気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

目覚めの道程(9)空(くう)次元スクリーン

2018-09-30 05:59:25 | 真我実現シリーズ
私はこの身体である、という観念ならば、
私は、その身体を生成し形作る”物質”であるということになり、
その物質はと言えば、原子やさらに微細なクオークであるわけで、
それは極めて存在密度の希薄なものであるということになる。
・・
少し面倒だが、
古典の物理モデルでは、原子核の大きさが10の-10乗程度であり、
周囲を周る電子の距離が、10の-15乗程度とされ、
立体的空間での物理的存在密度は、(10の-5乗)の3乗なので、10の-15乗程度となる。
物質密度と言えば0.0000000000000001 程度ということだ。
なので、99.999999999999999?%が「空間」という事になる。
・・・
わたしの体のほとんどが”空間”である。
あなたは、重たい体を持て余しているかもしれないし、
それを維持するべく社会で四苦八苦しているかもしれないし、
苦痛と欲望でウロウロしているかもしれないが、
実体はといえば、99.999999999999999?%程度の空間である。

わたしたちは・・空(くう)と言って過言でない。

ところが、
等身大の世界では、全くそんな感覚は無く、
身体が何かにぶつかれば怪我もし、火に当たれば火傷が生じるし、
苦痛や痛みというものが起きればなおさら、
あたかも身体は物質の固まりのように感じるのだ。

しかしながら、事実それはほとんどが”空”なのである。
空の中に、極めて希薄ではあるが、
秩序と調和を保ちながら回転運動、振動しているエネルギーがある。

それがわたし達の”身体”という事だ。

五感感覚によって、
それがあたかも堅牢な物質形態であるかのように感じるだけだ。
当然ながらその物質形態は変化、変形もするし消滅もする。

身体機能としてのそのリアルな感覚によって、
自分が肉体であるという認識をしているのである。

これはTVの画面、CGやアニメ、映像などを観て、
そのスクリーン上の”その部分”に、
リアルな物体があると感じてしまうことに似ている。

あるいは、鏡に映った姿を観て、そこに実体があると思い込み、
「ちっ、ちっ、ち・・知っているよ、裏に誰かいるんだネ・・」と、
その鏡の裏に回って誰がいるのか?確かめる様なものである。

そこに映し出されて、知覚する事象自体には実体がなく、
それは文字通り「投影像」ということになる。
投影像をリアルな・・何かの実体だと感じてしまうわけだ。

そう、・・
肉体は高度極まりない、実に良くできた、
その世界のエネルギー投影像のリアルな次元観測機器と言えなくもない。

宇宙スピリチュアル系の噂話において、
人類は宇宙人が遺伝子操作で創造した・・とかの話があるが、
洗脳陰謀のための完全なほら話ではないだろう。
人類を造った・・ではなく・・、人類の肉体機能のことで、
それが、この世界での、
魂の表現・体験体としての身体のことではあるならば、
まったくの嘘でもないはずだ。


この世もあの世も、仮想現実であるかもしれないと、
そういう人も増えてきたように、
昨今のCG・映像・情報技術の進展で、このような解釈も、
以前とは違ってそれほど違和感がないだろう。

この世は幻想である・・、と覚者が口をそろえて言うように、
外にあるように見える世界がリアルなのではなく、
観ている・体験している者こそが、リアルなのだ。

それが・・わたし・・だ。

次元立体スクリーンの中で、不都合で悲惨な映画を体験し、
そこに自己同一化して自らを忘れ、体験だけが唯一の真実であるとして、
あるときは嘆き悲しみ、有頂天に昇りつめ、奈落の底に落ち込む。

それらすべて、意識の成せる業であると理解すれば、
その体験スクリーンに向かって石を投げつけたり、
あるいは核で爆発させて終わらせたりはしないはずであろう。

あるいは、大勢の他者の思考やなりふりに身を任せ、
大勢の輪廻転生の行列の中で安堵しつつ人生を送ることもない筈だ。
・・・

つまるところ、「わたしは身体である」という信念、あるいは常識感覚は、
”知覚”や認識によっているのである

身体が単独で、そこにそのままあるのではない。
そういう感覚、知覚、認識、あるいは思考の働きによっている。

これらは”意識”の働きだ。

”意識”が無ければ、身体は無い・・。

理知的な人は、それは言い過ぎだというかも知れない。
意識は頭脳・神経細胞という身体によって起きるからには、
わたしはやはり「身体」であろう・・という事だ。

わたしの意識は、物質である頭脳が作っているはず・・と、
これも「意識」の働きである。

身体も頭脳も、環境も世界も・・空の中に生じては滅する、
エネルギーの次元投影像と理解できるだろうか?

