気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

体とこころと魂と (5)魂は直接的自己認識で知る

2012-10-28 10:38:35 | 覚醒意識

身体はこの世界で造られた非常に精巧に出来たものである。それはダーウインの進化論的な考察でもうかがい知ることが出来るだろう。

 

種の起源で示される生命種の派生と進化は、この世界の物質的な組織化の系譜を示しており、それはより複雑で繊細な意識の表現体としての必然たる進化を表すものだ。

 

問題は眼に見え聞こえ、質量や大きさで計れるような、いわゆる3次元的なものだけが観察対象となっているために、形態・物理的な進化しか窺い知ることが出来ていないということだ。

 

いやそれを超えたところの「こころ」の進化、あるいは魂レベルの進化に関しては、物理学的・医学的・植物的な観察方法では理解が出来ないということを示している。

 

そう、ここから先は物質レベルの理解・観察方法ではなく、主観的とも揶揄されるところの意識的観察、

 

すなわちマインド・想念の理解、そして身体・こころを生じせしめているところの魂レベルの自己からの促しが必要ということである。

 

わたしは誰? ここはどこ?と言うような、自己存在からの根本的な問いかけに気づき、この世界の中にあってもこの世界にまったりと属していない、より大きい普遍的な自己への気づき、あるいは言わば意識的拡大・「視座の上昇」を遂げることが大切なのだ。

 

この世界にズーム・インして、そして小さな観念で固定してしまった意識的視野を解除し、自在にズームイン・アウトが可能な本来の「魂意識」たる自己に進化、あるいは根源の方向への復帰を果たす必要があるということである。

 

次元上昇とはそういうことであり、アセンションの意味もそういうことであり、行き詰まり、飽和したこの物質次元世界の有り方の転換や崩壊もそういうことから派生する必然的な変化なのである。

 

「皆さん・・もう古い在り方は飽和していますよ。勇気を持って脱皮する時ではありませんか?」

 

ということなのだし、あるいは、

「無限ループに陥った間違いプログラムはもう修正・デバッグの時限ですよ」

 

という事でもあろう。

 

・・・・

我々が本来魂、あるいは高次元的存在であるということは、脳波測定やDNA解析だけでは理解が出来ないだろう。

 

それらは今のところはあくまでも肉体機能から生ずるところの、派生的な微々たる脳の電気的波動や身体設計図の読み取りにすぎず、

 

本体である魂への大いなる気づきに根本的に貢献するものではない。

 

魂たる<わたし>の理解は、自らの自らへの観察が必須な事項なのである。

 

あるいは世界にある様々な虚飾のなかに見え隠れする真実を、自分の感覚で嗅ぎわけることが必須な事項なのである。

 

一律的な知識の量産を待ちわびるわけにはいかず、

  

自らの経験あるいは観察を通じて理解されるべきものであるとも言えるだろう。

 

確かに多くの人間達が、いわゆる高次元的存在である自己に気づいて来るならば、それは合意された現実認識となって誰にも説明可能な科学的理解になるのだが、それを待つことは本末転倒となるだろう。

 

なぜならば、それぞれの<わたし>のことであり、

 

まさに他人ごと・・・ではないからだ。

 

 

要は「本当の自己とは何か?」・・・をそれぞれの自己が発見する真剣な姿勢が必要であるということであり、

 

みんな気付かず一律に・・・いつの間にか・・というような無自覚、無意識的、あるいは大量生産的なレベルでのテーマではないということだ。

 

目覚めはいつも<わたし>・・・と言うのはそういう意味である。

 

・・・・

最も簡単で根本的な理解の1つは、稀にある臨死体験による当事者の直接的で瞬間的な気づきであろうか。

 

臨死体験は、世間の人々がその眼をふさいで見ないようにしている、また誰にもある死と言う一線を一時期超えた直接経験であり、おいそれと多くの人々が近づくこともままならない経験でもある。

 

あるいはヘミシンク等でも有名な「意識」の身体からの離脱経験による直接的な理解であろうか。

 

あるいは瞑想中の意識におけるある種の直覚知、あるいはリモートビューアーのような時空を超えた知覚の直接的体験も含まれるだろう。

 

