気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か? (1)人生とは単なる「夢」物語

2015-08-30 22:39:14 | 新たなる地平線

あなたは世界の「夢」を見ているのである。

本来は、それを現実だ、現実だと言って嘆き悲しむことはないにもかかわらず

大勢の人々に巻き込まれ、夢を現実と言って怖れているのだ。

あなたは映画が怖いだろうか?

それを観ている自分から覚めるのに、


生きるの・死ぬのと、

そんなに大騒ぎしている・・・必死の形相の・・映画の中の、夢の中の自分に、

気づいている自分、

「本質のわたしが在る」ことに気付けるだろうか?

本質のわたしは、微笑みながら、いつもただこう観じている・・・

だからそれが、どうしたの?」



・・・


社会とは何か?

世界とは何か?

家族とは何か?

会社とは何か?

そういうことは既にわかっているだろう。

それら全て・・わたし・・の「外側」のことだと感じているから、

人生において、否応でもそれを見て、体験し、観察することになるので、

大体のことはもうすでに、大なり小なり、わかっているものである。


それら外側のこと、わたし・・の外側、

わたしの・・観察対象のことだから、否応なくそれが見えるのだ。

見る、聞く、味わう、嗅ぐ、体での触感、それらで「観察」しているわけである。

気付いていなくても、そういうことなのだ。

もう既に、十分に、知っていることに、気付けるだろう。


それぞれが、あなたや私としている根拠、

別個の個人・・個人として存在しているという感覚を生じている、

この肉体・身体は・・この世界との接点、インターフェースのようなものである。


しかしそれで、ずいぶん悩んだり、怖れたりするものである。

なんという、ろくでもない世界、恐ろしい世界だろうか、

しかしごくたまに、なんという素晴らしい世界だろうかと感じるものだが、

そうは言え、そんなに生易しいものではないとも・・思っている。

知らない顔を装いつつ、多かれ少なかれ皆、共に、そういう風に感じている。

そうだろう?
・・

実際それは・・全く映画を観ているようなものであるし、

TSUTAYAで借りるDVDを見ているようなものだが、それに気づいているだろうか。

そんな簡単に言えるものか?等と思うだろうが、実際はそうなのである。


DVDを借りて、その好きなドラマや時代劇に一時入り込む、

そこには何のリスクもない。

あなたが借りたか、あなたの家族が借りたか、友人に借りたかは問題ではなく、

人は皆、見ることと、聞くことという五感の一部を使って、映画の中に入り込んで楽しんでいる。

DVD、映画は、五感の一部で「観賞」するものなので、それは現実ではなく、仮想のストーリーを楽しんでいると・・・知っている。

だから実際には、恐ろしいとか、怖いとか、嫌だなとか、あー嬉しいなとか、思うものの

そういう感じを楽しんでいる、味わっているということを知っているのだ。

そうだろう?

・・・

人生も、生きることも、全く同じなのだが、映画や小説のそれと違うのは、

ここで人間として生きているということは、

身体の五感の全て・・・、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、そして触感というもの全てを使っているということである。

五感の全てを使って、この世界に自分を投入している、ということである。


ある意味で、実際そうなのだ。

ある意味も、どの意味もなく、「体験」を楽しんでいるということである。

あーあ、厭だよ、マジ・やだ!、どうしてあいつは、どうして人間は、なんで世界は、・・・

多分、そういう風に感じているかもしれないが、

それは単に、あなたの観察対象たる外の世界の「感想」なのである。

リアルなもの、どうしようもないという意味に、真に受けてしまったところの、

この世界を鑑賞している・・あなたの観想なのである。

・・・
本当に・・・気付けるだろうか。

映画は五感の一部を使った臨場感であるが、

人生や生活は、五感の全てを使った臨場感なのであれば、

五感の全てを使った「存在感」であるわけで、それを越えるような尺度や視点がなければ、

これはもう、

そこに、ほぼ完全に・・はまり込んでしまっている・・という、ことになるわけである。

周りの人々がそうだから、尚更である。


実際に言うならば、地球という世界物語に入り込んでしまった、

ネバーエンディングストーリーの主人公なのである。

気付かぬ限り、自らで、永遠に繰り返しの転生をし乍ら、

それを知っていない・・かも知れない、

この地球という物語に入り込んだ、宇宙でただひとり・・

そう、人はものすごく大勢いるが、

それぞれが、唯ひとりの・・いや、たった一人ではなく、唯ひとりの「わたし」という主人公である。

それは厳かに言う必要もなく、もったいぶった重々しい雰囲気も、神々しい演技もいらない、

神・・なのである。


そう、神であるがゆえに、木になり、岩になり、空気になり、

動物であり、花であり、水であり、光であり、

そして人間であり、

それにしても、生活を担ぎ、ローンを抱え、人間関係に悩み、

こころの置きどころもないまま、毎日を送っているとことろ、

この世界の住人にもなるのだ。

気付かず知らずとは、なんということだろうか。

そう、神であるがゆえに、木になり、岩になり、空気になり、

動物であり、花であり、水であり、光であり、

そして人間であり、

それらの・・・あなたの目にするもの全てが、あなたの中にいる者たちなのだ。

外の世界とは、外ではなく、事実あなたの中にあるのである。

・・・

人生や、生きていることは、実際そういうことなのだが、

外側の時空という物質波動の作る、立体映像空間の中の大勢の人々が、

実際それは別バージョンの私たちなのだが、

彼らが笑い、泣き、騒ぎまくる、その必死の形相や、難しげな自己演技を見るにつけ、

ついつい、それが真実だと思い込み、

あー、なんという事だ!・・いったい何なんだ?この世界はどうしたのだ?