空(くう)であるからこそ、有が可能であり、
空(くう)であるからこそ、そこに物質形の投影も可能であり、
そうであるからこそ、それを意識、認識出来るのだ。

空(くう)であるからこそ、無限の可能性が内在し、
そうであるからからこそ、
人々の・・真に求めてやまない幸せや、無限の叡智が内在するのである。


ここで示した文脈で言えば、
わたしはこの身体である・・は、0.000・・001%の妥当性しかなく、
わたしは、空(くう)であるというのは、99.99・・99%の真実性がある。

そうではないか?

人はみな、人生で、あるいは他生でも、
さんざんこの世的観念で終始してきたがゆえに、
本来の深淵なる魂の自己像を思い出すのは時間がかかるものではあるが、
数万、数千年の輪廻の時間からすれば、
真の自己に振り返り、本道を引き返すことは微々たるものであると、
そう気づき、そう思い、そう行為することが重要であろう。

飽和せるこの次元世界は、地球ごと大きく変動しつつ、
今がその時期であることを、言葉によらずとも、
それを示してきていることに気づけるだろうか。



背景たる空(くう)でなければ
無限に内在する諸形態が”現れ”ようがない。

真の・・わたしとは・・それ・・である。



目覚めの道程(8)わたしは・・空(くう)

2018-09-27 11:06:42 | 真我実現シリーズ
わたしたちはどこにいるのかといえば、それは空(くう)の中だ。
普通は、
宇宙の中の、地球の中の、日本の中のどこどこの場所・・と考えているが、、
考えられる範囲で最もシンプルにいえば、

我々すべては空(くう)の中にいると言わねばならない。

そして宇宙は・・99.999・・99パーセントが空(くう)である。
我々がこの体である・・と考えるその身体は
0.00・・・1パーセントの占有率しかないのだ。

したがって、私は何か?と問うときに、
「わたしはこの体である」・・にはほとんど正当性がない。


自分の顔が身体が、好きだ嫌いだ、忌避したい・・ではなく、
実際、自分は肉体だと、そういう話ではないということだ。

100パーセント完全に間違いだとは言えないが、
絶対的な確信をもって、それが真実だと、
真顔で言えるものでは毛頭ないことはわかるだろう。

そういう意味において、
「私はこの体である」・・という集合的信念は・・”虚偽”・・である。
嘘、誤認、思い込み、幻想の中のさらに大嘘、
なんとでもいえるが、そういうことである。


「私は体感的にいっても、この体だよ、だってそうじゃない!?」
・・は、残念ながら、これこそ無知の証なのである。


簡単に時空の有り様を観察すればわかるはずだし、
難しい量子論や電子工学を学ばずとも理解が可能である。

宇宙はほとんどが空間であることを知れば充分である。
また、宇宙の中には80%程度のダークマターがあるとか、
そういう科学的想定もあるが、
それは観測される物質のほかにまだ見えない物質、
いわゆる暗黒物質があるはずだというものであり、
宇宙の中の物質系の占有率はほとんどゼロ、
0.000・・・1パーセントが0.000・・・8パーセントになるだけの話。

我々は唯物的価値概念の組み合わせの世界、
とうとう、
どこもかしこも金換算される世界にいるが(笑)・・

実のところ、
どこもかしこも空(くう)であり、
見晴るかす無限の彼方も、身近な身体の中も空(くう)である。

科学で取り上げる無数の銀河、星々も、
空(くう)の中に生じる無限の波動多様性のその顕現である。


私たちは何か?と言えば、人間だ、個人だ、男だ女だ・・という、
わたし=肉体の、常識的観念が幅を利かせているが、
その肉体さえも、無限の空(くう)の中に一時生じては滅する、
無限の空(くう)の中の身体、個人化した1つの波動形態のことを言っているに過ぎない。

