気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

近づく人類の峠越え

2014-11-30 09:06:24 | 地球の一大変容
人は皆、身体を持ってこの世界を経験している魂であるといえる。
そう、人は皆・・身体、肉体ではなく、魂・意識と言うべきものである。

肉体はその一部が見えるが、魂は見えないということで、そんなものはないというのがいわゆる唯物論者の言い分であろう。
 
彼らにとって、観測できないものは、その存在を証明できないというのが科学的解釈ということだ。
何m?、何グラム?どんな色?・・それで計れないものは存在ではないという主張である。
重さや大きさを測る事も出来ないものは・・存在ではない・・という分りやすい見解であるが、実際はかなり稚拙な物質的に偏った見解なのだ。

その見解をあろうことか物質科学の方面から崩してしまったのが、量子力学である。
実際に物質的科学はこの時点から大きく進歩していない。
つまりそう、認識上の壁にぶち当たったのだ。

あれ以来、さらに蔓延した経済至上主義によって商品応用は様々考えられているが、
世界の認識という根本的なレベルでの飛躍は起きていないのである。
というか、すでに飛躍が起きてしまったが、それに気付きたくないということだ。

科学者が物質を細かく細かく観測し、分子や原子のレベルまで絞り込んでその挙動を調べたのだが、そこにあったのは、粒子というイメージの「物質の微小塊」ではなく「エネルギー」であったということだ。そしてそのエネルギーは、また波動であると結論付けるしかなかったわけである。

また電子レベルではエネルギーは、
E=h/λ  (h:プランク定数、λ:波長)
でやり取りされるということ。

エネルギーは波長、振動数の変換されたものという意味である。いわゆる電磁エネルギーは電磁波の振動数だけに依存しているということだ。

物質はマクロでは粒子性をもち、ミクロでは波動性をもつ・・等と言われているが、いくら細かいミクロの領域であろうと、それでこの存在世界が出来ているわけであり、身近なマクロとミクロの違いでもって、粒子と波動で切り分けできるものではない。





物質と見える物はつまりエネルギーであり、そして波動の局在化したものということ。
 
今までは、つまり20世紀では、物質が実際エネルギーその物だったのか!・・という認識レベルであったということだ。
そして、その物質~エネルギーの更に上位の「意識」や「意図」に気付く段階にあるのだが、ここに相当な「峠」があるということだ。

意識⇒ 意図⇒ 想念⇒ エネルギー⇒ 物質形態

言わばこれが、宇宙を、人を、そして文明を生起させるプロセスなのだが、その上位の想念あるいは「こころ」という、目に見えない領域に気付く段階に来ているのである。

曲がれと想って、曲がるスプーンは、それを示している。
それは想念レベルから物質への直接的な影響力である。

人と人の、ふとした折の、直接の意思の疎通はそれを示している。
それは想念レベルと想念レベルでの相互アクセスである。
 


結局は「意識」が全ての元にあるということだ。
人は・・自らを観ることで、これを体現している存在だと知ることが出来るのである。


あなたは肉体を持っているだろう?

それは物質と言われ、エネルギーに換算されるだろう?

「こころ」の働きがあるだろう?  常にあれこれ考えているだろう?

そして、自らがそういう存在である・・!という気付き・・意識があるだろう?

最も身近なところに在る・・今の・・わたし・・という意識に気付けるだろうか?

-------
今までは、つまり20世紀では、有名なアインシュタインの仕事によって、物質が実際には、エネルギーその物だったのか!・・という認識レベルであったということだ。

そして人類は、その<物質~エネルギー>の更に上位の、想念、想い、さらにそれらを生起するところの「意識」や「意図」に気付く段階にあるのだが、ここに相当な「峠」があるということだ。ある意味エネルギーギャップ、あるいは階層のジャンプ、飛躍とでもいうべき魂のための成長プロセスとも言えるだろう。

物・銭・金では何の意味もなく、「こころ」が清まらなければ、越えられない峠というのはそういうことだからだ。

そして、今その峠越えの難所に差し掛かっているわけである。

身近な脅威として世相に明確に出てきた核の問題、放射能の問題は、そのエネルギーの無秩序な放射の危険性であり、
物質という形で現れている、波動エネルギーの連鎖的「崩壊」の危険性を意味しているのである。

 
 

・・・
 
 
日本でかつて2発の原子爆弾がさく裂し、さらに3年半前の原発の大事故があり、その見えない影響が浸透している現状は、
欧米的物質文明の流れのなかの、偏見やらエゴイズムやらによって引き起こされた事態である。

銭金の勘定だけを考えて、更にまた原発を稼働したり、輸出したりする行為の中には、それ自体の原因を省みることなく、目先の経済益やら利権やらをまず第一と考えるような守銭奴的根性をそのまま遂行しようとする、無知蒙昧な思想と、やがてその先に現れるところの破滅への願望が潜んでいる。

