気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

(3)肉体自我は錯覚である

2020-12-31 06:09:55 | 意識の科学(総合編)

●肉体自我

意識していることが、肉体の感覚と合わさって、

体(からだ)である私個人・・という、肉体自我の感覚を生み出している。

それを通常・・(わたし)と・・言っている。

 

私たちは、外界・環境に接している肉体の五感の感覚によって

「私はこの肉体である・・」という強い感覚を生み出しているわけだ。

 

そこから、自分はこの肉体である・・という言わずもがなの信念になる。

それが「肉体自我」であるといえよう。

 

この世界はそれが常識となっていて、そのレベルで様々な出来事、歴史が創られているが、決して幸せとは程遠い世界であったことも事実であろう。

人類の歴史には、一過性の肉体自我の生存のための、涙ながらの、葛藤・競合、バトルが色濃く反映されていることは否定のしようがない。

 

人間とは、猿から進化した肉体人間であるかのような常識世界において、

「わたしは何か?」・・という意味不明な?問いに対して、

それでも、人が真面目に答えようとする場合、

「だって、私のこの体以外何がある?」というしかないだろう。

しかしながら、全ては・・まずそこから始まるのだ。

 

本当の・・わたしとは何か?・・・

そう、これは神の自問自答である。

 

●肉体自我は想念による錯覚幻想

「だって、私のこの体以外何がある?」・・

 

しかしながら、肝心なところ・・・

私はこの体である・・は事実ではなく・・思考、信念に過ぎない。

それは単に「わたしは肉体・・である」という想念である。

 

わたしは、あれだ、これだという様々な自己定義・・、

これは何かで在ろう、何かに成ろうとする想い、想念であり

・・意識上の創作、錯覚ともいえるものだ。

 

例えば彫刻家が、一心不乱の作業中にそれと一体化した感覚を持つように、

何かに常に接していると、あたかもそれと・・自分が一体化する感覚を持つことがあるだろう。

これは、それそのものになろうとする「意識」の性質ともいえるもので

何かになろうとすること・・対象物への・・自己投入、自己投影、

想念・行為によって、あたかもそれであるかのような錯覚を醸し出すのだ。

 

ここは難しいかもしれないが・・

「私はこの肉体である」・・・は、

意識がそれに一体化した状況・錯覚を意味しており、

事実・・なんかではなく、それに対する想いに過ぎない のである。

 

事実とは・・・・

肉体に気づいている・意識している、

対象への・・気づき・・が起きているということ。

そこから二次的に・・私は肉体である・・という想いが起きている。

私は肉体である・・は想いであり、意識上の錯覚を意味するということだ。

 

ただそこに在るのは・・

わたしは・・肉体に気づいている・・という事であり、

そこから二次的に出てくる想い・・「私とは肉体である」・・は、

想念による錯覚・幻想である。

 

自己観想的な思索が無ければ、なかなかここは意味不明であろう。

 

●気づくことが起きている

もう一度云うと、

何かを見ていることは・・視覚を通して「気づいている」ことだ。

何かを聞いていることは・・聴覚を通して「気づいている」ことだ。

味わっていること・・味覚を通して「気づいている」ことだ。

嗅いでいること・・臭覚を通して「きづいている」ことだ。

触れていること・・皮膚感覚を通してそれに「きづいている」ことだ。

何かを考え、想像することは・・意識内でそれに「気づいている」ことだ。

 

事物・現象は勝手に起きている事物・現象ではなく

・・それを知覚しているからこそ、その存在を認識できるものだ。

 

見る・聞く・感じる・考える等の・・「意識」の働きによってこそ、様々な対象認識ができる。

これは逆に、

「気づき」と「対象」(現象)は・・不可分一体であるともいえよう。

その相互の働きが・・意識・・といっていい。

 

意識は、内面側の気づきと・・外面側の現象を包含する働き、

創造の働きともいえるだろう。

 

”意識”の働きが無ければ、決して事物・事象は存在たりえない。

 

あなた(意識)がなければ、あなたの世界(現実)は無い。

あなたが朝、目覚めなければ、昼間のこの世界はやってこない。

あなたが図書館に行こうとしない限り、図書館に行くことは無い。

 

