人は皆、身体を持ってこの世界を経験している魂であるといえる。
そう、人は皆・・身体、肉体ではなく、魂・意識と言うべきものである。
肉体はその一部が見えるが、魂は見えないということで、そんなものはないというのがいわゆる唯物論者の言い分であろう。
彼らにとって、観測できないものは、その存在を証明できないというのが科学的解釈ということだ。
何m?、何グラム?どんな色?・・それで計れないものは存在ではないという主張である。
重さや大きさを測る事も出来ないものは・・存在ではない・・という分りやすい見解であるが、実際はかなり稚拙な物質的に偏った見解なのだ。
その見解をあろうことか物質科学の方面から崩してしまったのが、量子力学である。
実際に物質的科学はこの時点から大きく進歩していない。
つまりそう、認識上の壁にぶち当たったのだ。
あれ以来、さらに蔓延した経済至上主義によって商品応用は様々考えられているが、
世界の認識という根本的なレベルでの飛躍は起きていないのである。
というか、すでに飛躍が起きてしまったが、それに気付きたくないということだ。
科学者が物質を細かく細かく観測し、分子や原子のレベルまで絞り込んでその挙動を調べたのだが、そこにあったのは、粒子というイメージの「物質の微小塊」ではなく「エネルギー」であったということだ。そしてそのエネルギーは、また波動であると結論付けるしかなかったわけである。
また電子レベルではエネルギーは、
E=h/λ (h:プランク定数、λ:波長)
でやり取りされるということ。
エネルギーは波長、振動数の変換されたものという意味である。いわゆる電磁エネルギーは電磁波の振動数だけに依存しているということだ。
物質はマクロでは粒子性をもち、ミクロでは波動性をもつ・・等と言われているが、いくら細かいミクロの領域であろうと、それでこの存在世界が出来ているわけであり、身近なマクロとミクロの違いでもって、粒子と波動で切り分けできるものではない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/b5/dd742cc198b58e50f806d6275f3e90bf.jpg)
物質と見える物はつまりエネルギーであり、そして波動の局在化したものということ。
今までは、つまり20世紀では、物質が実際エネルギーその物だったのか!・・という認識レベルであったということだ。
そして、その物質~エネルギーの更に上位の「意識」や「意図」に気付く段階にあるのだが、ここに相当な「峠」があるということだ。
意識⇒ 意図⇒ 想念⇒ エネルギー⇒ 物質形態
言わばこれが、宇宙を、人を、そして文明を生起させるプロセスなのだが、その上位の想念あるいは「こころ」という、目に見えない領域に気付く段階に来ているのである。
曲がれと想って、曲がるスプーンは、それを示している。
それは想念レベルから物質への直接的な影響力である。
人と人の、ふとした折の、直接の意思の疎通はそれを示している。
それは想念レベルと想念レベルでの相互アクセスである。
結局は「意識」が全ての元にあるということだ。
人は・・自らを観ることで、これを体現している存在だと知ることが出来るのである。
あなたは肉体を持っているだろう?
それは物質と言われ、エネルギーに換算されるだろう?
「こころ」の働きがあるだろう? 常にあれこれ考えているだろう?
そして、自らがそういう存在である・・!という気付き・・意識があるだろう?
最も身近なところに在る・・今の・・わたし・・という意識に気付けるだろうか?
