 であるとの認識の転換が必要になってくるように思います。これが統合意識への道であり、またこの意識が獲得できれば当然に他者のありのままも自身の内側から審神(さにわ)できる状態にもなるはずだと「想像」しております。

こうした、他者の「受容力」は、恐らく「空」=「スペース」=「キャパシティ」と密接に関連しているようです。マッチョマン様の過去記事で、捨てることによる「空」の示唆もありましたが、この記事は、それにインスパイアー・シンクロしております。「受」・「容」=「受」け止めるには、「容」器(うつわ)が必要 となりそうです。
閉じては行けない  開く
否定しては行けない 認める
限定しては行けない 何でもあり得る
との認識が、全て「受容性」のキーとなりそうです。

これらは、まだ達成しての記述でない為、想像の域を出ません。読んで頂いた方は、是非にも自己の経験に照らして、「他者を本当に知ること」とは何か「考察」してみて下さい。

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現実が何たるかを見極めない限り、それを超える次のページはめくれないようなもんでしょうか。見極めると言うのは、受け入れると言うことであり、変化極まりない外の世界でなく、それを見ている自分自身を、受け入れるということなのでしょう。・・という感じを勝手にしたわけです。これも一期一会・・あなたはどう思いましたか?