気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

5次元的な話 (2)全ては意識体現

2012-12-31 10:12:27 | 新たなる地平線

5次元とか3次元とか言う場合は、人間に絡んだ世界形態のことであろうと思うかもしれない。

 

3次元世界とか4次元世界とかいう風に、それを世界・環境の有り方のことであると捉えているかもしれない。

 

そういう具合に、あくまでも世界のこと、環境のことが主であって、その世界に在るところの主体としての、あなたやわたし達のことがトンとおざなりになっているかもしれない。

 

良くある意識的ミスマッチあるいは思考の的外れというものである。

 

環境変化が先ず先行するというような3次元的、あるいは唯物論的思考となっているために、それは例えば良く聞くような、アセンションしたとかしないとか、そういう言葉に現われているのかもしれない。

 

要は感覚的に、ある部屋から別の部屋に単に移るような意味で使われ、それも良くない状態からより良い状態への移行とでも捉えるのかもしれない。

 

確かに今の現実世界が非常に生きやすく快適だとかは誰も思わないはずであるし、そのような世界から脱皮出来るならば、これほど良いことも無いと感じている人々は多いはずである。

 

アセンション等と云わずとも、生と死はある意味でそのような自然な生命顕現の移行のことであるし、そのような移行に関して人々がどこか気付いて、気にしているということだけでも、人類の意識は拡大しているとも言えるのだが、

 

実のところ生と死のサイクルは、そして転生は、

 

魂とも称される個別化した意識体が、様々な環境に即した身体・肉体をまといながら、あるいはその環境にあった寿命という体験時間を経ながらの自然な体験学習の繰り返しを意味しており、

 

何もことさら次元上昇やらアセンション等と騒ぎたてることもなく、今までも、今も続いているのである。

 

あなたが今・・ここに生きている・・ということは、社会の常識通念が気付いていようといまいと、そういう転生のサイクルの中に在るということである。

 

今ここ、地球の表面次元に・・生きているという・・自覚意識があるからには、その今・・永遠の中の「今」に在り続けていることになるのだ。

 

問題は、そんなことなど何も眼中にないかのような、物質形態主体の浮かれ騒ぎばかりの世間の流れなのであり、

 

様々に移り変わる価値観や物質形態を重要視することの愚に気付き、その他大勢のどよめきと騒乱の中で自己を見失わない様にすることが、今最も大切な魂の<学び>でもあるだろう。

 

今最も大切という意味は、現在この数千年に顕れた人間社会、3次元的な思考を元にした文明世界が既に飽和しており、これからどうなるのかと言うような不安思考が主流になったような感のある極めて稀な状態、謂わば分岐点に来ているということなのである。

 

資本主義経済が崩壊したとか、毎度のことながらバブルが弾けたとか、これからまたバブルを演出するとか、国家予算がそれを売り買いする外部の国債の投資家によって成立する可笑しな有様だとか、

 

あるいは世界的に経済成長が止まり、お金が少なくなって焦りつつ、目を皿のようにして他国すれすれの土地と資源を簒奪しようとか、何かのトラブルイベントを作り上げ、それに対抗すべく時代遅れの3次元的兵器で軍事面での内需拡大と兵器産業を助けようだとか、

 

もう1度来れば終わりのはずの地震列島に張りめぐらされた数万年も溜まり続け、誰も処理の出来ない放射性物質の蓄積を再開するとか、

 

本来国民の生業(なりわい)為の中央制御であるはずの政治や権力が、宣伝と洗脳の境界を踏み破り、あるいは見えないところに嘘と騙しを落としこんで利益誘導してしまう醜態だとか・・・・、

 

明らかに危険な方向に向かおうとするかのような動き、

 

これらそれらをしっかりと観察するならば、地表次元においては、

 

物質形態の繁栄と豊富さのみを求めてきた今までの人間世界は既に分岐点を迎え、それを通り過ぎようとしているということに、すでに気付く人々も多いはずである。

 

比較的大勢の人々が、自分達がたまたま生れた偶然の生き物、単に知性をもった肉体であり、死んだら終わりの動物だとかいうような虚構の観念の中に沈んでいるからこその文明であったのかもしれない。

 

またなるほど、そういう世界で最も大切なのは、刹那の肉体であり、またそれを維持し快楽に保つための豊富な物資であり、それを得やすくするための権威や権力ということなのだろうか。

 

近代以降の欧米流の進出・獲得・簒奪・競争等の思想で彩られた物資繁栄主義は、そういう根にある思考が故のことであったろう。

 

・・・

 