目先の銭金、安楽さ、快楽、便利さだけを追求しようとする想いが地上を覆っている現状を見よ。

・・・でも、それって何が問題なの・・・と言いたいところではあるが、

人類は既にその扱えるエネルギーの規模が、この存在世界そのものを崩壊させることもできる段階に来ているということに気付くべきなのである。

その最たるものが「核兵器」と言われるものである。核保有国は身の危険を避けるためと称して、他の国への窮極の脅しというプレミアムにしがみ付いている。

何千発もの核弾頭で、地表面を何十回も破滅させることが出来る能力を誇示しているのは、まさに怖れから生じた自己保身の窮極の姿なのである。
 
これから危険なのは、それが国体の保身、自己保身のための究極の威力であるところであり、その自己保身が出来ない・・・という事になった場合に、それを使おうとする恐れがあるのだ。

「どうせ終わりだから、破れかぶれ」に・・・ならないという保証はない。

皆いい人だからそんなことはあるはずもない・・・わけはないだろう?
いい人たちならば、核兵器などとっくの昔に縮小・廃棄しているものだ。
自己中心で我欲が強く、他を支配しなければ身の休まる事のない・・そんな人たちが、潔くなるはずもないではないか。

米も露も中も英も仏も・・同じようなものだ。これらの代表がかつて自らの所業を、例えば謝罪したことがあるだろうか。


何千万もの人々を搾取し殺した者たちは、謝罪するとか反省するとか、省みるとかそういうことが欠落しているからこその行為である。
また謝罪などしようものなら、これ見たことかとあちらこちらからやってきて、袋叩きにあうか簒奪にあうかそういうことにもなる。


かつてのアングロサクソンの世界帝国であったイギリスが第二次大戦で疲弊し、同系統のアメリカに引き継いだ時期には、核兵器はかろうじて造られていなかったのだが、今はもう何千もの破滅兵器が温存されている。そして第2の帝国も疲弊しつつ、嗚呼、既に国体存在の分水嶺を越えようとしている。




たとえ、新たにBRICSが勃興しようが、今までのような我欲の力関係のバランスで世界を多極化しようが同じことである。
物質繁栄の新たな夢をもう1度・・・は既にあり得ない段階に来ているということに気付かなければならない。

福島の原発事故で示されたのは、放射能汚染の問題でもあると同時に、
このまま物質繁栄だけを主眼とする、利己的生き方を続ける先に起きるのは、
この世界の連鎖的崩壊であるという警告なのである。
 

その啓示が降りざるを得なかった・・・この「日の本」という地にあって、
さらに地震や火山の巣の様な地にあって50数基も林立させ、さらに絶対安全などと言いつつ利権のために原発を温存・稼働させ、
またいつ何時にも核弾頭も造れるのだというような、まるでいつでも野盗の仲間入りも出来るのだ・・というような、そんな低次元の思考にあくまでも執着する為政者や行政担当がいるのを見れば、

もうすでに「古い実は熟し切って、地上に・今落ちん」としている段階であることが分るだろう。
 
今まで、たまにあった、そしてどこか遠くで起きていた気象変動や地殻変動は、実際に我々の身近な時空環境に近づいてきているだろう。

そして、アベノミクスという紙幣の増刷策もたった2年で事破れ、旧日本軍の玉砕イメージでバンザイ政策等と外国に揶揄されるような状態になってしまった。
そう、今まで何とか頑張ってきたはずの経済でも、その崩壊の足音が大きくなってきた現状に気付けるだろうか。



これらは全て、大いなる変容のプロセスを示すものである。
太陽の挙動の変移、地球環境の急速な変化と同時に、人類意識のゆっくりでかつ急激な変化が起きているということであり、

古いものが新しいものに切り替わるプロセスが、目に見えるようになったという事なのだ。
 
そして促がしは、外の物質世界の仕組みの変更などではなく、

この地で修行・経験しているそれぞれの魂達の目覚めなのである。
 
内が変わらずして、外が変わるという幻想は棄て去る時が来ている。

そして、こころの眼(まなこ)が目覚めなければ、新しい世界は見ることは出来ないのは道理であろう。




 


 

地球は魂の教室のようなもの

2014-11-21 07:39:12 | 意識の拡大
地球は宇宙で生命を有するただ1つの惑星だとかいう話が、どこか普通になっているのかもしれない。

今まで何十年にも渡り、これだけUFOだとか未確認飛行物体だとか、他の宇宙文明に遭遇、体験した人の話だとかは、相当数あるわけであるが、未だに未確認であるという事の不思議さに気付けるだろうか。

いつも乍らハリウッド映画の横槍によって、それらが何かのエンターテインメントの話、可能性としてのSF的噂話とでもしているようであるし、

直観真知の意識力がある人であっても、宇宙人がいるとかいないとか、それも良い人だとか悪い人だとか、優しいだとか怖いだとか、好意的な人であれば、夢があって良いではないか・・と言う具合に、とかく感情論的なものに終始することが多いだろう。

結局は何事も「この身の保身」からの思考であるがゆえに、そういう話に流されてゆく。

だから、いつまでたっても未確認なのだ。(笑)
 

・・・・

ところが、そういう保身の立場にいる当の存在、自分達以外の宇宙的存在頑として認めない者が、

実は魂の転生レベルでは・・・その自分の魂が、宇宙由来の者であるなどとは露とも思っていないだろう。


「え、マジ?」と感じる人は薄々気づいていることを意味するし、こういう話すら目や耳に聞こえない、

つまり自分の世界に情報として顕れることがない場合は、未だそういう気付きの意識レベルにないこと、より大きな自己に気付ける段階では無いことを意味しているのかも知れない。