それらは全ては、与えられた理論・観念の中の組み合わせではなく、自らの経験での「直接知」であるということだ。

 

このような自らの直接体験は、他人から聞くような単なる知・情報ではなく、あからさまな経験から生ずる絶対的な気づきとも言えるだろう。

 

そういう絶対的ともいえる気づきは、いわゆる「悟り」とも共通している。

 

それは確かに腑に落ちる・・と言うレベルを遥かに凌駕した真正の経験とその理解なのである。

 

こういう肉体と、より高次な自己の分離・・という直接的経験は、

 

あからさまに自己が肉体ではないという真実に遭遇することを意味しており、

 

そこでは知的理解以上のものを否応なく自覚せざるを得ないのである。

 

誰がわーわー騒ごうと、それは幻覚だとか、思いこみだとか、脳内ビジョンにすぎないと定義づけようと、そういう一見科学的な見解こそが所謂ところの<主観>にすぎず、

 

実際の経験に即していない単なる戯言(たわごと)と解るはずである。

 

確かにこの世の中には、嘘と無知がはびこっている為に、何が正しいのか、何が真実なのかわけがわからぬ状態であり、いきおい政治的、経済的・知的・学的権威と称される人々の意見を聞いてしまう風潮があることだろう。

 

しかしながらそういう権威筋と称される者達は、ある狭い分野の知識や見識は豊富であるものの、その地位や名誉に安住し、未知なることに対するオープンなこころが閉ざされてしまう傾向があり、真正なる知的好奇心が委縮している場合が多いのだ。

 

新しいものを全て「とんでも」と称して自らを権威づけ、古い体系に安住する者達も多いし、

 

また、そういう権威筋からの、所謂大量生産的な開示、ディスクローズ・情報開示・真実の公開を待ちわびていたとしても、逆にそこからは得られないという矛盾に気付けるだろうか。

 

特に3次元的有り様の飽和点に達した現時点では、そのような他者依存、あるいは日和見の意識の方向の先にあるのは、昔ながらの世界観のような断崖絶壁のようなものかも知れない。

 

それぞれの意識達が自らの肉体のみに執着し、あるいはマインドの癖に閉じ込められ、本来の自己であるところの魂の無限性に目覚めないならば、

 

当然のごとく有限の壁やあるいは有限の断崖に至る体験をすることになるのも至極当たり前かも知れないということだ。

 

確かに、平面次元に出来てしまった世界という「迷路」を抜けるには、上に眼を向け壁を乗り越えるしかないということだ。

 

あるいは逆に、自己が何かを知ることによって否応なく「迷い道」から抜けることになるのだと言えようか。

 

・・・

臨死体験者や体脱経験者は世界に相当数いるはずだし、その言説・報告・書籍も相当増えてきたわけだし、

 

また前世の記憶に関する準アカデミックな報告類も増えている時代である。

 

それら、混濁の世界にあって、まるで飛び石のごとく設えられた真実の階段こそが、本来のディスクローズなのである。

 

飽和した時代と共に現われているそういう真実にこそ自らの意識を集中しつつ、

 

おのれが一体何者か、どこから来てどこに行くのか?

 

わたしは誰?ここはどこ?・・・

 

そのような一体どうしてそんな思いが出てくるのかというような疑問、

  

・・・・

今はもうそれら、生れたときから誰にもある根本的な問いかけの解答を自らで得るべき時期にあるということなのだ。

 

まるで今までの人類の多くは、オギャーと生れた瞬間から、現実といわれる造られた迷い道、生と死という路肩の狭間の中で汲々としつつ、恐れと無知で舗装された細いループ道を歩いていたとも言えるだろう。

 

しかしながら、

 

平面次元でのループ(閉じられた輪)は、次元上昇によって進化する螺旋に変化していることに気付けるならば、

 

ひょっとしてあなたもわたし達もここにやってきた久遠の生命としての本分を果たした、あるいは直接識ることが出来たと言えるのではなかろうか。

 

良きかな・・  良きかな・・  である。

 

