私はこの身体である、という観念ならば、
私は、その身体を生成し形作る”物質”であるということになり、
その物質はと言えば、原子やさらに微細なクオークであるわけで、
それは極めて存在密度の希薄なものであるということになる。
・・
少し面倒だが、
古典の物理モデルでは、原子核の大きさが10の-10乗程度であり、
周囲を周る電子の距離が、10の-15乗程度とされ、
立体的空間での物理的存在密度は、(10の-5乗)の3乗なので、10の-15乗程度となる。
物質密度と言えば0.0000000000000001 程度ということだ。
なので、99.999999999999999?%が「空間」という事になる。
・・・
わたしの体のほとんどが”空間”である。
あなたは、重たい体を持て余しているかもしれないし、
それを維持するべく社会で四苦八苦しているかもしれないし、
苦痛と欲望でウロウロしているかもしれないが、
実体はといえば、99.999999999999999?%程度の空間である。
わたしたちは・・空(くう)と言って過言でない。
ところが、
等身大の世界では、全くそんな感覚は無く、
身体が何かにぶつかれば怪我もし、火に当たれば火傷が生じるし、
苦痛や痛みというものが起きればなおさら、
あたかも身体は物質の固まりのように感じるのだ。
しかしながら、事実それはほとんどが”空”なのである。
空の中に、極めて希薄ではあるが、
秩序と調和を保ちながら回転運動、振動しているエネルギーがある。
それがわたし達の”身体”という事だ。
五感感覚によって、
それがあたかも堅牢な物質形態であるかのように感じるだけだ。
当然ながらその物質形態は変化、変形もするし消滅もする。
身体機能としてのそのリアルな感覚によって、
自分が肉体であるという認識をしているのである。
これはTVの画面、CGやアニメ、映像などを観て、
そのスクリーン上の”その部分”に、
リアルな物体があると感じてしまうことに似ている。
あるいは、鏡に映った姿を観て、そこに実体があると思い込み、
「ちっ、ちっ、ち・・知っているよ、裏に誰かいるんだネ・・」と、
その鏡の裏に回って誰がいるのか?確かめる様なものである。
そこに映し出されて、知覚する事象自体には実体がなく、
それは文字通り「投影像」ということになる。
投影像をリアルな・・何かの実体だと感じてしまうわけだ。
そう、・・
肉体は高度極まりない、実に良くできた、
その世界のエネルギー投影像のリアルな次元観測機器と言えなくもない。
宇宙スピリチュアル系の噂話において、
人類は宇宙人が遺伝子操作で創造した・・とかの話があるが、
洗脳陰謀のための完全なほら話ではないだろう。
人類を造った・・ではなく・・、人類の肉体機能のことで、
それが、この世界での、
魂の表現・体験体としての身体のことではあるならば、
まったくの嘘でもないはずだ。
この世もあの世も、仮想現実であるかもしれないと、
そういう人も増えてきたように、
昨今のCG・映像・情報技術の進展で、このような解釈も、
以前とは違ってそれほど違和感がないだろう。
この世は幻想である・・、と覚者が口をそろえて言うように、
外にあるように見える世界がリアルなのではなく、
観ている・体験している者こそが、リアルなのだ。
それが・・わたし・・だ。
次元立体スクリーンの中で、不都合で悲惨な映画を体験し、
そこに自己同一化して自らを忘れ、体験だけが唯一の真実であるとして、
あるときは嘆き悲しみ、有頂天に昇りつめ、奈落の底に落ち込む。
それらすべて、意識の成せる業であると理解すれば、
その体験スクリーンに向かって石を投げつけたり、
あるいは核で爆発させて終わらせたりはしないはずであろう。
あるいは、大勢の他者の思考やなりふりに身を任せ、
大勢の輪廻転生の行列の中で安堵しつつ人生を送ることもない筈だ。
・・・
つまるところ、「わたしは身体である」という信念、あるいは常識感覚は、
”知覚”や認識によっているのである
身体が単独で、そこにそのままあるのではない。
そういう感覚、知覚、認識、あるいは思考の働きによっている。
これらは”意識”の働きだ。
”意識”が無ければ、身体は無い・・。
理知的な人は、それは言い過ぎだというかも知れない。
意識は頭脳・神経細胞という身体によって起きるからには、
わたしはやはり「身体」であろう・・という事だ。
わたしの意識は、物質である頭脳が作っているはず・・と、
これも「意識」の働きである。
身体も頭脳も、環境も世界も・・空の中に生じては滅する、
エネルギーの次元投影像と理解できるだろうか?
空(くう)であるからこそ、有が可能であり、
空(くう)であるからこそ、そこに物質形の投影も可能であり、
そうであるからこそ、それを意識、認識出来るのだ。
空(くう)であるからこそ、無限の可能性が内在し、
そうであるからからこそ、
人々の・・真に求めてやまない幸せや、無限の叡智が内在するのである。
ここで示した文脈で言えば、
わたしはこの身体である・・は、0.000・・001%の妥当性しかなく、
わたしは、空(くう)であるというのは、99.99・・99%の真実性がある。
そうではないか?