・・と、

そういう混乱を取り込んで、そこにまた問題意識が躍り出て、

それでまたそれを解決すべく、入り込んでいくというわけである。

でも、実際は全てあなたの、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る・・・その全ては

実は外の世界などではなく、

それらすべてを見て感じて、観察している・・・あなたの中にあることなのである。

わたしがいなければ、わたしは世界を感じることはなく、

あなたがいなければ、あなたの世界を感じることはなく、

そういう大勢の「わたし」がいなければ、世界などどこにも存在しないのだ!


あなたの世界、その中に、

どうでもよい価値観や、小豆の競争観念、小さい尺度や、

尤もらしく聞き知った常識という手詰まり観念を持ちこみ続けることで、

嘘八百で華やかな観念世界を体験し続ける道理。

既に時代は、あらゆる嘘や騙しがバレバレで、あぶりだされてきたではないか。


嘘は確かに暴けば面白いが、なるほどもう十分ではないか。

小さな自分に、小さな他人達に、

あーだこうだと騙され続けることで、本質の自分を忘れ続け、

それが嫌さに小さな肉体の人として眠り続けることが出来たこの次元世界、

ここはあなたやわたしが、選んで自らを投入してきた世界、

嫌な事、嬉しい事、あらゆる遊び道具がそろっていた。

それらを、あなたの中に、こころの中に見ることができるではないか。

見ることで、観ることで、あーそうだったね・・と過ぎ去ってゆくのである。

それを見ないで、外の誰かを非難しては、溜飲を下げる愚かさを、

いつも同じところにいる自分を、すでに知っているだろう。

・・・

そして、大勢の魂の仲間が同じように目覚めてきているこの世界、

他の誰が、目覚めなくとも、あなたが目覚めれば、その見える世界が変わるという意味が、

すでにどこかわかるだろう。

外で見える形は、つまり自己の投影像であり、良いとか悪いとか、多いとか少ないとか、

何億円だとか、ゼロ円だとか、価値があるとか、無いとか、太っているとか、可愛いくないとか・・・、

そういう嘘でも花やかな、本当は重い観念尺度を、

一切合財棄て去ることで観える世界が、今、立ち現われているのである。

しかしながら、えー、何々・・どこに?ではなく、

あなたとは関係がないということではなく、

単なるそう思うだけの気休めのことでもなく、

すぐに忘れて、元の世界にまたその身を沈めることでもない。

そうだろう?

「そうはいっても、現実が・・・」という、こころ癖は子供の時に教わったかもしれないが、

それはもともとあるはずもない「観念」なのである。


あなたは世界の「夢」を見ているのである。

本来は、それを現実だ、現実だと言って嘆き悲しむことはないにもかかわらず、

大勢の人々に巻き込まれ、夢を現実と言って怖れているのだ。

あなたは映画が怖いだろうか、それを観ている自分から覚めるのに、

生きるの・死ぬのと、

そんなに大騒ぎしている映画の中の、夢の中の自分に、

気づいている「本質のわたしが在る」ことを悟れるだろうか?



外の世界と見ゆるものは、実際・・あなた・・という意識の中にある全てである。

あらゆる全ては・・外ではなく、わたしの中にあるものであり、


それを、「愛する」という言葉以外に、どういう表現をするのだ!





本日も拙い記事をご覧いただき、誠に有難うございました。





・・・



今起きていること(17)意識進化の「峠道」

2015-08-25 05:36:12 | 地球の一大変容
経済が崩壊すると、金回りつまり物資の流通が滞り、人間の享受してきた安楽さや便利さが損なわれることになる。

経済はまだ崩壊していないということではなく、勝負は既に有ったわけで、それが誰にもわかる形で、あからさまに倒れていないと言うに過ぎない。

もう終わっているわけで、どういう形で終わるかという段階なのである。

これは気付いておくべきことである。

直線時間が進むうちに、便利さや安楽さ、それを当たり前として生活をしていた人々は、潮が引くような物質環境の急激な変化に、不安とためらい、不快感や憤りを感じることになるだろう。

それに閉じこもっていた物質環境で造られた「保身の城」が崩れ始めるならば、ウソでも安心出来ていた自己生存本能が強く刺激され、それが慌てて動き出すことになる。

そしてその自己保存意識がどういう形に出てくるのか、それが問われているわけだが、

即物主義的であれば、効率や功利性が優先すれば、物質環境を維持するために、富を他から略奪してくることが最も手っ取り早いということになる。

中近東、バルカン半島、ウクライナ、そして昨今火付けが強くなったアジア・・・今世界で起きている事はそういうことなのだ。


簡単に言えば、これから激しく流れるだろう潮流の一方は、

何らかの問題を世界で勝手に起こすことで、それを口実に、

紛争、戦争によって、勝った方が利を得るという、最期の争いへの流れである。

それを聖書の黙示録の記述で、アルマゲドンといっている。

今起きている、そして更に増幅して起きるだろう事象の1つの潮流は、

最後の爆発で終わりになるような、一大カタストロフィー現象を誘因する行為に走る者が出てくる、いや既に出ているということだ。

当然あからさまなことは避け、様々な枝葉情報をまき散らし、どこか何か自然発生的に起きた様子を醸し出しつつ、押っ取り刀でかけつけ、嫌々な振りして勝負を掛けるわけである。

これは近代以降、世界を侵食してきた欧米流の巧妙なやり方である。

明治以降、生きるために、これにはまってしまった古い日本が、70年前に終わったように、苦心して成り上がった、近隣の大きな国々も、それに刺激されて嫌々ながらも、自己保身の為に動き始めてしまったかのようである。

今世界では、既にそういう動きになっているのである。


・・・
尚更、合法的な競争社会のなかで餌づけされて、それに気付かない人々は。競争や争いの風潮に流されてゆくだろう。

子供の時から耳についた掛け声・・「頑張れ!栄冠を獲得するんだ。」

経営者の密かなボヤキ・・「戦争でも起きないことには景気が良くならない・・」

「自分が生きるためには多少の犠牲はつきものだ・・」

それらすべて、自分さえ良ければという、利己主義観念で終始共鳴を外せない者たち。
・・・

ここにカルマの増大と解消の分かれ道が用意されてある。

自分の為に、他を犠牲にしても良い・・・という観念を選ぶ人、

自分は後で大丈夫、まず他に回して・・・という観念を選ぶ人、

困難な時期に遭遇し、その主たる想いの発露がどちらにあるか?

