気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

知人友人ばかりの社会

2007-09-29 20:26:22 | 新地球文明論

現在の我々の社会では、友人や知人はごく限られています。家族・友達・学校や会社の同僚、近所の人々など。その他の人々は、道ですれ違っても挨拶1つしません。何かの機会があればその人達のことが少しづつわかってきて、打ち解けてゆくことがあります。このような人間関係が、地球の普通の社会です。

より進んだ社会というのは、どのようなものでしょうか。無味乾燥な言葉ですが、情報の多い社会であるのは、なんとなく今の社会を見てもいえるのです。現在は情報化社会といわれており、昔に比べ色々便利にもなりました。社会には情報がそれこそ溢れています。ただ、それらを真に有効に活用するまでいたっていないかもしれませんが・・。

今からの新地球文明では、これらの情報が質的に飛躍を遂げることになりそうです。結論を言えば、我々を取り巻く社会の人々の多くを、各個人個人がよく知っており、相手の立場を理解している・・そのような社会でありそうです。皆が血縁関係という意味では全くありません。皆が、皆を、お互いに真の仲間・同胞であると感じている社会です。仲間や同胞というのは、家族やその関係者であるとか、よく話をする友人とか、同じイデオロギーを持っているとか、同じ利益集団の一員であるとかという理由ではありません。

自分のことを客観的に理解できる人々は、同じように他人のことも理解できるようになるのは自然です。自分のことを理解するというのは、自分と向き合い、自分を向上させるべく切磋琢磨を行い、色々な思索や、楽しい経験や・苦い経験からの学びをすこしづつでも理解できるようになった人々のことをいいます。

自分を理解できることで、同じく人間である他人をも理解できるのは至極当然です。たとえば料理の名人は、絵画の達人の話が実によく理解できるようです。分野が全く異なっていても、専門用語はわからなくても、その真髄たる考え方や信念は通ずるといいます。

道行く人にすれ違った場合、その人の表情や、簡単な挨拶、意識に響く超感覚的な情報の共有、別個の存在であるにもかかわらず、一体感や同質感をそこに見出す、そのような人々の住まう社会に、争うことなど起こるはずもないでしょう。争いは知らないお互いに理解できない人々の間で起きてくるものです。


人であること

2007-09-29 20:25:35 | 新地球文明論

自分であるとは、私は・・・である、ということであり、この部分「・・・」がいつもその都度変わっているだけであるとも言えます。意識・無意識に関わらず瞬間、瞬間に選択しているということです。

例えば、

私は「無意識に生きている存在」である。私は「男」である。私は「女」である。私は「色々悩み多き人生を歩んでいるので」 ある。私は楽しい、私は困っている・・・・等などもう無数にあるはずです。人生の時間軸をそってあらゆる「・・・」を選択してきています。

ただ、それをこのような形で言葉に表していないだけです。

人間に「思い」があるということは、人間の特権であり、常に何かを意識せざるを得ない存在である証拠であるともいえます。あなたも私もこの「思い」「思考」「感情」等を常に持っています。これらの意識状態は、実は宇宙開闢の原因たるものの1部であると考えられます。したがって思い・思考・感情などは、少なくとも自分に関わる世界を、意識的に創造・表していくことの手段とも言えます。気付いていようがいまいが。

私は・・・・である

私たちに意識レベルと言えるものがあるとするならば、この「・・・」に何を信念をもって入れているのかということになるでしょう。

あなたは今、本当はどういうあなたでありたいのでしょうか。


家族のきづな社会のきづな

2007-09-29 20:18:39 | 新地球文明論

家族はそれぞれの魂とも呼ぶべき、個々の無限意識の学びを行うべくリンクされた人間関係といえるものです。夫婦はそれぞれの意図や不可思議な縁によって結合し、その心身の結合の間に生まれる子供たちは、また不思議な「縁」によってそれぞれの家族に繋がっています。