繰り返しになるが、
身体の最も占有率の大きいものは何かといえば・・空間・空(くう)なのである。
空、空間をいつも勘定に入れないから、全く気付かないのだ。

空(くう)は何もなく、無価値で虚無だという「先入観念」があるのだ。

私はこの体だ・・というのは、
0.0000・・1パーセントの素粒子の集まりのことを言っている。
したがって、空間の中の占有率でいえば、

私たちは、いやすべて、
事物・事象、宇宙は・・空(くう)であり、
その中に生じては滅する、波動・エネルギーを含むものである。

・・・と、そう言うことができるのである。

そう、わたしたちは・・即ち・・空(くう)だ。
色即是空、空即是色に間違いはない。
世界のことではなく・・私たちそのもののことである!




この空(くう)を科学概念では「真空」といい、何もない空間とされている。
その何もない虚空、真空にどうして物質が生じているのかが理解できない。

何もないものから何かが生まれる等というのは、
原因と結果の因果律に即していないと考えられるためだ。

空(くう)は何もないこと、ゼロ、・・誰しもが怖いと感じる「無」である。

すべては「色即是空」などと言おうものなら、
結局はすべてが空(くう)、無であるということから、
虚しさ、空しさが沸き起こるものだ。

重箱の中身が空っぽなのは絶対に嫌だ。
何か貴重な物で満ちていてほしい。
もの銭金で満ちていてほしい・・、

唯物的世界で生きている間に無意識に刷り込まれた、
そんな観念があるためだと気づけるだろうか。

「すべては結局、空(くう)に帰すって・・あんた、
そんなのありかよ?」と肉体自我が言う。

何も無い・・ゼロからどうして有が生じるのか?
0かける3も100も・・0ではないか?という思考である。

無という観念からくる恐怖、
死んだら終わりで何もない、恐怖観念。
それらがマインドの潜在層で振動しているためだ。
自分自身を・・死すべき物質肉体だという信念のままであること、

それがこの次元世界の「籠の鳥」の有様である。




しかしながら、よく見てみよう。
何も無いわけがない、本当の現実を観てみよう!

今ここに、わたしは在り・・そして、
世界も物も思考もある・・と観察している。
しかしながら、
<わたし>は・・身体ではない、
さらに、わたしはそういう観念・思考でもない、

それを生じせしめるところの母体、
物質、時空を、宇宙を、銀河を生じせしめるところの源、

それをここでは・・空(くう)と言う。
いまでも、どこでも、あなたや私を満たしている・・それ。

空(くう)は無ではない、
あらゆる波動の生じる・・根源であり、
時空も思考も超えたもの、
いつでもどこでも、どこに行こうと・・在る・・ことだ。

空(くう)以外にそれを為し得ようか?

いや、在ることが出来ようか?



目覚めの道程(7)空(くう)の気づき

2018-09-21 06:50:51 | 真我実現シリーズ

科学的な手法によって、自分の体や世界に意識的にズームインすると、
それらは、ほとんどが空間であり、
その空(くう)の間に、無数の微細な波動・エネルギーがあり、
様々な振動・回転運動が行われているということが理解できるだろう。

我々の後生大事な身体、環境、世界、そして宇宙も同じである。
世界は波動でできた、幻影、仮想現実、ホログラフィック宇宙といわれる所以である。
時々鑑賞する、2次元平面の映画も基本は全く同じ仕組みである。

支配層がようやく真実をディスククローズし、
世間の皆がそうだそうだと言い出すのを待つ必要などあるわけもない。
わたしたちは、すでに事実認識ができるのである。

・・・
すべては虚空のなかにあり、
あらゆる諸現象・物事は、空(くう)より生じては滅するそれ、
”波動”で出来ているということだ。


したがって「わたしは何か?」・・というならば、
わたしはこの体である・・と相変わらず主張したとしても、

実のところは、わたしは・・空(くう)であり、
また、そこに”生じては・滅する”性質を帯びた「波動」である
・・ということになる。

そうではないか?