ちょっと困ったことには、

 

物質主義、利己主義のような根の思考を持ったまま 魂:意識体が肉体死を経たならば、その残留思考の程度によってこの次元世界の周辺に引きとめられることになるということだ。

 

そういう地球時空周囲の意識存在層あるいは、中間層、肉眼では当然見えない意識体の存在周波数帯域が、4次元とか幽界やら霊界とか言われているようである。

 

本来多次元意識体である魂、つまり人が死んだ後に関しては、最も外装の肉体は持たないものの、それは単に常に着がえるだけこと、要は次元層の外衣を脱いだだけのことであり、

 

その本質である意識の内質によって、外側の体験フィールドが変わるということには変わりがない。

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なぜなら、意識が常にフォーカスしているところに<わたし>があるという自己顕現原理のようなものがあるからだ。

 

本質である意識の振動率、あるいは簡単に言えば主たる残留想念の質が、地上の混乱の様相に近ければ近いほど、類は友を呼ぶというような波長の共振作用によって引かれ、あるいは引っかかってしまうようなものだ。

 

それは、本来の言わば5次元以上の・・大きな<わたし>という意識体に帰還出来ず、途中で引っかかってしまうようなものであろう。

 

まるで大きな<わたし>という母船から、探求と経験知を得るために探査機を発出させたものの、その分身である探査機が、周波数の波の途中のどこかで引っかかって難破しているようなものとも言えようか。

 

またその引っかかった個別の「意識のポイント」・・よくいわれるようにそれは霊とも言えようが、その霊の難破、引っかかりを開放すべく、5次元以上の大きな<わたし>からの常時の援助が行われているのが現実である。

 

そういう救護役は守護霊だとか指導霊、霊的ガイド等と言われる魂存在の役目である。

 

要はわけのわからぬ状況で天と地を行き来する幼子には、常に保護者が付いているようなものであり、その幼児はそれすらも気付かないからこそ<霊的幼児>ともいえるかもしれない。

・・・

 

人の本質は、外部顕現機能を有する意識体であるわけで、

 

地球の3次元的世界での1つの短い人生体験学習では十分ではないと判断された場合には、地球の多次元層の間を何度も行き来することになるということなのだろう。

 

それは例えば、何度も登頂に挑戦しながら、得難い学びを増やしてゆく登山家のようなもだろうか。

 

それが輪廻転生と言われるものであろう。

 

魂の学びの為に輪廻転生する当の魂達自らが、どうしてここにいるのかを忘れ、何が何だかわからないかのような有様の広がった世界、

  

確かに、これが3次元世界の文明のあり様と言えようか。

 

そういう3次元的肉体の因としての高次元的魂というか、さらに大きな自己に気付かぬ意識のレベルを3次元とか、第3密度の世界とも言うようである。

 

要は、全てを観察しているところの高次の意識・・<わたし>というものに、なかなか気付かない狭い認識レベルにフォーカスしていたということである。

 

普通に言えば、大所高所からものを観ることのできない自己の有様とも言えようか。

 

・・

いわゆる3次元というのは、今までのような物質形態ばかりに意識がフォーカスした状態であるとも言えるわけで、

 

人存在は本来そういう次元をも貫通した、あるいは超えた在り方をしている多次元的「意識体」でありながら、ある意味で肉体顕現周辺の皮相な部分、3次元的な部分での学びをしていたということでもある。

 

あなたもわたし達も、本来そういう言わば多次元的な存在なのであるが、

 

それはまたある意味では、幼稚園から小学校に行くような、すこしづつでもまんべんなく、しっかりとあらゆることを学んでゆくプロセスにあるともいえるだろう。

 

本来その国の人間としての知識を学ぶために学校があるように、さらに大きな意識・魂として、この世界だけでなく多様な世界の知識を学ぶために宇宙の住み家がある。

 

多次元的な宇宙の中にある様々な星も、あなたやわたしの今・・いる・・この地球もまたその1つである。

 

その地球も実のところ巨大でふところが広く、良くいわれるところの愛と光に満ちている。

 

地球という意識体が殊更言葉でしゃべらずとも、あなたはそれに気付けるだろう。

 

大気はそよ風であなたの頬をなで、

 

太陽の光はいつも地を明るく照らしてくれ、

 

草木は黙って我々の呼吸の為の酸素を生みだし続ける、

 

大地は子供達の歩く道を固持して守り、

 

動物は人間に何をされても愛らしくそばにいる、

 

山々は季節ごとに 白く、青く、黄色く、赤く色づき、

 