人はみな、人生で、あるいは他生でも、
さんざんこの世的観念で終始してきたがゆえに、
本来の深淵なる魂の自己像を思い出すのは時間がかかるものではあるが、
数万、数千年の輪廻の時間からすれば、
真の自己に振り返り、本道を引き返すことは微々たるものであると、
そう気づき、そう思い、そう行為することが重要であろう。
飽和せるこの次元世界は、地球ごと大きく変動しつつ、
今がその時期であることを、言葉によらずとも、
それを示してきていることに気づけるだろうか。
背景たる空(くう)でなければ
無限に内在する諸形態が”現れ”ようがない。
真の・・わたしとは・・それ・・である。
私は、その身体を生成し形作る”物質”であるということになり、
その物質はと言えば、原子やさらに微細なクオークであるわけで、
それは極めて存在密度の希薄なものであるということになる。
・・
少し面倒だが、
古典の物理モデルでは、原子核の大きさが10の-10乗程度であり、
周囲を周る電子の距離が、10の-15乗程度とされ、
立体的空間での物理的存在密度は、(10の-5乗)の3乗なので、10の-15乗程度となる。
物質密度と言えば0.0000000000000001 程度ということだ。
なので、99.999999999999999?%が「空間」という事になる。
・・・
わたしの体のほとんどが”空間”である。
あなたは、重たい体を持て余しているかもしれないし、
それを維持するべく社会で四苦八苦しているかもしれないし、
苦痛と欲望でウロウロしているかもしれないが、
実体はといえば、99.999999999999999?%程度の空間である。
わたしたちは・・空(くう)と言って過言でない。
ところが、
等身大の世界では、全くそんな感覚は無く、
身体が何かにぶつかれば怪我もし、火に当たれば火傷が生じるし、
苦痛や痛みというものが起きればなおさら、
あたかも身体は物質の固まりのように感じるのだ。
しかしながら、事実それはほとんどが”空”なのである。
空の中に、極めて希薄ではあるが、
秩序と調和を保ちながら回転運動、振動しているエネルギーがある。
それがわたし達の”身体”という事だ。
五感感覚によって、
それがあたかも堅牢な物質形態であるかのように感じるだけだ。
当然ながらその物質形態は変化、変形もするし消滅もする。
身体機能としてのそのリアルな感覚によって、
自分が肉体であるという認識をしているのである。
これはTVの画面、CGやアニメ、映像などを観て、
そのスクリーン上の”その部分”に、
リアルな物体があると感じてしまうことに似ている。
あるいは、鏡に映った姿を観て、そこに実体があると思い込み、
「ちっ、ちっ、ち・・知っているよ、裏に誰かいるんだネ・・」と、
その鏡の裏に回って誰がいるのか?確かめる様なものである。
そこに映し出されて、知覚する事象自体には実体がなく、
それは文字通り「投影像」ということになる。
投影像をリアルな・・何かの実体だと感じてしまうわけだ。
そう、・・
肉体は高度極まりない、実に良くできた、
その世界のエネルギー投影像のリアルな次元観測機器と言えなくもない。
宇宙スピリチュアル系の噂話において、
人類は宇宙人が遺伝子操作で創造した・・とかの話があるが、
洗脳陰謀のための完全なほら話ではないだろう。
人類を造った・・ではなく・・、人類の肉体機能のことで、
それが、この世界での、
魂の表現・体験体としての身体のことではあるならば、
まったくの嘘でもないはずだ。
この世もあの世も、仮想現実であるかもしれないと、
そういう人も増えてきたように、
昨今のCG・映像・情報技術の進展で、このような解釈も、
以前とは違ってそれほど違和感がないだろう。
この世は幻想である・・、と覚者が口をそろえて言うように、
外にあるように見える世界がリアルなのではなく、
観ている・体験している者こそが、リアルなのだ。
それが・・わたし・・だ。
次元立体スクリーンの中で、不都合で悲惨な映画を体験し、
そこに自己同一化して自らを忘れ、体験だけが唯一の真実であるとして、
あるときは嘆き悲しみ、有頂天に昇りつめ、奈落の底に落ち込む。
それらすべて、意識の成せる業であると理解すれば、
その体験スクリーンに向かって石を投げつけたり、
あるいは核で爆発させて終わらせたりはしないはずであろう。
あるいは、大勢の他者の思考やなりふりに身を任せ、
大勢の輪廻転生の行列の中で安堵しつつ人生を送ることもない筈だ。
・・・
つまるところ、「わたしは身体である」という信念、あるいは常識感覚は、
”知覚”や認識によっているのである
身体が単独で、そこにそのままあるのではない。
そういう感覚、知覚、認識、あるいは思考の働きによっている。
これらは”意識”の働きだ。
”意識”が無ければ、身体は無い・・。
理知的な人は、それは言い過ぎだというかも知れない。
意識は頭脳・神経細胞という身体によって起きるからには、
わたしはやはり「身体」であろう・・という事だ。
わたしの意識は、物質である頭脳が作っているはず・・と、
これも「意識」の働きである。
身体も頭脳も、環境も世界も・・空の中に生じては滅する、
エネルギーの次元投影像と理解できるだろうか?
空(くう)であるからこそ、有が可能であり、
空(くう)であるからこそ、そこに物質形の投影も可能であり、
そうであるからこそ、それを意識、認識出来るのだ。
空(くう)であるからこそ、無限の可能性が内在し、
そうであるからからこそ、
人々の・・真に求めてやまない幸せや、無限の叡智が内在するのである。
ここで示した文脈で言えば、
わたしはこの身体である・・は、0.000・・001%の妥当性しかなく、
わたしは、空(くう)であるというのは、99.99・・99%の真実性がある。
そうではないか?
人はみな、人生で、あるいは他生でも、
さんざんこの世的観念で終始してきたがゆえに、
本来の深淵なる魂の自己像を思い出すのは時間がかかるものではあるが、
数万、数千年の輪廻の時間からすれば、
真の自己に振り返り、本道を引き返すことは微々たるものであると、
そう気づき、そう思い、そう行為することが重要であろう。
飽和せるこの次元世界は、地球ごと大きく変動しつつ、
今がその時期であることを、言葉によらずとも、
それを示してきていることに気づけるだろうか。
背景たる空(くう)でなければ
無限に内在する諸形態が”現れ”ようがない。
真の・・わたしとは・・それ・・である。