多くの人が、オギャ~と生れてからの記憶しかないという事実は・・・、

実は当たり前などではなく、この世界の低次元的なルールというか意識密度というか、周りの人の意識レベルというか、

そういう長きにわたった「唯物的自己観念」によって生じる、魂レベルの記憶の喪失である。
低い振動レベル、波動レベルでは高い波動帯域の情報はサンプル出来ない、つまり知ることが出来ないというのは何にしろ普遍的な法則のようなものである。
 
例えば、地上波TVの3chの周波数帯域では、より高い26chの周波数域の映像は見えないだろう。それと同じである。
 
それと同様に、人が地上の常識観念という意識波動レベルに固定されていれば、それ以外の意識波動レベルがあるなどとは、露にも思わないということである。


確かに、

そういう小さい意識レベルというか、狭い自己認識レベルというか、そういう集合意識世界であるからこそ、

自らの魂の由来を忘れてしまった状態で、何十、何百という繰り返し転生が出来るのも事実なのである。

つまり霊的に無知な世界で生まれる形でなければ、

自己が何たるかを・・忘れる・・ことが出来ず

かつ、また様々な経験も出来ないという・・・パラドクスがあるわけである。


例えば自分が王様だということをすっぱりと「忘れ」なければ、

巷を徘徊する乞食という極端な事も経験できない相談というわけだ。

そうではないか?


あるいは、世界を色々と経験するためには、あちらこちらを流離(さまよう)事が出来るような、何もわからない何を言っても聞く耳もたないような「頑固な」放蕩息子になりきる必要があるだろう。

そう、どこか幼い段階の魂にとって、それが何不自由ない身であるならば、なかなかその安住を抜け出せないことにもなるはずである。

何不自由のない安楽な身であっては、真摯な体験や経験も出来ず、魂の進化、意識の拡大が実際難しいのであれば、それを打破するにはどうするだろうか。


そう、自己を忘れるのである。


「あれ、?わたしは誰? ここはどこ・・だっけ?」

そうやって敢えて自らを喜々としてリセットするのだ。

実に「お~い!マジかよ・・」なのだ。


そうなれば、いやも応もなく、

進化・開花という強烈なベクトルを無意識に秘めた魂は

何が何だかわからないことから、始めることになる。


それが遠因で、今・・あなたはこの世界にいるのである。


そんな話、気付いてよ・・と言ってもそんなに簡単でもないだろう?

なぜなら、より大きな次元の<自己>を忘れているからだ!!

・・・



転生とは、例えば地球上だけで、時系列に沿って、あちらこちらと個々人の単体の「魂の塊」が転移するわけではなく、もっと全宇宙的、さらに多次元的なものなのである。

だから、今ここにポツネンと存在している「あなた」にあっても、いわゆる地球外での記憶が、膨大な潜在意識の中にあると言えるのである。

さらにあなたという表面意識、自意識は、多次元宇宙という、広大無辺の海に無数に浮かぶ氷山の一角の1つであるということに気付くべきである。

・・・

物的証拠では確認しようもないのだが、足立郁郎著の「真・地球の歴史」という書の中には、何億年も前からの他星からのこの地球への移住や、その後の文化変遷や、当然ながら肉体を地球製に変えて魂が経験を続けるところの、転生の記録等が描かれている。

今の人類の8割の魂は、実は地球という生命場から生じた魂・意識ではなく、いわゆる地球以外の惑星生命場から転生しているとも言われている。
 
ある方面での言い方では、多分にあなたも元は宇宙人であった、あるいは今も当然そうだという事なのだ。

聖書の中でのイエスの話「天には住まいがたくさんある」(マルコによる福音書)というのは文字通りの意味である。変な比喩でもなんでもない。

天のたくさんの住まい、つまり星、あるいは多次元的生命場があるわけで、様々な意識的、エネルギー的、物質的な存在形態があるということなのだ。

・・・

魂という、根源要素たる「普遍的自己の概念」に気付いていないならば、こういう大きな話は全く持って受け入れがたいものであろう。

最先端とされる科学プロパガンダによる「宇宙観測」に期待しつつ、いつも生命も何もない・・かも・・という報告を真に受けている間は、

宇宙での生命は地球だけだという、「猛烈な」エゴ的見解、嘘とも真実とも何とも言えない宙ぶらりんの状況に置かれることになるわけだ。

それは確かに、物的証拠がなければ何も信じないという唯物観念の支配の賜物である。


地球上にだけ人類や生命があるなどという尤もらしい嘘の言明は、どこから来ているのであろうかといえば、

真実が分れば、それが都合が悪いと感じている者たちがいるからであるとも言われている。

そして、

なぜ都合が悪いのかといえば、先ほど言ったように、

無知から既知への経験が損なわれるだろうという、

今まだ「幼き魂達」の不安や恐れから来ているのである。
 
自分が何をしているか・・よくわからない者たちのことである。

・・・

人類の歴史を通して未確認飛行体の記録は実に沢山ある。

最近は特に1930年台頃から始まり、今まで何十年も経って、未だにその確認も、解決も出来ないテーマがある等ということは、誠に奇異なことだと感じなければならない。

UFOだとか地球以外の生命体だとかは、その真相をどの程度まで知っているかは別として、ある意識段階の人々はそれをすでに当たり前の事実として認識しているわけなのだが、