川は天からの清水を海まで還しながら地を清めて行く、

 

・・・・

 

万一、これらに異変が現われた時点では、すでにそのような環境破壊的文明自体が飽和したという合図なのではないだろうか。

 

それに気付かない、古い価値観念で固まった近視眼的思考の推進者達、結局は刹那の自己保身の為に騒ぎまくる者達は一体何を観ているのだろうか。

 

なるほど我々はまるで、何も分からず活動し、思考の力だけを頼りに地球を掘り返し、これ見よがしの摩天楼を築きあげつつ、気がつけば窒息しそうな都市文化を花開かせてしまった霊的幼児であったのかもしれない。

 

そう・・、今はもう・・・その幼年期・・・の終わりに遭遇しているのである。

 

今まで生きて育ち、経験を増やし、思考を洗練させ、大勢の人間関係から何事かを学んで来れたのも、

 

この地球があればこそではないか。

 

今はそれを静かに感じるべき時なのだ。

 

存在する全てのものは、大いなる意識と意図が・・・無数に、無限に個別化した形で顕現しているのだ。

 

この地球もそういう中の1つの意識体なのであり、鉱物・植物・動物・人間であっても、その意識体の中で遊び、学び、体験を重ねてその意識を大いなる意識まで拡大させつつある朋友のようなものなのだ。

 

今・・ここで・・・観じざれば、今度、いつどこでそれをやるというのか?

 

・・・・

 

広い広い鏡のように澄み切った水面をもつ池に、

 

天から雨の滴が無数に降ってきた・・・、

 

その雨粒は、鏡のような池に無数に落ちて<波紋>が生じる、

 

その<波紋>はあちらこちら無数の<波紋>の輪を作り、

 

それらの無数の輪は池全体に波動として広がってゆき、

 

その沢山の輪と輪が干渉しつつ様々な紋様を描きつつ拡大する。

 

そうして広い広い池の・・端の端まで到達するのだ。

 

・・・・

 

いやいや、

 

広い広いといっても、実はあなたの手のひらの上のことなのかもしれない。

 

・・・・・・

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


5次元的な話 (1)4次元を超えたもの

2012-12-22 11:31:30 | 新たなる地平線

SF的に聞こえるような話が世の中多くある中に、5次元というものがあるのは知っているかもしれない。

 

次元の話はどこか物理、数学的な表現で説明しやすいとされていて、例えば世界説明するには、概してニュートン力学的説明は3次元的世界、アインシュタイン以降はそれが4次元的とされている。

 

いずれにしても、世界の全ての現象は、<位置>を示す3つの次元=空間と、その中の何かの物体の変化を示す1つの次元<時間>による、4つの次元によって説明できるとされている。

 

従って本来の我々の認識している時空は、既存の科学的な謂いでは、すなわち4次元時空とされるわけだ。

 

但しアインシュタイン以降の理解では、時間と空間が独立したものではなく、それが相互に補完しあっているという意味が加わっている。

 

面倒くさい表現であるが、固有の運動座標系の間において、時間は空間に変化し、空間は時間にも変化するともいえるし、

 

其々の運動する物は、どれが絶対というわけでもなく全て対等であり、またその運動の速度は光の速度を超えられないということである。

 

また、この世界にある物体は、それが様々な運動を行いながら変化しているがその動きは光の速度を超えないということを言っている。

 

今の物理的な世界認識では、何物も光の速度を超えることは無いという意味でもある。

 

・・・・

つまり有限な光の速度の壁が我々の回りにあるということもできるし、またこの壁があるがゆえに広大無辺な宇宙も4次元的球体として閉じているとされている。

 

地球が3次元的球体と認識されているように、我々の知覚している宇宙も4次元的球体とされているわけである。

 

そういう宇宙球では、地球を一回りできるのと同様に、宇宙のある方向に永遠に?進めばあら不思議、もとの4次元地点に戻ってくるというわけである。

 

とは言え、このような大航海?を行ったバスコダ・ガマは未だ存在しないし(笑)、またそんな航海は相当数の時間?が掛かるかもしれないし、今の物理次元での肉体を使って証明など出来るわけもないだろう。

 

またこういう証明の仕方は、まるで3次元的な手法であることにも気付けるかもしれない。

 

・・・・

科学的と言われるアインシュタイン的物理認識をベースに説明しているつもりなのだが、

 

要は、

 

我々の知覚する物理的宇宙そのものは、さらに大きな次元内におけるたった1つの宇宙球であると想像するのは容易であろうということだ。

 

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それを例えるに、

 