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体とこころと魂と (4) 魂の視座

2012-10-20 11:05:14 | 覚醒意識

人存在は と こころと で構成されていると言って良いだろう。

 

もちろんは誰にも見えるし、こころも観ることが出来るようになる。

 

しかしながら、は見ることも、観ることも出来ない。

 

世間でどこか漠然と信じ込んでいるような魂や霊という観念にも、理解不十分な人間知の手あかが付いているかもしれない。

 

何せ、見る・聞く・触る・・というような、限られた五感の窓しか認識していないために、どうしても有るとも無いとも言えるものと感じているかもしれない。

 

この人類の認識の狭さは確かに造られたものでもあり、物質次元に閉じ込められた有様を示していると言えようか。

 

1つの表現形態である今の物質的次元を超えて存在するところの、自らの有り方、すなわち魂の有り方に気付くためには、この世界で造られたまことしやかな幻影を自らで見破る必要がある。

 

・・が、しかし待っていて与えられるものではないのだ。

 

 

いや逆にその前に、魂ってなに?と問いかける前に、

・・そんなことよりも何よりも、

 

自分が物質肉体である、死んだら終わりだ・・等というような、まことしやかな虚妄の観念に無意識に支配されていることに気付く必要があるのだ。

 

またひょっとして、そのような観念でもって死んで終わりになった・・後・・どうなるのだろうか。

 

それに、一体ぜんたい、誰がそのような観念に責任を持つのであろうか。

 

政治家か? どこかの大統領か? 権威筋の先生か?

 

自分が何者で、どこから来て、どこに行くのか・・・ 

 

それぞれの自己に関する最重要な知識を、世間の人々が全て理解、体現しているとでも言うのであろうか。

 

いいや、実のところ誰も責任など持てるわけもないし、

 

残念ながらこの世界ではそれは違うのである。

 

あなたもわたし達も、それは良く知っているはずである。

 

死んだら終わりの肉体自己・・・で終始すること。

 

これは究極の勝負と言えなくもないが、常に勝負には負けるのである。

 

意識は不滅であることを識(し)るまでは、迷い続ける輪廻という観念の輪の中に再び戻ってくることになるだろう。

 

実のところ、それは確かに恩寵ではあるが、いい加減卒業すべきものでもあろう。

 

この世界とはまるで魂の学校のようなものであるが、

 

今はもう大きなサイクルの切り替え時期が来ているようでもある。

 

未知から既知への学びの1段階でもあるこの世界の有り方、

 

そう、迷路で右往左往して遊ぶ時期は残念ながら過ぎているし、大きな道も既に開けていることに、

  

多分、あなたも気づいていることだろう。

 

しかしながら、その開けた道に至る<鍵>は、外の世界にあるわけではなく、

 

あなたの内にあるということもわかっているに違いない。

 

全ては偶然であり、ハプニングであり、世界は物質のたまたまの結合や組み合わせであるというような観念に染まっていない限りは・・・。

 

・・・

変化を感じている人々も、外の世界が何かをきっかけに、すぐにでもばら色に変わるものだと思っている人もいるようだし、そうなれば自分がよりよい状態になるかもしれないと信じて頑張っている人もいるだろう。

 

しかしながら、

 

 

外の何か、外の誰か・・・を信じることは<愛>でもなければ<善>でもない。

 

それは期待や執着がその姿を変えた代物でしかない。

 

大切なのは、外の現象をめくら的に信じることよりも自らで内面を探求することである。

 

探求して掘り出したものを他に利用することがかなうならば、それこそ本当の意味での慈善であろう。

 

・・・・・・

 

人間は体と心と魂で構成されているが、

 

は誰にも見えるし、こころも観ることが出来るようになる。

 

しかしながら、魂は見ることも、観ることも出来ない。

  

魂は本質そのものであり、見ること、聞くこと、感じること、そしてマインド・こころを観ること、の根源にあるものであるからだ。

 

五感で感じる我々の主に3次元的な生態、あるいはそれを超えた次元である想念をも含みながら、さらにそれを超えた <わたし>そのものである。

 

それは、究極あるいは全体としての多次元的宇宙、大自然をその<身体>とし、

 