結果的に、古い世界の人と、新たな世界の人の「振い分け」となるわけだ。
・・・

それぞれの意識が、自らで・・自らを選ぶ・・・仕組みに気付けるだろうか?

そんな話、抹香くさい、くどい薀蓄(うんちく)と教訓を醸し出すような、

単なる「おとぎ話」のように聞こえるかもしれないが、

真剣な土壇場で出てくるのが、人の真意であればこそ、

いつまでも気づかず知らずの、眠れる者たちへ用意された寝起きのクイズ、

この古い地球のフィナーレにおいての最期の卒業問題の提示場面、

そういう逃げの効かない、真意を問われる場面も用意されるということに、事前に気付ける人々は幸いであるといえよう。

いずれにしても、何があろうとなかろうと、物や体ではなく「こころ」を浄化しなければ決して超えることのない峠道にいるのである。

・・・

予知、預言の類を信奉するつもりは毛頭あるわけもないが、それらも情報で在ると捉え、事ここに及んで、捻じ曲げられて加工されたメディア情報を、出来るだけ迂回して世界を俯瞰するならば、

かつて人類の集合意識にポツリポツリと現れた「預言」なるものの中に、かなりな信憑性を窺がえるものがあることに気付くだろう。

想念や想い、信念、観念は、逐次描かれる設計図のようなものであり、それを読み取るならば未来という、今ある種(たね)の、育つ姿は予想可能なのである。

・・・・・・・

以下、ネット上にあるものをいくばくか勝手にリンクすると。

これらは大体20-30年前の預言・幻視・啓示ということだが、それが「嘘」でなければ、予言と捉えず、未来への確率予想としても、その確度は決して低いものではないことがわかるだろう。
これらはほぼ同じ内容を、別の言葉、別の人間が、それぞれ異なる切り口で言っているようでもある。


エノック預言
  1980年代後半に降ろされたものだが、まるで現在を説明しているかのようだ。
  人類意識が質的に変わらなければ、分流としてあり得ること。
  自分はこの内容を1990年代に見た記憶があり、
  昨今出されたものではないことを知っている。


サラ・ホフマンの幻視
  臨死体験で見せられた幻影のようだが、いわゆる最終戦争の様子である。
  モルモン教徒としての何かが味付けされているようだが、911も描かれている。


ネッド・ガガーティー・天使からの啓示
  同じく、臨死体験での天使から啓示されたビジョンに基づくもの。




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今起きていること(16)魂の宿題は、それ、今直視すべし

2015-08-19 07:04:02 | 地球の一大変容
●生と死は単に「生命」のサイクルのこと
人の寿命を仮に70歳とするならば、その人生は、70×365日ということになる。
365日が70回、なんと短いものだと感じないだろうか。

人は毎日起きて、生活し、夜寝ることを繰り返しているが、それは毎日死んで再び生まれ変わっているとも言えるのだが、
「記憶」が昨日、今日、明日で続いているためにそんな風には考えもしないものである。

「わたし」は・・・続いていると知っているだろう?

表面・顕在意識が消えて「潜在側」に移行することが睡眠であり、

表面意識が再び「顕在側」に移行するのが目覚めている状態であり、

その繰り返しが人生の毎日ということである。


睡眠恐怖症でないかぎり、自分の「顕在意識」が寝ることは怖がる人はいない。

「わたし」は消えたのではなく一時的に無くなったように見えるものの、再び朝目覚めること、つまり「わたし」が再生することを知っている為に、別に何の恐れもないはずである。

そうではないか。

●前世の記憶とは魂の記憶のダウンロードのこと
まさに人の生と死、死と生は、これと同じようなものなのだが、

それに気付くかどうかは、いわゆる前世の記憶というものが有るのかないのかという事にもよるわけである。

人は多くの場合この世界で「オギャー」と目覚めても、つまり生まれ変わっても、全く前世の記憶のないサラの状態のまま生れ、成長することになる。




持続する魂の記憶のこと等まったく知らない、価値を認めないタイプの文化・文明、現実対応だけに慌ただしい、大きな機械のような文明の中で生れて成長せざるを得ないためである。

目に見える物的形態のみが、その存在する全てだとする刹那的文化、「物質偏重文明」では、継続する生命の記憶要素などという概念すら眼中にないわけで、

眼中にないからには「認識」も生まれず、認識されないものは「事実」として現象化しないということになる。

つまり、魂の記憶は顕在化することなく、また活用されることも稀で、常に一から出直しのような文明と言えるだろう。

だから、進化したように見えるのは物質加工に関する科学技術だけなのである。

精神の深化とのその相対的なアンバランスが、現代文明の行きづまり、飽和と、必然たる崩壊とリセットにつながるのである。

シーソーは片側だけでは動かない。

双発ジェット機は片肺飛行では続けることが出来ない。

●天才とは魂の情報の活用者
稀に天賦と言われる才能を幼児期から発揮する天才は、魂の記憶の一部が無意識ながらも漏洩した存在のことである。

漏洩と言ったのは、自分の魂的な情報を知らない間に、ある分野だけに特別な才能が出ている天才という意味だ。大した訓練もなく、いきなり作曲を始めたような、かのモーツアルトなどは天才の典型とも言われている。