4次元宇宙の中に地球という3次元球体があるように、

 

さらに広大な5次元宇宙?の中に4次元球体としての、今の我々の認識する宇宙があるということも言えるだろう。

 

5次元論で有名なリサ・ランドール博士も、そういう風なたとえ話をしているわけである。

 

この宇宙の中に沢山の星があるように、この広大な宇宙自体もさらに大きなユニバースの中の1つにすぎないということかもしれないのである。

 

まるで頭がくらくらするようだが、このような想像、想念が間違っているという証明なども出来ないことは事実であり、

 

せいぜい言えるところは、それは「常識的」ではない・・・ということだけである。

 

また一般大勢の人は誰も認めていない・・・ということだけである。

 

その大勢の人というものが、何か権威のよりどころとして機能したり、あるいは無知なる集団として位置づけられたりしているところが面白い所でもあるが・・・。

 

 

アインシュタインの相対性理論のように、物理現象の世界には絶対的なものは何も無いということであれば、今の段階で何事も決めつけるわけにはいかないということなのだ。

 

ことさら決めつけの根拠を今の「常識」に当てはめていては、どこに科学的な進歩や進展があるだろうか。

 

・・・・

我々は膨大な砂浜の中の砂の一片も知っていない・・・と言ったのは、実にかのニュートンであった。

 

要は我々は・・・秩序ある・・・無限・・・と言われるものの中にいるということである。

 

それに対して何が出来るかと言えば、謙虚であることしかないではないか。

 

・・・

一般に3次元的な世界(本来は四次元)・・・という表現は、制限された世界・・という意味合いで使うことが多いはずである。

 

また、その制限と言うのは、人間の自由度に一定枠の制限が掛かっているという意味であり、

 

それ以上の自由度を有する5次元以上の次元が無いという断定が出来るわけではないということが重要である。

 

5次元以上の有り方、それが今何かは判らずとも、まずそれを認識しようとする人間の思考、想像には制限が無いことは誰でも理解が出来るはずである。

 

・・・

そう・・・・、人間の<想像>自体には限度と言うものが無い。

 

それが今の物理的現実と一致しているので正しいだとか、あるいは一致していないから間違いだとか言ったとしても、

 

<想像>そのものは無限に可能であることは、あなたも私もわかっているはずである。

 

想像は創造とも言われるが、もう少し突っ込んで言えば、

 

神なる存在、大いなる存在、全体がひとつであるところのものの<創造>を、

 

1つ1つ、1段1段、認識し、観察し、検証してゆく行為の推進力というものが、いわゆる人間の<想像力>であると言えるだろう。

 

それが本来のいわゆる哲学的・科学的な態度なのだ。

 

そうして、今までの4次元の認識を超えたところの五次元という謂わば世界認識は、単なる4次元以下の時間と空間を超えるところの<軸>とも言えるものが現われなくてはならない。

 

云わば新たな次元軸というもの、それがまず気付かれなくてはならないはずである。

 

それを高次元軸というならば、

 

それは・・・、

  

今の4次元を包含しながら、それを超えているもの。

 

また相対論で言う光の速度なるものを含みそれを超えているもの。

 

また想定される4次元球体宇宙を含みそれを超えているもの。

 

あるいはそういう意味での多次元宇宙を超えているもの。

 

そういう側面があるはずである。

 

 

それは何だろうか。

 

今、我々は意識進化レベルで、まず今までの物理時空である四次元から、五次元と言われる認識世界に移行しているとされているが、

 

その気付くべき新たな1つの云わば次元<軸>とは何だろうか。

 

・・・・

 

 

そう・・もうここで既に・・扉だけは開かれていることに気付くだろうか。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


神さんとの対話 Ⅱ

2012-12-20 21:17:20 | 見えないものから見えるものへ

以前の記事に海外からコメント頂きまして、ありがとう御座います。

お礼に変えて、再掲させていただきます。

・・・

「神との対話」 という崇高な書が出ていますが、これなどは世界を造ったといわれる宗教的な神への偏見や誤解が、多少とも無くなって来ている証拠かもしれません。

 

いわば支配や罰に係わる神とは、人間の創り上げた観念でしかありません。

 

人は概念・観念の、複雑極まる組み合わせの中で遊んできただけなのかもしれません。

 

様々な観念を創り上げつつ、それそのものに自己投入してきたようです。

 

今こそは、自らの造った観念で縛られていることに気付くべきときでしょう。

 

その為には、自らのこころ模様に気付きつつ、またできるだけ静かな水面を観るように努めつつ、

 