その全てを自らとする意識、宇宙意識を<こころ>とし、

 

その根源であるところの、いわゆる<神>と本質は同じである。

 

あなたはそれを否定するかもしれないが、(笑)

 

今在る・・ということは・・・それがその証拠そのもの。

 

それは、今のその瞬間にある<あなた>そのものである。

 

とはいえ、これは難しい方程式や論理等ではなかなか理解できず、

 

いや・・それではますますわからなくなってしまうかもしれないのだが、

 

ましてや、お金や地位や豪邸では何の解決にもならず、

 

いや・・それではますます維持観念に固まってしまうかもしれないのだが、

 

しかしながら、そうこうしながらも、

 

何処か何か常に内面から感じる方向に自らの意識を向け、

 

思索、探求、あるいは人生経験から醸し出される知恵を集めながら、

 

未だ無明の多くの人々の集合のなかで、右に行き、左に行き、

 

こころが有頂天になったと思えば奈落に沈むような、

 

そんな、

 

この世界ならではの体験をすることで得られる<こころ>のある種の容(かたち)に至るまでのことである。

 

別の表現では、嗚呼・・それがそうだ!・・・と腑に落ちる瞬間がくるまでのことである。

 

なるほど・・腑に落ちる・・ということは、

 

お腹で消化吸収したと言う意味である。

 

確かに・・真理は・・・頭では吸収・消化できないということだ。

  

そのような、あらゆる物事が腑に落ちるような、

 

そのこころの容(かたち)は、どういうかたちなのか?

 

・・・

 

そのようなこころの容(かたち)は、

 

・・・即ち、・・・容(かたち)そのものである。

 

こころが何かの観念に占有されていることではなく、

 

容(かたち)そのものの状態とも言えるだろう。

 

それは昔から言われる・・・無の境地でもある。

 

無と言っても何もないのではなく、

 

どんなものにもなるということである。

 

確かに容器そのものは、中身が空(から)であるはずだ。

 

常に容器の中に何かがあって占有している状態では、

 

その形自体を造り上げている容器自体に気付かない。

 

ざわめく様々なこころで自己を満たしているならば、

 

そのコロコロ変わる容器の中身のざわめきが主人となってしまい、

 

その本来の元に在るこころの容(かたち)に気付かないのだ。

 

TVを見ていてそれを現実化している原因である受像機に気付かない。

 

映画を観ていて、その映像の投影の仕組みに気付かない。

 

あるいは人生を生きていて、それを現象化している意識自体に気付かない。

 

まさに・・そういうことである。

 

無の境地とは、

 

意識の投影先すなわち現象そのものに、我を忘れて自己投入していないことを意味するのだ。

 

例えば人生を生きていて、人生に飲み込まれないことを意味する。

 

本質に気づいている言わば不動の在り方、

 

あるいは想いや感情そのものに自己投入し、それに支配され、それによって突き動かされてしまうことのない、意識の位置とも言えるだろう。

 

その意識の位置・・が<魂>の視座とも言えるだろう。

 

・・・

 

物質形態を表すところの肉体でもなく、常に自在変化するこころでもなく、それをそうだと捉えているところの、言わば静謐の本源意識・・とでも言えるだろう。

 

確かにそれは知識、観念ではなく

 

・・・<存在>そのものである。

 

 

今あること・・・そのものの<本質>とも言える。

 

騒がしい世の中、外の世界にその本質は無い。

 

激しい感覚や刺激、宗教的な甘だるい美しさ、あるいは一見壮大に見える尤もらしいファンファーレの中には決して無いのだ。

・・・

 

現われた全ての事は、常に変化するところを本分とした投影された儚き夢であり、

 

その夢を観ている<あなた>という本質に気付くための、この次元での仕組みなのである。

 

今はもう、

 

体を観るように、こころ自体に気づき、

 

これを静め、空(くう)となすべきであり、

 

自らのこころという魔法のを澄み渡らせるべきなのである。

 

そうして自己の本質に気付くこと、

 

今はもうその時であるようだ。

 

なるほど<今>という瞬間には・・・時間は存在していないということだ。

 

 