ところが未だ大勢の人々は、そういう言葉を知ってはいても、実際にあるなどと言う認識まで行かないのが現状であろう。

つまり大勢の人々は公式なアナウンスがあるまではそういう認識をしないという風に餌付けされているということである。大勢の他者がそうだと言えば「ああ、そうだ」とする風に仕込まれているという寸法である。

事は政治だろうが、経済だろうが、世界の支配の仕組みだろうが、そして宇宙人の問題だろうが、常に未確認なのは、全ては人類のそういう狭い意識レベルへの固定が故なのである。そういう固定観念からの少しづつの解放が、つまり文明の進歩としていたわけだが、

事ここに及んで、政治や経済の寡占化や、国際的な動乱等で示されるよにな、
全てを再び覆い隠そうとする意図が現れてきているようで、そのような文明の大いなる進歩どころか、逆にブラックホール化しようとする流れが出てきているが、こういう流れの先に流れていく方向は、再び今までと同じような低位レベルの経験世界であろう。
 
空気さえも売り買いするような汚れた都会で必死に生きる経験か、あるいは狩猟採集の中で自然の有り難さを経験するのかもしれない。

いずれにしても、意識生命体は、全ては自己の意識と意図で決める存在なのである。

それ気付ける・・・こと、が喫緊のテーマなのだ。
 
・・・

今まで地球人類全般、その眼の見える先、認識視界が、えらく狭いものに仕向けられていたとも言えるだろうし、またそういう経験もまた必要であったとも言える。


特に最期の時代、末法の世である現代は、肉体自我の存続目的、目先の成績、成果、経済的利益の獲得、主にそういうものだけを取りあえず追究するように社会が仕組まれていたのである。実は物質繁栄主義をモットーとする欧米文明は、この次元で経験可能な最後の低位レベルの文明だったのだ。

 
わたしとは何か?何のための人生か?

そういう根本的な問いかけが、さも幼稚なことのように教えられ、やんわりと確実に、銭・金・物・威力を獲得する方向ばかりに仕向けれれてきたのである。

世界の中心である自己、広大たる英知の一端であるところの自己を省みることなく、意識の投影する幻影たる、物質形態ばかりを真実とする観念で支配されていたとも言えるだろう。
・・・

また、先生の話、権威筋の話でなければ信憑性を感じない、そういう「こころのパターン」を何十年にも渡って記録されるわけである。
 
そういう情けない状態すらも気づかず知らずの意識体達を、天はみかねたのか、昨今はそういう権威筋からも、まともな情報を流すことも増えてきたようである。

かつての福島大の飯田史彦氏や、東大の緊急医療等の先生などが、魂の生まれ変わりや不滅性の話をするようになったのは最近である。とにかく何かの先生の話ならば子供達も聞く耳をもつだろうというような対策だ。

多くの意識体達は、この世界でのそういう十重二十重(とえはたえ)の観念的鎖で身動きが取れない状態である・・ことに気付いていないのである。

また、人がこの世を離れた後に、つまり死んだ後に、肉体で無い自己を発見した時の混乱で、魂の通過する周囲の次元世界が、これまた<身>動き取れないようなことにもなっているわけだ。
 
大勢の魂がこの世界に下生して<我を忘れ>、様々な得難い経験を経ることもさることながら、合わせて低悪な観念でやられてしまい、その霊的ケアが増大していることもあり、そろそろこの低位世界の次元上昇の時節となったと言ってもいいかもしれない。
 
今はもう、そういう時節のただ中にある。
スピリチュアル系統で、アセンションだとか言う噂話もあるが、
実際にそういう時に来ていることに、本当に気付いているだろうか。

・・・

自らの置かれている人間としての現状そのものを、自らではたと見回しつつ、本質である魂からこみ上げてきているものに、真剣に・・意識を傾けることが重要なことなのだ。

自己内面の意識、実は膨大な情報につながっている自己自身に、自らがアクセスする意識的努力のことを、昔から修行やら修養やらといっている。
・・・・
こころの汚れでよく見えなくなった自己の意識、いわば魔法の鏡を磨くことである。

その中に、決して世俗的な誤解のない類の・・「愛」を自分に感じることが出来ればいい。

そして他者も全く同様の、別の<わたし>であることを垣間見るだけでもいい。
・・・

そうやって、汚水が清まって行く様に、汚泥の中に蓮の花が咲く様に、確実に意識進化を遂げることが目的であることを忘れた魂の群れが、今までの地球人類であったと言えば、それは言い過ぎでもなかろう。
 
そしてそれはもうすぐ過ぎ去ることになる。

常に、光陰は矢の如し・・・なのである。


 


本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

古い世界の崩壊音(4)日本財政は既に終了している

2014-11-18 15:34:52 | 見えないものから見えるものへ
消費税を無理やり上げた結果が、マイナス成長という果実を結んでしまったというニュースが流れている。