こころを澄ませてゆく必要があるのです。

 

知識はそのためのものでしかありません。

 

自らが単に「身体であると想う次元」から、自らが「こころであると思い込む次元」を越えて、

 

さらに、それらを観ているところの、時空に縛られない「わたし」まで再び上がることが大切ではないでしょうか。

 

身体を見るこころの眼、さらに、こころを観る気付き意識へと上がるだけのことでしょうか。

 

いわゆるところの次元上昇とは、時空自体が勝手に変わるわけではなく、

 

「わたし」という意識の視点、その視座が、より拡大された位置に上昇することでしょう。

 

そのためにこそ、毎日の生活と体験と、愛すべき多くの人々がいるのです。

  

  

<神さまとの普通の会話>

(神様がどうして関西弁風なのか? ・・は深く追求せず。(笑))

今回もまたまた拙い記事ですが・・イレギュラーバージョンということで。

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 ・・・・・・・・・

神さん   「ごめんやす~、茶~を一杯くれんかの~」(・_・)

 

峠の親父 「へえ?・・いらっしゃいませ・・・って、あなたひょっとして神様ですか~」

 

神さん   「えっ?なっ、何でわかったん?・・どないしてや~」(?_?;)

  

峠の親父  「ど、どないもこないも・・、今回はそういう記事の設定じゃないですか。」

 

神さん   「あーっ!そうやった。 なんせ、すぐ忘れるもんやから・・」(ズーズーと茶をすすりながら)(-v-;)

  

峠の親父  「ところで、どんなご用でしょうか?」

 

神さん    「用はない」

 

峠の親父  「はあー?、さようで・・」

 

神さん    「用がなければならん・・?、そんなわけもないやろ。

 

        ただここに来て、あんさんの温めの玄米茶をいただいとりますがな、

 

        用といえば、まあ・そんなもんや。それ以上何が所望なんや?」

 

峠の親父  「はあ?、・・ご、ごもっともで・・ブツブツ」

 

神さん    「ところで、あんさん・・わてが神様や・・ちゅうのをホンマに知っとんのか?」

 

峠の親父  「えっ? ・・・本当に知っているかと言えば、?

 

         さあ・・あなたがそう言うからそうなんでしょう、としか言えません。」

 

神さん    「あはは・・確かに、わてがそうやと言えば、そうに違いないわ。」

 

        「それにな、神は普通にどこにでも、いつでも在るもんやから、

 

        ここにいてもいいんや・・。そうやないか?」(・ー・)

 

峠の親父  「し、至極ごもっともで、・・」

 

神さん    「あれ?・・あんた、わてが神やちゅーから、

 

         こりゃバチでも当てられたらかなわんと思うて、

 

         そんな気をつかっているんやないか?」 (。。)

 

峠の親父   「そんな、めっそうもない。わざわざこんなところに来て、

 

         言葉遣いが良いの悪いの言ってバチ当てる神はおりませんよ。」

 

神さん     「おーっ、なかなか言うな~、まさにそういうことや。」(^~^)

       

         「見てみい、峠の周りの木々はもう紅葉の盛りを過ぎて、

 

         すでに冬支度を始めている。自然はいつも優雅に変化しよる。

 

         マジに美しいやろ。(^ワ^)

 

         ほんのささいな自然の移り変わりにしても、膨大なエネルギーと、

 

         完全な仕組が働いていることに気いがつくやろか

 

         これっぽっちも間違わんでえー。」(・。<)

 

峠の親父  「ま、まさにそうですよね。 でもなかなか気がつかないもんで。」

 

神さん    「ありえないような奇跡に囲まれているっちゅうのに感動できんのは、

 

         それ自体がバチアタリちゅーもんや。(_ _)

 

         自分でバチ当てておきながら、それに気付かず、

         

          どこかの誰かが悪いといって

 

         外を罵っているちゅうのは、・・ちと、えげつないぞ。

 

         なー・そうは思わんか?