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体とこころと魂と (3) こころの容(かたち)

2012-10-07 12:43:24 | 覚醒意識

我々の「体」にはそれぞれはっきりした<姿形>(かたち)があるし、重さも容積もある。

 

「こころ」はどうかと言えば、物体や身体のような、いわゆる3次元的な容積があるとは言えない。

 

しかしながら体もこころも、それらを知ることが出来るのは、要はそれらを対象として認識することによるのである。

 

体の形を認識するのは五感であり、それは当たり前であるわけだが、 こころ自体を認識せよと言っても当初はなかなかピンとこない。

 

それは こころ・・の形が、体のような3次元的物体形で現われていないからである。

 

確かにこころは肉眼で物質的な形態に見えるものではない。

 

逆に言えば、眼に見えないからこそ<こころ>の働きというのは、3次元的ではないということでもある。

 

五感の知覚は主に物体を認識する為にあるものであり、逆にこころ自体の認識については、五感以上の高い意識レベルに自らの認識を上昇・拡大させることが必要なのである。

 

しかしながらそれは、見えないものを盲信することではなく、より広範囲に真実を探求する<魂>の意向を意味するものと言えようか。

 

またこころを見るということは、・・・こころの働きを意識する・・・ということであり、肉眼や触感のような与えられた知覚を超えた働きに気付くという事でもある。

 

これは言わば魂の経験レベルの、1つの大きなステップアップ、飛躍を意味しているのだ。

 

こころによって方向付けされる自己の運命、あるいは経験を自らで方向づけることであり、自らの方向指示器、あるいはガイドを獲得したとも言えるだろう。

 

それまでは他者や社会の中で埋没した有様のままで、右往左往することになるし、

 

環境や社会がどうなるかによって、それに巻き込まれることで数々の不幸や不都合を経験をする羽目になると信じることで、

 

外の世界の改革や革命が常に必要と思ってきたわけである。

 

だからこそ変化や変遷が起きてきたわけであるが、かつてそれによって多くの人々に平安が訪れたことはないのである。

 

あの人が駄目ならこの人だとか・・・そんなことの繰り返しなのだ。

まさに、「こころ・・・ここにあらず」・・・・であったからなのだ。

 

それに違わないだろう?

 

・・・・

こころ、精神・・・・まあ・・在るのはわかるが、形がない・・わけで、 実はこころは・・・ある表現をすれば、所謂ところの<高次元>に属するものと言えなくもない。

 

高次元とは、少なくともこの3次元を超えている存在形態を意味するだろうし、 また、想念は物理次元を超えて伝わることがわかっている。

 

ここで言う「次元」とは、宇宙の展開する多次元構造等の事ではなく、それらを認識することの可能な、人間の意識レベル・認識レベルとでも言えるかもしれない。

 

言わば、高い次元とは、より広く・深く・精妙に認識することが出来る意識の働きのレベル・・・とも言えるだろうか。

 

またそうであるからこそ、実のところ想念は我々の認識しているところの世界観、あるいはそれを構成している<時間・空間>をも超えているのだ。

 

また気付けるごとく、時間空間を超えているが故にこそ・・・、この時間・空間へ関与あるいはその生成が可能となる。

 

想いやこころが人生を形造る、あるいは環境や現象を形造ると言われるのは、

 

意識の働きである「想念」が、

 

その情報・イメージによって潜在的なエネルギーを顕在化させ、

 

それが表現されること、物体化、現象化を促す・・ということを示すのである。

 

これは自分の環境生成や成果の有る無しにも大いに関わるし、あるいはもっと極端な引き寄せ現象や、念による現象化、あるいはテレパシーやシンクロ二シティーと言われる不可思議な体験にも当てはまるのである。 

 

あなたは・・・このことに気づいていただろうか。

 

そう、  汝が信じるごとくに・・・汝になる。

 

まさにそういうことを言っている。

 

科学的な解釈においては、 

未だ相対論的四次元時空を超えるもの、端的に言えば光より早い粒子があるとかないとかの物理科学上の話があるが、

 

それは多分電磁波的観測機器の範囲の話であり・・・あくまでも現象を観察する「意識」そのものを除外して扱っているということであれば、

 