全てが、何かの縁や必然という共通の認識が土台にあります。たまたま偶然という行き当たりばったりのものはありえず、人間関係の全ては、各人の魂の選択の連続により生起することに十分気がついている人達の社会が現われるでしょう。多くの人々の前世や過去生の記憶と言われるものを統計的に集めて、その因果関係や規則性などを発表している科学者や研究者達も増えています。

生殖は肉体表現を行う生命体にとっては必要なものです。たとえば車というものが無ければ、それに乗ることは出来ません。性能の良い車(子孫)を絶やさないようにすることは、そこに来る運転者(魂)たちにとって大いに役に立つでしょう。 生殖もごく小さな細胞レベルから驚くべき発展を遂げてやがては眼に見える身体構造を現出します。性欲というのはそれをサポートするDNAのプログラムですが、人間の意識レベルが向上し、拡大すると、その性欲というものの基礎プログラムを実行しながらも、さらに発展解釈し、意識レベルをより美しく有意義なものに変換して行くことが出来るでしょう。

男・女という陰陽の織り成す社会では、原初のプログラムすなわち直接の一過性の性的な結合快感以外の、兄弟・姉妹間の近しい感情や愛しさの共感、かわいらしさの表現、雄々しさへのあこがれ等の、芸術を含む創造への原動力へ変換されるようになるでしょう。せっかくの身体に生起するエネルギーを意図的に変換する意識レベルで行うことは、火を蒸気に変え、回転を通して別のエネルギーとして利用するのと変わりません。それらは人間の高度の意識構造と意図によりもたらされる、新しいエネルギー変換ともいえます。

家族はそのような陰陽のエネルギーをベースに、子供の生育の場をもたらし、またそれらの構成は同質たる、別の家族との調和ある理解・共感を、社会全体に広げたものになります。寿命も長くなるため、数世代にわたる、近い生活エリアでの共生も多くなっていくでしょう。血縁はそれほど意識しなくても、全ての子供たちをわが子、孫、ひ孫として感じ、また、全ての親達は全ての子供たちの親を演じることが出来るようにまでなるでしょう。

これらの大きい家族のような共生社会の元は、その人々の人間認識から生まれます。自分を掘り下げ、逆に他人との共通意識を発見したり、感じるようになると、そのような相互理解に基づく社会が生まれます。社会システムや構成の技術的な運用形態、法の様な共通の約束事は、必要ではあるものの、二次的なものとなるでしょう。

人間相互は、質的には全く同じものであり、まさしく兄弟・姉妹であり、各自の意識表現の多様性が、煌びやかな独自の個性を表現している事を理解している人々の集合体が「社会」と言えるでしょう。そのような認識をベースにした場合には、法やルールは簡素なものになるはずです。エネルギー循環システムも、意図せずとも最も効率的になるでしょう。


自分の無限に気付く

2007-09-24 10:05:40 | 心の科学分野

自分のことを考えてみれば、いかにわかっていないかが、よくわかるものです。今までの生きてきた記憶の断片はあるものの、それらは過去の経験でしかありえません。自分、常に今存在している私、あなた、が一体なんであるか?ということです。そういう意味で、あなたはあなた自身のことがお分かりでしょうか?この作者自身も常に問いかけていることでもあります。男・女・生・死・人生・他人・社会・政治・家族・好き・嫌い・また明日・ちょっと疲れている・今日は元気かな・お金ほしいが・生活大変・楽したい・毎日・世界・経済・雑誌・日本人・外国・地球・環境・行楽・食料・上司・時間給・また明日・・・・・これらの多くの想念や感情を毎日、毎瞬間ごとに体験しているのが、私たちであるとも言えます。

私たちは、意識する、しないに関わらず、常に心・感情・身体を使って、体験を続けている存在であるというのは間違いないと、誰しも思えるはずです。私たちはそのような存在であることに気付けるでしょう。