 

峠の親父   「え、え・げつない?・・ムム・・そうですね。 確かに・・。」

 

神さん     「他人や外の世界が悪く見えるやろ・・」

         「それはな、眼を開けとらんからや。 こころの眼、心眼やな。」

 

峠の親父  「こころの眼・・ですか。こころに眼があるんですかね?」

 

神さん    「おや?、あんさん・・、結構あげ足とるやないか・・あはは。」

 

        「こころ自体には眼があるわけやない。

 

              それは鏡のようなもんやからなー。」

 

        「その『鏡』を見る、あんさん自身に気付きの眼があるやないか。

 

         ところが・・・、『こころという鏡』が汚れているばかりに、

 

         自らが良く見えないわけや、場合によっては怪獣のように映ってしまう。

 

         あるいは猿のように見えている場合もあるやろ。」

 

          (ああああっ・・、決して、特定の誰かのことではありませんので・・)

 

峠の親父   「おー、なるほど、心は鏡・・ですか。  確かに何でも映りますな。

         それに、つい、自分の嫌がるものばかりを映してしまっているような。」

 

神さん     「フフ、そこよ。」(--)

 

峠の親父   「フフって?、やっぱ、そこですか。」

  

神さん     「あんさんがたが、いかにきれいに着飾っても、

 

         鏡が汚れていれば、映るものも汚れてしか見えんやろう。

  

         いかにポジティブな想いを持って頑張っていても、

  

         なかなか改善が見えないと感じる場合はな、

 

         様々な固定観念やら過去の経験やらの汚れが邪魔しているからなんや。

 

         また、是が非でも改善しなければ・・・という、こうあるべきだ・・という観念、

 

         それ自体が障りと気付かへんとな。

  

峠の親父   「良くしなければ、、という想い自体に、今が悪い状況であるという

         前提観念がしっかり潜んでいるということでしょうか。」

 

神さん     「おーっ言うやないかあ~、 そこよ 」 (・_<)

 

峠の親父   「そ・・、そこですか。」

 

神さん     「改善すべきものは何もない、全てが完璧である。

 

          ・・・という事がわからないからこそ、

 

          様々な改善すべき『問題』が嫌々しながら出てくるんや。」

 

峠の親父    「それはそうですが、もし全て完璧だとしたら

 

          ・・取り付く島もない・・人間何もやることないような気もしますが。」

  

神さん     「おーい!、・・・そこに傲慢がある!」

 

峠の親父   「ご、傲慢?なんですか~ ど、・・どこが傲慢なんです?」

 

神さん     「あんさん方の周り、見る聞く感じる範囲、それ以上において、

 

         奇跡のような大自然、大宇宙に囲まれとんのがお分かりか?

 

         あるがままの不可思議さと、千変万化する無限の息吹を感じることの、

 

         どこに退屈がありえよう。」

 

         また、その不可思議と奇跡の数々は、あんさん方自らのことを意味しているんや。

 

峠の親父   ・・・・・。

 

神さん     「あんさん方のこころを清めてゆく勇壮な魂の仕事もあるわけや。

 

         どこが退屈なのか。・・・ 気いが知れんわ。  うあ~っははは」

       

峠の親父   「はい、まさにもっともで・・。

               ・・もう一杯どうぞ」

 

(おわり)

 

 Img_1375  

本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。


選挙会場での老婆の姿

2012-12-18 10:04:20 | 色々な気付き

先日私も当然ながら投票所に赴いたのだが、

 

道の途中に、空(から)の乳母車を支えに、その曲った背中を恥ずかしげもなく晒しながら、

 

ゆっくり・・ゆっくりと投票所に向かう老婆の姿があった。

 

下世話な話、自分の下(しも)の世話も出来ているのか?というような姿で、

 

お国の為に、自分の役目の為にという一心であろうか、

 

あるいは昔懐かし我が子を思い出すかのように、

 

でも今はそこに・・・誰も乗っていない乳母車を押しつつ、それに支えられ、

 

選挙用に急きょ設えられたバリアフリーの歩道を必死に上がっていたのだった。

 

なるほど、

 

選挙や政治がらみの物事は、

 

何かわかったような意見をしゃべくる身内の考えや、

 

付き合いでの依頼、あるいは生活基盤につながった組織からのお願いなどがあるのが常であるが・・・、

 

それがもたらす結果は何かはわからないとしても、その時の縁を大切にしながら、

 

あるいはそれを今の生きるよりどころにしながらも、

 

周囲の為、・・・子供の為に、

  

そして、それにつながる有象無象の人々に、

 

どこか何か・・役立つことをしたいと思っているのであろう。

 

一票それが・・何をもたらすかの知的な分析も判断も出来ない人々であっても、

  

あるいは老人だ、認知症だとか、ボケだとか云われる方たちであっても、

 

魂がその体自体から転移する時期を誤魔化されたような世間の偽観念の渦の中で、

 

今やるべきことを黙って・・やっている姿・・・

 

その身そのままで・・今・・生きていること・・・在ること。

 

勝手ながら、そのような感覚を覚えるような、ある意味で健気な老婆の姿が、・・・今もこの目に焼き付いている。

 