方向が正しそうに見えて、実は還元論的時空の辺境をどうどうめぐりしているようなものであろう。

 

このような機械的宇宙、あるいは還元論的宇宙、すなわち意識の介在しないとされる世界認識レベルが、3次元世界と呼ばれる認識レベルのことである。

 

観察すること、あるいは想いという、ある意味でどこか「主観的」と言われる方向こそが、この世界の共通認識である、物理的四次元時空に<直交>している高次元軸なのだと言って良いだろう。

 

時空を超える次元のものを時空内に探しても、多分それは影のようにしか見えないはずである。

 

素粒子の挙動が人の観測によって異なってくるという量子論の結論は、決して例えの話ではなく、観測する高次の意識方向に、時空を超えてあるところの<次元軸>を暗示しているのだ。

 

意識的存在である人間は創造に参加している・・という意味はここにある。

・・・・

 

逆に、想念・感情すなわちこころが3次元的でないからこそ、こころというものが見えないとされつつ、今までは物や容、重さの方にばかりに気を取られてきたということだ。

 

物も、銭も、家も、地位も、権力も眼に見え、聞こえるような実体としての形態や力であると考えてその獲得に腐心してきたのだろう。

 

たとえ程度問題はあっても、世の中の流れはそういうことになっているはずである。

 

それを称して、3次元世界、あるいは3次元的世界観と言ってきたのだ。

・・・

 

いつも自分自身の回りにある創造の原点である「こころ」が見えないような文明であり、かつまたそういう風に仕向ける何かがあったわけである。

 

そういう風にマインドコントロールされてきたのだとも言えようし、またそのような外からの操作に気づいてきたわけである。

 

気付かぬ間の無意識における、苦痛と搾取をともなった保護支配のようなものかもしれないし、あるいは気づけば、余計な御世話以外の何物でもないわけである。

 

今その分岐点にあることは、様々な情報からも伺い知ることが出来るはずである。

 

人類の意識進化の分岐点である。

・・・

 

端的に言えば、こころは肉眼で<見る>のでなく、意識すること、意識で直接知ること、要は意識で直接<観る>と言われる所以なのである。

 

またある意味で「こころ」とは・・・全包容的意識、あるいは全体意識の個別的な働きとしての魂が、高次元から地上を観察する・あるいは認識するためのツールのようなものでもあるだろう。

 

様々な歴史上の魂の教師、霊的指導者等と言われる存在達が、物質でなく精神を大切にし、その昇華を幾度となくその生涯を通じてアナウンスしてきたこと、

 

こころを平安に保ち、あるいはその中で障害物となる過ぎたる物欲や生存欲を静める修養を勧めて来たのは明確な理由があったのである。

 

いわゆるところの高次元からの働き、意識の意図をこの次元に写像として結実させる創造原理の方に気付くように促してきたのである。

 

より高次の次元は、物からでなく・・・それぞれのこころ、即ち意識上の認識を通して現われる。

 

意識・・(意図) ~エネルギー ~現象化(物)  という流れのままであり、決してその逆ではない。

 

真の教師達は、「認識」によって顕れた結果、物や現象のほうではなく、それを生みだす「認識」そのものに注視するように促してきたのだとも言えようか。

 

観ることは、観察、あるいは認識することであり、その行為によって現象が現われるとも言えるわけであり、

 

また我々はこの世界に在るが決してそれに属していないという意味は、

 

意識ある存在は、より高い次元の因たる者であり、現われた現象この世界の方には属していないと言う意味である。

 

なるほど、こころの働きというのは、世界を造り上げるところの人間の認識力の働きであるからして、どうしても、こころあるいは精神を第一にせよということになるのだ。

 

しかしながら、見えないものの話であるからして、

 

存在していても見えないもの、触れないもの、すなわち所謂(いわゆる)高次元にはなかなか気づけないかもしれない。

 

高次元は、そういう形態世界自体ではなく、それを生じさせるところの意識レベルのことなのである。

 

そういう意識レベルの生命達が集まれば、必然、その写像として展開される現象世界はより高次の有り方を呈するのである。

 