もう1段踏み込んでみると、それらの体験・経験をさらに深く・大きくしてゆくことは間違いでないことと考えられるのです。それらの原点は、外の世界にあるのでなく、自分たちをどんな存在であるか・・という気付きにあるといえます。人間は単調なものを厭うわけで、今の現状に満足できない性があります。欲と言えばそうですが、意欲と言い換えればそういういう意識が誰にもあるわけで、この延長線上を遥かに見通す行為は必要であり、何処につながっているか、いつも考えているはずです。

貴方は何者でしょうか。体験を通して無限の存在であることを理解してゆく者であってもおかしくありません。まさにそうだと考えておかしくないのです。そうすると無限という道に乗っていることになります。無限にいたる有限の道ではありません。その無限の道そのものが、無限の可能性を常に持っているのです。


あなたも私も肉体ではない理由

2007-09-14 22:09:59 | インポート

 人の本体は身体(肉体)の中にいるように感じます。なぜなら、目も、皮膚も、耳も、鼻も体に装備されているからですね。特に眼は大きい存在です。体のなかから外を見ているように感じています。したがって我々は体、身体の中にいると感じています。皆それが当たり前だと疑うこともありません。・・・これが常識であり、誰も異議を唱えることは無いでしょう。

それでは新しい観点から考えて見ましょう。あなたが単なる肉体であれば、なぜ色々悩んだり、笑ったり、悲しんだり、苦しんだりするのでしょうか。肉体は物質の高度な組織にすぎないならばなぜそうなのでしょう。

人間には特に頭脳があるから、ニュ-ロンを通じた脳内電気パルスなどで、そのような高度な感覚が得られるのである・・という科学的な解釈が出てきます。

それではさらに新しい観点から考えて見ましょう。我々が高度な物質をもとにした生体組織であるならば、それを動かすエネルギーが必要だと思います。それは空気や食べ物であると誰しも思います。エネルギーがあって我々の生体組織が生きるのであれば、我々の元は、そのエネルギーではないでしょうか。そのエネルギーといわれる空気や食べ物は結局物質である・・という考えもあります。しかし少なくとも、我々を生かしている元は、この肉体であるとは思えなくなります。

それでさらに新しい観点から考えて見ましょう。空気や食物を存在させているものは何でしょうか?それらは私たちの元ですね。それは全て太陽エネルギーであると考えられますね。太陽からの光や熱が無ければ、地球の大気も植物・動物も存在できなくなるでしょう。肉体など有り得ないでしょう。では我々の元は太陽、太陽からの光、熱エネルギーでしょうか。

またまた新しい観点から考えてみれば、太陽や地球や銀河、超銀河団の存在を創った何ものかが、我々の元になるものでしょうか。宇宙の法則のようなものでしょうか。この先はちょっと考えてみて下さい・・・。

原因があって結果が出てきているのであれば、本体は原因のほうであるのは明らかだと思いますがいかがでしょうか。肉体を存在させている原因が、実は肉体以外の大きなものであると考えて間違いないのではないでしょうか。私たちの意識が肉体にあるような感じで、我々は存在していますが、その元・原因をたどっていくと宇宙・無限に行き着くと思います。我々の存在原因が無限のものであれば、我々は無限のなにものかにたどり着きます。

今ここにいる・・という感覚があるのは、その思っている場所が、眼や耳や皮膚を持っているこの身体であると感じているからです。ところが、我々がなにかイメージをしたり想像したりしているときには、この身体感覚が消えていることに気付く場合があります。意識はそのイメージに集中しきっていますね。でもそのイメージや考えをやめると、また身体感覚に戻ります。いつもは身体の中にあるようですがイメージや思考によって身体感覚がなくなる時があるのに気がつきます。

これは「意識しているところに自分がいる」といえるのではないでしょうか。そうであれば、今肉体にいると意識しているので、この肉体に自分がいると感じているのです。