・・・

 

気付けばこのような有象無象の相対的世界・・・、

 

実際のところ、分けのわからない欲得思考の展覧会のような感のする世界、

  

さも解ったふりの者達が、次から次へ手を上げ躍り出て、その挙句の果てが無茶苦茶になっても責任も取れない者ばかりが先導するかのような世界・・、

 

常に露と消えて行くだけの刹那の幻想の世界に期待をしつつ、

 

全てが裏切られ、翻弄され、どこか搾取されている可能性にも気付かず、

 

それでも自分が何か他者の役に立とうとする姿・・・、

 

・・・、

 

それが何で、どんな効果で、どんな利益や悲劇をもたらすのかは今はわからずとも、

 

前に進もうとする本質の姿は垣間見ることが出来る気がする。

 

どこか踊らされ利用されているやもしれない・・・ことも知らず、

 

ただ生きて何かの役に立とうとしている姿・・・。

 

・・・

 

道ですれ違っただけの、ことさら何の縁も無い老婆だったけれども、

 

それに気付かせていただいたことに感謝である。

 

 

御苦労さまでした。

 

お疲れさまでした。

 

本当に有難うございます。

 

そう・・、

 

人の母も、地球という名の父なる宇宙に浮かぶ母も・・・その本質は同じなんだなと思う。

 

 

その広大なふところの上で何も知らず遊び呆ける友がき、その他多くの無意識のいろどり役者たちを眺めれば、

 

たまに袖すり合うだけの多くの人々へも・・・どこか魂へのいとおしさを感じるかもしれない。

 

その為には、何が正しく何が間違っているか、何が正解で何が誤謬だかという思考や批判をこのさい頭から排除すべきなのだろう。

 

外の現象世界、全ては成るようになるということであり、

 

それが嫌も応も無い集合意識レベルでの学びのプロセスなのだということだろうか。

 

・・・

 

この気象変化・地殻変動期にあると言われる今の地球において、原発という放射性物質の極度に集中され濃縮された破壊エネルギーをそのままに、

 

またさらに推進する?という方向に再び多数決という名の舵を切ってしまった形に仕上げられた感のある集合意識においては、

 

今後高い確率で予想される経済や生態系の激変、文明の一大崩壊のような転換を迎えた時点で、もう誰のせいにも出来ないことを・・・

 

悟るはめになるのかもしれない。

 

仮にも、自然界との調和よりも、今ある命の大切さよりも、付和雷同の笛の音に踊るような目先の金回りのほうを選んでしまったということならば、

 

それもまた意識的な選択であり、その選択によって今回もその結果が現われるだろうし、ただそれだけなのだ。

 

要は、因果応報は時代が下れば無効になるわけも無く、たとえどんな時代であろうと、良きに付け悪しきにつけ、意識的に選んだものを刈り取るということは変わりようがない。

 

結果を刈り取るその時には・・・あー、知らなかったということは言えないし、誰のせいにも出来はしまい。

 

なるほど、それに気付けるかどうかの試金石、あるいは標識の1つはもう通り過ぎたようでもある。

 

有史以来初めて広島・長崎に核の閃光と放射能拡散を経験し、

 

長年にわたる病苦と差別、遺伝子の奇形の症状に苦しんで来た人々は否も応もなく、すでにそのカルマを解消したことだろうが、

 

さらにまた福島の放射能を世界中に垂れ流している・・・地球という中のへそ、神州の雛型である日本と云う国体の、癒されざる物質形態内奥の傷を一体誰がどうするのであろうか。

 

またこれ以上の歪みは蓄積出来ないところまで来ていることを、多くの人は見てとることもできないのかもしれない。

 

どんな生き物もそうであるように、体の傷は癒されるのが自然の法則であるが、その癒し方に、もう自己都合だらけの人的な期待や注文は出来るはずもない。

 

その歪みや傷をいやす大自然の英知は、人的物量を超え、想像を超えたものであることを経験することになるかもしれない。

  

根本的に言って、地球という時空間は生物、人類全てにとっての<借り家>なのだということを知るべきであるし、

 

そしてその感謝を忘れてしまえば、

 

地表から自らが追いおとされるはめになっても誰にも文句も言えまいし、またそれすらも気付かないかもしれない。

 

それでも、・・・そんなはずはない・・・のだろうか。

 

いいや・・・、見渡せば、すでに時は満ち、機は熟したのではないかと思う。

 

・・・そう、これ以上は  不自然  なのだ。

 

・・・

 

翻って、

   

集合意識がどうしたとか、そんなことよりも、何よりも、

 