そういう世界は、いわゆる宇宙に無数とあるわけであり、かつてイエスが言ったされる 「天には沢山の住まいがある・・・・」 ということなのだ。

 

昨今の宇宙人等の話も、どこか物質科学的なものに特化しているようだし、攻めてくるの攻めないのと言うような、恐怖と期待の入り混じった、なるほどながらの他者依存的な3次元的意識レベルを示しているようだ。

 

この地球ワールドもその中の1つの家のようなものであり、今またその様相をより高次あるいはより高い周波数帯とも言えるレベルに変えようとしているのは、

 

あなたやわたし達がつねに向上しようとしている本来の魂意識の有り方と全く変わりがないのだ。

 

宇宙というのはそういう進展を楽しんでいる意識、およびその個性化された意識達の遊び場のようなものと気楽に考える方が理にかなっているのである。

  

唯物論、還元論、あるいは手前勝手な唯心論はそのどちらも正当でなく、

 

全包容的意識の有り方に、あるいは宇宙・大自然の有り方を観察しつつ、調和を維持しながら、それぞれの自己の想念を実り豊かな創造につなげてゆくことが本来の道なのだ。

 

しつこいようだが、

 

3次元的世界観を超えてさらに自由度の高い在り方に移行するには、いわゆるところのこの物質的3次元に直行する<軸>としての意識の働き、<こころ>の統御が当然ながら必要なのである。

 

確かに、すぐここに、すぐそこに、あるいは自己がそれそのものであっても、まともに近過ぎるがゆえになかなか気づけないかもしれないし、

 

様々な想いや観念が「こころ」というレンズに付着しているのもなかなか観てとれない段階がある。

  

確かに、こころというレンズに汚れがあれば、まともな像は結べるはずもない。

 

物事はシンプルである。

 

それはまさに、心の中に占有されている様々な常識観念・固定観念という、歪んだ認識形態の影の浄化が求められる所以である。

 

今わたし達は、自らのこころを浄化しなければならないはずである。

 

そして、それが出来るのはそれぞれのあなたでしかなく、

 

昨今急増しているやに見える外の世界の騒ぎや、愚か者の演技や、偏向された嘘八百の情報の類を浄化する必要はないのだ。

 

自由意思の原則は他者を拘束しないのである。

 

外の世界を変えようとする、もっともらしいお為ごかしの最後の<罠>に騙されてはいけない。

 

自らが変えるのは常に自らであり、結果として投影されるのが世界である。

 

それぞれのわたし現実・リアリティとは、

 

どこかの大勢の他者の動めきのほうでなく、

 

それぞれの自己の想いの周囲に投影される写像のほうにある。

 

今はもう、

 

外からの付着物で満ちた自分のこころを清め、

 

自らのより良き想いをそのこころに満たすという時期に来ている。

 

例えば、最も簡単な修養方法は一点集中である。

 

普段の当たり前の生活の中で、

 

自らのこころの動きに気づいていること、

 

そしてまた、あなたにとって信じられる範囲で、

 

最も好ましいイメージを・・忘れずに、こころで固持してみるべきである。

 

それを忘れないだけで、いつでもどこでも可能であるが、

 

・・・・さてどうなるか、自ら実験せずば理解が出来ないはずだ。

 

科学的な態度とは、確かに・・・実証で確認することではなかったろうか。

 

「時間」とはその為にあるようなものだろう。

 

・・・・

 

時間空間を超えた次元に属するところの想念は、常にそれぞれのあなたから湧き出していることを忘れないことである。

 

無理に他者に合わせたあげくの、干からびた収穫に嘆く愚はもうやめにしよう。

 

象徴的な言い方かもしれないが、

 

本当に・・・・、

 

それぞれのこころの容(かたち)あるいは王国はそれぞれの内に在る。

 

またそれは<それぞれ>と言っても、バラバラ別個等ではなく、道は1つにつながっており、その真なる、内なる王国には、あなたやわたし達、全ての存在達がいることに気付くだろう。

・・・

 

一は 即ち  多なり

 

多は 即ち ひとつなり。

 

 

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