しかしながら、天才も何も特別な存在ではなく、修練すれば誰でも可能なことを、特別な修練なく行えると言うだけの話であり、崇め奉るようなことでもない。

肝心なのは、断片的、スポット的で、「ドカン」と一発だけの線香花火ではなく、持続する意識生命体であるさらに<壮大な規模の「自己」への自覚>があるか・・ないか・・ということである。




●今まで覚者は極少数派
もちろん、人類の一部にはそういう、覚者や聖者と言われるところの、魂レベルの自分、本質的な自己の霊的事実を知る、ごく少数派といえる人々も常に存在しているのだが、

そういう魂の開花レベル、意識レベルの格段に高い人々は、決して「口角泡を飛ばす」ような自己宣伝などするはずもなく、

行うとするならば、なんという事もない静かな説得、それに気づける人びとだけが霊的進化を助けられ、この混濁世界で魂自らを浄化・昇華せしめ、卒業してきたのである。



肉体、物質環境だけでない、それを知覚し制御するところの知的・精神的レベル、そして幾多の人生をも統合した「わたし」意識・・すなわち魂。意識を有する、より壮大な霊的・魂レベルの自己の気付きにある者は極少数派であったということだ。

3次元世界等とも言われる世界、今までのこの世界はそういう世界だったのだ。


確かに、人類が物質環境ばかりに目が奪われてアクセクしている様は、確かに普通の動物に高度に知的な能力をつけて、ちょっと複雑な形で動いているだけのようなものであり、

逆に動物達の様な自然とのつながりと「直覚」がない分、思考の渦巻くだけの「無明」の世界の中で繰り返し生きてきたようなものであるし、またその自覚すらもないという有様である。

そういう悲喜劇の充満する存在世界は、確かに魂の目覚めにとっては極めて厳しく、また逆に極めて得難いプロセスを経験できる世界でもあったというわけだ。

ご理解可能であろうか。

●カルマは歪エネルギーの活用手段
こういう分けがわかった様で、実は全く分かっていない世界では、

様々な歴史の流れ、人々の思惑や思考、観念が常に混乱を伴って流れている為に、その様々な流れあるいは時代の潮流に巻き込まれては、当然それぞれはその「結果」「果実」を刈り取ることになり、

その人々の自らの「思考と行為」による「収穫」が、我が身を蝕む様な「毒果実」であった場合には、いきおい「恐怖」や「怒り」等が生じることにもなるわけで、繰り返されるそういう類の「こころの歪」のことを「カルマ」と言って良い。

何回も生まれ変わるたびに、そういうカルマを蓄えては⇒解消・昇華するというプロセスが、いわゆるこの世での「輪廻転生」というものだ。




確かに、勉強でも何でもそうだが、改善しようという意思が背後にあれば、1回では良くわからないことは、解るまで何度でも繰り返すことは誰でも経験している事であって、

またそれは苦しいと言うよりは・・やりがいを感じていることなのだ。

そうだろう?

●カルマは矯正すべきこころの癖
カルマとは何かというと、それは「こころの癖」「こころの歪み」という事が出来る。

何度もこの世界に生まれるのは、どこか相当に無知なる人間社会での、こころの歪の蓄積⇒解消の繰り返しによって、次第に「魂」が成長・開花することを望んだためなのである。

この地球の人間世界は、それぞれの自分自身が魂的存在、肉体を超えた多次元、高次元的存在である・・・ことをほとんど知らない者たちの集まるフィールド・表現場であったために、

人々は往々にして、生れてからも、何が何だかわからない状態の人間関係の「狭間」で、何とかかんとか、目先の生存、生活を目的として人生を送ることになり、

何が何だかわからない状態で、また死んでゆくことで魂の学習が中断することになり、

それを補うために、何度でも転生をする仕組みなのである。

●知らないと言うよりも、知ろうとする意識行為が重要
そのような恩寵としか言いようのない輪廻の仕組みによって、こころの歪みを最も効果的に「解消・昇華」出来る環境、時代、地域、人間関係のなかに生まれ変わるわけである。

なぜかと言えば、それが魂の成長、骨太戦略のようなものだからである。

あなたやわたしが、今ここに、そこにいる分けはまさにそれだ。

「おれは知らない!・・えー?聞いてないよ」というかも知れないが、

それはその存在の「意識」が、肉体レベルの極せまい「私」意識に固定されているからであり、さらに大いなる「魂・意識」から勝手に離反しているだけなのだ。

「えー?俺は聞いてないよ~」と・・・、自分には何も関係しないような意識自体が、

無知でありながら、尊大で自己中心であることを示すはずである。

・・・

外側の物理的経験と、複雑だがその鏡像関係にある内面との「整合性」が取れるまでは、そういうサイクル、つまり生まれ変わりという繰り返しも必要だという事だ。

そして、魂の記憶とはは、カルマの記録帳、宿題帳のようなものとも言えるだろが、

それに描かれている内容は、即ち、今のあなたの「こころ模様」から読み解いていかざるを得ない。

そしてあなた自身が、いったい何であるかという問題意識、探究すべきテーマとしてそこに出てきていることに・・・気付かなければならないはずである。

●こころを観ることが出来れば良い
またカルマとは、宿題帳に書き込まれた様々な、こころのパターン、図柄、ノウハウ、情報は即ち魂の成長の記録と言えるものであれば、

何をおいても、自分のこころを・・自分で観るようになる必要があるということだ。

これは自明の理ではないか。

そして、様々な人格を演じた人生の記録、その孤軍奮闘、苦心惨憺で描き込まれた宿題帳、すなわち「今のこころ」を・・・心静かに眺め、どこか愛おしく懐かしむことが出来るまでになれば、その魂は「幼年時代」を卒業したという事である。