それぞれの<わたし>自身は気付くべきことがある。

 

今の瞬間・・・在ることに、気付いて居て

 

それに本当に、感謝が出来るだろうか。

 

例えそれ以外の全ては一時の、儚き夢まぼろしであったとしても、

 

ままよ、それでも良いのだろうし、

 

かえってそれを観察するところの本質は不動であることを忘れないでおこう。

 

そう、常に還るところは・・・自己の本質なのである。

 

・・・

 

ただ、いま、・・・有難う御座います。

 

 

 

Earth1

 

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


人間とは何か (2)自己の在ることを知る者

2012-12-17 10:09:20 | 覚醒意識

人間とは色々考えることが出来る存在だと多くの人は思っているかもしれない。

 

確かに、毎日毎瞬何かを・・・考え、イメージしているはずだ。

 

そう・・・、人間の特徴はその思考、想念の情報量の多さにあるということだ。

 

動物達との違いは、その思考・想念の質と量の違いであると言えるだろう。

 

なるほど、家のペットや猫さん、犬さん達は自己意識をもってはいるが、複雑にあれこれ考えることはしていないだろう。

 

これに引きかえ人間は、自分のこと、家族のこと、縁者のこと、社会、世界のこと等を次から次へと考えている。

 

あーでもない・・こーでもない・・これは駄目だ、あれもダメだ、これは良いというような色々な思考でそれぞれの意識を満たしていることだろう。

 

しかしながら、

 

そういう思考、イメージの大体が不安、不満足、不足、不完全に色づけされてはいないだろうか・・・

 

またはそんな自己や他者の不完全さのイメージが根底にあるのではないだろうか。

  

だから・・頑張れ・・頑張る・・という思考でもって、不安や不足をいつも満たそうとしているのではないだろうか。

 

社会生活でも、職業活動でも、また家庭内の子育て等でもそのような、どこかにある強迫観念で動いていることが多いものだ。

 

その強迫観念がどこにあるのか、外にあるのか?内にあるのかを見極めること、

 

外にあるように見えることも、それらすべてが人間の内にあるものの現象化であることに気付ければ、

 

どうすることが合理的かは火をみるよりも明らかなのである。

 

それをいわゆる「こころの浄化」というのだ。

 

体は水で洗い流すように、こころは意識の眼で見極めることで洗われるということである。

 

見ること、観ることはそれを意識する・・・ことであり、

 

またこの意識すること・・・・で顕現様式が影響されるということは、最も科学的なと言われる素粒子論でも云われていることなのだ。

  

自己の内面を観るという行為は、実に重要な自己認識の普遍的な方法といえるだろうし、それは思考そのものを超えた意識の有り方への気付きなのである。

 

思考とその集合した観念、世界通念自体に翻弄されるような無意識的な人間のレベルを凌駕するのは意識の力によるのである。

 

・・・・

普遍的な「意識」の中に「意図」が生じ、それがこころの波動として自己の周囲世界に伝搬されること、

 

波動として伝搬されることはすなわち情報として、色として、形として現われることになる。

 

スマホや携帯端末、パソコンや携帯電話のような電磁波のみを使った仕組みも、その皮相的な1つの使用法にすぎないのだ。

 

(くう) (すなわち) (これ) (いろ)なり・・である。

 

  

またすなわち・・・空(くう)とは意識で充満せる空間ともいえるが、実のところは全ての次元、顕現様式、世界を生じるところの<根源>ともいえるだろう。

 

我々の身体、周囲の空間、開けた世界も、宇宙の様々な諸世界も

 

その・・・・全ての元に空(くう)がある。

 

体の中にも、あらゆる物の中にも、宇宙の全てに・・・空(くう)がある。

 

xyzで測量される「空間」ではなく、・・・空(くう)である。

 

気付けるだろうか・・・?

  

空(くう)は無とも言えようが、人間の概念からして何も無い<無>ではなく、無をも含んだところの、数限りない可能性とその顕現意図を潜在的に含む・・それを示す言葉である。

 

それを知覚し、感じとり、理解出来る者が・・・・人間・・・という自己意識を有した存在なのである。

 

その全包容的意識のそれぞれの個別化された意識・・、そして自己を自己として認識出来る意識体まで拡大・深化した者のことを人間というのではなかろうか。

 

例えば、これをご覧のあなたもそうである。

 

皆々ここまで来たある意味での魂意識の猛者であり、兄弟姉妹であり、そして同胞(はらから)なのである。

 

まさに・・・・嬉しきかな。

 

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。