なるほど、時の流れは速いものである。

今回も、一部だけを強調する類の「嘘」の報道があるかとも思っていたのだが、

権力に迎合するメディアでさえも、

さすがに自分達のおまんまが食い上げの方向性を直視せざるを得なくなり、

現実の立ち位置の危うさを無視出来なくたった事に気付き始めたようではある。
・・・
 
それがせめてもの救いでもあるが、

残念ながら・・しかし、時は既に失した。


かつて終戦後あった経済崩壊の混乱まで・・、預金封鎖と新円切り替え、軍票という言わば国債の放棄の再現まで、

そう・・・あと何年・・何か月・・あるだろうか。
 
当時の敗戦と、更に戦後経済の零スタートの時に耐え得たような、粛々とした日本人の忍耐強さは、今も残っているのだろうか・・・。

実にこころすべき時でなのある。

取りあえず、実際に何か準備していてもおかしくはないが、あなたはどうだろう。

未だに経済アナウンスよろしく借金や、消費を続け、ローンを抱えているのだろうか。

あれが旨いとか、これがかっこいいとか、借金も財産の内だとか、インフレでローンが目減りするとか、そんな悠長さでは峠越えは難しいかもしれない。

今日の明日とは言わないものの、かなり近い将来、確実につけを払う事態が訪れるのである。

目にする嘘八百で飾られた文明の幻想の何たるかを、はっきりと見極めることも大切なことではあるが、出来うる限り気付かぬ人々の発する、混乱する想念と行為の濁流から離れていることが大切である。

そしてそういう時こそ、他者を援けることの出来る精神的余力を残していることが肝要である。

・・そう、これは峠越えの為の1つの秘策となることだろう。

 
...


国民は、実質税収40兆円ほどの国家財政で、90兆円ほどの予算を組むことの異常さに、
 
本当に気づいているのだろうか。

2-3年前には800兆円だったものが、今や1100兆円にもなった国債残高の意味を理解しているだろうか。

ああ、それは国の借金だろう?私は関係ないわよ・・・、とは言えないのだが不快だろうか。

確かに、庶民の知らないところで、いつのまにか勝手に、<国民>という他人名義の借金を作っている者たちがいるのだが、

実際は財務省やら公的機関やらの、控えめで伏し目がちではあるものの、そういう事実報道もあるわけであって、それを知らないとは言えない現実があるということに気付かなければならない。要は、小賢しさにはめられているのだが。

国民は、なんともはや苦労ばかりの、情けない親たち・・そんなことであろう。(笑)

 
国家政府の1100兆円の国債残高の「担保」は、何あろう国民全部の金融資産である。
 

1300兆円とも言われる金融資産、つまり普通・定期の銀行預金、生命保険、その他の預け入れ資金、そして年金資金までもが「担保」となっているのである!


担保と言えば聞こえが悪いが、実際にそういうことなのだと、知っている人もいるはずだが、騒いでいる経済専門家も少ない・・・というよりはメディアで刺し止めされているということだ。

それは例えば、あなたの定期預金が100万円あれば、その90%までは貸出しができる、あるいは生命保険の自己積立分の9割まで貸し出せますよ・・というあれである。
知っているだろう。

・・・
銀行はデフレという現状と、グローバルなアメリカ資本と競合しないという暗黙のお達しによって、普通に融資する安全でまともな貸し付け先が細ることになり、いきおい、政府の発行する取りあえず安心な?国債で運用することになったわけである。

たった1%でも利子を生めばということで、庶民の預金を国債に<投資>してきたというわけである。
大体20年前から始まって、昨今のように次第に麻痺するのに時間はかからなかったというわけだ。

今現在国債残高が、1100兆円という話だが、どうやってこれを還せるのか?

小学生でもできる計算、1100÷40=27年、年間の国税収入40兆円の・・・実に27年分である。

黙って毎年全てを還しても27年かかるのである。

またそれに、全てを還せるわけもなく、税収の大方が国家公務員、官僚たちの「人件費」つまり生活費に費やされているのである。それが大体30兆円とも言われている。

なるほど、それが全部悪いというわけでもないが、増税するにも何をするにも、いつものその理由づけが面白いのは、社会保障費が肥大したからだと言っていることだ。(大笑)

要は、国民自体の負荷が重いと言っているわけだが、国民の働きで飯を喰えている者が言うべ気事ではないわけで・・・言われている方も、自分のことは思わず、そのことに気付けない人々が多いのである。

重いのは、身体障碍者や弱者、じいさんや、ばあさんを生かすための「社会保障費」だというような言い立てであり、それは実に、事実のごく部分だけ誇張する粗悪な理由づけである。

「われらは東大出でしてね、国民を管理するエリートであって、あなたがた下っ端の庶民が頑張らなければ、こうなってしまうんです。効率化を促すインフラも道路も予算振り分けで作ってあげたでしょう。だからもっと頑張ってください。それに実際我々の生活もままならないのです。だから消費税も上げなくてはならないのです・・」・・と暗に、言っているようなものである。
 
そういう上から目線の暗黙の指示行為に比べれば、上に言われるとおりに、いつも通りのプロパガンダを流しているメディアや、利益追求だけを鵜の目鷹の目で、常に探している企業などは、まだまだ「まし」であると言わねばならない。