目の前にビル・建物がある・・のではなく、

ビル・建物が有ることに気づいているのだ。

ビル・建物が勝手に存在する・・わけではない。

それに気づいていなければ、ビルがあるなんて体験できない。

 

肉体を感じている・・意識が、

自分を肉体であるという錯覚に入り込んでしまうのである。

例えば映画を観ていて、いつの間にか、

それに感情移入してあたかもその中にいるように錯覚する。

 

ただ一なる原理(神・宇宙意識)は、

無限である自らが何者か?を知ろうとして・・・、

無数の被造物、大自然、宇宙・世界を創出していると同時に、

自らである・・無数の被造物に・気づいているのである。

その働くさまが・・意識と言えるだろう。

気づくこと、・・意識は・・対象(被造物)の投影であり、創造である。

 

あなたや私も、単なるこの世界の一過性の肉体人間ではない。

あなたも、意識がある・・、

意識が自ら肉体・環境に自己投入して、かつそれ自体に・・気づいている。

それは一なる神(宇宙意識)の無数の自己創造の一端に他ならないのだ。

 

あなたはそれだ・・という事だ。

 

 

ーーーー

注)

ここで行っていることは、例えば、科学者が目の前の物質を究極まで分解分析したように、私たち自身のことに対して、出来うる限り細部に、深く気づいてゆく作業に他ならない。

漠然と通り過ぎていたことや、常識として外から刷り込まれた知識・観念に対して呆然と流されて行くことではなく、そこから脱し、角度を変え、観点を変えて自らの在ることを・・見直すことでもある。

いま、ここで目覚め・・魂・意識として・・踵(きびす)を正すときなのだ。

しかしながら、絶対といっていいほど言えるのは、外の世界(現象)のほうではなく、自らの意識(気づき)に深く入っていかねばならないということだ。

 


(2)私とは何か

2020-12-29 05:21:44 | 意識の科学(総合編)

●問いかけは・・魂の宿命

 

もっとも大切なものは何か?

それを追求してゆくことが人生の目的であろう。

そうではないか?

それはただ一心に悩んだ姿勢で考え続けることでもない。

科学者や哲学者になることでもない。

知的体系で論理的に組み上げることでもない。

そんなことやっていたら生活ができない・・とか、

気をそらし、人生をそらす刹那的な騙し言葉に乗ることでもない。

 

今・・在ること・・そのものを・・知ろうとすることだ。

 

生まれて来たこと、生活そのもの、生きて活動していることそのものが、その探求に他ならない。

人は同じ肉体で永遠に生きるわけもないし、永遠にお金回して、危うい贅沢も続きはしない。

 

限られたこの世の人生の中で、

もっとも本質的なことは・・何か?と追求し続けること。

それがこの世界に下生・出現して、限りある人生を経て去ってゆく、

全ての人々・魂たちの大きな目的であるといっても過言ではない。

ちがうだろうか?

 

それが、あなたがかつて何度も自分に、ふと問いかけたかもしれない、

「わたしはなぜ・・生まれたのか・・生きているのか・・」

に対する答えだ。

 

答えといっても、それで終わりでなく、始まりでもあり持続でもある。

もちろん、

「そんなことはない・」

「大事なことは・・もっと別にあるはずだ」と・・そう思う人たちもいる。

「人生色々あっていいじゃない・・勝手に決めつけるな・・」

そう思う人も五万といるはずだ。

 

しかしながら・・そう、・・・

人々は様々に思う・・そう意識している・・こと自体は共通である。

人々の意識に浮かび上がる内容・想いは、様々であるが、

その母体・ベースである・・意識自体は・・共通なのだ。

 

●わたし(私)・・とは

あなたやわたし・彼や彼女、あいつとこいつ・・他者と自己・・

仲よくしたり、バトルしたり・・場合によって面倒この上ない、

多くの人々の・・基盤である・・意識は・・共通であることが悟れるだろうか?

