人為世界、社会の全ては人間が創り上げている。
どんな出来事も、どんな事件も、どんなハプニングも、全て人間が創っているのである。
そこに偶然、自然発生的なものはないのだ。
意識的であれ、無意識的であれ、無作為的であれ、意図的であれ、
全て人間の想念、感情、行為が創っているのだ。
ただ、それらに気付けぬ部分があるために、偶然だという感じを持つのである。
・・・
今の世界の紛争や争いや事変の数々もそうである。
それが意図的なもの、バレバレの作為的なものと感じるのは、人の想い、観念が元にあることを知っているからなのである。
そう、
今の時代はそういう人類の・・・想いと出来事、現象の因果関係が見えてきている時代である。
特にエゴ的な意図は、まるでそのシナリオが見えるようなものではないだろうか。
バレバレであり、飽き飽きな、そんな人間のこころが透けて見える時代になっているだろう。
恐怖を醸し出すような陰謀論なども、実際に裏にある人間の利己的な意図のあぶり出しなのだ。
悪どい意図の隠れた、さも人類に幸福をもたらすかのような宣伝も、
今にも最終戦争が起きてしまうかのようなパフォーマンスも、
全て人間の想いの噴出であり、恐怖の歪の放散と解消を意味しているのである。
例えば、原発事故にともなう、原子放射エネルギーの拡散も、そういう人類のこころの歪みの放散パターンが形に現れたものである。
身の回りの出来事であれ、社会の事件であれ、その報道の仕方であれ、グローバル世界の事変であれ、
どんな事象、現象にもそういう歪の解消パターンがある事に気付かなければならないはずである。
そう、起きたこと・・現象・事象、事変、事件とは、人類の想念パターンの歪の放散、解消を意味しているわけで、
それ自体が原因という事ではないのである。
とかく、現象に振り回される癖を持っている場合は、
物が先にあるという唯物的観念で洗脳されたままの意識状態では、
現象、事象の生起を観察した場合、
さらにそれを恐怖してしまうような、それをまたぞろ原因因子として蒔いてしまうような、
これまた、そういう「こころのパターン」があることに気付けるだろうか。
ミクロの量子の世界では、意図的に観察することそれ自体が、
波動崩壊、
つまり潜在的波動状態から、粒子的あるいは物的現象へと促すわけで、
そのミクロの集合であるマクロ世界は尚更なのだ。
マクロとは1つ我々の普段の知覚世界のことである。
人間は意識的な存在であり、その意識の振り向く先へと現象が生起するのだ。
だから、その意識の振り向く先、意図する方向に・・・・・気を付けなければならないのだ。
世界で起きていることは、人々の意識の振り向く先をコントロールしようとするものもあり、
それに「振り回されて」は情けないことになるだろう。
例えばそれは、静かな台風の目からふらふら外れて、外の暴風域に引っかかるようなものである。
。。。。
ここが肝心かなめな峠なのだ。
・・・・
例えば、様々な思惑、予想、予言等というガイドを求めることも、
外の人為世界の何かに希望を託すような愚かさを示している。
そういう恐怖や不安からくる依存、漠然とした期待、
我々のために「他者」が創ってくれるより良き世界というものが、
預言などで言うところの、反キリストの支配等というところの、似非の理想ワールドのことなのだろう。
それは、世界が混乱を増し、カオスが行き渡り、戦乱が世界に及んだその先に顕れる・・・というような、
そんなストーリーなのだが、
実はそれはひとり一人の、こころの経験すべき、通過すべき有り様を示しているのだ。
依存を見破り、葛藤を手放し、怖れを棄て去るための、こころの苦悩とその先の昇華を意味している。
ラクダが針の穴を通る・・・という比喩は、
それが難しいことを示しているのだが、
それは大きな「物体」は、小さな穴を通れないという当たり前のことを言っているだけで、
意識としての存在ならば、大きい小さい関係なく通過できることを示しているのである。
人間は物ではなく、まず意識存在であることを忘れないでおこう。
意識⇒(想念)⇒エネルギー⇒物的現象
これは森羅万象で、起きている根本的パターン。
それが創造の根源であろうと、人為的であろうと。
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自分をさておいて、自分を観ぬふりをして、自己内面の歪を自ら解消せずして、
それ、自由と民主主義?だから、誰かが変わってやってくれるというような、
お為ごかしのそんな洗脳プロパガンダに、
頼っていることは出来ない相談なのではなかったか。
どうして、あくまで外の世界の変化を待ち望むのか?
ひとり一人の意識の<質>が変わらずして、
ひとり一人の意識する、知覚する世界が変わらずして、
その集合せる結果である、いわゆる世界が変わるわけはなかろう。
とはいえ、あなたやわたし達が、
今世界が加速度的に何かの変化を遂げていると観察しているならば、
その現象世界の背後にある、不特定他者の意図や思惑が見えているならば、
既に、その分だけ・・・歪なくよく見える・・・そう、内面の歪が解消していることを意味している。
そんなことよりも、何よりも、
社会で不本意ながら無意識に培ってきた、本当らしい・・・嘘で出来た社会通念、
その時だけの便利さや汎用性で、それを良しとしてきた経済観念、
勝った負けたの競争観念、
大きい・ちいさいの比較観念、
人間はみな孤独でバラバラだから厳しい秩序が必要という束縛観念、
そういう古い観念を、まず一切がっさい・・・浮き立たせて観察してみるべきである。
観念とは人間の想念のパターンのことであり、
そのパターン、鋳型を、自らで造り替えるべき時が来ているのである。
造り替えるのは、外の仕組み、方式、型式でなく、
それを投影、現出させるところの映写機である・・・「こころ」の鋳型なのだ。
混乱に満ちた世界にあろうとも、それを観ている・・・こころが静かであることは、
自己の本質であるところの「意識」に留まっていることを示している。
意識⇒(想念)⇒エネルギー⇒物的現象
どこにポジショニングするかが何をおいても大切だ。
世界がどうあろうと、誰が何を言おうと、どんな騒ぎを起こそうと、
激しい興奮や刺激やスリル、怒りや嘆きのの中には真実はない。
それらは爆発的かどうかは別として、
単なる歪の解消・解放に伴うカタストローフィーでしかないのだ。
。。。
なにがあろうと無かろうと、
時間や空間など超えているところの、
そして、
それを観ているところの、
それぞれのあなたという<普遍意識>が「全て」の中心である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。