仕組まれた太平洋戦争で負けて以来、

この国が投資と回収の市場にされ、そこで肥え太った豚を飼育・トサツするような仕組みに組み込まれ、長い回収が始まったのはいつだったろうか、
 

頃合い良しとプラザ合意で為替の保護枠を外され、

その後何十年もアメリカの簒奪の修羅場をくぐりながら、

今までなんとか結果が出ていたのは、生きるために必死な、

馬車馬のような、生きる職人のような、律儀な庶民がいたからである。

・・・

確かに、今まではそういうことであった。
 

しかしながら、それはもう終わったことに、

あなたもこころの底のどこかで気づいているはずである。

年とは全く関係なく、

もし本当に、それに気付いているあなたは、

もう十分やってきたのだ。

やるべくして人生を生きてきたならば、

自己の苦痛と快楽の、人生のその酸いも甘いもあるその意味に気付いているならば、

これから必然的に起きてくる、この次元でのその卒業の式における、

未だ、何が何だかわからない人々の、阿鼻叫喚の姿を見る必要もないはずである。

これから必然的に起きてくる・・・この次元世界の・・魂の卒業式に、

あなたはどう臨むのだろうか。

 

 


 
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。 


古い世界の崩壊音(3)世界は変われども、常にわれあり

2014-11-16 06:28:13 | 日記

・・
人為世界には決して自然発生する事象はなく、全てがそれ、人為のなせる業であることを知るべきであろう。

例えば集合無意識によって、生起すると見える出来事であっても、それは偶然ではなく想いと行為による必然の結果であることを理解している必要があるのだ。
 
あなたやわたしの世界でも同じことであり、その人の周囲の出来事もその人を中心とした想いと行為に依存しているのである。

だから、人生を他人が勝手に操作しているというふうに見えていたとしても、

深く大きい存在の層から見れば、結局は自分で創っているということに気付くべきである。

例えば、誰かに何かをされた、言われたとしても、それをどういう風にとるか、どういう反応をするかはすべて「あなた」次第である。

「それに従うより仕方が無い・・・」ということであれば、結果はそれであるし、
「それは違う・・」とするならば、結果はそれと違うのである。
・・・
あなたである、本質的な「意識」およびその中に生じる「意図」、それは全く本質的、本源的なものであることを知るべきである。
・・・
本来、誰にも、何にも、時空にさえも依存していない、おのれ自身で目覚めたる意識、
それがあなたである。


人間が動物と異なるところは、”意識が自らに目覚めている”というところにあり、言葉を変えれば、自分が自分であるという意識がある・・ということである。

これは意識的存在である人間にとって、最も重要な事柄であるのだが、
さも当たり前のことのように毎日毎瞬を素通りし続け、
そんなことよりも、
目先の生活や競争や生存の方策ばかりに目を奪われているという、
笑えない空回りのような忙しさに気付けるだろうか。
 
・・・
全ての世界はそれぞれの「わたし」があってこそ、
認識対象としてそこに世界が出現しているのである。
・・・
世界の中に偶然にあなたやわたしという意識主体が、
ひょこっと刹那の時間に出てくるわけではないのだ。

それは神なる根源意識があるからこそ、世界が創造されていることと同じことである。
 
 
いや、そんなことはない、
誰かが死んでも世界は相変わらずそこにあるじゃないか・・と言うかもしれないが、
それは「あなた」の意識が、この世界にまだ在るからであって、
「あなた」という意識主体がこの世界から外れたとしたら、
いったいどうしてそれを知ることが出来ようか。

いや、今度は霊としてこの世界に降りてきて、世界がある事を見ることが出来る等と言うとしても、
その霊としてのあなたから見たこの世界は、
全く異なった世界と見えることにも気付けるだろうか。

例え、どこにあっても、全ての中心はそれぞれの「わたし」なのであり、
すなわち「意識」から全てが生じるという事なのである。

そこには、意識⇒想念⇒エネルギー⇒現象世界という展開があり、

あるいは、デカルトがいみじくも、あの西洋にあってさえ気付いたごとく、

「<われ>想う・・故に<われ>あり」という気付きであり、

また「天上天下、唯我独尊(存)」という釈尊の言葉なのである。

・・・
釈尊や霊的教師の真実の言葉よりも、

何処かの企業の長の言葉や、言葉でウソを着飾った政治家の話やら、

何処かの大統領の話の方を信じるような人々が多くいるのも、

マスメディアの部分的な情報プロパガンダを信じる人々が多くいるのも、

とうとう、なかなかに極まった世界になったという証拠であろう。
 

今は本当に、こころすべき時に来ているのである。

・・・

例えば、社会というものが規制だらけ、強制だらけであるような、極めて不自由な時代であったとしても、それをどうとらえ、どう対処するかは、全て個々の意識と意図によるものである。

全くの他人任せ、全くの無意識を採用しているならば、それはまさにその通りとなる。
・・・
海が荒れて思うように進まないと見えようと、航海士の腕1つによっているとも言えるだろうし、結局は自分のことは自分で決めているとも言えるだろう。

人の「意識と意思」こそは、それが当初は小さく感じていても、まさに無限の可能性につながった井戸、湧き出し点のようなものであることを肝に銘じておくべきである。

そうでなければ、自分の魂の発露を制限する、不自由で重い意識レベルに甘んじることになってしまい、何事も悪いのは外の世界、他人や世間、社会や世界のせいにしてしまうことになるのだ。

そうなると、外の世界が変わらなければ自分も変われないという想いに捉われ、

常に環境や支配に苦痛をもって甘んじることになるのは火を見るより明らかである。

そこに他者との整合性の歪、つまりカルマが生じるのである。

・・・

それぞれの、あなたの世界の中心は、まごうことなく「あなた」以外にない。

それは利己主義という自己だけの尊さを主張するような腐った信念でなく、

全てのあらゆるものがそうだという意味なのである。


例え多くの存在達がそれに気づいていなかったとしても、

世界の全てが無知に沈んでいたとしても、

それぞれの「わたし」はそれに気づいており、

決して倒れない不動の巌のごとき存在であるべきである。

・・・

外から色々な干渉や、想い込みや、しきたりや義務などが覆いかぶさっているとしても、それがどうしたというのだ?
 