残念ながら?、仮想、・・そう、それこそが真実である。
絶対的な物質価値や権威など、どこにもないのである。
あなたはまだ、この世の厳しい現実?とやらに、おろおろしているのだろうか?

---

2500年前にお釈迦様に諭されたとされる、
舎利子(シャーリープトラ)も肝をつぶしたに相違ない。(笑)

いやある意味では、
物質・便利さ、快楽を追及する現代人ほどよくわかるかもしれない。

とはいえ、・・今はもう、
むなしい感情を胸に抱く必要もないし、
自堕落ややけくそになる必要もないし、
人生をいい加減にやり過ごす必要もない。

身体の安定、快楽、快感の追及に身をやつし、
物欲・性欲・権勢欲に必死になる必要もなければ、
髪を振り乱して何かに追いすがる必要もない。


その幻影世界を、幻影として見破りながら、
この次元の映し出す映画を鑑賞するように、
できるだけ楽しく、面白く味わうことが
その務めでもあると理解すべきなのである。

人々の周りの後生大事な物質形のすべては、
はかなき夢まぼろしのような・・物、
まったく「下天は夢幻のごとくなり」・・だ。

人生とはこの世界で作られた幻影の身体が・・、
その世界との波動共鳴が続く間だけのものだ。

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空(くう)に生じる波動エネルギーが、
素粒子、分子・物質という具合に重合し、
それは、無限小から無限大まで展開するフラワーオブライフのように、
無数の波動の組み合わせが、これまた無限に生じている。
そして、それが多重の振動帯域、多次元宇宙を構成している。

わたしたち・・という、個別化された普遍意識(魂)は、いま、
その1つの周波数帯域に・・それもかなり小さく閉じられた領域にいる。
それを「地球」と言っている。

我々の生きている間に繰り返し目覚めるこの世界、
朝、目が覚めて起き出す、いつもの等身大?のこの世界は、
その物質身体に”波動共鳴”している世界であり、
我々が物質と呼ぶ、最も粗大な波動表現の世界なのである。

そして、この世の多くの人は、
その等身大の世界だけを・・実在する世界と”思って”いるわけだ。
偏向情報で作られた、世間や常識観念という物質偏重のカテゴリー世界だ。
またこの世界は、閉ざされた観念体系の世界、監獄惑星などとも呼ばれる。



しかしながら、この世界で、幾千年の幻影の時間が過ぎてゆこうと、
気づかず知らず観念の濁流に身を任せ、
同じ時空間で生まれては死ぬを繰り返す輪廻転生を過ごしたとしても、

実のところは、この世界は、
観念で執拗に作られた幻影世界であると”気づく”までの間である。

誰もが固執するその物質的身体の、
空(くう)における占有率は・・ほぼゼロに近い。
笑うに笑えない有り様なのである。

そして思考や想念も、あなたが知覚できるものであり、
やはり波動エネルギーであることに変わりはない。

あなたは体の具合だけではなく、目に見える街の景色や、
他の人の行為や姿だけでなく、
自分の思考や感情、想念、思いにも・・”気づいて”いるだろう。

そう、あなたは宇宙や物質、世界や人々に気づくと同時に、
思考や想念にも気づいている。
思考、想念、感情・・それもまた「波動」である。

わたしの身体は、広大無辺な”虚空”の中のエネルギー波動だ。
そして本質のわたしとは・・すべての波動が生じて滅するところの根源
無限の可能性である・・空(くう)であると言える。

誰もが往々にして感じてしまうところの、
空(くう)は何もなく空っぽ、虚無、無・・という思考は、
この世的物質偏重観念でしかない。
無とは、それ・・無いのである(笑)