全ての人に「意識」があり、

意識に浮かび上がる「想い」や「行為表現」は様々である。

 

さらにその意識は・・どこにある?・・・

意識が自分の中にある・・と感じていることが・・

付属する肉体の感覚と合わさって、

・・わたし・・という主体感覚を生み出している。

それを通常・・私・わたしと・・言っている。

 

いま、これを見ている人も、そこ・・から見ているのだ。

 

●意識とは何か

一般に意識とは・・精神的な内容とか、想い・思考・考え・・などとも言われるものであり、

自意識とは、それぞれわたし・・自身に・・気づいていることである。

そして、意識がある・・とは「生きている」ことをも意味するだろう。

周りに気づいていることを「意識がある」「生きている」とも言うはずだ。

 

つまり、意識をより根本的に言うならば、

それは・・「気づいていること」であり、

また、意識とは、気づいていることの集合をさしている。

 

「気づき」とは、何かのヒントやちょっとした悟りを言う場合もあるが、

ここでの「気づいていること」は、より根本的な意味である。

例えば、

何かを見ていること・・視覚を通して「気づいている」ことだ。

何かを聞いていること・・聴覚を通して「気づいている」ことだ。

味わっていること・・味覚を通して「気づいている」ことだ。

嗅いでいること・・臭覚を通して「きづいている」ことだ。

触れていること・・皮膚感覚を通して「きづいている」ことだ。

何かを考え、想像している・・意識内で「気づいている」ことだ。

 

つまり人の意識とは、

五感によって”知覚”することを通じて、環境・世界に気づいていることである。

また、外側世界を感じる五感感覚ではない、いわゆる頭の中での「思考や想像」も、

それを内面で知覚し気づいていることには変わりがないのである。

思考や想像には際限がないように、気づくことにも際限がない。

意識・気づきは・・つまり無限ということだ。

 

 


(1)第一原因

2020-12-24 04:56:28 | 意識の科学(総合編)

あなたや私たちにとって最も身近で、最も大切なもの、

いや、私たちのアイデンティティそのもの、存在そのもの・・

いや、それによらずば・・わたしたち・そのものが存在し得ない、

さらに言えば、あらゆるすべての根源・ソース、

あなたやわたしの生と死、人生、生活・・すべてがそれによっているもの・・

 

それはなんだろうか?

 

あなた自身でありながら、今までのこの世界においては特に、

あなたが普段それを忘れている・・

あらゆるすべてを有らしめている、在らしめている・・それとは何だろうか?

 

あなた自身である・・それとはなんだろうか?

 

何億の富であろうと、世界でもてはやされる名誉や地位であろうと、単に泡沫のしぶきにも満たない、刹那の現象でしかないことが悟られる・・それ、

世界がどうなる、こうなる・・宇宙が・・どうなるこうなる・・

それらが単に一過性の物語に過ぎないと感じさせる・・

あらゆる存在の第一の原因・・法則・・

 

そして、

本質としての・・あなた自身である・・それとはなんだろうか?

 

 

あなたが生きていることを、

そのまんまそれとして存在・存続、経験せしめている・・もの、

泣き叫び、喜び、忘れ、くずおれ、倒れ、立ち上がり、

思い出し、繰り返しながら、人生を経験している・・あなたの

その根本原因・・のことである。

 

あなたの生命、経験、生と死、転生、様々な生命、現象・世界・宇宙・・

そのもとにある・・根源・原因・・神・創造主・・ソース・・

あなた自身・・存在である・・そのもの・・・

 

それはなんだろうか?

 

何も考えだす必要もなく・・どこかに行って見分する必要もなく、

何かを肉体に着飾る必要もなく、

口角泡を飛ばして自己主張する必要もなく、

・・・・

ただ・・今・・・・のままで、・・・あるもの・・・

 

それは何だろうか?

 

 

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投稿者注)

何事もただ見て読んで・・関連してイメージを想起するだけではなく、自身で気づいてゆく行為・一種の時間をかけた自発的・意識的作業が重要と考えます。

したがって、本シリーズは意識の科学のまとめを「講座」の様式にして、出来るだけ順序だてて掲載する予定です。

一応講座という形なので、仮に、何かの質問・疑問などがあるならば、下記コメント欄、あるいはメールにでも書いていただければと思います。

ご自身での意識的作業への障りにならない程度には応対可能かもしれません。そのさいはあしからずご了承ください。

尚、本ブログは個人主催の自由な発信サイトなので、他者への礼を失しない限り、どんな義務や権利も金銭的やり取りもありません。

 