それは全て人間の通念や観念でしかなく、それらにどうしようもない重さを感じることは全く必要な事ではない・・と気づくべきである。

しかしながら、それらの観念やら通念をすべてを拒否して暴れる、反逆するということではなく、それらが単に「観念」であるという事実をまず見極めるということである。

観念や通念は、それ、つねにコロコロと時代を追って変化するものであり、
その変化する浮草のような思考に、その都度真っ赤な顔で真剣になり、

あげくは自分を苦しめたり、丁半博打のごとく人生を掛けて勝負することの愚かさを、
いつかどこかで「悟る」必要があるということである。

他人の単なる思いつきの利己主義的な言葉が、あなたをどうするというのか?

どうするわけもなかろうし、それを一々気にしていても仕方がないことだろう。

あなたの人生を、他人が成り替わって終生面倒を見てくれるのか?
自分でさえも持て余す自分を観ればこそ、それこそあり得ないだろう。
 
政治屋が不思議な力でもって、国民皆を何もせずに富み栄えさせるのか?

あり得るわけもなかろう。

集団で固まっていれば、皆が一緒に生まれ、一緒に死んでくれるのか?
 
またそれで何が嬉しいのか?

双子や三つ子であっても常にそれぞれの人生である。

どうして、そうまでして外の影絵の世界に依存しようとするのだろうか?

・・・

どんどん突き詰めてゆけば分るはずなのだが、それは、

自己が、朽ち果てるべき単なる偶発的な「肉体」存在であるという「観念」が故である。

今までそういう観念が蔓延していただけの話なのである。

大勢のか弱き肉体存在が、集団の中でなんとか生きてゆくには、

何処か「確実に」良心に恥ずべきことでも、

致し方ないという風に流されることにもなるだろう。
 
まさにそういう世界に生きてきたはずだ。
 
そうだろう。

誰にも覚えがあるはずである。
 


そして、魂が気付いている、その潜在的な苦痛を排除すべく、

それさえも忘れてしまえば良いという事にするであろう。

だから、

常に「我を忘れた状態」で生まれ変わることを繰り返すのである。

従って、

あなたも私たちも、今、このような世界にいるという事になる。
・・
嗚呼、友よ、実はそういうことなのだ。
 
・・・

それは、魂がこの世界の意識波動の粗さに驚き、怖れ、

自らの主体たる意識、われと言う在り方の真の意味を再び探究しなかった、

取りあえずの、目先の有り様だけにこころ取られ、

大勢の吐き出す想念の渦に巻き込まれっぱなしの人生を、

取りあえず・・良しとしてきたからではないか。
 
 
しかしながら、それもまた魂としての貴重な経験として記憶されるものではあるが、
 
過ぎたるは、すでに及ばざるがごとし・・となった。


・・・
 
どこかこころに苦痛や倦怠があるとするならば、それは、
 
自己とは何か、
 
本質の自己の探究、その先にある
 
・・無限の道を今まで・・見ようとしなかったからなのではないか。
  
 
しかしながら、繰り返す、繰り返しの有限の「時」は既に・・過ぎて、
 
在るのは・・・ただ、ただ、
  
  
今の<わたし>のその瞬間、瞬間であることに、気づいたはずなのである。
 
 
そう、過去は単なる記憶でしかなく、
  
 
また未来は変化する想いの先にしかない、
 
 
在るのは、ただ今だけ・・・、
  
 
そして、それに気づいているところの

  
<われ>なのである。






本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

古い世界の崩壊音(2)苦難の峠越え

2014-11-07 06:48:58 | 日記
武道でも茶道でも、あるいは例えばどんな専門分野であっても、その道をある程度極めた者たちならば、その道にいる初心者や途上者がどのような段階に居るのかは、極めて簡単に分るものである。
つまり見切れる・・ということだ。

相場の諺(ことわざ)に「見切り、千両」というのがあるが、まさに今はその時期にある。
また「相場のことは相場に聞け」というの言葉にも、相場の動きの中にある先の兆候を自分で見極めよということを意味している。
 

これに引き換え、利益誘導をする外からの宣伝や促がしや勧誘に、決してまっとうなものはない。
そうだろう?
毎日のように目にするニュースや報道のなかにも全く同じことが言えるのだ。
それらを信じ込んでいると、後でとんでもないところにいる自分に気付くことになるものだ。

それはなぜかと言えば、騙される大勢の子羊がいないと、放牧業者は上がったりだからである。
実際、教科書で習ったことと、真反対のことが起きているのが外の現状世界ということだ。
真反対であるからこそ、そうとは知らない人々から、逆に利益や利ザヤを得るような仕組みになっているわけだ。
実に笑うしかない仕組みではないか。