自らで・・・生き様での「歪」も「輝き」も生み出すところの、

自らの・・・意識の働きである「こころ」を静かに眺めることが出来るならば、

なるほど結果として、既に魂の幼年期を懐かしむまでに成長したということなのだ。


観自在、自らが在る事を自らで観る・・体だけでなくこころを含めた自己観照が出来る段階まで至れば良い。

こころを観ることが出来るならば、身体及びそれを認識するところの、こころ・マインドまでが・・・あなたの「観察対象」ということになるわけで、

あなたは、体でも、こころでもない意識の座に昇ることにる。

つまりそれらを含みつつ、またそれを超えたということである。

シンプルであるが、実にそういうことなのだ。




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今起きていること(15)アルマゲドンは他所(よそ)でやれ!

2015-08-10 05:47:22 | 地球の一大変容
地球の意識との乖離
身の回りの小さな世界の中だけで生きている人々も、世界で生起し始めている様々な異常現象に少しづつ気付いてきただろう。

全ての人たちのそれぞれの固有の意識世界、時空間、あるいはそれぞれの生活環境と言えばわかりやすいだろうが、

その人間達の都合のよい世界観と・・・今、地球意識が生じせしめているダイナミックな変化の間の、エネルギーのギャップが現れてきているとも言えるだろう。

つまり、

地球という、我々の存在基盤である地上世界が、今大きく変化しているということと、

それに全く気付かない、常識観念の枠内に安住しつつ、様々な変化にも気づけない人々との、その意識「ギャップ」が大きくなってきているということだ。

直観に従う小動物達は災害に合いにくいのは知っているだろう。

既成概念で安住するか、内からの直観に気付くかの違いとも言える。

●今の時期、無理に頑張ってはいけない
地球は変化のただ中に入りつつあり、生態系も大いなる変化の真っ最中であって、人類だけが合いも変わらず旧態依然たる思い込みを、無意識のうちに固持しようとしているようだ。

皮肉にも、頑な現状維持の楔(くさび)・縛りになっているのが、実に、今までの物質繁栄をもたらした資本主義的唯物観念なのである。

生活環境を豊かにするためと称する、そして、誰でも頷きやすかった欧米的物質繁栄思想が、今では逆に、それを越える新たなる新世界転換の足止めとなって、文明のなかの民衆の足枷(かせ)手かせとなっている。

古い世界で良しとされていた経済社会での頑張りは、いまはもう不要であるばかりか、早めにさっさと手放さなければならないのである。

Let it be.

●汚濁にまみれた泥の中で目覚める者はどれくらいか
今在ること、気付けば身近にある何でもないことに感謝をすべき時である。

それに十分時間と意識を振り向けよう。

外ではなく、内である。

あるがまま、・・の真の意味がわかるだろう。

外側世界の虚栄や騙しが、その身を表わした今の混迷の時代こそ、

一体なにが大切なのかが・・・否応なく解る時代でもあるのだ!

幸せは、何十年ローンで得られる家屋財産でも、組織的上の地位や見映えでもない。

そのことに、気付ける時代になったと言えるのだ。

そうではないか?

・・・
●日本の戦後70年は終わりを告げた
日本でも、教科書で習った、戦後の立派な?民主政治が、見事に実り、そしてそのまま腐敗してしまった現状に気付けるだろうか。

当然ながら、何事でも、熟しきって腐敗した果実は、じきに地に落ちることになる。

誰がどうしようと、古いものに執着しようと、何をしようと・・自然の摂理や法則には抗えない。

1200兆円の政府負債残高、原発再稼働、集団軍事条約への急激な動きは、明らかに新たなる希望ではなく、爆発と崩落への無意識の動きである。

・・・
「国家負債がどうしたって?・・・今、昇進するかどうかの瀬戸際なんだよ!」

「公的場所で拡声器使い嘘を言うなって?・・・ウソでも何でも、飯食わなきゃなんないんだよ」

「原発が危険だって?・・・あれから地震も津波もないじゃないか、それに皆が嫌がる放射性廃棄物で金稼いで何が悪いんよ!」

「集団自衛権が憲法違反だって?・・かつて憲法作らせた国がやれと言ってんだよ!」

「真実を報道しろって?・・・そんな金、民衆からもらってないよ、スポンサーは政府や企業なんだよ、わかってるだろ!」

・・・

こういう噂話が嘘とは思えないような状況を窺がえば、すでに戦後の支配の構図が明確に堕落してしまったこと、そしてそれが今、苦しくも炙り出されていることに気付けるだろうか。

そう戦後の支配構造は実質的に終わったのだ。隠されたものが露わになったということだが、頭隠して尻隠さずの必死な演技が行われている。

いやいや、そこまでネガティブに考える必要はなかろう・・もっと希望を持ったほうがいいのでは?というのは、今までのことである。

現実を観察しえない、把握しえない、漠然としたお花畑的な希望は、無知の証拠ではないかと考えた方がよい。

●未だ物質環境に閉じこもった人々
世界の大地のあちこちに地殻変動が起きていても、公的ニュースが流れなければ全く気付かない状況に安住しているようだし、

大気の雲の様子が。かつてない姿や早い動きを生じていても、すぐそこにある空(そら)などほとんど見あげることもない都会生活で、何か高度な文明生活を送っているかのように、アクセクしている人々も多い。



