●肉体自我
意識していることが、肉体の感覚と合わさって、
体(からだ)である私個人・・という、肉体自我の感覚を生み出している。
それを通常・・私(わたし)と・・言っている。
私たちは、外界・環境に接している肉体の五感の感覚によって、
「私はこの肉体である・・」という強い感覚を生み出しているわけだ。
そこから、自分はこの肉体である・・という言わずもがなの信念になる。
それが「肉体自我」であるといえよう。
この世界はそれが常識となっていて、そのレベルで様々な出来事、歴史が創られているが、決して幸せとは程遠い世界であったことも事実であろう。
人類の歴史には、一過性の肉体自我の生存のための、涙ながらの、葛藤・競合、バトルが色濃く反映されていることは否定のしようがない。
人間とは、猿から進化した肉体人間であるかのような常識世界において、
「わたしは何か?」・・という意味不明な?問いに対して、
それでも、人が真面目に答えようとする場合、
「だって、私のこの体以外何がある?」というしかないだろう。
しかしながら、全ては・・まずそこから始まるのだ。
本当の・・わたしとは何か?・・・
そう、これは神の自問自答である。
●肉体自我は想念による錯覚幻想
「だって、私のこの体以外何がある?」・・
しかしながら、肝心なところ・・・
私はこの体である・・は事実ではなく・・思考、信念に過ぎない。
それは単に「わたしは肉体・・である」という想念である。
わたしは、あれだ、これだという様々な自己定義・・、
これは何かで在ろう、何かに成ろうとする想い、想念であり
・・意識上の創作、錯覚ともいえるものだ。
例えば彫刻家が、一心不乱の作業中にそれと一体化した感覚を持つように、
何かに常に接していると、あたかもそれと・・自分が一体化する感覚を持つことがあるだろう。
これは、それそのものになろうとする「意識」の性質ともいえるもので
何かになろうとすること・・対象物への・・自己投入、自己投影、
想念・行為によって、あたかもそれであるかのような錯覚を醸し出すのだ。
ここは難しいかもしれないが・・
「私はこの肉体である」・・・は、
意識がそれに一体化した状況・錯覚を意味しており、
事実・・なんかではなく、それに対する想いに過ぎない のである。
事実とは・・・・
肉体に気づいている・意識している、
対象への・・気づき・・が起きているということ。
そこから二次的に・・私は肉体である・・という想いが起きている。
私は肉体である・・は想いであり、意識上の錯覚を意味するということだ。
ただそこに在るのは・・
わたしは・・肉体に気づいている・・という事であり、
そこから二次的に出てくる想い・・「私とは肉体である」・・は、
想念による錯覚・幻想である。
自己観想的な思索が無ければ、なかなかここは意味不明であろう。
●気づくことが起きている
もう一度云うと、
何かを見ていることは・・視覚を通して「気づいている」ことだ。
何かを聞いていることは・・聴覚を通して「気づいている」ことだ。
味わっていること・・味覚を通して「気づいている」ことだ。
嗅いでいること・・臭覚を通して「きづいている」ことだ。
触れていること・・皮膚感覚を通してそれに「きづいている」ことだ。
何かを考え、想像することは・・意識内でそれに「気づいている」ことだ。
事物・現象は勝手に起きている事物・現象ではなく
・・それを知覚しているからこそ、その存在を認識できるものだ。
見る・聞く・感じる・考える等の・・「意識」の働きによってこそ、様々な対象認識ができる。
これは逆に、
「気づき」と「対象」(現象)は・・不可分一体であるともいえよう。
その相互の働きが・・意識・・といっていい。
意識は、内面側の気づきと・・外面側の現象を包含する働き、
創造の働きともいえるだろう。
”意識”の働きが無ければ、決して事物・事象は存在たりえない。
あなた(意識)がなければ、あなたの世界(現実)は無い。
あなたが朝、目覚めなければ、昼間のこの世界はやってこない。
あなたが図書館に行こうとしない限り、図書館に行くことは無い。
目の前にビル・建物がある・・のではなく、
ビル・建物が有ることに気づいているのだ。
ビル・建物が勝手に存在する・・わけではない。
それに気づいていなければ、ビルがあるなんて体験できない。
肉体を感じている・・意識が、
自分を肉体であるという錯覚に入り込んでしまうのである。
例えば映画を観ていて、いつの間にか、
それに感情移入してあたかもその中にいるように錯覚する。
ただ一なる原理(神・宇宙意識)は、
無限である自らが何者か?を知ろうとして・・・、
無数の被造物、大自然、宇宙・世界を創出していると同時に、
自らである・・無数の被造物に・気づいているのである。
その働くさまが・・意識と言えるだろう。
気づくこと、・・意識は・・対象(被造物)の投影であり、創造である。
あなたや私も、単なるこの世界の一過性の肉体人間ではない。
あなたも、意識がある・・、
意識が自ら肉体・環境に自己投入して、かつそれ自体に・・気づいている。
それは一なる神(宇宙意識)の無数の自己創造の一端に他ならないのだ。
あなたはそれだ・・という事だ。
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注)
ここで行っていることは、例えば、科学者が目の前の物質を究極まで分解分析したように、私たち自身のことに対して、出来うる限り細部に、深く気づいてゆく作業に他ならない。
漠然と通り過ぎていたことや、常識として外から刷り込まれた知識・観念に対して呆然と流されて行くことではなく、そこから脱し、角度を変え、観点を変えて自らの在ることを・・見直すことでもある。
いま、ここで目覚め・・魂・意識として・・踵(きびす)を正すときなのだ。
しかしながら、絶対といっていいほど言えるのは、外の世界(現象)のほうではなく、自らの意識(気づき)に深く入っていかねばならないということだ。