そして現在、あらゆる嘘八百がまことしやかな姿を装って、世相の中に勢いよく浮き出してきていることにも気づけるだろうし、それに感づいている成熟した精神の人達も多いだろう。

それでも、まだ「そんなはずはない・・」という風に漠然と希望を託しているのは、経験として未だ騙され足りないか、あるいは自己内面を真剣に観察したことが無いからである。
 
  
この次元世界に生きている人間であるからには、誰であっても、自己内面に実に複雑な歪や影がありながら、多くがそれをおざなりにしつつ、取りあえずの、その時々の自己を存続をすべく過去、現在、未来を集団で通過している場合が多いかもしれない。
・・・
 
転生を通じて常にまとう、本来は仮であるはずの「肉体自我」を自己と見なし、それを何とか存続したいと思っている部分があるだろうし、そして、あくまでも仮のままの自己が「そのまま仮」であるために、無意識下での焦りを隠しながら、何とか時間稼ぎをしている魂の姿なのであるといえようか。
・・・  
  
しかしながら時は過ぎ、学びのサイクル時間が無くなって来たにもかかわらず、人類が全般として、自己が本来何ものか?という深遠なテーマの方向に向かわずに、取りあえずの目先の物的充足のみに奔走してきた、どこか欧米型の物質文明世界が、もうすでに飽和した現状に気付けるだろうか。
・・・ 
それとも、未だに為替が・・、GDPが・・、流動性が・・、利率が問題・・なのだろうか。
 

とはいえ、時は至っても、<今の瞬間>は消え去ることはなく、また言わば多次元的存在である地球舞台も消え去る事はなく、

必然として、新たな文化・文明にシフト、今既に移行しているのだが、だからこそ、これからそれはもっとも苦しい峠越えとなるかもしれない。
・・・

古い価値観念、洗脳された重たい思考、過ぎたる物欲、・・そういう古い荷物を棄て去らなければ、決して次なる世界への<この峠>は越えることが出来ないだろう。

そう、ここが肝心かなめの峠、「魂」の進化における峠越えであると言えようか。

ラクダでは決して針の穴を通ることは出来ないと言われる意味を深く感じるべきであろう。

この手に何かを掴んでいれば、ほかの物は持つことが出来ないという意味でもある。


例えば、このまま流れて行く先で、
・・・
さらに衣食足りない傾向になり、礼節も忘れそうな世相となって、
さらなる経済大恐慌になっても耐えうるか?
庶民の銀行残高が、国の負債と帳消しでゼロになっても笑えるか?
預金封鎖と新円切り替えとなっても問題などないか?
・・・

国と国の争いに巻き込まれ、交易が止まり、食料が1/3以下になっても生きられるか?
勇ましく愚かな局地戦ゲームで、あ、こりゃまずいと、勝手なリセットができるのか?
・・・・
我知らず、必死になって、そんな道に人為的に誘われていることに気付けるだろうか。
まるで、最後に爆発して、すべてチャラ、ちゃんちゃんが得意なハリウッド映画である。


例えば、このまま大自然を無視し、収奪し続け、どこか敵対する流れの先で、
・・・
それまでは決して信じられない、地軸の移動があってもうろたえないか?
地殻が短期間で数十m、数百m上下しても耐えうるか?
悪想念で呼び寄せる突然の隕石落下にも驚かないか?
・・・
宇宙・大自然はそういう可能性を示しだしていることに気付けるだろうか。
 
これらは極端な話ながら、次第に現実味を帯びてきていると思えないか。

何も知らず眠っているならば、そういう驚天動地の目覚ましが、最終最後のアラームになるかもしれないと心得るべきではなかろうか。
次第に増えている事変、異変はその兆候であると感じる謙虚さは必要ではなかろうか。

誰が良いとか悪いとかの話でもなく、責任者出ろ・・とかの話でもなく、
それは単に、自分が曲がるべき角を曲がれなければ、崖から落ちても仕方がないというということだ。
重い荷物を満載した車では、角(かど)は容易には曲がれないという事でもある。

そして、
その重いおもりとは、身体の体重やらではなく、こころの重り・歪んだ観念のことである。

汚れたマインドがそのままであるのは、発展途上のこの世界で培ってしまった、他者への憎しみ・怖れ、あるいは自己探究の少なさ等が要因であろうか。

いやいや、それもさることながら、最も大きな誤謬があるとするならば、

わたし・・・という・・自己認識主体、自己創造を体現している<魂・意識>である自己を、
単なる肉体自我であるとする観念のなかに、気づかず知らずに埋没させていることである。



そう、例えこの先何があろうとなかろうと、

うろたえ、迷う、こころを観つつ、自らのこころを浄化し続けながら、

今の瞬間に在る・・・最も近い事実、当たり前の事実、不滅たる真我を意識しつつ、

その魂の・・・素の光を、身、口、意、想いを通じて、自己周辺に放射することが肝要なのだ。

そう、それぞれの<わたし>それぞれが中心であり、それが複合・調和しつつ、
 
常に、外の世界として展開していることこそ、
 
決して忘れてはならない真実なのである。







本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。