 

 

 

 


(50)第3密度の最終幕劇

2020-12-18 06:41:16 | 意識の科学

あなたの想いは、あなたの意識上に浮かび上がる「想念」のことだ。

頻繁に、わたし・・意識という空間に出現する・・想い、

あなたは、想念が・・意識の中に浮かび上がることを知っている。

しかし、普段はこのことを、当たり前のようにして素通りしている。

想念自体に・・肉体知覚、物質物量感覚が感じられないからである。

・・頭のなかに浮かぶ単なる考えと軽んじているのである。

 

意識の中に浮かぶ想い、

それは宇宙空間の中にある様々な事象・宇宙の諸現象と同じことなのだが、

この世の人は、肉体レベル、物質レベルの感覚(4次元的知覚世界)に埋没しているために、

このことの重要性に気づかない。

 

今とは・・・今の意識であり、そこに浮かび上がるのが・・想念、

想念とは・・創造の元素のことだ。

この想念こそが、

過去、現在、未来の・・人の体験ステージの、

シナリオとなっていることに気づかなければなるまい。

この想念は・・この人生体験のみならず、転生を通じて、

来世という人生体験にも引き継がれるのである。

 

つまり、今あなたに常在する・・「想念」つまり思考・感情の膨大な記憶は、

それぞれのわたしたちの次世代に引き継がれるのである。

次世代といっても、次の世代の人々、子孫や他者ではなく・・

あなた、わたしそのものの・・次の生体験ということだ。

これを「生まれ変わり」と言っている。

 

このような記事や内容のみならず、古代からの言い伝え、

仏教的やその他の宗教的な教えなどで知ってはいるはずなのだが、

学校、政治・行政などの公的機関ではさっぱり出てこないがゆえに、

生まれ変わりや転生のことは、なんとなく知ってはいても、

どこかあてにならない情報であると半信半疑の人が多いだろう。

 

しかしながら、そういう「待つこと」に依存している人は、

今真剣に自身で調べてみる必要があるのだ。

 

生活の糧や子育て、ローン返済だけを必要絶対条件とせず

常識という観念の檻の中に、群れを形成して生きるのではなく、

なぜ、いま・・あなたはここに生きているのか?・・・

 

その生活・生体験・今生きていることの・・意味・意義に通じる、

はるかに大きなフレーム枠を自分で・・見出さねばならないのである。

 

大きなフレーム枠とは、真のわたし・・

肉体・想念を出現させ、実体験せしめている魂・意識のことである。

 

魂の生まれ変わりは、昔から綿々と伝わっている事実であるが、

それがいつか・・常識的には、

なんの証拠もない迷信であるという・・ことにされている。

そして、あなたはその想念に”引っ張られて”いるかもしれない。

 

しかしながら、

いったい・・誰が責任を持つのだろうか?

 

世界の常識・権威たちが・・・

魂である・・あなたの行く末に責任を持つのだろうか?

たとえ親でさえ、あなたの人生にどんな責任も持てないというのに・・・。

 

社会の上や公(おおやけ)から、ただ与えられるもの、

世間常識という、実体のない便利なだけの「情報」は、

口を開けて待っているヒナの「餌」のようなものであり、

その幼気(いたいけ)なヒナは、実のところ、

皆で皆の顔色を伺うように仕向けられながら、

その時々の支配のための常識の鎖につながれている。

 

まるで鵜匠に気づかず知らず、操られる幼気(いたいけ)な鵜であれば、

その鵜の運命は世間相場ではどうなるのか知っているだろう。

 

愛より欲のほうが深い世間、素直では全く生きづらい社会、

細かな思いやりよりも、金勘定で済ます粗い人間関係で満ちた社会、

末法と呼ばれる、そういう世界に生まれた魂たちは、

その激しい洗礼を受けて驚愕し、驚き・恐れ、

それから逃げ惑うことを憶えて久しいかもしれない。

 

しかしながら、もうその時は終わったと覚る必要がある。

 

 

この地球という、無限の宇宙でのほんの微細な小さな小さな世界、

ある意味で外見は上品に設えられた、中身は地の獄舎のような世界、

如何せん、粗い利己主義的想念を中心に共同創造された世界は、

いまその最終幕劇を上演中であることに気づけるだろうか?