電車の中で、10人のうち9人までが、ほぼ同じ姿勢でスマホに見入っている、その「量産化された自分達」の姿を別に変だとも思わない人々・・、

日本政府の借金総額が1200兆円に膨れ上がっても、その意味を全く説明しないメディアや、あるいは知らない、解らない、自分とは無関係と思い込んでいる大衆の姿も、また人的世界の異変の一部に相違ない。

日本を含む世界各地の火山が連動しているかのような噴火を始めていても、楽しいはずの観光旅行や経済活動の足止めで迷惑しているだけの感覚でいる人々も多いだろう。



「おー怖い・・、せっかく休みと金を捻出した観光旅行なのに・・あー損した・・」

どこか自然の異変を肌で感じることは出来るとしても、出る感想はそのようなものかもしれない。

●嘘が本当に正々堂々していた時代
福島の原発事故が終了したかのような、公的メディアの沈黙、無報道も、アンダーコントロール下にある等という、情報煙幕を張ったような状況、証明しづらい現状を計算したような大嘘も、

ほんの数年も続かない類のものであり、このような国家国民の安全と生存を代表するべき、代弁しているはずの行政府の、都合の悪いところを隠す姿や形も、全くの異常現象なのである。

そのうち負債も嘘も、全てが相殺、爆発して終わりになればいい・・かのような無責任行為であると言えよう。

欧米対中ロという世界の2極化の流れで、どちらかにつかねば生き残れないなどという強迫で動いているはずの、集団的自衛権なる一見普通の国では当たり前そうな集団軍事条約への無理くりの移行も、

逆に、これから本格化する世界的混乱に巻き込まれる、参加予約切符を買わされたようなものである。

旧態依然とした武器やジェット機、空母等では、小競り合いの喧嘩以外、一体全体何が出来るというのだろうか。

いまはそんなもの全く役に立たない、はるかに壊滅的な武器や兵器、殺傷手段が数多く隠されているのである。



●戦争による経済需要の時代ではない
それでも、何か獲得できるものがあるかも知れない・・等という、かつての朝鮮戦争特需やベトナム戦争景気の様な経済効果・戦争利得への欲得観念は全くの見当違い。

目先の経済停滞を打破するために戦争の片棒を担ぐことは、結局かつて70前の敗戦時のように、全てが塵埃に帰すことになるだろう。

そして民主主義という建前であれば、不都合な現実に遭遇した場合は、善良で無知なる国民が選んだのと言い張るだろう。

その時が来るならば責任を追及しようにも、戦争への動きに加担した政治屋たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っているはずである。

もっとも、そのような国家環境が残っていればの話であるが・・・。

国破れて・・山河あり・・は、人間が何をやろうとも自然は侵すことが出来ず、それがそのまま残されていた昔の話である。



●さらばアメリカ・・愛しき霊的幼児たちの最期の競演
今は、地球の中の物理層「時空間」そのものが、10分もかからず廃墟になる時代なのだ。

ここ1.2年で第3次世界大戦だとかいうイメージが世界に出てきたのはなぜだろうか。

アメリカとロシアや中国との対決姿勢が明確になってきたようだが、

それを待ちに待ったような者たちもいるようである。

貨幣世界の崩壊を察知して、別の似たような支配構造を画策している者たち。

古い世界の終わり方を全く理解していない霊的に幼き者たち、

帝国の富よ夢よもう一度という、支配欲に固まった者たち、

物質的爆発の威力しか、パワーというものを知らない者たち、

自らの内面の浄化でなく、他民族を浄化と称して抹殺して平気な極低レベルの者たち、

カルマの解消どころか、更にそに中での苦渋の体験が未だ十分でない者たち、

これから多分数年は、そういう者たちに与えられた最後のお遊戯舞台演技に相違ない。

しかしながら、

その最後の舞台演技で、舞台そのものを核で無茶苦茶にして終わりというのは、今回は全くの話の外であろう。

なるほど黙示録の時代、とうとう、ここまで来てしまったということだし、

仏法で言う末法の世、聖書で言う預言成就の時代であるが、

それもまた、それぞれの魂の選択なのである。

実に・・・ここが肝心なのだが、人はメダカやレミングの群れではないということ。

宇宙の、そして地上の何者であっても、魂・意識に何事かを強要することなど出来る話ではないという事を知らねばならない。

ご理解可能であろうか。

●外を変えるのではなく、自らの意識内面を変えること
世界最終戦争やら何やら、・・そんなもの、面白くも何んともなく、わくわくも、ドキドキもあるわけもない、

どうしてもという、それも自由意思なのであれば、そう、アルマゲドンは・・・

すぐにでも消滅する間際の段階の、役割の終わった古い物質偏重的時空間で演じることだ。

そんなもの参加者は少ないほどいいが、

何かありそうで優しそうな笛吹男に無意識についてゆく、善良で他者依存の無意識的存在達もまた、この世界に経験のために来ているのも事実であれば、なるほど良いとか悪いとかの話でもない。

そう確かに、魂レベルでは、全て窮極で・・・選択自由なのだ。

あなたは神なるものではなかったのか?

今・・無条件に・・・在ることで・・・気付けないか?