何度も言うが、
すべては波動、それは空(くう)より生じ、空(くう)に滅する。
あなたもわたしも・・
あなたの身体も、そして思考・想念も・・”それ”である。

宇宙や身体や想念という波動を無数に展開・投影するそれ、
本質のわたしが、空(くう)であれば、

それは・・・ミクロからマクロ、宇宙の・・、
あらゆるところ、あらゆる時に・・偏在する気づき、意識であり、
定義不能、無限の可能性、あらゆる叡智の源である。

あなたもわたしも、十分に気付かず知らずかもしれないが、
いま・・在る・・ことが、その証拠である。

I AM THAT I AM
わたしは・・在る・・ことそのもの。


目覚めの道程(6)空(くう)と波動

2018-09-11 05:28:41 | 真我実現シリーズ
我々の身の回りにある事物、あらゆるすべては「物質」と言われるものだ。机、パソコン、調度品、食物、家、山、川、地球、そして宇宙すべて、物質といわれるものである。

それらを小さく小さく分解、分析してゆくと「原子」というものがある。
原子は核と電子で構成され、原子核は陽子と中性子という素粒子が集中したものとされている。そしてその周りに電子が回っているとされている。

問題は、原子核や電子の想定される大きさに比べ、その間の距離がトンデモなく大きいため、この原子の密度たるや、体積比で10のマイナス14~15乗程度の、
まるでスカスカのすっからかんのようなものなのである。

広大無辺な空間の中に、相互に関連付けられたきわめて微小な運動する素粒子があり、
それらが集合したものが原子、ひいては物質と呼ばれるものである。

我々の見る世界はその物質で満ちているが、
それらの密度たるや、”ほとんど”ゼロに等しいのだ。
我々の肉体も原子でできているわけなので、実のところ密度がほとんどゼロということだ。

その微小な運動する素粒子は、玉・球状の塊などでは毛頭なく、”波動エネルギー”の局在化されたものだということだ。またそれら原子・電子、さらに微小な素粒子の関係性が、電磁気、重力、弱い、強い核力などという、何種類かの”力”として定義されている。

原子同士やその集合である分子のそれぞれは、自己の存在領域をエネルギー振動で確保しているため、そのエネルギー振動領域同士が出合えば”反発”することになる。



簡単に言えば、微細な波動の様々な重合の結果、エネルギー密度はほとんどゼロでありながら、我々の”等身大の世界”では、それが”固い物質”と観察されるのである。

物質的な科学で解ったことは何かといえば、難解な数式など使わずにかいつまんで言うと、そういうことである。

空間の中にある微細なエネルギー・波動が、物質というものを作っている。
硬い硬いと思っているそれを突き詰めてゆくと「波」のようになって、波動的な存在確率などと呼ばれるようなものになる。

つまり物質と呼ばれるものは、突き詰めると「波の動き」:波動ということだ。



その波動・エネルギーの密度自体は、空間に比してほとんどゼロの占有率しかない。
硬い物質なるものは、スカスカ、ほとんどスッカラカーンといわれる所以である。

波動は波の動きであり、それ自体エネルギーを持つ。
持つというよりも、それ自体、波動・エネルギーなのである。
物質、我々の身体も・・それ以外に何であろう?

科学的な探求結果を信じるならば、そういうことになる。
しかしながら、
それが何の役に立つ?・・経済効果は?・・・そんな思考が刷り込まれているため、
いつもそこで止まってしまうだろう。


広大無辺な空間の中に、微細なエネルギーが運動・振動している。
しかも、その空間占有率が限りなくゼロに近い波動エネルギー、
なので、時空間、宇宙は、エネルギーで出来た立体ホログラムのようなもの。

それが我々の周囲のすべての事物であり、またわたしの肉体・身体なのである。

したがって、こう言うことができるはずだ。

わたしがこの体、物質的肉体である・・ならば、
それは実のところ・・ほとんど空間そのものである・・というに等しい、と。



20世紀に解明された物質の性質で常識的に解釈するならば、
わたしは・・この体である・・は、
概念だけで抽象化された言いぐさ、かなり当て外れな表現であり、
きわめて・・皮相な自己認識であるといえよう。

わたしとは・・ほぼ、ほぼ空間である、

また、
空間とは・・無限またゼロの虚空の中に生じる
エネルギー波動(物質)の・・間・・のことだ。

あるいは
わたしとは、まさしく「空(くう)」であり、
またその空(くう)に生じる”エネルギー波動”を含むものである。

わたしは物質肉体だ・・というならば、
それはつまり、わたしは空(くう)だ、ということになる。
オー、マイゴッド!