 

あなたはその観察者として、今ここで目覚めたか?!

 

最終幕劇の時間、

いずれにしても、3次元レベルの体験世界では、

体験用の衣服である肉体の時間枠は、

短く限られていることを思い出すべきである。

 

人々(魂たち)は、その第3密度と言われる世界の、

最終的な崩壊と混乱に 意識を ”自己投入” したまま、

同じ次元に囚われたまま、

さらに眠り続ける転生を選択するか、

 

あるいはその世界での魂の体験意義に気づいて目覚め悟り、

必然的な新たなる高次の転生を選択するのか、

それが、いまここに存在する同胞たち魂たちの、特異な状況であろうか。

 

今その道が・・はっきり観えているだろうか・・。

あなたの今の・・想念・・・想い・感情、そして表現行為・・・

それそのものが・・・・選択意思・・・そのものなのである。

 

過去、現在、未来の道のりは、

常に、そう、

持続する今における・・・あなたの

「想念」によって選択され続けているのだ。

 

 


(49)プログラマー

2020-12-10 05:29:59 | 意識の科学

人が平安・幸福であろうとするならば、

自分自身が、何を考え何を信じているのか?

あなたはそれ自体に気づかなければならない。

 

常に、自分の思考や感情、そして行為に気を配ることだ。

自分自身に意識的である・・ということだ。

他者を気にするのでは無い。かといって無視するのでもない。

 

意識する対象を、他者、環境などに置くだけではなく・・

同時に・・自分の意識・・にも気づいていることだ。

 

自分自身が、何を見聞きし、何を考え、何を感じ、何を信じているのか?

意識的に・・気付いていること・・自己観想・・である。

自己観想とは・・・自己の想いを観る・・意識の視座にあるという事である。

想いを観察できるからこそ、それを変化・選択することもできるのだ。

対象として気づいていないものを・・どうやって変えることが出来よう。

 

コンピュータで言えば、

あなたが・・プログラマー自身であるか、

あるいは、外からプログラムされる者かということだ。

 

あなたはプログラムされ、その通りにしか動けないコンピュータ自体か?

つまり、単なる機械体、あるいは肉体存在か?

あるいは自在にコンピュータを操作するプログラマーか?

つまり機械体、肉体を含み、それを超えた意識的存在か?

 

ここには遥かに隔たった次元の違いがある。

次元の違いとは、気付いているレベル・・・意識レベルの違いである。

 

何度も言うけれど、・・・・

 

意識が無ければどんな世界・宇宙もない。

気付くことが無ければ・・どんな知覚対象もない。

 

それぞれの・・

わたしが居なければ、(わたしの)世界・宇宙は存在し得ないのである。

 

どうして・・意識に気づかないのか?????

 

じっくり想いや感覚・・意識を集中維持してみよう・・・、

あなたが仮に永遠に眠ったとしたら・・・、どこに世界や宇宙が存在しようか?

「その時にも他の人がいるから・・世界はあるはず」と・・思うだろうが、

 

一体全体・・それを・・誰が・・証明できるのだろうか?

 

次元上昇は・・極めてシンプルなのである。

 

今までの権威に満ちた、尤もらしい科学的見解では、

まず、物質環境世界・宇宙がビッグバン以降、厳然と存在し、

そこで生命が生まれ、時間経過の後に、

様々なものを知覚・認識するような人間・意識が生じた・・・

と考えられているのだが、

 

物質世界・宇宙が先にあって、意識がその後で生じたとする証拠はどこにもない。

ビッグバンも仮説・理論であって、人間の科学的?想像の産物なのである。

想像・理論‥も、現実に即した・・と考えられる、人間の想いの構築物である。

 

このことを深く、自分自身で思いめぐらせてみよう。

物質や環境、世界や宇宙に‥気づく・・知覚するのは・・意識である・・

気付くから・・現れる・・・・のだ。

気付く前に・・・気づく対象が存在した‥わけがないではないか?

 

雪の結晶も・・地球(宇宙)意識の顕現である。