何でも頑張るという事であれば、

そう、これからは特に、身とこころを浄化しつつ、

穏やかにあることに専念すべき時である。

「今在る」奇跡の瞬間・・今この時・・に注視し、感謝をすることである。

他者の姿態や、外の鏡像の喋ることに惑わされることなく、

例えどのような時、どのような世界であっても、

わたし・・という<内>にあることが、<外>に展開することを忘れないことだ。

世界がどうあるべきか・・等では毛頭なく、

わたしは・・どう在るか・・・常にそれが問題なのだ。

意識は、意図や想いを通じて、時間空間・物質となり、それ自らを展開するのであり、

決してその逆ではない。





本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

今起きていること(14)地球の生まれ変わり

2015-08-01 06:48:42 | 地球の一大変容
●地球は意識する生命体である
我々がその存在基盤を持っているこの地球は、単なる巨大な土の塊ではなく、それはガイアと言われているように、様々な鉱物・植物・動物を育む循環生態系であり、1つの巨大生命圏というべきものだ。

また、あなたやわたし達が「身体」と「こころ」と、そして「魂・意識」を有しているように、この地球も「身体」と「こころ」と、そして「意識」があるのである。

物理的に知覚可能な、山脈や森林、海や大気、あるいは様々な生物種はその「身体」に相当し、

霊的に敏感な人々が良く言う、地の精霊、スピリットなどは一般人には見えないところの、地球の「こころ」に相当するだろう。

さらに、地球の本質たる魂・意識があるからこそ、上記の「物理層」や「精神層」を有しているのだ。

自己内面に気付ける意識レベルに在る者は、この地球の事実にも容易に気づくことが可能である。


・・・
●地球の生まれ変わり
要は、地球も物理層、精神層を含む意識生命体であるわけで、そうであればこそ人間と同じように生まれ変わりを行なうとしても決しておかしくはない。

人間の人生では寿命というものや、あるいは病気などと言う要因もあるが、

地球にも25800年という周期、ある意味での寿命や、現代人類文明が進めた過度の汚染という病的要因もあると考えられる。

人間が年をとり、老廃物がたまって細胞レベルで老化してゆき、ある時点でその肉体を脱ぎ去る様に、地球もまたある段階になっては、新しい身体を得て意識生命体としての自己の「本質」を存続させることが考えられるだろう。

●物理的汚染と精神の汚染は限度を超えた
確かに、地球は人類の経済活動、産業活動というもので相当な汚染が進んでいるし、20世紀から続く環境汚染物質の拡散と蓄積、さらには核廃棄物質の致命的な汚染が広がっている。

さらには、局所化され強められた電磁波動の実験で大気上層を傷つけたり、大気改変実験や軍事目的の為に異分子粒子を拡散したり、

垂れ流す核汚染にアンダーコントロールだというどうしようもない幼稚な嘘を言って、かつて存在していた日本の魂を売り払ったり、

自由と民主の旗を掲げて、世界中に殺戮の道筋をつけたりしている者たちがバタバタしている現状は、これ以上は無理だという飽和点を示すものである。

地球が古い身体を一気に脱ぎすてる時期は、もう近いと言わざるを得ない。

地球が単なる巨大な土の塊であるならば、極端に汚れに汚れきってしまっても、何も考えず何も感じず、単なる巨大な物質としてそのままということもあるだろうが、

まったくそうではないわけで、

ある時点、飽和点になった時点で、ゆっくりではなく、相当に短期間で自らの物理層たる身体構造を入れ替えることになる。

死んで終わりではなく、生まれかわるということ。

いまは、そのある飽和点に差し掛かっている・・ということ。

人類が、自らに与えられていた地球の領域を汚染していたことに気付き、

急激な方向転換を行なえば良いのだが・・、という時期は・・・残念ながら過ぎたようである。

昨今の世界情勢、国内情勢を鑑みれば、どんなタイプの人々が、どの方向に焦ってもっていこうとしているか理解可能であろう。

焦って、一か八か、そういう博打状態になっているわけで、そういう路線に流される者たちは、結局は崩壊するしかないということだ。


●密かに世界を支配してきた「唯物論」
地球は宇宙の中で、微小な粒子や岩石が、単に「重力」で集合して出来た「巨大な土の塊」だという認識は、目に見えることしか感じない「唯物論」的な観念でしかない。

またその観念にとどまる場合は、人間つまり「自分」すらも、単なる知能がある有機的物質であるという認識で終始していることを示している。

そして精神的なものは、全て個々人の「頭脳」の創り上げる、電気信号的な情報イメージに過ぎないと思っているわけだ。

頭脳も「有機的物質」であり、それらが「精神」を仮に演出しているだけだという、こじつけられた「認識」であり、つまりは全ては物、つまり「唯物論」なのだ。

●古い常識マトリクスから脱せよ
そういう観点に固執すれば、生死を掛けた臨死体験も、幽体離脱等と呼ばれる、制御可能な意識の体脱体験も、全て頭脳の妄想に過ぎないということになる。

目の前のスプーンが曲がる現象も、写真に想念形が映る現象も、直観的ひらめきで事象の対応がベストな結果になるのも、全て偶然であるという話になる。

これは西洋的な認識上の欠陥とも言えるだろう。



しかしながら、常識に反するあらゆる事象を、新しい事実を、迷信だとか妄想だとかで済ませる観念こそが、実際には「非常識」なのである。

かなり無理して押さえてきたようだが、今迄の常識というものが既に破綻していることに気付けるだろうか。

●お金で出来た世界は、今お金で潰れている
世界で当たり前のようにされている総合的な観念は、

肉眼で見えないものは存在しない・・という決めつけ観念なのである。

だから、全てが物であり、そして物の価値を決める「お金」で、全てを判断するということを行なっているのである。

お金は、人類が物質的生活を維持する為の、便利な流通手段であり、道具に過ぎないが、いつの間にかそれが、ご主人様のようになってしまっている現状を見よ。

ほんとうは、どうなのか・・・?という時期ではなく、

何をおいても腹をくくっておくべき時期なのだ。


世界のあらゆるニュースを見ても、お金に絡まないものはほとんど無いと言って良く、中東の紛争も東欧の争いも、各国の経済やら政治、集団自衛権やら、1200兆円の日本国債残高も、オリンピックやらその他様々な世界的な事象が、基本的に「お金」の話だという事に気付けるだろうか。