-------
今までは、つまり20世紀では、有名なアインシュタインの仕事によって、物質が実際には、エネルギーその物だったのか!・・という認識レベルであったということだ。
そして人類は、その<物質~エネルギー>の更に上位の、想念、想い、さらにそれらを生起するところの「意識」や「意図」に気付く段階にあるのだが、ここに相当な「峠」があるということだ。ある意味エネルギーギャップ、あるいは階層のジャンプ、飛躍とでもいうべき魂のための成長プロセスとも言えるだろう。
物・銭・金では何の意味もなく、「こころ」が清まらなければ、越えられない峠というのはそういうことだからだ。
そして、今その峠越えの難所に差し掛かっているわけである。
身近な脅威として世相に明確に出てきた核の問題、放射能の問題は、そのエネルギーの無秩序な放射の危険性であり、
物質という形で現れている、波動エネルギーの連鎖的「崩壊」の危険性を意味しているのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/d8/ce376febcb8200b15ab197a38adcdc5c.jpg)
・・・
日本でかつて2発の原子爆弾がさく裂し、さらに3年半前の原発の大事故があり、その見えない影響が浸透している現状は、
欧米的物質文明の流れのなかの、偏見やらエゴイズムやらによって引き起こされた事態である。
銭金の勘定だけを考えて、更にまた原発を稼働したり、輸出したりする行為の中には、それ自体の原因を省みることなく、目先の経済益やら利権やらをまず第一と考えるような守銭奴的根性をそのまま遂行しようとする、無知蒙昧な思想と、やがてその先に現れるところの破滅への願望が潜んでいる。
目先の銭金、安楽さ、快楽、便利さだけを追求しようとする想いが地上を覆っている現状を見よ。
・・・でも、それって何が問題なの・・・と言いたいところではあるが、
人類は既にその扱えるエネルギーの規模が、この存在世界そのものを崩壊させることもできる段階に来ているということに気付くべきなのである。
その最たるものが「核兵器」と言われるものである。核保有国は身の危険を避けるためと称して、他の国への窮極の脅しというプレミアムにしがみ付いている。
何千発もの核弾頭で、地表面を何十回も破滅させることが出来る能力を誇示しているのは、まさに怖れから生じた自己保身の窮極の姿なのである。
これから危険なのは、それが国体の保身、自己保身のための究極の威力であるところであり、その自己保身が出来ない・・・という事になった場合に、それを使おうとする恐れがあるのだ。
「どうせ終わりだから、破れかぶれ」に・・・ならないという保証はない。
皆いい人だからそんなことはあるはずもない・・・わけはないだろう?
いい人たちならば、核兵器などとっくの昔に縮小・廃棄しているものだ。
自己中心で我欲が強く、他を支配しなければ身の休まる事のない・・そんな人たちが、潔くなるはずもないではないか。
米も露も中も英も仏も・・同じようなものだ。これらの代表がかつて自らの所業を、例えば謝罪したことがあるだろうか。
何千万もの人々を搾取し殺した者たちは、謝罪するとか反省するとか、省みるとかそういうことが欠落しているからこその行為である。
また謝罪などしようものなら、これ見たことかとあちらこちらからやってきて、袋叩きにあうか簒奪にあうかそういうことにもなる。
かつてのアングロサクソンの世界帝国であったイギリスが第二次大戦で疲弊し、同系統のアメリカに引き継いだ時期には、核兵器はかろうじて造られていなかったのだが、今はもう何千もの破滅兵器が温存されている。そして第2の帝国も疲弊しつつ、嗚呼、既に国体存在の分水嶺を越えようとしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/1b/e631741c5a3b68a3deb3f073fbe60aa2.jpg)
たとえ、新たにBRICSが勃興しようが、今までのような我欲の力関係のバランスで世界を多極化しようが同じことである。
物質繁栄の新たな夢をもう1度・・・は既にあり得ない段階に来ているということに気付かなければならない。
福島の原発事故で示されたのは、放射能汚染の問題でもあると同時に、
このまま物質繁栄だけを主眼とする、利己的生き方を続ける先に起きるのは、
この世界の連鎖的崩壊であるという警告なのである。
その啓示が降りざるを得なかった・・・この「日の本」という地にあって、
さらに地震や火山の巣の様な地にあって50数基も林立させ、さらに絶対安全などと言いつつ利権のために原発を温存・稼働させ、
またいつ何時にも核弾頭も造れるのだというような、まるでいつでも野盗の仲間入りも出来るのだ・・というような、そんな低次元の思考にあくまでも執着する為政者や行政担当がいるのを見れば、
もうすでに「古い実は熟し切って、地上に・今落ちん」としている段階であることが分るだろう。
今まで、たまにあった、そしてどこか遠くで起きていた気象変動や地殻変動は、実際に我々の身近な時空環境に近づいてきているだろう。
そして、アベノミクスという紙幣の増刷策もたった2年で事破れ、旧日本軍の玉砕イメージでバンザイ政策等と外国に揶揄されるような状態になってしまった。
そう、今まで何とか頑張ってきたはずの経済でも、その崩壊の足音が大きくなってきた現状に気付けるだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/c5/c1a0568c63e61e6f32d8865aad25d54b.jpg)
これらは全て、大いなる変容のプロセスを示すものである。
太陽の挙動の変移、地球環境の急速な変化と同時に、人類意識のゆっくりでかつ急激な変化が起きているということであり、
古いものが新しいものに切り替わるプロセスが、目に見えるようになったという事なのだ。
そして促がしは、外の物質世界の仕組みの変更などではなく、
この地で修行・経験しているそれぞれの魂達の目覚めなのである。
内が変わらずして、外が変わるという幻想は棄て去る時が来ている。
そして、こころの眼(まなこ)が目覚めなければ、新しい世界は見ることは出来ないのは道理であろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/86/e99e784051819383786f4c63ae04ae4e.jpg)
