現在の我々の社会では、友人や知人はごく限られています。家族・友達・学校や会社の同僚、近所の人々など。その他の人々は、道ですれ違っても挨拶1つしません。何かの機会があればその人達のことが少しづつわかってきて、打ち解けてゆくことがあります。このような人間関係が、地球の普通の社会です。
より進んだ社会というのは、どのようなものでしょうか。無味乾燥な言葉ですが、情報の多い社会であるのは、なんとなく今の社会を見てもいえるのです。現在は情報化社会といわれており、昔に比べ色々便利にもなりました。社会には情報がそれこそ溢れています。ただ、それらを真に有効に活用するまでいたっていないかもしれませんが・・。
今からの新地球文明では、これらの情報が質的に飛躍を遂げることになりそうです。結論を言えば、我々を取り巻く社会の人々の多くを、各個人個人がよく知っており、相手の立場を理解している・・そのような社会でありそうです。皆が血縁関係という意味では全くありません。皆が、皆を、お互いに真の仲間・同胞であると感じている社会です。仲間や同胞というのは、家族やその関係者であるとか、よく話をする友人とか、同じイデオロギーを持っているとか、同じ利益集団の一員であるとかという理由ではありません。
自分のことを客観的に理解できる人々は、同じように他人のことも理解できるようになるのは自然です。自分のことを理解するというのは、自分と向き合い、自分を向上させるべく切磋琢磨を行い、色々な思索や、楽しい経験や・苦い経験からの学びをすこしづつでも理解できるようになった人々のことをいいます。
自分を理解できることで、同じく人間である他人をも理解できるのは至極当然です。たとえば料理の名人は、絵画の達人の話が実によく理解できるようです。分野が全く異なっていても、専門用語はわからなくても、その真髄たる考え方や信念は通ずるといいます。
道行く人にすれ違った場合、その人の表情や、簡単な挨拶、意識に響く超感覚的な情報の共有、別個の存在であるにもかかわらず、一体感や同質感をそこに見出す、そのような人々の住まう社会に、争うことなど起こるはずもないでしょう。争いは知らないお互いに理解できない人々の間で起きてくるものです。