つまり、”色即是空”、”空即是色”である。


ところで、”わたし”は・・どこにいる?






目覚めの道程(5)時空は・わたしの中にある

2018-09-08 05:22:53 | 真我実現シリーズ
「体」は”意識”の中にある。
同じく、「時空」は・・”意識”の中にある。

それに違和感を覚えるのは、「わたしは体である」という信念が故である。

わたし・意識は「体の中」にあり、
体は「時間空間・宇宙の中」にある・・と考えている。

”わたしという小さな身体が、時間空間・宇宙の中にある”
という「観念」がきわめて強いためだ。

その場合は、意識が、身体・肉体に”固定”されているということだ。

意識が次元降下して、肉体次元に固定されているとも言えよう。
あなたは次元降下していたのだと言えば、驚くかもしれない。

驚くならばしめたもので、何を言っているのか皆目不明の場合は、
完全に次元降下中、輪廻転生のただ中ということだ。
そういう場合には、
何があっても、何を言っても、気づかない、
または無関心、良くて拒絶である。

わたしは意識である・・という理解に至らなければ、
<わたし>の中に、体や世界があるなどと到底理解も及ばない。

わたしは・・意識であり、時間空間を超えている、
つまり、
時間空間は・・意識の中にある。

「えー、それってありっこない!・・無理!」と思う。
あるいは、そうかもしれないと思う。

結局は、まったく・・それ・想念の形・・なのだ。
信念というか、理解の範囲、常識となっている思いとも言えよう。

こころの法則とか、引き寄せの法則とか、そういうものは、

お金や富を引き寄せるマインド状態などと捉えているかもしれないが
良き事のみ、ずるずる引き寄せる?
あるいは磁石のように金目の事物を引き寄せるのではなく、

「意識」が「想念」を形作り、想念がその鋳型に従って世界を投影するということだ。

魂・意識によって、想念の鋳型・フィルターに投影パターンを書き込み、
想念の形に基づいて、その周囲・環境・世界を映し出す。
さらに投影された世界を、知覚・フィードバックして、
想念のパターンをさらに修正・改善してゆく。

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意識の局所的投影表現形である・・「体」は・・”意識”の中にある。
同じく、意識大規模な投影形である・・「時空」は・・”意識”の中にある。

それに違和感を覚えるのは、「わたしは体である」という信念が故である。
人類集合意識にそれが強く書き込まれていれば、
人類全般が知覚する「時空」は、そういう反映として顕在化するしかない。
それを物質中心の3次元世界などと言ってもいい。

さらに、
世界が今、明らかに大きく変動しているかに見えるのは、
それが、今飽和し、必然ながら崩壊しつつあるからだ。
それとは、古い3次元的な信念体系のことだ。

信念体系に変動があれば、
その表現型である「世界」は変動しないでどうするというのか?
と、そういうことなのである。



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引き続き、
ロバート・モンローの著作からの抜粋

3.
 人類が己の存在機構において極めて重要と考える覚醒時の支配的意識は、人類の手に入り、利用できる様々な形態の一部分でしかなく、また、多分それも大して重要とは言えないものの一部分であろう。
 覚醒時以外の意識は組織的に--ただし注意を払いつつ--危険性を伴わず、破壊もせず、支配的意識部分に付け加えられる。
 その結果は現在の支配的意識部分にとって、考えも及ばぬほどの重要性を持つかもしれない。
ゆえに、支配的意識部分に不安をもたらすだろうし、全面的に拒絶に合うのふが落ちであろう。

4.
人間の意識というのは、2.で述べられた条件のもとに生成されたシステムが顕在化したものに他ならない。人間の意識は振動するパターンを持つ。そのパターンは外的要因に反応して働くパターンのように複数の層を持ち、数多くの相互作用や共鳴する周波数を持つ。
 このようにして人間の意識をさらに活用する鍵となるのは、望ましい、あるいは必要な特質を増強できるように、共鳴周波数を外部で生成し、それを適用することである。(これはヘミシンク技術のこと)