そう、人は皆・・身体、肉体ではなく、魂・意識と言うべきものである。
肉体はその一部が見えるが、魂は見えないということで、そんなものはないというのがいわゆる唯物論者の言い分であろう。
彼らにとって、観測できないものは、その存在を証明できないというのが科学的解釈ということだ。
何m?、何グラム?どんな色?・・それで計れないものは存在ではないという主張である。
重さや大きさを測る事も出来ないものは・・存在ではない・・という分りやすい見解であるが、実際はかなり稚拙な物質的に偏った見解なのだ。
その見解をあろうことか物質科学の方面から崩してしまったのが、量子力学である。
実際に物質的科学はこの時点から大きく進歩していない。
つまりそう、認識上の壁にぶち当たったのだ。
あれ以来、さらに蔓延した経済至上主義によって商品応用は様々考えられているが、
世界の認識という根本的なレベルでの飛躍は起きていないのである。
というか、すでに飛躍が起きてしまったが、それに気付きたくないということだ。
科学者が物質を細かく細かく観測し、分子や原子のレベルまで絞り込んでその挙動を調べたのだが、そこにあったのは、粒子というイメージの「物質の微小塊」ではなく「エネルギー」であったということだ。そしてそのエネルギーは、また波動であると結論付けるしかなかったわけである。
また電子レベルではエネルギーは、
E=h/λ (h:プランク定数、λ:波長)
でやり取りされるということ。
エネルギーは波長、振動数の変換されたものという意味である。いわゆる電磁エネルギーは電磁波の振動数だけに依存しているということだ。
物質はマクロでは粒子性をもち、ミクロでは波動性をもつ・・等と言われているが、いくら細かいミクロの領域であろうと、それでこの存在世界が出来ているわけであり、身近なマクロとミクロの違いでもって、粒子と波動で切り分けできるものではない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/b5/dd742cc198b58e50f806d6275f3e90bf.jpg)
物質と見える物はつまりエネルギーであり、そして波動の局在化したものということ。
今までは、つまり20世紀では、物質が実際エネルギーその物だったのか!・・という認識レベルであったということだ。
そして、その物質~エネルギーの更に上位の「意識」や「意図」に気付く段階にあるのだが、ここに相当な「峠」があるということだ。
意識⇒ 意図⇒ 想念⇒ エネルギー⇒ 物質形態
言わばこれが、宇宙を、人を、そして文明を生起させるプロセスなのだが、その上位の想念あるいは「こころ」という、目に見えない領域に気付く段階に来ているのである。
曲がれと想って、曲がるスプーンは、それを示している。
それは想念レベルから物質への直接的な影響力である。
人と人の、ふとした折の、直接の意思の疎通はそれを示している。
それは想念レベルと想念レベルでの相互アクセスである。
結局は「意識」が全ての元にあるということだ。
人は・・自らを観ることで、これを体現している存在だと知ることが出来るのである。
あなたは肉体を持っているだろう?
それは物質と言われ、エネルギーに換算されるだろう?
「こころ」の働きがあるだろう? 常にあれこれ考えているだろう?
そして、自らがそういう存在である・・!という気付き・・意識があるだろう?
最も身近なところに在る・・今の・・わたし・・という意識に気付けるだろうか?
-------
今までは、つまり20世紀では、有名なアインシュタインの仕事によって、物質が実際には、エネルギーその物だったのか!・・という認識レベルであったということだ。
そして人類は、その<物質~エネルギー>の更に上位の、想念、想い、さらにそれらを生起するところの「意識」や「意図」に気付く段階にあるのだが、ここに相当な「峠」があるということだ。ある意味エネルギーギャップ、あるいは階層のジャンプ、飛躍とでもいうべき魂のための成長プロセスとも言えるだろう。
物・銭・金では何の意味もなく、「こころ」が清まらなければ、越えられない峠というのはそういうことだからだ。
そして、今その峠越えの難所に差し掛かっているわけである。
身近な脅威として世相に明確に出てきた核の問題、放射能の問題は、そのエネルギーの無秩序な放射の危険性であり、
物質という形で現れている、波動エネルギーの連鎖的「崩壊」の危険性を意味しているのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/d8/ce376febcb8200b15ab197a38adcdc5c.jpg)
・・・
日本でかつて2発の原子爆弾がさく裂し、さらに3年半前の原発の大事故があり、その見えない影響が浸透している現状は、
欧米的物質文明の流れのなかの、偏見やらエゴイズムやらによって引き起こされた事態である。
銭金の勘定だけを考えて、更にまた原発を稼働したり、輸出したりする行為の中には、それ自体の原因を省みることなく、目先の経済益やら利権やらをまず第一と考えるような守銭奴的根性をそのまま遂行しようとする、無知蒙昧な思想と、やがてその先に現れるところの破滅への願望が潜んでいる。
目先の銭金、安楽さ、快楽、便利さだけを追求しようとする想いが地上を覆っている現状を見よ。
・・・でも、それって何が問題なの・・・と言いたいところではあるが、
人類は既にその扱えるエネルギーの規模が、この存在世界そのものを崩壊させることもできる段階に来ているということに気付くべきなのである。
その最たるものが「核兵器」と言われるものである。核保有国は身の危険を避けるためと称して、他の国への窮極の脅しというプレミアムにしがみ付いている。
何千発もの核弾頭で、地表面を何十回も破滅させることが出来る能力を誇示しているのは、まさに怖れから生じた自己保身の窮極の姿なのである。
これから危険なのは、それが国体の保身、自己保身のための究極の威力であるところであり、その自己保身が出来ない・・・という事になった場合に、それを使おうとする恐れがあるのだ。
「どうせ終わりだから、破れかぶれ」に・・・ならないという保証はない。
皆いい人だからそんなことはあるはずもない・・・わけはないだろう?