例えば日本政府の借財、つまり国債残高1200兆円はどうやって還すのだろうか?
それらは、近未来のある時期に、国民の金融資産と相殺となる予定だろう。

外国の債権者が10%以下と少ないだけ、まだましだとも言えるが、預金封鎖は当然ながら「担保」になっている銀行預貯金や金融機関の投資金を差押えするということに等しい。

大衆や企業の預貯金が、銀行経由での投資という名目で国債保有残高になっているわけで、庶民が便利だとしてお金を預けているだけで、あなたやわたしたちはいつの間にか間接的な投資家であり、悲しいかな、今はもう破綻の予定された投資家なのである。

これもまた、いつなのか?だけが・・・が問題である。

夢とか希望とか、成長とか、そういうイメージを看板にした「銭儲け」ゲームの話なのである。

いや昨今は、いかに儲けるかというビジネスライクな事ではなく、いかに他所から簒奪するかというレベルに落ち込んでいるのである。

世界の支配層とか、世界的な組織だとかの、表だった上辺の様子の良さは、もうかなりな人々にとっては見え見えであり、

そうであるからこそ、そのウソで出来た支配の構図の崩壊は明らかに起きているという事だ。

見飽きた映画は、もう誰も見ないようなものだ。

・・・
●進化した民族は、物理層のみでなく「精神層」に気付いている
古代の民、現代にも細々と残る末裔たち、例えばオーストラリアの先住民、北米・南米の先住民等、西洋流の唯物、物欲主義に虐げられてきた民族には、

地球の「物理層」に留まらず「精神層」の存在に気付き、これを大切にしてきた伝統がある。

大自然の中で長く生きてきた民族は、精神層、つまり地球の「スピリット」に敏感に気づいており、地球の「こころ」を感じつつ大切にしてきたという事だが、

それはまた、

目に見えない森の精や山の精霊、そういう地上のあらゆる時空を支えている「想い」が観えていたという事だ。

●自然界のスピリットは、地球の想念形
そういう地球の精霊とかスピリットとか言われるものは、つまり地球の多種にわたる「想念形」と言って良いだろう。

あなたに様々な「想念」があるように、地球にも様々な「想念」があるのである。

地球も人間と同じくある「想い」「こころ」ということも出来るが、

人間と違うのは、大自然を見ればわかるように、その「こころ」には完全なる「調和」「愛」があるという事だ。

地球のスピリットというのはそういう「想念形」なので、

物理層ばかりを見ている一般人にはとんと理解できず、迷信だとかまやかしだとかに決めつけてきたわけだし、精神層を理解している先住民を、逆に遅れた民族だという事で排斥してきたわけである。

何せ、目に見えないのだからしかたがないという、ある意味で無責任な態度なのである。



●アメリカンスピリット
昨今「アメリカンスピリット」という無添加のタバコがあり、その箱にインディアンのモチーフが描かれているが、

インディアンの思想、歴史は、アメリカの大地に生きていた先住民の精神性の高さを示しているのである。

そう、先住民の多くは、現代人よりも「意識レベル」が格段に高かった。

身なりや生活環境の安楽さ等の基準で、それらの文化を野蛮だと判断し、絶滅に追いやった新参の民族こそ、物理層だけの世界しか理解できない「野蛮」な民族なのである。

したがって、精神性を高める意識的努力が行われなければ、山崩れや地震という物理的変化によって環境が跡形もなく消え去るように、その物質のみを信奉する民もまた消え去る事だろう。

今起きている大自然の物理層の大変化にともなって、自らもその物質的な崩壊に同調して流されてゆくだろう。


●意識的に感じること
人間がその内面に持つ様々な「想い」「こころ」も肉眼では見えないものであるが、あなたやわたしたちは、それが在ることを知っているはずである。

頭の中だろうが、何だろうが・・その「想い」に自分で気付いているだろう?

つまり、目に見えないものは「意識的に感じる」ことで観えることなのだ。

これは言わば、通常の五感を超えた、高次元的な知覚方法なのである!

制御された「内観視」は、単なる妄想でも想像でもない意識域まで純化することで、つまりこころの雑音を除去することで、直接的な知覚が可能になるのである。

世の中、スマホで遊んでいる人は多いのだが、わざわざお金を払って、そういう情報認識を物理層で間接的に行っているだけのことである。

しかしながらその意味合いに、ほとんど気づいていないだろう。

テレパシーやらリモートビューイング、以心伝心、未来予知なども、人間の意識内面という「魔法の鏡」によって可能となる。

これが、より進化したというべき人間の在り方とも言えようか。

肉体レベルの進化ではなく、意識レベルの進化である。

なぜなら、本来人間の「意識」は、宇宙の「意識」に接続されているからである。

「意識」というのが、あらゆる波動形態の根源ベースバンドのようなものなのである。

その宇宙意識というべき、全包容意識の中にあるのが、人間の意識である。

そして、あなたやわたし達も「意識」であり、また「宇宙意識」の一部なのだ。

人類全般は今まで、ずいぶん長い間、宇宙意識との同調はずれを経験してきたわけだ。

同調はずれを起こすのは何かといえば、こころの中の雑多な迷い、怖れ、欲望、様々な主義主張等という・・・こころの歪から来る雑音である。

そう、こころを洗浄しなければならないということだ。

自分のこころを自分で「観察」することで、それに巻き込まれることを避け、その騒ぎ、雑音を雑音と認識する事が大切だ。

そして、それらを観ている、観照しているところの、さらに大きな自己の方へ意識的に上昇すべきときなのである。

更に大きな自己とは、すなわち大いなる全包容意識、宇宙意識なのだ。




本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。