いい人たちならば、核兵器などとっくの昔に縮小・廃棄しているものだ。
自己中心で我欲が強く、他を支配しなければ身の休まる事のない・・そんな人たちが、潔くなるはずもないではないか。
米も露も中も英も仏も・・同じようなものだ。これらの代表がかつて自らの所業を、例えば謝罪したことがあるだろうか。
何千万もの人々を搾取し殺した者たちは、謝罪するとか反省するとか、省みるとかそういうことが欠落しているからこその行為である。
また謝罪などしようものなら、これ見たことかとあちらこちらからやってきて、袋叩きにあうか簒奪にあうかそういうことにもなる。
かつてのアングロサクソンの世界帝国であったイギリスが第二次大戦で疲弊し、同系統のアメリカに引き継いだ時期には、核兵器はかろうじて造られていなかったのだが、今はもう何千もの破滅兵器が温存されている。そして第2の帝国も疲弊しつつ、嗚呼、既に国体存在の分水嶺を越えようとしている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/1b/e631741c5a3b68a3deb3f073fbe60aa2.jpg)
たとえ、新たにBRICSが勃興しようが、今までのような我欲の力関係のバランスで世界を多極化しようが同じことである。
物質繁栄の新たな夢をもう1度・・・は既にあり得ない段階に来ているということに気付かなければならない。
福島の原発事故で示されたのは、放射能汚染の問題でもあると同時に、
このまま物質繁栄だけを主眼とする、利己的生き方を続ける先に起きるのは、
この世界の連鎖的崩壊であるという警告なのである。
その啓示が降りざるを得なかった・・・この「日の本」という地にあって、
さらに地震や火山の巣の様な地にあって50数基も林立させ、さらに絶対安全などと言いつつ利権のために原発を温存・稼働させ、
またいつ何時にも核弾頭も造れるのだというような、まるでいつでも野盗の仲間入りも出来るのだ・・というような、そんな低次元の思考にあくまでも執着する為政者や行政担当がいるのを見れば、
もうすでに「古い実は熟し切って、地上に・今落ちん」としている段階であることが分るだろう。
今まで、たまにあった、そしてどこか遠くで起きていた気象変動や地殻変動は、実際に我々の身近な時空環境に近づいてきているだろう。
そして、アベノミクスという紙幣の増刷策もたった2年で事破れ、旧日本軍の玉砕イメージでバンザイ政策等と外国に揶揄されるような状態になってしまった。
そう、今まで何とか頑張ってきたはずの経済でも、その崩壊の足音が大きくなってきた現状に気付けるだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/c5/c1a0568c63e61e6f32d8865aad25d54b.jpg)
これらは全て、大いなる変容のプロセスを示すものである。
太陽の挙動の変移、地球環境の急速な変化と同時に、人類意識のゆっくりでかつ急激な変化が起きているということであり、
古いものが新しいものに切り替わるプロセスが、目に見えるようになったという事なのだ。
そして促がしは、外の物質世界の仕組みの変更などではなく、
この地で修行・経験しているそれぞれの魂達の目覚めなのである。
内が変わらずして、外が変わるという幻想は棄て去る時が来ている。
そして、こころの眼(まなこ)が目覚めなければ、新しい世界は見ることは出来ないのは道理であろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/86/e99e784051819383786f4c63ae04ae4e.jpg)